*メールマガジン「小白川通信 15」 2014年7月18日


 山形大学で現代史の講義をして学生たちと問答をしていると、時々、「アレッ」と思うことがあります。アジア太平洋戦争中の「暗号解読」をテーマに講義した際にも「アレッ」がありました。聴講している学生の半分近くが「真珠湾攻撃=ルーズベルト陰謀説」を歴史的な事実として受けとめていることが分かった時です。「高校の歴史の授業で先生にそう教わりました」という学生までいました。これは由々しきことです。なぜ、こうした陰謀説が若い人の間でこれほど広がっているのでしょうか。

 ルーズベルト陰謀説の概要は次のようなものです。
「米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は1940年の選挙で『欧州での戦争には加わらない』と公約した。一方で、前年からドイツと戦争になっていた英国や日本と戦っていた中国からは参戦を迫られ、ジレンマに陥っていた。このため、日本が真珠湾を攻撃することを事前に知っていたにもかかわらず、これを現地ハワイの司令官たちに知らせず、あえて日本軍に奇襲させた。それによって、米国の世論を厭戦(えんせん)から参戦へと劇的に変えた」

小白川15 真珠湾の戦艦炎上.jpg
炎上する戦艦ウェストバージニア


 この説明の前段は間違いなく歴史的な事実です。ですが、後段の「ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていた」という部分は事実ではありません。少なくとも、知っていたことを裏付ける資料や信頼できる証言はありません。むしろ、「知らなかった」ことを示す資料が時を経るにつれて増えている、というのが現実です。

 もちろん、ルーズベルト大統領は諸般の事情から「日本との戦争は避けられない」と考えていたと思われます。大統領だけでなく、日米双方の指導者の多くが当時そう考えていたはずです。が、そのことと「日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた」ということとは、その意味がまったく異なります。

 大統領が事前に「真珠湾への攻撃計画」を知るとすれば、それは「外交官や諜報機関が人的な情報源から得た情報」か「日本の暗号を解読して得た情報」のどちらかを通してしかありません。前者については次のような事実があります。
「1941年1月、アメリカのグル―駐日大使は旧知のペルー駐日公使から『日本は真珠湾に対する大規模な奇襲攻撃を計画している』との情報を得て、これを暗号電報でワシントンに送った。米国務省はこれを海軍省に送り、ハロルド・スターク海軍省作戦部長はこれを海軍情報部に送った。情報はさらにハワイの米太平洋艦隊司令官、キンメル大将に伝えられた」(学習研究社『歴史群像 太平洋戦史シリーズ? 奇襲ハワイ作戦』p52から)

 後者の「暗号解読による情報」については、次のような事実があります。
「1944年の大統領選挙でルーズベルトの四選を阻むために立候補した共和党のトマス・E・デューイは『アメリカを戦争に引きずり込むことを狙い、日本の暗号を解読して日本の企図を知っていたにもかかわらず、彼は犯罪的怠慢によって何も対策を講じなかった』とルーズベルトを非難した」(デイヴィッド・カーン『暗号戦争』p190)

 これらはいずれも確かな事実です。これだけを取り上げれば、「ルーズベルト陰謀説」を裏付ける材料のようにも思えます。が、両書の著者はこうした事実に加えて、次のような事情を添えて、ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていた可能性を否定しています。つまり、グル―駐日大使がこの電報を送った1941年1月の時点では、日本海軍の内部ですら真珠湾を攻撃することはまだ決まっておらず(実際の攻撃は同年12月)、それは巷の「風説の一つ」に過ぎませんでした。数ある噂の一つとして伝えられたのであり、米海軍内部でもそのように扱われ、大統領の執務室に届いて検討された形跡はまったくありません。こうした情報はもし本当であれば、次々に補強する情報が集積されるものですが、補強するものはありませんでした。共和党大統領候補のデューイの非難にしても、暗号解読の実態を知らず、政敵攻撃の材料として「激しい表現」を使ったに過ぎません。その証拠に、デューイは米陸軍参謀総長の懇切丁寧な説明を受けた後は、こうした非難をしなくなりました。

 にもかかわらず、米国では戦後も「ルーズベルト陰謀説」を唱える人が少なくありませんでした。その代表格が歴史学者のハリー・エルマー・バーンズです。彼は同じような説を唱える研究者とともに、米国の歴史学会を二分する論争を繰り広げました。そして、その論争は1981年にメリーランド大学の歴史学教授、ゴードン・W・プランゲの著書『At Dawn We Slept』(邦訳『真珠湾は眠っていたか』、講談社)が出版されるまで続いたのです。この本によって、ルーズベルト陰謀説は学問的に葬り去られた、と言っていいように思います。

