*メールマガジン「小白川通信 28」 2015年7月10日

 村の朝は早い。村人が総出で農道の改修や田んぼの水路の泥かきをすることを「普請(ふしん)」といい、たいていは日曜日の朝5時すぎから作業が始まります。5時半集合、ということになっているのですが、なにせみんな早起きで、集合時間の前に作業が始まってしまうのです。

 山形県朝日町の山あいの村にある実家では母親が一人で暮らしていたため、去年まで普請の仕事は免除されていました。私は隣の地区にある団地に住んで通いで介護をしていたのですが、今年の1月に母親が90歳で亡くなったため、週末は私が空き家になった実家で暮らすようになりました。遺品や荷物を片付けてリフォームを済ませ、秋には実家に引っ越すつもりです。

 というわけで、引っ越しの前なのですが、村の人から「普請があるよ」とお誘いがかかり、このあいだの日曜日に私も参加しました。「主な作業は田んぼの畦(あぜ)の草刈りと農道の側溝の泥かき」と教えてもらったので、草刈り鎌のほかに、先のとがったスコップ(剣スコ)と四角いスコップ(角スコ)を持ってでかけました。側溝の泥かきには剣(けん)スコより角(かく)スコの方がいいからです。

 現場に着いてすぐ、ずっと村で暮らしている人との差を見せつけられました。草刈り鎌などを持ってきているのは私ともう一人くらい。あとは各自、エンジン駆動の草刈り機を肩からぶら下げています。側溝からすくい上げた泥を運ぶために、軽トラックで来た人も何人かいました。こちらは徒歩で、手に草刈り鎌。「新米の村人」には機動力も機械力もありません。草刈りはお任せして、私は側溝の泥かきに専念しました。

 1時間ほど泥かきをして作業が終わりかけた頃、泥の中から奇妙な石を見つけました。こびりついた泥を落としてみると、細長い打製石器でした。長さ8センチ、幅3センチほど。木にくくりつけて槍として使った石器のように見えます。それほど驚きもしませんでした。と言うのも、生まれ故郷の朝日町には旧石器時代や縄文時代の遺跡がいくつもあり、打製石器や古い土器がたくさん見つかっているからです。

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田んぼのわきで見つかった打製石器

 一部の考古学者の間では、朝日町は旧石器が日本で初めて発見され、記録されたところとして知られています。こんなことを書くと、「何を言ってるんだ。旧石器が日本で初めて発見されたのは群馬県の岩宿(いわじゅく)だ。行商をしながら考古学の研究をしていた相沢忠洋という人が見つけて、明治大学の研究者が1949年(昭和24年)の秋に記者会見して発表している。どの教科書にも書いてある」とお叱りを受けそうです。

小白川28 岩宿の石器(縮小版).jpg

岩宿遺跡で発見された槍先形尖頭石器
 
 確かに、どの教科書にもそう書いてあります。しかし、相沢忠洋氏が旧石器を発見し、明治大学の研究者がその成果を発表する前に、実は山形県朝日町の大隅(おおすみ)というところで旧石器が多数見つかっており、地元で小学校の教員をしていた菅井進氏が1949年発行の考古学の同人誌『縄紋』第三輯に「粗石器に関して」という論文を寄稿していたのです。岩宿遺跡についての発表の半年前のことでした。



 けれども、東北の寒村での発見。小学校の教員が書いた論文は、考古学者の目に触れることはありませんでした。たとえ、目にとまったとしても、当時の考古学会では「日本には旧石器時代はない」というのが常識でしたから、黙殺されたことでしょう。岩宿遺跡の旧石器が「日本初」として記憶されるに至ったのは、相沢忠洋氏の尽力に加えて、その成果が明治大学の著名な考古学者によって発表され、その後も継続して発掘調査が行なわれたからです。大隅の旧石器は世に認められることなく、歴史の谷間に埋もれてしまったのです。

 考古学の研究史に残ることはありませんでしたが、群馬県の岩宿よりも先に山形県の大隅で旧石器が発見され、記録されていたという事実は消えません。そして、大昔、新潟県境に近い山形のこんな山奥で多くの人間が暮らしていたのは確かなのです。朝日町には大隅遺跡以外にも旧石器時代の遺跡があり、縄文時代のものとみられる遺跡もたくさんあるのです。

 さらに興味深いのは、この町には発掘調査が行なわれなかった遺跡もかなりある、と考えられることです。私の実家がある太郎地区の遺跡もその一つです。小学生の頃(今から半世紀前)、村のおじさんから「こだなものが出できた」と、打製石器をいくつかもらいました。この場所は県や町に届けられることなく、農地としてそのまま開墾されたと聞きました。戦後の食糧難の時代、農民は何よりも食糧の増産を求められていたました。役所に「遺跡が見つかりました」と届け出て発掘調査などされたのでは、仕事にならなかったからです。

 黙って開墾し続け、石器や土器を片隅に追いやった村人の気持ちも分かります。朝日町のほかの地区でもこうした例があったと聞いています。私の故郷だけの話ではないでしょう。全国各地でこうしたことがあったと考えるのが自然です。近年はともかく、戦前、戦後の時期に考古学者が発掘することができたのは、見つかった遺跡のごく一部と考えるべきでしょう。

 そして、思うのです。今、わが故郷の朝日町は過疎に苦しんでいますが、旧石器時代や縄文時代にはとても暮らしやすいところだったのだろう、と。遺跡はいずれも、日当たりのいい河岸段丘にあります。秋、山ではクリやドングリがたくさん採れ、最上川や支流の朝日川にはサケが群れをなして遡上してきたはずです。厳しい冬を生き抜くための糧が得やすい場所だったのです。もちろん、旧石器時代を懐かしんでも何の足しにもなりません。けれども、そこには、厳しい過疎の時代を生き抜き、新しい時代を切り拓いていくためのヒントが何か潜んでいるような気がするのです。
(長岡 昇)



《参考サイト》
戸沢充則・明治大学学長の講演「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」抄録(朝日町エコミュージアム協会)

大隅遺跡発見の経緯(同)

明治大学HPの考古学関係(岩宿遺跡)

相沢忠洋記念館

群馬県みどり市岩宿博物館

《参考文献》
◎『朝日町史 上巻』(朝日町史編纂委員会、朝日町史編集委員会編、2007年発行)
◎『人間の記録 80 相沢忠洋 「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』(相沢忠洋、日本図書センター)
◎『日本の旧石器文化』1?4巻(雄山閣出版)
◎『日本考古学を見直す』(日本考古学協会編、学生社)