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*メールマガジン「小白川通信 42」 2016年3月15日


 「チェスの世界チャンピオンがコンピューター(人工知能)に負けた」と聞いても、それほど驚きはしませんでした。チェスは駒の数が少なく、相手の駒を取っても使うことはできません。手数は膨大ですが、高速計算が得意なコンピューターにとっては苦になるような手数ではないからです。1997年のことでした。

 その16年後の2013年に将棋のプロ棋士が人工知能に負けた時には驚きました。将棋はチェスより駒が多く、はるかに複雑です。何よりも、取った相手の駒を使うことができますから、変化は飛躍的に増えます。「アマチュアはともかく、プロには当分勝てないだろう」と思っていたのですが、その壁はあっさり乗り越えられてしまいました。

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囲碁棋士のイ・セドル(左)と人工知能の開発者デミス・ハサビス

 それでも、囲碁については「人工知能がプロに勝つには数十年かかるだろう」と言われてきました。囲碁は変化が将棋より格段に多いのに加えて、数値で表すのが難しい価値判断をして打たなければならない場面が序盤から終盤まで連続して現れるからです。

 その一つに「劫(こう)」という局面があります。これは、お互いに相手の石を取ることができる状態のことです。ただし、交互に石を取っていたら勝負はエンドレスになってしまいますので、「劫」になった場合、対局者は「一度別のところに打ち、相手がそれに応じたら石を取ってもいい」というルールになっています。別のところに打たれた相手は「それに応じないことで生じる損失と、劫に勝って得られる利のどちらが大きいか」を判断しなければなりません。こうした複雑極まる局面がほかにいくつもあり、コンピューターでプロに勝つプログラムを組むのはすぐには無理だろうと考えられていたのです。

 しかし、その囲碁も人工知能に屈しました。世界最強の囲碁棋士の一人、韓国のイ・セドルが人工知能との5番勝負に敗れたのです。今日(3月15日)、5回目の対局が終わり、人工知能が4勝1敗と圧勝しました。囲碁の敗北は単なる「ゲームの世界の勝敗」にとどまるものではありません。人工知能のプログラム開発が新たな段階に到達したことを示し、新しい可能性が切り開かれたことを意味しているからです。

 チェスの場合も将棋の場合も、コンピューター技術者は「可能なものはすべて記憶させ、すべて計算して選択する」というプログラムを組んで、プロの選手に対抗しました。人間では太刀打ちできない計算速度と記憶容量を持つコンピューターの特性を活かして勝負したのです。ただし、同じ発想でプログラムを組んで囲碁のプロ棋士に挑戦しようとすれば、チェスや将棋とは比べものにならない記憶容量と計算速度を持つ「とてつもないコンピューター」が必要になり、「勝つまでには数十年かかる」はずだったのです。

 今回、囲碁棋士に勝った人工知能「アルファ碁」というプログラムは、「すべてを計算する」という発想を捨てました。その代わりに、どの手がより良い結果を生むのかを判断して絞り込む、独創的なプログラムを開発したようです。専門家でない私には具体的な内容は分かりませんが、それによって「とてつもないコンピューター」ではなく、「今ある普通のコンピューター」で勝負できるようになったのです。このプログラムは、自分で新しいデータを次々に吸収して価値判断の能力を向上させる特性を持つ、とも伝えられています。ITの世界に新しい地平を切り開いた、と言っていいでしょう。

 これを開発したのは、英国の若き天才たちです。開発の中心になったデミス・ハサビス(39)は4歳でチェスを覚え、2週間で大人を負かしたと伝えられる天才です。15歳でケンブリッジ大学コンピューター学部に合格、コンピューターゲームの開発に乗り出しました。2010年に仲間と「ディープマインド」という人工知能開発会社を立ち上げ、4年後に検索エンジンで知られるグーグルがこの会社を4億ポンド(推定)で買収し、傘下に収めています。

 コンピューター開発の主戦場は、とっくの昔にハード(機械)からソフト(プログラム開発)に移っていますが、そのソフト開発の中でもっとも激烈な競争が行われているのは人工知能の開発とされています。去年夏のセミナーで日本IBMの近況を知る機会がありましたが、IT業界の巨人IBMが力を注いでいるのはコンピューターの製造販売ではなく、今や人工知能の開発です。とりわけ、大口の顧客が見込める「危機管理と危機対応」などの分野で人工知能の開発を進め、活路を見出そうとしています。

 例えば、森林火災にどう対処するか。火災の発生場所、風向きなどの天候、動員できる人員と機材を即座に割り出し、人工知能が最適の対処方法を決めてくれるのです。人間がデータを集めて入力するのではなく、ある人が「天候はどうなっている」「人員と機材は」「道路状況は」と次々に聞けば、人工知能が自分でデータベースから必要な情報を引っ張り出してきて、損害を最小に抑える対策を示してくれるのです。もちろん、原発事故の対応などにも応用できるでしょう。

 そして、こうしたソフト開発のはるか先に見えてくるのは、究極の危機管理とも言える「戦争の仕方」を提示してくれる人工知能です。政治や軍事の専門家の中にも目をみはった人がいるに違いありません。SF的な世界に向かって、人工知能の開発は大きな一歩を踏み出したのです。どこまで進化するのか。どのくらいのスピードで成長するのか。ワクワクする一方で、空恐ろしくもあります。

 とはいえ、まだ「ゲームという限られた世界」での大きな一歩に過ぎません。SF的世界が現れるまでには、まだいくつものブレイクスルーが必要でしょう。「人工知能には学習能力がある」とは言っても、学習の仕方のプログラムを組むのはあくまでも人間であり、人間の能力が無限だとも思いません。最後の最後に、人間の力では突破できない壁が立ちはだかるかもしれません。

 宇宙は広大です。そして、一人ひとりの人間、さらには生きものが内包するものも深遠です。人工知能も人間が生み出したものであり、人間が考えるものである以上、そうした広さや深さに到達することはあり得ないのではないか、とも思うのです。


《参考サイト》
人工知能の開発会社Google DeepMind の公式サイト(英語)
https://deepmind.com/
Google DeepMind の代表デミス・ハサビス(英語版ウィキペディア)
https://en.wikipedia.org/wiki/Demis_Hassabis

≪写真のSource≫
http://wired.jp/2016/03/12/deepmind/




*メールマガジン「小白川通信 41」 2016年3月6日

 あらゆる鳥の中で
 カラスよ お前は一番の嫌われもの

 春 木々が柔らかい光を浴びて芽吹き
 里山がモスグリーンに染まるころ
 お前は黒い一筋の線となって横切る
 なんと目障りなことか

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 夏 木々が葉裏を白く返してそよぎ
 照り付ける日差しの中で育つころ
 お前は黒い染みのように鎮座している
 なんと暑苦しいことか

 秋 吹き渡る風に稲穂が波打ち
 山々がうっすらと色づき始めるころ
 お前は人間の残り物を黙々とついばむ
 なんと見苦しいことか

 けれども 冬
 荒れ狂う吹雪をものともせず
 お前は雪原高く舞い上がり
 白い大地を睥睨(へいげい)しつつ飛んでゆく
 カラスよ お前は美しい


   *写真 姉崎一馬氏が撮影、提供



*メールマガジン「小白川通信 40」 2016年2月13日

 雪が降る、側溝に捨てる。雪が降る、側溝に捨てる――北国の冬の暮らしはその繰り返しです。側溝がないところは、除雪機かスコップで雪を投げ上げるしかありません。のしのしと雪が降る日には50センチほど積もることもあり、一日に何度も雪かきをしなければなりません。楽な暮らしではありませんが、誰もぼやいたりしません。

 春になれば、降り積もった雪が少しずつ解けて田畑を潤してくれます。深山の雪は初夏まで残って沼を満たし、日照りの心配をする必要はありません。土に生きる人々にとって、冬の雪は恵みでもあることを知っているからです。

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蔵王・地蔵岳の黎明

 スキーという楽しみもあります。あらゆるスポーツの中で、私はスキーが一番好きです。身を切るような寒さの中を滑り下りる爽快さは、何とも言えません。雪かきのしんどさも吹き飛ばしてくれます。しかも、山形には蔵王(ざおう)という広々としたスキー場があります。朝、久しぶりに空が晴れ渡ったら、「今日は蔵王で滑ろう」と気軽に出かけることもできます。新聞記者時代のスキー仲間からは「贅沢だなぁ」と羨ましがられています。

 先週の週末、その友人たちと蔵王で恒例のスキー合宿をしました。昼はスキー、夜は温泉三昧。年に一度の楽しい会ですが、今年は仲間の一人が蔵王の山と雪をテーマにした写真集を見つけてきました。温泉街で働いている鏡學(かがみ・まなぶ)さんが自費出版した本です。出版社は地元山形市の小さな会社、部数も700と少ないのですが、驚くべき写真集でした。

 表紙は、厳冬期の蔵王・地蔵岳の黎明をとらえた作品。夜明けのかすかな光を浴びて、稜線が黄金色に輝く。陽光が雪原に淡く流れる。この一瞬をとらえるために、鏡さんは何回、雪に埋もれて夜明けを待ったことか。珠玉の一枚です。蔵王名物の樹氷の間を若いカップルがスノーボードを抱えてゆっくりと歩いていく写真もいい。周りは氷点下のはずなのに、ほんのりとした温かみが伝わってくるのです。

 どの作品からも蔵王に対する撮影者の愛情があふれ出てくるのですが、「この写真集から一枚だけ選ぶとしたらどれか」と問われれば、私は新雪に包まれた紅葉の写真を選びます。蔵王の初雪は早く、ブナやカエデの紅葉が終わらないうちに山は白銀に染まります。そこに薄日が差す。すると、真っ白な木々の間から、また紅葉が姿を現すのです。この世のものとは思えないような色彩。森の妖精がひそんでいるような世界。これまた、何度もトライして、ようやくとらえた一瞬でしょう。

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新雪に包まれた紅葉

 撮影した鏡さんは福井県敦賀市の生まれ、66歳。東京でデッサンを学び、各地で商業用の写真や自然の写真を撮り続け、8年前に奥さんの実家がある山形県上山(かみのやま)市に移ってきました。蔵王のふもとの街です。これを機に、蔵王の撮影に本格的に取り組み始めました。「それまでは仕事で撮ってきました。やっと、自分の好きなものを納得がいくまで撮れるようになりました」と鏡さん。それから6年。蔵王に通い続けて撮った写真から選び抜いて、2014年に出版したのがこの写真集です。

 温泉街で写真集を見つけてきた友人は「いいものは埋もれていくんだよ」と言います。その通りなのかもしれません。ですが、この世の中には「いいものを埋もれたままにしておいてなるものか」と思う人もいる、と信じたい。

 *写真集のタイトルは「Zao can be seen from my room」、3600円
  問い合わせは鏡學さんの下記のメールアドレスか電話へ。
  メール:kagami-24@ab.auone-net.jp
  電 話:023-672-6856

≪写真≫ 鏡學さん提供



*メールマガジン「小白川通信 39」 2016年1月29日
 
 週刊文春が甘利明・経済再生担当相の金銭授受疑惑を報じて1週間。あいまいだった甘利氏の記憶は、弁護士らの助けを借りて急にクリアになったようです。大臣室と選挙区の事務所でそれぞれ50万円受け取ったことを認め、28日に閣僚を辞任しました。「金銭授受疑惑」は「疑惑」の2文字が取れ、金銭授受問題になりました。第1ラウンドは週刊文春の圧勝、と言うべきでしょう。

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28日に記者会見し、閣僚を辞任する意向を表明した甘利明・経済再生担当相

 甘利氏は記者会見で、自身が受け取った100万円も秘書がもらった500万円もともに政治献金だった、と主張しました。政治資金収支報告書の記載にミスがあったり、500万円のうち300万円を秘書が使い込んだりしたものの、どちらも「政治資金の報告に不手際があった」というわけです。それなら、閣僚は辞任しなければなりませんが、衆議院議員まで辞める必要はない、という理屈になります。これが甘利氏側の防衛ラインのようです。

 それで世間は納得するか。週刊文春の報道によれば、くだんの建設会社が甘利氏側に供与した金とサービスは少なくとも1200万円とされています。民間企業はボランティア団体ではありません。利益が見込めないところに資金をつぎ込んだり、グラブやパブで接待したりしません。では、その金と接待にはどんな思惑が込められていたのか。第2ラウンド「金の意味」をめぐる攻防が始まりました。

 この建設会社は、千葉県内の道路工事をめぐって都市再生機構(UR)とトラブルになり、URに補償を要求していたといいます。交渉は難航し、建設会社の総務担当者が甘利氏の秘書に助力を頼んだ、というところまでは双方に争いがありません。問題は、そこから先です。秘書が国土交通省の局長に問い合わせ、国交省の支配下にあるURの担当者に話をつないでもらった、というところで収まれば、「甘利氏側の防衛ライン」の内側に収まります。

 しかし、もし秘書が安倍政権の重要閣僚である甘利氏の看板をチラつかせ、「国交省とURに圧力をかけた」ということになれば防衛ラインをはみ出し、「あっせん利得処罰法」に抵触します。この法律は2000年に成立、翌2001年に施行された新しい法律で、訴追されて有罪となれば、3年以下の懲役という厳罰が待っています。甘利氏がその経緯を承知していれば、もちろん甘利氏も訴追される可能性があります。犯罪だからです。

 29日の毎日新聞社会面に注目すべき記事が掲載されていました。その記事によれば、上記のトラブルは2013年に入って甘利氏の秘書が関わるようになってから急に交渉が進み、まず1600万円の補償がなされ、さらに追加で2億2000万円の補償をすることになった、というのです。地元の建設関係者は「300坪の土地が50万円でも買い手が付かない場所で、2億円以上の補償金を払うなんてどうかしている」と話した、とも報じています。各紙に目を通した範囲では、もっとも核心をついた記事でした。この後に、甘利氏と秘書に金が供与されているからです。

 国土交通省と都市再生機構(UR)、建設会社の間でどのような交渉が行われ、甘利氏と秘書がそれにどう関わったのか。また、右翼団体の構成員から建設会社の総務担当に転じ、週刊文春に一部始終を暴露した人物は、どのような理由で告発するに至ったのか。その事実関係と背後関係を一つひとつ解きほぐしていけば、事件の構図はおのずから明らかになっていくでしょう。その過程で「甘利氏側が圧力をかけた」ことが判明すれば、「政治資金収支報告書の記載ミスでした」などという言い訳は通用しなくなります。

 法律の専門家の中には「あっせん利得処罰法違反になるのは『その権限に基づいて影響力を行使した場合』に限られる。国交省やURは甘利明・経済再生担当相の職務権限外だから、『権限に基づく影響力』を行使できるわけがない。問題にはならない」と主張する人もいるようです。法律家らしい、もっともらしい論理ですが、政治と利権の実態を無視した形式論でしょう。安倍政権で経済政策の中枢を担ってきた重要閣僚の影響力が国交省やURに及ばない、と考える方がどうかしています。

 それにしても、甘利氏が閣僚辞任を表明した28日の記者会見は見応えがありました。矛盾を鋭く追及する記者あり、甘利氏に露骨にすり寄るような質問をする記者あり。気高い志を持った記者と心根の卑しい記者を、高性能のリトマス試験紙をかざしたように炙り出してくれました。もちろん、日本は自由な国です。権力べったりの新聞やテレビがあっても構いません。それも「言論の自由」のうちです。ですが、報道機関で働く者として、それで虚しくはないのか。自分で自分が惨めにならないのか。

 記事を読み、映像を見つめ、ネットで情報を追っている人の多くは「メディアで働く人たちのプロとしての気概を見たい」と思っているのではないか。固唾をのんで「第2ラウンド」「第3ラウンド」の展開を見守っているのではないか。
(長岡 昇)

≪写真のSource≫ 東京新聞の公式サイトから
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201601/CK2016012902000139.html




*メールマガジン「小白川通信 38」 2016年1月22日

 同じニュース媒体でも、新聞とネットには大きな違いがあります。その一つがニュースの価値判断です。ネットのニュースサイトは一般に見出しを同じ大きさの文字で並べるだけです。価値判断は掲載の順番で示す程度、と言っていいでしょう。

 これに対して、新聞ははるかに明確にそれぞれのニュースの価値を判断して読者に提示します。その日、もっとも重要だと判断したニュースは1面で大きな見出しとともに扱い、重要度が低いと考えるニュースは順次、奥の面に掲載していく、というのが大原則です。

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 ニュースの価値判断に関して、新聞編集者の間にはもう一つ、重要な原則があります。それは「第一報を小さな扱いにしたのに続報で大きな扱いをするのは編集者の敗北だ」というものです。これが残酷なまでに示されたのは、1986年に旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きた時でした。歴史的とも言える大事故でしたが、ソ連は当初、完全に沈黙し、第一報はスウェーデン政府による「異常な放射能を検知した。重大な事故があったと思われる」という、きわめて曖昧な情報でした。新聞各紙の第一報の扱いは、1面トップから社会面の4段見出しまでバラバラでした。どの扱いが適切だったかは言うまでもありません。

 今回、週刊文春(1月28日号)が報じた「甘利明・経済再生担当相の口利き現金授受疑惑」についても、各新聞社の価値判断能力が問われました。21日付の朝日新聞は3面トップ、毎日新聞は社会面4段と、それぞれ腰の引けた扱いでした。週刊誌の報道を基にして1面トップの紙面を作るわけにはいかない、という古臭い沽券(こけん)にしがみついた結果でしょう。読売新聞は第2社会面で2段、政治面の補足記事が3段の扱い。この新聞は「権力を監視する」というメディアの重要な役割にあまり関心がないようですから、順当な扱いなのかもしれません(いずれも山形県で配布された各紙の扱い)。

 「一番まともだ」と感じたのは、地元の山形新聞でした。共同通信の配信と思われる記事「『甘利氏に1200万円提供』週刊文春報道」を1面トップで扱い、4面で週刊文春の報道内容も詳しく伝えました。翌22日も1面トップで「甘利氏『記憶あいまい』」と、ポイントを的確に押さえた続報を載せました。朝日は「甘利氏 与党から進退論」というピンボケの続報が1面トップ、毎日も1面3段。どちらも「新聞編集者としての敗北」を紙面に刻む結果になりました。

 20日の記者会見での甘利氏の発言「まだ週刊誌の現物を読んでいない」には、思わず笑ってしまいました。木曜日発売の週刊誌の場合、水曜日(20日)にはゲラ刷りが永田町周辺や新聞各社に出回ります。甘利氏もゲラ刷りのコピーを一字一句、食い入るように読んだはずです。が、そんなことは言いたくない。で、「(ゲラではなく)週刊誌の現物は読んでいない」と、嘘とは言えない表現で急場をしのいだものと思われます。

 記者会見の前に、すでに弁護士との打ち合わせも十分にしているはずです。今回の現金授受はストレートに贈収賄事件になる可能性があるからです。贈収賄事件で弁護団がまず考える防壁は(1)現金の授受そのものを否定する(2)金を受け取ったとしても、受け取った側(甘利氏側)に職務権限がないと主張する、の二つでしょう。金を渡した側は週刊文春に実名で登場しており、手許に動かぬ証拠がたくさんあるようです。「(1)では勝ち目はない」と踏んで、逃げ込んだのが「記憶があいまい」という言葉なのでしょう。田中角栄元首相が逮捕されたロッキード疑獄で政商の小佐野賢治氏が多用した「記憶にございません」を思い出します。

 記憶にあるかどうか。これを本人以外の人間が立証するのは不可能です。第一の防壁「金銭の授受」についてはこの言葉で時間をかせぎ、第二の防壁「職務権限」のところで勝負する――それが弁護団の方針と思われます。金をもらった建設会社のために、補償をめぐってもめている都市再生機構(UR)に口を利いてあげたのは確かだが、それは経済再生担当大臣の職務権限には含まれない。権限外だが、親切心で手を差し伸べてあげたのだ、と立証すればいいわけです。

 その点はどうなのか。それを検察や警察に取材し、実務に詳しい専門家にも当たってギリギリと詰め、読者にきちんと提供するのがメディアの仕事ですが、この数日の報道を見ていると、第二の防壁の取材でも新聞各社は週刊文春の後塵を拝することになりそうです。

 最近の週刊文春の政治腐敗追及には、目をみはるものがあります。去年の12月上旬に表面化した「就学支援金の詐取事件」は、三重県の高校が舞台なのに東京地検特捜部が家宅捜索に乗り出した、というものでした。事件に関心がある人なら「政治家が絡んでいる」とピンと来るはずです。大物政治家が絡むようだと、地元の三重県警や三重地検では手に負えません。だから東京地検が乗り出した、と考えるのが自然だからです。「どういう続報が出てくるか」と注目していましたが、当方の関心に応える記事を掲載した新聞を見つけることはできませんでした。

 これに対し、週刊文春は2015年12月24日号に「特捜部が狙う"詐欺"学校と下村前文科大臣との『点と線』」と題する記事を載せ、事件の背景を伝えました。就学支援金をだまし取ったのは株式会社が運営する「ウィッツ青山学園高校」という学校ですが、この高校の創設者は森本一(はじめ)という人物で、彼は下村博文・前文部科学相の全国後援会の会長だ、と報じたのです。何のことはない。塾経営者の森本氏が同じく塾経営の経歴を持つ下村氏を応援し、三重県に教育特区を作る手助けをしてもらって株式会社運営の高校を創立し、それが税金の詐取という事態を招いた、という構図が浮かんでくるのです。

 これまた、限りなく「贈収賄」に近い構図で、強烈な腐臭が漂ってくる事件です。にもかかわらず、主要な新聞はこの事件の背後にどういう風景が広がっているのか書こうとしない。あまり先走ったことを書くと、東京地検から「捜査妨害だ」と怒られるからでしょう。検察という盾の後ろからチビチビと矢を放つような続報しか書かない。だから、事件の構図もその重大さも新聞報道からは伝わってこないのです。

 私は元新聞記者です。正直に言えば、古巣の新聞と仲の良くない週刊文春の報道を褒めるようなことはしたくありません。ですが、最近の報道については「実に果敢な、勇気ある報道だ」と認めざるを得ません。

 イギリスの政治家で歴史家のジョン・アクトンは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」という言葉を残しました。それは時代をも空間をも越える金言と言っていいでしょう。だからこそ、権力を監視し、追及する報道の役割は重要なのです。その仕事は、たとえ報い少ないものであっても一生を賭けるに値する、と思うのです。もっと鋭く、そしてもっと深く、権力を笠に着て税金を食い物にするような輩の所業を暴き出してほしい。


≪写真説明とSource≫
週刊文春の報道を受けて記者会見する甘利明・経済再生担当相(東京新聞の公式サイト)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016012102000136.html




*メールマガジン「小白川通信 37」 2016年1月17日

 東京から山形に戻って農村で暮らすようになってから、私のライフスタイルは大きく変わりました。大きな変化の一つが移動手段です。私の住んでいる朝日町には鉄道がありませんので、もっぱら車で移動しています。そのため、自然と運転しながらラジオを聞く機会が増えました。聞いてみると、ラジオはかなり面白い。

 NHKラジオ第1で昨日(1月16日)の朝、ラジオアドベンチャーという番組の再放送を流していました。進行役は壇蜜、ゲストは写真家の佐藤健寿(けんじ)さん。テーマは「きかいいさん」というので、「機械遺産」のことかと思ったら、さにあらず。「奇界遺産」のことでした。初めて耳にしました。紹介された「シュバルの理想宮」の内容を聞いて、また驚きました。世の中には、こんな不思議な人生、こんな奇妙な創造物もあるのだと。

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フランス南部オートリーブにある「シュバルの理想宮」

 シュバルは1836年、フランス南部の小さな村で、貧しい農民の子として生まれました。日本で言えば、江戸時代後期の天保年間です。仕事は村の郵便配達夫。車はもちろん、自転車もありませんでしたので、テクテク歩いて配っていたのだそうです。そんなある日、奇しくも43歳の誕生日に、小さな石につまずきます。ソロバンの玉を重ねたような奇妙な石。それがすべての始まりでした。

 何かが彼の心の琴線に触れたのでしょう。その日から、シュバルは路傍の石を拾い、石材を調達して自分の宮殿を造り始めたのです。石工として働いた経験も、建築や美術の心得もなかったそうです。デザインは、配達するハガキに印刷された建造物などを参考にしたと伝えられています。村人の目には「見たこともない、薄気味の悪いもの」と映ったのでしょう。変人扱いされて、あまり人が近寄って来なくなったとか。

 けれども、彼は気にすることなく、「理想宮」と名付けて、自分の宮殿を造り続けました。カンボジアのアンコール・ワットのようでもあり、ヨーロッパのゴシック様式の教会のようでもあり。西洋と東洋の文化が溶け合った、実にユニークな建造物です。完成したのは着手してから33年後、76歳の時でした。変人扱いされたまま、1924年に88歳で亡くなりました。

 シュバルの理想宮は振り向かれることもなく、時が流れていきました。そして、ずいぶん経ってから、シュールレアリスムを提唱した詩人アンドレ・ブルトンの目にとまり、彼がこの建造物を称賛する詩を発表したことから評価がガラリと変わりました。いろいろな人が足を運ぶようになり、1969年にはついにフランス政府から重要な歴史的建造物に指定されるに至りました。今では世界中から観光客がやって来るようになり、ここでコンサートや個展も開かれています。村にとっては「最大の資産」です。

 シュバルが残した言葉がまたいい。
「私は、人間の意志が何を成しうるかを示したかった」

 彼が残した、もっとも大切なことは「信じて生きる」ということなのかもしれません。


≪参考サイト≫
◎「シュバルの理想郷」の公式サイト(英語)
 
◎日本語版ウィキペディア「シュヴァルの理想宮」

≪写真のSource≫
http://lai-lai.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1d0e.html

≪参考文献・写真集≫
◎『奇界遺産』(佐藤健寿、エクスナレッジ)
◎『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(岡谷公二、河出文庫)


*メールマガジン「小白川通信 36」 2016年1月11日

 世の中の「常識」の中には、当てにならない常識もあります。文部省唱歌の『雪』で「犬は喜び庭かけ回り 猫は炬燵(こたつ)で丸くなる」と歌われていることもあってか、「猫は寒がり、犬は雪が大好き」のように思われています。かく言う私も、漫然と「そんなもんだろう」と思っていました。ところが、現実はまるで異なるようです。

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子猫のマロ(生後5カ月)

 山形の山村にある実家では、母親がずっと一人暮らしをしていました。私は7年前に山形に戻り、団地から通って母親の世話をしてきたのですが、去年、90歳で他界したため、空き家になった実家に引っ越して暮らし始めました。実家には以前から、お腹をすかした野良猫が食べ物を求めて出入りしていたのですが、引っ越しを機に、日当たりのいい小部屋を「猫部屋」に改装して「出入り自由」にしてみました。食べ物も与えています。

 たっぷりと栄養を摂れるようになったからか、メス猫とその娘が去年、それぞれ2匹と3匹の子を出産しました。5匹の子猫にとっては、この冬が初めての冬。雪の朝、どうするか観察していたら、興味津々、雪の降り積もった庭をかけ回っています。同じ時期に生まれた子猫でも、庭に出ることなく、室内でうずくまっている猫もいます。臆病で神経質な性格の猫です。要は、好奇心が強く行動的な猫は、初めて目にするものが大好きで、転げ回らないではいられない、ということのようです。

 疑い深く、「信じられない」とお思いの方のために、庭をかけ回る子猫の動画をユーチューブにアップしました。シベリアの雪原を行く虎のような(大げさですが)身のこなしも見せています。カラー文字のところをクリックしてご確認ください。

雪の朝。猫も喜び庭かけ回る

 庭を走り回っている三毛猫とシャムネコ風の猫は、どちらも去年8月の生まれ、生後5カ月。画面をチラリと横切る黒白まだらの猫は5月生まれで生後8カ月。いずれも生粋の野良猫です。世間には「夏猫は飼うな」という言い伝えがあるとか。寒さに弱いからのようですが、わが家に出入りしている子猫たちは、そんな言い伝えも吹き飛ばす元気さです。時折、どこかに出張って行っては子ネズミを捕まえて持ち帰り、ムシャムシャと食べています。この3匹を含め5匹の子猫のうち4匹がメス猫なので、「これ以上増えたらどうしよう。避妊手術を施すしかないか」というのが目下の悩みです。

 同じ野良猫でも、親猫は雪の庭をかけ回ったりはしません。厳しい冬を乗り切るために為すべきことを黙々と為す、という風情です。人間も猫も、無邪気に転げ回っていられるのは子どもの時だけ、ということでしょうか。

 ネットで調べてみると、「寒がりでなかなか外に出ようとしない犬」も珍しくないようです。「うちの犬は雪が降っても外に出ようとしません。大丈夫でしょうか」と悩み事相談のような投稿もありました。「人生いろいろ」と言いますが、猫もいろいろ、犬もいろいろ。どんな生き物にもそれぞれに個性があり、一概には言えないということでしょう。作詞、作曲とも不詳の童謡『雪』はとても味わい深い歌ですが、猫と犬にとっては「異議ありの歌」と言えそうです。
(長岡 昇)

≪注≫
三毛猫は「八重(やえ)」、シャムネコ風の猫は「マロ」、黒白まだらの猫は「オペラ」という名前で呼んでいます。命名の理由は省略。

≪参考サイト≫
「snow cat play」で検索したら、雪と戯れる猫の動画がたくさんありました。カラー文字のところをクリックしてみてください。
Elaine burrows in snow (イレインの雪掘り)
Cute Cats playing in the snow (雪と戯れるかわいい猫ちゃん)
Funny Cats Playing in the Snow First Time Compilation 2015 (雪と戯れる愉快な猫たち<2015年初編纂>)

≪写真≫
撮影・長岡遼子、2016年1月4日



*メールマガジン「小白川通信 35」 2015年12月26日

 天皇陛下は今年の82歳の誕生日に先立って皇居で記者会見し、口永良部島の噴火や鬼怒川の洪水、大村智・梶田隆章両氏のノーベル賞受賞に触れた後、戦時中に徴用された船員の犠牲者について次のように述べました。

「将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました」「制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」

 日本殉職船員顕彰会によれば、徴用された船員の死亡率は43%で、陸軍の20%や海軍の16%を上回ります。民間人である船員の方が軍人よりも死亡率がはるかに高い。何という戦争であったことか。船員の犠牲者への言及がこうした事情を踏まえたものであることは言うまでもありません。

