なんて国だろう、と思う。
森友学園問題で公文書の改竄を指示した財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)を相手に損害賠償を求めた裁判の判決があった。公文書の改竄を命じられて自死した近畿財務局の職員、赤木俊夫氏の妻が訴えていたものだが、大阪地裁は25日、佐川氏の賠償責任を認めず、請求を棄却した。

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公務員が故意または過失によって他人に損害を与えた時は、国または自治体が賠償する、と国家賠償法は定めている。今回のケースでは、政府は損害賠償の責任があることをすでに認めている。従って、「佐川氏には損害を賠償する責任はない」というわけだ。

理屈は通っている。「政府または地方自治体が賠償責任を負う場合、公務員個人の責任を問うことはできない」との最高裁判所の判例(1955年4月19日)を踏襲したものだという。しかし、前代未聞の公文書改竄の「下手人」をそんな大昔の判例をそのままなぞって裁いていいのか。

2017年2月に森友学園問題が表面化し、国有地が8億円も値引きされて森友側に払い下げられ、しかも一連の公文書が改竄されていたことが発覚した際、佐川氏は国会の証人喚問で「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否した。

ところが、大阪地検特捜部は「虚偽有印公文書作成罪などにはあたらない」として不起訴処分にした。検察は国有地の8億円値引きについて「それが不適切であると認定するのは困難」と説明した。端(はな)から、認定する気がなかったのだろう。

佐川氏は「刑事訴追の恐れがある」という理由で国会での証言を拒否したのに国税庁長官に栄転し、結局、訴追されずに逃げ切った。すべて安倍晋三政権下での出来事であり、安倍首相を守るための所業だった。栄転はその恩賞である。

どんなに卑劣なことをしても、それが権力を握る者のためであるならば許される。許すために政府も検察も裁判所も足並みをそろえて動く――なんて国だ、と思う。

法律はもともと「2周遅れて時代に付いていく」ものだ。時代の変化に付いていけない。法改正には年月がかかり、改正した頃にはまた時代が変わっていたりする。従って、時代の要請に応えるためには、法律を柔軟に大胆に解釈するしかない。問題は、当事者たちに「時代の要請」に応えようとする意志と勇気があるかどうかだ。

森友問題をめぐる一連の動きは、この国の政治家にも官僚にも、また検察官にも裁判官にもその「意志と勇気」がないことを示している。

国家賠償法は、公務員が故意または重大な過失によって他人に損害を与え、政府が賠償した場合、政府はその公務員に求償権を有する、と規定している。つまり、政府はその公務員に「あなたの違法行為によって損害が生じ、賠償しなければならなくなった。ついてはその賠償額を返してほしい」と要求する権利があるのだ。

ならば、政府が手間暇かけて求償するより、被害者(今回のケースでは赤木氏の妻)が直接、その公務員に損害賠償を求め、政府の手間を省いてあげることも認める、と解釈する余地もあるはずだ。時代の要請に応えるべく、判例を変え、新しい判例を積み上げていく。それこそ、司法に求められていることではないか。

「そんなことを認めたら、公務員個人を相手にした損害賠償請求訴訟が続発してしまう」と心配する向きもある。が、公務員個人を訴えることができるのは「故意または重大な過失があった場合のみ」である。しかも、訴える側は「故意または重大な過失があったこと」を立証しなければならない。おいそれと起こせる訴訟ではあるまい。

森友学園問題をめぐる公文書の改竄が佐川氏の「故意」によって行われたことは明白だ。しかも、改竄を迫られた職員が自死するという事態まで招いた。このような事件について、刑事でも民事でも責任を問えないとしたら、司法は何のためにあるのか。

今の日本では、どんな嘘もごまかしも、権力者と取り巻きにとっては自由自在。責任を問われることもない――森友学園問題はそれを満天下に示すことになった。佐川氏の罪はきわめて重い。それをかばい切ることに手を貸した者たちの罪はさらに重い。未来への希望を打ち砕いたからである。

(長岡 昇:元朝日新聞記者)


*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2022年11月26日

≪写真説明&Souce≫
◎森友学園の小学校建設現場(大阪市豊中市)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/486

≪参考サイト≫
◎裁判所が公務員である教員個人の損害賠償責任を認めないのはなぜか