*メールマガジン「おおや通信77」 2012年2月16日


 作家、五木寛之氏の近著『下山の思想』がベストセラーになっています。経済的繁栄のピークを過ぎ、少子高齢化がますます進む日本にとって、今は粛々と山を下り、次の高みを目指すための備えをする時だ、と説く五木氏の考えは、多くの人の心を揺さぶっています。「下山」という言葉に前向きの力を付与したところに、この本のすごさを感じます。

 もはや「大きくなるパイを奪い合う」時代ではありません。「小さくなるパイをどうやって公平に分配するのか」に知恵を絞る時代です。それを考えると、就学援助をめぐる教育界の論議は時代の流れを無視しており、ピンボケではないかと感じてしまいます。「制度をもっと充実し、援助額を増やすべきだ」と論じるものが多いからです。

 就学援助というのは、経済的に苦しくて勉学を続けるのが厳しい小中学生がいる家庭を支援する制度です。生活保護世帯に加えて、生活保護を申請するには至らないものの経済的に苦しい世帯(準要保護世帯)に対して、給食費や学用品代、修学旅行費などを自治体が支給するものです。

吉田さんのミカン2 12'2'16.jpg
大谷小学校の給食風景(本文とは直接の関係はありません)

 苦しい時には、みんなで支え合うのは当然です。制度そのものは理にかなっています。経済的に苦しい家庭の生徒は勉学や進学で不利な状況に置かれており、経済的な格差が教育の格差として固定化される傾向があることも明白です。機会均等という観点からも、就学援助制度をさらに充実させる必要がある、というところまでは賛成です。

 問題は、援助の総額をさらに増やすべきかどうかです。パイが減る中で、福祉の費用も増やせ、就学援助も増やせと言い出したら、国や地方の財政はパンクします。限られた財源をどう公平に適切に配分すべきか、という観点が欠かせないのに、就学援助を論じる研究や報道にはそれが欠落しているものが多いのです。

 文部科学省が公表している就学援助に関する統計(2010年度)を見ると、その運用に大きな疑問が湧いてくるのです。小中学生100人当たり、どのくらいの比率で援助がなされているのか。都道府県別の比率は、次の通りです。
大阪府 28パーセント
山口県 26パーセント
東京都 24パーセント
・・・・・・・・・・
山形県  7パーセント(6.9)
群馬県  6パーセント(6.4)
栃木県  6パーセント(6.3)
静岡県  6パーセント(5.6)

 小学校の校長として制度の運用にかかわっている立場から見ると、静岡や栃木、群馬、山形のデータは納得のいく比率です。経済的に苦しくて給食費などを払うのに苦労している家庭は全体の1割弱というのが実態でしょう。なのに、大阪や東京では生徒4人に1人の割合で就学援助を受けている。大阪や東京の方が山形や静岡よりずっと貧しい家庭が多い、などということは考えられません。

 では、何が起きているのか。ここからは私の推測ですが、大阪や東京では、かなりの数の保護者が「もらえるものなら、もらおう」と申請し、自治体の窓口は「断ったら面倒なので認めてしまえ」と援助を認定する、ということが起きているのではないか。もしくは援助を決める基準そのものが大甘なのではないか。そう解釈しなければ、この文科省の統計は理解できません。

 大谷小学校がある地域は、決して裕福な家庭が多い地域ではありません。それでも、厳しい家計の中から教育費を捻出して、全家庭からきちんきちんと支払っていただいています。就学援助の対象家庭はゼロです。その一方で、大阪や東京では4人に1人が税金で給食費などを負担してもらっている――不平等、さらに言えば不正がまかり通っている、と考えざるを得ません。

 下山の過程にあるこの国で今、大切なことは「痛みを分かち合いながら、本当に助けが必要な人をみんなで支えること」ではないでしょうか。それは、前回のおおや通信「共同除雪」で紹介した「独り暮らしのお年寄りの中でも、本当に手助けが必要な人のために雪下ろしをする」という考え方にもつながることです。きれい事の「就学援助論」ではなく、下山の時代にふさわしい、まっとうな「就学援助論」を聞きたい。

*就学援助制度については参議院企画調整室の鳫(がん)咲子氏がバランスの
   取れた論文を書いており、参考になります。次のURLです。
http://yakanchugaku.enyujuku.com/shiryou/2009/20096528.pdf