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2001年3月8日の朝日新聞夕刊「らうんじ」

 「都会は騒がしくて、かなわん。土をいじりながら静かに暮らしたい」
作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールは、インドネシアのボゴール郊外の農村、ボジョン・グデに新しい家を建てた。小さな畑も付いている。近く引っ越す予定だ。

 今でも1日4箱は吸うという丁字入りのたばこをくゆらせながら、老作家は「ジャワの農村で育ったから」と、土へのこだわりを口にした。2月中旬、完成間近の新居で、プラムディヤの76歳の誕生日を祝う会が開かれた。旧友らは記念に日本製の耕運機を贈った。足腰が弱って、もう自分で動かすことはできない。それでも、いとおしそうにハンドルをさすり、目を細めた。

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76歳の誕生祝い。子と孫が勢ぞろいし、プラムディヤ夫妻(中央)を囲んだ/撮影・M・スルヤ氏、ボゴール郊外のボジョン・グデで

 
 昼食後、前庭で家族の写真を撮ることになった。
傍らに白いスカーフをかぶったマイムナ夫人。夫妻を7人の娘と1人息子、孫たちが取り囲む。初めてのひ孫も長女に抱っこされて加わった。

 後日、引き伸ばして手渡すと、プラムディヤはつぶやいた。
「歴史的な写真だな、これは」
すぐには意味が分からなかった。
通算16年に及ぶ投獄。釈放後も続いた当局による監視と迫害。娘のうち3人は、亡くなった前妻との子供。家族全員がそろったことは、これまで一度もなかったという。
家族が集まる。そんな当たり前のことが難しい人生だった。

      *    *

 1965年の9月30日から10月1日にかけて、インドネシアを揺るがす大事件が起きた。共産党系の将校が部隊を率いて陸軍司令官ら6人の幹部を殺害、放送局や電話局を占拠して「革命評議会」の樹立を宣言した。

 当時、陸軍戦略予備軍の司令官だったスハルト将軍はこのクーデターを鎮圧、共産党の伸長を許したスカルノ初代大統領を失脚させ、実権を握った。いわゆる「9・30事件」である。拮抗(きっこう)していた国軍と共産党の力関係は崩れ、共産党支持者に対する大虐殺が始まった。死者は、国軍の推計で45万?50万人。被害者と遺族の団体は約90万人と主張している。

 プラムディヤは共産党系の文化団体の中心メンバーだった。「芸術は政治に従属すべきだ」との論陣を張り、反対勢力を激しく攻撃していた。事件後間もなく、ジャカルタの自宅で逮捕された。
「手間をかけやがって」
連行の途中、兵士はそう毒づきながら、銃床で彼の頭部を乱打した。この時から、右耳は聞こえなくなった。

 刑務所を転々とした後、1969年にマルク諸島の流刑地、ブル島に送られた。荒れ地を切り開いて自分たちで収容所をつくった。食糧は自給自足。ピーク時には1万人を超える政治犯がいた。「ヘビ、ネズミ、犬……。栄養になるものは何でも食べた。必ず生き抜く、と自分に誓った」

 プラムディヤは、この収容所で代表4部作を完成させた。後にタイプライターを使えるようになったが、最初のころは紙もペンもなかった。毎夕、囚人仲間に語り聞かせながら、構想をまとめていった。

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流刑地ブル島の収容所でタイプライターを打つ プラムディヤ=1977年2月、当時の朝日新聞ジャカルタ支局長、増子義孝氏写す

 
 『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡(そくせき)』『ガラスの家』の4部作は、連続した一つの物語である。舞台は、19世紀末から20世紀初めにかけてのインドネシア。オランダの植民地支配下で苦悩するジャワ貴族出身の若者が民族意識にめざめ、独立運動に立ち上がるまでを描いている。インドネシアという国家の原型が、この時代に形成されたとみるからだ。

 『人間の大地』の中で、プラムディヤはオランダによる砂糖の強制栽培の実態と農民の屈従を描いている。そして、抵抗することを忘れたジャワ人を「太陽に焼かれたミミズのような」民族と表現した。

