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*メールマガジン「風切通信 40」 2017年10月31日

            
 今朝の朝日新聞(10月31日)に掲載された「耕論 リベラルを問い直す」というオピニオン面を読んで、私は心底、ガックリ来ました。法政大学教授の山口二郎、教育社会学者の竹内洋、LGBT(性的少数者)コンサルタントの増原裕子の3人の意見を掲載して「リベラルとは何か」を論じていました。もちろん、3人とも識見豊かで、その主張にもそれなりに説得力がありました。が、問題はその人選です。

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 3人とも護憲派で、枝野幸男が率いる立憲民主党の支持者のようです。つまり、朝日新聞の社論の賛同者を3人並べているのです。これでは、議論を闘わせる「耕論」ではなく、「賛論」です。自分たちで作ったタイトルすら実践できず、同じ歌を別々の歌手に歌わせるような紙面をつくる編集者。慰安婦報道で問われた朝日新聞の体質とは何だったのか。たとえ自分たちと意見が異なっても、謙虚にその声に耳を傾ける。その努力を積み重ねる、と誓ったはずではなかったのか。

 「リベラルを問い直す」というなら、立憲民主党の支持者、その批判者、さらに世界の潮流を見据えて日本の未来を語ることができる人物、たとえば、京都大学教授の山室信一や東京大学准教授の池内恵(さとし)、評論家の田中直毅のような論客を登場させて欲しい。それならば、今の日本の政治と社会を複眼で見つめ、世界の中での立ち位置を考えることもできるはずなのに。イデオロギーに縛られ、社の幹部にへつらうような翼賛紙面をつくっているようでは、この新聞の未来は危うい。そう思わざるを得ないオピニオン面でした。

 思い出すのは、朝日新聞論説委員室に在籍していた2001年の「白黒論争」です。毎年、5月3日の憲法記念日に掲載する社説は論説主幹が執筆することになっていました。社説の内容はすべて、掲載の前に「昼会」と呼ばれるミーティングに提示して議論を闘わせるのが決まりです。論説主幹の原稿とて例外ではありません。当時の論説主幹は佐柄木(さえき)俊郎。筋金入りの護憲派で『改憲幻想論』という本を著しています。主張の眼目はサブタイトルにある「壊れていない車は修理するな」です。社説の原稿もそれに沿った内容でした。

 論説委員室の改憲派、元ウィーン支局長の大阿久尤児(ゆうじ)はこの社説原稿を厳しく批判しました。「できて半世紀以上もたつ憲法を一字一句直すな、というのは無理がある。時の流れを踏まえて、より良いものにするのは自然なことだ。実際、同じ敗戦国のドイツは何回も修正している」。諄々と諭すような口調でした。佐柄木は朝日新聞の伝統を踏まえて反論する。大阿久がそれを論破する。その春に論説委員になったばかりの私は「論説主幹の論理は破綻している」と感じ、心の中で大阿久に軍配を上げました。

 議論は延々と続き、佐柄木も大阿久も次第に感情的になっていきました。「白黒論争」に発展したのはその時です。佐柄木が「君たち国際派が何と言おうと、私の目の黒いうちは護憲の主張は変えない」と言い放ったのです。それに対して、大阿久は憤然として「目が黒いとか白いとか、そんな問題じゃない。こんな社説を載せたら、われわれの後輩が恥をかくのだ。それでいいのか」と叫んだのです。「白黒論争」とは私が勝手につけた呼称です。

 論理的に破綻していても、社論をつかさどるのは論説主幹です。憲法制定の記念日にその社説はそのまま掲載されました。佐柄木の後を継いだ若宮啓文(よしぶみ)は護憲というより論憲の立場でした。「一字一句変えないと主張し続けるのは無理」と考え、佐柄木とよく議論していました。それでも、「安倍政権の下での改憲などもってのほか。今、改憲を唱えれば敵を利するだけ」と考え、護憲の論陣を張っていました。

 憲法の施行から60年になる2007年の5月3日、若宮は論説主幹として21本の社説を一挙に掲載するという偉業を成し遂げました。21世紀を生き抜くための戦略。それを意識して21本にしたのです。どのような主張をするか。それを詰めるため、事前に社内の俊英を集めて「安保研究会」をつくり、熟議を尽くしたうえでの掲載でした。憲法9条については「変えることのマイナスが大き過ぎる」との主張。同じ護憲でも、ぐっと腰を下ろして構えた主張でした。

 この安保研究会での議論も忘れられません。朝日新聞の俊英とは言えない私もメンバーになっていました。「翼賛会議」になるのを避けるための彩りとして加えられた、と理解しています。憲法改正が議題になった大会議室での議論はさして活発でもなく、「それでは、今言ったような線で護憲の主張をします」とまとまりかけました。私の脳裏に敬愛する大阿久の顔が浮かび、「これで議論を終わらせてはいけない」と思って改憲論を唱え、次のような言葉で締めくくりました。「このまま護憲を主張し続けるのは自殺行為ではないか」。会議室はシーンとなり、司会者の取り繕うようなコメントで終わりました。「自殺」ではなく、「心中」の方が適切だったかもしれません。