 会見の結びは、今年4月のパラオ共和国訪問についてでした。パラオには日本軍守備隊と米海兵隊が死闘を繰り広げたペリリュー島があります。ペリリューの戦いは硫黄島での戦闘の前哨戦とされ、双方の死傷者の多さに加えて、戦闘のあまりの凄惨さに数千人の米軍兵士が精神に異常をきたしたことで知られています。結びの言葉はこうでした。

「パラオ共和国は珊瑚礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでには、まだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います」

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ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官

 70年たっても、「国民統合の象徴」として深く思いを巡らさないではいられない戦争。しかも、公的には「先の戦争」などという曖昧模糊とした言葉でしか語れない戦争。私たちの国は、300万人を超える同胞が命を落とした戦争について、その呼称すらいまだに定められない国なのです。

 新聞や教科書では「太平洋戦争」という呼称が定着していますが、この呼び方が戦争の実相にそぐわないものであり、研究者たちの間で論争が続いていることは今年6月12日に配信した「小白川通信27」で指摘しました。この呼称は、戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が「大東亜戦争」と呼ぶことを禁じた際に代案として、いわば一時しのぎの呼称として出してきたものです。太平洋を主戦場として戦った「米軍」にとってはピタッとくる表現だったのでしょうが、中国大陸やインド洋でも戦った日本にとっても、英国やオランダにとってもふさわしくない呼称です(米国政府すら、当時は「太平洋戦争」と表現しておらず、公式には第2次世界大戦の一部として「対日戦争」と称していたとみられます。調査中です)。

 占領後、GHQは日本の新聞社や出版社を直接統制下に置き、真珠湾攻撃の4周年にあたる1945年(昭和20年)12月8日を期して、全国の新聞に「太平洋戦争史」という長大な連載記事を載せるよう命じました。物資不足で印刷用紙も配給制の時代。この連載を掲載させるために、GHQは新聞各社に印刷用紙を特配しています。全国紙も地方紙も、通常なら2ページ立ての紙面をこの日は4ページ立てにし、紙面の半分を使って連載の前半を一挙に掲載しました。毎日新聞と朝日新聞、山形新聞に目を通した限りでは、残りは12月9日から17日までGHQ提供の章立てに沿って掲載しています。連載記事の冒頭部分は次の通りです(漢字は旧字体を新字体に、仮名遣いも現代風に改めました)。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されて行くことになろう。これによって初めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、また戦争犯罪者達に気兼ねすることもなく詳細に且つ完全に暴露されるであろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱い等であるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは『真実の隠蔽』であろう」

 この文章からうかがえるように、連載では日本軍による捕虜虐待など戦争犯罪を暴露することに力を注いでいますが、それに留まらず、1931年の満州事変から1945年の米戦艦ミズーリ上での降伏文書調印まで、データをちりばめながら戦争の経緯を詳細に叙述しています。大本営発表しか知らなかった国民にとっては衝撃的な記事であり、ある程度内情を知っていた報道関係者にとっても驚くべき内容でした。

 執筆したのはマッカーサー司令部の下にあった戦史室のスタッフ、陣容は歴史学者や米軍幹部ら約100人とされています。英文の記事を共同通信が翻訳して新聞各社に配信しました。戦史室の責任者は「小白川通信15(2014年7月18日)」でも紹介したメリーランド大学のゴードン・プランゲ教授です(当時はGHQの文官)。歴史学者が統率しただけあって、その内容は後の研究者の検証にも堪え得るものでした。

 例えば、1937年の日本軍による南京虐殺事件について。この事件の記録をユネスコの記憶遺産に登録申請した中国政府は、犠牲者を30万人以上と主張して研究者たちをあきれさせていますが、GHQのこの連載では「証人達の述ぶるところによれば、このとき実に2万人からの男女、子供達が殺戮されたことが確証されている」と記されています。南京事件については、長い研究の末に「犠牲者は数万人規模」という見方に収斂しつつあり、70年前に書かれたこの記事の質の高さを示しています。

 日本軍の戦死者212万人(1964年の厚生省調査)のうち、地域別では最も多い49万人もの犠牲者を出したフィリピンでの戦闘についても、実にバランス良く、正確に書いています。この戦いで日本軍は情勢を十分に把握できないまま敗北を重ね、将兵の多くを餓死や病死に追いやる結果になりました。GHQの記事は「9ヶ月間の戦闘において日本軍の損害は42万6070、捕虜1758及び莫大なる鹵獲(ろかく)品を得た」と実態に極めて近い叙述をしているのです。

 内容が正確で衝撃的だったうえに新聞各紙が一斉にこの連載記事を載せたこともあって、戦後、「太平洋戦争」という呼称は日本国内に広まり、定着していきました。出版社も一部を除いて「太平洋戦争」を使い続けています。一方、政府は「大東亜戦争」という呼称を禁じられてからは、法律や公文書で「先の戦争」あるいは「今次の大戦」などと表現するようになり、今日に至っています。

 「太平洋戦争」という呼称の生い立ちを知り、政府の対応に批判的な論客の中には「戦争中に使った大東亜戦争がもっともふさわしい呼び方だ」と主張する人もいます。しかし、大東亜共栄圏という侵略のバックボーンになった言葉を冠した呼称は、アジア諸国だけでなく国際社会でも到底受け入れられないでしょう。地理的概念としても、太平洋では狭すぎるのと同じく、大東亜でも戦争全体をカバーしきれません。現状では、妥協案として編み出された「アジア太平洋戦争」という呼称を使うしかない、というのが私の立場です。

 歴史研究者の間では、この呼称がかなり使われるようになってきましたが、「太平洋戦争」という呼び方を広める役割を果たした新聞は当然のように同じ呼称を使い続けています。当時は占領下で拒絶する余地などなかったという事情があるにせよ、70年間もそのまま使い続けていていいのか。中学や高校の歴史教科書の出版社の多くが「太平洋戦争」という表現を変えないのも、新聞各社の動向と無縁ではないでしょう。日本のメディアと出版社は、いまだにGHQの呪縛から抜け出せないでいる、と言うしかありません。

 あの戦争からどのような教訓を汲み出し、それを未来にどう活かしていくのか。真摯に考えるなら、漫然と「太平洋戦争」などと書き続けることはできないのではないか。新聞記者として自らも漫然と書いてきた者の一人として、自戒しつつそう思うのです。
(長岡 昇)

 
*「太平洋戦争」という呼称についてはさらに調べて、続編を書く予定です。

≪参考文献・資料≫
・『太平洋戦争史』(高山書院、1946年刊=GHQ提供の新聞連載記事をまとめたもの)
・1945年12月の毎日新聞、朝日新聞、山形新聞

≪参考サイト≫
天皇誕生日の記者会見全文(宮内庁公式ホームページ)
日本殉職船員顕彰会のウェブサイト

≪写真のSource≫
ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官
http://wadainotansu.com/wp/1707.html
*メールマガジン「小白川通信 34」 2015年12月11日

 長く一緒に暮らしているうちに夫婦は似てくる、と言います。本当にその通りだと思います。毒舌をふるう私と30年余りも暮らしたせいで、かみさんはしばしば、どぎつい表現を口にするようになってしまいました。「こんな女じゃなかったのに」と、不憫に思うこの頃です。

 私は6年前に朝日新聞を早期退職して、夫婦で故郷の山形に戻りました(かみさんも山形出身)。同じ頃、新聞社や通信社を定年前に退職して郷里で暮らし始めた記者仲間が何人かいました。転勤生活の末に、ようやく東京で落ち着いた暮らしができるようになったと喜んでいたかみさんは憤懣やるかたなく、「男どもはみんな、ホッチャレか」と毒づきました。ホッチャレは北海道の方言で、生まれ育った川に戻って産卵や放精を終え、ヨレヨレになった鮭のことを言います。「なるほど、うまい例えだなぁ」と思う半面、「ホッチャレはほどなく死んでしまう。俺たちも似たようなものと言うのか」と、いささかムッとした覚えがあります。

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馬毛島で草をはむニホンジカの固有亜種「マゲシカ」。遠景は種子島

 私の「ホッチャレ仲間」に、鹿児島県・種子島出身の八板俊輔(やいた・しゅんすけ)さんがいます。駆け出し記者時代、初任地の静岡で一緒に警察回りをした仲です。彼も朝日新聞を早期退職して、生まれ故郷の種子島に戻りました。種子島は鉄砲伝来の地として有名ですが、伝来した鉄砲の複製を試みた刀鍛冶、八板金兵衛とも遠くつながる家系とか。その縁もあって、鉄砲伝来から450年になる1993年にはポルトガルに出張して特集記事を書いています。

 故郷・種子島への思いは深く、その西に浮かぶ小さな島、馬毛島(まげしま)にも忘れがたいものがあったのでしょう。このたび、この小島のことをうたった短歌や写真、島の歴史を織り込んだ著書『馬毛島漂流』(石風社)を出版しました。江戸時代、種子島が飢饉に襲われるたびに、人々の命を救ったのは馬毛島に自生するソテツの実だったといいます。島で暮らすのは、トビウオ漁などをする一握りの漁民だけ。戦後は復員対策も兼ねて開拓農民が入植した時期もあったようですが、経済成長期に入ると、大規模レジャー施設計画や石油備蓄基地構想が持ち上がって土地が買収され、住民はいなくなってしまいました。

 しかし、レジャー施設計画や石油備蓄構想はいずれも頓挫。その後も、自衛隊のレーダー基地や使用済み核燃料の貯蔵施設計画、米空母艦載機の離着陸訓練の候補地といった話が次々に浮上したものの、いずれも実を結ぶことはありませんでした。中央の政治と経済に振り回され、漂い続けて今日に至っています。帰郷した後、八板さんはこの島に何度も足を運び、打ち捨てられた島への思いを綴り、その風景を詠んできました。

 漂流したのは島だけではありません。最後には八板さん自身も海を漂います。種子島から小船に乗り、沖合からカヤックを漕いで馬毛島に上陸したものの、携帯電話をなくして迎えの船を頼むことができなくなりました。食料も水もほぼ尽き、カヤックを漕いで自力で戻るしかない状況。強い潮に流されながら、パドルを漕ぐこと8時間余り。体力が尽きる寸前にようやく種子島の海岸に辿り着きました。最後の章でその顚末をルポ風に書いていますが、大学ボード部での経験がなければ遭難していただろう、と思わせる内容です。

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馬毛島に自生するソテツ。飢饉の時、種子島の人たちの命を救った

 短歌も島の写真も、遭難寸前の漂流記もそれぞれ印象的ですが、私がもっとも惹かれたのは「7300年前の大噴火の話」でした。この本では、九州薩摩半島の南で起きた大噴火は「東西22キロ、南北19キロの巨大なカルデラを残しました」(p121)とサラリと触れているだけですが、私はこの噴火のことを調べずにはいられなくなりました。大学の講義で「縄文時代の遺跡と人口」を取り上げ、「縄文時代の遺跡が北海道と東北に多く、人口も東日本が圧倒的に多いと推定されているのはなぜか」という問題に触れたことがあったからです。

 その理由については、縄文時代には北海道と東北の方が食糧を手に入れやすく、冬を越すのに適した環境だったから、という見方が有力のようです。北方には栗やクルミ、栃の木など貯蔵に適した木の実を付ける落葉広葉樹が多く、秋には鮭、春にはサクラマスが大量に遡上して来るので飢えをしのぐことができた、というわけです。ただ、異論もあり、その一つが「西日本で巨大噴火があったために生活できなくなり、遺跡の多くも埋もれてしまった」という説です。講義では「異論の一つ」として紹介しただけでしたが、もっと詳しく調べざるを得なくなりました。

 巨大噴火と言えば、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間にあるクラカトア火山の大噴火がよく知られています(地元の発音はクラカタウ)。1883年(明治16年)に山体が吹き飛ぶ大爆発を起こし、海に崩れ落ちた山が大津波を引き起こして3万人以上が亡くなった、とされる噴火です。被害は東南アジアに留まりませんでした。天高く舞い上がった火山灰や微粒子は太陽光を遮り、北半球全体の気温を引き下げたとされています。この大噴火を叙事詩のように描いたのが英国の作家サイモン・ウィンチェスターの名著『クラカトアの大噴火』(早川書房)です。読むと恐ろしくなる本です。

 ところが、火山学や地質学の知見を基にした噴火についての本を読むと、過去にはクラカトアの大噴火をはるかにしのぐ超巨大噴火が何度も起きており、日本は「そのリスクが極めて高い国の一つ」であることが分かります。九州だけでも、種子島と馬毛島の西にある「鬼界(きかい)カルデラ」(これが7300年前に噴火した)、薩摩半島と大隅半島にまたがる「阿多(あた)カルデラ」、桜島から霧島にかけての「姶良(あいら)カルデラ」、その北に「加久藤(かくとう)カルデラ」、「阿蘇カルデラ」と連なっています。それぞれ、大昔に超巨大噴火を起こしており、その噴火エネルギーは東日本大震災を引き起こした地震のエネルギーをはるかに上回る、とされています。

 問題は「それがいつ起きるか」です。数万年あるいは数十万年に一度であれば、それほど心配する必要はないのかもしれません。が、46億年という地球の歴史から見れば、数万年も数十万年も「刹那のようなもの」であり、私たちなど「刹那の刹那を生きているだけ」なのかもしれません。明日も1万年後も「刹那のうち」だとすれば、「いつ起きてもおかしくない」と言うこともできます。

 そういう前提に立って書かれた小説が『死都日本』(石黒耀、講談社)です。九州南部で超巨大噴火(破局噴火)が起きて、日本という国家そのものが破滅してしまう物語で、2002年に発売されてベストセラーになりました。この小説では、火山学者が前兆現象を捉え、政府は的確な危機管理をし、九州電力は噴火の前に川内原発から核燃料を取り出す措置を取ります。ですが、その9年後に起きた大震災で、私たちは地震学者が何の警告も発することができず、政府の危機管理もお粗末極まりなく、東京電力も炉心溶融を防ぐことができなかったことを知りました。

 あの大震災のエネルギーをはるかにしのぐような大噴火が起きた時、この国は、そしてこの星はどうなるのか。私たちにできるのは、ただ祈ることだけなのかもしれません。
(長岡 昇)

≪参考文献≫
・『馬毛島漂流』(八板俊輔、石風社)
・『クラカトアの大噴火』(サイモン・ウィンチェスター、早川書房)
・『歴史を変えた火山噴火』(石弘之、刀水書房)
・『死都日本』(石黒耀、講談社)

*写真はいずれも八板俊輔さん撮影




 
*メールマガジン「小白川通信 33」 2015年11月8日

 それは新聞記者になって4年目のことでした。1981年の晩秋から冬にかけて、横浜市内の警察を担当していた私は、いつものように横浜水上警察署の発表資料に目を通していました。「川に男性の水死体」との資料。「またか」と思いました。そのころは、毎月のように港や水路に男の水死体が浮かび、発見されていたのです。

 当時の取材ノート(1981年11月10日?)に、次のようなメモ書きがありました。
発見日時:11月25日午前6時48分
場 所:横浜市中区吉浜町の中村川水門付近
発見者:横浜市中区の船員(42)
事 案:身元不明の男の水死体。年齢、推定で50歳前後。頭髪はスポーツ刈り。
    茶色のチャック付きジャンパー、茶色のズボン、ゴムの半長靴。
    所持金なし。外傷なし。ズボンの前チャックがはずれている。
発見状況:船の甲板で作業をしていた船員が岸壁と船の間に浮いている死体を発見
死 因:溺死とみられる。酔っていた模様
死亡推定:25日午前5時ごろ

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横浜のドヤ街・寿町。30年前に比べると、ずいぶんこぎれいになった


 殺人や強盗が相次ぐ横浜では、ベタ記事にもならない事件でした。実際、記事にすることもなく、取材ノートにはすぐに別の事件のメモが走り書きしてありました。記憶の底にうずもれていく小さな事件の一つでした。ただ、かすかに引っかかるものがありました。寒くなって水死体で発見されるのはいつも中年か初老の男性であること、決まってズボンの前チャックが開いており、酒に酔った状態だったことです。けれども、その引っかかりを深く掘り下げる余裕もなく、事件取材に追われて時は過ぎ去っていきました。

 「横浜の水死体」のことが記憶の底からよみがえってきたのは、それから10数年後のことでした。外報部で国際ニュースをカバーしていた時期、気晴らしに新宿・歌舞伎町を舞台にしたヤクザと中国人マフィアの抗争を描いた小説を読んでいたら、こんな記述が出てきたのです。

「犯罪を重ねていくと、刑罰はどんどん重くなる。3回目、4回目ともなると、長期刑は避けられない。これをなんとかしようとして、裏社会では『新しい戸籍を手に入れて、犯歴を消す方法』が編み出された。横浜には、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎と並ぶドヤ街・寿町(ことぶきちょう)がある。ここで暮らす日雇い労働者の中から、係累が少なく、姿を消しても誰も気にしないような男を探し出す。寒くなったら、夜、酒をしこたま飲ませて、ズボンのチャックを開けて川に突き落とす。酔っ払って小便をしようとして落ちたことにするのだ。むろん、事前に戸籍を調べて犯罪歴がないことを確認しておく。この男になりすませば、重罪を犯しても初犯として扱われる。短い刑期で娑婆に出て来られるのだ」

 頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えました。小説の一場面として描かれていましたが、「これは事実だ」と直感しました。寒い季節になるたびに、毎月のように発見される酔っ払いの水死体。決まって開いているズボンのチャック。警察が「身元不明の溺死体」として処理し、新聞記事にもならないような事件の裏に、そんなことが隠されていたとは・・。新聞記者として裏社会の一端をのぞいたような気になっていましたが、その闇がどれほど深いのか、初めて目の前に突きつけられた思いでした。

 事件取材で同業他社にスクープされて地団駄を踏んだことは数知れませんが、これほど腹の底に響くような「抜かれ」は初めてでした。悔しさは感じませんでした。むしろ、そんなところまで掘り下げて暴き出す作家の力量に畏敬の念すら覚えました。「日々のニュースを追いかけるのに精いっぱいの新聞記者にできることは限られている。その、さらに奥を追いかけている人たちがいるのだ」と感じ入り、これからは「心の引っかかり」を覚えたことにはきっと何かがある、と考えて取材しなければならない、と肝に銘じたのでした。

 こんな古い話を思い出したのは、最近読んだ『中国 狂乱の「歓楽街」』(富坂聰、KADOKAWA)に「北京で発見される身元不明の変死体」のことが書かれていたからです。中国では戸籍が都市戸籍と農村戸籍に分かれており、地方に住む者が都市戸籍を得るのは極めて難しい。都会に出稼ぎに行き、売春婦として働く女性のほとんどは身分証を偽造して偽名で働いている。このため、トラブルに巻き込まれて殺される売春婦の多くは「身元不明の変死体」として処理されてしまうのだそうです。こういう事件は「無頭案(ウートウアン)」と呼ばれ、多い時には北京だけで月に20件に達したこともあるというのです。中国社会の深いところで何が起きているのか。それを鋭くえぐり出している本でした。

 どの社会も、それぞれ深い闇を抱えています。新聞記者として駐在したインドでは、被差別カーストの人たちが置かれた、すさまじい状況を垣間見ました。戦禍のアフガニスタンで感じた底知れぬ憎悪の連鎖。次に赴任したインドネシアでは、微笑みを浮かべた独裁者、スハルト前大統領の下で、どす黒い犯罪がいかにまかり通っていたかを見聞きしました。新聞記者として伝えられることには限界があると知りつつ、「闇はさらに深い」ということをにじませる記事を書くように努めました。どこまでできたか、自信はありませんが。

 それぞれの社会が抱える闇は深く、一人ひとりの人間が抱える闇もまた深い。しみじみ、そう感じます。その闇の深いところに少しずつ光を当てていく。闇の領域をできるだけ小さくしていく――開かれた社会とは、そうした試みをあきらめることなく、コツコツと積み重ねていく社会のことであり、そうした積み重ねの先にこそより開かれた社会がある、と信じたい。
(長岡 昇)

        *      *      *

 横浜の水死体の話は、馳星周氏か大沢在昌氏の小説で読んだと記憶しているのですが、いくつかの作品を再読しても見つけることができませんでした。別の人の小説だったのかもしれません。

《参考文献》
▽『不夜城』『鎮魂歌 不夜城?』『長恨歌 不夜城完結編』(馳星周、角川書店)
▽『絆回廊 新宿鮫X』(大沢在昌、光文社)

*写真 2015年12月13日、長岡昇撮影










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*メールマガジン「小白川通信 32」 2015年8月27日

 この夏、マレーシアのマラヤ大学で開かれたサマーキャンプに参加しました。キャンプの趣旨は「欧州とアジアの交流をさらに拡大する」という高邁なもの。ただ、その割には参加者は私を含めて9人と、いささか寂しかったのですが、講師のラインナップは素晴らしく、参加者との会話も刺激的で、とても実り多いキャンプでした。

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マレーシアのナジブ・ラザク首相

 折しも、マレーシアではナジブ・ラザク首相の蓄財疑惑が発覚し、巷はその話題でもちきりでした。疑惑は、マレーシア政府が100%出資する投資会社「ワン・マレーシア・ディベロップメント(1MDB)」の関連会社や金融機関から、ナジブ首相の個人口座に7億ドル(約840億円)が不正に振り込まれた疑いがある、というもの。この投資会社はナジブ首相の肝いりで設立されたもので、首相兼財務相のナジブ氏はこれを監督する立場にあります。

 「個人的に流用したことはない」とナジブ首相は弁明しています。送金は何回かに分けて行われ、2013年5月の総選挙直前に振り込まれた金もあります。このため、「与党の選挙資金ではないか」との憶測や「マレーシア政界の権力闘争がらみ」といった見方が飛び交っています。この問題を最初に報じたのはウォール・ストリート・ジャーナルで、メディアの追及は厳しく、その後、首相の夫人の蓄財疑惑まで報じられました。

 サマーキャンプで一緒だったフィリピンの大学院生は「まるで、マルコス大統領とイメルダ夫人みたいだね。イメルダは豪華な靴を宮殿に残して有名になったけど、ナジブ夫人はお金を何につぎ込んだのかな」と興味津々の様子。中国通の学生が「中国の腐敗に比べたら、マレーシアの腐敗なんてかわいいもんだ」と話に割って入りました。

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周永康・前政治局常務委員

 今年の6月に終身刑が言い渡された中国共産党の前政治局常務委員、周永康は「本人と一族が蓄え、当局に押収された資産は900億元」と報じられました。円に換算すれば1兆円以上です。中国の石油ガス業界のドンで、党中央の序列9位まで上り詰めた人物だけに、蓄財もけた違いです。この学生によれば、数百億円程度の不正蓄財なら「中国にはゴロゴロある」のだそうです。

 別の学生は「蓄財より、こっちの方が驚きだ」と切り返しました。スマートフォンで中国メディアの記事を検索しながら、「140人以上もの愛人を囲っていた党幹部がいる。江蘇省建設庁のトップ、徐其耀という男だ。愛人の数では、今のところ彼が一番」と言う。自ら手を付ける。賄賂として女性を差し出させる。徐は権力と金にものをいわせて女漁りにふけりました。2000年10月に逮捕され、翌年、執行猶予2年の死刑判決(事実上の終身刑)を受けています。愛人数ナンバーツーは湖北省天門市の共産党市委員会書記、張二江で、囲った愛人107人。歴史小説『水滸伝』で梁山泊に立てこもった豪傑108人になぞらえ、本妻を含めて108人の女豪傑を相手にした男として「時の人」になったとか。こちらは懲役18年。

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江蘇省の幹部、徐其耀

 知名度という点で、この2人を上回るのが重慶市の党幹部、雷政富だそうな。雷は賄賂として建設会社から送り込まれた18歳の少女とトラブルになり、彼女がこっそり撮影したビデオをネット上で公開されてしまいました。そのセックスビデオの中で、雷は13秒で果ててしまったため「雷十三」と名付けられ、ビデオの公開から63時間後に失脚したため「雷六三」とも呼ばれて、一躍有名になったのだそうです。判決も懲役13年。

 日本で暮らす私たちから見れば、800億円の蓄財も140人の愛人汚職も「けた違いの腐敗」です。そして、共通しているのは、どちらの国でも権力が一つに集中していることです。中国もマレーシアも建前としては権力の分立をうたっていますが、その実態はそれぞれ、中国共産党とマレーシア国民戦線という政党の一党独裁です。権力を握る者の暴走を食い止める仕組みがないか、なきに等しい。だから、腐敗もとめどなく広がり、深まるのです。

 中国経済の先行きを懸念して、このところ世界各地で株価が乱高下しています。つい最近まで「中国は世界の工場」とか「世界経済の成長を牽引する中国」とかもてはやしていたのが嘘のようです。腐敗や暴走をチェックし、行き過ぎをコントロールする仕組みがない社会がどうなるのか。私たちはこれから、その危うさを目撃することになるでしょう。

 同時に、この混乱すら「大もうけのチャンス」とみなして、欧米や日本のハゲタカファンドは牙を研いでいるはずです。先進国や産油国の「ダブついた金」もまた、歯止めなきゲームの重要なプレーヤーであり、私たちにとっても決して他人事ではありません。世界は漂い、乱れ始めています。
(長岡 昇)


《参考サイト》
マレーシア・ナジブ首相の蓄財疑惑(フランスの通信社AFP)

徐其耀と張二江のスキャンダル(日経ビジネスONLINE)

雷政富のスキャンダル(ニューズウィーク日本語版)



《写真のSource》
▽ナジブ・ラザク首相(2015年7月、AFP)
http://www.afpbb.com/articles/-/3053735?ref=jbpress

▽周永康(2007年10月、ロイター)
http://jp.reuters.com/article/2015/06/11/china-corruption-idJPKBN0OR1B520150611?feedType=RSS&feedName=worldNews

▽徐其耀
http://news.sina.com.cn/c/239519.html







*メールマガジン「小白川通信 31」   2015年8月17日
            
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類いでしょうか。戦後70年の節目の夏に安倍晋三首相が発表した談話について、首相の政治信条に批判的な朝日新聞は「いったい何のための、誰のための談話なのか」「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と、いささか感情的とも言える社説を掲げました(8月15日付)。

 確かに、安倍首相の談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」と、歴代政権が反省し、わびてきたことを確認しただけで、自らの言葉で謝罪することはありませんでした。「侵略」という言葉も一回だけ、「事変、侵略、戦争」と並べて使っただけです。まるで「侵略という言葉も入れたよ」と、アリバイを主張するような言及の仕方でした。

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21世紀構想懇談会の初会合(2015年2月25日)

 あの戦争をどう受けとめるのか。命を落とした、すべての人々に何を語りかけたかったのか。政治家としての真摯さを感じさせるものではありませんでした。ですが、戦後50年の村山談話や戦後60年の小泉談話に比べると、「優れている」と評価できる内容も含まれていました。それは、日中戦争やアジア太平洋戦争を、長い歴史の文脈の中で捉え、語っている点です。

 今回の首相談話は、戦争への道を「100年以上前の世界」から説き起こしています。20世紀の初め、アジアや中東、アフリカで「われわれは独立国だ」と胸を張って言える国はほんの一握りしかありませんでした。日本、タイ、ネパール、アフガニスタン、トルコ、エチオピア、リベリアくらいではないでしょうか。ほかの地域は大部分、欧米の植民地あるいは保護領として過酷な収奪にさらされ、列強の縄張り争いの場となっていました。

 小国、日本はその中で独立をまっとうしようとして必死に生きたのであり、ロシアとの戦争にかろうじて勝利を収めたのです。1905年の日露戦争の勝利がアジアや中東、アフリカで植民地支配にあえぐ人々に「勇気と希望」を与えたのは、まぎれもない歴史的事実です。その後、日本は時代の流れを見誤り、増長して戦争への道に踏み込んでいきましたが、その戦争は「侵略」という一つの言葉で語り尽くせるような、生易しいものではありません。どういう時代状況の中で日本が戦争に突き進んでいったのか。それは極めて重要なことであり、村山談話でも小泉談話でもきちんと語らなければならないことでした。

 97歳の中曽根康弘元首相は毎日新聞への寄稿(8月10日付)で、日本軍が中国や東南アジアで行ったことは「まぎれもない侵略行為である」と認めつつ、「第二次大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは、複合的で、対米英、対中国、対アジアそれぞれが違った、一面的解釈を許さぬ、複雑な要素を持つ」と記しました。「あの戦争は侵略戦争だったのか、それとも自存自衛の戦争だったのか」といった、一面的な設問と論争はもう終わりにしなければなりません。「侵略や植民地支配、反省とおわび」のキーワードを使ったのかどうか、といった表層的な見方にも終止符を打ちたいのです。そのためには、1930年代と40年代の戦争だけを切り取って語るような狭量さから抜け出さなければならない、と思うのです。
 
 「そうは言っても、歴史的な叙述のところは安倍首相の本音ではないはずだ。首相の私的懇談会(21世紀構想懇談会)の受け売りではないか」とあげつらう向きもあるでしょう。その通りかもしれません。けれども、戦後70年の首相談話のような重要な演説は、だれが下書きを書いたのかとか、だれの助言が反映されたのかといったことを乗り越えて記録され、人々の記憶になっていくのです。時がたてば、読み上げた首相の名前すら忘れ去られ、独り歩きしていく歴史的な文書なのです。

 2015年、戦後70年という節目に、日本という社会は先の戦争をどう総括し、未来をどのように切り拓こうとしていたのか。それを物語る記録なのです。その意味で、戦争の意味合いを曖昧にし、謝罪も不十分だったことは残念ですが、あの戦争が一面的な解釈を許さない、苛烈な戦争であったことを長い歴史の文脈の中で語ったことは、後に続く世代のためにも有益なことでした。

 そして、追悼の対象を「300万余の日本人戦没者」にとどめるのではなく、戦争で斃れたすべての人々に思いを致さねばならないこと、戦後の日本に温かい手を差し伸べてくれた中国やアジア諸国、戦勝国の人々に感謝する心を忘れてはならないと述べたこと、戦後の平和国家としての歩みを「静かな誇りを抱きながら」貫くと宣言したことも、意義深いことでした。そうした点も評価しなければ、公平とは言えないでしょう。

