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*メールマガジン「おおや通信 104」 2013年3月18日


 北国にとって、3月は雪解けの月です。降り積もった雪が春の太陽に温められ、透明な水となってほとばしります。私はこの季節が一番好きです。ほとばしる水が新しい命の息吹を感じさせてくれるからです。そして、それは新しい希望へとつながっているからです。

 12人の6年生のみなさん。卒業、おめでとうございます。君たちは6年間、大谷小学校に元気に通ってくれました。そして、最後の1年間は全体の大黒柱として、この学校を支えてくれました。教職員を代表して、あらためて「ありがとう」という言葉を贈りたいと思います。
 一人ひとりに、はなむけの言葉を贈ります。

通信104 卒業式写真 修正版13’3’28.jpg
この春、大谷小学校からは12人が巣立っていきました。校長も一緒に卒業しました


白田凌士(りょうじ)君
 東日本大震災があった2年前の秋、津波で大きな被害を受けた宮城県七ケ浜町の小学生を迎えて、大谷小学校で交流の集いが開かれました。お互いに初対面でしたから、最初はぎこちなかったのですが、君は真っ先に相手に声をかけて、その場の雰囲気を和ませてくれました。おかげで、リンゴもぎも、その後の芋煮会もとても楽しいものになりました。本当にありがとう。最初に口火を切るというのは何事につけても大変なことです。そういう自分のいいところを大切にして、大工さんになるという目標に向かって真っすぐに進んで行ってください。

白田 実(みのり)さん
 あなたはとても物静かな生徒ですが、みんなのことを実によく見てくれていました。給食の配膳の時も、掃除の時も、下級生にきめ細かく気配りをしてくれていましたね。ありがとう。書道が得意で、書き初めでよく金賞を取っていました。ピアノも習っていました。そのピアノの先生がひいている姿をみて、自分もピアノの先生になることを目標にしたのですね。一歩ずつ前に進んで、その夢を実現してください。

白田知里(ちさと)さん
 町の陸上競技記録会で、あなたはリレーのアンカーとして走ってくれました。青葉の中を走る姿は輝いていました。みんなに勇気を与える走りでした。学校では鼓隊の指揮者として全体をまとめ、放送委員としてみんなを引っ張ってくれました。ありがとう。お母さんもおばあちゃんも花が大好きで、将来は花屋さんになるのが夢ですね。お店を訪ねた時に思わず笑みがこぼれる、そんな花屋さんになってください。

白田好稀(よしき)君
 日光と福島に修学旅行に行った時の帰りのバスのことを思い出します。君は、「ワイルドだろう?」とスギちゃんのもの真似を連発しました。バスの中は爆笑の渦でした。スポーツ少年団でバスケットの練習に励む君の姿からは想像もできない、もう一つの意外な顔を見せてくれました。「芸は身を助ける」と言います。その才能を大切にしてください。カーレーサーになるのが夢で、そのためにちゃんと勉強しますと書いていました。夢を叶えるために、その誓いを大切にしてください。

志藤 桃さん
 あなたは、ニコニコしている時が本当に多かったですね。苦しい時でも笑顔を忘れず、みんなを励ましてくれました。そのえくぼに表彰状をあげたいくらいでした。ありがとう。優しい看護師さんになって患者さんを勇気づけてあげるのが夢です。優しさは折り紙付きです。一歩一歩、その夢に向かって進んでください。

志藤周平君
 君の笑顔も、時には桃ちゃんに負けないくらいでした。クラス全体、学校全体をいつも明るくしてくれて、ありがとう。スポ少のバスケットの練習も一生懸命にやっていましたね。体育館でそのドリブルのうまさを見て、感心したことを覚えています。夢は美容師になって、お客さんみんなを笑顔にすること。大丈夫です。今の笑顔を忘れずに努力すれば、きっと実現できます。

白田真子(まこ)さん
 あなたは、4年前に私が大谷小学校の校長として赴任した時、最初に出会った生徒でした。始業式で3年生を代表して「がんばり発表」をすることになり、その練習のために一人で学校に来ていました。あの時は自信がなさそうでしたが、今では、みんなの前で話す時にも実に堂々としています。頼もしい限りです。将来の夢は犬や猫の世話をするトリマーですね。これからも自信を持って前に進み、その夢を叶えてください。

遠藤 翼君
 君は、クラスでは勉強の面でも行事でもみんなの背中を押してあげる役割を引き受けてくれました。また、縦割り班では下級生の面倒を見る班長の役割をしっかり果たしてくれました。何でも安心して任せることができる生徒でした。本当にありがとう。将来はテニスの選手になって世界の各地を訪ねたいという夢を抱いています。中学に進んでも、これまで同様、文武両道で頑張って、その夢に挑戦してください。

白田いぶきさん
 5年生の秋に田んぼで稲刈りをした時のことを思い出します。みんなが戸惑っている中で、あなたはしっかりと稲を刈り、束ねていました。宿泊学習で、木をこすり合わせて火起こしに挑戦した時も、最初に火おこしに成功したのはあなたの班でした。慣れない、大変なことをする時、クラスのみんなはいつも、あなたがどうするかを見ていました。とても頼りになる存在でした。将来の夢はマンガ家。厳しい道ですが、じっくり構えて自分を磨き、夢を叶えてください。

阿部慎吾君
 君は町の陸上競技記録会でも水泳記録会でも大活躍し、みんなを引っ張ってくれました。運動会でも赤組の組頭として獅子奮迅の活躍でした。ありがとう。君にはサッカーのことをたくさん教えてもらいました。地元のチーム、モンテディオ山形のことは誰よりも詳しかったですね。夢はサッカーの強い大学に入って、プロのサッカー選手になること。高い運動能力を活かしてその夢に挑戦してください。

川村優貴乃(ゆきの)さん
 大谷小の体育館で剣道の練習を始めて間もない、4年生のころでした。あなたは「いくら練習しても結果が出ない」と少し悩んでいました。けれども、その後も練習を休むことはありませんでした。精進を重ね、剣道の大会で次々に優勝カップを手にするようになりました。「努力は裏切らない」ということを身をもって知ったのではないでしょうか。「剣道日本一」という目標に向かって、これからも倦(う)まず弛(たゆ)まず、研鑽を積んでください。

川村さくらさん
 あなたは、クラスで一番静かな生徒でした。でも、作文を読むと、口には出さなくてもあなたがいろいろなことを深く考えていることがよく分かりました。学校文集に、おばあちゃんと黒豆を煮てお正月料理を作ったことを書いていました。優れた作文でした。これからも自分の力を信じて、文章を書き続けてください。洋服のデザイナーになるのが目標です。新しいものを生み出すという点では、文章もデザインも共通するものがあります。コツコツと努力を積み重ねてください。

在校生のみなさん
 いつもみんなをリードしてくれた6年生は、今日、大谷小学校から巣立っていきます。少し心細いかもしれませんが、4月からは新しい仲間が入ってきます。その新しい仲間と力を合わせて、また「元気で楽しい学校」をつくっていきましょう。伝統というものは、そうやって少しずつ積み上げていかれるのだと思います。私も一緒に卒業しますが、新しい先生方と新しい伝統を築いていってください。

保護者のみなさま
 お子様のご卒業、まことにおめでとうございます。みなさまに手をつながれて大谷小学校の門をくぐったお子様は、今や中学校の制服に身を包み、こんなに大きくなりました。それぞれ、胸にこみ上げてくるものがあるのではないでしょうか。この6年間、お子様を元気に大谷小学校に通わせていただき、本当にありがとうございました。どの子も、豊かな感受性と多様な才能に恵まれています。大らかな目で、また温かい心で、これからもお子様たちの成長を見守ってあげてください。もちろん、わたくしたちもいつまでも応援し続けます。

ご来賓のみなさま
 本日はお忙しい中、大谷小学校の卒業式にご臨席たまわり、誠にありがとうございました。校長として4年間、大谷小学校を運営してまいりましたが、朝日町と北部地区のみなさまには、あらゆる局面で最大限の支援をしていただきました。あらためて、深く感謝申し上げます。
 4年間を振り返ると、与えるよりも与えられることの方が多い日々でした。教えるよりも教わることの方が多い4年間だったような気がします。感謝の言葉を重ねて、卒業式のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

  *3月18日、山形県朝日町立大谷小学校の平成24年度卒業式での校長あいさつ


*メールマガジン「おおや通信 103」 2013年3月15日


 東京で先月、全国結婚支援セミナーという集いがあった。若者の未婚と晩婚化が深刻な問題になる中で、私たちに何ができるのか。実践例に触れ、話し合った。

 このセミナーに、福島県飯舘村の菅野典雄(かんの・のりお)村長が講師として招かれた。原発事故によって家も田畑も放射能で汚染され、全村避難を強いられた村である。菅野村長は「この災害はほかの災害とはまったく違う」と切り出した。「重い軽いで言えば、津波で身内を亡くされたところの方が重い。ですが、少なくともそこではゼロからスタートできる。それに対し、私たちはこれから長い間、汚染ゼロに向かって生きていかなければならないのです」

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全国結婚支援セミナーで福島県飯舘村の実情を語る菅野典雄村長(中央)


 被災した人たちの心についても語った。「ほかの災害では、再建に向かってみんなで結束できる。でも、放射能災害では、みんなの心が分断されるのです。年寄りと小さな子を持つ親では対処の仕方が違う。同じ村内でも、放射線量の高い人と低い人では賠償額が異なる。分断の連続なのです」

 道は遠く、険しい。けれども、菅野村長は「私たちは必ず村に戻ります。そして、先人から受け継いだものを次の世代に引き継ぎたい」と言うのだった。

 あの大震災から2年。津波の傷も癒えず、原発の事故処理のめども立たないのに、円安と株高に浮かれる人たちがいる。その中に、原発政策を推進し、「日本では過酷事故など起こり得ない」とうそぶいていた人たちがいる。懲りない面々と言うべきか。いつの間にか、この国は若者が汗を流しても報われることの少ない国になってしまった。長じても、結婚と子育てをためらう社会になってしまった。

 どこを変えなければならないのか。何をなすべきなのか。小学校の校長をしながら考えてきた。今月末に定年退職し、4月からは山形大学で教壇に立つ。キャンパスでも同じことを問い続けたい。

 *3月15日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(12)より。写真は紙面とは異なります。4月以降は大学のキャンパスのあれこれを、月に1回のコラムでお届けする予定です。




*メールマガジン「おおや通信 102」 2013年3月7日


 月に2回発行している大谷小学校の学校便り「大谷っ子」に、4年の男の子が書いた作文「お父さんの出発の日」が掲載されました。

 会社勤めをしている父親がアメリカに新しくできる工場で働くために2カ月ほど出張することになり、お母さんと一緒に山形駅まで行って父親を見送った、という内容です。男の子は「見送る時は少しさびしかったです」と結んでいました。大谷小学校のような農村にある学校でも、家族が仕事や旅行で海外に行くことは、今では珍しいことではなくなりました。世界はますます狭く、身近なものになってきました。

通信102 バイキング給食 修正版13’3’7.jpg
大谷小では毎年3月にバイキング給食があります。好きなものをお腹いっぱい食べることができます


 思えば、この男の子は4年前、私が校長として赴任して間もないころ、「世界はずいぶん狭くなったなぁ」と実感させてくれた生徒の一人でした。全校朝会で講話をすることになり、私は「今日は恐竜より古い時代から生きている魚の話をします」と切り出しました。すると、当時1年生だったこの生徒は手を挙げて「分かった。シーラカンスだ!」と叫んだのです。
 
 いきなり正解を言われて、私は内心、驚いたのですが、そんな素振りは見せず、淡々と「生きた化石」と言われるこの魚をめぐる話を語って聞かせました。何億年も前の地層から化石で見つかり、とっくの昔に絶滅したと考えられていたこの魚が70年ほど前にアフリカ沖で偶然、発見されたこと。そして、1997年に今度はインドネシアの海でも見つかった、と写真も使いながら紹介しました。

 講話が終わってから、私はこの生徒にそっと「どうしてすぐに分かったの」と尋ねました。答えは「お父さんにアクアマリンふくしま(水族館)に連れて行ってもらって、見てきたばっかりなんだ」というものでした。高速道路網が整備されて、今では山形県の朝日町から福島県のいわき市まで、日帰りでドライブできるようになったのです。

 この次の年には、アイスランドの噴火を言い当てられました。この時も、体育館に集まった生徒に向かって「今日はヨーロッパの人たちが困っている話をします」と言っただけなのに、またもや「分かった」という言葉が返ってきたのです。この時も1年生でした。大きな噴火でしたので、テレビのニュースでも報じられていましたが、「ヨーロッパの人たちが困っている」という切り出しで、すぐに「噴火」という言葉が出てくるとは思ってもいませんでした。そこで訳を尋ねると――。

 「じいちゃんがヨーロッパ旅行に行ってたんだけど、飛行機が飛べなくなって帰るのが遅くなったんだ。帰ってきてから聞いたら『おっきい噴火があったんだよ』って言ってた」

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卒業まであとわずか。5年生を中心にして在校生が「6年生を送る会」を開きました


 子どもたちが大人になる頃には、世界はさらに狭くなっていることだろう。その世界が身近なだけでなく、豊かで暮らしやすいものになるように、一人の大人として力を尽くしたい。

 *大谷小学校の学校文集「おおや」43号への寄稿に加筆




*メールマガジン「おおや通信 101」 2013年3月4日


 北国に住む者にとって、雪は「あなどりがたいもの」である。この冬も、雪下ろし中に屋根から転落したり、排雪溝に落ちたりして犠牲になるケースが相次いだ。北海道の地吹雪はもっと怖い。身動きできなくなり、助けを求めることができなければ、命を奪われてしまう。週末にそれが現実のものになった。痛ましい事故だった。

 こうした事故が相次いだこともあって、雪が降らない所では「この冬は記録的な大雪だった」という印象が広がっている。そのきっかけになったのは、2月下旬にテレビや新聞がさかんに伝えた「青森県の酸ケ湯で積雪が566センチを記録した」というニュースだったように思う。「国内最高の積雪」と報じた新聞もあった。

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雪に埋もれた大谷小の校舎。積雪は1メートルあまりだが、屋根からの落雪がすごい



 強い違和感を覚えた。少なくとも、東北各地の積雪は去年の大雪よりはずっと少ないからである。どうしてこのような報道がなされたのか、調べてみた。すると、日本独特の制度である「記者クラブ制度」の弊害が浮かび上がってくる。

 まず、一連の報道の出発点となった気象庁の発表内容である。気象庁は2月26日に「青森県の酸ケ湯の積雪が同日午前5時の時点で566センチになった」と発表し、「アメダスの観測地点で記録された最深積雪を更新した。記録的な積雪である」と付言した。発表内容そのものはもちろん事実であり、正確である。

 問題は、この発表を受けて気象庁記者クラブの記者たちがどのような記事を書くかである。怠け者の記者(あるいは「忙しい」が口癖の記者)は、この発表の範囲内で要領良く文章をまとめ、デスクに送る。きっと「過去最高の積雪」と仮見出しを付けて出稿したのだろう。この時点で、正確な事実が誤報に転じる。

 もう一度、発表内容に戻ってみてほしい。気象庁は注意深く、「アメダスの観測地点で記録された積雪」と条件を付けていた。この範囲での「記録更新」なのだ。アメダス(地域気象観測システム)の運用が始まったのは1974年である。観測地点が現在の約1300になったのは、その5年後の1979年だ。つまり、これ以前には別な積雪記録があるし、現在でもアメダスの観測地点以外では別な積雪記録がある、ということである。

 気象庁の広報担当に電話して、「気象庁として把握している最深積雪記録は何センチですか」と尋ねてみた。答えは「伊吹山(岐阜・滋賀県境)の測候所で1927年に記録した1182センチ(11メートル82センチ)」というものだった。今回、メディアが最高積雪と報じた酸ケ湯の2倍以上である。

 そんなに昔まで遡ることもない。10メートルを超える積雪はさすがに少ないが、6メートルあるいは7メートルという積雪記録は新潟や山形、秋田の豪雪地帯ならざらにある。私が暮らしている山形県朝日町の近くにある西川町では毎年、独自に積雪記録を取っている。この冬の最高記録は「月山志津(しづ)温泉の604センチ」という。町役場の職員によれば、ほぼ平年並みだ。町の記録によれば、志津温泉の積雪は1973年の800センチが最高という。

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西川町の積雪表示。2月25日の志津温泉の積雪は604センチ。


 西川町の職員に「青森県酸ケ湯の積雪566センチのことをどう思うか」と聞いてみた。「うちの町では多いところで5メートルくらい降るのは当たり前だから、とくにすごいとも思いません」と言う。気象庁詰めの記者はきっと、雪国で暮らしたことがないのだろう。積雪についての実感も湧かないのだろう。そうでなければ、566センチの雪を何の条件も付けずに「過去最高」と表現したりはしない。ほんのわずかの時間を割いて補足取材をすれば、566センチの持つ意味はすぐに分かるはずだ。

 悩ましいのは、補足取材をして「積雪566センチはいくつかの限定条件付きの『過去最高』である」ときちんと書くと、自分の原稿のニュース価値が下がることである。なにせ、デスクや編集者は「史上初」や「過去最高」「全国初」が大好きだからだ(自分もその一人だったから、偉そうなことは言えない)。かくして、誤報が大手を振ってまかり通る。テレビや新聞への信頼感はこうして掘り崩されていくのだ、としみじみ思う。

 官庁が横書きで出してきた「報道資料」をひたすら縦書きの記事にする記者のことを、新聞業界で「タテヨコ記者」と言い、そういう報道を「タテヨコ報道」と言う。自分もそういうことをしてきた覚えがある。怠惰と堕落への道であり、これに抵抗するためには相当の覚悟と努力がいる。

 引退した老人の繰り言めくので、こういう事は本当はあまり書きたくない。だが、今回の酸ケ湯の最高積雪報道については書かずにはいられなかった。こんなタテヨコ報道をいつまでも続けていると、報道への信頼はますます細る。気象庁記者クラブの面々に奮起を促したい。





*メールマガジン「おおや通信 100」 2013年2月22日


 災害や紛争で犠牲者がたくさん出て、食料や水が手に入らなくなった時、人はどのような行動を取るものでしょうか。やっと届いた救援物資に群がり、奪い合う。けんかも始まる。それが普通の姿でしょう。

 生き残った家族を守るために、みんな必死なのです。責めることはできません。貧しい国や地域に限ったことではありません。2005年の夏にアメリカ南部がハリケーンに襲われた時にも同じことが繰り返されました。

 ところが、東日本大震災の被災者はそうではありませんでした。津波で身内を失い、家を流されながら、彼らは列を乱すことなく、静かに支援物資を受け取りました。悲しみに打ちひしがれ、寒さに震えながら、隣人に手を差し伸べることを忘れませんでした。そして、その映像が世界に流れたのです。

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ひな祭りの季節。大谷小には「御殿(ごでん)飾り雛」が鎮座しています。

 
 多くの国の人々にとって、それは「世界の常識」をくつがえす振る舞いであり、姿でした。映像でこうした姿を見た人から1通の英語のメールが発せられ、インターネットで世界に広まりました。「日本から学ぶ10のこと10 things to learn from JAPAN 」というメールです。以下のような内容です。

1. 静けさ THE CALM
 胸をたたいたり、取り乱したりする映像はまったくなかった。悲しみそのものが気高いものになった。
Not a single visual of chest-beating or wild grief. Sorrow itself has been elevated.

2. 厳粛さ THE DIGNITY
 水や食料を求める整然とした行列。声を荒げることも粗野な振る舞いもなく。
Disciplined queues for water and groceries. Not a rough word or a crude gesture.

3. 力量 THE ABILITY
例えば、信じがたいような建築家たち。建物は揺れたが、倒れなかった。
The incredible architects, for instance. Buildings swayed but didn’t fall.

4. 品格 THE GRACE
 人々は取りあえず必要な物だけを買った。だから、みんな何がしかのものを手にすることができた。
People bought only what they needed for the present, so everybody could get something.

5. 秩序 THE ORDER
 商店の略奪なし。道路には警笛を鳴らす者も追い越しをする者もいない。思慮分別があった。
No looting in shops. No honking and no overtaking on the roads. Just understanding.

6. 犠牲 THE SACRIFICE
 50人の作業員が原子炉に海水を注入するためにとどまった。彼らに報いることなどできようか。
Fifty workers stayed back to pump sea water in the N-reactors. How will they ever be repaid?

7. 優しさ THE TENDERNESS
 レストランは料金を下げた。ATMは警備もしていないのにそこにある。強き者が弱き者の世話をした。
Restaurants cut prices. An unguarded ATM is left alone. The strong cared for the weak.

8. 訓練 THE TRAINING
 老人も子どもも、みんな何をすべきかよく分かっていた。そして、それを実行した。
The old and the children, everyone knew exactly what to do. And they did just that.

9. 報道 THE MEDIA
 速報に際して、彼らはとてつもない節度を示した。愚かな記者はいない。落ち着いた報道だった。
They showed magnificent restraint in the bulletins. No silly reporters. Only calm reportage.

10. 良心 THE CONSCIENCE
 店が停電になると、人々は品物を棚に戻し、静かに立ち去った。
When the power went off in a store, people put things back on the shelves and left quietly.

(http://www.facebook.com/notes/xkin/10-things-to-learn-from-japan-/202059083151692)

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この冬も大谷小に「ばくだん屋さん」が来て、ポン菓子を作ってくれました

 
 私はこのメールのことをつい最近、2月10日付の毎日新聞に掲載された西水美恵子さん(元世界銀行副総裁)のコラムで知りました。大きな組織を率いた経験を持つ人らしい、力強く明晰なコラムでした。日本語訳も付いていましたが、英文を探し出して自分で翻訳し直してみました。
 
 「褒めすぎ」のところもあるような気がします。東北の被災地ではATM荒らしもありました。保存食品の買いだめに走った人もいます。けれども、被災者の多くが信じられないような強さと優しさを見せてくれたのは確かです。同じ国に住む者ですら、目頭が何度も熱くなりました。世界各国で多くの人が被災者の姿を驚きの目で見つめたのも、分かるような気がします。

 彼らはこうしたことを当たり前のことのように、淡々と成し遂げました。東北に生まれ、東北で暮らしていることを私は今、誇らしく思う。

          *大谷小のPTA便り「おおや」90号に寄稿したエッセイに加筆。






*メールマガジン「おおや通信 99」 2013年2月15日


 1月から2月にかけて、NHKのBSプレミアムで放送された「北の英雄 アテルイ伝」は画期的なドラマだった。アテルイとは、古代の東北に住み、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人たちの指導者の名前である。奈良時代から平安時代の初めにかけて、支配地を北へ広げようとした大和朝廷に対し、蝦夷は大規模な反乱を起こした。ドラマは、その史実をベースに展開する。

 ハリウッドの西部劇の定番は、勇敢な騎兵隊が野蛮なインディアンと戦い、打ち負かす物語だ。そのハリウッドがインディアンを主役にした映画を作ったようなものだ。蝦夷の英雄を主人公にしたテレビドラマは初めてだろう。

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朝日町の小学校スキー記録会。町内にもアイヌ語に由来するとされる地名がある


 ドラマの最終回で、桓武天皇は「この国の土地も民もすべて朕(ちん)の手の中にある」と豪語する。征夷大将軍の坂上田村麻呂は投降したアテルイの助命を願うが、天皇はこれを許さず処刑を命じる。斬首の前に、アテルイは田村麻呂に問う。「帝は我等(わあら)をなにゆえ憎む。なにゆえ殺す。同じ人ぞ。同じ人間ぞ」。深い問いである。

 そもそも蝦夷とはどういう人たちだったのか。岩手大学の高橋崇(たかし)・元教授は『蝦夷(えみし)』(中公新書)で「彼らはアイヌ人か、あるいは控え目にいってアイヌ語を使う人といってよいだろう」と記した。一方、秋田大学の熊田亮介・副学長は、最近の考古学の成果も踏まえて「東北にはアイヌ系の人たちもいたし、大和政権の支配地から逃れてきた人たちもいた」と、蝦夷=アイヌ説を否定する。蝦夷の実像については諸説あり、いまだに決着がついていない。

 大和朝廷と戦った蝦夷の中には捕虜になり、関西や九州、四国に移住させられた人も大勢いた。文献にも、しばしば登場する。彼らはその後どうなったのか。それも歴史の闇の中に埋もれたままである。
 アテルイはその闇を照らし、私たちを歴史の深みへと誘(いざな)う。
 
 *2月15日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(11)より

     *     *     *

 蝦夷(えみし)の実像について詳しいことを知りたい方のために、ミニ解説を試みます。
私の理解では、古代の東北地方に住み、大和朝廷の支配に屈しなかった蝦夷(時に「まつろわぬ民」と表現される)については、主に四つの説があります。

(1)蝦夷=アイヌ説
 コラムで引用した元岩手大学教授の高橋崇(たかし)氏が代表的な論者。同氏の著書『蝦夷(えみし)』『蝦夷の末裔』『奥州藤原氏』(いずれも中公新書)の3部作は、この立場に立つもの。とくに、最初の『蝦夷』をお薦めします。

(2)蝦夷=辺民説
 秋田大学副学長の熊田(くまた)亮介氏らの説。古代東北にはアイヌ系の人たちと大和朝廷の支配地域から逃れてきた人たち、それ以外の集団などが混住していたと主張する。最近の考古学の発掘調査などを踏まえれば、蝦夷=アイヌ説では説明できないことが多すぎることを根拠にする。参考文献『東北の歴史 再発見』(河出書房新社)。
(3)蝦夷=和人説 蝦夷は辺境に追いやられた大和民族の一部であるとの説。戦前、皇国史観に立つ学者が唱えた。