 大阿久も私も改憲論者ですが、もちろん、自民党の保守派や読売新聞、産経新聞の改憲論には大反対です。とりわけ、「押し付け憲法だから改正すべし」という主張は唾棄すべき言説、と考えています。敗戦後、マッカーサー司令部に憲法の改正を求められた当時の幣原(しではら)喜重郎首相は松本蒸治国務大臣に新憲法の起草を命じました。松本がとりまとめた憲法案は天皇について「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と記していました。明治憲法にあった「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の「神聖」を「至尊」に変えただけ。310万人あまりの同胞の命が失われたあの戦争の後も、為政者たちは天皇制をできるだけそのまま維持しようとしていたのです。

 マッカーサーがあきれ果て、自分のスタッフに日本国憲法の草案をつくるように命じたのは当然のことです。「たった1週間で書かれた憲法」という批判もあります。が、これも正確ではない。米軍は占領後の日本統治を考え、半年も前から若手の憲法学者に研究させていました。日本軍が竹やりで「本土決戦」を呼号していた頃、米軍は法学者を動員して新憲法の準備に着手していたのです。これも、彼我の国力の差を無残なまでに物語るエピソードの一つでしょう。

 マッカーサーに提示された憲法案に当時の為政者はどう応じたのか。彼らは「天皇を戦犯訴追から守り、その地位を保障してもらうこと」で頭がいっぱいだったのではないか。それが叶うと知り、彼らはわずかな修正をほどこしただけで国会に上程し、国会議員も諸手を挙げて賛成しました。それが歴史的な事実です。「押し付け憲法論」を主張するなら、そうした歴史も一緒に語らなければ、公正とは言えない。

 哀しいことですが、戦争に敗れた日本の為政者には、新しい憲法を書く力はありませんでした。与えられるしかなかった憲法。国民の多くはそれを支持し、銃剣で蹂躙された近隣の国々にも安心感を与えました。時代に合わせて、憲法は修正されてしかるべきです。けれども、それは焼け跡の中で産声をあげた憲法を抱きしめ、戦後の成長の中で果たした大きな役割に心から敬意を表したうえでのことでなければならない、と思うのです。

 先のコラムで私は「北海油田の開発に苦しむイギリスは世界の英知を集めることにした」と書きました。荒れる海に石油プラットフォーム(掘削櫓)を建設するために、彼らは世界の英知を集めたのです。私たちに、この国の礎となる新しい憲法をつくるために世界の英知を集める覚悟はあるのか。憲法試案を発表した読売新聞にそれだけの覚悟はあったのか。

 大阿久尤児はガンを患い、退社して間もなく63歳でこの世を去りました。息を引き取る間際まで穏やかに振る舞い、好きな将棋を指していました。潔い死でした。送別の会では、「白黒論争」を交わした佐柄木俊郎が弔辞を読みました。「君は実によく闘いました。大国の横暴や偏狭なナショナリズムをあおるメディアと闘い、体を何度もメスで切り刻まれながら、繰り返し襲い来る病魔と闘った。いまは、ただ安らかにお休みください。そのことだけを心から念じています」

 大阿久が言葉を発することができるなら、皮肉っぽい笑みを浮かべながら、こう言うのではないか。「後輩たちは苦労してるんじゃないの。だから言っただろ、あの時」
(敬称略)


【追補】このコラムについて、複数の朝日新聞関係者から「竹内洋氏は保守の論客で改憲論者です。立憲民主党の支持者ではありません」との指摘を受けました。オピニオン面の論評で、竹内氏は立憲民主党について「反対だけの党になったり、数合わせに走ったりせず、自民党に柔軟な態度で臨み、だからこそ自民党が無視はできないような、存在感のある『外部』になってほしいと思います」と語っていました。私は「立憲民主党への辛口の応援」と受けとめたのですが、「自民党が勝ち過ぎるのは良くない」と考えての論評だったようです。


≪参考文献&サイト≫
◎2017年10月31日付の朝日新聞朝刊オピニオン面
◎『思想課題としてのアジア』(山室信一、岩波書店)
◎『現代アラブの社会思想』(池内恵、講談社)
◎『改憲幻想論』(佐柄木俊郎、朝日新聞社)
◎『詩人が新聞記者になった 追悼・大阿久尤児』(尚学社)
◎『地球貢献国家と憲法 提言・日本の新戦略』(朝日新聞論説委員室編、朝日新聞社)
◎『闘う社説』(若宮啓文、講談社)
◎ウェブ上の「『日本国憲法の制定過程』に関する資料」(衆議院憲法審査会事務局)
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf
◎読売新聞の憲法改正試案(同社の公式サイトから)
https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/feature/kaiseishian.html


≪写真説明&Source≫
◎ありし日の大阿久尤児(『詩人が新聞記者になった』から複写)

*メールマガジン「風切通信 39」 2017年10月25日

 総選挙での自民党の圧勝をどう受けとめればいいのか。新聞を読みながら、つらつら考えました。古巣の朝日新聞には「なるほど」とうなずく解説も、「そういう見方もあるのか」と目を見開く記事も見当たりませんでした。世界と日本を見渡す「鳥の目」の記事もなければ、時代の流れを映し出す「魚の目」の論評もない。どのページをめくっても、「虫の目」の記事ばかり。「選挙の朝日」と呼ばれた日は遠い。

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 安倍首相が大嫌いであることだけはよく分かりました。23日付朝刊の1面で編成局長が「おごりやひずみが指摘され続けた『1強政治』を捨て、政治姿勢を見直す機会とすべきだ」と首相に苦言を呈し、「この先の民意の行方を首相が読み誤れば、もっと苦い思いをすることになるだろう」と警告していましたから。「自分たちは民意の行方がきちんと読めているのかい」と茶々を入れたくなりましたが。