 私には、安倍首相の政治信条は理解できません。首相にふさわしい器とも思いません。けれども、私たちの社会が今、首相として担いでいるのは安倍晋三という政治家であり、それ以外に持ち得なかったのも事実です。戦後70年談話という重要な政治声明も、彼の口を通して語られるしかなかったのです。切ないことですが、それも認めざるを得ません。なのに、その談話を「出すべきではなかった」などとバッサリ切り捨て、そこには何の意味もないかのように論じるのでは、あまりにもさもしい。

 非は非として厳しく追及し、認めるべきことは率直に認める。そのうえで、未来を生きるために何をしなければならないのかを論じる。メディアには、政治家の器量を超えて物事を捉え、未来を照らすような、懐の広さと深い洞察力が求められていると思うのです。

 首相が談話を読み上げた後の会見のあり方も変えてほしい。記者クラブの幹事が質問し、その後の質問は政権側の司会進行役が指名するような方法をいつまで続けるつもりなのか。朝日、読売、毎日の3大紙とNHKの記者がだれも質問しないような首相会見を視聴者がどう受けとめるかも考えてほしい。誰が質問するかはメディアの側がくじ引きで決める。そのうえで、自由にガンガンと質問する。そういう方法に変えるべく力を尽くすべきではないか。

 安倍政権の提灯持ちのようなメディアと、遠吠えのような批判を繰り返すメディア。これも、私たちの社会が戦後70年で辿り着いた現実の一つですが、変えようとする強い意志があれば、変えられる現実ではないか。
(長岡 昇)

≪参考資料≫
戦後70年の安倍首相談話(首相官邸公式サイト)

▽20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の報告書

≪写真のSource≫
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201502/25_21c_koso.html




 *メールマガジン「小白川通信 30」 2015年8月8日

 しなければならないことをせず、ほかの人に大きな迷惑をかけたならば、その人は責任を取らなければなりません。これは小学生でも分かる論理です。ところが、この当たり前のことが検察官の間では通用しないようです。原発事故の被災者が東京電力の幹部や政府関係者を告訴・告発したのに、東京地方検察庁は2度にわたって「裁判で刑事責任を問うことはできない」として不起訴処分にしました。

 検察の言い分は「あのような大きな津波が発生することを確実に予測することはできなかった。従って、東京電力の備えが不十分だったとは言えない」というものです。確かに、東京電力はそう主張しています。規制官庁の原子力安全・保安院も右へならえです。しかし、本当にそうだったのでしょうか。大津波を予測し、警告した人はいなかったのか。東電と保安院はなすべきことをきちんとしてきたのか。

小白川通信30 事故から1年後の福島第一原発.jpg
事故から1年後の福島第一原子力発電所(2012年2月)

 福島の原発事故を考える際に、つい見落としてしまいがちなことがあります。それは、2011年3月11日に東北の沖合で巨大地震が発生し、大津波に襲われたのは福島第一原発だけではない、ということです。大津波は宮城県にある女川原発にも福島第二原発にも押し寄せました。なのになぜ、福島第一原発だけがこの悲惨な事故を引き起こしたのか。しかも、福島第一に6基ある原子炉のうち、なぜ1?4号機だけが全電源の喪失、原子炉の制御不能、炉心溶融と放射性物質の大量放出という大惨事を招いてしまったのか。それには、しかるべき理由と原因があるはずです。

 その点をとことん突き詰めた本があります。昨年の11月に出版された添田孝史氏の『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)です。添田氏は朝日新聞の科学記者でしたが、2011年5月に退社してこの問題の追及に専念し、本にまとめました。実に優れた報告です。とりわけ、女川原発と福島第一原発の設置時の津波想定を比較している序章が秀逸です。

 原発の設置申請は福島第一の1号機が1966年、女川原発の1号機が1971年でした。まだ地震の研究が十分に進んでいない時期で、津波の研究はさらに立ち遅れていました。そうした中で、東京電力が福島第一原発の設置申請をする際に想定した津波は、1960年のチリ地震の津波でした。この時、福島第一原発に近い小名浜港で記録された津波の高さは3.122メートル。これに安全性の余裕を見て5メートルほどの津波を想定し、海面から30メートルあった敷地を10メートルまで削っで原発を建設したのです。当時はこれで十分、と判断したのでしょう。

 これに対して、女川原発では明治29年と昭和8年の三陸大津波に加えて、869年の貞観(じょうがん)地震による大津波をも念頭に置いて津波対策を施し、原発の敷地を14.8メートルに設定しました。東電が調べたのはわずか10数年分の津波データ。それに対し、平安時代まで遡って津波を考えた東北電力。その結果が海面からの敷地の高さが10メートルの福島第一と14.8メートルの女川という差となって現れたのです。この4.8メートルの差が決定的でした。

 添田氏は、女川原発の建設にあたって、東北電力がなぜそのように慎重に津波の想定をしたのかを詳しく調べています。そのうえで、同社の副社長だった平井弥之助氏の存在が大きかった、と結論づけています。宮城県岩沼市出身の平井氏は、三陸大津波の記録に加えて、地元に伝わる貞観大津波のことを知っていたのです。そして、部下たちに「自然に対する畏れを忘れず、技術者としての結果責任を果たさなければならない」と力説していました。(前掲書p12)。平井氏の思いは部下に伝わり、女川原発を津波から守った、と言うべきでしょう。

 東京電力の大甘の津波想定がその後もそのまま通用するはずがありません。地震と津波の研究が進むにつれて、東京電力は「津波対策を強化すべきだ」という圧力にされされ続けます。1993年の北海道南西沖地震では、奥尻島に8メートルを超える津波が押し寄せ、最大遡上高は30メートルに達しました。これを受けて、国土庁や建設省、消防庁など7省庁が「津波防災対策の手引き」をまとめ、「これまでの津波想定にとらわれることなく、想定しうる最大規模の地震津波も検討すべきである」と打ち出しました。

 1995年の阪神大震災の後には、政府の地震調査研究本部が「宮城沖や福島沖、茨城沖でも大津波が起きる危険性がある」と警告を発しました。2004年のインド洋大津波の後にも、津波対策を急がなければならないと問題提起した専門家は何人もいたのです。

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インド洋大津波でスマトラ島アチェの海岸に打ち上げられたタグボート

 それらに、東京電力はどう対処したのか。2008年には社内からも「15メートルを超える津波が押し寄せる可能性がある」という報告が上がってきていたのに、上層部が握りつぶし、ほとんど何の対策も取らなかったのです。それどころか、意のままになる地震学者を動員して、警告を発する専門家や研究者の動きを封じて回った疑いが濃厚です。東電はこの間、度重なる原発の事故隠しスキャンダルで逆風にさらされ、中越地震で損壊した柏崎刈羽原発の補修工事にも追われて赤字に陥り、経営的にも厳しい状況にありました。巨額の費用がかかる津波対策を先送りにせざるを得ない状況に追い込まれていたのですが、そうした事情を割り引いても、許しがたい対応と言わなければなりません。

 添田氏は地震の研究者や原子力規制の担当官、電力会社の幹部らに取材して、その経過と実態を白日の下にさらそうとしています。経済産業省や保安院が東電をかばって資料を見せようとしないのに対しては、情報公開制度を駆使して文書を開示させています。彼の本はそのタイトル通り、津波に対する警告を葬った人々に対する弾劾の書です。

 日本の検察は「有罪にできる自信がない限り、起訴しない」というのを鉄則にしています。いったん起訴されれば、被告の負担は大きく、たとえ無罪になったとしても取り返しのつかない打撃を受けるおそれがあるからです。それはそれで立派な原則ですが、それを権力を握り(地域独占企業である東京電力は限りなく「権力機関」に近い)、中央省庁を巻き込んで都合の悪いことを隠そうとする組織の幹部にまで同じように適用しようとするから、おかしなことになるのです。

 11人の市民からなる東京第五検察審査会が東京地検の不起訴処分を覆して、東電の勝俣恒久・元会長と武黒一郎・元副社長、武藤栄・元副社長の3人を業務上過失致死傷の罪で強制起訴する、と決めたのは極めて健全な判断と言うべきです。検察は「大津波を確実に予測することはできなかった」と主張しているようですが、そもそも数千年、数万年、数十万年というスパンで動く地球の動きを地震学者が「確実に予測する」ことなど、昔からできなかったし、今でもできはしないのです。できることは「自然に対する畏れを忘れず、謙虚に研究を積み重ね、できる限りの対策を施す」ということに尽きます。東北電力はそれを愚直に守り、東京電力は「小さな世界」に閉じこもって姑息な手段を弄し、大自然の鉄槌を浴びる結果を招いたのです。

 「小さな世界に閉じこもる」という点では、検察も同じです。日本で現在のような法体系ができたのは明治維新以降で、まだ1世紀半しか経っていません。そういう小さな枠組みで、東日本大震災という未曽有の事態に対処しようとするから、おかしなことになるのです。突き詰めれば、法の淵源は一人ひとりの良心と良識、その総和にほかなりません。そういう大きな枠組みに立ち、未来を見据えて、東電の幹部は司法の場で裁かれるべきかどうか判断すべきでした。有罪か無罪かはその先の問題であり、最終的な判断は裁判所に託すべきだったのです。

 検察審査会が東電の旧経営陣3人の強制起訴を決めたことに関する新聞各紙の報道(8月1日付)も興味深いものでした。原発政策の推進を説く読売新聞が冷ややかに報じたのは理解できますが、朝日新聞まで1面に「検察と市民 割れた判断」と題した解説記事を掲載したのには首をかしげざるを得ませんでした。中立的と言えば聞こえはいいのですが、それは検察の言い分をたっぷり盛り込んだ、他人事のような記事でした。

 中央省庁や電力会社の人間に取り囲まれ、その言い分に染まり、既得権益の海に沈んだ検察。その検察の取り巻きのようになって、一緒に沈んでいく司法クラブの記者たち。朝日、毎日、読売の3紙を読み比べた範囲では、「予見・回避できた」という検察審査会の主張を1面の大見出しでうたった毎日新聞が一番まともだ、と感じました。「法と正義はどうあるべきか」を決めるのは検察ではありません。三権のひとつ、司法の担い手である裁判所であり、最終的には主権者である私たち、国民です。その意味で、検察審査会のメンバーは立派にその職責を果たした、と言うべきです。
(長岡 昇)


《写真のSource》
▽福島第一原子力発電所(2012年2月)
http://www.imart.co.jp/houshasen-level-jyouhou-old24.3.19.html
▽スマトラ島アチェのタグボート(2005年1月29日、長岡昇撮影)








 
*メールマガジン「小白川通信 29」 2015年7月31日

 また「戦争を語る季節」が巡ってきました。戦後70年の節目とあって、この夏は早くから新聞各紙で「戦争企画」の連載が始まりました。それぞれ、歴史の闇に埋もれてしまいかねないものを掘り起こそうとする意欲を感じ、学ぶところも多いのですが、大学で現代史の講義を担当している立場からは、やはり不満が残ります。あの戦争について、いまだに大きなテーマの一つが取り上げられないままになっている、と感じるからです。

 それは、アジア太平洋戦争に動員され、命を落とした日本軍将兵の半数近くが戦闘による死ではなく、食べるものがないために餓死、あるいは栄養失調に陥って病死した、という事実です。私もこの問題については無知でした。ガダルカナル島やインパール作戦、さらにはフィリピンでの戦闘で多くの餓死者が出たことは知っていましたが、それが局所的なことではなく、中国大陸を含め、多くの戦場で起きていたとは知りませんでした。自分で調べ、その実態を詳しく知るにつれて、あまりのひどさに愕然としています。

小白川29 映画『野火』.jpg

 この問題を正面から扱っているのは、藤原彰(あきら)一橋大学名誉教授の著書『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)です。藤原氏は陸軍士官学校を卒業し、中国大陸を転戦した将校です。戦後、大学に入って歴史学者になり、自らの戦場体験を踏まえてこの本を著しました。冒頭、彼はこう記しています。
「戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことがこの戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。死者に代わって告発したい」

 ガダルカナルやニューギニアのポートモレスビー、インド北東部のインパールで起きた補給途絶による餓死を詳述した後、藤原氏はフィリピンでの大量餓死を扱っています。フィリピンは、先の戦争で日本軍の将兵が最も多く犠牲になった戦域です(次に多いのは中国本土)。1964年の厚生省援護局の資料によれば、陸海軍の軍人・軍属の死者は約212万1000人(1937年の日中戦争以降の死者。戦後のシベリア抑留による死者も含む)。このうち、49万8600人もの人命がフィリピンで失われているのです(フィリピン政府の発表によれば、戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人も100万人を上回ります)。

 フィリピン、その中でも酸鼻を極めたレイテ島での戦いで、兵士たちはどのような状況に追い込まれたのか。それを小説にして世に問うたのが大岡昇平でした。『野火』(新潮文庫)の主人公、田村一等兵は作者自身の姿であり、米軍の捕虜になった著者がレイテ島の捕虜収容所で出会った兵士たちの分身でもあったでしょう。作品の中で、飢えにさいなまれる田村一等兵に死相を呈した将校が上腕部をたたきながら語りかけるシーンがあります。
「何だ、お前まだいたのか。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」

 将校は顔にぼろのように山蛭(やまびる)をぶら下げながら「帰りたい」とつぶやき、息絶えます。田村一等兵はまず、その山蛭の血をすすり、誰も見ていないことを確かめてから右手に剣を握り、腕の肉をそぎ落とそうとします。その時、不思議なことに、左の手が右の手首を握り、剣を振るうのを許さなかった――。死の瀬戸際で、人は何を思い、どう振る舞うのか。田村一等兵はかろうじて自分を制しますが、踏みとどまれなかった者もたくさんいたのです。

 戦場で将兵の治療にあたった軍医たちの記録『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(陸上自衛隊衛生学校編)には、食糧が尽き、医薬品もないまま、マラリアや下痢で死んでいった兵士たちの状況が延々と綴られています。そしてついには、日本陸軍の医療記録に「戦争栄養失調症」なる病名が登場するに至ったのです。衛生史の筆者は「軍内のいわゆる政治的配慮により、かかる特殊な病名がでっちあげられたと説く学者もあり、現に栄養物の補給にこと欠かなかった米軍には、本症の如き記載はない」と記しています(p151)。

 軍医たちは、戦死者と戦病死者の割合をどうみていたのか。『陸軍衛生史』は「敗戦によって統計資料は焼却または破棄されており、推定するよしもない」と記すのみです。藤原氏は著書でこのことを「もっとも重大な問題を欠落させている」と批判していますが、「そう書くしかなかった」と言うべきでしょう。緒戦の勝利の後、日本軍は多くの戦線で敗走し、指揮官が自分の部隊の状況すら把握できないといった事態がいたるところで現出したからです。従って、「戦病死の方が多い」と断定するのは難しいのですが、少なくとも「半数近くは戦闘による死亡ではない」とは言えるのではないか。だからこそ、戦後、復員した兵士の中に「戦友の家族を訪ねてその最期を伝えたいと思っても、できない」と懊悩する人が幾人もいたのです。嘆き悲しむ遺族に「やせ衰え、排泄物にまみれて死んでいった」などと、どうして伝えられようか、と。

 長い歴史の中で、戦争はいろいろな国で幾度も繰り返されてきました。ですが、その軍隊の兵士の半分近くが「食べ物がなくて斃(たお)れた」というような戦争がほかにあったでしょうか。そのような戦争を命じた指導者たちがいたでしょうか。日清、日露の戦争に勝ち、日中戦争で蒋介石軍を蹴散らしているうちに、「皇軍は無敵」と酔いしれ、大きな世界が見えなくなる。冷静に分析し、合理的に行動することもできなくなる――その挙げ句、70年前の破局を迎えたのです。

 「それは日本軍の特質」と言って済ますことはできないでしょう。形を変えて、戦後の日本社会に引き継がれ、今なお脈々と生き続けているのではないか。膨大な借金を抱えながら、その支払いを次の世代に押し付けて恥じない。広島、長崎に続き、福島の原発事故であれだけの惨禍をこうむりながら、なお平然と原発の再稼動をめざす――その破廉恥な姿は、前線の苦しみをよそに東京の大本営で無責任な戦争指導を続けた軍人たちの姿と重なって見えてくるのです。

 ガダルカナルの戦場で飢え、フィリピン、ビルマと転戦しながら詩を書き続けた吉田嘉七(かしち)は『ガダルカナル戦詩集』(創樹社)の最後に、次のような詩を掲げました。

  遠い遠い雲の涯に
  たばにして捨てられた青春よ
  今尚大洋を彷徨する魂よ
  俺達の永遠に癒えない傷あと

 私たちの国は、今また「人としての心」をたばにして捨てるような道へ踏み込もうとしているのではないか。

(長岡 昇)

《参考文献》
◎『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰、青木書店)
◎『野火』(大岡昇平、新潮文庫) *大岡昇平の小説を原作にした映画『野火』(塚本晋也監督)が公開されています。詳しくは色塗りの部分をクリックしてください。
◎『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(1971年、陸上自衛隊衛生学校編)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)

≪写真説明とSource≫
◎写真は映画『野火』のワンシーン
Source : http://eiga.com/movie/80686/gallery/5/











 *メールマガジン「小白川通信 28」 2015年7月10日

 村の朝は早い。村人が総出で農道の改修や田んぼの水路の泥かきをすることを「普請(ふしん)」といい、たいていは日曜日の朝5時すぎから作業が始まります。5時半集合、ということになっているのですが、なにせみんな早起きで、集合時間の前に作業が始まってしまうのです。

 山形県朝日町の山あいの村にある実家では母親が一人で暮らしていたため、去年まで普請の仕事は免除されていました。私は隣の地区にある団地に住んで通いで介護をしていたのですが、今年の1月に母親が90歳で亡くなったため、週末は私が空き家になった実家で暮らすようになりました。遺品や荷物を片付けてリフォームを済ませ、秋には実家に引っ越すつもりです。

 というわけで、引っ越しの前なのですが、村の人から「普請があるよ」とお誘いがかかり、このあいだの日曜日に私も参加しました。「主な作業は田んぼの畦(あぜ)の草刈りと農道の側溝の泥かき」と教えてもらったので、草刈り鎌のほかに、先のとがったスコップ(剣スコ)と四角いスコップ(角スコ)を持ってでかけました。側溝の泥かきには剣(けん)スコより角(かく)スコの方がいいからです。

 現場に着いてすぐ、ずっと村で暮らしている人との差を見せつけられました。草刈り鎌などを持ってきているのは私ともう一人くらい。あとは各自、エンジン駆動の草刈り機を肩からぶら下げています。側溝からすくい上げた泥を運ぶために、軽トラックで来た人も何人かいました。こちらは徒歩で、手に草刈り鎌。「新米の村人」には機動力も機械力もありません。草刈りはお任せして、私は側溝の泥かきに専念しました。

 1時間ほど泥かきをして作業が終わりかけた頃、泥の中から奇妙な石を見つけました。こびりついた泥を落としてみると、細長い打製石器でした。長さ8センチ、幅3センチほど。木にくくりつけて槍として使った石器のように見えます。それほど驚きもしませんでした。と言うのも、生まれ故郷の朝日町には旧石器時代や縄文時代の遺跡がいくつもあり、打製石器や古い土器がたくさん見つかっているからです。

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田んぼのわきで見つかった打製石器

 一部の考古学者の間では、朝日町は旧石器が日本で初めて発見され、記録されたところとして知られています。こんなことを書くと、「何を言ってるんだ。旧石器が日本で初めて発見されたのは群馬県の岩宿(いわじゅく)だ。行商をしながら考古学の研究をしていた相沢忠洋という人が見つけて、明治大学の研究者が1949年(昭和24年)の秋に記者会見して発表している。どの教科書にも書いてある」とお叱りを受けそうです。

小白川28 岩宿の石器(縮小版).jpg

岩宿遺跡で発見された槍先形尖頭石器
 
 確かに、どの教科書にもそう書いてあります。しかし、相沢忠洋氏が旧石器を発見し、明治大学の研究者がその成果を発表する前に、実は山形県朝日町の大隅(おおすみ)というところで旧石器が多数見つかっており、地元で小学校の教員をしていた菅井進氏が1949年発行の考古学の同人誌『縄紋』第三輯に「粗石器に関して」という論文を寄稿していたのです。岩宿遺跡についての発表の半年前のことでした。



 けれども、東北の寒村での発見。小学校の教員が書いた論文は、考古学者の目に触れることはありませんでした。たとえ、目にとまったとしても、当時の考古学会では「日本には旧石器時代はない」というのが常識でしたから、黙殺されたことでしょう。岩宿遺跡の旧石器が「日本初」として記憶されるに至ったのは、相沢忠洋氏の尽力に加えて、その成果が明治大学の著名な考古学者によって発表され、その後も継続して発掘調査が行なわれたからです。大隅の旧石器は世に認められることなく、歴史の谷間に埋もれてしまったのです。

 考古学の研究史に残ることはありませんでしたが、群馬県の岩宿よりも先に山形県の大隅で旧石器が発見され、記録されていたという事実は消えません。そして、大昔、新潟県境に近い山形のこんな山奥で多くの人間が暮らしていたのは確かなのです。朝日町には大隅遺跡以外にも旧石器時代の遺跡があり、縄文時代のものとみられる遺跡もたくさんあるのです。

 さらに興味深いのは、この町には発掘調査が行なわれなかった遺跡もかなりある、と考えられることです。私の実家がある太郎地区の遺跡もその一つです。小学生の頃(今から半世紀前)、村のおじさんから「こだなものが出できた」と、打製石器をいくつかもらいました。この場所は県や町に届けられることなく、農地としてそのまま開墾されたと聞きました。戦後の食糧難の時代、農民は何よりも食糧の増産を求められていたました。役所に「遺跡が見つかりました」と届け出て発掘調査などされたのでは、仕事にならなかったからです。

 黙って開墾し続け、石器や土器を片隅に追いやった村人の気持ちも分かります。朝日町のほかの地区でもこうした例があったと聞いています。私の故郷だけの話ではないでしょう。全国各地でこうしたことがあったと考えるのが自然です。近年はともかく、戦前、戦後の時期に考古学者が発掘することができたのは、見つかった遺跡のごく一部と考えるべきでしょう。

 そして、思うのです。今、わが故郷の朝日町は過疎に苦しんでいますが、旧石器時代や縄文時代にはとても暮らしやすいところだったのだろう、と。遺跡はいずれも、日当たりのいい河岸段丘にあります。秋、山ではクリやドングリがたくさん採れ、最上川や支流の朝日川にはサケが群れをなして遡上してきたはずです。厳しい冬を生き抜くための糧が得やすい場所だったのです。もちろん、旧石器時代を懐かしんでも何の足しにもなりません。けれども、そこには、厳しい過疎の時代を生き抜き、新しい時代を切り拓いていくためのヒントが何か潜んでいるような気がするのです。
(長岡 昇)



《参考サイト》
戸沢充則・明治大学学長の講演「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」抄録(朝日町エコミュージアム協会)

大隅遺跡発見の経緯(同)

明治大学HPの考古学関係(岩宿遺跡)

相沢忠洋記念館

群馬県みどり市岩宿博物館

《参考文献》
◎『朝日町史 上巻』(朝日町史編纂委員会、朝日町史編集委員会編、2007年発行)
◎『人間の記録 80 相沢忠洋 「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』(相沢忠洋、日本図書センター)
◎『日本の旧石器文化』1?4巻(雄山閣出版)
◎『日本考古学を見直す』(日本考古学協会編、学生社)






*メールマガジン「小白川通信 27」 2015年6月12日

 父親の世代が兵士として戦った70年前の戦争の呼称について、私たちの世代は中学や高校で「太平洋戦争」と教わりました。新聞記者になってからもこの呼び方に疑問を抱くことはなく、長い間、記事の中でもそう書いてきました。この呼称に違和感を覚えるようになったのは、1990年代にニューデリー特派員としてインドに駐在したころからのような気がします。

 インドからスリランカに出張し、コロンボでお年寄りに昔の思い出話を聞いた時のことです。彼は戦争中のことを語り始め、こう言ったのです。「あの時はびっくりしたよ。日本軍の航空機が銀翼をきらめかせて急降下して、港に停泊していたイギリスの船を爆撃したんだ。日の丸のマークが見えたよ。いつも落ち着いているイギリス人があわてふためく様子が実に印象的だった」。真珠湾を攻撃した後、日本の連合艦隊がインド洋にも出撃したことは記憶していましたが、当時この地域を植民地として支配していた英国にこれほど大規模な攻撃を仕掛けていたとは、不勉強でこの時まで知りませんでした。

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 インド洋での日英の戦いはどのようなものだったのか。ニューデリー特派員としての取材の合間に戦史をひもとき、調べました。ビルマ南方の海に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島をめぐっても、激しい争奪戦が繰り広げられたことを知りました。そして、1944年(昭和19年)のインパール作戦。日本軍の無謀、悲惨な戦闘の典型とされるこの作戦の主戦場は、太平洋どころかインド洋からも遠く離れています。作戦から50年後の1994年に、遺族の慰霊団に同行して現地を訪ねる機会がありましたが、戦場になったインパールもコヒマもインド北東部の山岳地帯にあるのです。

 あの戦争を「太平洋戦争」と呼んだのでは、これらの戦いはすべてその枠組みから抜け落ちてしまいます。中国本土での日本軍と蒋介石軍や中国共産党軍(八路軍)との戦いを「太平洋戦争の一部」とするのもしっくりしません。この呼称に対する違和感が膨らんでいきました。かと言って、当時、日本政府が使っていた「大東亜戦争」を引っ張り出してきて使う気にはなれません。この戦争の内実は、「大東亜共栄圏を築くための戦争だった」などという綺麗ごとで済ませられるような、生易しいものではありません。アジアの隣人たちも快く思わないでしょう。

 では、どう呼べばいいのか。2年前に山形大学で現代史の講義を担当するようになってから、コツコツと調べてきました。そして、この30年ほどの間に戦争の呼称について多くの本や論文が書かれ、激しい論争が繰り広げられてきたことを知りました。それらの文献の中で、もっとも参考になったのは文芸評論家、江藤淳氏の『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)と、軍事・外交史の専門家、庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』(2011年3月、防衛研究所紀要第13巻第3号)の二つでした。「太平洋戦争という呼称はそもそも、だれが、どういう経緯で使い始めたのか」という点について、多くのことを教わりました。

 1945年夏に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、すぐさま戦争犯罪人の追及と軍国主義体制の解体に着手しますが、並行して検閲と報道規制に乗り出しました。同年9月19日に報道各社向けに「プレス・コード」を出し、「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「英霊」といった戦時用語の使用を避けるように指示しました。GHQの意向を受けて、新聞に「太平洋戦争」という表現が登場し始めます。この年の12月8日からは新聞各紙にGHQ提供の連載記事「太平洋戦争史」が一斉に掲載されました。1931年の満州事変から敗戦に至るまで、大本営の発表がいかに事実とかけ離れたものだったかを暴露し、日本軍による南京虐殺やフィリピンでの捕虜虐待などを告発する衝撃的な内容でした。この連載記事によって「太平洋戦争」という表現が日本社会に浸透していった、ということを江藤、庄司両氏の叙述で知りました。

小白川27 神道指令を伝える新聞1ff29d85-s.jpg

 一方で、GHQはこの連載開始の直後(12月15日)、日本政府に対していわゆる「神道指令」を出し、「大東亜戦争」「八紘一宇」など「国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル」と命じました。これ以降、日本政府は法令や公文書で「大東亜戦争」という言葉を使うのをやめ、「今次の戦争」や「先の大戦」「第二次世界大戦」といった表現を用いるようになりました。それは今に至るまで続いています。今年4月に慰霊のためパラオを訪れた天皇のあいさつでも、用いられた言葉は「先の戦争」でした。日本という国は公的な場で、いまだに「あの戦争についてのきちんとした呼称」を持たない国なのです。

 では、アメリカではこの戦争をどう呼んでいたのか。英語版のウィキペディアで検索すると「Pacific War」という項目があり、意外なことが書いてありました。「Names for the war (戦争の呼称)」という段落の冒頭に次のように書いてあるのです(長岡訳)。
「戦争中、連合国では“ The Pacific War (太平洋戦争)”は通常、第二次世界大戦と区別されることはなく、むしろ単にthe War against Japan(対日戦争)として知られていた。米国ではPacific Theatre (太平洋戦域)という用語が広く使われていた」

 つまり、米国では戦争中、対日戦争と対独戦争をひっくるめて第二次世界大戦と呼んでおり、Pacific (太平洋)という用語が使われたのは軍の作戦区域や管轄を示す場合であった、というのです。出典が示されていないため、それ以上は調べられませんでしたが、この記述は「太平洋戦争 The Pacific War 」という表現そのものが戦後、GHQによって採用されて日本で定着し、それが後に英語圏にも広がっていったことを示唆しています。「大東亜戦争」に取って代わる呼称としてGHQが普及させた、と言ってよさそうです。英国は主にインド洋で戦い、蒋介石軍・中国共産党軍との戦いは中国本土が舞台でしたが、米国にとっては「太平洋こそ主戦場」でしたから、ぴったりの呼称だったわけです。

 米国の占領統治の影響は絶大です。日本の新聞や書籍では、いまだに「太平洋戦争」と表記されるのが普通です。「アジア太平洋戦争」や「アジア・太平洋戦争」あるいは「大東亜戦争」という呼称はパラパラと見える程度です。高校で現在使われている日本史と世界史の教科書はどうか。入手できる範囲で調べてみました。私たちが学んだ頃から半世紀たつのに、ほとんどの教科書は「太平洋戦争」のままでした。いくつかは「最近ではアジア太平洋戦争ともよばれている」といった注釈を付けてお茶を濁しています。教科書会社も執筆者も「模様眺め」を決め込んでいるようです。

 そんな中で、異彩を放っているのが実教出版の『新版 世界史A』です。「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)」という見出しを立て、なぜこう呼ぶのか、丁寧な説明を付けているのです。地図にはインド洋での戦闘も明示しています。歴史を学ぶ生徒に少しでも多く、考える素材を提供したい――そんな執筆者の熱意が伝わってくる記述でした。一つひとつ、こうした努力を積み重ねていくことが歴史を考えるということであり、そうやって次の世代にバトンをつないでいかなければならないのだ、としみじみ思いました。

 歴史の刻印は強烈です。戦後70年たっても消えることなく、人々の心を縛り続けています。私もまた、縛りつけられた一人でした。最近になってようやくその呪縛から抜け出し、授業では「アジア太平洋戦争」という呼称を使うようになりました。もちろん、もっとピシッとした表現があるなら、それを使いたいと考えています。あれだけの戦争です。その歴史が定まるまでには、まだまだ時間がかかるわけですから。
(長岡 昇)


*庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』はカラー文字のところをクリックすれば、読むことができます。

*1945年12月8日から日本の新聞各紙に連載された『太平洋戦争史』は、翌1946年に高山書院から単行本『太平洋戦争史』として出版されました。大きな図書館なら所蔵していると思います。

*1994年に長岡がインパールへの遺族慰霊団に同行した際のルポ記事はカラー文字をクリックしてご参照ください。

≪写真説明とSource≫
セイロン沖海戦で日本軍の攻撃を受けて沈む英空母ハーミーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

GHQの神道指令を報じる毎日新聞
http://mahorakususi.doorblog.jp/archives/38143475.html



*メールマガジン「小白川通信 26」 2015年4月7日

 沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事は5日、米軍普天間飛行場の移設をめぐって菅義偉(すが・よしひで)官房長官と会談し、次のように発言したと伝えられています。

「今日まで沖縄県が自ら基地を提供したことはない、ということを強調しておきたい。普天間飛行場もそれ以外の取り沙汰される飛行場も基地も全部、戦争が終わって県民が収容所に入れられている間に、県民がいるところは銃剣とブルドーザーで、普天間飛行場も含めて基地に変わった。私たちの思いとは全く別に、すべて強制接収された。そして、今や世界一危険になったから、普天間は危険だから大変だというような話になって、その危険性の除去のために『沖縄が負担しろ』と。『お前たち、代替案を持ってるのか』と。『日本の安全保障はどう考えているんだ』と。『沖縄県のことも考えているのか』と。こういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思う」(琉球新報の電子版から)

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 翁長氏は自民党沖縄県連の幹事長を務めたこともある保守の政治家です。その彼が安倍政権の官房長官に向かって「日本の政治の堕落」という言葉を突きつけたのです。この言葉には、戦争中の沖縄戦の惨状や戦後の米国統治下での苦難、祖国復帰後も続く基地負担、そうした沖縄が背負わされたすべてのことに対する思いがこもっている、と感じました。政治の堕落――沖縄の基地問題に対する本土の政治家たちの対応は、自民党にしろ民主党にしろ、まったくその通りだと思うのです。

 300万人を超える日本人が命を落としたアジア太平洋戦争で、南方や北方の戦場を除けば、沖縄は唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われたところです。日本軍にとって、沖縄戦の位置づけは明白でした。「本土決戦までの時間稼ぎ」です。圧倒的な兵力と物量で押し寄せる米軍を1日でも長く釘付けにして、本土決戦の準備を整えるために時間稼ぎをしようとしたのです。

 その目的のために、沖縄の住民を文字通り根こそぎ動員しました。男たちを兵士として徴兵しただけでは足りず、町村ごとに義勇隊を組織し、男子生徒は鉄血勤皇隊、女子生徒はひめゆり学徒隊などと名付けて動員し、戦闘に投入しました。沖縄県平和祈念資料館によれば、沖縄戦の日本側死者は約18万8000人、その半数は一般の住民でした(米軍の死者は1万2520人)。

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 その献身ぶりとあまりの犠牲の多さに、当時の沖縄方面根拠地隊司令官、大田実・海軍少将は海軍次官あてに次のような電報を送っています(昭和20年6月6日付)。
「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク 三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ シカレドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ・・・ニ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ(中略)本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形・・・一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」(・・・は判読不能の部分)

 海軍守備隊の司令官ですら「後世、特別のご高配をたまわりたい」と打電しないではいられなかったほどの犠牲を払った沖縄に、戦後の日本はどう報いたのか。報いるどころか、見捨てたのです。戦争が終わるやいなや、米国がソ連との対決色を強め、対ソ包囲網の一環として沖縄の軍事基地化を要求したからですが、共産主義の台頭を恐れる日本の指導層も自ら進んで沖縄を差し出したという側面があります。

 公開された米国の公文書によれば、昭和天皇は1947年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成を通してGHQ(連合国軍総司令部)に次のような申し出をしています。
「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。(中略)アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の(25年から50年ないしそれ以上の)貸与をするという擬制の上になされるべきである」
(月刊誌『世界』1979年4月号所収、進藤榮一「分割された領土」から引用)

 見捨てられた沖縄の人たちは当時、このような申し出があったことを知るよしもなく、戦後27年間も米国の統治下に置かれました。そして、本土復帰を果たした後も基地は戻らず、国土の0.6%を占めるにすぎない沖縄にいまだに在日米軍基地の74%があるのです。「普天間基地を返してほしい」「辺野古(へのこ)にその代替基地を造るのは認められない」と叫ぶのを、誰が非難できるというのか。

 菅官房長官にしてみれば、「普天間基地の移設問題は長い間、歴代政権が米国と協議を重ねてきたことであり、辺野古への移設以外に選択肢はないのだ」と言いたいのでしょう。「沖縄振興のために3千億円台の予算を確保する」とも発言しています。新たな方策を見出すのが至難のわざであるのはその通りでしょう。しかし、これまでの沖縄の苦しみを思うなら、また昨年11月の沖縄県知事選で示された移設に反対する民意を尊重するなら、為すべきことはまだあるのではないか。少なくとも、木で鼻をくくったような「(辺野古への移設を)粛々と進める」といった言葉ではなく、もっと沖縄の人々の心に響く言葉があるはずです。

 沖縄の米軍基地問題は、あの戦争が終わって70年たつというのにまだ戦後が終わっていないこと、沖縄はいまだに見捨てられた存在であること、本土の政治家で本気になって沖縄の現状を変えようとする者がいないことを私たちに突きつけてきます。それは「政治の堕落」としか言いようのない現実であり、私たち一人ひとりにも「あなたは沖縄の痛みに思いを寄せたことがありますか」という問いとなって返ってくるのです。
(長岡 昇)

《Sourceとリンク》
翁長雄志・沖縄県知事の冒頭発言全文(琉球新報電子版)

菅義偉・官房長官の冒頭発言全文(同)

大田実・沖縄方面根拠地隊司令官の電文

《写真説明とSource》
翁長雄志・沖縄県知事
http://tamutamu2011.kuronowish.com/onagatijisyuuninn.htm
ふじ学徒隊の女子生徒たち
http://www.qab.co.jp/news/2012052935780.html






*メールマガジン「小白川通信 25」 2015年3月28日
    
 私にとって、今年は神々の国、出雲と縁が深い年になりそうです。
 年明けに、高校時代の同級生で作家の飯嶋和一(かずいち)氏から最新作『狗賓(ぐひん)童子の島』(小学館)を贈っていただきました。島根県の隠岐(おき)諸島を舞台にした幕末期の物語です。今週は岡山市で講演を依頼されたのを機に島根県まで足を延ばし、松江市と出雲市を訪ねてきました。味わい深い作品であり、実り多い旅でした。

 江戸時代や幕末に素材を求める作家はたくさんいますが、多くは武将や武士、勤皇の志士を主人公にして「武士道」や「憂国の志」を描いています。そんな中で、飯嶋氏は異彩を放つ存在です。武士の多くは、農民や漁民が汗水たらして働いて得たものを掠め取り、特権商人と結託して甘い汁を吸う「腐敗した奸吏(かんり)である」と断じ、歴史を動かすエネルギーは幕藩体制の下であえぎつつ生きた市井の人々の中にこそあった、と語りかけてくるのです。

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隠岐諸島で一番大きな島、島後(どうご)

 『狗賓(ぐひん)童子の島』は、天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の描写から始まります。天保の大飢饉のころ、江戸でも大阪でも行き倒れの死体がそこかしこに転がっているような状況なのに、大阪東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)は実弟の老中、水野忠邦から江戸に米を回すよう命じられるやこれに応じ、民の困窮に拍車をかけました。私財を投げ打って貧民の救済に走り回っていた元与力で陽明学者の大塩平八郎は、ことここに至って門弟らと世直しのために立ち上がることを決意し、米を買い占めて私腹をこやしていた豪商らを襲撃したのです。

 内通者がいたこともあって、乱はわずか1日で鎮圧されてしまいましたが、江戸の幕臣や旗本たちのすさまじい腐敗と無能ぶりをあぶり出し、揺らぎ始めていた幕藩体制への痛烈な一撃になりました。高校の日本史の教科書では「幕末の社会」の中で10行ほど触れているだけの反乱の内実がどのようなものだったのか。それを「飢えた側」から活写しています。

 当然のことながら、乱に加わった者は極刑に処せられました。処罰は、大塩平八郎の高弟で豪農の西村履三郎(りさぶろう)の長男、6歳の常太郎にまで及びました。乱から9年後、15歳になると、常太郎は出雲の隠岐諸島に流人として送られたのです。物語は、この常太郎が隠岐で「大塩平八郎の高弟の息子」として温かく迎えられ、やがて漢方医になって島の人々と共に生き、故郷の大阪・河内に還るまでを描いています。狗賓とは島の千年杉に巣くう魔物で、島の守り神です。

 この本を読むと、異国船が出没する幕末、隠岐諸島は対馬列島などと並んで「国防の最前線」であったことがよく分かります。異国船は「未知の伝染病」をもたらすものでもありました。安政年間には外国人によって持ち込まれたコレラによって、2カ月足らずの間に江戸だけで26万人が死亡した、と紹介されています。「最前線」の隠岐諸島にも伝わり、漢方医の常太郎らは治療に追われます。隠岐を支配する松江藩の役人たちは無力で、コレラに立ち向かったのは流刑の島で生きる住民たち自身でした。庄屋は薬種の調達を助け、島民は漢方医の常太郎の手足となって奮闘したのです。

 大佛(おさらぎ)次郎賞を受賞した飯嶋氏の前作『出星前夜』も、キリシタンへの苛烈な弾圧に抗して蜂起した天草の乱を民衆の側から描いた作品でした。いつの時代でも、支配した側は膨大な史料を残しますが、つぶされていった者たちの言葉を伝えるものはわずかしかありません。それを丹念に拾い集め、想像力の翼を広げて書く――それがこの作家の流儀です。5、6年に一作しか世に問うことができないのも無理はありません。むしろ、よくぞ折れることなく書き続けてきたものだ、と驚嘆します。どの作品も長大で難解ですが、時の試練に耐えうるのではないかと感じています。個人的には、江戸時代に手製の凧で空を舞うことに挑んだ職人の物語『始祖鳥記』が特に好きです。

 岡山では、民間人校長としての体験を踏まえて「里山教育の勧め」というテーマで講演し、JR伯備(はくび)線で松江に向かいました。松江城の堂々たる構えに感心しながらも、『狗賓童子の島』を思い起こし、複雑な思いに駆られました。お堀端に「小泉八雲記念館」がありましたので見学し、館内で彼の作品『神々の国の首都』(講談社学術文庫)を買い求め、宿で読みました。彼の書いたものは断片的にしか触れたことがなく、しっかり読んだのは初めてです。

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小泉八雲と妻の節子

 八雲は、明治初期の横浜や松江の人々と風俗を温かい目で描きつつ、自らの思いをたっぷりと書いています。そこには、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれ、両親の離婚、父親の死去、引き取ってくれた大伯母の破産といった試練をくぐり抜け、新天地アメリカでジャーナリストとして身を立てた、彼の人生そのものが濃縮されていると感じました。例えば芸術について、彼はこう記します。

「あらゆる芸術家は、過去の亡霊の中で仕事をするのだ。飛ぶ鳥や山の霞や朝な夕なの風物の色合や木々の枝ぶりや春やおそしと咲き出した花々を描く時、その指を導くのは、今は亡き名匠たちだ。代々の練達の工匠たちが、一人の芸術家にその妙技を授け、彼の傑作の中によみがえるのだ」(p18)

 キリスト教社会の厳しい戒律と偽善を嫌う八雲は、明治日本の大らかな人々と神々に心を寄せ、こう吐露してもいます。

「いかなる国、いかなる土地において宗教的慣習が神学と一致したためしがあっただろうか? 神学者や祭司たちは教義を創り、教条を公布する。しかし善男善女は自分たちの心根に従って自分たちの神様を作り出すことに固執する。そしてそうして出来た神様こそ神様の中ではずっと上等の部に属する神様なのである」(p231)

 八雲がこよなく愛した出雲の国は今、北陸新幹線の開通に湧く金沢や富山を横目に、人口減と高齢化に苦しみ、あまり元気とは言えません。観光案内をしてくれたタクシーの運転手さんは「島根の人口は70万を切りました。隣の鳥取に次いでビリから2番目ですわ」と嘆いていました。

 けれども、車窓から眺めると、そこには広々とした家屋でゆったりと暮らす人々の姿がありました。家々を守る立派な黒松の防風林は、数百年にわたって丹精を重ねてきた賜物です。すべては流転し、変転します。長い歴史の中に身を置いてみれば、今の大都市の繁栄もまた、つかの間の幻影のようなものかもしれません。いつの日にか、出雲をはじめとする日本海側の地域が再び「時代の最前線」に立つ日が来る、と私は信じています。
(長岡 昇)


*写真のSource:
隠岐諸島の島後(どうご)
http://shimane.take-uma.net/%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA_15/%E3%80%90%E6%B5%B7%E8%BF%91%E3%81%8F%E3%80%91%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA%E3%81%AB%E3%82%82%E7%A9%BA%E3%81%8D%E5%AE%B6%E7%89%A9%E4%BB%B6%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%82%88%E3%80%90%E5%8F%A4%E6%B0%91%E5%AE%B6%E3%80%91

小泉八雲と妻の節子
http://isegohan.hatenablog.com/entry/2014/03/23/162941




*メールマガジン「小白川通信 24」 2015年3月6日
    
 大学関係者が「地方の国立大学から文系の学部がなくなるらしい」と騒いでいます。「そんなバカな」と思うのですが、それを本気で唱えている人がいます。文部科学省は昨年10月に「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という諮問会議を立ち上げました。18人から成るこの有識者会議のメンバー、冨山(とやま)和彦氏(経営コンサルタント)がその人です。

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 どういう時代認識と論理で冨山氏は「地方の国立大学の文系学部廃止」を訴えているのでしょうか。彼が上記の有識者会議で配布した資料や、3月4日付の朝日新聞オピニオン面に掲載されたインタビュー記事から要約すると、次のような認識と論理に基づく主張です。

「日本経済は大きく二つの世界に分かれてしまいました。世界のトップと競う大企業中心のグローバル経済圏(G)と、地域に根差したサービス産業・中小企業のローカル経済圏(L)です。Gは競争力も生産性も十分だが、Lは欧米諸国に比べて生産性が低い。だから、地方の大学には学術的な教養ではなく、職業人として必要な実践的なスキルを学生に教えてほしい。従来の文系学部のほとんどは不要です。何の役にも立ちません。シェイクスピアよりも観光業で必要な英語を、サミュエルソンの経済学ではなく簿記会計を、憲法学ではなく宅建法こそ学ばせるべきです」

 実に歯切れのいい主張です。現在の大学が激変する時代の要請に十分に応えているかと問われれば、否と答える人の方が多いでしょう。時代が変わる中で、大学もまた変わらなければならないことは確かです。けれども、冨山氏の主張は乱暴すぎるのではないか。彼が描く大学の将来像は次のようなものです。

「日本の大学はアカデミズム一本やりの『一つの山』構造になっています。これを、高度な資質を育てるアカデミズムの学校と、実践的な職業教育に重点を置いた実学の学校という『二つの山』にすべきです。地方大学の文系の教授には辞めてもらうか、職業訓練教員として再教育を受けてもらいます。(不足する教員は)民間企業の実務経験者から選抜すればいいのです」

 これでは、大学関係者が騒ぐのも当然です。彼の主張には一部納得できるところもありますが、学問や教育に対する深い洞察が感じられません。そもそも、その時代認識と日本の現状についての考え方に同意できないものがあります。

 アメリカの大学院で経営学を学んだ人らしく、冨山氏も二元論が得意なようです。善か悪か、敵か味方か。アメリカで二元論が好まれるのは、騎兵隊がインディアンを追い立てて西部開拓に邁進した歴史の投影かもしれません。キリスト教的な価値観が影響している面もあるのでしょう。けれども、今はアメリカ的な価値観・世界観そのものが問われているのではないか。1%の富豪が国富の多くを占めるような貪欲な資本主義の下でグローバル化がこのまま進んでもいいのか。新しい第2、第3の道があるのではないか。その模索が続く中で、単純な二元論で時代を認識し、対策を打ち出せば、道を過るおそれがあります。

 何よりも、冨山氏が唱える「二つの山」論は、日本の経済成長を支えた「東京一極集中」の焼き直しです。東京がすべてを握り、地方に号令をかけて邁進する――江戸時代から綿々と続き、明治維新後も敗戦後も維持された上意下達型の社会構造を強化せよ、と言っているに等しい。そんなことで、多極化するこれからの世界を生きていけるのか。それこそが問われているのに、古い歌の替え歌を歌ってどうするのか。

 6年前に東京から故郷の山形に戻り、その実情に触れてきました。相変わらず東京の顔色をうかがい、中央政府から補助金を引き出すことに知恵を絞っている面があることは事実です。けれども、その一方で農村を拠点に世界と競う中堅企業が育っているという現実もあります。私が勤める山形大学にも世界に通用する研究者が幾人もいます。冨山氏の主張は、地方を拠点に世界と競い、汗を流している人たちに冷水を浴びせるものです。育ちつつある芽をつぶしてしまいかねません。

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 私は「東京一極集中」の焼き直しの「二つの山」など見たくはありません。それで未来が開けるとも思えません。大小さまざまな山が連なる社会へと変わって行く姿を見たい。そして、そのために必要な財源は「実は東京にある」と考えています。

 4年前の東日本大震災で、私たちは東京で号令をかける政治家や中央省庁の官僚たちが、いざという時にいかに頼りにならないかを骨身に染みて思い知らされました。政治システムも官僚制度もすでに時代にそぐわなくなっているのです。補助金分配機関と化した中央省庁は今の半分以下の人員と予算でいいのではないか。政官を取り巻く利権構造にも大ナタを入れなければなりません。いまだに甘い汁を吸い続けている組織と人間がいかに多いことか。

 地方の政治・経済や大学も改革を迫られていることは間違いありません。それを逃れるための「反対のための反対」は終わりにしなければなりません。けれども、より根本的なところに手を付けないまま、痛みを地方にだけ押し付けるような「大学改革論」にくみするわけにはいきません。いくつもの山々が連なるような社会へと変わる。そういう改革にこそ力を注ぎたい。
(長岡 昇)


《写真説明》
冨山和彦氏
Source:http://blogos.com/article/100873/
新緑の飯豊(いいで)連峰
Source:http://blogs.yahoo.co.jp/utsugi788/61642479.html








*メールマガジン「小白川通信 23」 2015年2月1日

 つらい事や切ない事があると、思い出す言葉があります。チェコのプラハ生まれの詩人、リルケの言葉です。

  一行の詩のためには
  あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
  見なければならぬ
  あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ
  空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし
  朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究めねばならぬ

  追憶が僕らの血となり、目となり
  表情となり、名まえのわからぬものとなり
  もはや僕ら自身と区別することができなくなって
  初めてふとした偶然に
  一編の詩の最初の言葉は
  それら思い出のまん中に
  思い出の陰から
  ぽっかり生れて来るのだ
     〈リルケ『マルテの手記』(大山定一訳、新潮文庫)から〉

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 この文章に接したのは今から30年前、新聞社の編集部門に配属されている時でした。新聞記者として入社したのに失敗を重ねて編集部門に回され、記事を書くことができない立場にありました。他人の書いた原稿を読み、それに見出しを付けて紙面を編集する日々・・・。鬱々としている時でした。「何を甘えているんだ。お前はあまたの都市を見たのか。あまたの書物を読んだのか」。そんな言葉を突き付けられたようで胸に染み、忘れられない言葉になりました。

 その後、取材する立場に戻り、外報部に配属されました。アフガニスタンの内戦取材に追われ、インドの宗教対立のすさまじさにおののき、インドネシアの腐敗と闇の深さに度肝を抜かれて、心がすさんでいくのが自分でも分かりました。走りながら、なぐり書きを繰り返すような毎日。そんな時に、またこの文章に戻って反芻していました。「いつの日にか、心にぽっかりと浮かんだものを書ければ、それでいいではないか」と思えて、心が安らぐのでした。

 取材の一線を離れて論説委員になってからは、それまでよりは書物を読む時間を多く持てるようになりました。先輩や同僚の論説委員の書くものに接する機会も増えました。その中で、忘れられない文章があります。2001年5月1日の朝日新聞に掲載された「歴史を学ぶ」という社説です。筆者は、退社して間もなく2004年に死去した大阿久尤児(おおあく・ゆうじ)さん。長い社説ですが、全文をご紹介します。

    ~    ~    ~

 「歴史」という日本語にも歴史がある。それも比較的にまだ新しい。
 小学館の『国語大辞典』によると、この言葉が初めて出てくる文献は『艶道通鑑』という江戸時代中期の本だそうだ。明治以後、英語のヒストリーにあたる言葉として広く使われるようになる。日本語には多くの漢語が取り入れられてきたが、「歴史」は日本生まれの言葉だ。中国にもいわば逆輸入されて、リーシという発音で、同じ意味に使われている。
 
 歴史教育もまた歴史的な産物だ。英国の学者ノーマン・デイウィス氏がその著『ヨーロッパ』で書いている。「そもそも19世紀に歴史教育というものが始まった時点で、それは愛国心に奉仕するように動員された」(別宮貞徳訳、共同通信社)

 19世紀とはどんな時代だったのか。それまでの欧州には、君主がいわば財産としてもつ領土と、そこに暮らす民とがあったが、現在の意味での国家や国民という概念はまだ存在していなかった。フランス革命と、その後のナポレオンの戦争で、今のフランスにつながる国家が初めて成立し、その領域に住む人々に同じフランス人という意識が芽生えた。現在にいたる「国民国家」(ネーション・ステート)体制の始まりだ。

 この国民国家という仕組みはまず、欧州を中心に急速に広まった。ドイツやイタリアができた。そのころ鎖国を脱した日本がめざしたのも、この仕組みだった。昔の人は「武蔵の国の住人」などと名乗っていたのである。国家、国民という日本語も、西洋をモデルとして、明治になってから使われるようになった言葉だ。

 「国民国家という形態が普及したおもな原因は、軍事だ」と、東京外大名誉教授の岡田英弘さんが書いている(『歴史とはなにか』文春新書)。「国民国家のほうが戦争に強いという理由」で、この政治形態が世界中に広まった、と岡田さんは説明する。
 
 戦争という国家単位の生存競争に勝ち残るには、国民の総力を動員しなければならない。その手段として歴史教育も始まり、それぞれに祖国の栄光が強調された。歴史教育のこういう生い立ちは、何をもたらしたのか。

 さきに紹介したデイウィス氏は同じ著書で先輩たちを批判する。ヨーロッパの歴史家たちは、自分たちの文明こそ最良と思い込み、他の地域をかえりみず、自己満足にふけってきた、と。同氏は、「悪質な」教科書などの特徴を次のように数え上げる。「理想化された、したがって本質的にうその姿を、過去の真実の姿として描く。好ましいと思うものはすべてとりあげ、不快と思えばはじき出す」

 最近問題になった日本のある教科書の編集者の態度とどこか似ている。ヨーロッパ中心主義はおかしいが、日本の過去は何でも立派といいたげな教科書や歴史の本も、これまたおかしい。人はみな自分のルーツを知りたい。ご先祖はけなげで、立派だったと思いたいのは人情である。だが、そういう記述だけを、誇張もまじえて寄せ集めたのでは、歴史はただのうぬぼれ鏡になってしまう。
 
 8年にわたって国連の難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんに、ドイツのラウ大統領から最高位の功労勲章が授与された。東京のドイツ大使館で行われた授与式には、たまたま来日したティールゼ連邦議会議長が立ち会った。「緒方さんは人間として、アフリカやバルカンの難民の救援に全力をあげた」と授与の理由を述べた。

 日本人の緒方さんが「人間として」努力したことに対して、ドイツの元首がその国最高の栄誉でたたえる。国家をめぐる風景が、そんなふうに変化してきている。国民国家という「戦争向き」の体制は果たして、2度の世界大戦という悲惨な破局をもたらした。国家中心主義を真っ先に始めた欧州も、さすがに反省を迫られる。

 もはや国家はすべてではない。国家の枠を超えて互いに協力できることはいくらでもある。歴史から学ぶとは、例えばこういうことだろう。いまの欧州連合(EU)までの統合の歩みはその実践例である。

 日本もまた、歴史から学ぶことが多い。少し遅れて国民国家となったこの国も、内外に数々の不幸をもたらしてきた。日本人として、同時に人間として、いまの私たちは生きている。「お国のため」が当たり前とされた半世紀前までに比べて、「人間として」の部分が広がっている。これからももっと広がるだろう。

 父母や祖父母の世代に起きたことが、さまざまに関連しあって、今日ただいまの社会が出来ている。何を維持し、何を変えてゆくのか。過去をきちんと知らないでは、明日のことは決められない。かつては弱肉強食が当然だった。今では人道が前面にでる。価値観は時とともに変わる。その時点までの人類の経験の総体から、新しい価値観が生まれる。その経験を整理する術(すべ)が歴史だ、ともいえよう。

 人間として過去を知り、あすの指針にする。いびつな自己満足を排し、大人の判断力を培う。それが本当の歴史教育だ。

     ~      ~      ~


*注 リルケの『マルテの手記』は、彼が30歳代半ばの時の作品です。パリで暮らす貧乏詩人を主人公にした長編小説で、パリで妻子と離れて暮らしていたリルケ自身の生活を投影した作品と言われています。極度の貧困と壮絶な孤独。随筆を連ねるようなタッチでパリ時代を描いています。全編が詩、と言ってもいいような作品です。冒頭の文章は『マルテの手記』の一部を抜粋したもので、句点を省いて詩の形式にしてあります。

(長岡 昇)


《写真説明》 詩人ライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)
Source:http://www.oshonews.com/2011/10/rainer-maria-rilke/







*メールマガジン「小白川通信 22」 2014年12月23日

 今年8月上旬の特集に続いて、古巣の朝日新聞が23日の朝刊に、慰安婦報道を検証する第三者委員会の報告書を掲載しました。1面と3面、真ん中の特集7ページ、さらに社会面の記事を含めれば11ページに及ぶ長文の報告、報道でした。

 精神的にも肉体的にも、最も充実した時期をこの新聞に捧げた者の一人として、実に切ない思いで目を通しました。何よりも切なかったのは、事実を掘り起こし、それを伝えることを生業(なりわい)とする新聞記者の集団が自らの手では検証することができず、その解明を「第三者委員会」なるものの手に委ねざるを得なかったことです。その報告を通してしか、慰安婦報道の経過を知るすべがないことです。

 報告書には、かつての上司や同僚、後輩の記者たちの名前がずらずらと出てきます。「これだけの人間が関わっていて、なんで自分たちの力で検証紙面を作れないんだ」と叫びたくなる思いでした。危機管理能力を失い、自浄能力も失くしてしまった、ということなのかもしれません。前途は容易ではない、と改めて感じさせられました。

 朝日新聞の慰安婦報道に関して、私は、1982年9月2日の朝日新聞大阪社会面に掲載された吉田清治(故人)の記事にこだわってきました。大阪市内での講演で「私は朝鮮半島で慰安婦を強制連行した」と“告白した”という記事です。これが朝日新聞にとっての慰安婦報道の原点であり、出発点だからです。その後の吉田に関する続報を含めて、彼の証言の裏取りをきちんとし、疑義が呈された段階でしっかりした検証に乗り出していれば、その後の展開はまるで違ったものになったはずなのです。

 実は、吉田清治が朝日新聞の記者に接したのはこの時が初めてではありません。1980年ごろ、彼は朝日新聞川崎支局の前川惠司記者に電話して「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので話を聞いて欲しい」と売り込んできたといいます。前川氏は川崎・横浜版で在日韓国・朝鮮人についての連載を書いていました。自分の話を連載で取り上げて欲しい様子だったといいます。著書『「慰安婦虚報」の真実』(小学館)で、前川氏はその時の様子を詳しく書いています。

 吉田は「朝鮮の慶尚北道に2度行き、畑仕事をしている人たちなどを無理やりトラックに載せて連れ去る『徴用工狩り』をした」といった話をしたといいます。それまで徴用工として来日した人の話をたくさん聞いていた前川氏は、「吉田の話には辻褄の合わないところがある」と感じたといい、会った時の印象を「何かヌルッとした、つかみどころのない感じ」と表現しています。この時に前川氏が書いた記事も、今回の検証で取り消しの対象として追加されましたが、不思議なのは、この時、吉田は前川氏に対して、慰安婦の強制連行の話をまったくしていないことです。

 そして、彼は1982年9月1日に大阪市内で講演し、慰安婦狩りの証言をしました。「徴用工狩り」から「慰安婦狩り」への軌道修正。前川氏の取材内容が大阪社会部に伝わっていれば何らかの役に立った可能性もあるのですが、新聞社に限らず、大きな組織というのは横の連絡が悪いのが常です。大阪の記者は吉田の軌道修正に気づくことなく、講演の内容をそのまま記事にしました。今年8月の慰安婦特集で、この記事を執筆したのは「大阪社会部の記者(66)」とされ、それが清田治史(はるひと)記者とみられることを、9月6日付のメールマガジン(小白川通信)で明らかにしました。清田氏もその後、週刊誌の取材に対して事実上それを認める発言をしています。

 ところが、朝日新聞は9月29日の朝刊で「大阪社会部の記者(66)は当時、日本国内にいなかったことが判明しました」と報じ、問題の吉田講演を書いたのは別の大阪社会部の記者で「自分が書いた記事かも知れない、と名乗り出ています」と伝えました。清田氏は日本にいなかったのに「自分が書いた」と言い、8月の特集記事が出た後で別の記者が名乗り出る。驚天動地の展開でした。しかも、今回の第三者委員会の報告書ではそれも撤回し、「執筆者は判明せず」と記しています。

 慰安婦報道の原点ともいえる記事についてのこの迷走。どういうことなのか、理解不能です。細かい記事はともかく、新聞記者なら、第2社会面のトップになるような記事を書いて記憶していないなどということは考えられません。しかも、ただの「第2社会面トップ記事」ではなく、その後、なにかと話題になった記事なのです。折に触れて仲間内で話題になったに違いないのです。原稿を書き、記事になるまでにはデスクの筆も入ります。編集者や校閲記者の目にも触れます。後で調べて、「誰が書いたのか分からない」などということは考えられないのです。

