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大きなニュースがあれば、小さなニュースは吹き飛ばされてしまう。切ないけれども、それは避けられないことだ。

新聞の紙面には限りがある。テレビニュースにも時間の枠がある。新型コロナウイルスのような大きなニュースがあれば、ほかのことが入り込む余地は極端に少なくなる。取材する記者も「コロナ関連の話題」を追って走り回る。

そのあおりで影が薄くなってしまった県内ニュースの一つに、自民党の「次期知事選挙の候補者選び」がある。

山形県の吉村美栄子知事は2009年に自民党が支援する現職を破って初当選した。その後は無投票で再選、さらに三選された。政権党にとって、とりわけ保守基盤が厚い山形の自民党にとってつらいことである。このままズルズルと四選を許すのか。県民の関心は高い。

昨年9月、自民党県連の会長に就任した加藤鮎子衆院議員は「(3度目の)不戦敗はあり得ない」と述べ、2021年1月の知事選では独自候補を擁立する方針を明らかにした。「候補者は公募で決める」と宣言し、今年の2月末締め切りで候補者を募った。

山形市選出の大内理加(りか)県議がまず、名乗りを上げた。続いて、山形市出身で国土交通省から復興庁に転じた官僚の伊藤洋(よう)氏も意欲を示した。この頃までは、メディアも2人の経歴などを丁寧に報じていた。

ところが、3月末に山形県内でも新型コロナの感染者が確認されるや、報道は「コロナ一色」に染まっていった。公募に応じた2人による討論会を開くこともできない。暮らしや経済への影響が大きく、外出自粛が続く中ではやむを得ないことだった。

この間、実は深刻なことが進行していた。事情通によれば、知事選の公募に応じた2人について自民党本部が「身体検査」を実施したところ、片方は「候補者として不適格」という判定が下されていたのだ。

自民党の「身体検査」の主な判定基準は二つ、金と色、である。政治資金や資産についてはどちらも問題はなかったが、伊藤氏は2番目のハードルをクリアできなかったという。さまざまな噂が飛び交っているものの、確たることは分からない。

いずれにしても、3月下旬には「伊藤氏は降りる」という方向が固まっていた。山形新聞が「伊藤氏、公募申請を取り下げ」と短く報じたのは4月11日。本人が自民党県連の加藤鮎子会長あてに「一身上の都合で辞退する」と届け出た、という内容だった。

取材した記者は舞台裏で飛び交った話をたくさん聞いているはずなのに、1行も書いていない。「裏付ける証拠がないから」と言い訳するのだろうが、こんな書き方しかしないから「新聞離れ」が進むのではないか。

少なくとも、自民党本部の調査によって伊藤氏に「一身上の都合」が生じたこと、その結果、公募申請の取り下げに追い込まれたことが分かるように書くべきだろう。

伊藤氏が辞退したため、自民党は身内の大内理加氏を知事候補にかついで戦うしかなくなった。「選挙にめっぽう強い女性県議」ではあるが、それは選挙区の山形市内でのこと。米沢や鶴岡、酒田には何の足場もない。

「吉村知事の人気は高く、支持基盤も厚い。四選出馬を決めれば、大内氏に勝ち目はない」という観測がもっぱらだ。先読みが得意な人は「彼女の狙いは次の参院選ではないか。たとえ知事選で敗れても、有力候補として名乗り出ることができる」と見る。確かに、自民党県連は「次の参院選の候補者」のめどが立たず、窮している。

肝心の吉村知事はまだ、去就を明らかにしていない。山形新聞が「四選出馬についてどう考えているか」と水を向けても、「期待する声が大きくなってきている。大変ありがたいことだと思う。しかし、今はしっかりと県政にまい進することが私の最大の役割で使命」と受け流している(2月3日付の記事)。余裕しゃくしゃく、である。

山形県の自民党にとって、知事選はずっと「紛糾の種」になってきた。

2005年の知事選では、自民党県議の多くが現職で四選を目指す高橋和雄知事を推したのに、高橋氏とそりが合わない加藤紘一衆院議員は日銀出身の斎藤弘氏を担ぎ出して争った。

