旧優生保護法に基づいて行われた強制不妊について、仙台地裁は「法律そのものが違憲だった」とする一方で、「除斥期間が過ぎているので損害賠償は請求できない」という判決を下した。その内容を報じる新聞記事を読みながら、私の心はワナワナと震えた。

null

戦後、国家が「あなたのような障害や遺伝性疾患のある人が子どもを産んでも不幸になるだけ」と、女性に不妊手術を強制した。「それはおかしい」と声を上げたのに、政府も国会も怠けて1996年まで法律を変えなかった。

その間、不妊手術を強いられた人たちはただ耐えるしかなかった。手術の記録は「保存期間が過ぎたから」と廃棄されていった。かろうじて残っていた記録を頼りに、「人間としての尊厳を踏みにじった責任を取って欲しい」と裁判に訴えたのに、この判決。このような判決文を書いた裁判官たちの責任は重大である。

旧優生保護法が「すべて国民は個人として尊重される」とうたった憲法13条に違反している、と判断したところまではいい。だが、それに続けて「除斥期間の20年が過ぎているので、国に損害賠償を請求することはできない」とは何事か。とんでもない判決だ。

除斥期間は時効に似た法理だ。ただ、時効が「他人の不動産も20年間、平穏に占有していれば所有権を得る」「工事の代金は3年間たてば請求できなくなる」などと、権利ごとに民法に規定されていて、期間も異なるのに対して、除斥期間は民法には詳しい規定がなく、期間も一律だ。「20年たてばどんな権利も行使できない。それは自明の理」というもので、時効より強烈といえる。

仙台地裁の裁判官はその除斥期間を適用して、損害賠償を求める被害者たちの請求を退けた。一応、理屈は通っている。だが、正義にはかなっていない。国民の多くもこの判決には納得しないだろう。強制不妊を迫られた人たちは何十年も「法律に基づく手術だから」と放っておかれたのだ。

そういう人たちの訴えを「法律によれば、そうなる」と切って捨てるのは、血の通った人間のすべきことではない。法律は、正義を実現し、苦しむ人たちに救いの手を差し伸べるための手段として使うべきものだ。為政者に都合のいいように解釈、運用されたのではたまらない。

日本の民法は、明治時代にフランスの民法をベースにドイツの法理論などを加味して、あわてて作られたものだ。19世紀に作られた法律を21世紀の今、杓子定規に適用してどうするのか。強制不妊をめぐるこれまでの経緯を踏まえ、訴えを起こせなかった事情に配慮して法律を解釈し、適用すればいいのだ。

被害者たちはずっと、権利を行使しようとしても行使できない状態に置かれていた。訴えても政府も国会も動かなかった。そのような「特段の事情」があったのだから、そういう場合には「20年以上たったから請求できない」と言うことはできない、という新しい解釈を編み出し、それを判例にすればいいではないか。

裁判官たちにそうした決断ができないのは、法曹という狭い世界に生きてきたからだろう。若い頃から、法律の細かい条文、くどくどした解釈ばかり目にしてきたから、広い世界で何が起きているのか、時代に求められているものは何なのか、そういうことに思いが至らない。彼らは利発だけれど、賢明ではない。

この判決に関する新聞各紙の報道はもの足りなかった。29日の朝日新聞の社説は、賠償を命じなかったのは「承服できない」と批判したが、除斥期間を適用したことに触れていない。毎日新聞の社説は「除斥期間を過ぎても『特段の理由』で訴えが認められた判決も過去にはある」と指摘したが、踏み込みが足りない。「人生踏みにじる罪深さ」という東京新聞の社説が一番、心に響いた。

こういう判決が出た時には、もっとズバッと書けばいいではないか。「ひどい判決だ」と。憲法によって裁判官に特別な身分保障が与えられているのは何のためか。きちんとした処遇と報酬が約束されているのは何のためなのか。こんな判決を書くためではないだろう。


 *メールマガジン「風切通信 57」 2019年5月29日


≪参考記事&文献≫
◎5月29日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞
◎東京新聞(電子版)の社説「人生踏みにじる罪深さ」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019052902000162.html
◎『民法概論?』(星野英一、良書普及会)
◎『新訂 民法總則』(我妻栄、岩波書店)

≪写真説明&Source≫
◎仙台地裁の判決に抗議する原告弁護団
https://mainichi.jp/articles/20190528/k00/00m/040/130000c