 もとより、安倍首相の「お友達新聞」の読売は読むところが少ない。それでも、「ここは友として『勝って兜の緒を締めよ』と言っておかねばなるまい」と思ったか。23日付朝刊の社説の袖見出しは「『驕り』排して丁寧な政権運営を」でした。「驕り」にかぎかっこを付けたのは友達としての配慮でしょう。「私はそんな風には思ってないけど、世間でそう言われてますよ」という、優しいかぎかっこ。

 朝日と読売が「新聞」ならぬ、聞きふるした「旧聞」を書き連ねているのに対して、25日付の毎日新聞朝刊には「新しい息吹」を感じました。1面の連載「安倍続投を読む」の1回目は中西寛・京大教授(国際政治)からの聞き書き。中西教授は、自民党圧勝の背景には「若年層が新しい自民党支持層になっている事情もある」と語り、「昭和を知らない世代が『安倍政権になって社会・経済が安定した』と認識しても不思議ではない」と論評しています。

 今の10代、20代の若者たちは、高度経済成長もバブル景気も経験していません。もの心がついた頃には、日本経済はすでに右肩下がりになっていました。中学、高校と進むにつれ、少子高齢化はますます深刻になり、東日本大震災では「危機に対応できない国」であることを肌で知りました。共同通信の出口調査によれば、10代の有権者の自民党支持率は4割で、全有権者平均の3割台半ばよりも高いのだとか。

 これを「若者は世間を知らないから」「判断力が足りないから」と見下すのは簡単です。けれども、希望が見出しにくいような社会を作ったのは誰なのか。「希望」の名を掲げながら、すぐさまそれを粉々に打ち砕くような政治をしているのは誰なのか。そうやって見下す大人たちではないか。

 いつの時代であれ、若者を未熟者と見下すのは根本的に間違っている。彼らは未来について年長者よりはるかに真剣なはずです。当然です。「人生の一番いい時期」を過ぎた世代と違って、彼らにはこれから「長い未来」があるのですから。50年後、100年後を真摯に考えているのは古い世代ではなく若者たちなのだ、と認めることから始めなければなりません。

 毎日新聞はそれを正面から受けとめ、紙面に刻もうとしています。1面の連載を支えるように、社会面では10代の有権者の投票行動とその理由を聞き取り、詳しく紹介しています。「理念や政策の違う政党に合流できる政治家が何を考えているのかわからない」「日本は戦後で一番、実質的な危険にさらされている」といった声を掲載し、憲法改正についても「時代に合ったものに」と答える声が目立った、と報じました。

 数字データによる選挙結果の分析や解説より、こういう一人ひとりの言葉の方が読む者の心に沁みていく。新聞記者であれ雑誌記者であれ、もの書きならば、誰もが感じていることです。要は、それを愚直に試み、紙面にしていくかどうか。「虫の目」の記事が「鳥の目」や「魚の目」の記事より光るのは、こういう時です。

 毎日新聞は乱脈経営がたたって、1970年代に一度、経営が破綻しています。それ以降も苦しい状況が続いているようです。それゆえか、時折、恐れることなく、新しいことに挑戦しようとする気概を感じます。朝日新聞や読売新聞の行間からは感じない何かがある。それがある限り、経営陣さえしっかりしていれば、毎日新聞が昔日の輝きを取り戻す可能性はある。そう思わせる紙面でした。



≪参考記事≫
◎10月23日から25日の朝日、読売、毎日新聞(山形県で配達されているもの)

≪写真説明&Source≫
◎安倍晋三首相
http://news.livedoor.com/article/detail/13790732/

*メールマガジン「風切通信 38」 2017年10月19日
         
 英国人の作家、カズオ・イシグロについてのコラムを書いた際、父親の石黒鎮雄(しずお)のことがとても気になりました。どんな研究者なのか。なぜ妻と幼い子どもたちを連れて40歳で英国に渡ったのか。海洋学を専門とする大学時代の友人に調べてもらったところ、父親が英国に渡った詳しい事情が分かりました。

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 石黒鎮雄は1920年に商社員をしていた石黒昌明の子として上海で生まれました。戦前、陸軍航空士官学校で学び、その後、九州工業大学を卒業して東京大学で博士号を取っています。博士論文のタイトルは「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」です。「エレクトロニクス」という表現が時代を感じさせます。戦後の日本では、普通の研究者がコンピューターを入手することは困難でした。そこで、さまざまな電子機器を駆使して研究に活かしたのでしょう。手先の器用な人だったようです。

 彼は「潮位と波高の変化」を研究テーマにしていました。たとえば、ある海域で海難事故が多発するのはなぜなのか。それを調べるため、その海域の海底を模したモデルを作り、実際に起こる波を再現してみる。そして、その成果を踏まえて、現場の海底に消波ブロックを設置して流れを変え、海難事故を減らす、といった業績を上げています。長崎海洋気象台にいた時には、地元の人たちが苦しめられていた長崎湾の海面の大きな変動の解明にあたったりもしています。