分裂選挙の結果は、4千票余りの僅差で斎藤氏の勝利。現職の高橋氏が74歳と高齢だったこと、それに「笹かまぼこ事件」が響いたとされる。高橋氏が不在の折にゼネコン大手の幹部が2000万円の現金入りの笹かまぼこを知事室に置いていった事件である。高橋氏はすぐに返したが、「金権体質の現れ」と攻撃され、打撃を受けた。

この時の遺恨(いこん)が2009年の知事選に影を落とした。民主党や社民党が担いだ吉村美栄子氏を高橋陣営や岸宏一参院議員、一部の自民党県議が応援したのだ。自民党は再び分裂状態に陥り、吉村美栄子氏は1万票余りの差で現職の斎藤氏を破り、知事の座を射止めた。

加藤紘一氏は2005年の知事選では「産婆役」として、2009年には「墓掘り人」としての役割を果たした。そしてさらに、吉村知事の無投票再選に終わった2013年の知事選でもキーマンになった。

その前年、2012年に加藤氏は健康を害し、歩くのも困難な状態のまま12月の総選挙に臨み、同じ自民党系の阿部寿一氏(元酒田市長)に敗れた。自らの選挙区で保守分裂の選挙を繰り広げたうえ、高齢のため比例東北ブロックでの重複立候補も認められず、比例復活で議席を確保することもできなかった。

かつて、自民党の名門派閥「宏池会」のプリンスと呼ばれ、一時は有力な首相候補でもあった加藤氏の惨めな敗戦に、自民党県連は混乱状態に陥る。年明けにあった知事選には候補者を立てることもできず、吉村美栄子氏に再選を許す結果になった。

意地の悪い見方をすれば、加藤紘一氏こそ「吉村知事誕生の伏線を張った功労者」であり、「2013年の無投票再選の立役者」と言える。

自民党県連の元会長、遠藤利明衆院議員も「吉村県政への貢献度」では、加藤氏に引けを取らない。

2016年夏の参院選で、遠藤氏はJA全農山形出身の月野薫氏を自民党の候補者として担ぎ出した。当時の最大の争点はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に反対か否か。対立候補の元参院議員、舟山康江氏は強硬な反対論者で農民の支持を集めていた。

遠藤氏は「全農出身の候補者を立てれば農協票は割れ、それに頼る舟山陣営を切り崩すことができる」と踏んで、月野氏を擁立したようだが、肝心の候補者本人に魅力が乏しかった。結果は12万票の大差での敗北。遠藤氏はその敗戦処理に追われ、翌2017年の知事選対策どころではなくなった。

結局、吉村知事に挑戦する者は現れず、無投票での三選を許した。遠藤氏の選挙下手のおかげ、と言うべきだろう。ちなみに、今回、知事候補の公募に応じた伊藤洋氏を引っ張ってきたのも遠藤氏という。つくづく「人を見る目」がない。

遠藤氏は「フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設」を唱えている。地元の山形新聞がキャンペーンを張り、吉村知事が力を入れている政策だ。これに後追いで乗っかった。フル規格の両新幹線建設構想が時代錯誤の政策で、実現の可能性がおよそないことは、すでに何度も書いた。「時代の流れを読む力もない」と言うべきだろう。

そもそも、山形県の自民党は本気で吉村県政を倒す気があるのだろうか。

吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループにはこの10年で40億円もの公金が流れ込んでいる(表再掲)。その詳細はこれまで、月刊『素晴らしい山形』で報じてきた通りだ。

もっとも多額の公金が支出されているのは、和文氏が理事長を務める学校法人、東海山形学園である。毎年3億円前後、多い年には10億円を超える私学助成が支給されている。なのに、その学校法人からグループの中核企業、ダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われたりしている。学校法人の監督権限を持つ山形県はその内容を調べようともしない。