 とするなら、結論は一つしかありません。誰かが、あるいは複数の人間が「何らかの理由と事情があっていまだに嘘をついている」ということです。自らが属した新聞社にこれだけの深手を負わせて、なお嘘をついて事実の解明を妨げようとする。この人たちは、良心の呵責(かしゃく)を感じないのだろうか。
(長岡 昇)





*メールマガジン「小白川通信 21」 2014年12月16日

 北国に住む住民の感覚で言えば、今回の総選挙は「みぞれ雪のような選挙」でした。晩秋の氷雨に感じる哀愁もなく、初冬の新雪がもたらす凛とした厳しさもない。やたら水分が多く、ぐずらぐずらと降って始末に困るみぞれ・・・。ふたを開けてみれば、自民党と公明党は合わせて1増の325議席、衆議院で3分の2を維持しました。弱々しい野党各党の議席数がいくらか増減しただけ。投票率が戦後最低を更新したのも、選挙戦を見ていれば「そうだろうな」と思えるものでした。なんとも虚しい結末です。

小白川21 自民党本部(NHKサイト).jpg

 けれども、その意味するところは重大です。これから4年間、安倍晋三首相は心おきなく、自ら信じる政策を推し進めることが可能になりました。彼の政治信条と政策を支持する人たちは「してやったり」と快哉を叫んでいることでしょうが、私は「とんでもないことになってしまった」と受けとめています。

 民主党政権時代の政治があまりにもひどかったため、安倍政権の手綱さばきが国民に安心感を与えていることは理解できます。株価もそれなりに持ち直しましたから、財界の受けがいいのも当然でしょう。おまけに「日本の法人税は先進諸国に比べて高すぎる。法人税の減税を検討する」と言い出していますから、なおさら受けはいいはずです。ですが、安倍政権が推し進める「アベノミクス」がこの国を苦境から救い出してくれるとは到底、思えないのです。

 エコノミストの浜矩子(のりこ)同志社大学大学院教授は「株価が上がれば経済がよくなるという考え方は本末転倒です」「最大の眼目が成長戦略だというのも時代錯誤です」と、アベノミクスを批判しています。私も同感です。今、日本が直面しているのは「冷戦後の混沌とした時代、多極化する難しい過渡期をどう生きていくのか」という難題であり、「人類が経験したことのない急激な少子高齢化の中で、富の分配をどう変革していくのか」という難題です。そういう新しい時代に、アベノミクスは「過去の延長線上の政策」で対処しようとしている、と考えるからです。「ビジョン」が欠落しています。前回の総選挙の際のスローガン「日本を、取り戻す。」は、そのことを何よりも雄弁に物語っています。

小白川21 浜矩子の本.jpg

 私は「自民党の政治など元々どうしようもないのだ」などと言うつもりはありません。新聞記者として働く中で、私は何度も「自民党の強さ」を思い知らされる経験をしました。懐が深い人が多い、と感じたのも自民党でした。なるほど、彼らの政策や主張はいわゆる革新政党のように筋道立ってはいません。正義や公平にも鈍感です。が、自民党は肌で知っているのです。多くの人にとって、何よりも大切なのは今日の暮らしであり、明日の糧を得ることです。そこにピタリと寄り添い、彼らは全力を尽くしてきたのです。敗戦の焼け跡から立ち上がり、経済成長の道をひた走るためにはそれが何よりも重要な政策であり、路線であると彼らは信じ、行動してきたのです。グダグダ言わずに一生懸命働き、ひたすらパイを大きくする――1980年代までは、それで良かったのかもしれません。

 しかし、世界の風景は激変しました。寄り添う大樹(米国とソ連)はもうありません。比較的落ち着いていた海は荒れ、海図も当てにならない時代。見たこともない航路も通らなければならなくなったのです。「日本を、取り戻す。」などと過去を振り返っている場合ではありません。この難しい過渡期をどうやって生き抜き、道を切り拓いていくのか。今日と明日に加えて、もっと先の未来をも語らなければならない時代なのです。なのに、選挙戦で「今という時代」と「未来のビジョン」を語る政党と政治家がいかに少なかったことか。有権者もまた、それを求めることなく、選択を避けようとしているように見えました。

 未来が不透明であればあるほど、私たちは多様な価値観を理解する懐の深さを持ち、かじ取りを確かなものにするための手立てを考えなければなりません。また、若い人たちが難しい航海に乗り出すために準備するのを手助けしなければなりません。なのに、この国はますます「若者に冷たい国」になりつつあります。落ち着いて働き、将来の計画を立てることができるような仕事は減るばかり。財務省が発表している「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」というデータを見ただけでも、それは明らかです。若者は重い負担と少ない受益に甘んじ、年寄りは負担した以上のものを受け取る仕組みになっており、その傾向は強まっています。それでいて、「今時の若者は内向きだ。覇気がない」などと平気で批判する世の中。若者に冷たい国、ニッポン。

 総選挙の公示日(12月2日)の翌日、私が勤める山形大学で「グローバル化への対応」をテーマにしたシンポジウムがありました。その席で、フランス人の講師が「アジア各国の英語習熟度」というデータを紹介してくれました。留学を希望する大学生や社会人が受けるTOEFL(トウフル)というテストの成績比較表(2013年)です。それによれば、1位はシンガポール、2位はインド、3位はパキスタン、4位はフィリピンとマレーシア、6位が韓国。以下、香港、ベトナム、中国、タイと続き、なんと日本は遠く離されてビリから3番目。日本より英語の成績が悪いのはカンボジアとラオスだけでした。

 それは、日本の英語教育のお粗末さを無残なまでに示すデータでした。アジアで長く取材してきた私の実感とも合致するデータでした。英語が世界の共通語となりつつある世界で、日本の若者は先進諸国どころか、アジア各国の若者にも遅れを取っているのです。「英語支配に追随する必要はない」という意見もあります。まっとうな意見です。が、それなら、スペイン語でもドイツ語でも、中国語でも韓国語でも構いません。「日本語以外の言語で意思の疎通を図る資質」を養う必要があります。日本の教育はその努力もしていません。これからの時代を、この島国に立てこもって生きていけと言うのか。

 若者への富の分配をどんどん薄くし、新しい時代に備える機会も十分に与えない。それでいて、膨大な借金の返済を彼らに押しつけ、原発の運転で生じた廃棄物の処理も押しつける――それが今、私たちが暮らしている社会の現実です。こんな社会でいいはずがありません。選挙こそそれを変える機会であり、政治こそそれを変革する原動力であるべきなのに、師走は虚しく過ぎ去りました。とんでもないことになってしまった、と思うのです。
(長岡 昇)



*浜矩子氏の言葉は2014年12月2日の朝日新聞朝刊オピニオン面からの引用です。
*財務省のデータは「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」をご覧ください。
*アジア各国の英語習熟度データはNikkei Asian Reviewのサイトを参照してください。

《投開票日の自民党本部の写真》 Source:NHKのニュースサイト
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_1215.html
《浜矩子氏の本の写真》 Source : PRTIMESのサイト
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000062.000007006.html




*メールマガジン「小白川通信 20」 2014年11月29日

 大学構内のイチョウの木々に残る葉も少なくなり、山形は冬将軍の到来を静かに待っています。黄金色の絨毯は間もなく、白銀に覆われることでしょう。いろいろな土地で何度となく眺めてきたイチョウの黄葉ですが、この秋は格別な思いで見つめました。英国の植物学者、ピーター・クレインの著書『イチョウ 奇跡の2億年史』(河出書房新社)を読み、この木をめぐる壮大な物語を知ったからです。著者は冒頭に、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだイチョウの詩を掲げています。

小白川20 弘前公園の根上がりイチョウ.jpg

  はるか東方のかなたから
  わが庭に来たりし樹木の葉よ
  その神秘の謎を教えておくれ
  無知なる心を導いておくれ

  おまえはもともと一枚の葉で
  自身を二つに裂いたのか?
  それとも二枚の葉だったのに
  寄り添って一つになったのか?

  こうしたことを問ううちに
  やがて真理に行き当たる
  そうかおまえも私の詩から思うのか
  一人の私の中に二人の私がいることを

 初めて知りました。シーラカンスが「生きた化石」の動物版チャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の激動を生き抜いたにもかかわらず、氷河期に適応することができずに世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の植物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。

 けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったとみられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。

 日本に伝わったのはいつか。著者はそれも探索しています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある木の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その木がイチョウだというのは後世の付け足しらしい。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのが著者の見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。

 東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』に絵入りで紹介されています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。

 博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音すると聞き、ginkgo と表記しました。著者のクレインは「なぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコー」です。

 「化石」でしか知らなかった植物が生きていたことを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導く一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。

 植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際にはその精子が繊毛を振るわせてかすかに泳ぐということを、この本で初めて知りました。イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を震撼させる発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。

小白川20 Peter Crane (photo).jpg

 それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウ栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った時には、境内でギンナンを焼いて売っていた屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。

 かくもイチョウを愛し、イチョウを追い求めてきた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。
「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」

 壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べて、私たち人間はなんと小さく、せちがらい存在であることか。

(長岡 昇)



*『イチョウ 奇跡の2億年史』は矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*ゲーテの詩のオリジナル(ドイツ語)と英語訳はここをクリックしてください。ゲーテの手書き原稿を見ると、ドイツ語でもイチョウのスペルは Ginkgo です。このサイトのドイツ語のスペルは誤りと思われます。

*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。


《写真説明》
◎青森県の弘前公園にある「根上がりイチョウ」
  Source:http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
  Source:http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies





*メールマガジン「小白川通信 19」 2014年9月6日
        

 古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。

 ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。

 一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治(せいじ)の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。

小白川19 吉田清治証言の第一報.png

 その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。

 この頃の記事そのものに、すでに多くの疑問を抱かせる内容が含まれています。勤労動員だった女子挺身隊と慰安婦との混同、軍人でもないのに軍法会議にかけられたという不合理、経歴のあやしさなどなど。講演を聞いてすぐに書いた第一報の段階ではともかく、1年後に「ひと」欄を書くまでには、裏付け取材をする時間は十分にあったはずです。が、朝日新聞の虚報がお墨付きを与えた形になり、吉田清治はその後、講演行脚と著書の販売に精を出しました。そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです。

 この頃には歴史的な掘り起こしもまだ十分に進んでおらず、自力で裏付け取材をするのが難しい面もあったのかもしれません。けれども、韓国紙には「吉田証言を裏付ける人は見つからない」という記事が出ていました。現代史の研究者、秦郁彦・日大教授も済州島に検証に赴き、吉田証言に疑問を呈していました。証言を疑い、その裏付けを試みるきっかけは与えられていたのです。きちんと取材すれば、「吉田清治はでたらめな話を並べたてるペテン師だ」と見抜くのは、それほど難しい仕事ではなかったはずです。

 なのに、なぜそれが行われなかったのか。清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。

 悲しいことに、社内事情に疎い私は、外報部次長として彼の下で働きながらこうしたことに全く気付きませんでした。当時、社内には「従軍慰安婦問題は大阪社会部と外報部の朝鮮半島担当の問題」と、距離を置くような雰囲気がありました。そうしたことも、この時に十分な検証ができなかった理由の一つかもしれません。彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いたこともあったでしょう。

 東京本社編集局次長の後、彼は総合研究本部長、事業本部長と地歩を固め、ついには西部本社代表(取締役)にまで上り詰めました。慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません。こうした経緯を知りつつ、今回、慰安婦報道の検証に踏み切った木村伊量社長の決断は、その意味では評価されてしかるべきです。

 清田氏は2010年に朝日新聞を去り、九州朝日放送の監査役を経て、現在は大阪の帝塚山(てづかやま)学院大学で人間科学部の教授をしています。専門は「ジャーナリズム論」と「文章表現」です。振り返って、一連の慰安婦報道をどう総括しているのか。朝日新聞の苦境をどう受けとめているのか。肉声を聞こうと電話しましたが、不在でした。

 「戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。彼は、吉田清治の言葉をそのまま引用して「ひと」欄の記事の結びとしました。ペテン師の言葉とはいえ、重い言葉です。そして、それは「報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す」という言葉となって返ってくるのです。今からでも遅くはない。過ちは過ちとして率直に認め、自らの責任を果たすべきではないか。
(長岡 昇)


《追記》1982年9月2日の吉田清治の講演に関する大阪社会面の記事の筆者について、朝日新聞は2014年9月29日の朝刊で「別の記者が『初報は私が書いた記事かもしれない』と名乗り出ました」と報じました。さらに、同年12月23日朝刊の第三者委報告書では「当初この記事の執筆者と目された清田治史は韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明」「調査を尽くしたが、執筆者は判明せず」と伝えました。2014年末の時点では、1982年の初報の筆者は不明です。






*メールマガジン「小白川通信 18」 2014年8月31日

 いわゆる従軍慰安婦問題について、朝日新聞が8月上旬に特集を組んで一連の報道に間違いがあったことを認め、主要な記事を取り消しました。慰安婦報道の口火を切った1982年9月2日付の吉田清治(せいじ)証言(韓国の済州島で自ら慰安婦を強制連行したとの証言)を虚偽だと認め、この記事を始めとする吉田清治関係の記事16本のすべてを取り消したのです。なんともすさまじい数の取り消しです。これ以降、朝日新聞は新聞や週刊誌、ネット上で袋叩きの状態にあります。

 1978年から30年余り、私は朝日新聞で記者として働きました。体力的にも精神的にも一番エネルギッシュな時期を新聞記者として働き、そのことを喜びとしていた者にとって、慰安婦問題をめぐる不祥事は耐えがたいものがあります。仕事でしくじることは誰にでもあります。私も、データを読み間違えて誤った記事を書いたりして訂正を出したことが何度かあります。日々、締め切りに追われ、限られた時間の中で取材して書くわけですから、頻度はともかく、間違いは避けられないことです。ですが、慰安婦報道をめぐる過ちは、勘違いや単純ミスによる記事の訂正と同列に論じるわけにはいきません。

 朝日新聞は吉田清治の証言記事を手始めに大々的な従軍慰安婦報道を繰り広げ、他紙が追随したこともあって、大きな流れを作り出しました。それは宮沢喜一首相による韓国大統領に対する公式謝罪(1992年)や河野洋平官房長官による「お詫びと反省の談話」発表(1993年)につながり、国連の人権問題を扱う委員会で取り上げられるに至ったのです。その第一歩が「ウソの証言だった」というのですから、記事を取り消して済む話ではありません。8月上旬の特集記事では、彼女たちが「本人の意に反して慰安婦にされる強制性があった」ことが問題の本質であり、それは今も変わっていない、として一連の虚報と誤報について謝罪しませんでした。それが非難する側をますます勢いづかせています。

 「問題の本質は何か」などという論理で逃げるのはおかしい。新聞記者の何よりも重要な仕事は、事実を可能な限り公平にきちんと書き、伝えることです。吉田清治証言を検証した現代史家の秦郁彦氏は「彼は職業的な詐話師である」と断じました。そのような人物のでたらめな証言を一度ならず、16回も記事にしてしまったのです。しかも、そうした証言も踏まえて、社説やコラムで何度も「日本は償いをすべきだ」と主張しました。それら一連の報道や論説の土台がウソだったのですから、取り消すだけではなくきちんとお詫びをして、関係者を処分するのが報道機関として為すべきことではないのか。

 慰安婦報道に関して思い出すのは、この問題に深くかかわっていた松井やより元編集委員のことです。彼女は退社した後、私がジャカルタ支局長をしていた時にインドネシアを訪れ、かつての日本軍政時代のことを取材していきました。来訪した彼女に対して、私は後輩の記者として知り得る限りの情報と資料を提供しようとしたのですが、彼女は私の話にまったく耳を傾けようとしませんでした。ただ、自分の意見と主張を繰り返すだけ。それは新聞記者としての振る舞いではなく、活動家のそれでした。亡くなった人を鞭打つようで心苦しいのですが、「こういう人が朝日新聞の看板記者の一人だったのか」と、私は深いため息をつきました。イデオロギーに囚われて、新聞記者としての職業倫理を踏み外した人たち。そういう人たちが慰安婦問題の虚報と混乱をもたらしたのだ、と私は考えています。

 慰安婦報道を非難する人の中には「朝日新聞を廃刊に追い込む」と意気込んでいる人もいます。冗談ではありません。過ちを犯し、さまざまな問題を抱えているかもしれませんが、朝日新聞で働いている同僚や後輩の多くは誠実な人たちです。朝日新聞は権力者の腐敗を粘り強く、圧力に屈することなく書き続けてきた新聞であり、福島の原発事故の実相と意味をどこよりも息長く深く追い続けている新聞です。この国を少しでも良くするために奮闘してきた新聞です。だからこそ、慰安婦報道の検証を中途半端な形で終わらせるのではなく、不祥事を正面から見つめ、問い直してほしいと思うのです。

 権力者の顔色をうかがい、そのお先棒をかつぐのを常とするような新聞記者や雑誌編集者が肩で風切るような世の中になったら、それこそ、この国に未来はありません。権力におもねることなく、財力にも惑わされず、市井の人と共に歩む。そういうメディアを私たちは必要としています。
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 17」 2014年8月17日


 戦争をしている国が敵国の使っている暗号を解読するということは、どういうことを意味するのでしょうか。ポーカーや麻雀を例にとれば、分かりやすくなります。対戦相手の後ろに立っている人がその相手の手の内をすべて教えてくれるのと同じです。暗号の場合は、暗号解読を担当する人たちが「後ろに立っている人」に当たります。

 ゲームでは、後ろに立っている人が仲間に対戦相手の手の内を教えるのは「八百長」と呼ばれますが、戦争で暗号を解読するのは「極めて重要な戦闘」の一つです。同じような戦力、国力であっても、暗号を解読されてしまえば、まず勝ち目はありません。戦略や戦術、作戦をすべて見透かされてしまうわけですから、戦えば悲惨な結果になることは目に見えています。日本外務省の暗号は1941年の真珠湾攻撃のずっと前から、日本海軍の作戦暗号も1942年の春ごろから解読されていました。手の内を知られていたわけですから、海軍の暗号が解読されてからは、どんなに死にもの狂いになろうとも勝てるはずがなかったのです。

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日本海軍の暗号書の一部(長田順行『暗号 原理とその世界』から)

 当然のことながら、第2次大戦の前から、日本もドイツも暗号の重要性はよく分かっていました。ですから、「絶対に解読されない暗号システム」をそれぞれ開発し、運用しているつもりだったのです。日本海軍の場合には、よく知られているように重要な作戦暗号(いわゆるD暗号)は「数字5ケタの暗号」でした。5ケタの数字の組み合わせは10の5乗、つまり10万通りあります。(実際には通信兵が検算しやすいように、そのうちの3の倍数のみを使用)。その5ケタの数字を組み合わせて、「49728」は「連合艦隊」、「20058」は「連合艦隊司令長官」を表す、といった具合に打電していました。地名についてはそのまま表現することはせず、例えばミッドウェー島を「AF」という略号で表し、たとえ解読されてもそれがどこを意味するか分からないように工夫していました。また、すべての単語を5ケタの数字にすると暗号書が分厚くなりすぎて戦場で使いにくいため、仮名や数字にも5ケタの数字を割り振って運用していました。

 もちろん、こうした5ケタの数字だけで無線通信を交わせば、比較的簡単に暗号解読者に解読されてしまいます。お互いに専門家を集めて、解読にしのぎを削っていたのですから。そこで、5ケタの数字にさらに5ケタの「乱数」を加えて、その数字をモールス信号で発信していました。多くの乱数を用意し、それと組み合わせることで、5ケタの数字の組み合わせは天文学的な多様さを生み出します。それでも、理論的には解読は可能ですが、手作業で解読しようとすれば、「1000人がかりで10年かかる」といった状態になります。10年後であれば、たとえ解読されたとしても実害はなく、そのシステムは事実上「解読不可能なシステム」のはずだったのです。

 ではなぜ、日本とドイツの暗号は解読されてしまったのでしょうか。いくつかの原因が折り重なっており、戦闘の中で重要な暗号書が米英軍の手に落ちてしまったといったこともあったようですが、私は「手作業で解読する」という前提条件が崩れてしまったことが最大の要因だった、とみています。英国と米国は数学者や統計学者、言語学者、文化人類学者らを総動員して解読に当たると同時に、解読のための解析に「電気リレー式の計算機」を利用しました。そしてほどなく、より計算速度の速い、真空管を使った「電子計算機」を開発して、暗号解読に活用するに至ったのです。「1000人がかりで10年かかる」はずのものが「数時間で計算し、解析できる」――それは日本もドイツも想定していなかった事態でした。「総合的な知力の戦い」と「科学技術の軍事への応用」の両面で、日本とドイツは英米に敗れたのです。

 その実態は、前回の通信で紹介した暗号関係の本を読めば、うかがい知ることができます。そして、第2次大戦中の熾烈な暗号解読の戦いの中で、電気計算機や電子計算機は飛躍的な発展を遂げ、それが現在のコンピューターやIT技術の基礎になったのです。このあたりの事情を知るためには、大駒誠一・慶応大学名誉教授の労作『コンピュータ開発史』(共立出版)を参照することをお薦めします。

 英国と米国はそれぞれ、英国はドイツ、米国は日本の暗号解読を主に担当し、その手法と成果を共有しましたが、第2次大戦後もその緊密な協力関係は続きました。そしてさらに、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを加えた英語圏5カ国が「情報収集と暗号解読の連合」を組み、冷戦の主要な敵であるソ連や中国の暗号の解読にあたりました。長い間、「ソ連の暗号は強力で米国はついに解読することができなかった」と信じられていましたが、現実にはソ連の暗号の解読にもかなり成功していたことが明らかになっています。それを詳しく紹介しているのが1999年に出版された『Venona : Decoding Soviet Espionage in America 』(邦訳『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』PHP研究所)です。

 「ソ連の暗号が解読されていた」というのは、乱数を巧みに織り込んだソ連の複雑な暗号システムを知る者にとっては実に驚くべきことですが、それ以上に衝撃的なのは、米英を中心とする5カ国が2001年の9・11テロ後に乗り出した「情報収集活動」です。彼らは「テロとの戦い」という旗印の下で、暗号の解読にとどまらず、あらゆる有線・無線通信、インターネット空間を飛び交う情報の収集と解析を始めたのです。

 9・11テロの後、その活動は「エシュロン」プロジェクトという名称でおぼろげに浮かび上がり、国際社会で一時問題になりかけましたが、「ならば国際テロ組織とどうやって戦うのか」という恫喝めいた圧力の中で、追及は尻すぼみに終わってしまいました。そのプロジェクトの中心になり、牽引役を果たしているのが米国の国家安全保障局(NSA)と英国の政府通信本部(GCHQ)です。両者の活動はその後、ますますエスカレートしていきました。権力の監視役を果たしてきた米国のジャーナリズムもその中に取り込まれていき、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった新聞ですら、十分に追及できないような状況が生まれてしまいました。「何よりも優先しなければならないのはテロとの戦いだ」という風潮が法の支配や表現の自由を覆い尽くしてしまったのです。

 彼らは何をしているのか。2013年、その内情を完膚なきまでに暴露したのがエドワード・スノーデンでした。NSAやCIA(米中央情報局)でコンピューターのセキュリティ担当者として働いていたスノーデンは、ある時から「これは言論、出版の自由をうたった合衆国憲法に違反する」と思い始め、周到な準備を重ねて内部告発に踏み切ったのです。内部告発する相手として、ニューヨーク・タイムズなどの大手メディアを避けたのも、上記のような米国の言論状況を考えれば、当然の選択だったのです。

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Edward Joseph Snowden

 スノーデンが内部告発の相手として選んだのは、米国の権力機関からの圧力を避けるためブラジルを拠点に活動していたフリージャーナリストのグレン・グリーンウォルドでした。そして、グリーンウォルドと手を組んで果敢な報道を展開したのは英国の新聞ガーディアンの米国オフィス(ウェブメディア)です。伝統的な活字メディアではなく、インターネット上で情報を発信するジャーナリストが権力の濫用を追及する主役に躍り出た、という意味でも、スノーデンの内部告発は画期的な意味を持っています。

 彼が内部告発に至るまでの経過は、まるでアクション映画のようです。グリーンウォルドの著書『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)と、ガーディアンの記者ルーク・ハーディングが著した『スノーデンファイル』(日経BP社)はどちらも、実にスリリングで刺激的な本です。と同時に、NSA(米国家安全保障局)やGCHQ(英政府通信本部)はそんなことまで行っているのかと驚愕し、ついにはおぞましさを覚えてしまうほどです。

 NSAは外国諜報活動監視裁判所(諜報活動を規制するため1978年に設立された米国の秘密裁判所)の令状を得て、プロバイダー会社にデータをすべて提供させる。グーグルやヤフー、フェイスブック、アップルにもすべてのデータを提供させる。海底ケーブルを使う有線通信もバイパスを作ってすべて覗き見る――要するに、すべて。「穴があればテロリストに悪用される」という理由で、彼らはすべてのデータへのアクセスを通信会社やIT企業に要求し、裁判所もそれを追認しているというのです。

 英国の作家ジョージ・オーウェルは代表作『1984年』ですべての行動が当局によって監視される社会を描き、全体主義への警鐘を鳴らしましたが、皮肉なことに、スノーデンの内部告発は「自由の国」アメリカが自分たちの憲法すら踏みにじって監視社会への先導役となり、その完成に向かって邁進していることをあぶり出したのです。

 「発言や行動のすべて、会って話をする人すべて、そして愛情や友情の表現のすべてが記録される世界になど住みたくない」。スノーデンは告発の動機をそう語っています。その彼が、南米への亡命を望んでいたにもかかわらず、米国の強烈な圧力のせいで受け入れてもらえず、トランジットのつもりで立ち寄ったロシアで亡命生活を送らざるを得なくなってしまいました。自由を求めて立ちあがった者が、旧ソ連の強権体質を受け継ぎ、いまだに言論弾圧を繰り返している国に庇護を求めるしかなかった――なんという不条理、なんという巡り合わせであることか。
(長岡 昇)

*エドワード・スノーデンの写真:Source
http://www.csmonitor.com/USA/2013/0609/Edward-Snowden-NSA-leaker-reveals-himself-expects-retribution




*メールマガジン「小白川通信 16」 2014年8月6日

 前回の「小白川通信」で真珠湾攻撃をテーマにし、当時のルーズベルト米大統領は事前に攻撃計画を知っていたにもかかわらず、現地の司令官たちに知らせず、日本軍の奇襲を許したという、いわゆる「ルーズベルト陰謀説」を扱いました。そして、こうした陰謀説について「断片的な事実を都合のいいように継ぎはぎした、まやかしの言説で、もはや論じる価値もない」と書いたところ、旧知の研究者から「違います。陰謀説は否定のしようがないほど明らかです」とのメールが届きました。

 びっくり仰天しました。門外漢ならいざ知らず、彼はアメリカ外交や国際政治の専門家です。そういう研究者の中にも「陰謀説」を信じている人がいるとは・・・。これでは、高校の歴史の授業で「陰謀説」を事実として教える教師が出てきても不思議ではありません。メールには「スティネットの『真珠湾の真実』と藤原書店から出た『ルーズベルトの戦争』を読むことをお薦めします」とありました。不勉強でどちらも読んでいませんでしたので、取りあえず、『真珠湾の真実』(文藝春秋)を読んでみました。

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 著者プロフィールによれば、ロバート・B・スティネットは1924年、カリフォルニア州生まれ。アジア太平洋戦争では海軍の兵士として従軍、戦後は同州のオークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者として働き、本書執筆のために退社、とあります。さらにBBC、NHK、テレビ朝日の太平洋戦争関係顧問とも書いてありました。米国の情報公開制度を利用して機密文書の公開を次々に請求し、入手した膨大な文書をもとにして書かれた本であることが分かります。労作ではあります。

 しかし、じっくり読めば、専門家とは言えない私ですら、いたるところに論理の飛躍と「都合のいい事実の継ぎはぎ」があることが分かります。例えば、米国が日本海軍の作戦暗号(いわゆるD暗号)をどの時点で解読できるようになったのかについて。スティネットは「日本海軍の暗号が解読できるようになったのは開戦後の1942年春から」という定説を否定して、「1940年の秋には解読に成功していた」と主張しています(『真珠湾の真実』p46)。真珠湾攻撃は1941年12月ですから、その1年も前から解読できていたと主張しています。そして、その有力な根拠の一つとして、フィリピン駐留米軍の無線傍受・暗号解読担当のリートワイラー大尉が海軍省あてに出した手紙(1941年11月16日付)を収録しています(同書p498)。

 その手紙には「われわれは2名の翻訳係を常に多忙ならしめるのに十分なほど、現在の無線通信を解読している」という記述があります。なるほど、これだけを取り出せば、「米海軍は真珠湾攻撃の前にすでに日本海軍の作戦暗号を解読していた」という証拠のように見えます。けれども、暗号解読の歴史を少しでも学んだことのある人なら、日本海軍は当時、主な暗号だけでも10数種類使っていたこと、そのうちで秘匿度の弱い暗号(航空機や船舶の発着を伝える暗号など)が解読されていた可能性はある、といったことを知っています。ですから、この手紙の内容だけではどの暗号を解読するのに『多忙』なのかは不明で、重要な作戦暗号が解読されていたことを裏付ける証拠にはなりません。

 細かい注釈をやたらと多く付けているのも、この本の特徴の一つです。第2章の最後の注釈には「米陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将は1941年11月15日にワシントンで秘密の記者会見を開き、アメリカは日本の海軍暗号を破ったと発表した」とあります。これも作戦暗号の解読に成功していたことを印象づける記述ですが、「秘密の記者会見」の開催を裏付ける証拠や会見内容を詳述する資料はまったく示されていません。都合のいい断片的な事実、あるいは事実と言えるかどうかも怪しいようなことを散りばめて、「日本海軍の作戦暗号は真珠湾攻撃の前に解読されていた」と印象づけようとしています。