 その研究成果に注目したのがイギリス国立海洋研究所の所長、ジョージ・ディーコンでした。1960年当時、イギリスは北海油田の開発に躍起になっていました。第二次大戦で国力を使い果たし、戦時国債の支払いに追われる国にとって、石油を自力で確保することは最優先課題の一つだったからです。問題は、油田が見つかった北海が荒れ狂う海だったこと。海底油田を採掘するためには、巨大なヘリポートのような石油プラットホーム(掘削櫓)を建設しなければなりません。その建設自体が至難の技でした。しかも、完成後は、どんなに海が荒れ狂っても、壊れることは許されません。大規模な海洋汚染を引き起こすからです。

 苦難に立ち向かうイギリスは、世界中の英知を結集することにしました。そのリサーチの目が石黒鎮雄の論文に辿り着き、彼を国立海洋研究所に招くことになったわけです。鎮雄はその招聘に「研究者としての冥利」を感じたはずです。渡英した1960年当時、若者の留学はともかく、研究者が家族連れで海外に出て行くことは珍しいことでした。妻静子と子ども3人(カズオ・イシグロと2人の姉妹)を抱えての海外生活。期するところがあったに違いありません。家族が日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、それに応じる余裕はなかったのでしょう。波の研究者として生き、2007年に没しました。

 イギリスを石油輸出国にした北海油田。その開発の苦しみが石黒鎮雄をイギリスに引き寄せた。幼いカズオ・イシグロは父の転勤に翻弄され、異様なほどに長崎を懐かしみ、日本に焦がれる少年になりました。父と北海油田の出会いが時を経て、イシグロワールドを醸し出したのです。この世の巡り合わせの不思議さを感じさせる物語でした。(敬称略)



≪参考文献&サイト≫
◎エッセイ「イギリスに渡った研究者 シズオ・イシグロをさがして」(海洋学者、小栗一将)
http://www.jamstec.go.jp/res/ress/ogurik/essay2.html
◎「海洋学者 Shizuo Ishiguro、日本出身地球物理学者の波」(masudako)
http://d.hatena.ne.jp/masudako/20121014/1350215515
◎石黒鎮雄の博士論文「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」(論文検索サイトの検索結果のみ。論文そのものは国会図書館にある模様)
http://ci.nii.ac.jp/naid/500000493143
◎ウィキペディア「陸軍航空士官学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
◎カズオ・イシグロの父を招聘した英国立海洋研究所長、ジョージ・ディーコン(wikipedia、英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Deacon


≪写真説明&Source≫
◎海底油田を採掘するために建設された北海油田の石油プラットフォーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E6%B2%B9%E7%94%B0



*メールマガジン「風切通信 37」 2017年10月17日
 
 日本生まれの英国人作家、カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』を読んだ時、私は不思議な感覚を味わいました。舞台は第二次大戦前後のイギリス、貴族のダーリントン卿に仕える執事スティーブンスの物語です。第一次大戦の惨状を知るダーリントン卿は新たな戦争を避けるため、ドイツとイギリスが共存する道を探ろうとします。国王や首相をヒトラーに会わせるべく、卿はドイツとのパイプ役となって動くという筋立てです。

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 英独の仲介を試みるダーリントン卿について、貴族の友人は「卿は紳士だ。ドイツとの戦争を戦った。敗れた敵に寛大に振る舞い、友情を示すのは、紳士としての卿の本能のようなものだ」と語りかけ、ドイツはその高貴な本能を汚い目的のために利用しているのだ、それを黙って見ているのか、と執事のスティーブンスに迫ります。それに対して、長く卿に仕えてきたスティーブンスはこう答えます。「申し訳ございません、カーディナル様。私はご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」

 物語は、貴族の館ダーリントン・ホールを舞台に淡々と進む。卿は対独宥和派とさげすまれ、失意のうちに世を去る。派手な立ち回りは何もない。ロマンスもごく淡いものが少し描かれるだけ。文章も平易です。普通なら途中で投げ出してしまうところですが、なぜかやめることができず、そのまま読み通してしまいました。最初に手にした本で、私も「イシグロワールド」に引き入れられてしまったのかもしれません。

 次に読んだ『わたしたちが孤児だったころ』はもう少しドラマチックでした。戦火にさらされ、混乱きわまる1930年代の上海。この街で失踪した両親の行方を追うイギリス人探偵の物語です。戦場の状況が描かれ、父と母がなぜ失踪したのか、少しずつ解き明かされていきます。イシグロ作品の中では、一番ドキドキワクワクする小説かもしれません。が、それも普通のミステリー小説に比べれば、きわめて地味でイシグロらしい。

 生まれ育った長崎と並んで、上海はイシグロにとって特別な街です。祖父の石黒昌明は滋賀県大津市の出身で、上海の名門私大・東亜同文書院を卒業した後、伊藤忠商事に入社し、上海で働いていました。父の石黒鎮雄はこの上海で生まれ、東大で学んだ海洋学者です。カズオ・イシグロは父親が長崎海洋気象台に勤務していた時に誕生し、5歳まで長崎で暮らしました。その父がイギリス国立海洋研究所に招かれ、家族で渡英しました。

 長崎での穏やかな暮らしは突然、断ち切られてしまいました。彼がかなりの映画好きで小津安二郎の作品を繰り返し観たのは、長崎の記憶と重なるところがあるからなのでしょう。英国で勤め始めた父は何度も「来年は日本に帰るから」と約束したそうですが、それが果たされることはありませんでした。懐かしい長崎の思い出を何度も何度も切なく思い出していたのです。それが彼の作家としての礎になったと思われます。