当方が独自に調べるため、学校法人の財務書類の情報公開を求めても、「当該法人の利益を害するおそれがある」との理由で肝心な部分を開示しない。「非開示は不当」と裁判に訴え、仙台高裁で開示を命じる判決が出ても、最高裁に上告して開示を引き延ばす。

吉村知事が観光キャンペーンを始めれば、県幹部が露骨な方法でグループ企業に業務委託をして潤わせる。その幹部が抜擢され、出世していく。知事が奥羽、羽越新幹線の建設を唱え始めれば、その関連業務もまたグループ企業に委託するーー。

中国の故事「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」に反するどころではない。吉村一族企業は、瓜(うり)畑にずかずかと入り込み、スモモの木の下にブルーシートを張って幹を揺さぶり、収穫して恥じるところがない。

次の知事選に本気で取り組もうとするなら、自民党はこうした問題を一つひとつ追及し、吉村知事の下で何が起きているのか、明らかにする必要がある。

長期県政による澱(よど)みを許さないように、知事の多選を制限する条例を制定することも考えられる。

2003年に東京都の杉並区が多選自粛条例を制定して以来、神奈川県が2007年に「知事は連続3期12年まで」との条例を作るなど、すでに先行例が多数ある。いったん制定した条例を廃止した自治体もあり、難しい面もあるが、山形県のように同じ人物が権力を握り続け、専横と腐敗を招いた歴史がある土地では試みる価値が十分にある。

県議会で過半数を握る自民党がその気になれば、すぐにでも制定できる条例だ。その条例を突き付けて、吉村知事の四選出馬を牽制することも考えられる。
要は、自分たちが住む土地をより良いものにするために、次の世代により良いものを残すために、何かを為す気概があるかどうかだ。その気概があるからこそ、政治を志したのではないのか。

吉村県政の1期目は新鮮だった。前任の斎藤知事の冷たい政策に凍えていた県民の心を包み込むような温かさも感じた。けれども、2期目以降、高い人気を背にして「おごり」が見え始めた。知事に当選した際のキャッチフレーズ「温かい県政」は、いつしか「身内と取り巻きに温かい県政」に転じていった。

救いがたいのは「時代の流れ」にあまりにも鈍感なことだ。情報技術(IT)革命が進み、変化のスピードが増しているのに、まったく対応できていない。山形県庁はいまだに「紙とハンコ」で仕事をしている。行政事務の電子決裁化はロードマップすらない。

トップに「このままでは時代に取り残されてしまう」という思いがないからだろう。フル規格の新幹線建設などという「20世紀の夢」を追い続ける人物に、次の4年を託すのは耐えがたい。私たちに続く世代は、21世紀の後半を生きなければならないのだから。


*メールマガジン「風切通信 75」 2020年5月31日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年6月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
*加藤紘一氏は2016年、岸宏一氏は2017年に死去。




日本の新型コロナウイルス対策の失敗は、マスクとPCR検査に見て取れる。安倍晋三首相は「全国民にマスクを配る」と大見得を切って巨費を投じたが、アベノマスクは髪の毛が入っていたり、汚れていたりでトラブル続きだ。いつ届くのか見当もつかない。

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そもそも、国家の一大事に首相が「マスクの配布」に躍起になること自体がおかしい。マスクの確保も確かに大切だが、全体を見渡して、もっと優先しなければならないことがいくつもある。感染しているかどうかを確認するためのPCR検査の拡充もその一つである。

新型コロナウイルスの感染がどのくらい広がっているのか。それを可能な限り正確に把握することは、すべての対策の基本だからだ。人口10万人当たりの検査実施数を見れば、最初から現在まで、日本のPCR検査は主要先進国の中で最低レベルにある。

なぜ、日本のPCR検査の実施数はこんなに少ないのか。メディアはさまざまな分析を試みているが、ズバリと核心をつく報道が少なすぎる。この問題の核心にあるのは、感染症対策の中心になるべき厚生労働省が自らの権益と縄張りにこだわり、政治家も思い切った決断ができなかったことにあるのではないか。