(4)蝦夷=イエッタ説(これは私が勝手に名付けたものです)
 大正から昭和初期にかけて、在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)が唱えた。東北の蝦夷はアイヌ系の人たちではなく、北方から日本列島に入ってきたツングース系のイエッタ民族であるとの説。学界からは異端視され、事実上、黙殺された。近年、歴史民俗学研究者の礫川(こいしかわ)全次氏が再評価し、菊池山哉の著作『先住民族と賤民族』や『蝦夷とアイヌ』の復刻版を出しました(どちらも批評社、1995年)。
 
 個人的な感想を記せば(3)は論外、(2)は「いろいろな民族、人間集団がいた。どれが反乱を起こしたのかは分からない」と言っているだけで、学説と言えるのか疑問です。
(1)の蝦夷=アイヌ説が一番自然で説得力があると考えていますが、日本の先住民族が一つであると考える理由はなく、(4)が主張するイエッタ民族など「第2、第3の先住民族」がいて、古代の東北で混住していた可能性は十分にあるのではないか、と考えています。
また、東北の蝦夷論とは別に、(4)の菊池山哉の研究は日本の部落差別のルーツを考えるうえでも再評価されてしかるべきだ、と受けとめています。





*メールマガジン「おおや通信 98」 2013年1月18日


 雪が降りしきるある日、大谷小学校の職員室で「こういう時、地元の言葉ではどういう風に表現するか」が話題になった。朝日町生まれの私は、何の疑問も抱かず「雪(ゆぎ)がのすのす降るって言うよね」と口にした。「んだね」と同郷の教師が応じた。

 ところが、寒河江出身の教師は「雪(ゆぎ)がのそのそ降る、だべっす」と異を唱えた。山形市生まれの教頭と西川町育ちの事務職員も「のそのそだよねぇ」と、顔を見合わせながら言う。全員に聞いてみると、朝日町の出身者は「のすのす」、それ以外の教職員は「のそのそ」と分かれた。意外な分かれ方だった。

 方言の使い方は、朝日町の中ですら異なる。置賜に近い集落では、うらやましいことを「けなり」と言ったりするが、ほかではあまり使わない。方言の分布は複雑で、その表現は実に多彩だ。

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大雪の中、スキーを楽しむ大谷小の生徒=茂木ゆかりさん撮影


 小学校ではこれまで、5年生の国語の授業で「方言と共通語」を学んでいた。「どんな方言があるのか、おうちの人に聞いてみましょう」と呼びかけると、家族との会話も弾む。楽しい授業の一つだった。

 ところが、2011年度の国語の教科書(光村図書)から、「方言と共通語」という項目が消えてしまった。文部科学省はこの年から小学校の学習指導要領を改訂し、「日本の伝統と文化」を重視する方針を打ち出した。そのあおりで、一部の教科書では方言がこぼれ落ちてしまったようだ。

 「方言も日本の文化の一部なのに……」。東北大学方言研究センターの小林隆教授は嘆く。「大震災の後、被災地のあちこちで復興のスローガンに方言が使われています。人々の心に寄り添い、励ます力が方言にはあるのです」

 私たちは「言葉の海」に生まれ、その中で育っていく。多くの人にとって、その海で最初に出会うのは方言である。衰退しつつあるとはいえ、その豊かさに改めて目を向ける動きもある。もっともっと、大切にされていいのではないか。

  *1月18日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(10)より

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 ニューデリーで特派員として働いていた頃、インドやパキスタンでよく「いくつの言葉を話せますか?」と聞かれました。北インドの知識人の場合、地元のヒンディー語のほかに、南部のカンナダ語やタミル語などを話せる人が多い。もちろん、英語も流暢に話し、さらにもう一つの外国語を話す人も珍しくない。三つ、もしくは四つの言葉を操るのが普通なので、こういう質問も自然に出てくるのです。パキスタンやアフガニスタンでも、同じような質問を受けました。

 当方は、日本語のほかは下手くそな英語くらいしか話せないのですが、それではちょっと悔しい。というわけで、「山形弁ももう一つの言葉」と自分に言い聞かせ、見栄を張って「三つ」と答えたりしていました。振り返って、我ながらいじましいと思うのですが、東京暮らしが長くなったら、頼りの山形弁があやしくなってしまいました。母親からは「お前、発音(はづおん)、おがすぐなったなぁ」と言われました。

 方言は語彙も発音も、実に多彩で豊かです。ズーズー弁とさげすまれた時代を経て、1980年代あたりから、見直しと復権の時代に入ったように感じていたのですが、文部科学省とそれを支える国語の専門家たちの考えはどうも違うようです。「日本の伝統と文化」にこだわるあまり、何か大切なことを見落としているのではないでしょうか。



*メールマガジン「おおや通信 97」 2012年12月20日


 今の政治家はてんでダメですが、昔の政治家は例え話がとても上手でした。傑作の一つに「新聞の社説は『床の間の天井』のようなものだ」というのがあります。
その心は?「立派に作ってあるが、だれも見ない」

 社説は、論理展開も書き方もそれなりに立派だが、立派すぎて面白みに欠け、これではだれにも読んでもらえないよ、というわけです。この例えを初めて聞いたのは、2001年春に朝日新聞の論説委員になって間もない頃でした。その巧みさに、自分が当事者の一人であることも忘れて、思わず「うまい!」と唸ってしまいました。

 その夏、山形の実家に帰省した時に「床の間の天井」が実際、どんな作りになっているのか、のぞいてみました。確かに、人が見るところでもないのに、高級な木材を使って立派にしつらえてありました。以来、床の間のある部屋に入ると、失礼も省みず、天井をのぞく癖が付いてしまいました。どれもこれも、実に立派に作ってありました。見えないところにも贅を尽くす、日本人らしい美意識のなせるわざなのかもしれませんが、それにしても、なんとも巧みな例えです。

 感心してばかりはいられません。私は職人気質の記者ですから、「ならば、のぞいてみたくなるような社説やコラムを書いてみよう」と、むきになった記憶があります。それができたかどうか、自信はありませんが、少なくともそのための努力と工夫はしたつもりです。

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オサマ・ビンラディン Osama bin Laden

 以下の文章は社説ではありません。2006年から07年にかけて、朝日新聞の論説委員室が中心になって連載した「新戦略を求めて」の一部です。9・11テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンのことを書くために、彼の父親の故郷を訪ね、その人脈に触れつつ、「テロとの戦いはどうあるべきか」を論じたものです(昔のメールマガジン「つきじ通信」の配信を受けていた人には重複になります。ご容赦ください)。

    *      *      *

 その村は、垂直にそそり立つ岩山のふもとにあった。れんがを積み重ねた家が岩山にへばりつくように並んでいた。イエメン東部、ハドラマウト地方のルバート・バエシェン村。国際テロ組織アルカイダの首領、オサマ・ビンラディン容疑者の父親が生まれ育った村である。

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ビンラディンの父親の故郷(イエメンのルバート・バエシェン村)

 「農地はなく、日雇いの暮らしだったらしい」とハッサン村長は語る。父親はこの村から石油特需に沸くサウジアラビアに出稼ぎに行き、建設会社を興して財を成した。ビンラディン容疑者は、五十数人いるとされる子どもの1人だ。古老によれば、1960年代に一族の者が村に戻って水道や道路の整備をしたことがあるが、今はだれも残っていない。父親は一度も帰省しないまま死去した。ビンラディン容疑者もこの村に来たことはないという。

 インド洋の交易ルート沿いにあるハドラマウトは、昔から多くの移民を出してきた(地図参照)。ビンラディン一族のように仕事を求めて、あるいはイスラム布教のために海を渡った彼らは「ハドラミー」と呼ばれる。もっとも多くのハドラミーを抱えるのはインドネシアだ。ジャカルタにある親睦団体「アラウィー連盟」によると、300万人を上回り、イエメン本国より多い。

ハドラミー地図 shuuseibann.jpg

 2002年のバリ島爆弾テロを皮切りに、インドネシアでは大規模なテロが続発した。これらのテロを実行した過激派「ジェマー・イスラミア」の精神的指導者、アブ・バカル・バアシル師もハドラミーである。ビンラディン容疑者と並ぶ重要人物がイエメンの同じ地方の出身者であることから、テロ対策の専門家たちはその人脈に目を向ける。

 だが、過激派に立ち向かう穏健なイスラム指導者の中にも、実は多くのハドラミーがいる。インドネシアのコーラン研究の権威、クライシュ・シハブ氏もその1人だ。シハブ氏は「罪のない者を巻き込むことをいとわない無差別テロは、イスラムのいかなる教えに照らしても許されない。彼らは病める者たちだ」と断言する。

 インドネシアの治安当局は、こうした穏健なイスラム指導者と連携してテロ集団の孤立化を図ってきた。同時に、オーストラリアから携帯電話の追跡装置、日本からは警察用の通信機器や交番制度のノウハウなどを提供してもらい、テロ対策に生かしてきた。

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ルバート・バエシェン村のハッサン村長と子どもたち

 テロ対策調整官のアンシャド・ンバイ氏は「軍事的な手段でテロを封じ込めても、一時的な効果しかない。捕まえて裁判にかけ、彼らが理念の面でも誤っていることを明らかにすることが何よりも大切だ」と語る。東南アジアのテロ組織の内情に詳しい「国際危機グループ」のジャカルタ代表、シドニー・ジョーンズ氏も「法的な手続きを踏むことの重要性」を説く。インドネシアでは逮捕者の中から捜査に協力する者を獲得し、過激派の切り崩しに成功しつつあるという。

 なのに、米国はキューバのグアンタナモ収容所で、多くのイスラム教徒を裁判なしで拘束し続けている。大義なき戦争を始めてイラクを内戦状態に陥れ、パレスチナ紛争を収拾するための努力も怠っている。平和を求め、イスラムの正義と理念を実現しようとする勢力を、いかに支えるか。テロとの戦いで日本に求められていることである。

 *2007年1月8日付 朝日新聞朝刊 連載「新戦略を求めて」 第5章 イスラムと日本?から
 *オサマ・ビンラディンは2011年5月2日(パキスタン時間)、パキスタン北部に潜伏していたところを米海軍特殊部隊に急襲され、殺害された。




*メールマガジン「おおや通信 96」2012年12月14日


 福島県飯舘村の村民歌は「山美(うる)わしく水清らかな」で始まる。2番は「土よく肥えて人(ひと)情(なさけ)ある」と続く。この歌にある通り、うららかで美しい村だった。

 その村が原発の放射能によって山も土も汚染され、全村避難に追い込まれた。村は電源立地交付金を受け取ったことも、原発の工事で潤ったこともない。難儀だけを背負い込まされた。

 村内に三つあった小学校は、隣の川俣町の工場跡地に建てたプレハブの仮校舎に移転した。同じ敷地に小学校が三つもあるのは福島県ではここだけだ。校庭はテニスコート2面ほどの広さしかない。

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プレハブの仮校舎で学ぶ飯舘村の子どもたち=福島県川俣町

 「大変でしょうって、よく言われます。確かに、幅々とさせられないのはつらいです。でも、村の子どもたちが一緒になったからできることもある。それを生かしたいと考えています」。臼石(うすいし)小学校の二谷(ふたつや)京子校長は言う。
全村避難で村民はバラバラになった。けれども、震災前の小学生の6割、222人が福島県内の避難先からスクールバスでこの仮設の小学校に通っている。

 飯舘村では汚染土などの除染作業がようやく始まったが、盗難防止のため村内を巡回している住民は浮かぬ顔で言った。
「放射線量が下がっても、村に戻るのは年寄りだけだろう。子どもがいる若い人は戻らないのではないか。このままでは、年寄りだけの村になってしまう」

 村の広瀬要人(かなめ)教育長は「そうかもしれない」と認める。「それでも」と教育長は言うのである。「これだけ多くの親が覚悟を決めて『飯舘の子は飯舘の学校で育てたい』と通わせてくれている。すぐには戻れなくても、いつか、この子たちが復興の担い手になってくれるのではないか。その種をまくつもりで頑張りたい」

 もっとも厳しい試練にさらされた人たちが、かくも高く希望の旗を掲げている。原発事故を防げず、右往左往した人たちよ。恥ずかしくはないのか。

    *2012年12月14日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(9)






*メールマガジン「おおや通信 95」 2012年12月2日


 人との出会いに加えて、本との出会いも、その人の歩みに重大な影響を及ぼします。私にとっては、インドネシアの作家、プラムディヤの小説『人間の大地』との出会いがそうでした。

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76歳のプラムディヤ(2001年、撮影・千葉康由氏)。5年後、81歳で亡くなった

 インドに続いて、1999年からインドネシアに特派員として赴任した私は、騒乱と暴動、腐敗と不正の取材に追われ、へとへとになっていました。「殺伐とした出来事だけでなく、潤いと深みを感じるものも取材したい」と願う日々。そんな時に手にしたのが大河小説『人間の大地』(押川典昭訳、出版社「めこん」)でした。

 19世紀末から20世紀初めにかけて、オランダの植民地支配下で独立をめざして立ち上がり、押しつぶされていく若者たちを描いた作品です。「インドネシアのような大きな国(地域)がなぜ、オランダのような小さな国に支配されるに至ったのか」。プラムディヤは自らが抱いた根源的な疑問を解きほぐすために、政治犯の流刑地ブル島での過酷な生活に耐え、この『人間の大地』に続いて『すべての民族の子』『足跡(そくせき)』『ガラスの家』の4部作を書き上げたのだと思います。

 スハルト独裁政権は、プラムディヤの作品を「マルクス・レーニン主義を広め、社会の秩序を乱す」として次々に発禁処分にしました。このため、インドネシア国内ではほとんど知られておらず、海外で翻訳出版されて広く知られるようになりました。

 仕事の合間に、文字通り、むさぼるように読みました。それだけでは満足できなくなり、作家本人に会って、いろいろと聞きたくなりました。ジャカルタの旧市街にあるプラムディヤの自宅に通い、時にはボゴール郊外にある畑付きの別邸まで行って、本人がしゃべりたくないこと(共産党系の文化団体のリーダーとして他の文学グループを激しく攻撃したこと)もズケズケと聞きました。

 30年あまり新聞記者として働きましたが、1人の人間にこんなに何回も長時間にわたって話を聞いたのは、プラムディヤが最初で最後になりました。そのインタビューをもとに、ジャカルタを離れる前(2001年3月)に夕刊に4回の連載記事を書きました。

 連載記事(1)?(4)は、このNPO「ブナの森」の「事務局ブナの森」→「雑学の世界」というコーナーにあります。ご一読ください。


*メールマガジン「おおや通信 94」2012年11月16日


 「近いうち」がついにやって来て、衆議院の解散、総選挙となりました。こんなに気の乗らない選挙は記憶にありません。民主党にはあきれましたが、自民党に託す気にもなれません。かといって、巷で話題の「第三極」の看板は、あの橋下徹氏やかの石原慎太郎氏。これでは「もっと深い失望を味わうことになるだけ」と、ますます冷めた気持ちになってしまいます。
 というわけで、総選挙にはあまり関心が湧いてきません。しばらく前、秋田県境にある山形県の金山町を訪ねた時につらつら考えたことをお送りします。

          ◇           ◇

 税金をどう使ったのか。政府や自治体は納税者にきちんと説明しなければなりません。今では多くの人が「ごく当たり前のこと」と考えるようになりました。そのためにつくられた情報公開制度も、すっかり定着しました。

 けれども、この制度ができるまでには、ずいぶんと時間がかかりました。政治家や官僚たちがあれこれと理由をつけて抵抗したからです。税金の中身と使い道を熟知する側は「自分たちだけの秘密の壁」をいつまでも維持しようとしたのです。

 都道府県の中で、この情報公開制度を最初につくったのは神奈川県でした。1983年(昭和58年)のことです。「地方の時代」をスローガンに掲げ、革新陣営の期待の星だった当時の長洲一二(ながす・かずじ)神奈川県知事が条例づくりを主導しました。

 当時、私は横浜支局の駆け出し記者でサツ回り(警察担当)をしていました。県政担当のベテラン記者や遊軍記者が情報公開の意義と役割を書きまくっているのを、まぶしい思いで脇から見ていました。長洲知事も一線の記者たちも「開かれた、新しい社会への道を切り拓くのだ」と燃えていました。

 ところが、神奈川県は「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」にはなれませんでした。その前年の1982年に山形県の金山町が情報公開条例を制定し、「最初の自治体」になってしまったからです。なぜ、東北の小さな自治体がこういう大きな意義を持つ制度を神奈川県より先につくることができたのか。情報公開制度のことを直接、取材したことのない私は、ずっと不思議に思っていました。

 この秋、金山町を訪ねて、その謎が解けました。新しいことに果敢に挑戦していた当時の岸宏一・金山町長(現在は山形県選出の参議院議員)が、学生時代の知人で朝日新聞の記者をしていた田岡俊次氏に情報公開の制度づくりを強く勧められて決断した、ということでした。田岡氏は、官僚の乱費と腐敗を追及した調査報道や軍事・防衛問題の専門記者として知られる敏腕記者ですが、情報公開条例づくりにも一役買っていたとは知りませんでした。

 都道府県が公文書を開示するとなると、警察の情報をどう取り扱うかなど厄介な問題がいくつか出てきます。そうした難題に対処している間に、金山町がさっさと条例を制定してしまったのです。神奈川県は長い時間と膨大なエネルギーを費やしましたが、「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」として歴史に名を残すことはできませんでした。

 金山町は情報公開に先鞭をつけたこと以外にも、1960年代から景観を重視した街並みづくりをしてきたことでも知られています。地元の杉を生かした、切り妻屋根と白壁、下見板の住宅づくりを奨励し、自然石を使った堰(せき)をめぐらして潤いのある街並みをつくってきました。欧州の経験から学ぶために、町民をドイツに派遣する事業も続けています。実にユニークで面白い町です。

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切り妻屋根と白壁、杉の下見板が特徴の「金山住宅」

 ともあれ、情報公開制度はその後、都道府県レベルでも市町村レベルでも全国に広がりました。しかし、自民党の歴代政権はなかなか情報公開に踏み切ろうとせず、国の情報公開法が施行されたのは2001年の春、森喜朗政権の末期です。金山町の条例制定から、実に19年後のことでした。

 戦後日本の政治システムと官僚制度は、経済成長が続いている間はそれなりによく機能していました。しかし、成長期を過ぎ、経済が停滞し始めてから、おかしくなりました。中央の諸制度が牽引役ではなく、改革の阻害要因になり始めたのです。情報公開をめぐる動きは、それを象徴的に示すものでした。

 硬直した制度が何をもたらすのか。去年の東日本大震災で、私たちはいやになるほど見せつけられました。「阻害要因としての中央」がその極に達した結果が福島の原発事故だった、と私は受けとめています。

 停滞から抜け出すための「改革の風」は今、生活の現場、つまり地方から吹き始めています。金山町に限らず、時代の流れを見極め、困難な事に挑戦している自治体や地方の組織はたくさんあります。さらに成熟した社会への道を切り拓くために、地方で踏ん張る人たちの背中をもっと押していきたい。        (完)






*メールマガジン「おおや通信 93」2012年11月9日


 おばあさんが孫に昔の苦労話を語って聞かせた。
「ばあちゃんが小さい頃は食べる物がなくってねぇ。お腹をすかせて、よく泣いていたよ」
孫は不思議がって、首をかしげながら尋ねたという。
「おばあちゃん、どうしてコンビニに行かなかったの?」

 今の子どもたちにとって、食べ物とはお金さえあれば自由に手に入るものである。「ひもじくて泣く」という経験もしたことがない。それは幸せなことなのだが、幸せには不幸が付いて回るのが世の常だ。飽食の時代には、また別の苦しみが待っていた。

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大谷小の畑で育てたサトイモで調理師さんに芋煮を作ってもらい、近くの里山で青空給食を楽しんだ

 小学校の校長になって驚いたことの一つは、アトピー性皮膚炎をはじめとするアレルギー疾患の多さだった。卵アレルギー、そばアレルギー、パイナップルアレルギー……。自分が子どもの頃には聞いたこともないような病気で苦しんでいる子がたくさんいる。

 アトピーの原因については諸説あり、いまだに解明されていない。研究者は自分の専門にこだわりすぎて、迷路に陥ってしまっている印象を受ける。私が「もっとも説得力がある」と感じたのは、高雄病院(京都市)の江部(えべ)康二医師の説明だ。江部氏は、アトピーが昭和30年代から増え始めたことに目を向ける。

 経済成長に伴って、農民は農薬をジャブジャブ使うようになった。食品を流通させるために、防腐剤や添加物が惜しみなく投入された。こうした化学物質は、今や全体で数万種類に及ぶ。「もともと人間には自然治癒力があるが、それにも容量がある。それを超えた場合、さまざまな症状となって現れてくるのではないか」と江部氏は説く。

 一つひとつの化学物質には使用上の規制がある。しかし、全体を見ている人間はどこにもいない。「健康には直ちに影響はない」という、原発事故の時に聞いた言葉が虚ろに響いてくるのである。

 *11月9日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(8)
  見出しと改行は紙面とは異なります。






*メールマガジン「おおや通信 92」 2012年10月26日


 大谷小学校の5年生は毎年、地域の方から「現役の田んぼ」をお借りして米作りの勉強をしている。泥にまみれて田植えをし、実った稲穂を秋に刈り取る。

 収穫した稲は天日干しして脱穀するのだが、この作業にも力を入れる。指南役の小野昇一郎さんが千歯こきと足踏み式の脱穀機、それにハーベスター(自走型脱穀機)を用意してくれるのだ。大きな櫛(くし)のような千歯こきは江戸時代、足踏み式は明治から戦後にかけて、ハーベスターは最近まで脱穀の主役だった。農機具の改良と進歩の歴史を体験しながら学ぶことができる。

学びの庭7千歯こき(遠藤秀彦)修正.JPG

 「千歯こきでの脱穀は、とても力のいる仕事でした。昔の人は大変な仕事をたくさんしていたんだなぁと感じました」

 生徒はそんな感想文を書いた。いつも食べているご飯に、これまでどれほど多くの人々の汗が注がれてきたことか。かすかにではあっても、感じ取ることができたのではないだろうか。本を読んだり、話を聞いたりしただけでは得られない、農村の小学校ならではの「生きた授業」の成果である。

 この授業には「続編」もある。脱穀した後の稲藁(いなわら)を使って縄をない、みんなで正月用の注連(しめ)飾りを作るのだ。自分の分だけでなく、お世話になった方々の分も作ってプレゼントする。

 稲藁は長い間、縄や俵など農民の生活に欠かせないものの材料として使われてきた。けれども、現代の収穫作業の主役、コンバインは刈り取りから脱穀まで一気にこなし、稲藁は裁断して田んぼにまいてしまう。稲藁にしてみれば、さぞかし寂しいことだろう。

 わずかな量ではあっても、注連飾りとしてお正月の玄関を彩ることができれば、稲藁も少しは救われるのではないか。そんな思いを込めて、今年も注連飾りの縄をなうことにしよう。

 *10月26日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(7)
  見出しと改行、写真(遠藤秀彦さん撮影)は紙面とは異なります。







*メールマガジン「おおや通信 91」 2012年9月14日


 この夏、伊豆半島で開かれたセミナーで、天皇陛下の心臓バイパス手術を執刀した天野篤(あつし)・順天堂大教授の話を聞く機会があった。

 心臓の冠動脈のバイパス手術は、麻酔で心臓の動きを止め、人工心肺を使って行うことが多い。心臓が動いている状態では太さ数ミリの血管を縫い合わせるのは至難の技だからだ。天野さんはその「至難の技」に挑み続けてきた。病院で寝泊まりし、自宅にはほとんど帰らなかった。家族には「父親はいないもの、夫はいないものと思ってくれ」と言っていたという。

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伊豆半島のセミナー会場の近くで出合った野生の鹿

 順風満帆の人生を歩んできた人ではない。進学校に入ったものの成績は中くらい。3浪して日大医学部に合格した。病院の勤務医として現場で腕を磨き、心臓血管外科の頂点に上りつめた人だ。「偏差値エリートを集めても勝負には勝てない。知識と経験をいかにして統合するかが大事だ。この世の中では、偏差値50前後の人間が大切」と言う。

 教育の世界では、いまだに偏差値が幅を利かせている。個々の生徒や学校全体の学習の到達度を測る尺度として、偏差値は重要である。だが、あくまでも「重要な尺度の一つ」でしかない。

 「そんなきれい事はたくさんだ。世間は結局、有名校への進学数でしか評価してくれないではないか」と反論されそうだ。確かにそういう現実がある。だから、偏差値を片手に教育長が校長を締めあげ、校長が教師を責め立てるような自治体も出てくるのだろう。

 だが、天野教授は「例外中の例外」なのだろうか。そうではあるまい。長く生きていれば、人間には偏差値に劣らないくらい重要な尺度がいくつもあることを肌で知るようになる。時代の流れが変わる時、価値の尺度もまた大きく変わる。あの大震災から1年半。流れは間違いなく、変わりつつある。

 *9月14日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(6)
見出しと改行は紙面とは異なります。






*メールマガジン「おおや通信 90」 2012年9月3日


 5月18日の「おおや通信82」でお伝えした通り、今年は大谷小学校の子どもたちに「いのち」をテーマにして、一連の校長講話をしています。毎月一度、わずか15分間の話ですが、1年生から6年生まで全員が分かるように話すのは容易なことではありません。もちろん、子どもだましの話でお茶を濁すわけにはいきません。