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 米国による日本海軍の暗号解読については、すでに専門家の手で信頼できる著書がいくつも出版され、日本語にも翻訳されています。解読の全般的な歴史については『暗号の天才』(新潮選書)や『暗号戦争』(ハヤカワ文庫)、解読にあたった当事者の本としてはW・J・ホルムズの『太平洋暗号戦史』(ダイヤモンド社)、解読された側からの本としては長田順行の『暗号 原理とその世界』(同)があります。いずれの本も「米国は開戦前に日本外務省の暗号を解読していたが、日本海軍の作戦暗号を解読することはできていなかった」ということを物語っています。

 この『真珠湾の真実』には暗号解読に限らず、外交官や諜報機関がもたらした情報も含めて、これまでの研究を覆すような事実は何もありませんでした。だからこそ、この本が1999年に出版された時、米国の主要な新聞や雑誌は書評で取り上げなかったのでしょう。上記の『暗号戦争』の著者デイヴィッド・カーンは「始めから終わりまで間違いだらけ」と酷評したと伝えられています。ただ、陰謀説が好きな人は多いようで、アメリカでも日本でもよく売れました。とりわけ日本では、京都大学の中西輝政教授が巻末に解説を寄せ、「ようやく本当の歴史が語られ始めた」と激賞したこともあって、よく売れたようです。著名なジャーナリストの櫻井よしこ氏も「真実はいつの日かその姿を現す」と褒めそやし、来日した著者のスティネットと対談したりして、販売促進に貢献しています。

 前回の通信で「陰謀説がなぜ消えないのか、不思議でなりません」と書きましたが、ようやく理解できました。この本をはじめ、この10数年の間に出版された陰謀説を唱える本がよく売れ、広く読まれた結果と考えるべきなのでしょう。暗然たる思いです。「真実」という言葉をうたい文句にして、ウソを広める本。それを支える人たち・・・。この本の原題は『Day of Deceit』(欺瞞の日)ですが、邦訳を『欺瞞の書』とすれば、ぴったりだったでしょう。この本については、現代史家の秦郁彦氏や須藤眞志氏らが『検証・真珠湾の謎と真実』(中公文庫)という本を出し、徹底的な批判を加えています。これはしっかりした本です。むしろ、こちらを読むことをお薦めします。

 そして、あらためて思い知りました。前回の通信で紹介したゴードン・W・プランゲの著書『真珠湾は眠っていたか』(1?3巻、講談社、原題:At Dawn We Slept)はなんと奥深く、誠実な本であることか。彼の死の翌年(1981年)に出版されたこの本の第1巻「まえがき」に、弟子たちは次のように記しているのです。

 「ゴードン・プランゲ教授は、自身の言葉が最終的な決着をつけたという印象を与えることを欲しなかった。(将来)自分こそ『真珠湾の残された最後の秘密』を知っており、読者にそれを提供するのだと主張するような人があれば、それはペテン師か自己欺瞞に陥っている人なのである」
(長岡 昇)

日本海軍の空母艦載機の写真:Source
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*メールマガジン「小白川通信 15」 2014年7月18日


 山形大学で現代史の講義をして学生たちと問答をしていると、時々、「アレッ」と思うことがあります。アジア太平洋戦争中の「暗号解読」をテーマに講義した際にも「アレッ」がありました。聴講している学生の半分近くが「真珠湾攻撃=ルーズベルト陰謀説」を歴史的な事実として受けとめていることが分かった時です。「高校の歴史の授業で先生にそう教わりました」という学生までいました。これは由々しきことです。なぜ、こうした陰謀説が若い人の間でこれほど広がっているのでしょうか。

 ルーズベルト陰謀説の概要は次のようなものです。
「米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は1940年の選挙で『欧州での戦争には加わらない』と公約した。一方で、前年からドイツと戦争になっていた英国や日本と戦っていた中国からは参戦を迫られ、ジレンマに陥っていた。このため、日本が真珠湾を攻撃することを事前に知っていたにもかかわらず、これを現地ハワイの司令官たちに知らせず、あえて日本軍に奇襲させた。それによって、米国の世論を厭戦(えんせん)から参戦へと劇的に変えた」

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炎上する戦艦ウェストバージニア


 この説明の前段は間違いなく歴史的な事実です。ですが、後段の「ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていた」という部分は事実ではありません。少なくとも、知っていたことを裏付ける資料や信頼できる証言はありません。むしろ、「知らなかった」ことを示す資料が時を経るにつれて増えている、というのが現実です。

 もちろん、ルーズベルト大統領は諸般の事情から「日本との戦争は避けられない」と考えていたと思われます。大統領だけでなく、日米双方の指導者の多くが当時そう考えていたはずです。が、そのことと「日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた」ということとは、その意味がまったく異なります。

 大統領が事前に「真珠湾への攻撃計画」を知るとすれば、それは「外交官や諜報機関が人的な情報源から得た情報」か「日本の暗号を解読して得た情報」のどちらかを通してしかありません。前者については次のような事実があります。
「1941年1月、アメリカのグル―駐日大使は旧知のペルー駐日公使から『日本は真珠湾に対する大規模な奇襲攻撃を計画している』との情報を得て、これを暗号電報でワシントンに送った。米国務省はこれを海軍省に送り、ハロルド・スターク海軍省作戦部長はこれを海軍情報部に送った。情報はさらにハワイの米太平洋艦隊司令官、キンメル大将に伝えられた」(学習研究社『歴史群像 太平洋戦史シリーズ? 奇襲ハワイ作戦』p52から)

 後者の「暗号解読による情報」については、次のような事実があります。
「1944年の大統領選挙でルーズベルトの四選を阻むために立候補した共和党のトマス・E・デューイは『アメリカを戦争に引きずり込むことを狙い、日本の暗号を解読して日本の企図を知っていたにもかかわらず、彼は犯罪的怠慢によって何も対策を講じなかった』とルーズベルトを非難した」(デイヴィッド・カーン『暗号戦争』p190)

 これらはいずれも確かな事実です。これだけを取り上げれば、「ルーズベルト陰謀説」を裏付ける材料のようにも思えます。が、両書の著者はこうした事実に加えて、次のような事情を添えて、ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていた可能性を否定しています。つまり、グル―駐日大使がこの電報を送った1941年1月の時点では、日本海軍の内部ですら真珠湾を攻撃することはまだ決まっておらず(実際の攻撃は同年12月)、それは巷の「風説の一つ」に過ぎませんでした。数ある噂の一つとして伝えられたのであり、米海軍内部でもそのように扱われ、大統領の執務室に届いて検討された形跡はまったくありません。こうした情報はもし本当であれば、次々に補強する情報が集積されるものですが、補強するものはありませんでした。共和党大統領候補のデューイの非難にしても、暗号解読の実態を知らず、政敵攻撃の材料として「激しい表現」を使ったに過ぎません。その証拠に、デューイは米陸軍参謀総長の懇切丁寧な説明を受けた後は、こうした非難をしなくなりました。

 にもかかわらず、米国では戦後も「ルーズベルト陰謀説」を唱える人が少なくありませんでした。その代表格が歴史学者のハリー・エルマー・バーンズです。彼は同じような説を唱える研究者とともに、米国の歴史学会を二分する論争を繰り広げました。そして、その論争は1981年にメリーランド大学の歴史学教授、ゴードン・W・プランゲの著書『At Dawn We Slept』(邦訳『真珠湾は眠っていたか』、講談社)が出版されるまで続いたのです。この本によって、ルーズベルト陰謀説は学問的に葬り去られた、と言っていいように思います。

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ゴードン・W・プランゲ教授


 ゴードン・W・プランゲの生涯は「研究者の執念とはかくもすさまじいものか」と思わせるものがあります。1937年、27歳の若さでメリーランド大学の歴史学教授に就任。戦争勃発に伴って海軍の士官になり、戦後は日本を占領したマッカーサー元帥の戦史担当者として日本に駐在し、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の研究にあたりました。マッカーサーは戦史スタッフとして100人の要員を抱えていたとされ、プランゲはその責任者でした。日本に滞在している間に、彼は真珠湾攻撃時の連合艦隊首席参謀、黒島亀人や航空参謀、源田実ら200人を超える関係者にインタビューし、焼却を免れた機密資料など膨大な文書を集めました。そして、米国に持ち帰り、メリーランド大学の教授として復職してからも研究を続けました。戦勝国の人間だからできたこととはいえ、戦後日本の戦史研究とは質、量ともに桁違いの研究です。プランゲは1980年に没し、前述の著書はその死の翌年、彼の弟子たちによってまとめられたものです。米歴史学会で長く続いた論争に終止符を打つのに十分な内容の本でした。「ルーズベルト陰謀説」は、断片的な事実を都合のいいように継ぎはぎした、まやかしの言説であることが明らかにされたのです。

 もっとも、そのプランゲですら、米国による日本の暗号解読がどのようなものだったのか、その実態について詳しく叙述することはできませんでした(そのへんが「ルーズベルト陰謀説」がブスブスとくすぶり続けた理由の一つなのかもしれません)。英国と米国は戦後も、暗号解読の実態をひた隠しにしました。何も明らかにしないことが一番良かったからです。その一端が明るみに出たのは、1974年に英国の空軍大佐、F・W・ウィンターボザムが『ウルトラの秘密』を刊行してドイツの暗号を解読していたことを暴露し、1977年に米国の暗号解読専門家ウィリアム・フリードマンの伝記(邦訳『暗号の天才』、新潮選書)が出版されて、日本の暗号解読の内実が紹介されてからでした。そのころには、晩年のプランゲに自分でそうした事実の検証をする余力は残っていませんでした。

 けれども、この両書の出版を機に公開された機密文書の研究が進むにつれて、プランゲの著書の声価はますます高まりました。米国は戦争のかなり前から日本外務省の暗号をほぼ完全に解読していたこと。しかし、外交暗号をいくら解読しても日本軍の攻撃企図を推し量ることはできず、日本の力をあなどって真珠湾の奇襲を許してしまったこと。屈辱感に駆られた米国は軍人はもちろん、数学・統計学・言語学・日本文化研究の俊英を総動員して日本軍の暗号解読に取り組み、開戦から半年ほどで日本海軍の作戦暗号を解読することに成功したのです。それが、ミッドウェー海戦で米軍に勝利をもたらし、連合艦隊の山本五十六司令長官を待ち伏せ攻撃で死に至らしめる結果をもらたしたことは今ではよく知られています。

 私は「陰謀説などすべてバカバカしい」などと言う気はありません。中には、隠された真実を鋭くえぐり出すものもあります。ですが、その多くは時の審判に耐えられず、消えていきます。「ルーズベルト陰謀説」などもそうした言説の一つで、私は「もはや論じる価値もない」と考えています。なのに、なぜ消えないのか。高校の歴史の授業にまで登場してしまうのか。不思議でなりません。

 悪貨が良貨を駆逐するごとく、読みこなすのに時間がかかる良書は時に悪書に駆逐されてしまうのでしょうか。手軽で百花繚乱のインターネット空間では、悪書の方が強い影響力を及ぼすのでしょうか。若い人の間では、活字離れが急速に進んでいます。私の授業を聴いている学生の中で、新聞を日常的に読んでいる者はゼロです。彼らは情報の多くをネットを通して得ています。ならば、ネットの世界で「良書を広げ、悪書を駆逐する戦い」に乗り出すしかありません。
(長岡 昇)
*真珠湾攻撃の写真のSource:http://konotabi.com/japamerican/ja3pharbor/japame3pearlhar.htm




*メールマガジン「小白川通信 14」  2014年7月5日

 英国の豪華客船、タイタニック号が初航海で氷山にぶつかって沈没したのは、今から102年前のことです。この船は当時の技術の粋を集めて造られ、不沈船とうたわれていました。氷山との衝突から3時間足らず、救援の船も間に合わないうちに沈んでしまうなどとは誰も考えていなかったのです。このため、救命ボートは乗客乗員の半数の分しかありませんでした。女性と子どもを優先せざるを得ず、男性の多くは船と運命を共にしました。

 この悲劇を題材にして、各国の国民性を皮肉るジョークがあります。いくつかのバージョンがありますが、私が聞いた中で一番エスプリが効いていると思ったのは、二十数年前に白井健策氏から聞いたものです。当時、朝日新聞のコラム「天声人語」を執筆していた白井氏は、新入社員の研修会で講演し、こんな風に語りました。


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 タイタニック号は沈み始めていた。けれども、救命ボートが少なくて、男性の乗客には海に飛び込んでもらうしかなかった。豪華客船の甲板で、クルーは男たちに声をかけて回った。フランス人には、少し離れたところにいる妙齢の女性を指さしながら、耳元でささやいた。「あのお嬢様が飛び込んでいただきたいとおっしゃっています」。フランス人は「ウィ」とうなずき、飛び込んだ。ドイツ人には集まってもらい、号令をかけた。「気をつけ!飛び込め!」。彼らは次々に飛び込んでいった。

 アメリカ人には「正義のために飛び込んでください」と頼むだけでよかった。彼は明るく「OK」と返事してダイブした。イギリス人には、慇懃な態度で「紳士の皆様には飛び込んでいただいております」と告げた。彼は黙って飛び込んだ。日本人の番になった。乗組員は彼の耳元に手をかざしながら、小さな声でつぶやいた。「みなさん、飛び込んでいらっしゃいますよ」。周りの様子を見ながら、彼もあわてて飛び込んでいった。

      *      *      *

 研修会場はドッと沸きました。でも、会場を包んだ爆笑には、もの悲しさが混じっていた――新入社員のチューター役で参加していた私にはそう感じられました。それぞれの国民性をこんな風に描くのはかなり乱暴なことですが、特徴を見事にすくい取っている面もあります。だからこそ、みな身につまされて、笑いの中にもの悲しさが入り込んでしまったのでしょう。

 安倍政権が戦後の歴代内閣の憲法解釈を変え、現在の憲法9条の下でも集団的自衛権を行使することができるとの新解釈を閣議決定しました。「国権の最高機関」である国会での審議もろくにせず、憲法と法律の解釈について最終的な判断を下す立場にある裁判所をも置き去りにして、行政府の長が事実上の憲法改正にも匹敵する判断を下してしまいました。

 何のために「三権分立」という大原則があるのか。法の支配を確固たるものにするためには「法的な手続きをきちんと踏むこと」が極めて重要なのに、三権分立も法の支配をも蹴散らしての閣議決定です。一国の首相が憲法をないがしろにし、憲法の柱である大原則を踏みにじっても恬(てん)として恥じない。なのに、たいした騒動にもならず、野党から大きな抵抗も受けない――国外の人たちの目には、何とも不思議な光景に映っていることでしょう。


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 古巣の朝日新聞は、安倍首相の解釈改憲を阻止しようと、大キャンペーンを繰り広げました。大げさに言えば、死にもの狂いの紙面展開をしています。けれども、私にはその主張がひどく虚ろに響いて聞こえます。「安倍政権は憲法を自分たちの都合のいいように解釈している」と非難していますが、実は朝日新聞もまた長い間、自分たちに都合のいいように憲法を解釈し、それを擁護し続けてきたではないか、と思うからです。

 焦点の憲法9条は戦争放棄をうたった第1項に続いて、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定しています。しかし、日本は朝鮮戦争をきっかけに再軍備に踏み切り(というより占領軍にそうするように命じられて再軍備し)、着々と軍備を増強して今日に至っています。日本の自衛隊はアジア有数の戦力を保持しています。いろいろと言い繕う人もいますが、素直に見れば、どう考えても自衛隊は軍隊であり、その保持している力は戦力です。この矛盾を解消するためには憲法を改正するか、自衛隊は違憲だとして解散させるか、どちらかしかありません。

 今の日本で「自衛隊は違憲だから解散させるべきだ」と考える人は、ほんの一握りでしょう。私も「自衛隊は戦後の日本社会でしかるべき役割を果たしてきた」と受けとめています。解散など論外です。従って、矛盾を解消するためには憲法を改正して、自衛隊をきちんと位置づけるしかないと考えています。それほど多くの文言を入れる必要はありません。憲法第9条の第2項を「陸海空軍その他の戦力は、必要最小限度の戦力を除いて、これを保持しない」と改正すれば足りるし、それで十分なのです。あの戦争が終わって、間もなく70年。ほかの部分も、時代にそぐわなくなったところは素直に改正すればいいのです。

 そのうえで、「では必要最小限度の戦力をどこまで行使するのか」「個別的自衛権に限るのか、集団的自衛権の行使まで広げるのか」を議論すればいいのです(私は「集団的自衛権を行使する必要などない」と考えています)。

 けれども、朝日新聞は「今の憲法を一字一句変えてはならない」という厳格な護憲派の立場を変えず、維持しています。「自衛隊は自衛のための必要最小限度の武装組織であり、軍隊ではない」という説得力の乏しい論理を展開してきました。その論理に立って「自衛隊は違憲ではない」と主張しています。これもまた、安倍政権とは別の立場からの「解釈改憲」ではないのか。

 憲法を都合よく解釈してきた者が、別な風に憲法を都合よく解釈する者を非難する――それが朝日新聞と安倍政権の対立の構図であり、だからこそ、その主張が虚ろに響くのだ、と思うのです。そして、保守派の改憲論と朝日新聞的な護憲論の対立から透けて見えてくるのは、双方とも立派なお題目を唱えてはいるが、どちらも憲法をないがしろにしているという現実ではないのか。

 一番哀れなのは、日本国憲法なのかもしれません。言葉を発することができるならば、憲法は小さな声でこうつぶやくのではないか。「みなさん、私をもてあそぶのはもうやめてください。私の肩には、みなさんの未来がかかっているんですよ」
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 13」2014年6月9日


涙があふれ
滂沱(ぼうだ)と流れ落ちる時
それは悲しみ

涙が一筋
頬をそっと伝う時
それは哀しみ

悲劇はこの世の闇の深さを人に伝え
哀歌は人の心にひそむ切なさを刻む

悲しき者は
過ぎ去った日々を悔やみ
哀しき者は
残された日々を慈しむ

悲しみは沈み、哀しみはたゆたう

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ミヤコワスレ(都忘れ)  山形に帰郷して知った花の一つ


 1980年代、駆け出しの記者だった頃、朝日新聞の国際面に「喜怒哀楽」というタイトルの付いた記事がありました。各地の特派員が1ページをほぼ全部使って、任地で起きた政変や事件、事故、あらゆることの背景と意味を随時、ゆったりと綴る欄でした。地方支局で小さな事件や事故を追いかけ、他社にスクープされた特ダネの追っかけ記事をデスクに怒られながら書いていた頃、よく読んでいました。大好きな欄でした。

 なのに、外報部に配属されて自分が国際報道に携わるようになった時には「喜怒哀楽」はもう消えていました。代わりに登場したのは、物事が動いたら即刻、息せき切ってその背景を書き飛ばす「時時刻刻」や、片肘張った感じの「特派員報告」という大型解説記事でした。どちらも好きになれないタイトルでしたが、「喜怒哀楽」のようなゆったりした記事を書くことは、もう時代が許さなくなっていたのかもしれません。

 さらに時が過ぎ、今の記者はより一層スピードを求められるようになりました。なにせ、インターネット用に「電子版」の記事も出稿しなければなりません。「時時刻刻」というタイトルもあまり見かけなくなりました。時計の長針と短針どころか、秒単位のスピードを求められる時代、タイトルそのものが時代にそぐわなくなってしまったからでしょうか。

 それでも、かつての「喜怒哀楽」というタイトルには愛着が尽きません。この世のすべての感情と情念が込められているように感じるからです。ちっとも理性的でなく、しばしば感情をほとばしらせてしまう人間としては、「それ以外に何があると言うのか」と言いたくなってしまうのです。

 この四文字熟語に接するたびに心にうずくものもあります。「どの国のことを報じる時でも、喜怒哀楽をバランス良く伝えなければならない」と頭では分かっているのに、私が書く記事はいつも「怒」と「哀」の記事ばかりでした。持ち場が血なまぐさいことの多いアジアだったということを割り引いても、人々の喜びと楽しみに目を向けることのできない記者でした。どんなに悲惨な戦地にも、普通の人々の普通の暮らしがあり、その暮らしの中で喜びを見出して生きる人がいるのに、その姿を記事にする力量を欠いていました。

 「育ちが暗いから」と自分で言い訳をしてきましたが、やはりそれでは済まされないものがあります。その罪滅ぼしの気持ちもあって、「喜怒哀楽」の中で一番好きな「哀」という言葉のことをずっと考えてきました。メールマガジン「小白川通信」の再開にあたり、その罪滅ぼしの営みの断片を掲げます。

*2月のメールマガジンで小保方さんの「万能細胞」発見を激賞したら、その後、雲行きが怪しくなり、ついには「懲戒処分」が取り沙汰される事態になってしまいました。それで気落ちしたこともありますが、細かい体調不良もあって配信を休んでいました。ようやく「書く元気」を取り戻しました。また、ポツポツと書いていきます。
(長岡 昇)

*メールマガジン「小白川通信 12」 2014年2月1日


 こんなに驚き、かつ勇気を与えてくれるニュースに接したのは何年ぶりだろうか。理化学研究所の小保方(おぼかた)晴子さんがまったく新しい方法で「万能細胞」の作製に成功したことを伝える報道は、驚愕度において新聞の1面をデカデカと飾るにふさわしく、この国に温かい風を吹き込んだという意味において社会面にもしっくりと収まるニュースだった。小保方さんの人柄に加えて、彼女が割烹着姿で研究にいそしみ、理研がそれをとがめたりしなかったことがこのニュースをより温かいものにしているように思う。


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 科学誌として世界一の権威を誇る英国のネイチャー誌が2年前に彼女の論文の掲載を拒んだ際、「何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している It derides the history of cellular biology, which goes back centuries」 と評し、2度目の寄稿でやっと掲載したことも明らかになった。そう言わしめるほど生物学のこれまでの常識を突き破る成果だった、ということなのだろうが、拒否した際の表現に、私は「欧米を先導役にして進んできた近代化と現在進行中のグローバル化にひそむ傲慢さ」を感じた。

 かつて札幌で勤務していた頃(1988年)、冬に十勝岳が噴火し、北海道大学の火山学者に取材を申し込んだことがあった。定年近い老教授は素人の私が素朴な質問をしても嫌な顔ひとつせず、丁寧に火山のメカニズムを教えてくれた。そして「十勝岳の噴火はとても危険なのです」と警告した。大規模な噴火が起きた場合、山に降り積もった雪が熱で瞬時に解けて泥流となって麓の集落を襲うことがある、というのだ。実際、大正15年には巨大な泥流が発生し、144人もの住民が犠牲になっていた。

 取材を終えて帰りかけた時、この碩学が口にした言葉が忘れられない。「訳知り顔でいろいろと解説しましたが、火山の活動がどういう仕組みで起きるのか、実はほとんど分かっていないのです。40年近く、生涯かけて研究してきました。世界中の火山学者と一緒に。でも、分かっているのはせいぜい1割くらいでしょうか」。寂しげではあったが、誠実な人柄をしのばせる言葉だった。

 彼の言葉が強く印象に残ったのは、同じ頃、原子力発電の取材で原子力工学の教授に会った際に、この教授もまったく同じことを言っていたからだろう。原発建設を推進する立場であるにもかかわらず、彼はこう言ったのだ。「原子力発電所をどう造れば、どういう風に発電できるかは分かっている。けれども、原子炉の中で中性子がどう動き、核分裂反応がどういう風に起きているのかはほとんど分かっていないのです」。脳死の取材で脳神経外科の教授に話を聴いた時もそうだった。彼は「脳の研究は今の科学の最先端の一つで、ものすごい数の研究者が取り組んでいますが、分かっているのはまだ10パーセントくらいでしょうか」と語った。

 その後、科学はそれぞれの分野で前進した。しかし、大いなる自然と広大な宇宙の営み全体から見れば、人間が解き明かしたものはまだほんの一部に過ぎない。宇宙の始まりから現代までの歴史を綴った『137億年の物語』(文藝春秋)の著者、クリストファー・ロイドはエピローグに「壮大な物語に比べれば、人類の歴史は取るに足らない」と記した。古生物学者のリチャード・フォーティも『生命40億年全史』(草思社)を「たしかなのはただ、この先も変化は続くということのみである」という言葉で結んだ。

 「数百年にもわたる細胞生物学の歴史」と言うが、その生物学が成立するまでに、名もない者たちが数万年、あるいは数千年にわたって小さな営みを積み重ねてきたことを忘れているのではないか。われわれの遥かかなたにある「何ものか」に対する畏敬の念があれば、ネイチャー誌が小保方さんの最初の論文の掲載を断るにしても、また別の言葉があったのではないか、と思うのである。

 宇宙の歴史を持ち出すまでもなく、地球の歴史においてすら、人間の歴史はほんの短い間の出来事であり、近代以降など「刹那(せつな)」の出来事に過ぎない――そうした畏敬の念を持ち続ける者こそ、これからの時代を切り拓いていくのではないか。
(長岡 昇)

      *      *      *

 小保方晴子さんは中学2年の時にとても深い内容の読書感想文を書いています。毎日新聞主催のコンクールで千葉県教育長賞に輝きました。1月30日の毎日新聞公式ホームページに掲載された全文を以下に転載します。

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 「ちいさな王様が教えてくれた 大人になるということ」
          −松戸市立第六中学校 2年 小保方 晴子

 私は大人になりたくない。日々感じていることがあるからだ。それは、自分がだんだん小さくなっているということ。もちろん体ではない。夢や心の世界がである。現実を知れば知るほど小さくなっていくのだ。私は、そんな現実から逃げたくて、受け入れられなくて、仕方がなかった。夢を捨ててまで大人になる意味ってなんだろう。そんな問いが頭の中をかすめていた。でも、私は答えを見つけた。小さな王様が教えてくれた。私はこの本をずっとずっと探していたような気がする。

 「僕」と私は、似ているなと思った。二人とも、押しつぶされそうな現実から、逃げることも、受け入れることもできずにいた。大人になるという事は、夢を捨て、現実を見つめる事だと思っていた。でも、王様は、こう言った。「おまえは、朝が来ると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事に追われている夢をみている。そして、夜ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。よっぽどいいじゃないか、そのほうが」と。私はこの時、夢があるから現実が見られるのだという事を教えられたような気がした。

 小さな王様は、人間の本当の姿なのだと思う。本当はみんな王様だったのだと思う。ただ、みんな大人という仮面をかぶり、社会に適応し、現実と戦っていくうちに、忘れてしまったのだと思う。

 いつか、小さな王様と「僕」がした、永遠の命の空想ごっこ。私は、永遠の命を持つことは、死よりも恐ろしい事だと思う。生きていることのすばらしさを忘れてしまうと思うからだ。それに、本当の永遠の命とは、自分の血が子供へ、またその子供へと受けつがれていくことだと思う。

 王様は、人は死んだら星になり、王様は星から生まれると言っていた。私は、王様は死んでいった人々の夢であり願いであるような気がした。人間は死んだら星になり、王様になり、死んでから永遠がはじまるみたいだった。こっちの永遠は、生き続ける永遠の命より、ずっとステキな事だと思う。

 「僕」は王様といっしょにいる時が、夢なのか現実なのかわからない。と言っていたけれど、きっと「僕」は、自分の中の現実の世界に小さな王様を取り入れることによって、つらい現実にゆさぶりをかけ、そこからの離脱を見い出しているのだと思う。

 「僕」は王様にあこがれているように見えた。つまり、自分の子供時代に、ということになるだろう。私も、自由奔放で夢を見続けられる王様をうらやましく思う。でも、私はそう思うことが少しくやしかった。なぜなら自分の子供時代を、今の自分よりよいと思うということは、今の自分を否定することになるのではないかと思ったからだ。まだ私は、大人ではない。なのに、今から、自分を否定していては、この先どうなっていってしまうのだろうと思って恐かった。でも、また一方では、「前向きな生き方」や「プラス思考」などというものは、存在しないようにも思えた。

 夢には、二面性があると思う。持ち続ける事も大切だが、捨てる事もそれと同じ位大切な事なのだと思う。どちらがいいのかは、わからない。また、私がこの先どちらの道に進むのかも。ただ、言えることは、みんなが夢ばかり追いかけていては、この世は成り立たなくなってしまうということだけなのだと思う。

 私は王様の世界より、人間の世界の方がスバラシイこともあると思った。なぜなら、人間には努力で積み重ねていくものがあるからだ。子供のころから培ってきたものは、なに物にも勝る財産だと思うからだ。王様の世界では生まれた時が大人だからそれができない。

 絵持ちの家に行ってから消えてしまった王様は、もう「僕」の前には現れないと思う。なぜなら、もう「僕」には王様の存在の必要がなくなったからだ。私と「僕」は答えを見つけた。「夢を捨ててまで大人になる意味」の答えを。それは、「大人になる為に、子供時代や夢がある」ということだ。最後の赤いグミベアーは、さようならのメッセージなのだと思う。

 これからは「僕」も私も前を向いて生きていけると思う。王様は、まだ答えの見つからない、王様がいなくて淋しがっている人の所へ行ったのだろう。

 私は本の表紙に名前を書いた。王様が教えてくれた事を大人になっても忘れないように。

 王様の存在が夢か現実かはわからないが、この本を読む前の私にとっては夢であった。しかし、少なくとも、今の私の心の中で生きている王様は現実だということは紛れもない事実である。

 世の中に、ちいさな王様と友達になる人が増えたら明るい未来がやってくる。そう思ってやまないのは私だけではないのであろう。

 <アクセル・ハッケ著(那須田淳、木本栄共訳)「ちいさな ちいさな王様」(講談社)>



*メールマガジン「小白川通信 11」 2013年11月23日

 「攻めの人」は守りが弱い、とよく言われる。攻撃することが習性になってしまい、防御のスキルが磨かれないからだろう。どうしても脇が甘くなってしまう。医療法人「徳洲会」グループから5千万円の資金提供を受けたことが明るみになり、その釈明に追われる猪瀬直樹・東京都知事の言動を見ていると、あらためて「脇が甘いなぁ」と感じる。

 猪瀬氏が徳洲会から5千万円を受け取ったのは去年12月の東京都知事選の前だ。この問題が明るみに出た昨日(11月22日)の昼過ぎ、彼は報道陣に対して、徳洲会の徳田虎雄・前理事長から「資金提供の形で応援してもらうことになった」と述べ、都知事選の応援資金であったことを認めた。

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険しい表情で報道陣の質問に答える猪瀬直樹東京都知事(中央)=東京都庁で11月22日午後、矢頭智剛撮影(毎日新聞ニュースサイトから)