日経新聞の関連グループサイト「日経バイオテク」が2月20日に報じた「新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情」は、問題の核心に迫った優れた報道の一つだ。PCR検査とはそもそもどのような検査なのか。それを詳しく解説したうえで、厚生労働省が「自前の検査」にこだわった経過を丁寧に報じている。

厚生労働省は国立感染症研究所(感染研)を中心にして、都道府県や政令市の衛生研究所が検査を担う、というこれまでの感染症対策を踏襲した。中国が1月中旬に公表した新型コロナウイルスの遺伝子配列を基にして、感染研は自前の検査方法を開発し、各地の衛生研究所に検査のやり方を伝授した。そのうえで、検査受け付けの窓口を都道府県の保健所に一本化した。

これが「PCR検査の目詰まり」を引き起こし、検査の拡充を阻害する結果を招いた。

世界規模の感染症対策において、PCR検査技術の先頭を走っているのはメガファーマと呼ばれる巨大製薬会社だ。アメリカのファイザー、スイスのノバルティスとロシュがトップスリー。日本の製薬会社はトップテンに1社もなく、武田薬品工業がかろうじて16位に入っているのが現実だ(2015年時点)。

新しい感染症が見つかれば、これらの巨大製薬会社はただちにPCR検査方法の確立と検査キットの開発に走り出す。中でもスイスのロシュが強い。世界保健機関(WHO)がスイスにあり、ロシュはWHOと緊密に連携しながら感染症対策にあたっている。情報の入手も早く、開発に巨費を投じることもできる。

今回も、ロシュはいち早く検査の試薬を開発し、1月末には効率のいい検査装置を製造して売り出した。その後、24時間で4000人分の検体を全自動で解析できる最新式の装置も市場に投入した。欧州各国は速やかにこれらの装置を購入して検査に使い、感染症対策に活かしている。

ところが、前述したように厚生労働省は自前の開発にこだわり、国立感染症研究所に検査手法を開発させ、これを全国に広めようとした。「何でもかんでも外国に依存するわけにはいかない。自前で開発する技術とノウハウを維持し、磨く必要がある」という言い分も理解できないではない。

けれども、それは平時の論理だ。未曾有の事態には「前例にとらわれない決断」をしなければならない。マンパワーの面でも資金面でも、感染研が世界の大手製薬会社に太刀打ちできないのは自明のことだ。自力での検査手法とキットの開発にこだわった結果が「先進国で最低レベルのPCR検査状況」となって現れた、と見るべきだろう。

検査の窓口を都道府県や政令市の保健所一本に絞ったことも、PCR検査の拡充を阻むことになった。これも「前例踏襲」の結果だ。非常時には「前例のない対応」を決断しなければならない。前例や縄張りにこだわらず、大学の医学部、民間の検査会社などあらゆる力を総動員しなければならない。なのに、厚労省はその決断ができず、前例を踏襲した。安倍政権もその壁を突き破ることができなかった。

感染研のスタッフも都道府県の衛生研究所も保健所も、持てる力を最大限に発揮しようとしていることは疑いない。その人たちを責めることはできない。問題は「一生懸命に働いたかどうか」ではない。「世界を見渡して、最善の策は何か」という発想で対処できない、日本の政治家と官僚たちの度量の狭さにある。

感染症対策のように、検査技術や情報技術(IT)の最先端の知見を縦横に活用する必要がある分野で、日本はすでに「二流のレベル」にあるのではないか。そうした自省と自覚がないから、出だしでつまずき、混乱が続いているのだ。

山梨大学の島田真路学長は日本の感染症対策を批判し、「未曾有の事態の今だからこそ、権威にひるまず、権力に盲従しない、真実一路の姿勢がすべての医療者に求められている」と語った(朝日新聞5月6日付)。あまりの惨状に、医学の専門家として黙っていられなくなったのだろう。