 「彼らは敗れるべく運命づけられていたのであり、その自己の運命を理解していなかったがゆえに、なおさら哀れなのです」(出版社めこん、押川典昭訳)
オランダに最後まで抵抗し続けたのはスマトラ島北部のアチェ人だった。
「彼らには守るべきもの、たんなる生や死、あるいは勝ち敗けよりもっと尊い何かがあるからです」(同)

 そのアチェも武力に屈した。
人間としての誇り。それを守り抜く決意が崩れた時、人々はひれ伏し、流れに身を任せて漂い続けるしかなかった。

      *  *

 流刑地で10年。プラムディヤは1979年末に釈放された。最初にブル島に送り込まれ、最後に釈放された政治犯の1人だった。
「逮捕の理由を説明されたことは一度もない。もちろん、裁判もなし。釈放書には『法的には9・30事件とのかかわりはない』と書いてあった。あまりの文化の低さに、怒りより哀れを覚えた」

 翌年、『人間の大地』を出版した。初版は12日間で売り切れた。当時のアダム・マリク副大統領は「祖父や父がいかに植民地主義に立ち向かったかを理解するために、すべての若者が読むべきだ」と賛辞を寄せた。

 ところが、スハルト政権は間もなく、この本を「マルクス・レーニン主義を広め、社会の秩序を乱そうとしている」として発禁にした。その後に出版したものもすべて発禁になった。プラムディヤは言う。
「人間を平気で踏みつけにするという点で、スハルト政権はオランダの植民地支配と何ら変わらなかった。何度発禁処分を受けようと、本を出し続けた。書き続けることが、私にとっては闘いだった」

 1998年にスハルト政権が倒れ、インドネシアは民主化に踏み出した。国民はようやく、プラムディヤの本を手にすることができるようになった。だが、出版が黙認されているだけで、発禁処分そのものは解除されていない。最高検察庁の担当官は「共産主義を禁じた国民協議会の決定が撤回されていない以上、発禁を取り消すわけにはいかない」と言う。プラムディヤの闘いはまだ終わっていない。
(敬称略)
                                               (文・長岡昇 ジャカルタ支局長)

 * プラムディヤは2006年4月30日、81歳で死去。紙面では「プラムディア」と表記しましたが、より原音に近い「プラムディヤ」に改めました。このほかにも一部、加筆訂正をしました。





2001年3月9日の朝日新聞夕刊「らうんじ」


 強靱な意志。強烈な個性。作家プラムディヤの生い立ちを知るため、故郷のブローラに向かった。ジャカルタから中部ジャワの州都スマランまで空路で1時間。そこから東へ車で3時間半ほど。東ジャワとの州境に近い小さな町だ。

 空港から乗ったタクシーの運転手は、たまたまブローラの出身だという。道すがら「町の名物は何なの」と聞いてみた。
「サテ・アヤムがうまい」
即座に答えが返ってきた。甘辛いタレをつけて食べるインドネシア風の焼き鳥だ。どこにでもあるが、ブローラのものは地鶏の肉質がいいうえ、タレが独特なのだという。

 続けて「町の出身者で有名な人はいる?」と尋ねた。しばらく考え込んでいる。「思いつかないなあ。とくにいないんじゃないの」。いろいろ水を向けてみたが、名前は出てこなかった。

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プラムディヤの父親が校長をしていた中部ジャワ・ブローラの学校は、今は公立中学になっている。生徒た ちは午前7時前に登校してくる

 
 プラムディヤはこの町で、1925年に生まれた。オランダの植民地支配は爛熟期に入っていた。その一方で、独立への胎動も始まり、運動が地方にも広がりつつあった。父親のマス・トゥールは「ブディ・ウトモ」という民族主義団体が運営する学校の校長をしていた。自ら教壇に立つかたわら、自宅で大人のための識字教室を開くなど、この地方の中心的な活動家として人望を集めていた。

 「親戚の子供だけでなく、貧しい家庭の子供もうちで預かっていました。多いときには24人もいた。食事の支度だけでも大変でした」。故郷で暮らすプラムディヤの妹ウミ(70)は、母親のサイダが汗だくになりながらも誇らしげに働いていたのを覚えている。