 というわけで、校長として話をする前には、必ず山形県立図書館に行って本をあさり、ネットでも十分に調べることにしています。講話は4月の「いのちと地球」から5月の「いのちと太陽」、6月「いのちと水」、7月「いのちと土」と続いていますが、いつも頭から離れないのは「生命はどのようにして生まれたのか」「進化を決定づけるものは何か」という根源的な疑問です。

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カナダのバージェスで発見された奇妙な動物マルレラ Marrella の復元図

 これらの問題については、ハーバード大学の古生物学者、スティーヴン・ジェイ・グールド教授が1989年に出版した『ワンダフル・ライフ』(邦訳は1993年、早川書房)という本が有名です。この本は、恐竜が生きていた時代よりずっと古い時代の地層から発見された膨大な数の化石群を扱ったものです。カナディアン・ロッキーのバージェスという場所から発見されたカンブリア紀(5億4200万年前?4億8830万年前)の化石群で「バージェス頁岩(けつがん)動物群」と呼ばれています。

 グールド教授は、カンブリア紀に生物の爆発的な進化が起き、現代につながる動物の先祖のすべてがすでにこの時代には登場していたこと、しかもそのうちのかなりの動物がその後、絶滅したことを指摘しました。生物の大量絶滅は地球上で何度も起きていることも力説しています。そして最後に、ナメクジのような「ピカイア」という脊索(せきさく)動物を紹介し、これが人間を含むすべての脊椎動物の先祖である可能性を示唆して世界的なセンセーションを巻き起こしました。

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古生物の化石群があることで澄江は世界自然遺産に登録されました

 古生物に関する私の知識は19年前に読んだこの本で止まっていたのですが、今回、小学校で話すにあたって、その後の研究の進展状況を調べてみました。その結果、中国雲南省の澄江(チェンジャン)でもカンブリア紀の動物の化石が大量に見つかり、それまでの説を覆すような発見が相次いでいることを知りました(宇佐見義之著、技術評論社『カンブリア爆発の謎』を参照)。

 また、「古生物学界の教皇」と呼ばれたグールド教授に対抗するように、大英自然史博物館の古生物学者、リチャード・フォーティ氏が1997年に『ライフ』(邦題は『生命40億年全史』、2003年に草思社刊)を出版し、生命の起源に関する壮大な物語を展開していることも知りました。

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英国の古生物学者リチャード・フォーティ氏 Richard Fortey

 この本は、地球上に最初に誕生した生命は長さ数千分の1ミリの細菌であろうと考えられること、しかも、当時の地球の大気には酸素はなく、水素と二酸化炭素を利用して生きるメタン生成細菌と考えられる、と述べています。つまり、地球上で今生きている生物の中でこの「生命の元祖」にもっとも近いのは、光も届かず酸素もない深海の熱水鉱床の噴き出し口で生きている細菌だろうということです。

 地球で生まれた小さな細菌が長い時を経て大いなる進化を遂げ、やがて人間を含む多様な生物を生み出すに至るまでの気が遠くなるような長い物語に触れ、地球と生命に関する英米の分厚い知の蓄積に圧倒される思いでした。グールド教授のベストセラー『ワンダフル・ライフ』もすごい本ですが、このフォーティ氏の『生命40億年全史』は一人の研究者の物語としても読み応えがあります。時間に余裕のある方には、ぜひ一読をお薦めします(時間が足りない方には、宇佐美義之氏のコンパクトな『カンブリア爆発の謎』がお薦めです)。

 最近、NHKがドキュメンタリー番組で「生命は隕石に乗って火星から飛来した」という新説を紹介していましたが、その場合でも「では、火星のどういう環境の下で生命は誕生したのか」という疑問が残ります。そして、やはり「酸素もない環境で誕生した細菌こそ生命の起源」という物語が語られるのかもしれません。

 これらの本の内容は、小学校での15分間の講話ではとても語れませんが、せめてその香りだけでも伝えたいと考えています。9月の校長講話のテーマは「土とミミズ」の予定です。ミミズの研究に40年の歳月を費やしたというチャールズ・ダーウィンのことに触れつつ、ミミズの不思議を語るつもりです。





*メールマガジン「おおや通信 89」2012年8月30日


 教育現場への風当たりが強い。大津市で起きた中学生の自殺事件についての市教育長と中学校長の不誠実な対応によって、現場への非難はピークに達した感がある。

 一人の人間が13歳という若さで自ら命を絶った、という事実は重い。学校で何があったのか。それが自殺とどのようにかかわっていたのか。どんなにつらくても、関係者は事実を正面から受けとめ、見つめなければならない。それは教育者というより、一人の人間としてなさねばならぬことである。報道を通して伝えられる市教育長と中学校長の言動からは、その覚悟が感じられない。命が失われたことへの「畏(おそ)れ」がうかがえない。

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 警察が強制捜査に乗り出したことについて「教育の問題に警察が介入するのはいかがなものか」と異論を差し挟む人がいる。おかしな論理である。「いじめ」がエスカレートすれば、ある段階からそれは暴行、傷害、恐喝といった犯罪に転じる。学校が対処できるうちは警察は控えていればいいが、その範囲を超えれば刑事事件として捜査するのは当然のことだ。

 「生徒が動揺する」と言う人もいる。その通りだろう。しかし、事実を隠蔽し、あいまいにすれば動揺は収まるのか。大人たちが苦悩する姿を見せる。そして、何が起きたのか可能な限り明らかにする。激しい心の揺れを静めるためには、そうするしかないのではないか。

 大きな事件が一つの小さな過ちによって起きることは、まずない。過ちに過ちが重なり、さらに重大な判断ミスが折り重なった時に、噴き出すものだ。大津市の事件もそうしたケースと考えるべきであり、今は折り重なった過ちを一つひとつはがして検証作業を進めていくしかあるまい。

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 新聞記者として30年余り働いた後、早期退職して故郷の山形県で民間人校長になって4年目を迎えた。教育の一線に身を置いて違和感を覚えるのは、大津市のような事件が起きると、それがすぐに「今時の学校は」と一般化され、押し寄せてくることだ。

 学校はそんなにひどいのか。 実際に校長として働いてみて、「そんなことはない」と強く思う。むしろ、日本の教育にはまだ底力がある。教師の多くは誠実に自らに課せられた職務を果たしている。気骨のある教師も少なくない。

 小学校の校長になって間もなく、近くのキャンプ場で2泊3日の宿泊体験学習があった。5、6年生がテントを張り、5回の食事を自分たちだけで作るハードな合宿である。マッチと古新聞、それに炊事5回分の薪(まき)と食器が班ごとに子どもたちに配られた。食材はその都度、渡される。1日目の夕食のメニューはカレーライスだった。何となく浮き浮きしていた私は、6年担任の教師にこうくぎを刺された。

 「火の焚(た)き方も調理の仕方も一切、教えないでください」
それでカレーライスはできるのか。心配して尋ねると、担任は涼しい顔で言い放った。
「いいんです。失敗して、泣いて覚えればいいんです」

 私が勤める小学校は農村にある。今や農村の子どもたちですら、火の焚き方を知らない。かまどにドテッと薪を置き、古新聞を丸めて火をつけている。これでは勢いよく燃え上がるわけがない。それでも、容赦なく夕食の時間になる。子どもたちは、ポロポロのご飯に生煮えの「カレースープ」をかけて食べていた。泣きべそをかいている子もいた。先生たちは別のかまどで、ちゃんとしたカレーライスを作って食べた。

 よほど悔しかったのだろう。先生たちはどうやって火を焚いているのか。翌朝から、必死になってまねをし始めた。そうやって、3日目にはどの班でも、ちゃんとご飯を炊けるようになった。優しく教えるだけでは子どもは育たない。時には突き離して、追い付くのを待つ。民間人校長の私が口を出すまでもなく、実にまともな教育が行われていた。

 去年の5年生の稲作の学習にもうなった。地元の人の田んぼをお借りして田植えから稲刈りまで体験した後、刈り取った稲藁(いなわら)で縄をなう学習をした。さらに、その縄でお正月用の注連(しめ)飾りを作った。身近にあるものを使いきる、優れた実践である。
 山形県の高畠町には、学校給食で使う野菜の半分以上を生徒たちが自ら作っている学校がある。二井宿(にいじゅく)小学校という。野菜の有機栽培をするだけでなく、この小学校ではモチ米を育て、生徒たちが地元の独り暮らしのお年寄りに励ましの手紙を添えて配って歩く。すごい学校である。

 不祥事は不祥事として厳しく追及されなければならない。任に堪えない校長や教師がいるなら、退いてもらう必要がある。だが、そうしたことにかこつけて、教育の現場全体をたたくような風潮は改められるべきだ。これでは意欲のある教師まで萎縮してしまう。

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 不祥事があるたびに、文部科学省が偉そうな通知を出してくるのも耐え難い。教育の一線に細々と口出ししてきた習性から抜け出せないのだろう。いざという時、文部科学省をはじめとする中央の官僚たちがいかに頼りにならないか。私たちは東日本大震災を通して、骨身に染みて思い知らされた。

 巨費を投じて開発した放射性物質の拡散予測システムは、ほとんど役に立たなかった。震災前、原発推進の国策に沿って、文科省は「原発事故の心配はない」という副読本を全国の小中学生に配布し、事故後にすごすごと撤回した。にもかかわらず、今度は「放射線はスイセンからも出ている」という副読本を全国に配布し、除染に苦しむ人たちから猛反発を受けた。度し難い人たちである。

 東京が細々と指示を出し、地方がそれに従う。そんな時代はもう終わりにしなければならない。東京は大きな、揺るぎない方針を指し示す。地方は自分たちの実情に合わせて工夫を凝らす。それを東京にフィードバックし、必要に応じて助言を受ける。互いに支え合う関係へと変えていかなければならない。

 私たちは「難しい過渡期」を生きている。冷戦は終わったが、新しい国際秩序はまだ見えない。インターネットの普及が政治と経済の在り様をがらりと変え、グローバル化を加速する。豊かにはなったものの、少子高齢化が進み、かつてのような活力はない。

 未来は厳しい。だが、まだ力はある。問題は、まだある力を最大限に発揮するための変革を、自分たちの力で成し遂げられるかどうかだ。新しい道へと踏み出す覚悟はあるのか。私たち一人ひとりが問われているのである。

  *京都に本社がある宗教の専門紙「中外日報」(8月28日付)に掲載された小論です。
   中外日報から依頼されて寄稿しました。





*メールマガジン「おおや通信 88」 2012年8月10日


 本業のほかに名刺をもう1枚作ろう。そんなスローガンを掲げて、3年前に東京で小さなNPO(非営利組織)が産声を上げた。「二枚目の名刺」というNPOだ。

 「仕事に精を出しつつ、社会貢献活動にも取り組もう。それが自分を変え、やがて社会をも変えていく。一歩、踏み出そう」。代表の廣(ひろ)優樹さんはそう呼びかける。仕事一筋の生き方から、複線型のゆったりとしたライフスタイルへの転換を訴えている。

 小学校の校長をしながら、私も地域おこしの活動を始めた。過疎化が進む故郷が少しでも元気になる道はないのか。地域を歩き回り、周りの人たちと語り合う中で目を向けたのが最上川だった。「母なる川」という美名とは裏腹に、最上川は汚れが目立つ。地元の人たちは、大人も子供もあまり近づかなくなった。

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カヌーの愛好家が「日本一の流れ」と激賞する最上川の「タンの瀬」

 そんな中で、朝日町にある最上川の激流に集う人々がいた。カヌーの愛好家である。首都圏や関西から来た人たちに聞くと「ここの流れは日本一だ」と言う。一緒に最上川をカヌーで下ってみた。私はまったくの初心者。たちまち転覆し、しこたま水を飲んでしまった。だが、そこには確かに、見たこともない厳かな風景が広がっていた。

 2年前に「ブナの森」というNPOを立ち上げ、カヌーで最上川を50キロほど下る企画の実現に乗り出した。速さを競うレースではなく、1泊2日で最上川の流れを楽しむイベントを目指した。資金は寄付頼みで、心もとない。昨年の大震災後は活動も停滞した。それでも、地域おこしを支援してくださる方々やカヌーの愛好家に支えられて、7月末になんとか開催に漕ぎ着けた。

 イベントの名称は「最上川縦断カヌー探訪」という。これで地域が元気になるのか。定かではない。けれども、人と人とのつながりは確実に広がった

 *8月10日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(5)
  写真は紙面に掲載されたものとは異なります。



*メールマガジン「おおや通信 87」 2012年8月4日


 故郷の山形県朝日町で地域おこしのNPO「ブナの森」を旗揚げしてから2年半。準備を重ねてきた最上川縦断カヌー探訪の第1回大会をようやく開催することができました。これまで物心両面で支えてくださった皆様に、あらためて深く感謝いたします。

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 カヌー探訪は7月28日(土)、29日(日)の両日、開かれました。真夏の太陽がギラギラと照りつける中、1日目は21人、2日目は22人が最上川の中流域(長井市?白鷹町?朝日町?大江町?寒河江市?中山町)の53?メートルをゆったりと下り、最上川の流れと景観を堪能しました。都合で1日目だけ、あるいは2日目だけ参加した方もいらっしゃいますので、実際に川下りを楽しんだ方は24人でした。これを30人余りの陸上スタッフがサポートしました。

 参加者は山形県内のカヌーイストにとどまらず、東京や埼玉からも駆けつけてくださいました。朝日町の周辺には鉄道の路線がありません。「最上川のこの辺を下ってみたくても、アクセスがあまり良くないので挑戦できませんでした。今回の企画で、ようやく念願が叶って下ることができました」と言ってくださった方が何人もいらっしゃいました。

 最上川の中流には、朝日町に上郷ダム(最大出力1万5000?ワット)という大きなダムがあり、カヌーで一気に下ることはできません。このため、上郷地区で一泊して2日かけて川を下るイベントになりました。上郷地区の方々には棚田米で作ったお握りや山形名物の芋煮、収穫したばかりのジャガイモやサヤエンドウを使った味噌汁などの食事を提供していただきました。「山形らしい食事」と、とても好評でした。また、ダムの下流にある赤釜(あかがま)地区の皆様にも全面的に協力していただきました。

 「ブナの森」が調べた範囲では、カヌーによる50キロを超える川下りは、北海道の天塩川カヌーツーリング(150キロ)と釧路川カヌーレース(100キロ)に次ぐ、日本で3番目に距離の長いカヌーイベントとみられます。来年以降も7月末に開催して実績を積み、将来は少しずつ距離を延ばして、最上川が日本海にそそぐ酒田市になんとか到達したいと考えています。

 そのためには、最上川の中流や下流のカヌー愛好者とネットワークを築いて連携する必要があります。その意味では、今回のカヌー探訪に山形市や酒田市、鶴岡市のカヌーイストが多数参加してくださったのは、心強いかぎりです。第1回の成果と課題をしっかりと総括して、来年のカヌー川下りに備えたいと考えているところです。今後とも、ご理解とご支援をよろしくお願いいたします。

 *朝日町のホームページに、カヌー探訪の記事と写真が掲載されました。次のURLをクリックしてください。
http://www.town.asahi.yamagata.jp/





*メールマガジン「おおや通信 86」 2012年7月13日


 今の子どもたちにとって、炎とは「青いもの」である。スイッチをひねれば、青いガスの炎が勢いよく噴き出してくる。長い間、人間が使いこなしてきたのは赤い炎なのだが、今やそれを目にする機会はめったにない。学校教育で「赤い炎」を教えなければならない時代になった。


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宿泊学習では、みんなでドラム缶風呂に入ります。子どもたちに大人気です

 
 大谷小学校では、それを朝日少年自然の家(大江町)での宿泊学習で教えている。野外での2泊3日のテント生活である。
「火の焚き方も、調理の仕方も一切、教えないでください」
テントを張り終わって間もなく、私は6年担任の教師から、くぎを刺された。「それでは、まともに煮炊きできないんじゃないの」と心配する校長に、この教師は涼しい顔で言い放った。
「いいんです。失敗して、泣いて覚えればいいんです」

 1日目の夕食はカレーライス。案の定、子どもたちはまともに火を焚くことができない。かまどにドテッと薪を置き、その上に古新聞をかぶせて火をつけている。これでは燃え上がるわけがない。それでも容赦なく、夕食の時間になる。ポロポロのご飯と生煮えの「カレースープ」を口にして、泣いている子もいた。
 翌朝から、おいしいものを食べたい一心で、みんなが火の焚き方を必死になって覚えようとする。そうやって、3日目にはどの班でも、ちゃんとご飯を炊けるようになった。
 
 テント場のわきのトイレは汲み取り式である。水洗トイレしか知らない子の中には「できない」と泣きベソをかく子もいる。ここでも、子どもたちは泣きながら学ぶのだ。あらゆる動物は、食べなければ生きていけない。同時に、排泄しなければ苦しみ、やがては死んでしまうことを。

 保護者からは「水洗トイレにしてほしい」といった声も寄せられるという。そんな声に屈してはならない。世の中には「親の気持ち」より大切なこともある。

*7月13日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(4)





*メールマガジン「おおや通信 85」 2012年7月6日


 自分の出身県ながら、このごろ「山形県は偉いなぁ」と、つくづく思います。
 昨年の東日本大震災の後、ガソリンや灯油が手に入らず、みんなとても困りました。それでも、山形県内では不満を口にする人はあまりいませんでした。「まずは津波の被災地に早くガソリンを届けなければいけない。私たちは我慢しよう」。そう思い定めて、みんなで耐え忍びました。

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大津波に襲われた宮城県石巻市の沿岸部の惨状(2011年4月24日)

 岩手県や宮城県の被災地が膨大な量のがれきの処理に困っていると知るや、真っ先に受け入れを表明したのも山形県でした。「頑張れ!東北」などと声高に叫びながら、いざ自分の所でがれきを受け入れる段になると「放射能で汚染されている恐れがある」といった住民のクレームを理由に受け入れを渋る自治体が多い中で、その潔さは際立っていました。

 福島県からは、原発事故の影響で小中学生の県外脱出が相次いでいます。その子どもたちを一番多く受け入れているのも山形県です。米沢市や山形市の奮闘ぶりには、本当に頭が下がります。

 「まさかの時の友こそ真の友」という英語の格言があります。
  A friend in need is a friend indeed.
 高校の英語の授業で教わりました。忘れられない格言の一つです。
困っている時に手を差し伸べてくれる友人こそ本当の友人、という意味です。山形の人たちの行動こそ、その良いお手本でしょう。

 こうしたことを外に向かって宣伝しないのも、山形らしいところでしょうか。正直者が馬鹿を見る貧しい社会から、正直者がきちんと報われる豊かな社会へ。難しい道かもしれませんが、そうした社会に向かって一歩ずつ進んで行きたい。

 *大谷小学校のPTA便り「おおや」第88号(平成24年6月15日発行)の
連載コラム「豊かさとは何か(10)」に加筆





*メールマガジン「おおや通信 84」2012年6月15日


 会議や研修会で校長が大勢集まると、休憩時間によく給食の話になる。息抜きの時間なので、本音がストレートに出てくる。「給食が飛び抜けておいしい」と評判なのは高畠町である。有機農業の里として全国に知られているだけあって、そもそも食材がいいのだろう。調理師さんたちも頑張っているからに違いない。

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大谷小学校では学年ごとに学校の畑で野菜を栽培しています。1年生が作っているのは
ピーマン、サツマイモ、トウモロコシ、トマトの4種類。一部は給食の食材にします


 その対極にあるのが山形市だ。「給食の時間がつらい」とこぼす校長が多い。私も何度か食べたが、お世辞にも「おいしい」とは言えない。ついこの間も、山形市から別のところに異動になった校長が「ホッとした」と話していた。
 評判が悪くて当然である。山形市は大規模な給食センターで2万食以上をまとめて作り、51の小中学校に配送している。調理師さんがどんなに腕を振るっても、炊き立てのご飯を提供する自校給食にかなうはずがない。

 どこの市町村も財政は火の車だ。人件費の削減を迫られ、給食を民営化する動きが広がっている。給食センターで一括して作れば、経費が浮くのは確かだろう。
 しかし、食は学力、体力すべての基盤である。そこに金と力を注ぎ込むことを惜しんで「子どもは地域の宝です」などと言っても、誰も信用しないだろう。

 「民営化しても、おいしい給食を出すことはできる」と言う人もいる。理屈はそうだが、現実はそんなに甘くはない。企業はもうけを出さなければ立ち行かない。それは逃れられない定めであり、給食の質に必ず跳ね返ってくる。
 自校給食を民営化すれば、調理師さんは職員会議に出て来なくなる。子どもと接する大人たちが一体となって教育にあたるチームワークが崩れる。これはコスト論では推し量れない大きな損失である。

 目に見えないもの。数字では表せないもの。それをたぐり寄せる英知こそ、今、求められているのではないか。

  *6月15日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(3)
  *改行個所や写真の説明は一部、新聞のコラムとは異なります。






*メールマガジン「おおや通信 83」2012年5月27日


 3年前に私が校長として赴任した時、大谷小学校の生徒は89人でした。その後、90人、80人と増減し、4年目の今年は78人になりました。閉校になる心配は当面ありませんが、これからもじりじりと減り続けます。
 では、明治6年の創立以来、大谷小の生徒数が一番多かったのはいつか。校長に成りたてのころ、調べたことがあります。「きっと、戦後のベビーブームのころだろう」と思いました。
 男たちが戦場から続々と故郷に戻ったのは、昭和20年から23年ごろでした。厚生労働省の統計によると、日本の赤ちゃん誕生のピークは昭和24年で269万人です。ならば、小学校の生徒数のピークは昭和30年前後になるはずです。
 ところが、意外なことに大谷小の生徒数のピークは昭和21年の716人でした。疑問に思いながらも「戦争が始まる前に生まれた子どもが多かったのだろう」と、漠然と考えていました。
 最近、そうではなかったことを知りました。私の小学校時代の恩師(81歳)が大谷小を訪ねてきて、こんな昔話をしてくれたからです。
 「女学校を出たばかりで、私はまだ16歳でした。そのころ(昭和22年)は先生が足りなくてねぇ。なんとか教壇に立ってくれないかと頼まれて、西五百川(にしいもがわ)小学校の先生になったんですよ。初めて持った学級の子どもが54人。疎開してきていた子も多くて、地元の子とよく喧嘩になっていました」
 当時を知る年配の方に確認したところ、西五百川小だけでなく、町内のほかの小学校にも疎開児童がかなりいた、とのことでした。農村では、戦争による疎開が生徒数のピークを変えるほど多かったのです(私は昭和28年生まれ、小学校入学は昭和34年です)。

 時はめぐり、今、「第二の疎開」とも言うべき現象が起きています。原発事故によって多くの児童生徒が福島県から逃げ出しました。文部科学省の調査によれば、その数は昨年の9月時点で1万1918人でした(幼稚園、小中学校、高校の合計)。最も多く受け入れているのは山形県です。福島県と境を接する米沢市や、県庁所在地の山形市が主な受け入れ先になっています。
 子どもが追い立てられ、逃げなければならない――時代背景も理由も異なりますが、なんとも切ないことが21世紀の日本で起きています。しかも、その「第二の疎開」が原発事故から1年以上たった今の時点でもそれほど減っていないのです。
 米沢市の教育委員会によると、同市に避難してきた小中学生は昨年12月の267人がピークで、徐々に福島県に戻って減る傾向にありましたが、この春になってまた増え、262人に達したそうです。「原発のある福島県の浜通りではなく、(福島市や郡山市がある)中通りからの転校生が増えているのが特徴です。とくに小学1年生がたくさん転校してきました」と市教委の担当者が説明してくれました。
 政府が「原発事故の収束宣言」をし、「食品の放射能汚染はしっかり検査をしています」と言ってみても、子を持つ親は信じていません。自分で判断し、自分にできる方法でわが子を守ろうとしているのです。
 この期に及んでも、原発建設を推進してきた人たちの中には「脱原発など絵空事だ」と言い張り、電力の原発依存を維持しようとする人たちがいます。その人たちに、私は問うてみたい。「あなたには、自ら福島原発の近くに住み続ける覚悟がありますか。わが子を、自分の家族を、自分の親を住まわせ続ける覚悟はありますか」と。
 即座に「もちろん」と答えることができる人とならば、「原発依存をどうやって減らしていくのか」「代替エネルギーの開発をどう進めるのか」について真剣に議論をしてみたい。けれども、わが子を避難させる親たちの苦悩に思いが及ばないような人たちとは議論すら難しいだろう。謙虚な気持ちで未来を見つめようとする心がないのだから。






*メールマガジン「おおや通信 82」 2012年5月18日


 校長として小学生に話をするのは、中高生や大人を相手にするのとは違った難しさがある。

 1年生はひらがなを習い始めたばかりである。話の中に知らない言葉が出てくると、途端に頭がぐらつき出し、「なに言ってんのか分かんない」という顔になる。かといって、かみ砕きすぎると、6年生がそっぽを向く。こちらは大人の世界への入り口にいる。両方によく分かり、なおかつ心に残る話をするのは容易なことではない。

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大谷小学校の近くにある秋葉山に、みんなで春を探しに行きました

 去年は大震災の話をした。津波はどうして起きるのか。被災地はどんな状況にあるのか。ボランティアに行って泥かきをした体験を交えながら、できるだけ分かりやすい言葉で語りかけた。

 原発の仕組みと事故の話もした。この時は、子どもたちの知らない言葉も使わざるを得なかった。かつて、北海道の泊原発を取材したことがある。その際に入手した燃料棒のサンプルを示しながら、こう述べた。
 「この棒はジルコニウムという金属でできています。硬いけれども、1800度くらいで溶けてしまいます。そうなったら大変なことになります」