 カズオ・イシグロはイギリスで教育を受け、ケント大学とイースト・アングリア大学大学院で文学を学んで作家になりました。最初の作品『遠い山なみの光』を出版した1980年代初めに英国籍を取得しています。彼をよく「日系英国人作家」と表現します。その通りなのですが、彼の場合は5歳で故郷から不意に引き離され、長崎の記憶を忘れまいともがき続けたという点が特異です。むしろ、ディアスポラ(故郷喪失者)と呼びたくなります。

『日の名残り』のあとがきで翻訳家の土屋政雄は、カズオ・イシグロが最初の2冊の作品(『遠い山なみの光』と『浮世の画家』)について、次のように語ったと紹介しています。「私の日本を2冊の本に封じ込め、初めて日本を訪れる気持ちになった」。土屋によれば、最初の2作は「彼が自分の日本人性を再確認し、それに形を与えるための作業だったといえるのではなかろうか」という。心の中の日本と折り合いをつけ、もはやその喪失を心配しなくてもよくなって、第3作『日の名残り』に進んだのだと。

 彼はまず、自らの日本への追憶を小説という作品にして、それから世界に飛び出していったのです。彼が作品に込めた思いは『日の名残り』の執事が語る言葉に象徴的に示されています。執事のスティーブンスはこう語るのです。
「私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました」「私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう」

 読みながら、胸が熱くなったくだりです。2001年に来日して講演した際、カズオ・イシグロは別の言葉で自らの思いを語りました。「ひとはみな、執事のような存在だと思うのです」「人生はとても短い。振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したことを受け入れ、生きていくしかないのです」(『AERA』2001年12月24日号)

 ノーベル文学賞については、かつてこんな風に語っていました。「それほど重要な賞でしょうか。科学分野では権威はありますが、文学の世界では奇妙な賞だと思います。たしかに偉大な作家が受賞していますが、受賞後はあまり素晴らしい作品が書けていません。ノーベル賞の影響なのか、それともキャリアの終わりを迎えた人に賞が贈られているのか、私にはよく分かりません」

 連続テレビドラマ『わたしを離さないで』の主演女優、綾瀬はるかと原作者カズオ・イシグロとの対談も味わい深い。主役のキャシーの生き方について質問した綾瀬に、彼はこう答えています。「キャシーは臓器提供のために作られたクローンで、閉ざされた、非常に特殊な環境で育ったわけですよね。外の世界の価値観を知らない。だから、過酷な運命も自然に受け入れる。現実の世界を見てみてください。今も様々な国で、本当に過酷な環境で生きている人が大勢います。彼らは天使なのではなく、必然としてその環境に適応し、精一杯生きている。自分が生きている意味を何とか築こうと奮闘している」

 カズオ・イシグロを「記憶と追憶の作家」のように言う人がいますが、私は違うと思う。彼は「人が生きることの哀しみ」を描きたいのではないか。そして、その哀しみに寄り添い、そっと励ます。それが自分の役割、と考えているのではないか。ノーベル文学賞はその営みへの小さなご褒美、と受けとめているように思います。(敬称略)



≪参考文献・記事&サイト≫
◎『日の名残り』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、中央公論社)
◎『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ、入江真佐子訳、早川書房)
◎『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房)
◎『夜想曲集』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房)
◎文芸ブログ「Living Well Is the Best Revenge」(ペンネーム、クリティック)
http://tomkins.exblog.jp/20864422/
◎ウィキペディア「カズオ・イシグロ」(日本語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B0%E3%83%AD
◎Wikipedia 「Kazuo Ishiguro」(英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kazuo_Ishiguro
◎ウィキペディア「東亜同文書院大学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
◎週刊誌『AERA』2001年12月24日号のカズオ・イシグロ日本講演に関する記事(伊藤隆太郎)
◎2009年7月20日の朝日新聞朝刊文化欄の記事「たそがれの愛・夢描く 初の短編集『夜想曲集』を出版」でノーベル賞について言及(土佐茂生)
◎2017年10月15日の朝日新聞朝刊読書欄の書評「忘れてはならない記憶の物語」(福岡伸一)
◎カズオ・イシグロと綾瀬はるかの対談記録(文春オンラインから)
http://bunshun.jp/articles/-/4425
◎2002年7月18日の朝日新聞夕刊のコラム・窓「望郷の念」(長岡昇)

≪写真説明&Source≫
◎作家カズオ・イシグロ
http://muagomagazine.com/1825.html





*メールマガジン「風切通信 36」 2017年10月12日
        
 小池百合子という政治家のことを私が初めて強く意識したのは2004年のことでした。取材でエジプトを訪れた際、中東専門の記者から彼女の父親がカイロで日本料理店を経営していたことを教わりました。それだけなら、「ヘエーッ」で終わり、記憶に残ることもなかったのでしょうが、同僚はカイロ名物のハト肉の料理をほおばりながら、意外なことを口にしました。「彼女は国立カイロ大学の卒業生なんです」

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 エジプトに留学してアラビア語を学ぶ場合、多くはカイロ・アメリカン大学に行くとのこと。英語をベースにしてアラビア語を学ぶのです。どの国の言葉を学ぶにせよ、外国語はそれぞれに難しいものですが、同僚によれば、アラビア語は飛び抜けて難しい。アラビア語で行われる授業についていくのは普通の外国人にはとうてい無理なのだそうです。その理由は、アラビア語では文語と口語の乖離がはなはだしく、文語で書かれた文献を読みこなすことができないからです。

