*メールマガジン「小白川通信 2」 2013年5月21日


 学識深く、人品いやしからざる人も、あまりに深く政府や官僚と付き合うと、我を見失い、そのお先棒担ぎに堕してしまうことがある。しばしば指摘されることではあるが、その実態が赤裸々に暴露されることは滅多にない。権謀術数にたけた官僚たちが巧みに蔽い隠し、見えなくしてしまうからである。

 その意味で、5月19日付の朝日新聞朝刊1面に掲載された「経産省、民間提言に関与」のスクープは、地味な内容ながら実に小気味いい、画期的な特ダネだった。読んでいない人のためにその概要を記すと、次のような記事である。

 「東大総長や文部大臣を務めた有馬朗人(あきと)氏を座長とし、経団連の元会長や電力会社のトップで作る『エネルギー・原子力政策懇談会』という民間の団体が『緊急提言』をまとめ、2月に安倍晋三首相に手渡した。その提言は原発の早期再稼働を求め、原発の輸出拡大を促すものだったが、提言の骨子や素案を作ったのは経済産業省の職員だった」

 もの知りの中には「政官業の癒着は今に始まったことではない。どこがニュースなのか」といぶかる人もいるかもしれない。それはその通りなのだが、癒着ぶりを事実を以って明らかにするのは容易なことではない。このスクープが画期的なのは、動かぬ事実を以ってそれを裏打ちし、報道した点にある。記事の中で、次のような証拠を突き付けているのだ。

 「朝日新聞は、提言ができるまでの『骨子』や『素案』などの段階のデータを保存したパソコン文書作成ソフトの記録ファイルを入手した。ファイルの作成者はいずれも経済産業省の職員だった」

 記録ファイルを突き付けられたからだろう。経済産業省資源エネルギー庁の幹部は記者に対し、資源エネルギー庁原子力政策課の職員が提言のもとになる文書を作成したことを認めた。そのうえで、「打ち合わせのメモを作ったり、資料を提供したりすることは問題ではない」と釈明している。そう言い繕うのが精一杯だったのだろう。

 経済産業省の文書作成記録ファイルを見ることができるのは、経産省の中でもコンピューターのシステムに詳しく、アクセス権限を与えられたごく一部の人たちである。そのうちの誰かが新聞記者に関係ファイルを提供したのだ。どのような心境、どのような動機で提供したのかは本人しか知り得ないことである。だが、東日本大震災と福島原発事故の後の動きを見れば、想像するのは難しいことではない。

 原発事故であれだけの惨事を引き起こしたにもかかわらず、政官業の中には原発の再稼働と輸出促進を求める声が渦巻き始めている。安倍政権の発足で、渦巻はますます勢いを増しそうな気配だ。経産省の中にも「心ある官僚」はいる。「これでいいのか」と思い悩んでいる人が少なからずいるに違いない。

 内部の文書作成記録ファイルを新聞記者に渡すことは、形の上では国家公務員法違反になる。いわゆる「守秘義務」違反だ。発覚すれば、懲戒の対象になる恐れがある。下手をすれば、職を失う。その危険を冒してでも「全体の奉仕者であるべき公務員が『原発推進』を唱える民間団体の提言作りを後押しするのはおかしい」と考え、告発するに至った、と考えられる。

 この国で生きる限り、この国の法律は守らなければならない。しかし、人には法律よりも大切なものがある。それは、自らの良心であり、「世のため人のため」という気概である。新聞記者であれ、公務員であれ、それは変わらない。ましてや、相手が「公務員は全体の奉仕者たれ」という根本を忘れて「暴走」した場合は、それを告発することこそ、人としての務めだろう。記録ファイルをメディアに渡す決断をするまでには葛藤もあったに違いない。勇気ある告発に敬意を表したい。

 告発する側は、誇張ではなく、職を賭し、人生をかけて告発に踏み切る。当然、どこに告発するかも熟慮する。その告発先が古巣の新聞だったことは、掛け値なしに嬉しい。原発事故とその後の被災者の苦しみについて、「プロメテウスの罠」という連載で粘り強く書き続けていることが告発者の胸にも届いたのだ、と信じたい。

 あらためて、問題の「提言」を読み、その関連の資料にも目を通してみた。提言をした「エネルギー・原子力政策懇談会」の前身は、2011年2月(東日本大震災の直前)に発足した「原子力ルネッサンス懇談会」という団体であることを知った。この団体は、原発事故後の反原発の動きに危機感を抱き、事故の1カ月後には「原子力再興懇談会、あるいはエネルギー政策懇談会などに名称変更して提言をまとめたい」と表明していた。事故収束のめども立たず、被災者が逃げ惑っている時に、もう「再興」を唱えていたのである。

 その提言の内容もお粗末なものだ。官僚の「昔の歌」をなぞっているに過ぎない(官僚が下書きしているのだから当然だが)。一番大きな問題は、原発政策を進める場合、必ず立ちはだかる「放射性廃棄物の最終処分をどうするのか」という難題にまったく触れていないことである。「未来の世代」への責任をどうやって果たすのか。それに答えるどころか、触れようともしないことに、私は「人としての退廃」を感じた。そのような提言をした団体の代表を引き受け、名を連ねた人たちに憐れみを覚える。
(長岡 昇)