 難しい話だったに違いない。けれども、どの子も食い入るようにして聞いていた。何か、とてつもないことが起きていることを察知していたからだろう。子どもたちは、未熟ではあっても愚かではない。「これは大事だ」と感じたら、一生懸命に理解しようとする。子どもだましの話でお茶を濁してはいけない。

 今年は毎月、命について話をしたいと考えている。4月のテーマは「いのちと地球」。地球が誕生したのは46億年前とされる。人間が登場したのはついこの間、子どもに大人気の恐竜ですら、生き物としては新参者である。

 恐竜より古い時代に生きていた不思議な動物たちのイラストを見せたら、何人かが「オオッ」と身を乗り出してきた。
 
 *2012年5月18日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から 朝日町発」(2)




*メールマガジン「おおや通信 81」 2012年4月13日



 山形県の朝日町では、学校のグラウンドの雪がようやく消えて地面が見え始めました。
年配の方に聞いても、これほどの大雪は生まれて初めてとのことでした。
 4月から月に1回(第2金曜日)、朝日新聞の山形県版に小さなコラムを書くことに
なりました。暗?い記事ばかり書いてきた元アジア担当記者としては、つとめて明るい
タッチのコラムにしたいと念じています。とっても難しいです。

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 コラム「学びの庭から 朝日町発」 子どもの目 光る時にこそ

 子どもがじっとこちらを見ていたら、気をつけた方がいい。ある時、給食で同じテーブルにいた子どもの目の隅がキラリと光った。
校長「どうした?」
生徒「先生、鼻毛が白いよ」

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この春、大谷小には11人の1年生が入学しました。玄関前には、除雪した雪がまだたくさん残っています。


 子どもは気配りということをまだ知らない。見たこと、面白いと思ったことをズバリと言う。この子は、白髪がある大人は鼻毛も白いことをこの時、初めて「発見」したのだろう。「よく見つけたねぇ。ニャロメ!」。ここは、怒りつつ褒めるしかあるまい。

 新聞記者から小学校の校長に転じて3年になる。ある人が「子どもの目には、この世の
中はとても明るく見えているのです」と言っていた。その通りだと思う。小学生にとっては、毎日が発見の連続である。自分の小さな世界がどんどん広がっていく。私たちが想像する以上に、世の中が明るく見えているに違いない。

 大震災とそれに続く福島の原発事故で、この国はとても「明るい状態」とは言えない。彼らが生まれる前から、経済は右肩下がり。国の借金も、ものすごい額だ。けれども、長い歴史の中に身を置いてみれば、実はそれほど暗くなる必要もない。

 明治までさかのぼるまでもなく、昭和ですら冷害で飢餓にあえぎ、娘の身売りが横行した時代があった。父祖の時代、若者は戦場に送られ、次々に死んでいった。われわれの世代で言えば、学びたくても学ぶ機会をつかめない人がたくさんいた。
それらをすべて乗り越えて、今がある。厚い蓄積の上に現在の暮らしがある。問われて
いるのは、その蓄積を次の世代にどのように伝え、どう活かしていくかだろう。

 子どもの目がキラリと光った時にこそ伝えたい。この国の豊かな蓄積を、おおらかな気持ちで。

 *このホームページに掲載した写真は、朝日新聞山形版に掲載されたコラムの写真とは異なります。




*メールマガジン「おおや通信 80」 2012年4月6日


 東京では桜が満開のようですが、山形はまだ冬です。今日も、未明から雪が降り続きました。今年は「春まだ浅き」ではなく、「春まだ遠き」という風情です。そんな北国の農村にある小学校から、入学式の校長あいさつをお送りします。

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 いつもの年なら「春爛漫」という時節なのですが、今年の春はかなり変わっています。朝から雪がのしのしと降りました。学校のグラウンドも一面、まだ白い雪に覆われたままです。あたたかい春の風を待ちわびる中での入学式になりました。

 11人の1年生のみなさん、入学おめでとうございます。

 つい先日、みなさんが通っていた「あさひ保育園」で卒園式があり、私も出席させていただきました。そこで今日は、そのおさらいから始めたいと思います。卒園式では、来賓の方々からたくさん御祝いの言葉をいただきました。その中に、とっても大切な教えがありました。それは何だったでしょうか? 覚えていますか?

 それは「何よりもまず、交通事故に気をつけましょう」という教えです。鈴木浩幸町長がおっしゃっていました。毎朝、学校に行く時、そして学校からおうちに帰る時、車には十分に気をつけなければなりません。ふさげて道路に飛び出したりしては、絶対にいけません。毎日、元気に学校に通って、元気におうちに帰る。まず、これをしっかりと行うことが大切です。分かりましたか?

 次に大切なこと。それは、学校で自分の好きなこと、得意なことを見つけることです。本を読むのが好きなひとは、静かに本を読みましょう。駆けっこが得意な人は、雪が消えたらグラウンドを思いっ切り走りましょう。絵を描いたり、歌を歌ったりするのが好きな人は、たくさん絵を描き、たくさん歌いましょう。「元気で楽しい学校」――それが大谷小学校のスローガンです。毎日、元気に学校に通い、教室にいるのが楽しくなるような、そんな学校を一緒につくっていきましょう。

 3番目は、私からのお願いです。みなさんは保育園を卒業して、きょうから小学生になりました。これまではお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんのお世話になってばかりだったかもしれませんが、これからはそれではいけません。おうちの中で自分にできることを探して、毎日、ちゃんとお手伝いをするようにしましょう。小さな事でいいのです。例えば、朝、起きたら、自分の布団は自分でたたむ。ご飯を食べる時に、みんなの茶碗を並べてあげる。そうしたことを自分で見つけて、おうちの人のお手伝いを毎日するように心がけましょう。分かりましたか。

 2年生から6年生のみなさん。11人の1年生を迎えて、大谷小学校の生徒は78人になりました。去年より少し少なくなりましたが、その分、みんなで補い合って、より良い学校になるように頑張りましょう。慣れない1年生の面倒をよく見てあげてください。

 保護者のみなさま。お子様のご入学、おめでとうございます。いつの時代であっても、子どもを育てるというのは容易なことではありません。お一人お一人、語り尽くせぬほどのご苦労をされたことと拝察いたします。お子様を大谷小学校に入学させていただいたことに、教職員を代表して心から御礼を申し上げます。
 子どもたちは、小学校の6年間でいろいろなことを吸収し、驚くほどの成長を遂げます。保護者の皆様方と手を携えて、私たちはその成長を促し、支えるために全力を尽くすことをお誓い申し上げます。

 ご来賓のみなさま。きょうは雪が降る中、大谷小学校の入学式にご臨席たまわり、誠にありがとうございました。子どもは家庭と学校に加えて、地域の力で育っていくものですが、朝日町には地域全体、町民みんなで子どもを育てていこうという、そういう気概があふれています。さまざまな場面で、学校の運営を支えていただいていることに改めて深く感謝申し上げます。
 今後とも、より一層のご支援とご協力をたまわりますようお願い申し上げて、入学式のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。





*メールマガジン「おおや通信 79」2012年3月18日


 3月は、風光る月、とも言われます。風が光るように吹き渡る月です。日差しが強くなり、雪解け水が日ごとに勢いを増す季節になりました。多くの人が新しい場所、見知らぬ土地へと旅立つ季節でもあります。

 13人の6年生も、その時を迎えました。卒業、おめでとうございます。6年間、大谷小学校に元気に通ってくれたこと、そして、この1年間は学校の大黒柱の役割を果たしてくれたことに、教職員を代表して心から「ありがとう」という言葉を贈りたいと思います。
一人ひとりに、はなむけの言葉を贈ります。

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 長岡龍輝(たつき)君。
 君は、秋の運動会の応援合戦でミゲルに扮して、大いに沸かせてくれました。図書委員としての読み聞かせでも、人気抜群でした。折に触れて、大谷小学校を笑顔でいっぱいにしてくれて、本当にありがとう。大谷剣道スポーツ少年団でも大事な役割を果たしてくれました。目標は、人の命を助ける消防士になること。体を鍛え、よく勉強して、たくましい消防士になってください。

 菅井茉衣(まい)さん。
 あなたは、今年の学校文集に載った作文で東日本大震災のことを書いていました。停電で寒かったこと、テレビで津波が押し寄せる音を聞いて怖かったことを綴っていました。そのうえで「生き残ったこの命を大切にして、被災した人たちが復興できるように応援していきたい」と書いていました。思ったことを素直に綴った、とてもいい作文でした。幼稚園の先生になるのが夢ですね。優しい心を大切にして、子どもたちに慕われる先生になってください。

 長岡知緩(ともひろ)君。
 君とは、3学期の給食の時間によく同じテーブルになりました。食事をしながら、君は同じ班の下級生の面倒を実によくみていました。掃除の時にも、丁寧にやり方を教えてあげていましたね。見えにくいところで、気を配ってくれていました。ありがとう。中学に進んだらテニスをしたいと言っています。部活動でも細やかな気配りをして、いい雰囲気の部になるよう努めてください。

 菅井芽衣(めい)さん。
 左沢(あてらざわ)にある少年自然の家で宿泊体験学習をした時、みんなで木をこすり合わせて火をおこすことに挑戦しました。この時、真っ先に火をおこすことに成功したのは芽衣さんの班でした。その時の、大喜びした顔をよく覚えています。一生懸命に努力すれば、天は必ず報いてくれます。目標はやさしい美容師さんになることですね。一歩一歩進んで、夢を叶えてください。

 志藤理央(りお)君。
 町の水泳競技記録会で、君はリレーと背泳ぎに出場し、金メダルを3つも手にしました。見事な泳ぎでした。苦しさに耐え、何度も何度も練習した成果でした。一歩ずつ着実に進むことの大切さをみんなに教えてくれました。中学や高校に進んでも水泳を続け、いつの日か「世界の北島康介選手を超えたい」と夢見ています。高い目標ですが、志と目標は高いほどいいのです。挑戦してください。

 堀 杏菜(あんな)さん。
 5年生の時に、みんなで米作りの勉強をしました。その田んぼは杏菜さんのおうちの田をお借りしました。田植えの時も稲刈りの時も、お父さんをサポートしてみんなを引っ張ってくれました。夏の花笠祭りに参加した時にも、たくさん汗をかき、頑張ってくれました。ありがとう。目標は、料理研究家になって新しい料理を創り出すこと。いつか、誰も考えつかないような料理を作って、みんなを喜ばせてください。

 白田匠摩(しょうま)君。
 去年の文化祭のフィナーレは、カントリーロードの全校合唱でした。その冒頭で、君は独唱し、澄んだ歌声を響かせてくれました。とても魅力的な独唱でした。大工さんをしているお父さんと同じ道を歩みたい、と言っています。修行を積んで立派な大工さんになって、地震でもびくともしない家をどんどん建ててください。

 畑 愛佳理(あかり)さん。
 あたなは、言葉数は少ないけれども、とても豊かな感受性を持っています。学校文集の扉に「マット運動は苦手」という、あなたの詩が載っています。その詩は「くやしさと苦労の分だけ、大きな喜びが返ってくる」と結ばれていました。言葉遣いの豊かさに感心しました。小さい時から料理が好きで、お菓子を作るパティシエになるのが目標ですね。持ち前の感覚をお菓子作りに活かしてください。

 阿部大悟(だいご)君。
 モンテディオ山形のコーチが大谷小学校にサッカーを教えに来てくれた日のことを思い出します。コーチが「だれか手伝ってくれる人はいませんか?」と言うと、君は真っ先に「ハイ!」と手を挙げました。新しいことに果敢に挑戦する君らしい行動でした。とても大切なことです。寿司屋さんになるのが目標ですね。大人になっても、その気持ちを忘れず、新しい事にどんどん挑戦し続けてください。

 武田七海(ななみ)さん。
 あなたは、6年間で一番思い出に残ったこととして、大朝日岳への登山を挙げていました。つらくて、くじけそうになったけど、頂上に着いたらうれしくて、それまでのつらさが全部吹き飛んだそうですね。これからの人生でも何度か、そういう事があるかと思います。つらい思いをすれば、喜びもまた何倍にもなって返ってきます。それを忘れず、お菓子を作るパティシエになる夢を実現してください。

 志藤康平(こうへい)君。
 君は、大谷剣道スポーツ少年団の主将としてみんなをまとめ、数多くの優勝旗をもたらしてくれました。団体と個人の両方で山形県で1位という快挙を成し遂げました。優勝の陰には、人の何倍もの練習とたゆまぬ努力があったことは言うまでもありませんが、家族をはじめ多くの人に支えられての優勝でもありました。感謝の気持ちを忘れず、これからも剣道の技を磨いて、警察官になる夢を叶えてください。応援しています。

 白田千紘(ちひろ)さん。
 去年の秋、津波で大きな被害を受けた宮城県七ケ浜町の小学生を招いて、交流する会がありました。その会で、あなたは大谷小学校を代表して歓迎のあいさつをしてくれました。心のこもった、温かい、とてもいい挨拶でした。看護師さんになって、みんなを笑顔にしたいというのが目標ですね。持ち前の優しさを大切にして、周りにいる人みんなが元気になる、そんな看護師さんになってください。

 堀 博道(ひろみち)君。
 町の陸上競技記録会と水泳競技記録会での活躍、見事でした。歩いて一番遠い中沢から6年間、通ってくれてありがとう。ある日、君が1年生の栞汰(かんた)君と語らいながら歩いて帰る姿を目にしました。相手が1年生でも、大人を相手にするのと変わらない態度で接しているのを見て、とてもいいことだなぁ、と感心しました。その気持ちをこれからも大切にしてください。夢は、駅伝の選手になって箱根を走ることですね。厳しい道ですが、ひるまず、挑んでください。

 保護者のみなさま。
 お子様のご卒業、おめでとうございます。
小さな手をつないで校門をくぐった子どもたちは、今や中学校の制服に身を包み、大人の世界に足を踏み入れようとしています。どの子も豊かな可能性と大きな力を秘めています。この国の未来を担っていくのは、この子どもたちです。これからも、温かく大らかな気持ちでその成長を見守ってあげてください。私たちも、いつまでも応援し続けます。
 
 1年生から5年生のみなさん。頼りになる6年生は今日、旅立ちます。4月からは新しい仲間を迎え入れて、あなたたちが大谷小学校の新しい歴史を刻んでいかなければなりません。お互いに支え合って、また「元気で楽しい学校」をつくっていきましょう。

 ご来賓のみなさま。きょうはお忙しい中、卒業式にご臨席たまわり、誠にありがとうございました。大震災後の混乱を乗り越え、この冬の大雪にもたじろがず、この学校で学び続けることができましたのは、ひとえに皆様方の温かいご支援とご協力があったればこそです。心から感謝申し上げます。
 今後とも、よりいっそうのご支援を賜りますようお願い申し上げて、卒業式のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。     (完)

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 18日は、大谷小学校の卒業式でした。3月の中旬になってインフルエンザにかかる6年生が続出し、一時は卒業式を延期することも検討せざるを得なくなりましたが、前日になってようやく13人の卒業生が全員出席できる見通しになり、なんとか式を挙行することができました。

 私にとっては、校長として3回目の卒業式になりました。人生訓めいた話はしたくない。紙に書いたものを読み上げることもしたくない。小さな学校にふさわしい挨拶をしたいと考えて、今年も一人ひとりにエールを送りました。

 だれもが豊かな可能性を持っています。小学校の校長として、子どもたちが育つ様子を日々見ていると、きれい事ではなく、文字通りそう思います。その可能性を伸ばしてあげられるのか、それとも、その芽を摘んでしまい、善からぬ道へと追いやってしまうのか。それぞれの家庭と学校、地域で触れる大人たちが決定的な役割を果たすのだ、ということを痛切に感じます。



*メールマガジン「おおや通信 78」 2012年3月6日


 なるほど、官僚たちはこうやって蜜を集めて、吸い続けるのか。民間人校長になってから、つくづく感心させられ、あきれさせられる出来事がありました。視聴覚教育をめぐる醜聞です。

 話は、戦後の焼け跡時代にさかのぼります。食べる物にも事欠く時代。学校で子どもたちに映画や16?フィルムの作品を見せてあげたくても、映写機やフィルムを買うお金などあるわけがありません。GHQ(連合国軍総司令部)はこれをあわれみ、手持ちの映画や16?の作品を提供して、教育の振興を促したといいます。

 「戦後の復興を担う子どもたちに少しでも良い教育を施したい」と、多くの教育者が熱い思いを抱いていた時代でした。資金が足りないなら、みんなでお金を出し合って購入して共同で利用するしかない。そうやって、各県に「視聴覚教育連盟」というものができました。山形県では昭和28年、私が生まれた年に発足しています。

 戦後復興が進むにつれて、県より小さい単位の地域にも「視聴覚連盟」や「視聴覚ライブラリー」といったものが作られていきました。その全国組織が財団法人「日本視聴覚教育協会」と、この財団が事務局をつとめる全国視聴覚教育連盟という団体です。2つとも、少なくともその発足から1980年代あたりまでは、日本の教育にそれなりの役割を果たした組織でした。

 問題は、映画や16?の作品が主要な教材ではなくなり、インターネットで視聴覚教材を含むさまざまな教育の素材が手軽に入手できるようになった今でも、この2つの全国組織とこれを支える地方組織が残存していることです。

 私が住む朝日町も、山形県西村山地区の視聴覚教育協議会という地方組織に入っており、年に35万円の負担金を出しています。5つの市町の首長と教育長が協議会のメンバーで、平成24年度の事業計画を見ると、16?フィルムのメインテナンスや映写機操作技術講習会などというものがあります。文部省の呼びかけで始まった制度と組織が、その役割を終えたにもかかわらず、惰性でいまだに続いているのです。

 その元締めである「日本視聴覚教育協会」の会長は、元文部事務次官の井上孝美氏です。1997年に文部省を退官した後、放送大学学園理事長、放送大学教育振興会理事長と渡り歩き、今も放送大学教育振興会の会長と日本視聴覚教育協会の会長を兼ねて高給を食んでいます(どちらも非常勤の会長職)。

 高給を得ても、それにふさわしい仕事をしているのなら、何も文句は言いません。しかし、日本視聴覚教育協会はとっくにその役割を終えたと考えられるのに、教育映画を作る会社や教科書会社を抱え込み、いまだに視聴覚教育の地方組織に号令をかけ続けています。その事業内容を見ると、天下りした元文部官僚に給料を払い続けるための事業と言いたくなる代物が並んでいるのです。

 時代遅れの視聴覚教育にエネルギーと公費が注がれる一方で、ITとインターネットを教育にどう活かすかという喫緊の課題への取り組みは遅れています。拙著『未来を生きるための教育』でも詳述しましたが、日本の公教育のIT化は置き去りにされ、2010年からようやく小中学校の教職員にパソコンが本格的に貸与され始めたばかりです。米欧諸国は言うに及ばず、韓国やシンガポールなどの国々からも、はるかに離されてしまいました。

 ここで奮い立つなら、まだ救いがありますが、学校のIT化をめぐっては総務省と文部科学省が縄張り争いを繰り広げているのが実情です。電波行政を握る総務省が「フューチャースクール推進事業」なる旗印を掲げて学校へのタブレット端末の普及を図り、文科省は電子黒板や校内LANの整備に躍起になる、という有り様です。そこから見えてくるのは「省益をどう広げるか」という醜い姿であり、次世代を担う子どもをどう育てるのかという真摯さは感じられません。

 そういう人たちは「生き残るためのテクニック」にも長けているので、始末が悪いのです。くだんの「日本視聴覚教育協会」も、このままでは生き残れないと考えてか「ICTを活用した教育活動を推進していきたい」と提唱し始めています。笑止千万です。とっくの昔に退官した文部事務次官を非常勤の会長に据える組織が、いまさらどのようなIT教育を推進すると言うのか。まだ良心が残っているのなら、せめて静かに退場すべきでしょう。

 官僚たちが蜜を集めて、退官後も吸い続けるこうした天下り団体がいったいどのくらいあるのか。そこに血税がどのくらい注ぎ込まれているのか。根っからの楽観主義者である私ですら、それを考えると、暗い気持ちになってしまいます。

 〈注〉タブレット端末:タッチパネル式のミニパソコン。総務省の事業では、研究実証校の生徒に1台ずつ貸与しています。将来、教科書が電子書籍になれば、生徒はこの端末で教科書を呼び出して読むことになり、紙の教科書はなくなります。





*メールマガジン「おおや通信73」2012年1月11日



 人間であれ物事であれ、その性格や特質を理解しようとするなら、生い立ちにさかのぼって考えることが大切です。この頃、つくづくそう思います。ならば、原発はどのようにして生まれたのか――正月休みに原爆と原発の生い立ちに関する本を渉猟しました。

 これまでにおびただしい数の本が出版されていますが、手にした本の中では、2005年に出版された『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』(歌田明弘著、平凡社)が、着眼の鋭さといい、内容の濃密さといい、秀逸でした。

 出版社「青土社」の編集者を経てフリーになった歌田氏は、米国の原爆開発計画(マンハッタン計画)で政治家と軍部、科学者と産業界をつなぐ役割を果たしたヴァニーヴァー・ブッシュ Vannevar Bush を主人公にして原爆開発の経過をたどっています。V.ブッシュは当時、米科学界の大御所でルーズベルト大統領の科学顧問でした。米議会図書館や米国立公文書館には、彼が書いた書簡や文書が大量に保管されています。歌田氏は、それらを丹念に読み解き、冷静な目で原爆開発の歴史をたどっています。

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ヴァニーヴァー・ブッシュ(ウィキペディアから)

 この本を読むと、第2次大戦が起きる前の世界について、二つのことに気づかされます。一つは、大戦前に圧倒的な力を持っていたのは大英帝国であり、欧州であり、米国は登り竜の勢いにあったとはいえ新興工業国であったということ。もう一つは、そうした国力を反映して、物理や化学の研究でも先端を走っていたのは欧州諸国であり、米国はそれを追う立場にあったということです。

 1932年に中性子を発見したのは英国のチャドウィックであり、これを受けて核物理学の分野で目覚ましい成果を上げたのはフランスのジョリオ=キューリー夫妻やハンガリーのレオ・シラード、イタリアのエンリコ・フェルミ、デンマークのニールス・ボーアといった科学者たちでした。それが1938年、ドイツのカイザー・ウィルヘルム研究所でのウランの核分裂実験の成功へとつながりました。

 核分裂に伴ってものすごいエネルギーが生まれる。それを利用すれば恐ろしい破壊力を持つ新兵器をつくることができる。それを科学が明らかにしました。時あたかも、ドイツではヒトラーが権力を握り、世界制覇への野望を膨らませ、戦争に踏み切ろうとしていました。ユダヤ人や少数民族への迫害も熾烈になっていました。

 「ヒトラーが原爆を手にしたらとんでもないことになる」。欧州の科学者たちは警鐘を鳴らし、ナチスの迫害を逃れて次々に米国に亡命していきました。ドイツと対峙し、疲弊していた英国にはすでに、これらの科学者を受け入れ、原爆開発に取り組む余裕はなくなっていました。

 若い力にあふれ、戦火が及ばない米国で、ボーアやフェルミ、シラードら亡命科学者たちは「ドイツよりも先に原爆を開発しなければならない」と、血眼になって研究と開発に突き進んだのでした。歌田氏の本を読むと、米国の巨大な工業生産力に加えて、こうした亡命科学者たちの協力がなければ、原爆は到底、開発し得なかったことがよく分かります。そして、ルーズベルト大統領や軍部、産業界を動かし、オッペンハイマーをはじめとする米国内の科学者と亡命した科学者による原爆の共同開発の指揮を執ったのがV.ブッシュだった、というのがこの本のエッセンスです。

 米国に原爆開発を急がせたのは「ナチスに先を越されることへの恐怖」であり、開発を可能にしたのはナチスに追われ米国に亡命した科学者たちでした。その意味で、ナチス・ドイツを率いたヒトラーは、自ら意図したわけではないにしろ、原爆開発の助産師の役割を果たしたことになります(歌田氏は本の中で「助産師」という表現は使っていません。私が勝手にそう呼んでいるだけです。念のため)。

 よく知られているように、米国はウラン濃縮型の原爆とプルトニウムを使った原爆の2種類を並行して開発、製造しました。理論的にはどちらも可能であるとされていましたが、どちらのタイプの原爆も、実際に製造するのは技術的にきわめて困難であり、巨額の費用とものすごい人員がかかると見込まれていました。「どちらでもいい。とにかくドイツよりも先に完成させたい」と考えて両方の開発に乗り出し、かろうじて製造に成功した、というのが実態のようです。

 このうち、後者のプルトニウム型原爆をつくるために初めて大型の原子炉が造られました。プルトニウムは自然界には存在しません。原子炉内でウランに中性子をぶつけることによって人工的に生成されます。そのプルトニウムを使用済みの核燃料から抽出して原爆の材料にするために、大型の原子炉が造られたのです。その生い立ちからして、原子炉は核開発と不可分の形で結び付いていたのでした。

 米国は戦後、原爆の開発を通して獲得した技術とノウハウを活かして、原子力発電の分野で世界をリードしました。歌田氏の本のタイトル『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』というのは比喩ではなく、事実を散文的に表現したものと言っていいでしょう。

 科学技術に関して、米国が戦争中に開発・発展させ、戦後の世界で頂点に立ったものがもう一つあります。コンピューターの製造と活用です。半導体はまだ登場しておらず、当時の電子計算機は真空管を使った巨大な装置でしたが、主にドイツや日本の暗号を解読するために使われました。ドイツでも日本でも、軍部は「われわれの暗号が解読されることは理論的にあり得ない」と考えていました。人間が持つ計算、解析能力を前提にする限りでは、それは正しかったのです。

