2001年3月16日の朝日新聞夕刊「らうんじ」 連載終了


 プラムディヤの両親は、2人ともジャワ人である。生まれ育ったのは中部ジャワで、家庭では当然のことながらジャワ語が使われていた。だが、彼はこの言葉が「嫌いだ」と言う。

 「ジャワ語は敬語や謙譲語がものすごく複雑だ。相手が自分より目上なのか目下なのかをまず決めてから、話さなければならない。権力や秩序を固定し、維持するような機能がある」

 学校教育はオランダ語で受けた。父親が校長をし、プラムディヤが通った郷里の小学校も、その後入学したスラバヤのラジオ修理学校も、授業はオランダ語だった。植民地では「支配者の言葉」が共通語になる。独立を語るにしても、職を得るにしても、共通語ができなければ話にならない。独立運動の初期、指導者たちは運動方針や組織づくりについてオランダ語で議論している。

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76歳の誕生祝いの席で、初のひ孫に目を細める プラムディヤ(撮影/M・スルヤ氏、西ジャワ州ボゴール近郊のボジョン・グデで)


 プラムディヤにとって、インドネシア語は第三の言語である。初めてこの言葉を教えてくれたのは、生家のお手伝いさんだった。
「彼女はジャワ人なのに、なぜかインドネシア語ができた。人間のことを『オラン』って言うんだよ、と教えてくれた。ジャワ語ではエビを『ウラン』という。幼心に『人間がエビみたい。変な言葉だなあ』と思った記憶がある」
インドネシアを代表する作家は少年時代まで、インドネシア語とほとんど無縁の生活を送っていた。

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 インドネシア語は、マラッカ海峡の両岸で使われているマレー語(ムラユ語)がもとになっている。交易や布教のための言葉として、昔からジャワ島やスラウェシ島の港町などでも使われていた。

 さまざまな民族が入り交じる中で意思疎通を図るためには、言葉は単純で明快な方がいい。マレー語には単数、複数の区別がない。過去と現在は動詞の変化ではなく、文脈で区別する。敬語はあるが、複雑ではない。

 インドネシア大学文学部のクリストミー講師(言語学)によれば、オランダは自分たちの言葉と文化を植民地に広めようとしなかった。このため、マレー語はその後も交易語として広がり続けた。オランダが自国語の普及に力を入れ始めるのは、20世紀の初めに植民地政策を融和的な方向に転換してからだ。

 ところが、独立運動の指導者の間ではそのころから「自分たちの言葉で民衆に独立の意義を訴えるべきだ」との機運が高まっていく。代表作の一つ『すべての民族の子』の中で、
プラムディヤは言葉をめぐる知識人の葛藤を描いている。ジャワ貴族出身の主人公ミンケはオランダ語で書くことにこだわり、マレー語は「借用語だらけの貧しい言葉だ」として使おうとしない。友人はこう言って説得する。

 「あなた自身の民族の言葉で書くこと、それこそが自分の国と民族に対するあなたの愛のあかしなのです」(出版社めこん、押川典昭訳)

 独立運動の指導者たちは1928年、最大の民族であるジャワ人の言葉ではなく、少数派の言葉であるマレー語を共通語にすることを決め、これをインドネシア語と名付けた。話者の数より、民族間の架け橋としての機能を重視した結果だ。少数派の言語が独立後の公用語になった珍しい例で、歴史家は「インドネシアの賢明な選択」と呼んでいる。

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 プラムディヤがインドネシア語を日常的に使うようになったのは、日本の軍政が始まった1942年に首都ジャカルタに移ってからである。多感な17歳の若者は、インドネシア語の小説をむさぼるように読んだ。

 戦時下の日本と同じように、軍政当局は「敵性語」のオランダ語や英語の使用を禁止した。インドネシア語にはオランダ語をそのまま転用した言葉がたくさんあったが、使用禁止に伴い、インドネシア語への翻訳と転換が急速に進んだ。

 プラムディヤは皮肉を込めて、この時期を「インドネシア語の黄金時代」と呼ぶ。動機はどうあれ、敵性語の禁止はインドネシア語の成熟を促し、その後の発達に大きな影響を及ぼした。

 1945年8月15日、日本は降伏した。インドネシアはその2日後に独立を宣言する。オランダはこれを認めず、49年までインドネシアと戦争を続けた。プラムディヤも独立戦争に加わり、反オランダ活動の容疑で逮捕され、2年間投獄された。この体験を基にした小説『ゲリラの家族』で、彼は作家としての地位を確立する。

 長年投獄された反骨の作家が一度だけ、弾圧する側に回ったことがある。1950年代後半、共産党系の人民文化協会(レクラ)の中心メンバーだったころだ。共産党勢力を取り込んだスカルノ政権の下で、彼は「芸術は政治に奉仕すべきだ」との論陣を張り、「芸術は何ものからも自由であるべきだ」と主張する芸術家を排撃した。

 詩人のタウフィック・イスマイルは「彼の作品には敬意を払うが、あの時の行為は許せない」と言う。「共産党の青年組織は『反共』とみなした作家の活動を妨害し、その本を焼いた。レクラは反対するどころか、それを支持した」

 この話になると、プラムディヤは反論も弁明もせず、沈黙する。文壇の亀裂はいまだに修復されていない。

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 インド洋の波を受けるスマトラ島から、南太平洋に横たわるニューギニア島中央部まで、5000キロ余り。インドネシアは米国本土よりも長く東西に広がる。そこに1万数千の島が散らばり、200とも300ともいわれる民族が隣り合って暮らす。

 国家としての統一を保つのは容易なことではない。植民地として支配したオランダも、独立後のスカルノ、スハルト両政権も結局は「鉄拳」で抑え込むしかなかった。

 1998年にスハルト政権が崩壊し、インドネシアは民主化に踏み出した。「力による支配」は終わった。では、複雑多様なこの国を力以外の何でまとめていくのか。
宗教でも、イデオロギーでもない、何か。
 プラムディヤはそれを探し求めて、人々の営みを紡ぎ続ける。           
(敬称略)

(長岡昇 ジャカルタ支局長)