*メールマガジン「小白川通信 27」 2015年6月12日

 父親の世代が兵士として戦った70年前の戦争の呼称について、私たちの世代は中学や高校で「太平洋戦争」と教わりました。新聞記者になってからもこの呼び方に疑問を抱くことはなく、長い間、記事の中でもそう書いてきました。この呼称に違和感を覚えるようになったのは、1990年代にニューデリー特派員としてインドに駐在したころからのような気がします。

 インドからスリランカに出張し、コロンボでお年寄りに昔の思い出話を聞いた時のことです。彼は戦争中のことを語り始め、こう言ったのです。「あの時はびっくりしたよ。日本軍の航空機が銀翼をきらめかせて急降下して、港に停泊していたイギリスの船を爆撃したんだ。日の丸のマークが見えたよ。いつも落ち着いているイギリス人があわてふためく様子が実に印象的だった」。真珠湾を攻撃した後、日本の連合艦隊がインド洋にも出撃したことは記憶していましたが、当時この地域を植民地として支配していた英国にこれほど大規模な攻撃を仕掛けていたとは、不勉強でこの時まで知りませんでした。

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 インド洋での日英の戦いはどのようなものだったのか。ニューデリー特派員としての取材の合間に戦史をひもとき、調べました。ビルマ南方の海に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島をめぐっても、激しい争奪戦が繰り広げられたことを知りました。そして、1944年(昭和19年)のインパール作戦。日本軍の無謀、悲惨な戦闘の典型とされるこの作戦の主戦場は、太平洋どころかインド洋からも遠く離れています。作戦から50年後の1994年に、遺族の慰霊団に同行して現地を訪ねる機会がありましたが、戦場になったインパールもコヒマもインド北東部の山岳地帯にあるのです。

 あの戦争を「太平洋戦争」と呼んだのでは、これらの戦いはすべてその枠組みから抜け落ちてしまいます。中国本土での日本軍と蒋介石軍や中国共産党軍(八路軍)との戦いを「太平洋戦争の一部」とするのもしっくりしません。この呼称に対する違和感が膨らんでいきました。かと言って、当時、日本政府が使っていた「大東亜戦争」を引っ張り出してきて使う気にはなれません。この戦争の内実は、「大東亜共栄圏を築くための戦争だった」などという綺麗ごとで済ませられるような、生易しいものではありません。アジアの隣人たちも快く思わないでしょう。

 では、どう呼べばいいのか。2年前に山形大学で現代史の講義を担当するようになってから、コツコツと調べてきました。そして、この30年ほどの間に戦争の呼称について多くの本や論文が書かれ、激しい論争が繰り広げられてきたことを知りました。それらの文献の中で、もっとも参考になったのは文芸評論家、江藤淳氏の『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)と、軍事・外交史の専門家、庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』(2011年3月、防衛研究所紀要第13巻第3号)の二つでした。「太平洋戦争という呼称はそもそも、だれが、どういう経緯で使い始めたのか」という点について、多くのことを教わりました。

 1945年夏に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、すぐさま戦争犯罪人の追及と軍国主義体制の解体に着手しますが、並行して検閲と報道規制に乗り出しました。同年9月19日に報道各社向けに「プレス・コード」を出し、「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「英霊」といった戦時用語の使用を避けるように指示しました。GHQの意向を受けて、新聞に「太平洋戦争」という表現が登場し始めます。この年の12月8日からは新聞各紙にGHQ提供の連載記事「太平洋戦争史」が一斉に掲載されました。1931年の満州事変から敗戦に至るまで、大本営の発表がいかに事実とかけ離れたものだったかを暴露し、日本軍による南京虐殺やフィリピンでの捕虜虐待などを告発する衝撃的な内容でした。この連載記事によって「太平洋戦争」という表現が日本社会に浸透していった、ということを江藤、庄司両氏の叙述で知りました。