 ところが、英国と米国は電子計算機を開発して、暗号の解読に活用しました。日本やドイツが前提としていたものを乗り越えてしまったのです。この技術もまた、戦後アメリカの繁栄の柱になり、今も大きな収入源となっているのはご存じの通りです。歌田氏は本の最後のところで、このコンピューターの分野でもV.ブッシュが先駆的な役割を果たしていたことを紹介しています。こうしたことを考慮に入れれば、本のタイトルは『科学大国アメリカは戦争によって生まれた』としても良かったのかもしれません。

 *米国の原爆開発の歴史を物語風に綴った『マンハッタン計画』(ステファーヌ・グルーエフ著、早川書房)もお薦めです。ただ、この本も歌田氏の本も400ページを超える厚さですので、お急ぎの方にはお薦めできません。



*メールマガジン「おおや通信77」 2012年2月16日


 作家、五木寛之氏の近著『下山の思想』がベストセラーになっています。経済的繁栄のピークを過ぎ、少子高齢化がますます進む日本にとって、今は粛々と山を下り、次の高みを目指すための備えをする時だ、と説く五木氏の考えは、多くの人の心を揺さぶっています。「下山」という言葉に前向きの力を付与したところに、この本のすごさを感じます。

 もはや「大きくなるパイを奪い合う」時代ではありません。「小さくなるパイをどうやって公平に分配するのか」に知恵を絞る時代です。それを考えると、就学援助をめぐる教育界の論議は時代の流れを無視しており、ピンボケではないかと感じてしまいます。「制度をもっと充実し、援助額を増やすべきだ」と論じるものが多いからです。

 就学援助というのは、経済的に苦しくて勉学を続けるのが厳しい小中学生がいる家庭を支援する制度です。生活保護世帯に加えて、生活保護を申請するには至らないものの経済的に苦しい世帯(準要保護世帯)に対して、給食費や学用品代、修学旅行費などを自治体が支給するものです。

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大谷小学校の給食風景(本文とは直接の関係はありません)

 苦しい時には、みんなで支え合うのは当然です。制度そのものは理にかなっています。経済的に苦しい家庭の生徒は勉学や進学で不利な状況に置かれており、経済的な格差が教育の格差として固定化される傾向があることも明白です。機会均等という観点からも、就学援助制度をさらに充実させる必要がある、というところまでは賛成です。

 問題は、援助の総額をさらに増やすべきかどうかです。パイが減る中で、福祉の費用も増やせ、就学援助も増やせと言い出したら、国や地方の財政はパンクします。限られた財源をどう公平に適切に配分すべきか、という観点が欠かせないのに、就学援助を論じる研究や報道にはそれが欠落しているものが多いのです。

 文部科学省が公表している就学援助に関する統計(2010年度)を見ると、その運用に大きな疑問が湧いてくるのです。小中学生100人当たり、どのくらいの比率で援助がなされているのか。都道府県別の比率は、次の通りです。
大阪府 28パーセント
山口県 26パーセント
東京都 24パーセント
・・・・・・・・・・
山形県  7パーセント(6.9)
群馬県  6パーセント(6.4)
栃木県  6パーセント(6.3)
静岡県  6パーセント(5.6)

 小学校の校長として制度の運用にかかわっている立場から見ると、静岡や栃木、群馬、山形のデータは納得のいく比率です。経済的に苦しくて給食費などを払うのに苦労している家庭は全体の1割弱というのが実態でしょう。なのに、大阪や東京では生徒4人に1人の割合で就学援助を受けている。大阪や東京の方が山形や静岡よりずっと貧しい家庭が多い、などということは考えられません。

 では、何が起きているのか。ここからは私の推測ですが、大阪や東京では、かなりの数の保護者が「もらえるものなら、もらおう」と申請し、自治体の窓口は「断ったら面倒なので認めてしまえ」と援助を認定する、ということが起きているのではないか。もしくは援助を決める基準そのものが大甘なのではないか。そう解釈しなければ、この文科省の統計は理解できません。

 大谷小学校がある地域は、決して裕福な家庭が多い地域ではありません。それでも、厳しい家計の中から教育費を捻出して、全家庭からきちんきちんと支払っていただいています。就学援助の対象家庭はゼロです。その一方で、大阪や東京では4人に1人が税金で給食費などを負担してもらっている――不平等、さらに言えば不正がまかり通っている、と考えざるを得ません。

 下山の過程にあるこの国で今、大切なことは「痛みを分かち合いながら、本当に助けが必要な人をみんなで支えること」ではないでしょうか。それは、前回のおおや通信「共同除雪」で紹介した「独り暮らしのお年寄りの中でも、本当に手助けが必要な人のために雪下ろしをする」という考え方にもつながることです。きれい事の「就学援助論」ではなく、下山の時代にふさわしい、まっとうな「就学援助論」を聞きたい。

*就学援助制度については参議院企画調整室の鳫(がん)咲子氏がバランスの
   取れた論文を書いており、参考になります。次のURLです。
http://yakanchugaku.enyujuku.com/shiryou/2009/20096528.pdf




*メールマガジン「おおや通信76」 2012年2月9日


 月曜日(2月6日)のテレビ朝日「報道ステーション」に山形県朝日町の峯檀(みねだん)という集落が登場しました。この大雪で、北国はどこでも雪下ろしと雪かきに追われて大変です。そんな中で住民たちが共同で除雪作業をして頑張っている集落がある、というリポートで「頑張っている集落」の一つとして紹介されました。

 都会と違って結束力の強い農村ならどこでも共同で除雪作業をしている、と思う人もいるかもしれませんが、決してそんな事はありません。それぞれ、自宅の屋根の雪下ろしと家の周りの雪かきで精一杯で、よその家の心配をしている余裕などないのが実情です。私も、自分が住んでいる団地の駐車場の除雪と、実家の雪かきでヘトヘトになっています。山沿いにある実家の周りの積雪は2メートル近くあります。軒先は、下ろした雪がうずたかく積もり、屋根に届きそうなほどです(写真参照)。

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 雪下ろしは危険を伴います。屋根から転落したり、側溝に落ちたりして死傷する事故が今年も相次いでいます。親類や友人といえども、気軽に頼めるものではありません。自分の家のことはそれぞれ自分でやる、というのが大原則なのです。
 
 ならば、テレ朝に登場した峯檀という集落はどこが違うのか。ここは、結束力が飛び抜けて強いのです。村のお祭りにしても学校のPTA活動にしても、率先して仕事を引き受けてくださる方が何人もいて、地域の大黒柱のような地区なのです。共同で地区内の除雪をし、独り暮らしのお年寄りの家の雪下ろしもしています。

 峯檀の区長さんにお聞きすると、「共同で除雪を初めて5年になりますが、やはり大変です」と苦労を語ってくれました。独り暮らしなら無条件で雪下ろしをしてあげるわけではありません。裕福で建設会社に雪下ろしを頼む余裕のある家は除きます。近くに身内がいる場合も手伝いません。本当に困っている独り暮らしの家だけ、みんなで雪下ろしをしてあげるのです。

 除雪の共同作業は、その線引きをきちんとし、集落内の実態をしっかり把握していなければとてもできません。共同作業中にけがをした場合の対応も、事前に決めておく必要があります。自治体からいくらか補助金が出ているとはいえ、「かわいそうだから」などという感傷的な気持ちで始められることではないのです。

 そういう難しい共同除雪をしている地区がいくつもあるのが大谷小学校のある地域です。不登校なし、給食費の不払いなし、モンスターペアレントなしの「3ない小学校」は、こういう土壌があるからこそ成り立っている、と感謝しています。山形で民間人校長になってから、都市部のある校長から「わざわざ民間から採用したのに、なんで大谷みたいな苦労の少ない学校の校長にしたんだ、とやっかんでいる人もいるよ」と教えてもらいました。確かに、都会に比べれば、苦労の少ない学校かもしれません。

 その代わり、と言ってはなんですが、私は「どんな場面でも、民間で飯を食ってきた人間らしい判断をする」と決め、実行しています。去年3月の東日本大震災の後、山形県内では、ほとんどの市町村の校長会が「犠牲者に弔意を示すため、当分の間、酒席は控える」と、一斉に宴会の自粛を決めました。

 私はこれに異を唱えました。「どのような形で弔意を示すかは、それぞれの学校によって異なっていい」「大津波で身内を亡くした保護者や教職員がいるなら、当然、酒を飲む気にはなれないだろう」「被害がほとんどなかった山形の学校が為すべきことは、一日でも早く日常生活を取り戻し、被災地の復興を支えることだ」と考えたからです。実際、その通りに行動しました。

 この冬も、大雪の日に臨時休校にしたり、授業を早めに切り上げて生徒を一斉に下校させたりした学校がたくさんありますが、大谷小学校は猛吹雪でも普通通りに授業をし、下校時に教職員が付き添うという対応をしました。一日一日の教育を淡々と進める。それが何よりも大切だと考えるからです。

 戦乱が長く続き、子どもを学校に通わせることすらできなかったアフガニスタンで、教育を施すことができないことを嘆く親の声を何度も何度も聞かされました。「普通の一日」の大切さをしみじみと感じました。だからこそ、雪国の小学校が吹雪くらいで学校を休んだり、授業を削ったりしてはいけない、と思うのです。

 「普通の一日の大切さ」という観点から眺めると、東京都が進める教育改革や、大阪府の教育条例づくりにも違和感を覚えます。学校選択制を導入したり、国旗の掲揚と国歌の斉唱を迫ったり、はたまた教職員の勤務評定を厳格にしたりと、それぞれ騒いでいますが、私の目にはどちらも「制度いじりに躍起になっている」と映るのです。

 率直に言って、東京でも大阪でも、多くの保護者が公立の小中学校に見切りをつけ、私立に逃げ始めています。公教育の土台そのものが大きく揺らいでいる。その揺らぎは、公教育の制度をどうにかすれば収まるような段階を過ぎているのではないか。揺らぎは企業社会の在り方ともつながっており、もっと大きな視点で取り組まなければ、対処できなくなっているのではないでしょうか。

 学校がごく普通の、淡々とした一日を取り戻すために、社会のそれぞれの組織やメンバーに何ができるのか。前向きに、互いに支え合うつもりで語り合い、動く時ではないか。東京や大阪で続くヒステリックな騒動から有益な何かが生まれるとは、とても思えないのです。




*メールマガジン「おおや通信75」2012年1月31日


 事実を正確に伝える。それがメディアに求められる何よりも大切なことです。誰もが自分の職務と良心に忠実であろうとしています。けれども、そうしてもなお、真実に迫るのは難しく、「事実とは何か」と思い悩むことから逃れることはできません。

 そんな事をあらためて思ったのは最近、NHKディレクターの七沢潔氏が著した『原発事故を問う』(岩波新書)を読んだからです。この本は、1986年4月26日に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故の原因とその後の影響について、長期間の取材を踏まえて書かれ、事故から10年後の1996年に出版されました。

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Source: Wikipedia " Chernobyl Disaster "

 チェルノブイリ事故については、私にも強烈な記憶があります。事故発生のニュースが世界を駆け巡った日の夜、私は朝日新聞東京本社の整理部に在籍していて、整理部員として紙面編集のサブをしていました。事故の第一報は「スウェーデンで異常に高い放射線値が測定された。風向きを考慮すると、ソ連の原発で事故があった可能性がある」と、ごく短い文章で伝わりました。ソ連当局はずっと沈黙したままでした。一報を補う情報は、わずかしか流れてきませんでした。


 これをどのくらいの大きさのニュースとして扱うのか。胃がキリキリと痛むような時間が過ぎていきました。そして、扱いを最終的に決めたのは編集局長でも編集局次長でもなく、整理部の部長代理でした。決断することを誰もがためらう中で、彼は「これは世界を揺るがす大ニュースになる」と判断し、1面のトップニュースにしたのです。翌朝、日本の全国紙の中で「1面トップ」の扱いをしたのは朝日新聞だけでした。時として、物事を決めるのは肩書でも権限でもなく、志の高い人間であることを知りました。

 その次の強烈な記憶は、事故から4カ月後でした。ソ連指導部は1986年の8月、ウィーンにある国際原子力機関(IAEA)に詳細な事故報告書を提出しましたが、これを当時の朝日新聞ウィーン支局長が入手し、世界的な特ダネとして報じたのです(8月16日付の朝刊)。日本のメディアが世界を揺さぶるようなスクープを放つことはめったになく、堂々の特ダネでした。

 後に外報部に配属になった時、この報告書を入手した元ウィーン支局長から取材の裏話や、ファクスで報告書を受け取った東京サイドの苦労(ロシア語の長文の報告書を読みこなし、記事にまとめるのは容易ではなかった)を聞きました。世界的なスクープを手にした時の高揚感と緊張感に触れ、「いつか自分も」と力んだことを思い出します(もちろん、そんな機会はなかったのですが)。

 ソ連当局のその報告書は、チェルノブイリ原発の運転員たちが信じられないような規則違反を何重にも犯し、それが破局につながったと結論づけていました。事故による放射能汚染はそれまで公表されていたよりも、はるかに広範囲に及ぶことも明らかにしていました。

 この時の紙面の印象が強烈だったからでしょう。私は当時からずっと、チェルノブイリ原発事故の主たる原因は「規則をきちんと守らなかった原発運転員たちの職務怠慢である」と思っていました。チェルノブイリ原発の原子炉が減速材として黒鉛を使う独特の原子炉であり、日米で使われている水を減速材とする軽水炉とは違って制御が難しいことは知っていましたが、「事故の主因は人的なもの」と思い込んでいました。

 ところが、七沢氏はこの本の中で、事故から5年後にソ連当局が「事故の主因は人的なものではなく、黒鉛減速チャンネル型炉の構造的な欠陥である」との報告書をまとめていたことを紹介しています。ソ連国家原子力安全監視委員会の副委員長だったニコライ・シュテインベルクがまとめた、いわゆるシュテインベルク報告書(1991年)です。

 黒鉛炉で核分裂を抑制するために挿入される制御棒には、挿入時に気泡を発生させる弱点があり、ある条件が重なると、制御棒を一斉に入れた際に核分裂反応が逆に急速に進む危険性があること。従って、制御棒の扱いや原子炉の運転には特段の配慮が必要であり、規則を厳格に守らなければならない、というのです。

 ソ連の原発運転員たちはそうした「黒鉛炉にひそむ弱点や欠陥」について全く知らされておらず、「電源喪失時にタービンの慣性回転によって少しでも発電し、非常電源として使えないか」という難しい実験を迫られ、規則から外れて実験を続けざるを得ない立場に追い込まれていった。それが事故を引き起こしたのであり、人的なミスを事故の主たる原因とするのは間違いである、とこの報告書は指摘しているというのです。

 事故原因の究明がなぜ捻じ曲げられてしまったのか。七沢氏は、その背景にも踏み込んでいます。事故直後から黒鉛炉の欠陥を指摘する意見はあったが、黒鉛炉の設計者はソ連の原爆および原発開発の功労者であり、科学界の重鎮であった。当時のゴルバチョフ書記長ですら、責任を追及できる状況にはなかった――激しい権力闘争の末に、運転員に責任をかぶせることで妥協が図られた、というのです。

 事故後のこうした経緯は、チェルノブイリの事故を息長くフォーローしてきた人々にとってはよく知られていることなのかもしれません。しかし、わき目でチラチラと見てきただけの私には、ひどく衝撃的な内容でした。

 ソ連の事故報告書に関する朝日新聞のスクープはもちろん立派なスクープですが、報告書そのものがソ連指導部の妥協の産物であり、真の原因が黒鉛炉の構造的な欠陥にあることを覆い隠すことを目的として作成されたのであれば、その報告書を大々的に報じることは、結果として「真実を隠すお手伝い」をしてしまったことになります。

 事実を正確に押さえ、的確に報道したとしても、時としてそれが真実に迫るどころか、真実から人々の目を遠ざける結果をもたらすこともある。メディアで働くことの難しさと、真実に迫ることの困難さを今さらながら突き付けられた思いです。

この『原発事故を問う』という本がもう一つ優れていると思うのは、チェルノブイリ事故の後も原発建設に邁進し、プルトニウムを取り出して使う「核燃料サイクル」に固執した日本の特異な姿と、その背景にも鋭く切り込んでいることです。随所に、今の福島原発事故の惨状を予告するような記述もあります。出版から16年たっても、少しも色あせない作品です。





*メールマガジン「おおや通信74」 2012年1月19日
 

 山形では、お正月に餅をたくさん食べます。種類も豊富です。クルミやゴマをすりつぶし、砂糖や醤油を加えて餅をくるみ、クルミ餅やゴマ餅として食べます。ずんだ餅というのは枝豆をすりつぶし、砂糖と塩少々を加えてまぶしたものです。

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 この正月にどんな餅を食べたのか。どの餅が一番好きか。大谷小学校の生徒80人にアンケートをしてみました。用紙には9種類の餅と「その他」の10項目を設け、一番好きなものには1、次に好きなものには2、3と番号を書いてもらう方式です。1位は3点、2位と3位はそれぞれ2点、1点として集計しました。結果は次の通りです。

     1年      2年     3年     4年      5年     6年      全校
1位   納豆     納豆     納豆     磯辺巻き  納豆     磯辺巻き  納豆
2位   ずんだ    磯辺巻き  きなこ    きなこ    あんこ    納豆     磯辺巻き
3位   きなこ     きなこ    磯辺巻き  納豆     ずんだ    あんこ    きなこ
4位   ゴマ      あんこ    あんこ    ずんだ    きなこ    ずんだ    ずんだ
5位   クルミ     雑煮     雑煮     雑煮     磯辺巻き  雑煮     あんこ
6位   磯辺巻き  ずんだ    ずんだ    クルミ     クルミ     きなこ    雑煮

 前回の調査(2年前)でもそうでしたが、今回も全体では納豆餅が断トツの1位でした。山形県全体で調査しても、たぶん同じような結果になるでしょう。納豆をあまり食べない関西や中国、四国出身の人にとっては驚きの結果かもしれません。

 全校集計の7?9位はゴマ餅、クルミ餅、おろし餅(大根おろしをまぶした餅)の順でした。「その他」では、なんと「何も付けない白い餅」を挙げた生徒が4人もいました。つきたての餅をそのまま食べるのがおいしい、というわけです。「砂糖醤油(さとうじょうゆ)を付けて食べるのが好き」という生徒もいました。

 私にとっては、磯辺巻きが全体で2位に入ったのが驚きでした。実は、2年前の調査では「調査項目」に入れていませんでした。私が子どもの頃(50年前)には、見たこともない食べ方だったからです。初めて見たのは、東京で暮らし始めてからでした。なぜ見たこともなかったのか。年配の人の話を聞いたら、疑問はすぐに解けました。

 昔の農村では、それぞれの家で臼と杵を使って自分たちで餅をつきました。一升ほどついて、それを手で小さくちぎって、納豆やきなこ、あんこを入れた器に落としてまぶし、それから食べていました。ですから、少なくとも正月に食べる餅には磯辺巻きのようなものが登場するはずがなかったのです。「昔の農村は貧しく、海苔のような値の張るものはめったに買えなかった」という見方もありました。

 磯辺巻きは、切り餅を買ってきて焼いたりあぶったりして食べる、都会の食べ方だったのでしょう。それがジワジワと東北の農村に広がり、ついには伝統の納豆餅を脅かすほど人気を集めるに至った、と考えられます。実際、生徒たちに聞いてみると、自宅で臼と杵で餅をついている家庭は今や1割ほど、自動餅つき器でつくのが8割、残りの1割は最初から市販の切り餅、という結果でした。この半世紀で、餅のつき方も食べ方も大きく変わり、人気度も変わってきたことが分かります。

 というわけで、今年最初の校長の話では「納豆餅と磯辺巻き」を取り上げました。餅の人気ランキングは地区の人たちに配布する学校便りでも紹介しましたが、生徒たちにあらためてこの人気ランキングを示し、納豆が世界のどの地域で食べられているかを話しました。

 調べてみると、納豆は朝鮮半島の一部や中国の雲南省、タイやビルマの山岳地帯、インド北東部のインパールやコヒマ、シッキム地方、インドネシアのジャワ島など、アジアの各地で食材として使われていました。私自身、かつての激戦地インパールを訪ねて取材した時や、インドネシアの首都ジャカルタや農村でご馳走になったことがあります。インドネシアの納豆は「テンペ」といい、日本の納豆とはかなり趣の異なる食べ物でしたが。

 納豆という身近な食材からも、世界にはいろいろな国や地域があることを学ぶことができます。磯辺巻きが躍進した背景には、餅つきの衰退と農村の食生活の変化という時の移ろいが映し出されています。この子たちが大人になり、親になった時、餅の人気ランキングはどうなっているでしょうか。




*メールマガジン「おおや通信72」 2011年12月9日


 ある校長先生からいただいた手紙の中に「自動販売機の故障と釣り銭」の話がありました。自動販売機が故障して、釣り銭がたくさん出てしまうようになった。その自販機をよく使う子どもが故障に気づいたが、知らんぷりして使い続け、何度もたくさんの釣り銭を手にした、という話です。

 これをどう考えるか。教師や保護者、地域の人たちの集まりで議論になり、「ごまかしは良くない。自販機の管理をしている人に教えてあげるべきだ」という意見と、「悪いのは自販機をきちんと管理していなかった業者だ。子どもに罪はない。むしろ、状況を理解して現実的な対応をしたその子は『生きる力』がある。偉い」という意見に分かれ、両方の意見が拮抗したのだそうです。

 私は心底、驚きました。物事にはいろいろな見方や考え方があって当然です。「自販機の故障に気づいて釣り銭でもうけるなんて、はしっこい子だなぁ」という受けとめ方もあるでしょう。けれども、大人たちから「生きる力がある。偉い」という意見が出て、しかもそれが少数意見ではなく、正義派と相半ばするくらいいるとは、思いもよりませんでした。

 世の中がきれい事だけで済まないことは確かです。誰しもつい、うそをつき、ごまかしをしてしまうことはあるでしょう。けれども、大人たちが「それもありだ。それこそ生きる力だ」と言ってしまっていいはずがありません。愚直に「あるべき姿」を説く。理想を語る――それが大人の役割ではないでしょうか。
 正直で公平であることが尊ばれる。そういう社会こそ真に豊かな社会である、と私は信じています。
(大谷小学校PTA便り「おおや」第86号 コラム「豊かさとは何か(8)」を一部手直ししたものです)





*メールマガジン「おおや通信71」 2011年12月1日


 高級ブランドとはまるで縁がない私のような人間でも、さすがにルイ・ヴィトンという名前は知っています。通勤電車の中で、LとVを組み合わせたロゴのあるバッグを肩にした女性をしばしば見かけました。「猫も杓子も同じバッグを肩にかけて、むなしくないのかね」と、ひねた目で見ていたものですが、このルイ・ヴィトンが東日本大震災で打撃を受けた宮城県の牡蠣(かき)養殖の支援に乗り出したと聞いて、驚きました。

 3月下旬の「おおや通信58」で、気仙沼市の牡蠣養殖業、畠山重篤(しげあつ)さんのことを紹介しました。「おいしい牡蠣を育てるためには海が豊かでなければならない。海が豊かであるためには川が澄んでいなければならない。そのためには山が豊かでなければならない」と考え、水源地で植林を始めた人です。「森は海の恋人」と名付けた運動は国語や道徳の教科書でも紹介され、広く知れ渡りました。

 その畠山さんも3月の大津波で養殖施設をすべて壊され、苦しんでいましたが、それを伝え聞いたルイ・ヴィトングループが総額6000万円の支援を申し出、最終的には2?3億円の拠出をすると約束してくれたのだそうです。

 高級バッグを売る会社がなぜ、牡蠣養殖の応援をするのか。話は40数年前にさかのぼります。牡蠣はフランス料理に欠かせない食材です。フランスでも長く養殖が行われてきましたが、1970年ごろ牡蠣に伝染病が広がり、養殖事業が危機に陥りました。この時、窮状を救ったのが宮城県の漁民でした。牡蠣のタネ貝を大量に送り、フランスで牡蠣養殖が途絶えるのを防いだのです。

 フランスの漁業関係者はそのことを忘れていませんでした。フランス料理のシェフたちも覚えていました。「宮城の人たちに恩返しを」との声が湧き上がり、ルイ・ヴィトンもその輪に加わったのです。創業のころ、ルイ・ヴィトンは木枠を使った旅行鞄を作り、ビジネスの基盤を固めました。そのこともあって、木や植林に関心を持っており、「森は海の恋人」運動に心を動かされたのかもしれません。

 ルイ・ヴィトンの経営陣はこの夏、大震災に見舞われ、苦しんでいる畠山さんをパリに招いて被害状況や復興計画に耳を傾け、その場で支援を決めました。「助けたら、返してくれる。手を差し伸べてくれる。それは世界共通なんだなぁ、と知りました」と畠山さんは語っていました。「養殖を再開したくても資金の目途が立たず、途方に暮れていた時期だったので、助かりました。日本の政府や県からは何の支援もない時期でしたから」とも述べていました。

 支援の見返りにルイ・ヴィトングループが求めたことは、たった一つだそうです。畠山さんが暮らし、仕事をしている宮城県気仙沼市の唐桑(からくわ)半島の景色のいい所にフランス料理のレストランをつくり、おいしい牡蠣料理を出すこと。そのために、元気な牡蠣をまた育てる。それだけです。