小白川15 プランゲ.jpg
ゴードン・W・プランゲ教授


 ゴードン・W・プランゲの生涯は「研究者の執念とはかくもすさまじいものか」と思わせるものがあります。1937年、27歳の若さでメリーランド大学の歴史学教授に就任。戦争勃発に伴って海軍の士官になり、戦後は日本を占領したマッカーサー元帥の戦史担当者として日本に駐在し、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の研究にあたりました。マッカーサーは戦史スタッフとして100人の要員を抱えていたとされ、プランゲはその責任者でした。日本に滞在している間に、彼は真珠湾攻撃時の連合艦隊首席参謀、黒島亀人や航空参謀、源田実ら200人を超える関係者にインタビューし、焼却を免れた機密資料など膨大な文書を集めました。そして、米国に持ち帰り、メリーランド大学の教授として復職してからも研究を続けました。戦勝国の人間だからできたこととはいえ、戦後日本の戦史研究とは質、量ともに桁違いの研究です。プランゲは1980年に没し、前述の著書はその死の翌年、彼の弟子たちによってまとめられたものです。米歴史学会で長く続いた論争に終止符を打つのに十分な内容の本でした。「ルーズベルト陰謀説」は、断片的な事実を都合のいいように継ぎはぎした、まやかしの言説であることが明らかにされたのです。

 もっとも、そのプランゲですら、米国による日本の暗号解読がどのようなものだったのか、その実態について詳しく叙述することはできませんでした(そのへんが「ルーズベルト陰謀説」がブスブスとくすぶり続けた理由の一つなのかもしれません)。英国と米国は戦後も、暗号解読の実態をひた隠しにしました。何も明らかにしないことが一番良かったからです。その一端が明るみに出たのは、1974年に英国の空軍大佐、F・W・ウィンターボザムが『ウルトラの秘密』を刊行してドイツの暗号を解読していたことを暴露し、1977年に米国の暗号解読専門家ウィリアム・フリードマンの伝記(邦訳『暗号の天才』、新潮選書)が出版されて、日本の暗号解読の内実が紹介されてからでした。そのころには、晩年のプランゲに自分でそうした事実の検証をする余力は残っていませんでした。

 けれども、この両書の出版を機に公開された機密文書の研究が進むにつれて、プランゲの著書の声価はますます高まりました。米国は戦争のかなり前から日本外務省の暗号をほぼ完全に解読していたこと。しかし、外交暗号をいくら解読しても日本軍の攻撃企図を推し量ることはできず、日本の力をあなどって真珠湾の奇襲を許してしまったこと。屈辱感に駆られた米国は軍人はもちろん、数学・統計学・言語学・日本文化研究の俊英を総動員して日本軍の暗号解読に取り組み、開戦から半年ほどで日本海軍の作戦暗号を解読することに成功したのです。それが、ミッドウェー海戦で米軍に勝利をもたらし、連合艦隊の山本五十六司令長官を待ち伏せ攻撃で死に至らしめる結果をもらたしたことは今ではよく知られています。

 私は「陰謀説などすべてバカバカしい」などと言う気はありません。中には、隠された真実を鋭くえぐり出すものもあります。ですが、その多くは時の審判に耐えられず、消えていきます。「ルーズベルト陰謀説」などもそうした言説の一つで、私は「もはや論じる価値もない」と考えています。なのに、なぜ消えないのか。高校の歴史の授業にまで登場してしまうのか。不思議でなりません。

 悪貨が良貨を駆逐するごとく、読みこなすのに時間がかかる良書は時に悪書に駆逐されてしまうのでしょうか。手軽で百花繚乱のインターネット空間では、悪書の方が強い影響力を及ぼすのでしょうか。若い人の間では、活字離れが急速に進んでいます。私の授業を聴いている学生の中で、新聞を日常的に読んでいる者はゼロです。彼らは情報の多くをネットを通して得ています。ならば、ネットの世界で「良書を広げ、悪書を駆逐する戦い」に乗り出すしかありません。
(長岡 昇)
*真珠湾攻撃の写真のSource:http://konotabi.com/japamerican/ja3pharbor/japame3pearlhar.htm