こうした批判に対して、頑迷な厚労省官僚や彼らに追随する専門家は「新型コロナウイルスによる死者数を見れば、人口当たりで日本はもっとも少ない国の一つだ。対策は全体としてうまくいっている」と反論するのかもしれない。

確かに、公式に発表された死者だけを基にすれば、日本の感染症対策はうまく行っているようにも見える。が、それは日本の医療の水準の高さと医療関係者の献身的な努力に支えられている面が多いのではないか。

さらに言えば、「新型コロナウイルスによる死者」として公表されているデータそのものについても、今後、精密な解析をしなければならない。PCR検査が進まないせいで、日本では新型コロナウイルスの感染者を正確に把握できていない。「新型コロナが原因なのに無関係」とされた死者がどのくらいいるのか。それを検証しなければ、「死者は少ない」ということも簡単には言えないだろう。

非常事態の日々から日常の暮らしへと徐々に戻っていくためにも、PCR検査の拡充は欠かせない。感染状況と「ぶり返し」の兆候を見極めながら、経済活動の規制を緩め、普通の暮らしへと段階的に戻っていかなければならないからだ。

救いは、大阪府の吉村洋文知事のように政府の指針を待つことなく、独自に自粛の解除に向けた基準を打ち出す動きが出てきたことだ。政府や厚労省が権益や縄張りの壁を乗り越えられないでいるなら、自分たちでその壁を乗り越えるしかない。

それは政府と地方の役割を根本から見直し、新しい形を創り出していくことにつながるだろう。



*メールマガジン「風切通信 74」 2020年5月7日

≪写真説明とSource≫
PCR検査のための検体採取
https://www.recordchina.co.jp/b784821-s0-c10-d0135.html

≪参考サイト&記事≫
◎新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情(日経バイオテク2020年2月20日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/20/02/28/06625/
◎製薬業界の世界ランキング(ビジネスIT 2015年4月21日)
https://www.sbbit.jp/article/cont1/29564
◎新型肺炎「日本の対応」は不備だらけの大問題(上昌広・医療ガバナンス研究所理事長、東洋経済オンライン2020年2月6日)
https://toyokeizai.net/articles/-/329046
◎PCR検査体制、地方から異議(朝日新聞2020年5月6日付)






新型コロナウイルスの感染が広がってから、「ウイルスに打ち勝つ」という言葉をしばしば耳にするようになった。この言葉を口にする人たちは、それがどんなにおこがましいことか分かっているのだろうか。

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ウイルスが誕生したのは数十億年前とされる。地球ではその後、何度も生物の大絶滅が起きた。大規模な地殻変動や隕石の衝突によって、命あるものの多くが滅びた。恐竜もその一つだ。ウイルスはそうした大絶滅を何度もくぐり抜けてきた。

私たち人間はどうか。先祖が登場したのは数百万年前、地球の長い歴史から見れば、つい最近のことだ。戦争や疫病で多くの人が命を失ったことはあるが、大絶滅の危機を経験したことはまだ一度もない。

ウイルスにしてみれば、「ぽっと出の若造が何をほざく」と笑い飛ばしたいところだろう。「打ち勝つ」ことができるような相手ではない。私たちにできるのは、手を尽くして被害を最小限に食い止めること、そして、治療薬やワクチンを開発して共に生きる道を切り拓くことくらいだ。

感染防止策も生活と経済の維持も、そういう前提に立って進めることが大切だろう。どこかの大統領のように「これは戦争だ」などと意気がってみても、何の意味もない。

わが山形県の吉村美栄子知事も、あまり意味のないことに力を注いでいる。県境で検査をして「ウイルスの侵入を食い止める」と提唱したものの、「道路を走っている車を停めることはできない」と言われ、パーキングエリアでドライバーのおでこに検温計を向けることくらいしかできなかった。

そんなことに人員と資金を注ぐより、医療や介護の現場で奮闘している人たちを支えるために全力を尽くすべきだ。仕事を失い、暮らしが立ち行かなくなっている人たちに一刻も早く手を差し伸べるために何をすべきか。それも急がなければならない。