 イスラム圏を旅すると、朝な夕なに街中のモスクから礼拝の呼びかけ(アザーン)が聞こえてきます。その呼びかけのアラビア語は、預言者ムハンマドが生きていた7世紀のアラビア語のままです。聖典のコーランももちろん、当時のアラビア語がそのまま使われています。しかも、敬虔なイスラム教徒は日々、それを唱えているのです。

 そうした宗教的、文化的な背景があるためか、アラビア語圏の新聞や雑誌で使われている言語は、日常生活で使われているアラビア語とはかけ離れており、アラビア語を習得する場合には、口語のアラビア語と文語のアラビア語の二つを学ばなければなりません。日本に置き換えてみれば、文章では聖徳太子が生きていた頃の色合いが濃い日本語を学び、同時に現代の日本語も学ぶ、ということになります。そうしなければ、新聞ひとつ読むことができないからです。「それは大変なことだ」と納得しました。

 アラビア語を学ぶことを決めた若き小池百合子は、在籍していた関西学院大学を中退してカイロ・アメリカン大学に進み、ここでアラビア語を習得した後、国立カイロ大学の文学部で4年間みっちり勉強して卒業しています。つまり、彼女のアラビア語は「話せる」というレベルではなく、「仕事で使える」レベルだということです。

 なぜ、アラビア語だったのか。小池百合子編著『希望の政治』(中公新書ラクレ)で、彼女自身がその理由を明らかにしています。
「振り返ってみると、私は高校生の頃から自己マーケティングをやっていました。日本における女性の居場所、女性が今後伸びる方向、その中で自分はどういう位置にいて、10代で何をし、20代でどういうスキルを身に付けるか、と。自分を一種の『商品』に見立て、いわば商品開発を考えるのです。我ながら怖い女子高生でした」(p37)

 怖いかどうかはともかく、高校生の頃から「ひとかどの人物(a man of something)」になりたいという志を抱いていたのは立派と言うべきでしょう。彼女の場合は、a woman of something と記すべきかもしれません。英語でも中国語でも、ドイツ語でもフランス語でもなく、これから伸びる言語はアラビア語である、と判断したところに、私は「勝負師としての小池百合子」の面目躍如たるものを感じます。

 彼女が働く女性としてステップアップしていった過程を見ても、アラビア語は決定的な役割を果たしています。まずアラビア語の通訳として働き始め、日本テレビがリビアのカダフィ大佐やPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長と会見する際のコーディネーターをしています。その縁で、政治評論家・竹村健一のアシスタントとしてテレビの世界に入り、次いでテレビ東京のビジネス番組のキャスターに抜擢されました。東京とニューヨーク、ロンドンの三大市場を結ぶ経済番組のキャスターとしての仕事は、彼女に世界経済の動向を知り、日本だけでなく、世界のビジネスリーダーと知り合う機会を与えてくれました。

 政界入りは1992年、40歳の時です。日本新党を立ち上げた細川護熙(もりひろ)熊本県知事に請われて参議院議員になってからの「政界渡り鳥」ぶりは有名です。細川の日本新党から小沢一郎が率いる新進党へ、さらに自由党、保守党を経て自民党に入り、昨夏、東京選出の衆議院議員の地位を投げ打って都知事選に立候補して、当選したことはご承知の通りです。

 言葉に対する感覚にも鋭いものがあります。前掲書で、小池は尊敬する人物として台湾総督府の民政長官や満鉄初代総裁、第7代東京市長をつとめた後藤新平を挙げ、彼が残した「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」という言葉を胸に秘めている、と述べています(p110)。これは「渡り鳥」批判に対する彼女なりの反論でもあるようです。私の志は何一つ変わっていない、政党の方が時代に揺さぶられてコロコロと変わっただけ、と言いたいのでしょう。

 読売新聞記者から小池の秘書に転じた宮地美陽子(みよこ)が出版した『小池百合子 人を動かす100の言葉』(プレジデント社)では、この後藤新平の言葉とともに、小池が好きな「三つの目」が紹介されています(p106)。
「鳥の目で物事を俯瞰し、虫の目で細やかな部分を見て、魚の目でトレンドをつかむ」
「三つの目」の二番目は「蟻の目」というのもあるようですが、あらためて政治家・小池百合子の好きな言葉として読むと、味わい深い。群れなす魚が潮の流れを敏感に感じ取るように、私は時代の潮流を感じ取り、大きな流れに乗りたい、といったところでしょうか。

 「三つの目」は歴史を学び、歴史を考える場合にも欠かせません。その時代を俯瞰し、人々の動きをつかむだけでなく、微細なことも知る必要があります。そこにその時代の本質的なものが現れることがあるからです。視点で言えば、勝者と敗者、賢者の三つの目から歴史を見ることも大切です。

 そういう観点から判断すると、小池の歴史認識はあやうい。あやういというより、著しくバランスが悪い。今年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式に都知事名の追悼文を送るのをやめたのはなぜなのか。去年は送っていたのに。石原慎太郎や舛添要一も追悼文を寄せたのに。会見で記者に問われて、小池は「昨年は事務的に(追悼文を送るとの決裁書を)戻していた。今回は私自身が判断をした」「さまざまな歴史的な認識があろうかと思う。亡くなられた方々に対して慰霊する気持ちは変わらない」と述べました。