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 一方で、GHQはこの連載開始の直後(12月15日)、日本政府に対していわゆる「神道指令」を出し、「大東亜戦争」「八紘一宇」など「国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル」と命じました。これ以降、日本政府は法令や公文書で「大東亜戦争」という言葉を使うのをやめ、「今次の戦争」や「先の大戦」「第二次世界大戦」といった表現を用いるようになりました。それは今に至るまで続いています。今年4月に慰霊のためパラオを訪れた天皇のあいさつでも、用いられた言葉は「先の戦争」でした。日本という国は公的な場で、いまだに「あの戦争についてのきちんとした呼称」を持たない国なのです。

 では、アメリカではこの戦争をどう呼んでいたのか。英語版のウィキペディアで検索すると「Pacific War」という項目があり、意外なことが書いてありました。「Names for the war (戦争の呼称)」という段落の冒頭に次のように書いてあるのです(長岡訳)。
「戦争中、連合国では“ The Pacific War (太平洋戦争)”は通常、第二次世界大戦と区別されることはなく、むしろ単にthe War against Japan(対日戦争)として知られていた。米国ではPacific Theatre (太平洋戦域)という用語が広く使われていた」

 つまり、米国では戦争中、対日戦争と対独戦争をひっくるめて第二次世界大戦と呼んでおり、Pacific (太平洋)という用語が使われたのは軍の作戦区域や管轄を示す場合であった、というのです。出典が示されていないため、それ以上は調べられませんでしたが、この記述は「太平洋戦争 The Pacific War 」という表現そのものが戦後、GHQによって採用されて日本で定着し、それが後に英語圏にも広がっていったことを示唆しています。「大東亜戦争」に取って代わる呼称としてGHQが普及させた、と言ってよさそうです。英国は主にインド洋で戦い、蒋介石軍・中国共産党軍との戦いは中国本土が舞台でしたが、米国にとっては「太平洋こそ主戦場」でしたから、ぴったりの呼称だったわけです。

 米国の占領統治の影響は絶大です。日本の新聞や書籍では、いまだに「太平洋戦争」と表記されるのが普通です。「アジア太平洋戦争」や「アジア・太平洋戦争」あるいは「大東亜戦争」という呼称はパラパラと見える程度です。高校で現在使われている日本史と世界史の教科書はどうか。入手できる範囲で調べてみました。私たちが学んだ頃から半世紀たつのに、ほとんどの教科書は「太平洋戦争」のままでした。いくつかは「最近ではアジア太平洋戦争ともよばれている」といった注釈を付けてお茶を濁しています。教科書会社も執筆者も「模様眺め」を決め込んでいるようです。

 そんな中で、異彩を放っているのが実教出版の『新版 世界史A』です。「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)」という見出しを立て、なぜこう呼ぶのか、丁寧な説明を付けているのです。地図にはインド洋での戦闘も明示しています。歴史を学ぶ生徒に少しでも多く、考える素材を提供したい――そんな執筆者の熱意が伝わってくる記述でした。一つひとつ、こうした努力を積み重ねていくことが歴史を考えるということであり、そうやって次の世代にバトンをつないでいかなければならないのだ、としみじみ思いました。

 歴史の刻印は強烈です。戦後70年たっても消えることなく、人々の心を縛り続けています。私もまた、縛りつけられた一人でした。最近になってようやくその呪縛から抜け出し、授業では「アジア太平洋戦争」という呼称を使うようになりました。もちろん、もっとピシッとした表現があるなら、それを使いたいと考えています。あれだけの戦争です。その歴史が定まるまでには、まだまだ時間がかかるわけですから。
(長岡 昇)


*庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』はカラー文字のところをクリックすれば、読むことができます。

*1945年12月8日から日本の新聞各紙に連載された『太平洋戦争史』は、翌1946年に高山書院から単行本『太平洋戦争史』として出版されました。大きな図書館なら所蔵していると思います。

*1994年に長岡がインパールへの遺族慰霊団に同行した際のルポ記事はカラー文字をクリックしてご参照ください。

≪写真説明とSource≫
セイロン沖海戦で日本軍の攻撃を受けて沈む英空母ハーミーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

GHQの神道指令を報じる毎日新聞
http://mahorakususi.doorblog.jp/archives/38143475.html