 オランダは当初、「ブディ・ウトモ」の運動を「原住民の教育水準の向上に役立つ」と推奨していた。しかし、教育運動が独立運動へと発展し始めたのに気づき、1930年代後半から弾圧に転じた。

 植民地政府は親たちに転校させるよう、露骨な圧力をかけた。生徒数は激減し、運動の拠点になっていた自宅に住民が寄りつかなくなった。絶望した父は、バクチにのめり込んでいく。短編『弟の生まれたころ』で、プラムディヤは父の挫折を書いている。

 「父は家に帰って来なかった。時には3日3晩も姿を見せなかった。学校にもいなかった。母は私に言った。『父さんはね、とても失望しているの。今は慰めが必要なの』」(冨尾武弘訳)
 
 このころのことを語る時、プラムディヤの口調は重くなる。独立運動に邁進し、ジャワ文化の豊かさを教えてくれた父と、家庭を顧みなくなった父の姿が交錯し、心が乱れるのだろう。

 崩れた父に代わって、家族の生活を支えたのは母だった。裕福な家庭に育ち、土をいじったこともなかった母が、田畑を耕して食糧を確保し、雑貨商をして生活費を稼いだ。「女性の隠された力はすごい」。奮闘する姿を見て、プラムディヤはそう思ったと言う。彼の人生と作品に最も大きな影響を与えたのは、この母といっていい。

 小学校を卒業すると、プラムディヤはスラバヤにあるラジオ修理工の養成学校に進んだ。早く働き手になり、家族の生活を支えるためだった。在学中に第2次大戦が始まり、日本軍がジャワ島に上陸した。その3カ月後、母は10人目の子供を出産して体調を崩し、35歳で世を去った。

*      *

 父が校長をし、プラムディヤが通った学校の跡地は今、公立中学になっている。校門のわきには「学校の創設者」として父を顕彰する碑がある。放課後、生徒30人ほどの3年生のクラスで「故郷が生んだ作家」を知っているか尋ねた。プラムディヤのフルネームも言ってみた。みんなキョトンとしている。ひょうきんな男の子が「ルーパ(忘れた)」というと、ドッと笑いが広がった。だれ1人、知らなかった。

 「彼の作品は教科書に載っていないし、文学史にも名前が出てきませんから。図書館にも1冊もないんです」。国語担当の女性教師、ワフユ・ウィナンティは気まずそうな表情をした。民主化されたはずなのに、中学の指導要領はスハルト政権時代の1994年版がそのまま使われている。政治的な混乱が続き、改訂作業は遅々として進まない。

 「ブローラ生まれの生徒たちが将来、外に出て、プラムディヤの名前も知らないのではつらいのではないですか」と言うと、彼女は「授業内容について検討する職員会議で話し合ってみます」と語った。

*      *

 プラムディヤの生家には、弟のワルヤディ(74)が住んでいる。1965年のクーデター未遂事件の後、兄に続いて3人の弟たちも次々に逮捕された。投獄期間はそれぞれ12年、10年、5年。もう1人いる末弟だけが逃走し、逮捕を免れた。

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 プラムディヤの妻は夫の釈放を待ち続けたが、ワルヤディの妻はすぐに去った。流刑地のブル島から故郷に戻って以来、ずっと独りで暮らしている。医学や薬草の知識があるため、近隣の住民に治療を頼まれ、評判になったこともあったが、当局ににらまれ、だれも訪ねて来なくなった。

 「兄貴には世話になった。若いころ英語の通訳になれたのも、兄貴に援助してもらったおかげだ」。かなりしっかりした英語でそう言う。だが、プラムディヤは、里帰りしても生家ではなく、妹の家に泊まる。

 兄は建て替えの費用を出すと言っているのだが、弟は「このままでいい」と受け付けない。居間にかけられた両親の肖像画には、クモの巣がまとわりついていた。朽ちかけた家で、弟は世捨て人のようにして生きている。名をなした兄に、複雑な思いがあるのだろう。

 ぎくしゃくしたものはある。けれども、ともかく全員生き延びた。プラムディヤ兄弟にはまだ、救いがある。この国には、理由も分からないまま殺されていった人々が数十万人もいるのだから。
(敬称略)
                                           (文・写真 長岡昇 ジャカルタ支局長)