物事に優先順位をつけ、それに応じて力の注ぎ具合を考える。吉村知事はそれが苦手のようだ。農産物の売り込みや観光客の誘致といった「分かりやすいこと」には一生懸命になるが、情報技術(IT)を行政や医療にどう活かしていくか、といった重要かつ複雑な問題になると、途端に「専門家や部下にお任せ」となる。人の話に耳を傾け、自分で深く考え、そのうえで判断する。それができないのだろう。

未来に向かって開かれた社会をつくっていくうえで、情報公開制度をどうやってより充実したものにしていくか。それも、間違いなく優先しなければならないことの一つだが、吉村知事には「後回しにしてもいいこと」と映っているようだ。

そうでなければ、私が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したのに対して、詳細な部分を白塗りにして開示する(表1再掲)というようなことも起きなかったはずだ。

この白塗り文書が出てくるまでの経緯は表2の通りである。

4年前の秋、月刊『素晴らしい山形』が吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏の率いるダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)と学校法人、東海山形学園の間で不可解な取引があった、と報じた。

会社の貸借対照表によると、学校法人から会社に3000万円の融資が行われていたのだ。学校法人が会社から金を借りたのではない。その逆だ。しかも、和文氏は会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている。お互いの利益がぶつかる「利益相反行為」に該当する。

この学校法人は東海大山形高校を運営しており、政府と山形県から毎年、3億円前後の私学助成を受けている。その助成額の1割に相当する金がグループ企業に貸し付けられていたことになる。そんなことが許されるのか。法に触れないのか。

会社の貸借対照表に3000万円の融資が記載されているなら、学校法人の貸借対照表にも記載されているはずだ。私は、それを確認するため山形県に情報公開請求を行った。私学助成を受ける学校法人は監督官庁の山形県に財務書類を提出している。県にはすべての書類がそろっているからだ。

政府や自治体が持っている情報は国民のものであり、原則として公開しなければならない。私は、すんなり出てくるものと思っていた。ところが、詳しい部分が白く塗られて出てきたのだ。

県学事文書課の担当者から「非開示の理由」を聞かされて驚いた。「会計文書の詳しい内容を明らかにすると、学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」(県情報公開条例第6条に該当)というものだった。

納得できず、2017年7月に非開示処分の取り消しを求めて山形地方裁判所に提訴した。一審の経過と結末は本誌2019年6月号で詳しく書いた。山形地裁は「財務関係書類の詳細な部分が明らかになれば、学校法人の経営上の秘密やノウハウが判明して他の高校の知るところとなり、学校法人の競争力を損ね、利益を大きく害することになることも考えられる」という県側の主張をほぼそのまま認め、私の請求を棄却した。

当方が唖然(あぜん)するような、およそ現実離れした空理空論に基づく判決だった。すぐさま、仙台高等裁判所に控訴した。

ただ、敗訴したのは「こちらの主張に甘いところがあったからかもしれない」と反省した。そもそも、財務書類とは歴史的にどのようにして成立したのか。経済的、社会的にどのような役割を果たしてきたのか。日本では今、学校法人の財務書類の公開がどこまで進んでいるのか。そうしたことを丁寧に記した控訴理由書を出して、高裁の判断を仰いだ。
 
幸いなことに、仙台高裁の裁判官は私立学校の現状にきちんと目を向け、情報公開制度の意義も深く理解している人たちだった。3月26日に一審判決を取り消し、山形県に東海山形学園の財務書類をすべて開示するよう命じる判決を下した(表3の骨子参照)。

私立学校は手厚い私学助成を受けており、文部科学省も積極的に財務情報を公開するよう促してきた。これを受けて、大学を運営する学校法人だけでなく、高校を設置する学校法人についても自発的に財務書類を一般に公表している事例は少なくない。