 「粋(いき)だなぁ」。普段、使うこともない「粋」という言葉が思わず口をついて出てきました。

 *「森は海の恋人」運動やその後の展開については、畠山さんの近著「鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ『鉄』物語」(小学館)を読むことをお薦めします。



*メールマガジン「おおや通信70」  2011年11月9日


 どんなにひどい事にも、少しはいい事がある。今回の東日本大震災に即して言うならば、常日頃、偉そうな顔をしている政治家や中央省庁の官僚たちがいざという時にいかに役に立たないか、広くみんなに知れ渡ったのは、数少ない「いい事」の一つでした。
 
 今年7月の「おおや通信65」で、文部科学省が「地震があっても原子力発電所は安全です」というお粗末な副読本を作って全国の小中学校に配り、大震災の後にひっそりと自分の役所のホームページからその内容を削除していたことを紹介しました(平成の「墨塗り副読本」事件)。

 その文部科学省が、今度は「放射線について考えてみよう」という小学生向けの副読本を作りました。「あれだけ恥ずかしい内容の副読本を全国にバラまいて世間のもの笑いになったのだから、今度こそ気を引き締めて、しっかりした副読本を作ったのだろう」と思って、学校に届いたサンプルに目を通しました。
 一読して、フツフツと怒りが湧いてきました。農村に戻って小学校の校長になり、比較的穏やかな日々を送っているので、自分ではだいぶ温厚になったつもりでいたのですが、やはり本性はそんなに急には変わらないようです。怒りが爆発しそうになりました。

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 副読本の表紙からして、ふざけている。黒板にスイセンの花と雲を描き、「スイセンから放射線?」「空気からも放射線?」と書いてある。含意は明らかです。放射線は自然界にもごく普通にあるものです。怖がることはないのです――と印象づけたいのでしょう。しかし、この副読本は福島をはじめとする放射能汚染地域の小学校にも配られるのです。汚染地域に住む子どもや親たちが今、知りたいのは、そんなことではないでしょう。このような副読本を作って配ろうとする、その心根が私にはまったく理解できません。

 もちろん、科学的には文句を付けられない内容になっています。放射線は、ドイツの科学者レントゲンが偶然、発見したものであること。身の回りにもごく普通にあること。エックス線撮影をはじめ医療などさまざまな分野で利用されていること。淡々と列挙し、「放射線の量と健康」のところは「一度に100ミリシーベルト以下の放射線を人体が受けた場合、放射線だけを原因としてがんなどの病気になったという明確な証拠はありません。しかし、がんなどの病気は、色々な原因が重なって起こることもあるため、放射線を受ける量はできるだけ少なくすることが大切です」と結んでいます。

 最後のページにある「事故が起こった時の心構え」には、嗤(わら)うしかありませんでした。「うわさなどに惑わされず、落ち着いて行動することが大切です」と、堂々と記述しているのです。
 福島の原発事故が深刻さを増すにつれて政権の首脳部がパニックに陥って怒鳴り散らしたこと、事故対応の拠点になるはずだった現地のオフサイトセンターが停電と道路渋滞で機能しなかったこと、128億円もかけて開発した放射性物質の拡散予測システム(SPEEDI)のデータを国の原子力安全委員会が出し渋り、役に立たなかったこと・・・。こうした政治家と官僚の醜態は今や周知の事実です。政府がきちんとした対応をしなかったからこそ、みんながうわさに右往左往し、落ち着きを失ってしまったのではなかったか。反省の言葉もなく、よくぞ「落ち着いて」などと書けたものです。

 この副読本を最後まで読んで気づいたことがあります。それは、「はじめに」という文章で福島の原発事故に触れているものの、本文では最初から最後まで「原子力発電所」という言葉も「原発」という言葉も一度も出て来ないということです。「放射線を使っている施設で事故が起こった時には」などと、最後まで一般論で表現しているのです。
 この副読本を作った人たちは良心の呵責を感じないのでしょうか。過去の苦い経験から謙虚に学ぶということができないのでしょうか。あの恥ずべき原子力の副読本(「わくわく原子力ランド」と「チャレンジ!原子力ワールド」)の作成にかかわった人物のうちの何人かが、また編集委員に名を連ねているのを見つけた時には、卒倒しそうになりました。
 
 副読本の発行は文部科学省の名前でなされています。担当部局は研究開発局の開発企画課というところです。担当者に電話して「福島の原発事故と除染などの対応について盛り込むことをなぜしなかったのですか?」と詰問しました。返ってきた返事は「当然、そういう議論もありましたが、今回はまず基礎知識を掲載して次の改訂で考えましょう、となりました」というものでした。

 難しいこと、意見が分かれることは避けて、先送りする。未曾有の大震災と原発事故でこれだけ痛い目に遭い、批判にさらされているのに、官僚とそれを取り巻く人たちの保身術には、なんの影響も及ぼしていないのでした。こういう人たちが「国家百年の計」などと口にしているのかと思うと、「やはり現場がしっかりするしかない」とあらためて強く思うのです。

 *注 小学生のための副読本「放射線について考えてみよう」は、文部科学省のホームページにアップされています。URLは次の通りです。
http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1311072/syougakkou_jidou.pdf





*メールマガジン「おおや通信69」 2011年10月21日


 今年3月までの1年間、朝日新聞アスパラクラブのウェブサイトで世田谷の高橋章子さんとコラムを連載し、この「おおや通信」でも配信させていただきましたが、コラムの内容に加筆して本として出版しました。高橋さんとの共著です。前書きのみ配信させていただきます。
 京都の「かもがわ出版」が発売元で、10月22日から全国の書店やネット販売でお求めになることができます。22日の朝日新聞1面に広告も掲載される予定です。
 本の収益はすべて、山形の地域おこしのために立ち上げたNPO「ブナの森」の運営資金にする予定です。「ブナの森」オフィスでも、著者割引で販売しています。メールかファクスでご注文いただければ、郵送料を当方で負担し、料金後払い(郵便振替による振り込み)で送らせていただきます。お知り合いの方、とくに教育に関心をお持ちの方にご紹介いただければ、幸いです。

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      ◇      ◇

 新聞はいつも、哀しみと怒りに満ちている。
大震災に打ちのめされ、放射能におびえた今年は、いつにも増して深い哀しみと怒りの言葉が紙面にあふれた。命のはかなさと重さをしみじみと感じさせられた年でもあった。

 新聞記者になって10年余りたった頃、私はアフガニスタン戦争を取材するため、この国を初めて訪れた。1989年の春だった。首都のカブールには連日、ロケット弾が降り注ぎ、多くの血が流れていた。
 ある日、郊外にある難民キャンプを訪ねた。ハエが飛び交い、汚物の臭いが漂う中で、数万人のアフガン人が暮らしていた。ここで、真っ白なひげをたくわえ、眉間に深いしわを刻んだ老人に会った。戦闘に巻き込まれて、孫を亡くしたばかりという。

 「私のような年寄りが生き残り、命を授かって間もない孫が死んでいく。耐えがたい」
そう言って、命は一つひとつが「幸運の結晶」であること、どの命もかけがえのない存在であることを訥々(とつとつ)と語るのだった。扉の詩は、この老人の言葉をほぼそのまま採録したものである。
 それまでに聞いたどんな言葉よりも、その後に聞いたどんな表現よりも、胸に重く沈んで消えなかった。

 ゆえあって、30年勤めた新聞社を早期退職し、2009年の4月から故郷の山形県で公募の民間人校長として働き始めた。どんな事情があったのかは本書を読んでいただくとして、にわか校長として働くことを決めた時、私は「子どもたちに贈る言葉を一つだけ選べ」と言われたら何を選ぶのだろうか、と自問した。
 数日考えて、思い浮かんだのは、切なくも懐かしいアフガンの地で出会ったこの老人の言葉だった。

 学校運営の指針として「いのちは『幸運の結晶』」という言葉を掲げたものの、あまりにも重い言葉であり、子どもたちの前でその意味や背景を詳しく語ったことはまだない。先生たちに押しつけるつもりもない。心の片隅にかすかにとどまり、いつか思い起こすことがあれば、それで十分ではないか、と思っている。

 この本は、報道の現場から教育の一線に身を転じて感じたこと、考えたことを綴ったものである。第一部の「校長と母の放課後メール」は、2010年3月から1年間、朝日新聞アスパラクラブのウェブサイトに連載された同名のコラムをほぼそのまま収録し、一部加筆した。コラムは、世田谷在住で3児の母である高橋章子さん(投稿雑誌「ビックリハウス」の元編集長)と1週間おきに執筆したもので、往復書簡のような形式になっている。

 第二部の「メールマガジン『おおや通信』」には、上記のウェブコラムの連載が始まる前に私が知り合いに配信したもの(第一話?第八話)と、コラムの連載終了後(東日本大震災の後)に配信したもの(第九話以降)の両方を載せている。

 給食費の不払い、フィンランドの教育、学校のIT環境、小学校での英語教育、食農教育など、この本が扱うテーマは多岐にわたるが、もともとエッセイ的な内容であり、どこから読み始めても大丈夫な構成になっている。グラビアの写真やイラストを眺めながら、関心のあるところからお読みいただきたい。
                                          2011年10月       長岡 昇




*メールマガジン「おおや通信68」 2011年9月26日



 秋分の日の連休を利用して、久しぶりに東日本大震災の被災地に復興のお手伝いに行ってきました。行き先は宮城県の七ケ浜町。私が住む山形県の朝日町とは、「海の子山の子交流」という事業で小学生同士が行き来している間柄で、朝日町からは大勢の人がボランティアに駆けつけています。私も2回目の訪問でした。

 一人でマイカーに乗って出かけたのですが、東北自動車道の仙台近郊の出口には全国からボランティアに駆けつけたバスや乗用車が長い列を作っていました。車の数が多いこともあるのですが、被災やボランティアの証明書があると高速料金が免除になるため、ほとんどの車がETCの出口ではなく普通の出口に詰めかけ、そのために渋滞しているのでした。

 七ケ浜町では、海苔(のり)の養殖事業をしている星博さん宅で、「タネ貝の糸通し」という仕事をしてきました。海苔養殖では、まず牡蠣(かき)の貝殻に海苔のタネ(胞子)を植え付け、それがある程度育ってタネ貝になった段階で、2枚のタネ貝を細い麻糸でつないで、それを養殖用の魚網に播いて海苔を育てるのだそうです。


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自宅裏の作業場で私たちに「タネ貝の糸通し」を教える星博さん(中央)と奥さん(左端)

 

 一連の作業はほとんど機械化され、一人でも出来るようになっていたのですが、大津波で星さんが所有する機械や設備はすべて流されてしまいました。このため、昔やっていたように手作業でやらなければならなくなり、人手が必要になったのでボランティアの出番、となったわけです。仙台市在住の沢田さんと品田さん、茨城県から駆けつけた西尾さん、私の4人で、星さん夫妻の指導を受けながら、2000個のタネ貝の糸通しをしました。
 
 海水に浸したタネ貝を拾って糸を通す作業を繰り返したのですが、仕事をしながらお聞きした星さんの話がとても面白かった。星さんのうちは半農半漁で、海苔の養殖と稲作で生計を立てています。職人気質の強い人で、海苔の養殖でも稲作でも工夫を重ね、独自の道を貫いている人でした。

 海苔が牡蠣の貝殻である程度まで育ったら、いったんゴシゴシとブラシをかける。「ストレスを与えて、なにくそ!という気にさせるのです」と星さん。稲作の苗も、芽を出した後、何度もわざとローラーをかける。そうすると、苗は根っこをしっかり張ってはい上がろうとする。そして、丈夫に育つと言います。適度にしごきながら育てる。何やら、人の育て方を教わっているようでした。

 抗生物質や農薬を使わず、EM菌という自然の素材を使って育てることにこだわり、販路も自分で開拓したのだそうです。「七ケ浜の星さんの海苔はいい」という評判があちこちの寿司職人に口コミで広がり、今ではルーマニアにある寿司店にまで海苔を販売しているとか。時代の流れを読む力のある人なんだなぁ、と感じ入りました。

 一緒にボランティアとして働いた沢田さんからも、いい話をお聞きしました。「はるかのひまわり」が七ケ浜町でも収穫の時期を迎えたのだそうです。

 報道でご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、このひまわりは1995年の阪神大震災で亡くなった神戸市の加藤はるかさん(当時11歳)の自宅の庭に咲いていたものです。そのひまわりから得た種が2004年の新潟中越地震の被災地に贈られ、栽培が広がりました。

 そして今回。神戸から直接、あるいは新潟県の中越を経由して、さまざまなルートで南三陸町や気仙沼市、石巻市、七ケ浜町などに「はるかのひまわり」の種が届けられ、花を咲かせたのです。ひまわりには「放射能を除染する効果はなかった」と報じられました。けれども、苦難を経験した人と人をつないで、みんなを元気にしています。

 6月14日の河北新報によれば、生徒の7割が津波に呑み込まれた石巻市の大川小学校にも届けられました。その後、大川小が間借りしている飯野川第一小学校の校庭でたくさん花をつけたそうです。ひまわりの種を届けることで元気の素を届ける。それが花開いて、また次に元気がつながる。参加している人たちは「はるかのひまわり」プロジェクトと呼んでいます。素敵なプロジェクトです。

 これがローカルニュースにとどまっているのが、私には信じられません。もっと深く取材して、全国の読者や視聴者に届けたい。そう思う記者がなぜいないのか不思議です。


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宮城県七ヶ浜町の松ヶ浜漁港。津波でがれきだらけになったが、片づけがほぼ終わり、漁業が再開されつつある



  *星博さんの海苔や米について知りたい方は次のサイトへ
http://www.hoshinori.jp/rice.html
 *「はるかのひまわり」プロジェクトについては次のサイトをご覧ください
http://www.season.co.jp/haruka_sunflowerFB.htm



*メールマガジン「おおや通信67」 2011年9月6日



 いつもの年なら、秋は農民にとって待ちかねた、胸躍る季節です。春先から流した汗の結晶を手にする季節だからです。けれども、この秋は農民、とりわけ東北の農民にとって、今までに経験したことがないほど憂鬱な季節になってしまいました。福島の原発事故の影響で、果物や野菜の出荷価格が暴落しているからです。

 暴落は8月下旬の桃から始まりました。桃の大産地である福島県には例年、桃を買い求める観光客が直売所に押し寄せるのですが、当然のことながら今年はその流れがピタッと止まってしまいました。桃の生産農家はやむなく、青果市場に出荷しましたが、これまた当然のように買いたた かれ、出荷価格は例年の半分以下、日によっては10分の1まで下がってしまった、と聞きました。
 市場に桃があふれた結果、やはり桃の産地である山梨や山形の桃の出荷価格も暴落しました。山形の生産農家は「福島の農家には投げ売りのような出荷をやめて欲しい」と嘆くのですが、そうもいかない事情があります。福島の生産農家にしてみれば、実際に出荷して売上伝票を手にしなければ、東京電力に事故による損害賠償を請求する証拠が得られないからです。「暴落」を示す出荷伝票をもとに「これだけの損害を被った」と主張するしかないのです。
 9月に入り、福島産の桃の出荷が終わったため、桃の値段は例年近くまで戻したそうですが、山形県の農協関係者は「これから梨の出荷が始まる。続いてブドウ、リンゴ、米の出荷も始まる。すべての作物で桃と同じことが繰り返されるのではないか。暴落がどの範囲まで広がるのか予想もつかない」と顔を曇らせています。畜産や酪農だけでなく、野菜栽培や稲作への打撃もきわめて深刻です。

 憂鬱な秋が「今年限り」ならば、まだ「なんとか乗り切っていこう」という元気も出るでしょう。しかし、放射性物質による汚染の影響が何年続くのか、汚染のレベルが低くなったとしても風評被害は収まるのか、答えられる人は誰もいません。なにせ、4基もの原発がこれほど長期にわたって放射性物質をまき散らした前例はないのですから。
 なんと罪深い事故であることか。原発の安全神話を唱えてきた政治家と官僚、電力業界、研究者たちの無責任さにあらためて強い怒りを覚えます。そして、自分を含めて原子力発電が持つ可能性と危険性を冷静にバランス良く伝えることができなかったメディアも、その責めから逃れることはできません。

 バラ色の夢を語る者には注意せよ――昔からそう言われてきたのに、なぜ同じような過ちを繰り返してしまうのか。人はついに歴史から学ぶことができないのか。秋雲がたなびき始めた空を見上げながら、考え込んでいます。




*メールマガジン「おおや通信66」 2011年8月23日



 東北の小学校の夏休みは短く、大谷小学校でもきのう(22日)から2学期が始まりました。始業式では、校長として「よく遊びよく学べ」という夏休みモードから「よく学びよく遊べ」という勉強モードに切り替えましょう、と呼びかけたうえで、子どもたちに「今年の2学期は特別な2学期になりました」という話をしました。

 東京電力の原発事故で大量の放射性物質がまき散らされたため、福島県の多くの学校ではグラウンドを使えない状態が続き、親たちが不安と不満を募らせています。そして、夏休みを前に「もうこんな状態には耐えられない」と、子どもを県内外に避難させる決断をした親がたくさん出てきました。「原発疎開」に拍車がかかっているのです。
 2学期から山形県内に転校した福島県の生徒は、小学生だけで280人を上回りました。夏休み前に転入した生徒を含めると、山形県内の小学校への転入者は900人を超えます。もちろん、中学生や高校生も来ています。山形県だけでなく、宮城県や茨城県、北関東や首都圏にも、ものすごい数の生徒が転校していきました。
 読売新聞福島版によると、原発事故の後、福島県内でこれまでに転校した小学生と中学生は合計で1万4000人に上り、全体の1割近くに達しています。このうち、同じ福島県内の放射線レベルの低い地域に転校した生徒が4割、残りの6割は県外への疎開です。

 始業式の校長あいさつで、私は「この100年間で日本の子どもたちが危ないところからたくさん逃げ出したのは2回しかありません。先のアジア太平洋戦争の時、空から爆弾が降ってくる空襲から逃れるための疎開と、今回の原発事故による疎開の2回です。危険なところから危険でないところに移ること、それを疎開と言います。3月の大震災とそれに続く原発事故によって、そうした疎開が始まり、2学期から新しい学校に移る生徒がたくさん出てしまったのです。今年の2学期は『特別な2学期』になりました。そのことを胸に刻んでおきましょう」と述べました。
 続けて「多数の日本人が放射能の被害を受けるのはこれが3回目です」とも説明しました。「1回目は8月6日の広島への原爆投下、2回目は8月9日の長崎への原爆投下。そして、3回目が今回の福島の原発事故による被害です。そのことも、よく覚えておきましょう」と結びました。
 2学期の始業式の校長あいさつとしては、異例の長いあいさつでしたが、生徒たちは静かに聞いていました。子どもなりに、なにかとてつもないことが起きていることを感じているのだと思います。

 疎開というのは本来、都会から人の少ない田舎に移動することを表現する言葉のようですが、私はあえて「原発疎開」という言葉を使いたい。ほかの言葉が思い浮かばないからです。疎開する生徒もつらいし、残る生徒もつらい。福島県では、なんとも切ない状況が続いています。「日本の原子力発電所では大きな事故など起こり得ない。クリーンで効率的な電力源です」と唱えて原発建設を推進し、事故への備えを怠ってきた人たちの罪深さをあらためて思います。




*メールマガジン「おおや通信65」 2011年7月5日



 NHKが今朝のニュースで「文部科学省は原子力に関する小中学生向けの副読本を見直すことを決めた」と報じていました。副読本は、2010年に全国の小中学校に配布ずみとのこと。いったい、どんな副読本なのか。大谷小学校にもあるかと思って探してみたのですが、卒業した生徒にすべて配ってしまったようで、予備が見つかりませんでした。

 やむなく、ネットで検索してみました。副読本のタイトルは、小学生向けが「わくわく原子力ランド」、中学生向けは「チャレンジ!原子力ワールド」というものでした。東日本大震災と福島の原発事故を経験した今となっては、まるでブラックユーモアのようなタイトルです。日本は今や「びくびく原子力ランド」状態だし、政府と東京電力は先が見えないまま「原子力ワールドにチャレンジ」し続けています。

 タイトルだけではありません。内容もまた、空恐ろしさを感じさせるものでした。科学的なデータを積み上げて丁寧に作られていますが、「石油はやがて枯渇する」「石炭は二酸化炭素を出す」「自然エネルギーは天候に左右される」と進み、最終的には「安全対策をほどこしながら原子力発電を推し進めるのがベスト」と誘導する構成になっています。

 こんな小さな副読本でも「原子力発電を推進する」という国策に沿って、全国の教師が教え、全国の生徒が学ぶ仕組みがちゃんと整っているのです。いつの時代でも、教育はその時代の政府の意向を映し出す鏡なのだ、とあらためて痛感させられます。

 スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故にも一応触れているものの、「日本では事故が起きないように、また起こったとしても人体や環境に悪影響をおよぼさないよう、何重にも対策が取られています」と自信たっぷりに記述し、大きな地震が来ても原子炉は「自動的に止まる仕組みも備えています」といった具合です。

 止まった後も、原子炉はものすごい熱を出し続けること。その熱を取り除くことができなくなれば大変なことになり、その影響が広範囲に長く続くこと。そうしたことには触れていません。地震対策と事故時の「オフサイトセンター」についてはたっぷりと書きながら、津波については全く触れていないのも、今となっては象徴的です。

 この副読本の内容は、3月の大震災までは誰でも文部科学省のホームページからダウンロードすることができました。ところが、震災後、文科省はこの副読本のPDFデータをホームページから削除してしまったのだそうです。なにやら、アジア太平洋戦争に敗れた後、GHQの命令で教科書を墨で塗りつぶした史実を連想させます。やや大げさに言えば、平成の「墨塗り副読本」事件といったところでしょうか。

 しかし、ネット社会が怖いのはこういう時です。文科省は削除したつもりなのでしょうが、ネット上には副読本の内容が様々な形で残っています。この副読本をもとに教師用のガイドブックを作っている会社があり、その内容をネット上にアップしたりしているからです。そのURLは下記の通りです。
 それぞれの末尾には、この副読本の作成にかかわった面々の名前も記されています。天網恢恢、疎にして漏らさず、と言うべきか。

▽小学生用の原子力副読本(教師用)
http://kasai-chappuis.la.coocan.jp/NuclearPowerPlant/pdf/el_t_wakuwaku.pdf

▽中学生用の原子力副読本(同)
http://kasai-chappuis.la.coocan.jp/NuclearPowerPlant/pdf/jr_t_challenge.pdf



*メールマガジン「おおや通信64」 2011年6月14日




 年に3回発行される大谷小学校のPTA便り「おおや」に「豊かさとは何か」というタイトルでコラムを書いています。去年は食にまつわる話を書きました。今年は東日本大震災を通して、豊かさとは何かを考えてみたい、と思っています。

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 大谷小PTA便り「おおや」第85号   連 載 「豊かさとは何か(7)」

 津波について書かれた本を一冊だけ読みたい、という方には作家、吉村昭の「三陸海岸大津波」という本をお薦めします。今から40年も前に書かれた本ですが、明治29年と昭和8年に三陸の沿岸部を襲った大津波がどのようなものであったのかを、生々しく克明に綴っています。

 執筆した当時、この地方にはまだ明治の大津波を経験したお年寄りが生きていました。吉村は村々を歩き回って、そうしたお年寄りたちから直接、話を聞いてこの本をまとめたのです。
 例えば、岩手県田野畑村の中村丹蔵の証言。中村は当時10歳で、山の中腹にある家にいた。押し寄せた津波は山をはい上がり、家の中にまで流れ込んだ。その家は海面から50メートルの高さにあった――。
 岩手県の釜石や田老、宮城県の気仙沼や志津川といった、今回の震災でも被災した地名が次々に出てきます。そして明治の時にも、津波は各地で20から30メートルの高さに達していたことが分かります。

 今回の大津波について「千年に一度」と表現する人たちがいます。確かに、地震の規模を示すマグニチュードに着目すれば「千年に一度」と言ってもいいのかもしれませんが、三陸に押し寄せた津波は明治のものとそれほど大きな違いはありませんでした。
 私たちの社会は、遠い過去の津波の傷跡を丹念に洗い出し、記録する作家を生み出すほど豊かになった。けれども、そこから教訓を汲み出し、きちんと防災に生かすだけの豊かさには達していなかった、ということなのかもしれません。



*メールマガジン「おおや通信63」 2011年6月7日



 大震災の発生以来、おびただしい量のニュースが流れた。テレビはNHKが圧倒的にいい。もともと、民放とは比べ物にならないくらい取材陣が手厚く、政府の地震対策に深く組み込まれていることもあって有利な立場にあるのだろうが、それにしても今回の震災を多角的に捉え、深く伝えようとする気概を感じる。

 隠居した年寄りの小言のようで気が引けるのだが、新聞各紙の報道は物足りない。現場の記者も本社の編集者も、一生懸命に目を血走らせて働いていることは分かるのだが、「映像では伝えきれないものを抉り出して活字にする」という覚悟のようなものがあまり感じられない。

 原発事故が起きた時、そこにいた東電と協力会社の人たちはどう動いたのか。首相官邸や東電本社はどう対処したのか。政府が住民に避難を指示した原発周辺20キロ圏で何が起きているのか。知りたいことが十分に伝わって来ない。東京の編集幹部は「命の危険、健康を害する恐れのあるところに取材に行けとは言えない」と手綱を引き締めているのではないか。ここ十数年で次第に強まってきた傾向である。

