*メールマガジン「小白川通信 23」 2015年2月1日

 つらい事や切ない事があると、思い出す言葉があります。チェコのプラハ生まれの詩人、リルケの言葉です。

  一行の詩のためには
  あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
  見なければならぬ
  あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ
  空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし
  朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究めねばならぬ

  追憶が僕らの血となり、目となり
  表情となり、名まえのわからぬものとなり
  もはや僕ら自身と区別することができなくなって
  初めてふとした偶然に
  一編の詩の最初の言葉は
  それら思い出のまん中に
  思い出の陰から
  ぽっかり生れて来るのだ
     〈リルケ『マルテの手記』(大山定一訳、新潮文庫)から〉

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 この文章に接したのは今から30年前、新聞社の編集部門に配属されている時でした。新聞記者として入社したのに失敗を重ねて編集部門に回され、記事を書くことができない立場にありました。他人の書いた原稿を読み、それに見出しを付けて紙面を編集する日々・・・。鬱々としている時でした。「何を甘えているんだ。お前はあまたの都市を見たのか。あまたの書物を読んだのか」。そんな言葉を突き付けられたようで胸に染み、忘れられない言葉になりました。

 その後、取材する立場に戻り、外報部に配属されました。アフガニスタンの内戦取材に追われ、インドの宗教対立のすさまじさにおののき、インドネシアの腐敗と闇の深さに度肝を抜かれて、心がすさんでいくのが自分でも分かりました。走りながら、なぐり書きを繰り返すような毎日。そんな時に、またこの文章に戻って反芻していました。「いつの日にか、心にぽっかりと浮かんだものを書ければ、それでいいではないか」と思えて、心が安らぐのでした。

 取材の一線を離れて論説委員になってからは、それまでよりは書物を読む時間を多く持てるようになりました。先輩や同僚の論説委員の書くものに接する機会も増えました。その中で、忘れられない文章があります。2001年5月1日の朝日新聞に掲載された「歴史を学ぶ」という社説です。筆者は、退社して間もなく2004年に死去した大阿久尤児(おおあく・ゆうじ)さん。長い社説ですが、全文をご紹介します。

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 「歴史」という日本語にも歴史がある。それも比較的にまだ新しい。
 小学館の『国語大辞典』によると、この言葉が初めて出てくる文献は『艶道通鑑』という江戸時代中期の本だそうだ。明治以後、英語のヒストリーにあたる言葉として広く使われるようになる。日本語には多くの漢語が取り入れられてきたが、「歴史」は日本生まれの言葉だ。中国にもいわば逆輸入されて、リーシという発音で、同じ意味に使われている。
 
 歴史教育もまた歴史的な産物だ。英国の学者ノーマン・デイウィス氏がその著『ヨーロッパ』で書いている。「そもそも19世紀に歴史教育というものが始まった時点で、それは愛国心に奉仕するように動員された」(別宮貞徳訳、共同通信社)

 19世紀とはどんな時代だったのか。それまでの欧州には、君主がいわば財産としてもつ領土と、そこに暮らす民とがあったが、現在の意味での国家や国民という概念はまだ存在していなかった。フランス革命と、その後のナポレオンの戦争で、今のフランスにつながる国家が初めて成立し、その領域に住む人々に同じフランス人という意識が芽生えた。現在にいたる「国民国家」(ネーション・ステート)体制の始まりだ。

 この国民国家という仕組みはまず、欧州を中心に急速に広まった。ドイツやイタリアができた。そのころ鎖国を脱した日本がめざしたのも、この仕組みだった。昔の人は「武蔵の国の住人」などと名乗っていたのである。国家、国民という日本語も、西洋をモデルとして、明治になってから使われるようになった言葉だ。

 「国民国家という形態が普及したおもな原因は、軍事だ」と、東京外大名誉教授の岡田英弘さんが書いている(『歴史とはなにか』文春新書)。「国民国家のほうが戦争に強いという理由」で、この政治形態が世界中に広まった、と岡田さんは説明する。
 
 戦争という国家単位の生存競争に勝ち残るには、国民の総力を動員しなければならない。その手段として歴史教育も始まり、それぞれに祖国の栄光が強調された。歴史教育のこういう生い立ちは、何をもたらしたのか。

 さきに紹介したデイウィス氏は同じ著書で先輩たちを批判する。ヨーロッパの歴史家たちは、自分たちの文明こそ最良と思い込み、他の地域をかえりみず、自己満足にふけってきた、と。同氏は、「悪質な」教科書などの特徴を次のように数え上げる。「理想化された、したがって本質的にうその姿を、過去の真実の姿として描く。好ましいと思うものはすべてとりあげ、不快と思えばはじき出す」

 最近問題になった日本のある教科書の編集者の態度とどこか似ている。ヨーロッパ中心主義はおかしいが、日本の過去は何でも立派といいたげな教科書や歴史の本も、これまたおかしい。人はみな自分のルーツを知りたい。ご先祖はけなげで、立派だったと思いたいのは人情である。だが、そういう記述だけを、誇張もまじえて寄せ集めたのでは、歴史はただのうぬぼれ鏡になってしまう。
 
 8年にわたって国連の難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんに、ドイツのラウ大統領から最高位の功労勲章が授与された。東京のドイツ大使館で行われた授与式には、たまたま来日したティールゼ連邦議会議長が立ち会った。「緒方さんは人間として、アフリカやバルカンの難民の救援に全力をあげた」と授与の理由を述べた。

 日本人の緒方さんが「人間として」努力したことに対して、ドイツの元首がその国最高の栄誉でたたえる。国家をめぐる風景が、そんなふうに変化してきている。国民国家という「戦争向き」の体制は果たして、2度の世界大戦という悲惨な破局をもたらした。国家中心主義を真っ先に始めた欧州も、さすがに反省を迫られる。

 もはや国家はすべてではない。国家の枠を超えて互いに協力できることはいくらでもある。歴史から学ぶとは、例えばこういうことだろう。いまの欧州連合(EU)までの統合の歩みはその実践例である。

 日本もまた、歴史から学ぶことが多い。少し遅れて国民国家となったこの国も、内外に数々の不幸をもたらしてきた。日本人として、同時に人間として、いまの私たちは生きている。「お国のため」が当たり前とされた半世紀前までに比べて、「人間として」の部分が広がっている。これからももっと広がるだろう。

 父母や祖父母の世代に起きたことが、さまざまに関連しあって、今日ただいまの社会が出来ている。何を維持し、何を変えてゆくのか。過去をきちんと知らないでは、明日のことは決められない。かつては弱肉強食が当然だった。今では人道が前面にでる。価値観は時とともに変わる。その時点までの人類の経験の総体から、新しい価値観が生まれる。その経験を整理する術(すべ)が歴史だ、ともいえよう。

 人間として過去を知り、あすの指針にする。いびつな自己満足を排し、大人の判断力を培う。それが本当の歴史教育だ。

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*注 リルケの『マルテの手記』は、彼が30歳代半ばの時の作品です。パリで暮らす貧乏詩人を主人公にした長編小説で、パリで妻子と離れて暮らしていたリルケ自身の生活を投影した作品と言われています。極度の貧困と壮絶な孤独。随筆を連ねるようなタッチでパリ時代を描いています。全編が詩、と言ってもいいような作品です。冒頭の文章は『マルテの手記』の一部を抜粋したもので、句点を省いて詩の形式にしてあります。

(長岡 昇)


《写真説明》 詩人ライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)
Source:http://www.oshonews.com/2011/10/rainer-maria-rilke/