 猪瀬氏の顧問弁護士は仰天したことだろう。これが事実なら、猪瀬氏には直ちに「公職選挙法違反(虚偽記載)」の容疑がかかる。選挙運動に使った金は自己資金であれ、借入金であれ、すべて収支報告書に記載して選挙管理委員会に報告しなければならない。都知事選後に猪瀬陣営が提出した収支報告書には、そのような記載はないからだ。私が顧問弁護士なら、「5千万円は選挙とは何の関係もないことにしなければならない」と強く助言する。

 実際にそのような助言があったかどうかは知らない。が、猪瀬氏はその後、一転して「選挙資金ではなく、あくまで個人としての借り入れでした」と言い始めた。「お金の目的」を変更することで追及を免れようとする作戦に切り替えたようだ。なるほど、個人の間の金の貸し借りは犯罪ではない。金額はともかく、世間ではままあることだ。

 しかし、今度は別な問題が浮上する。猪瀬氏は以前から徳洲会の徳田虎雄氏と面識があったわけではなく、都知事選に出馬することが決まってから「ご挨拶」にうかがったのだという。最初のご挨拶で5千万円も「無利子で貸してくれた」徳田氏の意図は何だったのか。意図も目的もなく大金をあげたり、貸したりしてくれる人はこの世に存在しない。今度は、東京都内で病院や介護施設を経営する徳洲会グループがそれを合理的に説明しなければならなくなる・・・・。真実を隠そうとすると、このように次から次に別の問題が噴き出してきて、収拾がつかなくなるのが世の常だ。

 ジャーナリストとしての猪瀬氏の仕事には、目をみはるものがあった。『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』では、権力の周りでうごめく政治家や政商の姿を活写した。『昭和16年夏の敗戦』では、無謀な戦争に突き進んでいった東条英機をはじめとする当時の指導者たちの愚かさを赤裸々に描いた。その輝きが、政治の世界に自ら飛び込んでいってからは色あせてしまった。しどろもどろの言動を見るにつけ、ドロドロした政界の闇の深さを覗き見るような感慨にとらわれる。

 5千万円という金額で思い出すことがある。私が新聞記者になって4年目の1981年1月に発覚した「千葉県知事の5千万円念書事件」である。当時の千葉県知事、川上紀一(きいち)氏が東京の不動産業者、深石鉄夫氏から知事選の資金として5千万円を受け取り、「貴下の事業の発展に全面的に協力するとともに利権等についても相談に応じます」との念書を交わしていた、という事件だ。

 川上氏は念書の存在を認め、知事を辞任するに至るのだが、深石氏は千葉県だけで仕事をしていたわけではない。私の初任地の静岡でも「彼が政治家に5千万円を渡した」という情報が飛び込んできた。「調べろ」との支局長の指示を受けて、私は静岡県の伊豆半島にある大仁(おおひと)町に走った。

 当時、大仁町では日産自動車が大規模な福利厚生施設を建設する計画を進めていた。が、なかなか前に進まない。深石氏は日産の依頼を受けて、計画を円滑に進めるために「静岡県の政界の実力者に接近、5千万円を提供した」というのが疑惑の粗筋だった。計画予定地の土地登記を調べ、日産の本社に出向き、深石氏の事務所の扉をたたいた。「政界の実力者とは静岡県知事であり、金を受け取った疑いが濃厚」との心証を得たが、物証は得られず、記事にする見通しは立たなかった。

 一生懸命に取材したのに1行も書けないのは悔しい。で、ある晩、山本敬三郎・静岡県知事の私邸に夜回りをかけた。予約なしで、いきなり玄関口に立ち、「念書事件の深石氏から静岡の政治家にも5千万円渡っているという情報があります」と問い質した。「知事に5千万円渡っている」と口にしたら、名誉棄損になる。だから慎重に「静岡の政治家にも」と言葉を選んだのだが、うろたえたのか山本知事は「私は受け取ってないよ、私は」とむきになって否定するのだった。

 知事サイドも必死だった。朝日新聞の取材がどこまで及んでいるのか、気になって仕方がなかったのだろう。その後、定例の知事会見があるたびに、会見後に「長岡君、ちょっとお茶でも飲みませんか」と知事から声がかかった。「五千万円問題」の潜行取材を知らない他社の記者や県庁の幹部はいぶかしがり、「あの記者は知事と特別な関係にあるらしい」と変なうわさまで立った。世の中の歯車はおかしな回り方をすることもある、と思ったものだ。

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田中角栄元首相(Source:http://yoshio-taniguchi.net)

 田中角栄元首相がロッキード事件で受託収賄の疑いで逮捕されたのは、これらの「知事5千万円受領疑惑」の5年前、1976年のことである。全日空の旅客機選定をめぐる大疑獄事件で、田中角栄氏が受け取ったとされる金は5億円だった。その記憶もまだ生々しく、政治通の間では「一国の総理に大事なことを頼むなら5億円、知事に頼むなら5千万円が相場」と言われていた。「なるほど、切りのいい金額だ」と、妙に納得したのを覚えている。

 1980年代のバブルの時代、政治家への献金の相場は跳ね上がったに違いない。だが、バブルの崩壊とデフレを経て、献金の相場はまた、昔に戻ってしまったのかもしれない。都道府県の知事はさまざまな許認可の権限を握っている。こと許認可権に限れば、衆議院議員や参議院議員の及ぶところではない。

 徳洲会グループはどのような意図、どのような目的をもって、東京都知事候補に5千万円を提供したのだろうか。それが資金供与だったのか、貸付だったのかは、さほど重要ではない。返済したかどうかも関係ない。収賄罪にしろ詐欺罪にしろ、受け取った時点で犯罪は成立しており、返済しても立件に影響はない。知りたいのは「その金の意味」であり、それが犯罪として立件できるのかどうかである。

 1970年代、80年代の東京地検特捜部は実にまともで、強かった。報道機関も執拗に事実を追い続けた。それがこの国の民主主義をより良いものにした。検察の不祥事を乗り越えて「徳洲会グループの選挙違反事件」を摘発した特捜部がどこまで政治の闇を暴くことができるのか。日本のメディアが今、どれだけの強靭さを持っているのか。東京都知事の5千万円受領事件の帰趨は、それを教えてくれるだろう。
(長岡 昇)



 
*メールマガジン「小白川通信 10」 2013年11月10日

 この春まで4年間、民間人校長として働いて気づいたことがある。それは、公務員の世界では「いかにして多くの予算を獲得し、使い切るか」が想像以上に大きな比重を占めていることである。そして、使い切ることを重ねているうちに、いつの間にか、その予算がそもそも何のための金なのか、本当に必要な予算なのかといったことを考えなくなってしまう。

 「民間企業だって同じだ。予算獲得の代わりに売り上げ増に血道をあげているではないか」と反論する人がいるかもしれない。確かに似ている。事業部ごとに、獲得した予算を使い切る傾向もある。しかし、決定的に異なる点がある。それは、企業の場合、必要がなくなった事業に資金をつぎ込み続ければ経営が傾き、やがては倒産して消えていくことだ。「市場」という公平で冷酷な審判がいるのだ。政府や自治体にも議会や報道機関などのチェック機関があるが、それらは市場ほどには公平でも冷酷でもない。

 一つの国やその中にある自治体においてすら、血税の使途を適正にするのは難しい。ましてや、それが世界レベルになると、もっと難しくなる。国連とその関係機関のことである。平和維持活動や難民の救済といった崇高な使命に携わっていることもあって、その無駄遣いや腐敗を追及する矛先はどうしても鈍くなってしまう。私が知る限りでは、気合を入れてこの問題に取り組んだことがあるのは、英国のBBC放送くらいだ。かつて、精力的な取材を通して国連の無駄遣いと腐敗を調べ上げ、告発したことがある。

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パリのユネスコ本部(インターネット上の写真)

 最近、ひどいと思うのはユネスコ(国連教育科学文化機関、本部・パリ)の無駄遣いである。世界自然遺産や文化遺産を登録して、その保存活動に力を入れたのは立派な仕事だと思うのだが、それが一段落して事業の拡大が望めなくなるや、ユネスコは「無形文化遺産」の登録事業に乗り出した。役人の世界でよく見られる「新規事業の創出」である。

 2003年のユネスコ総会で「無形文化遺産の保護に関する条約」が採択され、2006年に発効した。保護の対象になるのは「口承による伝統及び表現」「芸能」「社会的慣習、儀式及び祭礼行事」「自然及び万物に関する知識及び慣習」「伝統工芸技術」の五つだ。食文化も保護の対象とされ、和食も「無形文化遺産」として登録されることになった。食文化に関してはすでに、フランスの美食術や地中海料理、メキシコやトルコの伝統料理が登録されており、「和食もこれに匹敵する」というわけだ。

 ひどい話である。どの国、どの民族、どの地域の人々にとっても、それぞれの食文化はかけがえのない価値を持つ。与えられた風土の中で生き抜くために、先人が知恵を重ね、涙と汗をまぶしながら育んできたものである。なのに、それに対して、国際公務員であるユネスコの職員が段取りを付け、政治家や学識者を集めて審査して格付けし、登録するというのだ。信じがたい傲慢、不遜な行為と言わなければならない。そんなことに我々の血税が政府を通して流され、費消されていいのか。

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 実は、早期退職する前年の2008年にユネスコから朝日新聞社に無形文化遺産に関して、「メディア・パートナーシップを結びませんか」という提案があった。いくぶん関係する部署にいた私は「そんな企画に加わるのはとんでもない。食い物にされるだけだ」と強硬に反対したが、すでに社の首脳が提携を決めた後であり、ごまめの歯ぎしりに終わった。「日本の新聞社と手を組むとしたら朝日新聞しか考えられません」とか何とか言われた、と聞いた。

 日本の政府や政治家には厳しい姿勢を崩さないのに、こと国連となると、日本の報道機関は手の平を返したようになる。朝日新聞社も右ならえ、だ。古巣のことを悪く言いたくはないが、本当に情けない。社の上層部が決めたとなると、普通の記者は「批判する気概」をどこかに放り投げてしまうようだ。11月8日の朝刊2面に「無形文化遺産に和食が登録されるの?」という記事が掲載されたが、国連の広報記事と何ら変わらない。問題意識の「も」の字も感じさせない、いわゆるチョウチン記事である。日本政府のチョウチン記事は恥ずかしいが、「世界政府」とも言うべき国連のチョウチン記事は恥ずかしくないらしい。「メディア・パートナーシップ」という錦の御旗があるからか。

 中華料理やインド料理、タイ料理やベトナム料理、中東やアフリカ諸国の料理・・・・。それらに比べて、フランスや地中海、メキシコやトルコ、日本の料理を先に「無形文化遺産」に登録する理由をどう説明するのか。どのような基準に基づいて、だれが決めたのか。少なくとも、それを俎上に載せ、言及するのが「健全な報道機関」というものだろう。

 食文化に限らない。口承文化にしても芸能、祭礼行事にしても、数値化できないもの、言語では表現できないもの、見えない部分にこそ、深い価値があるのではないか。そこが世界自然遺産や文化遺産と質的に異なるところだ。無形の文化をどう扱うかは、それぞれの国や共同体に任せ、互いに尊重する。それで十分ではないか。

 私に言わせれば、ユネスコの「無形文化遺産」事業そのものが、新しい予算の獲得という、役人が陥りがちな邪(よこしま)な考えから始まったものである。最初から無理なことを官僚の作文で味付けして始めた事業だから、ますますおかしな方向に突き進んでしまうのだ。世界自然遺産や文化遺産と違って、無形文化遺産ははるかに奥が深く、底なし沼のように事業費が膨らんでいく。それを承知で始めたのだろうから、役人の野望は恐ろしい。
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 9」 2013年11月4日


 山形の農村に住んでいても、新聞や雑誌の書評を読めば、読みたい本を探すことはできる。それをインターネットのアマゾンで注文すれば、数日後には手許に届く――と強がっているが、最近「やっぱり、身近なところに本屋さんがあるといいなぁ」と思う出来事があった。

 夕方、山形市内である人と待ち合わせた。早く着き過ぎてしまい、20分ほどあったので、近くの本屋さんに入った。そこで文芸書のコーナーに差しかかった時である。まるで「オイ、俺を手に取ってみろよ」と声をかけられたように、英国の作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥 Heart of Darkness』(三交社)という本に吸い寄せられていった。
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Joseph Conrad (3 December 1857-3 August 1924) Source:Wikipedia

 まず、最初にある「訳者まえがき」を読んだ。「この小説は文学的にも思想的にもたいへん興味深い作品である。英文学史上屈指の名作とみなされ、世界の英語圏諸国の大学で、教材として、20世紀で最も多く使用された文学作品とも言われる」とある。ここで、心にピクンと来るところがあった。大学入学直後に味わった小さな挫折感と、そのトラウマがかすかにうずいたのである。

 山形から上京した18歳の私は、すこぶる小生意気な若者だった。周りにも同種の人間がたくさんいた。そうした新入生の鼻っ柱をへし折ってやろうとしたのだろう。英語担当の助教授は教材として、コンラッドの短編『文明の前哨地点 An Outpost of Progress』を使った。19世紀末の作品なので、英語そのものが難しい。内容はもっと難しい。辞書で単語の意味は分かっても、何が書いてあるのか、何を言いたいのかほとんど分からなかった。

 その助教授の試験問題がまた、難しかった。設問も英語で書いてあり、作品の意味が分からなければ答えられないものだった。当然のことながら、ボロボロの赤点。英語にはいささか自信があった田舎育ちの18歳はいたく傷ついた。そして、助教授の目的は見事に達成された。落第しないために、学生たちは彼の後期の授業に必死で取り組まざるを得なくなったからだ(後期の試験は極端に簡単で、平均すれば合格点を取れるように配慮してあった)。

 そんな古傷を思い出しつつ、「訳者まえがき」に惹かれて購入し、読みふけった。ベルギーのかつての植民地、コンゴの奥地に小さな蒸気船(川船)の船員として赴いたコンラッド自身の体験に基づいて書かれた長編小説である。訳文が練れているので、日本語としては読みやすいのだが、内容は相変わらず難しい。正直に言えば、まだよく理解できないところがそこかしこにあった。けれども、途中でやめることはできず、読み通した。人の心の奥底を抉り出すようなところがある、と感じたからだ。

 解説を読んで、英国人の作家と思っていたコンラッドが実は没落ポーランド貴族の末裔で、英国に帰化してからも英語を流暢にはしゃべれない、特異な作家だったこと、ベトナム戦争を題材にした映画『地獄の黙示録』がこの『闇の奥』を下敷きにしていたことを知った。人間とはどういう生きものなのか。文明とは何か。野蛮とは何か。『闇の奥』も『地獄の黙示録』も、それを透徹した目で見つめ、描いた作品だった。「18歳の若者に理解できないのも無理はない」と今にして思い、古傷が少し癒やされたような気がした。

 翻訳した藤永茂(ふじなが・しげる)という人がまた面白い経歴の持ち主だった。1926年、旧満州の長春生まれ。九州大学理学部の物理学科を卒業し、1968年からカナダ・アルバータ大学教授、とあった。著書に『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)とあるので、これも取り寄せて読んでみた。今年の9月にコロラドとテキサスを訪れ、かの地の開拓の歴史を少しかじり、インディアン殺戮のすさまじさを知ったばかりなので、興味津々で読み始めた。こちらは小説ではなく、アメリカ史における開拓とインディアンがたどった運命を綴ったノンフィクションである。「読みたい」と思っていた内容が書き記してあった。

 1620年の秋にメイフラワー号でアメリカ大陸(マサチューセッツ州プリマス)に渡ったイギリスの移民101人は冬の厳しさに耐えられず、その半数が春を待たずに死んだこと。先住民であるインディアンたちは困窮する彼らを見捨てることなく、生きる術を教えたこと。翌年の秋、移民たちは豊かな収穫に恵まれ、インディアンと共に祝った。この時の祭りが「感謝祭(サンクス・ギビングデイ)」として定着していった、と記してあった。本のテーマは、藤永氏が記す次の一節に要約されている。

 「飢えた旅人には、自らの食をさいてもてなすというインディアン古来の習慣にしたがって、彼(白人の入植地一帯を支配していたインディアンの指導者マサソイト)はピルグリムを遇した。しかし、ピルグリムたちの『感謝』は、インディアンの親切に対してではなく「天なる神」へのみ向けられていたことが、やがて痛々しいまでに明らかになる」(同書p29)

 その後の叙述は、銃と馬を持つ欧州からの移民たちがいかにしてアメリカ・インディアンを古来の土地から追い払い、殺戮し、開拓を続けていったかの物語である。血みどろの戦いの末にインディアンたちは西へ西へと追い立てられていった。戦闘は女性や子どもをも巻き込み、しばしば虐殺の様相を呈した。その描写はおぞましいほどである。やがて、インディアンたちは「居留地」というゲットー(収容所)へと押し込められ、細々と生きていくしかなくなった。藤永氏は、アメリカ・インディアンの社会を次のように描く。

 「(彼らは)自分たちをあくまで大自然のほんの一部と見做し、森に入れば無言の木々の誠実と愛につつまれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心とに支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた人間たちの声がきこえて来るに違いない」(同書p252)
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18世紀末から19世紀初めにかけてインディアン諸部族の連合を率いて白人と戦った指導者テクムセ(テカムセとも表記)S:Wikipedia

 藤永茂氏は量子化学者である。その彼がなぜ、ジョセフ・コンラッドの作品と彼の思想にのめり込み、アメリカ・インディアンの運命にかくも深く身を寄せていったのか。それは、コンラッドがアフリカ・コンゴのジャングルの奥深くで観たものと同じものをアメリカ・インディアンがたどった歴史の中に観たからではないか。そして、藤永氏の言葉を借りれば、それは「現在、我々の直面する数々の問題と深くかかわっており、我々がそれによって生きる価値の体系の問題であり、人間がしあわせに生きるとはどういうことかという切実な関心事と深くかかわっている」(同書p3)からにほかならない。

 19世紀のコンラッドの作品も、同じ時期にヨーロッパからの移民に追われ、死んでいったアメリカ・インディアンたちの物語も、少しも色あせることがない。なぜなら、21世紀を生きる私たちもまた、一人ひとりが同じ根源的な問いを突き付けられ、日々、選択を迫られながら生きていかなければならないのだから。
(長岡 昇)

 《注》白人の西部開拓・入植に武力で抵抗したインディアン諸部族連合の指導者テクムセ(テカムセ)について詳しく知りたい方は、次のウィキペディアURLを参照してください。
▽日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB
▽英語版 http://en.wikipedia.org/wiki/Tecumseh



 
*メールマガジン「小白川通信 8」 2013年10月25日

 戦争が人の心に刻むものはかくも深く、重いものなのか。庄内町余目(あまるめ)の乗慶寺(じょうけいじ)にある「追慕之碑」の前に立つと、あらためてそう思い知らされる。

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生き延びた将兵が建立した「佐藤幸徳将軍追慕之碑」=山形県庄内町余目の乗慶寺


 第2次大戦の末期、旧日本軍は戦局の打開をめざして、ビルマ(ミャンマー)から英領インドの北東部に攻め込んだ。「インパール作戦」として知られるこの戦いで、各部隊は3週間分の食糧しか与えられず、「足りない分は敵地で確保せよ」と命じられて突進した。戦いは長引き、雨期が始まり、兵士は飢えと熱病で次々に倒れていった。退却路は「白骨街道」と化し、数万人が戦病死した。

 この作戦を担った師団の一つを率いたのが余目出身の佐藤幸徳(こうとく)中将だった。彼は補給もせずに突撃を命じる軍上層部の対応に憤り、戦闘の最中に独断で師団の撤退に踏み切った。生還した佐藤師団長は「精神錯乱」の汚名を着せられ、ジャワ島に左遷された。戦後も、旧軍幹部から「この独断撤退によって戦線が崩壊し、作戦そのものも失敗に終わった」と指弾された。

 だが、彼の下で戦った将兵は違った。「もともと成功の見込みのない無謀な作戦だった。師団長が撤退を決断したからこそ、われわれは生き延びることができた」と慕った。そして、戦争が終わって40年たってから「追慕之碑」を建立したのである。

「復員後も、幸徳さんに対する世間の目は厳しかったようです。長くかかりましたが、ようやくきちんと評価されるようになりました」と、余目の本家を継いだ佐藤成彦(しげひこ)さん(66)は語る。

 トゲトゲしかった日英両国の元軍人たちの関係も変わった。長い時を経て、互いに手を差し伸べるようになってきた。佐藤師団長が取り持つ縁で、来月には庄内町の有志が訪英して元軍人やその家族と語り合う。
(長岡  昇) 
                  (コラム「学びの庭から」はこれで終わります)
    
 *10月25日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(6)
   
      *      *      *

 短いコラムなので触れることができませんでしたが、実はニューデリーに駐在していた1994年に、私はインパールを訪れたことがあります。この年は悲惨な退却行で知られる「インパール作戦」から50年の節目にあたり、日本から「これが最後の機会」と思い定めた慰霊巡拝団が多数、現地入りしました。その慰霊団への同行取材でした。

 インドでは取材規制がほとんどなく、原則としてどこでも自由に行けたのですが、インパールを含む北東部については当時、内務省がジャーナリストの立ち入りを厳しく制限していました。インドからの独立を求める分離派ゲリラによる武装闘争が続き、治安がかなり悪かったことに加えて、「独立派の主張を海外メディアに報道されるのは不愉快だ」という中央政府の意向もからんでいたようです。

 「これを逃せば、在任中にインパールに行く機会はない」と考え、内務省の担当者のもとに「入域許可を出してほしい」と日参し、日本大使館からも「慰霊の旅を取材するのだから便宜を図ってほしい」と要請してもらって、出発前日の夕方にやっと許可を得た記憶があります。ハンコを捺す時の内務省幹部の渋面を今でも覚えています。

 その時のルポ記事は、NPO「ブナの森」の「雑学の世界」にアップしてありますが、取材にあたっては事前にインパール作戦のことをかなり詳しく調べました。文献の中で最も詳しく信頼性が高いのは、防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書 インパール作戦』(朝雲新聞社)でした。英国側の資料にも丹念に当たっており、バランスがいい。作戦に従軍した朝日新聞記者、丸山静雄氏が戦後40年たってから出版した『インパール作戦従軍記』(岩波新書)も深いものを感じさせる本でした。

 ただ、困ったのは、これらの本を読んでも「インパール作戦ではいったい何人亡くなったのか」が分からないことでした。作戦に参加した陸上兵力は8万5600人。そのうち、3万人から4万人前後が死亡したと推定されるのですが、判然としません。明確にズバッと書いている資料もありましたが、そちらは信頼性に難がありました。

 調べるうちに、なぜ死者の数が分からないのか、おぼろげながら見えてきました。もともと弱体化していた日本軍のビルマ方面軍(作戦開始時で31万6700人)は、インパール作戦の大失敗で全体がボロボロになりました。そして、態勢を立て直すいとまがないまま、反攻してきた英軍と激戦になり、その後の「イラワジ会戦」などでさらに多くの犠牲者を出してしまいました。その結果、どの戦闘で誰が死亡したのか、生存者と死者、行方不明者の把握すらできない状態に陥ってしまった、というのが真相のようです。

 アジア太平洋戦争では、あちこちの戦場で部隊が玉砕しました。ガダルカナル島やフィリピンの島々のように餓死者が大量に出た戦場もあります。だが、「戦後何年たっても死者の把握すら十分にできない」という戦場はほかにないのではないか。インパール作戦は実に悲惨でみじめな戦いでした。作戦を主導した第15軍の牟田口廉也(むたぐち・れんや)司令官は、その責任を負うどころか、戦後も「あと一息で英軍を倒せたのに、第31師団の独断撤退で勝機を逸した」と自己弁護に余念がありませんでした。それが生き残った将兵の怒りを一層かき立て、戦友会の結成や運営にも影を落としたようです。

 このルポ記事の執筆から19年たって、独断撤退した佐藤幸徳中将が故郷の山形県出身であることを、今回ひょんなことから知り、コラムで紹介させていただきました。きっかけについて書くと長くなりますので、「山形大学と英国の大学との留学生交換交渉の過程で知った」とだけ記しておきます。人と人とのつながりの不思議さを感じさせられた取材でした。

*メールマガジン「小白川通信 7」 2013年10月5日

 山形県の内陸部にある私の故郷の朝日町では毎日、午前11時半になるとサイレンが鳴り響く。今では「もうすぐお昼ですよ」くらいの意味しかないのだが、かつてはもっと大きな役割を担っていた。

 新潟県境に近い、山あいの町である。農民は山に入って杉林の下草を刈り、山腹の畑で作物を作っていた。小さな湧き水を頼りに棚田で稲作をしている農家もあった。腕時計などない時代、農民はこのサイレンで昼近くになったことを知り、山から下りて家に戻り、昼食を摂っていた。多くの村人が自宅から歩いて30分ほどかかる山の中で仕事をしていたのである。

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棚田では稲刈りが終わり、脱穀が始まっている=山形県山辺町大蕨で(10月5日)


 経済成長が終わり、農業の担い手が減るに従って、まず山仕事が続けられなくなり、山の中の畑や田んぼが放棄された。それでも、村人たちは里山のふもとにある田んぼだけは何とか耕作し続けた。数百年にわたって人々はコメによって命をつないできた。先祖伝来の田んぼは「命」そのものだったからだ。その命も全部は守れなくなり、休耕田があばたのように広がり続けているのが今の農村の姿である。

 その後、みんな腕時計を付けるようになった。農作業の多くも自宅近くの田んぼか果樹園になった。午前11時半にサイレンを鳴らす必要はもうないのだが、まだサイレンを鳴らしている。朝日町だけでなく、近隣の町でも続けているところがある。サイレンの音は変わらないのだが、かつては活力に満ちていた音が今ではやけに寂しげに聞こえる。

 里山を歩き回るたびに、「もったいないなぁ」としみじみ思う。広大な山々が利用されることなく荒れ果て、山の中の畑と田んぼの多くは原野に戻ってしまった。福島での原発事故の後、人々が暮らしていた町や住宅地、田んぼが雑草だらけになっている風景が映し出され、都会の人は驚いているが、日本の農村の山はかなり前から同じような状態になっていた。全国あまねく、そんな風になったので、誰も気にしなかっただけだ。

 4年前に新聞社を早期退職して故郷に戻ってから、ずっと「この里山をなんとか活用できないものか」と思ってきた。そして最近、同じような思いを抱いている人が大勢いて、「里山を基盤に暮らしを立て直す試み」を始めていることを知った。日本総合研究所の藻谷(もたに)浩介氏とNHK広島取材班の共著『里山資本主義』(角川ONEテーマ21)に教えられた。この本はもちろん、「農村での自給自足を旨としていた昔に帰れ」などと呼びかけているわけではない。その訴えはもっと深い。

 商人が財を蓄えて経済を引っ張る商業資本の時代から産業革命による工業化を経て、資本主義は「カネがカネを生むマネーの時代」に入って久しい。その最先端を走っているのがアメリカの資本主義である。1%の金持ちが多くの富を集め、普通の人との極端な「富の分配の格差」をなんとも思わない。それどころか、「才覚のある人間が多くの報酬を受け取るのは当然のこと。それを非難するのはただのやっかみ」と公言してはばからない。「世界経済はアメリカの基準によって再編されるべきだ」とも唱えている。社会と経済のグローバル化は避けがたい流れなのだろうが、それがこういう人たちの論理と基準で推し進められてはたまらない。

 「そんな資本主義でいいのか」と問いかけ、里山を生活の基盤とする新しい生き方を提示しているのがこの本だ。都会で猛烈社員として働いていた若者が退社して山口県の周防(すおう)大島に移って無添加のジャムを作る店を出し、繁盛している。規格外として都会に出荷できなかった柑橘類も活用しているところがミソだ。

 中国山地の山あいにある岡山県真庭(まにわ)市では、建築材を作るメーカーが製材の際に出る木くずをペレット(円柱状に小さく固めたもの)にして燃やし、発電や暖房に使うビジネスモデルを確立した。工場で使う電力をすべて賄えるようになり、地元の役場や小学校の暖房もボイラーでこのペレットを燃やして行う。エネルギー源を外国に頼る必要がなくなり、そのほとんどを地元にあるもので賄えるようになった。広大な山林を背負っており、持続可能な範囲で山の資源を使っているので、枯渇するおそれもない。

 広島県の庄原(しょうばら)市には、ペレットに加工するなどという難しいことをしなくても、薪を効率良く燃やす「エコストーブ」を開発することで燃料費を大幅に減らすことに成功した人たちがいる。彼らはこれを「笑エネ」と呼び、年寄りは「高齢者」ではなく「光齢者」なのだと言う。与えられた条件の中で、明るく、前向きに生きる。

 実は、こうした試みをずっと前から国家ぐるみで展開している国がある。オーストリアである。本では、その実情も紹介している。欧州の真ん中で何度も戦争の惨禍をくぐり抜けてきたこの国は、エネルギーを外国に頼る危うさを自覚し、原子力発電のリスクを認識して、国内に豊富にある木材資源を最大限に活用する道を選んだ。国レベルでも実行可能な選択肢なのである。

 エコノミストの藻谷氏は「経済全体を里山資本主義に転換しよう」などという非現実的なことを唱えているわけではない。社会を「マネー資本主義」一色に染め上げるのではなく、こうした「里山資本主義」もサブシステムとして採用し、強欲な資本主義にのめり込むのを防ぐバランサーとして広げていこう、と呼びかけているのだ。実に説得力のある主張である。

 先のメールマガジンでお伝えしたように、山形大学と留学生の交換協定を結んでいる米コロラド州立大学と話し合うために9月下旬にコロラド州のフォートコリンズを訪れた。そこでも、この里山資本主義と重なるような企業活動が始まっていた。

 同州の「モーニング・フレッシュ乳業」という会社は、無農薬の牧草で育て、成長ホルモン剤などを一切使わないで飼育している乳牛から搾乳し、それを戸別配達している。有機農業の酪農版である。別の企業は紙コップをリサイクル資源で作り、「小さな選択が社会を変える」と呼びかけていた。地元の企業とコロラド州立大学の研究者たちが手を組み、次々にベンチャーを立ち上げている。マネー資本主義の本家でも「このままでいいのか」と、造反の炎が上がり始めているのだ。

 現在の米国スタイルの資本主義を「強欲な資本主義 Greedy Capitalism」とするなら、里山資本主義は「穏やかな資本主義 Green Capitalism」と呼べるのではないか。「グリーン」には「(気候などが)穏やかな」という意味もある。「持続可能で環境にやさしい」というニュアンスも含む。英語のスローガンにするなら、
 From Greedy Capitalism to Green Capitalism
といったところだろうか。