 歴史認識は政治家の資質を判断するうえで、とても重要な要素です。政治家の根っこにかかわることだからです。日本語とアラビア語、英語という三つの言葉を自在に操り、「三つの目」を大切にしている政治家が朝鮮人虐殺に疑問を呈するような言動をするのはなぜか。国際経済をよく学び、政界の権謀術策にもまれてきた政治家がなぜ、歴史をないがしろにするような発言をするのか。私には理解できません。

 歴史認識に疑問を感じるようでは、彼女が選んだという衆議院選挙の候補者たちまで、「大丈夫なのか」と心配になってきます。小池百合子が「稀代の勝負師」であることは間違いなさそうですが、歴史に残る政治家であるかどうかは分かりません。後世、「世渡り上手な権力亡者だった」と評されるおそれ、なしとしない。    (敬称略)



≪参考文献&サイト≫
◎『希望の政治 都民ファーストの会講義録』(小池百合子編著、中公新書ラクレ)
◎『小池百合子 人を動かす100の言葉』(宮地美陽子、プレジデント社)
◎『女子の本懐 市ヶ谷の55日』(小池百合子、文春新書)
◎関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らないことに決めた小池知事の記者会見を報じるハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/26/yuriko-koike-great-kanto-earthquake-of-1923_a_23186257/
◎冒頭に記した私のエジプト出張は、朝日新聞・別刷りbe「ことばの旅人 開け、ゴマ!」の取材、執筆のため。2004年7月17日付の別刷りに掲載された企画記事は次のサイトでご覧ください。
http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/?itemid=37


≪写真説明&Source≫
◎関東大震災時の朝鮮人虐殺問題について定例記者会見で答える小池知事(8月25日)
http://blogos.com/article/242368/




2004年7月17日付 朝日新聞 別刷りbe「ことばの旅人」 

 キリスト教と同じく、イスラム教でも、人間の始祖はアダムとイブである。聖典のコーランに、2人が禁断の木の実を食べて楽園を追われる話が出てくる。旧約聖書とほぼ同じ内容だ。
 ただ、コーランでは、追放される2人に神がこう宣告する。
「落ちて行け。お互い同士、敵となれ。お前たちには地上に仮の宿と儚い一時の楽しみがあろう」(井筒俊彦訳)

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船上でのベリーダンス。この日の踊り子はアルゼンチン人 (撮影:カレド・エル・フィキ〈エジプトの写真家〉)

 厳しい言葉である。男と女、そして性についての、イスラムの厳格な教えを凝縮したような言葉だ。
 イスラム学の総本山、カイロのアズハル大学のモハマド・オスマン教授は言う。
「性は結婚した男女間のものでなければなりません。婚姻外の交渉は許されない。性的な感情をかき立てるようなこともいけない。女性に顔と手以外は肌を見せないように求めているのも、そのためです」
 昼間、エジプトの人たちは比較的よく戒律を守っている。だが、日が沈み、涼しい川風が吹く夜になると、イスラムの教えは闇の中にのみ込まれていく。
 ナイル川に浮かぶ船上レストランで、ピラミッドに近いナイトクラブで、肌もあらわなベリーダンサーが踊りまくる。
「私たちは第4のピラミッドなのよ」
 売れっ子のダンサーが豪語した。「外国人観光客がエジプトに来るのは、ギザの3大ピラミッドに加えて、私たちの踊りがあるから」と自負する。
 観光だけではない。結婚式や誕生祝いでも、ベリーダンスは人気だ。暮らしの中に深く根付いている。
 謹厳なオスマン教授に「伝統文化の一つと言えるのではないか」と尋ねてみた。教授は言下に否定した。「ただ楽しみを追い求めるものは文化とは言えない」。「でも人気があります」。なお食い下がる。教授は少し不機嫌な顔になった。
「この世には犯罪が絶えない。だが、絶えないからといって合法になるわけではない。それと同じことです」
 犯罪と同じ扱いにされてしまった。
 実は、アラビア文学の傑作とされる千夜一夜物語も、エジプトではベリーダンサーのような扱いを受けている。
 一般には、「開け、ゴマ!」の呪文で知られる「アリババと40人の盗賊」や「アラジンと魔法のランプ」といった子供向けの話が有名だが、大人向けの艶話もふんだんに盛り込まれているからだ。
                                論説委員・長岡 昇

ゴマは「美の象徴」

 出だしからして、おどろおどろしい。
 千夜一夜物語は、ペルシャ王妃の密通で幕を開ける。不貞を知った王は打ちひしがれ、同じように妻に裏切られた弟と共に旅に出る。と、今度は旅先で魔王の愛人から淫らな誘いを受ける。
 事を終えて、愛人はささやく。
「女がこうと思い込んだら、誰にも引きとめることはできないのよ」
 魔王すら裏切られる。王の女性不信はここに極まる。旅から戻ると王妃を殺し、ひと晩ごとに乙女を召して殺すようになる。そこに才女シャハラザードが登場して、千夜一夜にわたって奇想天外な物語を語り続ける、という筋立てだ。
 もともとが枕辺での夜話である。口語体なので、表現もどぎつい。
 カイロ大学の文学部で千夜一夜物語を教材に使ったところ、女子学生の親たちから「とんでもない」と抗議される事件があった。1984年のことだ。
 授業を担当したアフマド・シャムスディン教授は「大学当局から教材に使わないように圧力をかけられた」と振り返る。学生たちが擁護に回ったこともあって、大学側は要求を取り下げたが、それ以降、授業ではあまり使われなくなった。