 突っ込めばいい、というものではない。が、危険を冒さなければ知りえないこともある。自らの意思で、編集幹部の制止を振り切ってでも前に進む記者がいなくなっているのではないか。経験したことのない大震災・大事故を取材するためには、発揮したことがないほどの覚悟が必要だというのに。

 その覚悟を、週刊現代の一連の報道に感じるため、なおさら新聞報道への落胆が大きいのかもしれない。正直言って、新聞記者時代は「週刊誌に負けてたまるか」と上から目線で見ていたが、今回の週刊現代の震災報道、とりわけ福島原発事故の報道には目をみはるものがある。多少、「危険性をあおり過ぎ」と思われる記事もあるが、それを補って余りあるほど、優れた報道が多い。

 その中でも「白眉」はノンフィクション作家、佐野眞一氏の福島原発半径20キロ圏のルポである。5月28日号と6月4日号に連載された。佐野氏は「お上の許可」など得ないで20キロ圏に入り、丹念に見て回り、人々の話にじっくりと耳を傾けて、何が起きたのか、何を考えたのかを綴っている。作家としての地位を確立している人だが、淡々としたその文章からほとばしる気概と深い洞察にうなった。
 事故の第一線で働いた原発労働者の話を聞いた後、佐野氏は記す――
◇      ◇      ◇
 「(原発労働者の世界は)一言で言えば、人間の労働を被曝量測定単位のシーベルトだけで評価する世界のことである。一定以上の被曝量に達した原発労働者は、使い物にならないとみなされて、この世界から即お払い箱となる。

 それは、一回限りで使い捨てされる放射能防護服と同じである。マルクス的に言うなら、“疎外された労働”の極限的形態が、原発労働ということになる。
 原発労働者は、産業的にはエネルギー産業従事者に分類される。だが、同じエネルギー産業に携わっていても、炭鉱労働者の世界とは根本的に違う。
 炭鉱労働も過酷な労働には違いない。だが、そこから無闇に明るい「炭坑節」が生まれた。それは、死と隣あわせの辛い労働を忘れるための破れかぶれの精神から誕生したにせよ、その唄と踊りはあっという間に全国を席巻していった。(中略)

 だが、原発労働からは唄も物語も生まれなかった。原発と聞くと、寒々とした印象しかもてないのは、たぶんそのせいである。原発労働者はシーベルトという単位でのみ語られ、その背後の奥行きのある物語は語られてこなかった。(中略)
 原発のうすら寒い風景の向こうには、私たちの恐るべき知的怠慢が広がっている。
              (週刊現代2011年5月28日号のルポ前篇から抜粋)
◇      ◇      ◇
 すでに読んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、まだの方には一読をお薦めします。佐野氏のルポに加えて、6月4日号に掲載された「ある老科学者からの伝言」(NHKのETV特集のフォーロー記事)も誠実さを感じさせる記事でした。
 「図書館に行って週刊現代をめくる時間がない」という人には、山形の地域おこしNPO「ブナの森」の事務局が特別にサポートサービスをします。下記のメールアドレスもしくは電話&ファクス番号に連絡して「週刊現代の記事を送ってください」と申し出てください。

NPO「ブナの森」
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*メールマガジン「おおや通信62」 2011年5月14日




 新聞社時代の友人が「チェーンソーを使えるボランティアを求む」との要請に応えて、
宮城県気仙沼市の被災地に行き、がれき撤去の手伝いをしてきました。
10日夜に仙台市のカプセルホテルに泊まり、11日に気仙沼入り。被災地で1泊して
2日間、作業をして戻ってきたそうです。以下はそのルポです。
転送の了解は得ましたが、見出しは長岡が勝手に付けました。

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 気仙沼市本吉地区で11、12の2日間、流された民家の、残された基礎部分のがれきの処理と小さな漁港に突き出た「象頭山」という、おそらく海の安全の祈りの場であろう石碑と祠のある小さな岩山周辺の片づけを手伝って、今夜自宅に戻りました。遠かった。

 そもそも、(前日の10日)仙台で宿泊できる宿がない。震災で配管などがいかれてまだ再開できないところもあるうえ、あっても自治体や支援団体、インフラ系の会社の応援組に占拠されて、駅に遠いビジネスホテルもカプセルホテルも満員御礼。2時間ほどさがしてようやくカプセルホテルが1人分だけ空いたので運良く泊まれたが、個人でボランティアに行くのは、車中泊がいちばんと思う。

 当の本吉地区では、まだ電気もきてなく、闇夜にランプで札幌、神戸、岐阜からきた団塊の世代、昭和17年生まれのおっさん連中と一杯飲みながら、テントや車の中で寝るのはなんだか野外キャンプの気分。定年後の自由な生き方ってのは、こういうものだと何となく思う。

 魚網、泥、瓦、ガラス、電線、電柱、キティちゃん人形、袋入りのせんべいが絡み合いもつれ合って歩道に乱舞している。倒木、流木、30センチほどの厚さをもつシノ竹が、その土を抱えたままはぎとられ、そこにロープやら網がからんだまま道に放り出されているのを、人形やロープや漁網をわけながらチェーンソーで切り、運んだ。チェーンソーの歯は時々、小石や電線やビニールひもを食い千切っては折れ、2本もってきた歯もほとんど敗退した。それでも、「象頭山」は若者ら10人ほどで一日でだいたいきれいにした。地元のあばちゃんが「きれいになったねぇ」とよろこんでくれたのは、うれしかったね。しかしーー。
 自然の力はすごい。人間はぜんぜんすごくない。そう思ったね。

 本吉地区はちょうど三陸道の終点、登米・東和インタから南三陸町に入って国道45号線を志津川、歌津と上がって気仙沼市に入ってすぐの地区。小さな入り江の集落なので、ボランティアの手作業でもなんとか少しずつかたづけられ、復興のふの字くらいは見えますが、あの南三陸町をみると、ほとんど絶望的です。

 2か月が過ぎても、あれはテレビや新聞が伝える「壊滅的な被害」なんてものではない。むしろ「がれきの海」です。人間社会をつくっていたコンクリート、自動車、鉄筋、ブロック、アスベスト断熱材、タイヤ、木材、金属の塊がもつれ合い、からみあって海となっている。そこに活動する自衛隊やボランティアや大型重機は、まるで大海にあらがうアリのようでした。人間が生産してきたものはうんこと小便とゴミだけだ。

 人間のことだからきっと徐々に復興するでしょう。科学と進歩を信奉して津波にも地震にも負けない建物を作るかもしれません。「自然災害に強く、安全な原発」もまた復興させることでしょう。でも、自然を相手に戦ったら負けるにきまってます。自然に逆らったら、またこっぴどい目にあうでしょう。人間の「すごくなさ」を本当に実感しなければならないと、2か月後の現場をみてそう思いました。




*メールマガジン「おおや通信61」 2011年5月10日



 ご報告するのが遅くなってしまいましたが、山形県河北町の日帰りボランティアバスに同乗して、4月24日(日)に宮城県の石巻市に復旧のお手伝いに行ってきました。
 総勢26人。マイクロバスとワゴン車に分乗して朝6時に河北町役場を出発、9時すぎに石巻専修大学のキャンパスに着きました。ここに石巻市の災害ボランティアセンターがあり、各地から来たボランティアに仕事を割り振っています。私たちは、石巻漁港に近い不動町に向かうよう要請されました。宮城県出身の漫画家、石ノ森章太郎氏の記念館を右手に見ながら橋を渡ったところが八幡町、その隣が不動町でした。


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 ここで班分けされ、私を含む10人はお年寄り夫婦の家の家財出しと泥かきをすることになりました。おばあちゃんと手伝いに来た娘さん2人、娘さんのいとこ(男性)の4人で作業しているところに、10人の助っ人が加わったわけです。河北町の谷地高校の女子生徒、これで5回目の参加という21歳の若者、初老の夫婦など多彩な顔ぶれでした。
 泥だらけになった箪笥や畳を次々に運び出し、歩道沿いに並べていきました。津波の襲来から1カ月半もたっているのに、畳はまだじっとりと濡れていました。重いものは2人では運べないほどでした。畳をはずすと、床には濃いこげ茶色の泥が1センチ近い厚さで積もっていました。これをスコップでこすり取り、土嚢に詰めていきます。

 家のあらゆる場所に泥、泥、泥・・。津波が海底の泥を巻き上げて押し寄せ、残していったものです。青森から岩手、宮城、福島、茨城、千葉までのすべての沿岸部に泥を伴って押し寄せた津波。なんと巨大なエネルギーであることか。スコップで泥かきをしながら、頭がクラクラしそうでした。
 こういう作業は少人数でしていたのでははかどらず、気も滅入ってくるでしょう。大勢のボランティアでワッサワッサやるのがいい。1時間ほどで家具と畳出し、家の中の泥かきが終わり、続いて物置と側溝の泥かきをしました。どういうわけか、こちらは溶かしたアスファルトのような、まっ黒な泥でした。物置に保存していた白菜や玉ねぎが腐り、泥の臭いと混じってかなり強烈です。臭いに鈍感な私でも、マスクなしでは耐えられないほどでした。

 短い昼食休憩をはさんで3時間足らずの作業でしたが、後片付けはほとんど終わりました。見知らぬ人をたくさん迎えて、最初は硬い表情をしていたおばあちゃんも「こんなにきれいになって・・」と嬉しそうでした。震災当日のことを聞いたら、「(おじいさんと)2人とも逃げ遅れてしまい、避難所の小学校には行けそうもなかったので、そこのホテル(4階建て)に逃げ込んで助かりました」と話していました。
 壁に残った跡から判断すると、この家は80センチほどの高さまで水に漬かったようですが、倒壊は免れました。大切なものがなんとか残っただけでもまし、と言うべきかもしれません。ここから数百メートル海寄りの八幡町は壊滅状態で、がれきの山になっていました。元の状態で残っている住宅は皆無。一部の地域では、いまだに電気も水道も復旧していませんでした。
 それでも、ポツリポツリと後片付けを続ける人たちがいました。あきらめてはいません。ほんのわずかではあっても、前に進んでいました。私たちも、たった1軒だけですが、この日、きれいにすることができました。若いボランティアたちが淡々と、穏やかな表情で仕事をしている姿がなんとも頼もしく、印象的でした。

 新聞社にいたころ、2004年12月にインド洋大津波に襲われたスマトラ島北部のアチェ地方を1カ月後、1年後、2年後に訪ね、取材しました。目を覆いたくなるような惨状を呈していた被災地が少しずつ片付けられ、だんだん元の街のようになっていくのを見て、「自然の力はすごいけれど、人間の力だってすごい」としみじみ思いました。
 山形県からは、河北町に続いて、私の故郷の朝日町などほかの自治体からも日帰りのボランティアバスが出ることになりました。山形大学と東北芸術工科大学もボランティアバスの運行を始めました。できる範囲で、息長く。そんな活動が広がっていることに勇気づけられます。インド洋大津波後の復興にも増して、「人間だってすごい」ということを日本から発信したいし、きっとできる、と信じています。

 
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*これからボランティアにでかける人へのワンポイントアドバイス
  泥かきをすると、かなり汚れます。上下の雨具を着用することをお薦めします。
  ゴム製の長靴、手袋も必需品です。泥には破傷風菌など雑菌がかなり含まれています。




*長岡昇のメールマガジン「おおや通信60」 2011年4月22日


 先週末、山形県河北町(かほくちょう)の「環境を考える会」のみなさんと今回の大震災について語り合う機会がありました。山形の内陸部にある河北町は、かつて紅花の生産地として栄えた町です。その集いで、この町から宮城県石巻市の被災地に向けて、毎日ボランティアバスが出ていることを知りました。

 毎朝6時、被災地での奉仕活動を希望する20人ほどの住民が河北町役場に集合。町が委託し、町社会福祉協議会が運行するバスで宮城県の石巻専修大学へ。ここで、石巻市災害ボランティアセンターからどの地区で活動するか指示を受け、夕方まで奉仕活動をして、その日のうちに町に戻る。それを4月の初めから毎日、続けているのです。

 大震災後、住民の間から「自分たちも被災地に行って復旧の手伝いをしたい」という声が続々と寄せられ、それを受けて町役場と社会福祉協議会が、姉妹提携関係にある石巻市に毎日ボランティアバスを出すことを決めた、とお聞きしました。

 バスを運行する経費は町が負担、派遣事務や被災地との調整は社会福祉協議会、そして汗を流すのは一人ひとりの住民――自治体と公益団体、住民がそれぞれバランス良く、自分たちが果たすべき役割を果たしています。しばしば「これからは『新しい公共』の時代」と言われますが、この河北町の被災地支援は、その「新しい公共」という考え方を行動に移すとどうなるかを分かりやすい形で示してくれているように思います。
 
 もちろん、ボランティアバスの運行自体は、目新しいものではありません。阪神大震災の時にもあったと聞いています。また、今回の大震災でも、日本の各地から被災地に向けてボランティアバスが運行されています。

 ただ、例えば長野県のある市が出しているボランティアバスの場合は「3泊4日」の日程です。これだと、参加できる人はどうしても限られてしまいます。「お手伝いしたい」という気持ちはあっても、年度初めの忙しい時期に4日間費やすのは容易なことではありません。

 その点、被災地に隣接する山形県や秋田県からなら、日帰りで応援に行くことができます。そして「1日ならなんとかなる」という人はたくさんいます。実際、河北町の場合はこれまでボランティア活動をした経験がない人も多数参加していると聞きました。幅広い層が参加することを可能にした「日帰りボランティアバス」のアイディアと実践。東北の各地にこうした取り組みが広がることを願っています。

 石巻市のボランティアセンターによれば、被災地ではまだまだ人手が足りません。津波が運んだドロの除去、壊れた住宅の片付けと清掃、支援物資の仕分けと運搬・・・。大勢の方が駆けつけてくれているものの、派遣要請はボランティアの数の倍というのが実情だそうです。

 1日だけですが、私も河北町のボランティアバスに乗って、24日に石巻市の被災地にお手伝いに行く予定です。戻りましたら、その様子をまたご報告します。





*長岡昇のメールマガジン「おおや通信59」 2011年3月31日


 大津波に襲われた時、人はどのように振る舞い、どのようにして生き延びようとしたのか。それを伝える報道に接して、何度も目頭が熱くなってしまいました。

 住民に津波の襲来を知らせるため昔ながらの半鐘を乱打し続け、自分は津波にのみ込まれてしまった消防団員、押し寄せる波にのまれながら病院の衛星電話を同僚に手渡して行方不明になった職員(今はこの衛星電話が外部との唯一の連絡手段)、自分の身内も行方不明のままなのに予備自衛官の招集に応じ、泥だらけになって海辺で捜索を続けている自衛隊員・・・・。何と気高い人が多いことか。すさまじい自然の力に打ちのめされながらも、救われる思いです。

 人の運命を分けるものは何なのか。それを考えざるを得ない日々でもあります。岩手県宮古市田老地区では、営々として築いてきた「世界一の防潮堤」がほとんど役に立たず、むしろ「この防潮堤があるから大丈夫」との油断を招き、被害を大きくしてしまった可能性があること。逆に、そうした防潮堤やコンクリート製の防災ビルがない「無防備な港町」の人たちは、揺れの直後にひたすら高台に逃げたために犠牲者を最小限に抑えることができたことを知りました。自然に向き合う時、人間は謙虚になるしかない、ということなのでしょう。

 福島第一原発の事故は「謙虚さを失った人間集団への強烈な鉄拳」のように思えます。同じ太平洋岸にある東北電力の女川(おながわ)原発(宮城県)は、ほとんど損傷がなく、いまは原発敷地内の体育館を地元の人たちに避難所として提供し、食事も出している、と28日付の山形新聞が報じていました(共同通信の記事と思われます)。

 この記事によると、東京電力が福島第一原発を建設した時に想定した津波の高さは5.7メートル。そのうえで、1?4号機は「余裕をみて」海抜10メートルの土地に建設したのだそうです(5、6号機は13メートル)。一方、東北電力の女川原発の場合は、9.1メートルの津波を想定し、海抜14.8メートルの高台に建設したとのこと。女川原発は新しい原発なので耐震基準なども違うのでしょうが、そうしたことよりも決定的だったのは、この4.8メートルの標高差です。非常用の電源設備やそれを冷やすポンプなどが津波で水をかぶるか、かぶらないか。それがこの差によって決まったからです。

 専門家の助言がなかったわけではありません。古い地層から過去の津波のことを調べている古地震学者は、平安時代869年の貞観(じょうがん)地震では東京電力の想定を超える津波が襲来した可能性があることを指摘し、対策を講じるよう助言したのだそうです。2004年のインド洋大津波のことも念頭にあったはずです。東京電力は、その助言に素直に耳を傾けようとしませんでした。しぶしぶ非常用電源とポンプの壁の補強工事にとりかかったものの、終わらないうちに「3・11」を迎えてしまった、と報じられています。

 自然から学ぼうとしない者たちのために、私たちは未曾有の大津波に加えて、史上2番目にひどい原発事故という二重の苦難に向き合わなければならなくなりました。「想定外だった」などと言って逃げようとする学者や官僚がいますが、事実は違います。事実は「想定しようとせず、学ぼうとしない人たちがいた」のです。




*メールマガジン「おおや通信58」 2011年3月27日

  
 「森は海の恋人」という言葉をお聞きになったことがあるのではないでしょうか。「牡蠣(カキ)を丈夫においしく育てるためには、何よりも海に注ぎ込む川が健康でなければならず、そのためには上流の森が豊かでなければならない」。そう考えた宮城県気仙沼市の漁師たちが20年ほど前に始めた運動です。漁師たちは大漁旗を抱えて山に通い、植林を重ねてきました。

 この運動を提唱し、その中心になってきたのが宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さんです。去年の8月に畠山さんの話をお聞きする機会があり、一緒に食事をしながらお人柄も知ることができました。ユニークで、しかも深い智恵を感じさせる方です。漁師たちが始めた運動は今や、漁業と林業、環境との関係といった範囲を超え、京都大学との学際研究にまで発展しています。

 その畠山さんの郷里も今回の大津波で被災したことを知り、何とか支援物資をお届けしたいと思っていたのですが、山形ではガソリンの入手もままならず、行くことができませんでした。先週末、ガソリンを譲ってくれた方がいて、自分の車を満タンにできたので、コメや飲料水、ミカンやリンゴ、インスタント食品、乾電池、トイレットペーパーなど当座必要そうなものを車に積んで、一人で気仙沼に向かいました。それぞれ20リットルほどですが、ガソリンと灯油もなんとか入手して積み込みました。

 山形自動車道と東北自動車道は仮復旧していますので、高速道路で岩手県の一関インターまで走り、そこから東にある気仙沼に向かいました。港と市街は壊滅状態でした。電気はいまだに来ていません。畠山さんの自宅は、気仙沼中心部の北にある唐桑(からくわ)半島の漁村にあります。普段なら市街地から30分ほどで行けるのでしょうが、道路や橋がズタズタになっているため、ガレキの山を縫うようにして進まなければならず、山側を大きく迂回してやっと半島にたどり着きました。1時間半ほどかかりました。山形からは片道200キロ余り、5時間がかりでした。

 畠山さんが住む西舞根(にしもうね)地区もほぼ全滅の状態でした。畠山さんは留守でしたが、家族によると、自宅は海抜25メートルの高台にあるのに、その玄関先まで津波が押し寄せたので、あわてて裏山によじ登って難を逃れたそうです。息子さんは「50戸ほどの住宅のうち、かろうじて残っているのは、うちを含めて4戸だけ」と言っていました。

 それでも、この地区の住民は津波の襲来を予想して一斉に高台に走りました。逃げ遅れて亡くなったのは、体が不自由なお年寄りや車いすの人など数人だそうです。畠山さんの家にいた家族は全員、無事でしたが、老人ホームに入居していたおばあちゃんはベッドに横になったまま波にのまれて亡くなった、とお聞きしました。大震災から15日後のきのう(26日)、ようやく葬儀を営むことができ、畠山さん本人は一足先に葬儀場に向かったため行き違いになってしまったようです。

 大変な時なので、持参した物資を手渡してすぐ、私は帰路につきました。途中、南三陸町など海沿いの地域を通りました。建物の損壊状況やプラスチック類の漂着ぶりから判断すると、津波の高さは「リアス式の海岸部で25?30メートル、平坦な海岸部で10?15メートル」と見られます。2004年12月に起きたインド洋大津波の現場(スマトラ島北部のアチェ地方)を取材して回りましたが、これに匹敵する破壊力だったと考えられます。

 インド洋大津波の犠牲者は最終的に20万人前後と推定されています。ほぼ同規模の津波で、今回、犠牲者が数十万人規模にならないとすれば、日本の場合は津波が何度も起きており、「グラッと来たら高台へ」という教訓が途上国よりはるかによく浸透していたからかもしれませんが、それにしてもすさまじい災害です。

 被災から2週間たち、医薬品などを除けば、現地には飲み水やインスタント・レトルト食品、毛布などの緊急支援物資が届きつつある印象を受けました。これからは日常的な生活物資、つまり普通のご飯やみそ汁、おかずを用意するのに必要な食料、新鮮な果物、ガソリンや灯油、乾電池などを被災地に届けることが求められています。つまり、被災者支援は「緊急段階」から「第2段階」へと進むべき時期に差しかかっているように思います。

 駆け足で被災地とその周辺を見て回って、もう一つ感じたのは、被災の後背地への物資供給の重要性です。最初にも触れましたが、山形県内ではいまだにガソリンや灯油の入手が困難です。これと同じことが津波被災地のすぐ近く、津波の被害に遭わなかった地域で起きています。物資の流れが「とにかく被災地へ」となっているため、被災の後背地を素通りしてしまい、ガソリンや食料などの生活必需品がいまだにほとんど手に入らないのです。

 これでは、すぐ近くにいる人たちが被災者に手を差し伸べたくても、できません。ガソリン一つ手に入れるのに、4時間も5時間も並ばなければならないからです。「後背地にも生活必需品を」と声を大にして叫びたい。むろん、被災者支援の後方拠点とも言うべき山形や秋田にも必要です。

 福島原発の事故による放射能汚染が首都圏にも及び、大変なのは分かりますが、まず被災地、次にその後背地にもっと物資を送り込まないと、復旧と復興が大幅に遅れる恐れがあります。電気や水道、ガスの復旧作業にあたる人たちは、その後背地で寝泊まりして仕事を続けていますが、その宿泊場所にも事欠く状況になっています。

 私は土曜日(26日)に気仙沼の被災地を訪れ、そのまま車で夜を明かすつもりでいたのですが、知人の助けで、たまたま宮城県の大崎市(旧古川市)のビジネスホテルに泊まることができました。そのホテルも、倒壊こそしなかったものの、あちこち壊れていました。修復工事もできないまま、なんとか宿泊と簡単な食事のサービスを提供しているのには頭が下がりました。

 被災地から遠いところほどより多く節約し、少しずつリレーしていって、とにかく津波の被災地と後背地に早く物資を届けたい。




メールマガジン「おおや通信19」 2010年3月5日 
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 小学校や中学校では今、卒業式の予行演習がたけなわです。大谷小学校でも、11人の卒業生を温かく送り出すべく、準備に余念がありません。

 練習のうち、かなり力を入れるのが歌の練習です。卒業式では校歌や別れの歌に加えて、君が代も歌います。その練習を見ているうちに「意味も分からないまま歌うのは、つらいだろうなぁ」と感じました。そこで、朝の集会で校長として「君が代の意味と歴史」について話すことにしました。次のような内容です。

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 今日は、卒業式でみんなで歌う日本の国歌、君が代について話します。1、2年生には少し難しいかもしれませんが、とても大事な話ですからよく聴いてください。

 歌は、言葉とメロディーの2つでできています。言葉が先にできて後からメロディーが付くこともあるし、メロディーが先にできて、後で言葉が付けられることもあります。両方同時にできることもあります。

 「君が代」は、言葉が先にあって、ず?っと後になってからメロディーが付けられた歌です。(黒板に古今和歌集のルビ入りの和歌を張って示しながら)これが「君が代」のもともとの歌詞です。?

? 我君は千代に八千代に
? さざれ石の巌となりて
? 苔のむすまで
?    古今和歌集(905年)から?