高裁の判決はそうした現実を踏まえ、「財務書類の詳細な内容を開示すれば、学校法人の正当な利益を害するおそれがある」という山形県側の主張を一蹴した。

判決には、文部科学相の諮問機関である「大学設置・学校法人審議会」の小委員会の検討結果を引用する形で、「情報公開は社会全体の流れであり、学校法人が説明責任を果たすという観点からも、財務情報を公開することが求められている。それによって、社会から評価を受け、質の向上が図られていく」という表現も盛り込まれた。

情報公開制度がこれからどういう役割を果たしていくのか。どれほど重要な制度であるか。そうしたことを見据えて、開かれた社会を築こうとする人たちの背中を押す判決だった。

学校法人の財務書類に関しては昨年5月、地裁判決の直後に私立学校法が改正され、文部科学省が所管する学校法人(大学や短大を運営)については財務書類の公開が法的に義務づけられるに至った。

高校などを運営する都道府県所管の学校法人については「公開の義務づけ」が見送られたものの、文科省は「それぞれの実情に応じて積極的に公表するよう期待する」との通知を出した。この法改正も高裁の判断に大きな影響を及ぼしたとみられる。

吉村美栄子知事はこの判決を不服として、最高裁判所に上告した。仙台高裁の論理は明快で説得力があり、覆ることはないと信じているが、知事は上告することによって社会に二つのメッセージを発することになった。

一つは、情報公開の重要性について鈍感な政治家である、ということ。もう一つは、山形地裁と仙台高裁の判決の質的な違いについて理解できず、周りにもその違いについて解説してくれる人が誰もいない、ということだ。

質的な違いとは「時代が求めていること、社会を前に進めるために為すべきこと」を強烈に意識しているかどうか、という点である。判決文からそれが読み取れないとしたら、政治家として悲しすぎる。

東海山形学園からダイバーシティメディアへの3000万円融資問題については、財務書類の非開示問題に加えて、もう一つ、大きな問題がある。本文の途中でも触れた「利益相反行為」という問題だ。

同じ人物が会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている状態で双方が取引をするのは、典型的な「利益相反行為」になる。一方の利益になることは他方の不利益になるからだ。

このような場合、株式会社なら株主総会もしくは取締役会の承認を得れば済むが、学校法人の場合はそうはいかない。私立学校法に特別の規定があり、監督官庁(山形県)は特別代理人を選んでその取引に問題がないかチェックさせなければならないことになっている。

そこで、私は県に対して「この取引にかかわる特別代理人の選任に関する文書」の情報公開を求めた。すると、県は「存否(そんぴ)応答拒否」という暴挙に出た。そういう文書があるかどうかも明らかにしないまま、情報公開を拒否したのである(2018年10月23日付)。

理由はまたしても、県情報公開条例の第6条「(法人の内部管理に関する情報であって)その存否を明らかにすることにより、法人の正当な利益を害するおそれがあるため」だった。都合が悪い情報は、この条項を使えば出さなくても済む、と考えているようだ。

冗談ではない。法律に定められた手続きを踏んだのかどうか、それを記した文書が「法人の正当な利益を害する」などということはあるわけがない。もし、文書の中に「法人の内部管理に関する情報」が含まれているなら、その部分を伏せて開示すれば済む話だ。文書があるかどうかすら答えたくない、何か特別な事情があるのだろう。

今度は裁判ではなく、県情報公開・個人情報保護審査会に異議を申し立てた。外部の有識者5人で構成される県の諮問機関だ(表4)。すでに実質的な審査は終わっており、結果を待っている段階だ。こちらも「県の存否応答拒否は不当」との裁決が出るものと期待している。

この3000万円融資問題は、知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループの「アキレス腱」である。

これに目を凝らせば、吉村知事の権勢を背に巨額の公金を手にしてきた企業グループの中で何が起きているのか、何のために学校法人の3000万円を必要としたのか、少し見えてくるかもしれない。


*メールマガジン「風切通信 73」 2020年5月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年5月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。見出しも異なります。

仙台高裁の判決全文

≪写真説明&Source≫
山形県境でドライバーに検温計を向ける県職員
https://ameblo.jp/event-x/entry-12590606440.html