*メールマガジン「風切通信 42」 2017年11月8日

 英国の作家カズオ・イシグロの父、石黒鎮雄(しずお)はその生涯を波の研究にささげました。彼の最初の仕事とも言うべき博士論文「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」を読んでみたい。海洋学者の友人に相談すると、「論文のデータベースに標題が載っているが、電子化されていないようで内容は分からない。国会図書館なら国内のすべての博士論文を所蔵している」とのこと。

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 上京して永田町にある国会図書館を訪ねました。国立国会図書館法によって設立された日本唯一の国立図書館で、法定納本図書館とされています。国内で出版した書籍や論文、雑誌はすべてここに納本しなければなりません。同法の前文は「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と格調高い。歴史哲学者、羽仁(はに)五郎の文とされています。

 図書館職員の助けを借りて、石黒鎮雄の論文を検索すると、すぐに見つかりました。ただし、収納スペースの制約もあって、博士論文をはじめとする学術資料は京都府精華町にある関西館が所蔵しているとのこと。肩を落とすと、職員は「すべて電子化されていますので、国会図書館の会員になれば、インターネットで請求できますよ」と勧めてくれました。

 会員登録を済ませ、山形の自宅に戻ってパソコンで論文の郵送を依頼すると、1週間ほどで念願の博士論文が届きました。原本は英文で200ページ余り。著作権法の定めにより、その半分、前半の100ページほどをコピーして送ってきてくれました(コピー代は後日振り込み)。論文の標題は「An Electronic Method for Recording and Analysing Ocean Waves」。カズオ・イシグロの父がタイプライターで一文字一文字、丁寧に打ち込んだ文章と手書きの数式が並んでいました。

 微分積分も分からない文系の私には、論文の内容を正確に理解するのはもとより不可能です。ルート(平方根)の中にルートがあるような数式が頻繁に出てくるのですから。それでも、イギリスの国立海洋研究所がこの論文に注目し、石黒鎮雄を招聘することに決めた理由は理解できるような気がしました。

 彼は手先が器用だったと言われています。市販されている電気製品を利用して、自分で波の高さや圧力を測定する装置を作り、それを使って計測したデータを論文にまとめたことが分かりました。装置の設計図や完成品の写真も載せ、実際に海に設置する方法も図解してありました。北海油田を開発するため、石油プラットフォーム(掘削櫓)を建設しなければならず、苦闘していたイギリスの関係者はこの論文に光を見たはずです。

 荒れ狂う北海の波の高さはどれくらいなのか。波の圧力はどのくらいなのか。掘削櫓は、そうしたデータを得たうえで設計し、建設しなければなりません。「これで計画の土台を固めることができる」。関係者はそう確信し、三顧の礼をもって石黒鎮雄を招いたのではないか。そして、鎮雄も生涯をかけてその期待に応えることを決意した――妻や子どもたちが日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、その余裕はついぞ生まれなかったのかもしれません。

 この博士論文が、長崎で穏やかに暮らしていた5歳のカズオ・イシグロをイギリスに連れ去り、日本の思い出を繰り返し反芻する少年にし、作家への道を歩ませることになったのかと思うと、読みながら何か熱いものが込み上げてきました。

 「ひとはみな、執事のような存在だと思うのです。自分が信じたもののために仕え、最善を尽くし、生きる」「人生は、とても短い。振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したことを受け入れ、生きていくしかないのです」。代表作『日の名残り』について、カズオ・イシグロはそう語ったことがあります。その言葉は、家族を省みる余裕もないほど波の研究に没頭した父を許し、生きるためにそうせざるを得ない多くの人々の哀しみに寄り添うために発したのではないか、と思えてきました。

 将来、何者になるかに惑い、さまよう中で、若きカズオ・イシグロはこの父の博士論文を読んだのではないか。そして、タイプライターで打たれた文章の行間から、波の研究にかける父の思いを汲み取り、さまざまなことに自分なりに折り合いをつけて歩み始めたのではないか。そう思わせる論文でした。


≪参考文献&サイト≫
◎石黒鎮雄の博士論文「An Electronic Method for Recording and Alalysing Ocean Waves」(1958年、学位授与)
◎国立国会図書館法
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/laws/pdf/a1102.pdf
◎ウィキペディア「国立国会図書館」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8
◎国立国会図書館の公式サイト
http://www.ndl.go.jp/
◎週刊誌『AERA』2001年12月24日号のカズオ・イシグロの日本講演に関する記事(伊藤隆太郎)

≪写真説明&Source≫
◎石黒鎮雄が開発した波高測定装置の一つ(博士論文から複写)