攻撃される自由奔放な物語

 翌85年には、千夜一夜物語を出版した業者がわいせつ罪で起訴され、有罪判決を受けた。控訴審で無罪になったものの、イスラム強硬派は勢いづき、しばらく出版が途絶えた。
 詩人のマサウード・ショマーン氏は「彼らは、艶っぽい話だけを取り上げて攻撃する。ろくに読んでもいない。先達が残してくれた貴重な財産なのに」と嘆く。
 千夜一夜物語は、民衆の日々の営みの中から生まれ、長い歴史にもまれながら今のような形になっていった。愛と憎悪、希望と欲望、人の気高さといやらしさ。それらすべてを、想像力の翼を思い切り広げて、これほど自由奔放に描ききった物語がほかにあるだろうか。
 なんとも不思議な物語の数々。
「アリババと40人の盗賊」も、謎に満ちている。盗賊たちは、金銀財宝を隠した洞穴の岩を開ける時の呪文を、なぜ、「開け、ゴマ!」にしたのか。小麦やエンドウ豆では、どうして開かないのか。
 ものの本には「ゴマの栽培は、古代エジプト時代までさかのぼることができる。搾油のほか、薬草としても使われた貴重な作物」とある。が、古くて貴重な作物ならほかにもある。
 どこで生まれた物語なのかも分かっていない。エジプト芸術学院のサラーフ・アルラーウィ助教授によると、スーダン国境のハライブ地方の語り部たちは「ここが物語の発祥地だ」と言い張っているという。もともと洞穴の多い土地で、「アリババの洞穴」と呼ばれるものもあるとか。
 そういえば、ゴマの原産地はアフリカのサバンナというのが定説だ。スーダンも含まれる。洞穴があり、しかもゴマのふるさとに近い。身を乗り出したが、どうも話ができすぎている。
 日本とエジプトの研究者に呪文のいわれを聞いて回っても、謎は深まるばかり。困り果てて、カイロの旧市街にあるスパイスと薬草の老舗「ハラーズ」を訪ねた。

強権政治が文化を守る役割

 主人のアフメド・ハラーズ氏は、笑みを浮かべながら「誰にも分からないでしょう。謎は謎のままにしておけばいいではありませんか」と慰めてくれた。そして、ゴマを使った面白い表現を教えてくれた。
 アラビア語では、美しい女性のことを「ゴマのようね」と言って、ほめる。目がパッチリして、ふくよかなことがエジプト美人の条件だが、鼻と耳は小さい方が好まれる。
 ゴマは、小さくて美しいものの象徴なのだった。
 90年代に入って、エジプト政府はイスラム組織への締め付けを強めた。日本人も多数犠牲になったクルソールでの外国人観光客襲撃事件の後、弾圧はさらに苛烈になった。今なお続く非常事態宣言の下で、多くの活動家が逮捕令状もないまま身柄を拘束されている。
 宗教勢力からの圧力が弱まり、千夜一夜物語の出版は細々とながら再開された。宗教勢力と世俗勢力が歩み寄って文化を育むのではなく、強権政治が文化を守る。悲しいことだが、それがエジプトの現実だ。
「開け、ゴマ!」。盗賊たちが残した呪文は、心の扉を開くことができずにもがく社会に、皮肉な隠喩となって響き渡る。


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出典
 千夜一夜物語の起源についてはインド、ペルシャ、アラブの3説があり、決着がついていない。特定の作者や編者のいない説話文学で、エジプトで発見された9世紀の写本が最古。各地の説話を取り込みながらバグダッドやカイロで内容が発展し、15世紀ごろ今に伝わる形になった。
 18世紀の初め、フランスの東洋学者アントワーヌ・ガランがアラビア語の写本から仏語に翻訳して紹介、中東以外の世界に広まった。19世紀になると、アラビア語の印刷本も登場した。英語版では「アラビアン・ナイト」の書名が付けられた。
 日本では、明治8(1875)年に「暴夜物語」の書名で英語版から初めて部分訳された。仏語版と英語版からの完訳出版の後、慶応大学の前嶋信次教授(故人)と四天王寺国際仏教大学の池田修教授が、1966年から26年かけてアラビア語原典から完訳し、平凡社東洋文庫から出版した(さし絵は同文庫「アラビアン・ナイト別巻」から)。
 ガランの翻訳以来、アラビア語の写本探しが続けられ、ほとんどの説話の原典が見つかった。「アラジンと魔法のランプ」と「アリババと40人の盗賊」の原典も、それぞれ19世紀末と20世紀初めに発見と伝えられたが、その後の研究で偽物と判明した。原典はともに未発見。

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訪ねる
 ベリーダンス=写真=はカイロ市内のホテルやピラミッド近くのナイトクラブで毎日、演じられている。だが、ショーは午前1時ごろから未明まで。そんな時間にやるのは、地元の人や湾岸産油国からの観光客が日中は暑いので体を休め、涼しい夜にくつろぐため。これでは、欧米や日本からの観光客はなかなか行けない。そこで、夕食をとりながらダンスを鑑賞できる船上レストランがある。ナイル川を2時間ほど上がり下りする間に、ベリーダンスとスーフィーダンス(旋舞)が演じられる。最高級の船上レストランで、酒代を含めて1人3千円から4千円ほど。

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