 こうした営みが大都市の近くではなく、地方、それも過疎と高齢化に苦しむ辺縁の地で始まり、広がりつつあるのはある意味、当然のことであり、この国の希望でもあるような気がする。なぜなら、大都市に住み、アメリカに視線を注ぎながら未来を考えている人たちには自分たちの足許で何が起きているのか、分からなくなっているからである。

 2020年の東京五輪開催に血道をあげ、開催が決まったことに浮かれている人たちに言いたい。関東大震災が起きたのは1923年(大正12年)、今から90年前のことである。首都の直下には大きなエネルギーがたまっており、いつ次の大地震が起きてもおかしくない状況にある。東京の防災態勢がまだまだ不十分で、巨額の投資が必要なことについて防災専門家の間で異論はなかろう。東南海、南海地震への備えも膨大な資金を必要とする。貴重な血税は地震や津波に備え、一人でも多くの命を救うためにこそ使われなければならない。お祭りに巨費を投じる余裕が、今、この国にあるのか。
(長岡 昇)

  《追伸》文中でご紹介した山口県周防大島のジャムのお店は「瀬戸内ジャムズガーデン」といいます。そのホームページも、すごく楽しそうです。店名のところをクリックして、ぜひご覧になってください。



*メールマガジン「小白川通信 6」 2013年9月30日


 山形県は米国の中西部にあるコロラド州と友好の盟約を結んでいる。山形には奥羽山脈、コロラドにはロッキー山脈がある。白銀の峰々が両者を結び付けた。

 山形大学とも縁が深い。コロラド州立大学と留学生の交換協定を交わしており、この5年間で9人の山大生が留学した。もっとも人気のある大学の一つである。留学した学生たちはどんな暮らしをしているのか。実情を知り、州立大学の教職員との交流を深めるため、同州フォートコリンズにあるキャンパスを訪ねた。

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昼食後、芝生で車座になって福祉政策を論じる大学院生たち=コロラド州立大学で


 すでに朝晩は冷え込みが厳しく、構内のニレの木はうっすらと色づき始めていた。学生は約3万人。山形大学の3倍以上だ。昨年度に受け入れた留学生は1500人を上回る。受け入れ数の国別順位が興味深い。1位の中国と2位インドは予想通りだが、3位がサウジアラビア、4位ベトナム、5位韓国と続き、日本はなんと6番目だ。米国全体でも似た傾向にある。これでは、日本政府としても「留学生の大幅増を」と号令をかけたくなるだろう。声を張り上げるだけではなく、渡航費用の一部を支給するなど留学の支援態勢をぐんと強化する必要がある。

 留学するのは語学に自信のある学生が多いが、それでも英語で行われる講義を理解し、参考文献を読みこなすのは容易なことではない。渡米後しばらくは、大学内の語学コースで学習に励むケースが多い。3人の山大生も会話力の向上に努めていた。

 学園都市のフォートコリンズは「米国で一番暮らしやすい街」と報じられたことがある。留学担当のローラ・ソーンズさんは「気候が穏やかで、犯罪も少ないからでしょう」と語った。とはいえ、この大学にも自前の警察部隊があり、銃を携行した要員が構内を巡回している。「治安の風土と感覚」が日本とはまるで異なることを忘れてはなるまい。
(長岡 昇)

 *9月27日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(5)から。見出しは紙面とは異なります。

      *      *      *

 紙幅の関係で、コラムではコロラド州立大学への留学生の国別内訳について詳しく触れることができませんでした。昨年度ではなく、最新の2013年秋学期の留学生1506人の内訳は次の通りです(大学生と大学院生の合計。3?4週間の夏季集中講座に参加した留学生も含む)。
▽中国 443人▽インド 213人▽サウジアラビア 188人▽ベトナム 57人▽韓国 50人▽リビア 42人▽イラン 30人▽オマーン 28人▽クウェート 27人▽台湾 24人▽英国 22人▽タイ 19人▽コロンビア 18人▽オーストラリア 17人▽ブラジル 17人▽マレーシア 16人▽日本 13人
 (この数字はコロラド州立大学のホームページのデータから拾ったものです。ほかの国と違って、インドの留学生はほとんどが大学院生です。日本からは学部生9人、大学院生4人)

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コロラド州立大学の語学(英語)コースの授業風景


 この大学に留学している山形大学の学生(3人)によると、日本人留学生の数があまりにも少ないので中国や韓国、アジア・中東の留学生は不思議がっているそうです。「日本に関心を持っている留学生が多いので、日本人と知り合いになりたがっていてモテモテです」と話していました。

 テキサス大学アーリントン校(州立)への留学生3556人の国別内訳は次の通りです(2012年秋学期)。
▽インド 825人▽ネパール 387人▽中国 225人▽韓国 159人▽ベトナム 146人▽バングラデシュ 98人▽ナイジェリア 85人▽タイ 46人▽台湾 43人▽メキシコ 43人。
 
 日本からの留学生は24人。トップ10に入っていないため、順位は不明。10数位か20数位と思われます。あとで精査してみます。なお、ネパールからの留学生が飛び抜けて多いのはテキサス大学アーリントン校の近くにネパール人のコミュニティーがあり、母国から留学生を呼び寄せているから、とのことでした。

 日本からのアメリカへの留学生は東部や西海岸の大学に進むケースが多いので、米国全体の留学生国別内訳では、日本の順位はもう少し上がるようです。統計がいくつかありますが、「フルブライト・ジャパン(日米教育委員会)」の調査(2011?2012年)によると、日本の留学生数は7位です。
http://www.fulbright.jp/study/res/t1-college03.html

 こうした国別順位については、さまざまな受け止め方があると思いますが、若者が異なる土地で異なる文化の下で育った人々と触れ合い、学識を深めることはとても大切なことだと考えます。「米国への留学は減っているが、よその地域への留学は増えている」ということならいいのですが、そうではなく、全体として日本の若者の留学が減り続けています。若者の資質や気力の問題だけではなく、日本の社会から留学を後押ししようとする気概と活力が失われつつあるように思います。その流れに抗することはドンキホーテ的かもしれませんが、微力を尽くすつもりです。

 今回の出張で、米国の大学はますます「富める者の学び舎」になりつつあることも確認できました。州立大学でも授業料は年間100万円から百数十万円と、日本の公立大学の2倍ほどです。(山形大学の学生は留学生交換協定に基く派遣のため授業料は免除)。ハーバード大学やイェール大学などのいわゆる「アイビーリーグ」の大学はすべて私立ですから、授業料はさらに高く、州立大学の数倍です。各種の奨学金制度があるとはいえ、それを享受できる人数は限られており、米国の有力大学の実態は「特権階級の子弟のための教育機関」と言わざるを得ません。

 教科書代もやたらに高く、多くの大学生が入学と同時に教育ローンを組み、アルバイトに追われながら学んでいます。勉学に真剣にならざるを得ないのです。テキサス大学アーリントン校の国際教育担当者は「アメリカの大学生は入学と同時に『奴隷状態』 the beginning of slavery になってしまうのです」と嘆いていました。

 日本にしろ、アメリカにしろ、また伸び盛りの国々にせよ、次の時代を担う若者をどう教育しようとしているのかをつぶさに見れば、その社会の在りようがあぶり出されてくるような気がします。



*メールマガジン「小白川通信 5」 2013年8月30日


 幸せとは何だろうか。高山良二さんがカンボジアの子どもたちと一緒にほほ笑んでいる写真を見ると、そんなことをしみじみと考えてしまう。

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地雷処理をしている村の子どもたちと高山良二さん=カンボジア・バタンバン州で、ソックミエンさん撮影


 カンボジアは、この半世紀で最も悲惨な歴史を刻んだ国の一つである。戦乱に次ぐ戦乱。1970年代には、ポル・ポト政権の下で大虐殺があった。平和を取り戻した後も、地雷や不発弾が多数残り、苦しみ続けている。高山さんは20年前、自衛隊員として国連の平和維持活動に加わり、この国を初めて訪れた。「強烈な体験でした。45歳で人生のスイッチが入った」と言う。

 定年後、今度はNPO(非営利組織)の代表として再訪し、地雷処理に取り組んでいる。6月中旬、山形大学の市民講座の講師としてお招きし、体験をお聴きした。「地元の若者を訓練して、自分たちで地雷を処理できるようにする。私が消えても続く。それが目標です」と語った。故郷愛媛県の人たちの支援を受けて、地域おこしにも力を注ぐ。井戸を掘り、学校を建て、地元産のキャッサバで焼酎も造った。

 与えるだけではない。カンボジアの農村から、今の日本の姿が見えてくることもある。貧しい暮らしながら、村ではいがみ合いや言い争いがほとんどない。5人分の料理しかないところに7人がやって来ても、ちっとも慌てない。「奪い合えば足りませんが、分け合えば余りますよ」と言い、実際、最後にはいつも少し余るのだった。

 そうした姿を見て、高山さんは思う。「お金の風船がどんどん膨らんで、日本は世界で2番目の金持ちになりました。けれども、私たちの心の風船はしぼんでしまったのではないか。他人を思いやり、助け合う心を忘れてしまったのではないか。しぼんだ風船を、またみんなで膨らませたい」

 もう一度、写真を見る。高山さんも、子どもたちも、なんと満ち足りた笑顔だろう。
(長岡 昇)
 
 *7月12日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(3)
  見出しは紙面とは異なります。
 *高山さんが代表を務めているNPOは「国際地雷処理・地域復興支援の会(1MCCD)」といいます。
  青字のところをクリックすると、ホームページに移動できます。

*メールマガジン「小白川通信 4」 2013年8月16日

 もしアメリカと戦争をしたら、どうなるのか。
 近衛文麿内閣の時につくられた総力戦研究所が日米の軍事力や工業力をもとにシミュレーションをし、その結果を閣僚や軍首脳に報告したのは昭和16年の夏、開戦4ヵ月前のことである。

 若手の高級官僚や将校、敏腕記者ら36人の研究生が出した結論は「日本必敗」だった。「奇襲に成功すれば緒戦は勝利が見込めるものの、いずれ長期戦になる。総合的な国力の差は明らかで、物量に劣る日本に勝機はない。戦争末期にはソ連の参戦も予想され、敗北は避けられない」
 報告を聞いた東条英機陸相は「実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない。意外なことが勝利につながっていく」といなしたが、その顔は青ざめていたという(猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』)。

 歴史に照らせば、彼らの予測は驚くほど正確だった。だが、戦争への流れを押しとどめることはできなかった。そして、後の世代は、この俊英たちですら見通せなかったものがあったことを知る。その一つが軍事力や工業力にも増して「総合的な知力の差」が大きかったことである。

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小白川キャンパスで現代史の講義を聴く学生たち=山形大学提供

 山形大学での現代史の講義で「第2次大戦と暗号」を扱った。日本が「鬼畜米英」とさげすみ、敵性語を排斥していた時に、相手は日本語と日本文化の研究に全力を注いだ。そして、数学者や物理学者と力を合わせて日本側の暗号を解読してしまったのである。企図が筒抜けの中で戦われた戦争。しかも、日本の暗号が解読されていた事実が公表されたのは、戦争が終わって実に30年もたってからだった。

 「暗号とか情報とかに関して、今の日本の力はどうなっているんでしょうか」。授業を受けた学生の一人から質問を受けた。「もちろん、昔よりずっと良くなっている」と答えたいところだが、正直に言えば、そう答える自信はまったくない。
(長岡 昇)

 *8月16日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(4)に加筆

      *      *      *

 「第2次大戦と暗号」の授業では、日本語で「暗号」と翻訳される英語にはcypher(文字のレベルで行われる置き換え)とcode (単語や語句のレベルで行われる置き換え)の二つがあること、暗号の解読ではその言語特有の使用頻度が一つの鍵になる、といった基本的なことから説き始めた。

 例えば英語の場合、もっとも多く登場する文字はe(12.7%)であり、次がt(9.1%)。使用頻度がもっとも少ないのはqとzで0.1%であることが知られている。ドイツ語や日本語にもそれぞれ特有の使用頻度がある。英米は分担、協力しながらドイツと日本の暗号解読に取り組んだ。

 暗号の解読にはこうした語学や文化の研究に加えて、数学や数理解析、物理や工学の英知を総動員しなければならない。英米は電気式(リレー式)の計算機を創り出して解読に使い、戦争が始まった後には真空管を使った電子計算機を発明して活用した。戦時中の暗号解読競争が計算機の性能を飛躍的に向上させ、戦後のコンピューター技術の基礎を築いたと言っていい(大駒誠一著『コンピュータ開発史』共立出版)。

 英米の知力のすごさを感じるのはむしろ、戦後である。コラムでも触れた通り、彼らは日独の暗号を解読していたことを1970年代まで隠し通した。1977年に米国の天才的な暗号解読者、ウィリアム・フリードマンの伝記が出版されるに及んで、英米当局は渋々、解読作戦の概要を公表した。それによって、日本外務省の暗号はアジア太平洋戦争が始まる前から完全に解読されていたこと、日本海軍の最高機密暗号も戦争が始まって間もなく、ほぼ解読されていたことが判明した(R・W・クラーク著『暗号の天才』新潮選書)。

 戦後30年余り、日本の旧軍人たちは「我々の暗号は解読されていたのではないか」「いや、そんなはずはない」といった論争を延々と続けた。そうした記録を読むと、虚しさを通り越して激しい脱力感を覚える。その後も、個別の技術や文化の面ではともかく、総合的な知力という面での差は埋まることはなかった、と考えるしかない。

 学生たちの反応で興味深かったことの一つは「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたが、あえて目をつぶり、米国世論の怒りをかき立てる道を選んだ」という、いわゆるルーズベルト陰謀説を信じている学生が少なくなかったことである。中には「高校の歴史の授業で先生がそう言っていた」と言う者までいた。インターネット上では、いまだにこうした陰謀論が幅を利かせている。

 事実を一つひとつ掘り起こしていけば、そうした陰謀説には何の根拠もないことは明らかだ。日本の外務省の暗号をすべて解読したとしても、そこには「真珠湾攻撃」といった具体的な軍事作戦のことは全く出て来ない。当時の米側の記録によれば、彼らが想定していたのは主に「フィリピンの米軍基地への奇襲」である。真珠湾攻撃の可能性に触れた断片的な情報が事前にあったことは事実のようだが、それは数多くの雑多な情報の一つであり、信憑性を高める関連情報は何もなかった。「日本海軍に真珠湾を攻撃するような力はない」と米側が油断していたのは間違いない。

 暗号の講義は1回では終わらず、2回に分けて行った。「知の蓄積」という問題を考える格好の素材と考えたからである。講義の準備をしながら、暗号解読の重要な鍵の一つである「言語の使用頻度」という着想が、中東社会のイスラム研究を通して得られたことを知って、私も驚いた。イスラム教の聖典『コーラン』や預言者ムハンマドの言行録を詳細に検討するために古いアラビア語の研究が積み重ねられ、アラビア文字の使用頻度に目が向けられたのだという(サイモン・シン著『暗号解読』新潮社、p34)。
 知の世界は広く、そして限りなく深い。



*メールマガジン「小白川通信 3」 2013年6月1日


 桜前線がようやく北海道の稚内に達し、かの地でも満開を迎えたという。「やれやれ」と感じ入っていたら、この山形にも、まだ桜を鑑賞できるところがあった。

 西川町の月山志津(しづ)温泉である。五色沼のほとりの宿で「峰桜(みねざくら)」が咲き誇っていた。もともと高山に生える桜らしく、ハイマツに似た姿をしている。「咲き方も変わってます。東から西へと咲いていくんです」と宿の主人が言う。確かに、東向きのところはすでに葉桜、色鮮やかなのは西側だけだった。

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宿の庭先で咲き誇る峰桜=5月24日、山形県西川町の月山志津温泉で


 志津温泉は県内でも有数の豪雪地帯として知られるが、この冬、温泉街の人たちの心をざわつかせる出来事があった。気象庁が「青森県の酸ヶ湯の積雪が566?になった。積雪の最深記録を更新した」と発表し、これを新聞やテレビが一斉に「国内最高」と報じたからだ。

 心がざわついて当然である。志津の積雪は例年、6?前後に達する。西川町の観測によれば、40年前には8?を記録した。「5?台で、何で国内最高なんだ」と言いたくもなる。気象庁に問い合わせると、担当者は次のように釈明した。「われわれはきちんと『アメダスの観測地点で記録された最深積雪を更新した』と発表したのです」

 アメダスによる自動観測体制が整ったのは1970年代である。観測地点は約1300しかない。志津に限らず、全国には酸ヶ湯温泉を上回る積雪記録はたくさんある。しかし、気象庁記者クラブの面々は、そんなことは気にも留めず「国内最高」と報じた。かくして「酸ヶ湯の積雪が日本一」となってしまったのである。
 
 志津の人たちの間から「それなら、ここもアメダスの観測地点にしてもらおう」という声が出ている。どんな形であれ、メディアで温泉の名前が報じられるのは効果抜群だからだ。もし「観測機器の設置費用も地元で負担する」と言い出したら、気象庁よ、どうする。
(長岡 昇)
  
*5月28日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」
    
      *      *      *

 山形県には市町村が35あり、すべての自治体に温泉があるのが自慢です。どこに行っても、ゆったりと湯船につかることができます。ただし、地下深く1000?も2000?も掘って、最近になってお湯が出てきた「新興の温泉」より、やはり昔からの温泉場の方が趣は深い。

 そうした老舗の温泉の中でも、志津温泉は「霊峰月山」の山懐に抱かれた「地の利」に加えて、五色沼の静かなたたずまいと湖畔のブナ林が素晴らしく、私のお気に入りの温泉の一つです。首都圏からお客様を迎える時には、迷うことなく、この温泉の旅館「つたや」をお薦めしています。

 山菜や蕎麦などの料理も文句なしなのですが、悩みは冬の雪。例年、6?ほどの積雪があり、吹雪の日には辿り着くのも困難ということもあります。豪雪を活かした「雪旅籠(ゆきはたご)」のイベントや春の残雪トレッキングなどの企画を立てて奮闘していますが、やはり豪雪はハンディの一つです。

 せめて「豪雪を知名度アップの材料に」と思っても、気象庁のアメダスの観測地点になっていないこともあって全国ニュースにはなりにくく、青森の酸ケ湯(すかゆ)温泉の後塵を拝しているのが現実です。「及ばずながら応援したい」との気持ちで、このコラムを書きました。ぜひ、山形まで足を延ばし、月山志津温泉を訪ねてみてください。

 *この冬、酸ケ湯温泉の積雪566?が「国内最高」と報じられた背景については、今年3月4日のメールマガジン「おおや通信 101」でも詳しくお伝えしました。カヌーによる地域おこしをめざすNPO「ブナの森」のホームページに掲載していますので、ご参照ください。




*メールマガジン「小白川通信 2」 2013年5月21日


 学識深く、人品いやしからざる人も、あまりに深く政府や官僚と付き合うと、我を見失い、そのお先棒担ぎに堕してしまうことがある。しばしば指摘されることではあるが、その実態が赤裸々に暴露されることは滅多にない。権謀術数にたけた官僚たちが巧みに蔽い隠し、見えなくしてしまうからである。

 その意味で、5月19日付の朝日新聞朝刊1面に掲載された「経産省、民間提言に関与」のスクープは、地味な内容ながら実に小気味いい、画期的な特ダネだった。読んでいない人のためにその概要を記すと、次のような記事である。

 「東大総長や文部大臣を務めた有馬朗人(あきと)氏を座長とし、経団連の元会長や電力会社のトップで作る『エネルギー・原子力政策懇談会』という民間の団体が『緊急提言』をまとめ、2月に安倍晋三首相に手渡した。その提言は原発の早期再稼働を求め、原発の輸出拡大を促すものだったが、提言の骨子や素案を作ったのは経済産業省の職員だった」

 もの知りの中には「政官業の癒着は今に始まったことではない。どこがニュースなのか」といぶかる人もいるかもしれない。それはその通りなのだが、癒着ぶりを事実を以って明らかにするのは容易なことではない。このスクープが画期的なのは、動かぬ事実を以ってそれを裏打ちし、報道した点にある。記事の中で、次のような証拠を突き付けているのだ。

 「朝日新聞は、提言ができるまでの『骨子』や『素案』などの段階のデータを保存したパソコン文書作成ソフトの記録ファイルを入手した。ファイルの作成者はいずれも経済産業省の職員だった」

 記録ファイルを突き付けられたからだろう。経済産業省資源エネルギー庁の幹部は記者に対し、資源エネルギー庁原子力政策課の職員が提言のもとになる文書を作成したことを認めた。そのうえで、「打ち合わせのメモを作ったり、資料を提供したりすることは問題ではない」と釈明している。そう言い繕うのが精一杯だったのだろう。

 経済産業省の文書作成記録ファイルを見ることができるのは、経産省の中でもコンピューターのシステムに詳しく、アクセス権限を与えられたごく一部の人たちである。そのうちの誰かが新聞記者に関係ファイルを提供したのだ。どのような心境、どのような動機で提供したのかは本人しか知り得ないことである。だが、東日本大震災と福島原発事故の後の動きを見れば、想像するのは難しいことではない。

 原発事故であれだけの惨事を引き起こしたにもかかわらず、政官業の中には原発の再稼働と輸出促進を求める声が渦巻き始めている。安倍政権の発足で、渦巻はますます勢いを増しそうな気配だ。経産省の中にも「心ある官僚」はいる。「これでいいのか」と思い悩んでいる人が少なからずいるに違いない。

 内部の文書作成記録ファイルを新聞記者に渡すことは、形の上では国家公務員法違反になる。いわゆる「守秘義務」違反だ。発覚すれば、懲戒の対象になる恐れがある。下手をすれば、職を失う。その危険を冒してでも「全体の奉仕者であるべき公務員が『原発推進』を唱える民間団体の提言作りを後押しするのはおかしい」と考え、告発するに至った、と考えられる。

 この国で生きる限り、この国の法律は守らなければならない。しかし、人には法律よりも大切なものがある。それは、自らの良心であり、「世のため人のため」という気概である。新聞記者であれ、公務員であれ、それは変わらない。ましてや、相手が「公務員は全体の奉仕者たれ」という根本を忘れて「暴走」した場合は、それを告発することこそ、人としての務めだろう。記録ファイルをメディアに渡す決断をするまでには葛藤もあったに違いない。勇気ある告発に敬意を表したい。

 告発する側は、誇張ではなく、職を賭し、人生をかけて告発に踏み切る。当然、どこに告発するかも熟慮する。その告発先が古巣の新聞だったことは、掛け値なしに嬉しい。原発事故とその後の被災者の苦しみについて、「プロメテウスの罠」という連載で粘り強く書き続けていることが告発者の胸にも届いたのだ、と信じたい。

 あらためて、問題の「提言」を読み、その関連の資料にも目を通してみた。提言をした「エネルギー・原子力政策懇談会」の前身は、2011年2月(東日本大震災の直前)に発足した「原子力ルネッサンス懇談会」という団体であることを知った。この団体は、原発事故後の反原発の動きに危機感を抱き、事故の1カ月後には「原子力再興懇談会、あるいはエネルギー政策懇談会などに名称変更して提言をまとめたい」と表明していた。事故収束のめども立たず、被災者が逃げ惑っている時に、もう「再興」を唱えていたのである。

 その提言の内容もお粗末なものだ。官僚の「昔の歌」をなぞっているに過ぎない(官僚が下書きしているのだから当然だが)。一番大きな問題は、原発政策を進める場合、必ず立ちはだかる「放射性廃棄物の最終処分をどうするのか」という難題にまったく触れていないことである。「未来の世代」への責任をどうやって果たすのか。それに答えるどころか、触れようともしないことに、私は「人としての退廃」を感じた。そのような提言をした団体の代表を引き受け、名を連ねた人たちに憐れみを覚える。
(長岡 昇)





*メールマガジン「小白川通信 1」 2013年5月4日


 日本の近代化とその後の戦争について、学校でどのように教えるべきか。論客が入り乱れて、激しい議論が続いている。

「二度と戦争を起こしてはならない。そのためには、戦争に至った道筋とその悲惨な結末をきちんと教えなければならない」とリベラル派は説く。保守派は「あの戦争は日本が生き残るための自衛の戦争だった。自分の国をおとしめるような、自虐的な教育はもうたくさんだ」と反発する。どちらに軍配を上げるべきか。

 アフガニスタン戦争をはじめとして、いくつかの戦争や紛争を現場で取材した者として、私は戦争を美化する側に与(くみ)する気にはなれない。同時に、平和を唱えるだけで国際政治の厳しさに目を向けようとしない人たちにも、げんなりする。

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昼休みに技を披露する山形大学ジャグリング同好会のメンバー=山大小白川キャンパスで


 そもそも、近現代史は中学や高校で「きちんと」教えられているのか。歴史の授業は礼儀正しく、旧石器時代から古代、中世へと進む。そして、入試や卒業が迫る年度末になって、ようやく現代にたどり着く。教師も生徒も気はそぞろ。ほどなく卒業、である。

 「侵略戦争だったか否か」の論争ももちろん大事だが、そうしたことを考えるためには、歴史の大きな流れをバランス良く理解していなければならない。とりわけ、近現代史について、事実関係を正確に把握していなければならない。教育の現場で、そういう授業が十分に行われていないのではないか。

 小学校の校長を定年退職し、この春から山形大学で「グローバル世界を考える」という講義を担当することになった。現代から過去へとさかのぼる方法で、近代までの歴史を教え始めた。

 1回目の授業で「アジア太平洋戦争で日本人はどのくらい犠牲になったと思いますか」と問うてみた。「20万人くらい」とある学生が答えた。首をかしげて、別の学生に振ると、「50万人」。300万人を超える日本人が命を落としたことを認識している学生は、1人もいなかった。
 
 責めることはできない。彼らが想像力の翼を広げようとした時、その背中を押してあげなかったのは私たちではないか。
(長岡 昇)
 
 *5月3日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(1)に一部加筆

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 この春、大学に入学してきた1年生は平成6年(1994年)前後の生まれである。国際テロ組織、アルカイダが実行した9・11テロ(2001年)の頃には小学校に入ったばかり。おぼろげに記憶している学生が多少いる程度だ。

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ハイジャックされた旅客機がニューヨークの世界貿易センターに激突する状況を描いたイラスト(『テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う』草思社から)


 ベルリンの壁の崩壊に象徴されるソ連・東欧諸国の体制崩壊や冷戦の終結は、生まれる前のこと。ソ連の侵攻で燃え上がったアフガニスタン戦争もベトナム戦争も遠い過去の出来事だ。ましてや、第2次世界大戦など「記憶のはるか彼方」という状態にある。

 けれども、大学を卒業して社会に出て、広い世界で働くようになれば、第2次大戦や冷戦の傷跡がいたるところに残り、今なお疼(うず)いていることに気づかされる。そうしたことを大づかみに理解していないと、いらぬ誤解や摩擦を生んで苦しむことになる。

 にもかかわらず、中学でも高校でも現代史はあまり丁寧に教えられていない。コラムで指摘したように、古代から順々に教えていくため、現代史の部分は卒業が迫る年度末になり、教師も生徒も息切れしてしまうからだろう。現代史そのものが歴史として定まっていない部分が多く、教えるのが難しいという事情があるにせよ、「こんな状態でいいのか」と私はずっと思っていた。

 歴史教育に携わる研究者や教科書の執筆者の間では「侵略戦争か否か」や「従軍慰安婦問題」をめぐって激論が交わされているが、そもそも、より大きな事実関係をきちんと教えていないことの方がはるかに深刻で重大な問題ではないか、と私は言いたい。

 第2次大戦で何があったのか。時代の激流の中で、どれほど多くの人間が命を奪われたのか。どのようにして死んでいったのか。朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガニスタン戦争や湾岸戦争ではどうだったのか――そうした大きな流れについてのバランスの取れた教育こそ必要であり、それができて初めて、「では、これらの事実をどう受けとめるべきか」という段階に進む。それが自然であり、望ましい教え方ではないか。

 この春から、私が山形大学で担当することになったのは「グローバル・スタディーズ」という新設されたコースである。グローバル化された世界で活躍できる人材を育成するのが目的で、1人でも多くの学生を海外留学に送り出すことを目指している。私はそのコースの担当教授として期限付きで採用された。

 英語力の向上は、同時に採用された英国人(山形県在住)の准教授に頼る。フランス語やドイツ語、ロシア語、中国語は専門の教員がいる。私の役回りは学生たちに「海外留学に出る前に学んでおくべきこと」を示唆すること、と心得ている。まずは、学生たちの記憶にも生々しい東日本大震災と福島の原発事故のことから授業を始めた。

 タイトルは「被災者への称賛と為政者への失望」。身内を失いながら、より困窮している人たちへの心遣いを忘れなかった被災者の姿に世界は驚嘆した。同時に、首相官邸や中央官庁、東京電力の面々のぶざまな対応に愕然とした。それによって炙(あぶ)り出された日本社会の特質とは何か――それを考えることから始めた。

 次は、9・11テロを実行するに至ったイスラム勢力の思想。そして、冷戦後の世界を描いた「文明の衝突」論の鋭さと危うさ、冷戦の終結と社会主義諸国の体制崩壊、アフガン戦争とベトナム戦争、米ソ冷戦の実相、朝鮮戦争、広島・長崎への原爆投下、日本軍の無残な敗走(ガダルカナル、インパール)、英米による暗号解読と電算機技術の飛躍へと、時代をさがのぼっていく予定だ。

 我ながら、大それた試みだと思う。おまけに、素人なりに「日本人の美意識」についても語りたいと考えている。海外で学ぶなら、現代史を知ることに加えて、「自分たちの国のユニークさと面白さ」についても考え、自分なりに語れるようになっておくことが必須、と考えるからだ。前期の講義は15回。後期も素材を変えて「無謀な講義」に挑みたい。そういう授業があっていい、と考えるからだ。メールマガジンで折に触れて発信し、みなさまからの批判と助言を仰ぎたい。

 *この3月まで、校長をしていた大谷(おおや)小学校にちなんで「おおや通信」と題するメールマガジンをお送りしていましたが、勤務先が山形大学に変わりましたので、これからは大学の所在地の山形市小白川(こじらかわ)町にあやかり、「小白川通信」と改題してお送りします。