 この和歌は1000年以上も昔に作られたものです。最近、4年生は俵万智のサラダ記念日の短歌を習いましたが、それと同じで5、7、5、7、7のリズムになっています。「さざれ石の」のところは6つの音になっています。

 誰が作ったのかは分かっていません。そのため、この歌の意味についてはいろんな人がいろんな事を言っています。「恋の歌だ」と言う人もいます。
「何を言っているんだ、葬式の歌(挽歌)だ」という人もいます。ですが、和歌のことを長く研究した人の多くは「長寿を祝う歌だ」と言っています。それが素直な考え方のようです。古今和歌集の「祝い事の歌」のところに収められているからです。

 意味は「わたしの大切な人が千年も万年も長生きできますように。細かい石が長い年月の間に大きくて固い岩になるくらい長く、その岩に苔がびっしり生えるまで長く」というものです。とても目出度い歌なので、その後もずっと、鎌倉時代から江戸時代まで歌い継がれてきました。「我君は」のところは、後で「君が代は」と変わり、そのまま歌の題名になりました。

 ずっと人々に親しまれてきた歌ですが、江戸時代から明治へと変わった時に、この歌に今のようなメロディーが付けられました。明治13年、今から130年前のことです。この時、もともとの意味が大きく変わってしまいました。

 当時、すべての力を持ち、日本を支配していたのは天皇陛下でした。今とは違う政治でした。その政治の影響で「君が代は」というところが「天皇陛下の世の中が」と読み替えられ、それが「ずっと続きますように」という風になってしまったのです。それは、もともとの「君が代」にとっては哀しいことだったでしょう。

 そういう政治の下で、日本は戦争に突き進み、多くの人が亡くなりました。先の戦争で、日本では300万人以上の人が亡くなりました。中国でも1000万人以上、フィリピンでも100万人を超える人が命を失いました。ほかのアジアの国々でも多くの人が亡くなりました。

 このため、「君が代を歌いたくない」という人たちがいます。それなりに理由のあることですが、私は「心が狭すぎるのではないか」と思います。逆に、「君が代を歌わないのはけしからん」と怒って、「歌わない人を罰するべきだ」という人たちもいます。私は「大人気ない人たちだなぁ」と思います。日本は自由な国です。歌わないという人たちがいても構わないでしょう。ただ、そういう人たちには、静かにしていて欲しいと思うのです。

「君が代」という歌は歴史にもまれて、哀しい時期を過ごしたこともありましたが、1000年の時を経て、もともとの穏やかな、人々の幸せと長寿を願う歌に戻ったのだと思います。戦争の後、この国の主人公は国民一人ひとりになりました。その一人ひとりの幸せを願う歌になったのだ、と考えればいいのです。

 卒業式では、静かな気持ちで、みんなの幸せを願う気持ちを込めて、この歌を歌いましょう。
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*主な参考文献
「日の丸・君が代の成り立ち」(暉峻康隆著、岩波ブックレット)
「君が代の歴史」(山田孝雄著、宝文館出版)
「三つの君が代」(内藤孝敏著、中央文庫)
「『君が代』の履歴書」(川口和也著、批評社)?
*古今和歌集の歌は
 我君は千世に八千世に
 さゝれ石の巌となりて
 苔のむすまて

が正しいようですが、「我君は→君が代は」のところがポイントなので、黒板には上記のように記しました。

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*メールマガジン「おおや通信18」 2010年2月26日


 あるシンポジウムで教育学者の大田尭(たかし)さんの話をお聞きする機会がありました。92歳という年齢を感じさせない、かくしゃくとした話しぶりでした。冒頭、大田さんは谷川俊太郎さんの詩を引用しました。

 あかんぼは歯のない口でなめる
 やわらかい小さな手でさわる
 なめることさわることのうちに
 すでに学びがひそんでいて
 あかんぼは嬉しそうに笑っている

 人は、生まれ落ちたその瞬間から学ぶことを始め、学びは命が尽きるまで続く。それを手助けするのが教育である――生涯かけて「教育とは何か」を追い求めてきた碩学(せきがく)の言葉に、重いものを感じました。

 大田さんは、今の日本を「無機化しつつある社会」と表現していました。昔のような共同体が壊れ、過度の市場経済主義によって個々人がバラバラに無機物のようになってしまった、と警鐘を鳴らしていました。

 バラバラになっていく社会の中で、一人ひとりがどう振る舞うのか。子どもたちの学びをどう手助けしていくのか。難しい時代ですが、それはまた、仕事のやりがいがある時代ということでもあります。一人ひとりの決意が問われる時代、と言っていいかもしれません。
 (*大谷小学校PTA新聞「おおや」第81号から。詩は、2009年1月1日の朝日新聞に掲載された谷川俊太郎「かすかな光へ」の一部)




メールマガジン「おおや通信15」 2009年12月22日 


 東北は先週から厳しい寒波に襲われ、ドカ雪になりました。郷里の山形県朝日町でもひと晩に30センチ、20センチと降り続き、このまま根雪になりそうな雲行きです。

 「自宅から学校まで車で8分。なんと恵まれた環境だろう」と悦に入っていたのですが、雪降りの朝は、車に積もった雪を振り払い、駐車スペースを除雪するのに、毎回30分から1時間はかかります。雪かき30分、それから通勤の生活が春まで続くわけで、やはり「雪国暮らしは容易ではない」と思い知らされています。
 「絵の詩のと 雪の五尺に住んで見よ」

 朝日町在住の俳人、阿部宗一郎さんは雪国のつらさに思いが及ばない都会の人に向けて、痛烈な句を詠んだことがあります。この土地で80年余り暮らした人の感慨でしょう。

 「そんな大雪なら、小学生の登下校も大変だろう」と思うかもしれませんが、さにあらず。道路はきれいに除雪され、通学バスも通学タクシーもスーイスイです。地方では、学校の統廃合が進み、通学バスではカバーしきれないので、一部の集落にはタクシーを手配して子どもを送り迎えしています。大谷小学校でも2地区、5人の生徒がタクシー通学です。経費を考えれば、その方が安上がりなことは分かっているのですが、にわか校長としては釈然としないものがあります。

 きょうは大谷小学校の平成21年度2学期の終業式でした。そこで、子どもたちには「元気で年末年始の休みを楽しんでください。雪かきの手伝いも忘れずに」と述べた後、かつての焼野(やけの)という集落の人たちが続けた雪踏みのことを話しました。こんな話です。

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 大谷小学校には、かつて3つの分校がありました。その1つが大暮山(おおぐれやま)分校で、ちょうど10年前に分校としての役割を終えました。昔、この分校には90人の生徒がいました。いまの大谷小学校よりもたくさんいました。

 その中に、焼野という集落から通ってくる子どもたちがいました。焼野は実は、隣りの大江町の集落なのですが、近くに学校がないので、山を越えて大暮山分校に来ていました。片道、歩いて1時間以上もかかりました。冬、雪が降ると、もっと時間がかかり、1時間半以上も歩かなければなりませんでした。

 子どもたちがあんまり大変そうなので、大暮山の人たちは「冬の間だけ、子どもをこっちに預けたらどうだ」と提案しました。でも、焼野の人たちは「ありがたいけど、やっぱり一緒に暮らしたいから」と丁重に断ったのだそうです。

 そして、雪が降るたびに村人たちは交代で雪踏みをして、子どもたちを先導しました。一方、大暮山の村人たちも反対側から雪踏みをし、峠のあたりで両方の雪道がつながったといいます。冬の間、雪が降るたびにそれを続けたのです。

 つらくて、大変だったと思いますが、これにはいいこともありました。これだけ苦労して雪道を往復したので、焼野の子どもたちは足腰がとても強くなって、駆けっこも速かったのだそうです。

 いま、大谷小学校にはタクシーで登下校している友だちもいます。便利で快適でしょうが、足腰を鍛えるのにはプラスになりません。つらいことにも、いいことがある。便利なことにも、困ったことがある。世の中には、いいことだらけ、つらいことだらけ、というものはありません。いいことにはつらいこと、つらいことにはいいことが付いて回るようになっています。そのことを忘れないでください。
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 校長として行事や朝の会であいさつする時は3分以内。説教くさい話はしない、と決めているのですが、きょうは珍しく説教くさくなり、時間も3分をオーバーしてしまいました。そのせいか、1年生が1人、話しているうちにお漏らししてしまいました。

 やはり、長い話は禁物のようです。良いお年をお迎えください。?
*焼野の人たちはかなり前に離農し、いまは集落の跡地を探すのも困難です。?

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*メールマガジン「おおや通信8」  2009年9月8日


 東北の小学校の夏休みは短く、8月19日からすでに2学期が始まっています。
26日に校内の水泳大会があり、9月6日には秋の運動会を開きました。大きな行事は早めに終えて、あとは「勉学に集中する」という構えです。これまでの通信で、大谷小学校の生徒は89人とお伝えしましたが、きょうは保護者の職業についてご紹介します。

 兄弟や姉妹で在籍している子がいますので、89人の生徒に対して保護者は71世帯です。そのうち、専業農家はわずか6世帯しかありません。あとは、公務員が9世帯(教師3、自衛隊3、地方公務員3)、自営業が7、民間企業勤務が49という内訳です。

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3年生が同級生のおじいちゃんの畑でリンゴの収穫をしました

 私は「農村地帯なのに、これしか専業農家がいないのか」と驚いたのですが、サクランボ農家が多い地域出身の教師は「うちの地域より多いね。リンゴだと専業農家として食べていけるんですねぇ」と感心していました。
 
 山形の内陸部はサクランボの産地として有名ですが、この「赤いダイヤ」は収穫期間が6月の1カ月ほどしかありません。ビニールの覆いなど設備費がかかるうえに農作業が集中するため、手広く栽培することは難しく、サクランボを中心にした農業だけでは暮らしていけないのだそうです。その点、リンゴは早生(わせ)から晩生(おくて)まで様々な品種を栽培することによって、9月から11月まで3カ月近く収穫することができます。大規模に栽培することも可能で、これが「リンゴ専業農家」としての暮らしを支えているようです。

 それにしても、朝日町のような農村地帯にある小学校ですら、専業農家が「71分の6」しかいないとは・・・・。日本の農業、とりわけ中山間地の農業はぎりぎりのところまで来てしまったということでしょう。かつて、朝日町では専業農家が6、7割を占めていました。いまは祖父母が田畑を耕し、若夫婦が月給取りをして生活を支える、いわば「2世代による兼業農家」が多数派になりました。サクランボ農家の多くも、このタイプです。若夫婦には農業のノウハウが乏しく、祖父母が働けなくなれば、農業はさらに廃れてしまうでしょう。

 農業を再生し、農村を活性化するためには「若い人が農業で食べていけるシステム」を作るしかありません。総選挙で民主党が主張した「農業者への戸別所得補償制度」は、そのための1つの処方箋なのかもしれませんが、何を基準にどうやって補償するのか、制度作りがきわめて難しく、成果が出るまでには時間がかかりそうです。その間にも、農村の過疎は進み、人口も減り続けます。じっと待っているわけにはいきません。若者を惹きつけるためには、自分たちで動き出す必要があります。

 実際、岩手県の九戸(くのへ)村では、新たに農業を始める人に、単身なら月額10万円、夫婦なら13万円、夫婦と子どもには15万円を支給する制度を始めました。年に2家族を対象に3年間支給する、という制度です。意欲的な試みですが、新たに農業を始めようとする若者に「3年間だけ生活を支える」というのでは短すぎるように思います。村の財政を考慮すれば、それが限界なのかもしれませんが、できれば、「就農して子どもが小学校に入るまでの10年間」は支えたい。

 そこで私は「100人が月に1000円ずつ拠出して1人の若者を支える『農業サポーター制度』を創設しよう」と提唱しています。これなら無理がなく、なんとか10年間続けられるのではないでしょうか。税金に頼らず、ボランティアベースで新規就農者を支えるのは、「その方が支援対象者の審査や支援打ち切りの判断などが柔軟にできる」と考えるからです。自治体には、農地のあっせんや営農のアドバイス、農機具のリースなど側面から支援してもらう構想です。

 むろん、この農業サポーター制度が機能するためには、支援を受ける人が収支をガラス張りにして公開することが大前提になります。昔から「所得を隠すのが当たり前」になっている農民にとって、これは意識革命を求めるものでもあります。

 農業と農村はもう、崖っぷちまで追い詰められてしまいました。常識や慣習にとらわれていては、とても甦らせることはできません。文字通り、身を切る覚悟で道を切り拓くしかない、と考えています。

 〈注〉 1.学校教育法などでは「小学生は児童、中学生は生徒」と区別していますが、
       11歳、12歳の小学生はもう半分、大人です。「児童」という日本語を使う
       のに違和感を覚えますので、あえて生徒と表現しています。
     2.山形県東根市には陸上自衛隊の駐屯地があります。昔は遠くて、大谷から
       通えなかったのですが、道路が整備され、いまでは通勤圏内になりました。





*メールマガジン「おおや通信7」 2009年7月22日


 週刊東洋経済が2009年7月11日号で政府の補正予算について「14兆円補正の実態は省庁の“つかみ取り”」という特集を組んでいました。小学校の現場にいると、その“つかみ取り”の実態がよく分かります。

 補正予算の成立に伴って、文部科学省は都道府県や市町村の教育委員会を通して全国の公立学校に「教育資器材の大盤振る舞い」に乗り出しました。大谷小学校にも「理科の実験器具はいらないか」「電子黒板はどうか」とのお達しが回ってきました。購入可能な物品のリスト付きです。理科教育設備の整備費だけで200億円もの予算がついたのだそうです。

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磁石メーカーの社長さんが出前授業をしてくれました

 理科担当の教師に「何か不足していて欲しいものはありますか?」と尋ねると、「だいたい足りています」との返事。私が「それなら購入希望を出すこともないね」と言うと、うなずいていました。ところが、朝日町の教育委員会から「せっかくだから要求した方がいい」と言われたようで、私の知らないうちに町教委がつくった予算要求リストに記入して出してしまっていました。

 4月に校長に就任して以来初めて、大谷小の教師を大声で叱りました。「予算があるからといって、とくに必要でもないものを要求するとはどういうことか」「公立の小中学校だけで全国に3万校ある。それが全部、こういう金の使い方をしていたらどうなるのか。国が滅びるよ」。新聞社で鬼デスクと言われたころの地金が出かかりました。

 とはいえ、リストはすでに大谷小学校として提出ずみです。それを掌握していなかったのは私の責任です。いまさら撤回はできません。あまりにも過大と思われるものを削って修正することしかできませんでした。結果的に、大谷小としては72万円余りになりました。要求した主な理科実験器具などは、次の通りです。いずれも「もっとあれば便利」「あれば便利」という機材で、必須のものではありませんでした。
生物顕微鏡     4台 19万2000円
野外用の軽量顕微鏡 2台 10万円
星座早見盤    25個  3万7500円
気体検知測定器   6台 10万2000円
  
 財政赤字で国の将来が危ぶまれるのに、不要不急なことに金を使おうとしているのは文部科学省にとどまりません。農水省は、大谷小の旧校舎跡地に「ビオトープ」を作ろうと動いています。ドイツ生まれのこの構想は、川辺や草原を人工的に作って自然に親しむことをめざすものです。

 都会ならいざ知らず、すぐ近くを最上川が流れ、里山に囲まれているところに何が悲しくて人工的な自然を作るのか。ただただ、農水官僚の仕事ぶりにあきれるばかりです。その最上川の岸辺に、国土交通省は「フットパス」という遊歩道を次々に作っています。地元の人たちは「だれが利用するんだか」とあきれ顔ですが、「金が下りるならイイか」という態度です。大谷小学校の周辺だけでもこの有り様なのだから、全国ではいったいどのくらい無駄金が使われていることか。暗澹たる思いです。

 道路や建物、器具といった「ハード」ではなく、教育の中身と質の向上、若者の就労支援、ハンディを負った人たちへの支援といった「ソフト」にこそ、知恵を絞って資金をつぎ込まなければならない時代になっているのではないでしょうか。
この国が「なすべき事をなす方向」に進むことを切に願います。





*メールマガジン「おおや通信6」 2009年7月15日


 自分が子どものころには聞いたこともなかったのに、やたら多くなった病気の一つがアトピー性皮膚炎です。肌が乾いてささくれ立ち、かゆくてつらそうな病気です。
 
 大谷小学校で生徒の健康状態を調べたところ、22人の1年生のうち、なんと半分の11人がアトピー性皮膚炎と診断されました。全校でも89人のうち21人、4人に1人近くがこの病気でした。ごく軽い症例も含めているとはいえ、これほど多いとは思っていませんでしたので驚きました。

 文献を見ても、「アトピーの原因は不明」と書いてあるだけです。遺伝的要因、花粉やダニの影響、有害化学物質説、合成洗剤との関わり、ストレス説などが列挙してあるものの、それぞれについてどう考えるべきかをきちんと書いてあるものが見当たらず、戸惑うばかりでした。

 そんな中で、長い間アトピー患者の治療にあたってきた高雄病院(京都市)の江部康二・副院長の講演録は、とても説得力がありました。江部氏は、原因についてはいろいろな仮説があるが、「歴史的に(はっきりしている)たった一つの事実は、高度経済成長以前は(アトピーが)少なかったし、治っておった」ことだ、と指摘しています。そしてこの時期、1960年代から、日本人の食生活が急激に変わり始めたことに言及しています(「完全米飯給食が日本を救う」〈東洋経済新報社〉第3章に講演録)。

 身近で採れたものを食べていた日本人の伝統的な食生活は、この時期から激変しました。さまざまな食品が大規模な流通ルートに乗って出回るようになり、インスタント食品も次々に登場しました。それに伴い、食品添加物や防腐剤が大量に使われるようになりました。農薬の大量散布が始まったのもこの時期、合成洗剤が普及し始めたのもこの時期です。

 一つひとつは健康にすぐ害があるとは言えないにしても、これらが次々に体内に入り込んだために、人間の自然治癒力では対処しきれなくなり、それが皮膚炎という形で表れたのがアトピーと考えるべきではないか、というのが江部氏の主張です。

 従って、高雄病院では食生活の改善や漢方薬の服用、鍼灸を施すといった方法で人間の自然治癒力を高めることを基本的な治療方針にしているとのことです。ステロイド(副腎皮質ホルモン剤)を塗ってかゆみを止めることも患者によっては必要としながらも、ゆっくりと減らしていくという立場です。

 アトピーは、単に「皮膚がかゆくてつらい」ということにとどまりません。荒れた肌は、対人関係にマイナスの影響を及ぼし、性的に成長するにつれて自然な異性関係が築かれるはずなのにそれを妨げます。われわれが想像する以上に強烈な影響を及ぼしていると考えます。

 毎日、何を食べるのか。それが10年、20年と積み重なった時に体にどういう影響を及ぼすのか。現代科学の力をもってしても、それを解き明かすのは不可能ですが、さまざまな「新しい病気」という形で、われわれの体は警告を発してくれているのではないでしょうか。
  (*江部康二氏の肩書は講演録が作られた当時のものです。)





◇メールマガジン「おおや通信5」 2009年7月1日号


 しばらく前、隣町にあるキャンプ場で5年生と6年生の宿泊体験学習があり、これに同行しました。野外テントで2泊3日。まず、古代人のように木をこすり合わせて火を起こす。その火で煮焚きして、食事を作る。翌日は急な崖をロープで上り下りと、かなりハードなキャンプ生活でした。

 印象に残ったのは、食事作りでした。生徒たちに与えられるのは薪と新聞紙とマッチ、それに食事の材料と調理器具だけ。引率の先生たちはあえて、火の焚き方や食事の作り方を教えません。「失敗しながら覚えればいい」と言います。

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1日目の夕食のメニューはカレーライス。案の定、生徒たちは火を上手に焚くことができません。かまどに薪をドタッと置き、その上に新聞紙を重ねて火をつけたりしています。これでは勢いよく燃え上がるはずもなく、鍋で炊いたご飯はポロポロ、カレーのジャガイモや玉ねぎは生煮えでした。まずくて食べられたものではないのですが、ほかに食べるものもないので、空腹に耐えきれず、呑み込むようにして食べていました。泣きベソをかきながら食べている生徒もいました。その傍らで、私を含む教師集団はしっかりと火を焚き、普通のカレーライスをおいしくいただきました。

 よほど悔しかったのでしょう。翌日の朝食づくりの際には、真剣な顔をして私がどうやって火を焚くのか、観察していました。私は、キャンプ場に落ちている枯れ枝を拾って焚きつけとして使いました。それを見て、枯れ枝を集めて使う生徒も出てきました。どのグループも次第に上手になり、5回目の食事を作るころにはそれなりのものが作れるようになりました。

考えてみれば、今や田舎でも、子どもにとって炎とは「青いもの」であり、ガスコンロのスイッチをひねれば出てくるものです。赤い炎はロウソクなどでたまに見るものでしかありません。少なくとも、暮らしで使うのは「青い炎」です。「火を焚く」という、生きるために不可欠のスキルすら、学校教育で教え込まなければならないのが現実です。

 大谷小学校の生徒たちは、まだ恵まれている方です。というのは、5回も食事を作るような宿泊学習を実施している学校は、いまや山形県でも数えるほどしかないそうです。テントで1泊2日、あるいは宿泊棟のベッドで1泊するだけ、というのがほとんどと聞きました。先生方もしんどいし、親も望まない、ということのようです。

 気骨のある教師たちがまだ残っていたことに感謝しています。この体験を生かすべく、秋には全校生徒で山形名物の芋煮会をする予定です。里芋とネギは学校の畑で栽培したものを使い、河原の石でのかまど作りや煮焚きは、すべて子どもたちにやらせるつもりです。芋煮会も「失敗したら泣けばいい」を貫くつもりです。

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*「おおや通信」は、新聞記者から小学校長に転じた長岡昇が学校で感じたことをつづってお送りしているメールマガジンです。


 
*メールマガジン「おおや通信2」  2009年4月27日


 新聞記者として30年間働いて、一番深く心に刻み込まれたのは、アフガニスタンの難民キャンプで出会ったパシュトゥンの老人の言葉でした。

 アフガニスタン内戦を初めて取材した1989年の4月。駐留ソ連軍が完全撤退した直後で、戦闘が激しくなり、首都のカブールには連日、ロケット弾が降り注いでいました。子どもたちも巻き添えで多数犠牲になり、この老人も孫を失った一人でした。老人は、私に向かってこう言いました。
「わしのような老人が生き永らえて、孫が殺されてしまった。いくつもの命がかろうじて生き延び、やっとつないだ命なのに。いのちは幸運の結晶なのに」

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カブール北方のパシュトゥン人の村で

 民間人校長として働くことが決まった時、何よりも子どもたちに伝えたいと思ったのはこの老人の言葉でした。大谷(おおや)小学校の紹介冊子の冒頭に以下のような形で引用するつもりです。

     ◇     ◇     ◇

 いのちは「幸運の結晶」

君のいのちは
お父さんとお母さんが出会って生まれた。
どちらかが病気やけがで倒れていたら
君はこの世にいなかった。
お父さんとお母さんは
おじいちゃんとおばあちゃんが出会って生まれた。
だれかが病気やけがで倒れていたら
2人はこの世にいなかった。
おじいちゃんとおばあちゃんは
ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが出会って生まれた。
そして、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんも
昔むかし若い2人が出会って生まれた。
たくさんの、数えきれないほどたくさんのいのちが
幸運にも生き永らえて
いのちを君につないできた。
だから、いのちは「幸運の結晶」。
ひとつひとつ、かけがえのない存在。

        ? アフガニスタンの古老の言葉 ?

         採録:長岡 昇(大谷小学校校長)





*メールマガジン「おおや通信1」 2009年4月7日


 1月末に朝日新聞社を早期退職し、3月から民間校長候補として山形県教育委員会の
研修を受けてきました。3月下旬、赴任先が郷里の朝日町にある大谷(おおや)小学校に
決まりました。山形の農村で何が起きているのか。民間校長として見たまま、感じたままを時折、「おおや通信」と題してお届けします。

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 きょう(4月7日)、大谷小学校の入学式がありました。
新1年生は22人、生徒は全体で89人、教職員15人のこぢんまりした小学校です。ついこの間まで新聞記者として働いていた人間が、保育園を出たばかりの子どもたちにどういう話をするものか。関心を持たれた方が何人かいらっしゃいましたので、つたない挨拶ですが、お伝えします。

 なお、校舎は10年前にできたばかりで、まだピカピカです。校長室と職員室は冷暖房完備、教室と体育館は暖房つき。教職員と生徒が全員そろって昼食をとることのできる「ランチルーム」つき、という贅沢な施設です。背後には白銀の月山が見守るように鎮座しています。写真をご覧になりたい方には個別にお送りします。ご連絡ください。
 
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 1年生のみなさん、入学おめでとうございます。
大谷小学校の先生を代表して、歓迎の言葉を述べさせていただきます。
ことしの新入生は22人です。これで、大谷小学校の生徒は89人になりました。
去年より2人増えました。とてもうれしい事です。

 これからみんなで、元気で楽しい学校をつくっていきましょう。
本を読むのが好きな人は、本をたくさん読みましょう。スポーツなら得意だよ、
という人はスポーツを楽しみましょう。音楽や絵を描く時間もあります。
好きなこと、楽しいことをたくさん見つけるようにしましょう。
わたしたちは、みなさんが元気に学校生活を送ることができるように力を尽くします。

 みなさんは保育園を終えて、きょうから小学生になりました。
そこで、私から、ひとつだけお願いがあります。
それは、自分の家で毎日、なにかひとつ、お手伝いをするようにしてほしいという
ことです。小さなことでいいのです。たとえば、玄関の掃除をする。自分の洗濯ものを
たたむ。そういうお手伝いをしてほしいのです。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんはみなさんをここまで育てるために、
たくさん汗を流してきました。これからも大変です。
ですから、うちで小さなお手伝いをして欲しいのです。
お願いします。

 2年生、3年生、4年生、5年生、6年生のみなさん。1年生はみなさんの姿を見ながら大きくなっていきます。1年生と仲良くしてください。

 保護者のみなさま、入学おめでとうございます。こころからお慶び申し上げます。
いつの時代でも、子どもを育てるのは大変なことです。それぞれ、語り尽くせぬ思いを胸に抱いて、きょうという日を迎えられたのではないでしょうか。
お子さんたちを大谷小学校に入学させていただいたことに、教職員一同、厚く御礼申し上げます。わたくしどもは、お子さんたちが元気に育つよう全力を尽くしますが、もとより、教育は学校だけでできるものではありません。みなさまのご協力とご支援を、こころからお願い申し上げます。

 ご来賓のみなさま。きょうはお忙しい中、入学式にご臨席たまわり、誠にありがとうございました。先ほど、保護者のみなさまに学校へのご協力とご支援をお願いしましたが、教育は保護者と学校だけでできるものでもありません。
地域の皆様方のご協力なしには成り立ちません。
これまで同様、温かいご支援を賜りますよう、こころからお願い申し上げて、入学式のごあいさつとさせていただきます。ありがとうございました。