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*メールマガジン「小白川通信 11」 2013年11月23日

 「攻めの人」は守りが弱い、とよく言われる。攻撃することが習性になってしまい、防御のスキルが磨かれないからだろう。どうしても脇が甘くなってしまう。医療法人「徳洲会」グループから5千万円の資金提供を受けたことが明るみになり、その釈明に追われる猪瀬直樹・東京都知事の言動を見ていると、あらためて「脇が甘いなぁ」と感じる。

 猪瀬氏が徳洲会から5千万円を受け取ったのは去年12月の東京都知事選の前だ。この問題が明るみに出た昨日(11月22日)の昼過ぎ、彼は報道陣に対して、徳洲会の徳田虎雄・前理事長から「資金提供の形で応援してもらうことになった」と述べ、都知事選の応援資金であったことを認めた。

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険しい表情で報道陣の質問に答える猪瀬直樹東京都知事(中央)=東京都庁で11月22日午後、矢頭智剛撮影(毎日新聞ニュースサイトから)

 猪瀬氏の顧問弁護士は仰天したことだろう。これが事実なら、猪瀬氏には直ちに「公職選挙法違反(虚偽記載)」の容疑がかかる。選挙運動に使った金は自己資金であれ、借入金であれ、すべて収支報告書に記載して選挙管理委員会に報告しなければならない。都知事選後に猪瀬陣営が提出した収支報告書には、そのような記載はないからだ。私が顧問弁護士なら、「5千万円は選挙とは何の関係もないことにしなければならない」と強く助言する。

 実際にそのような助言があったかどうかは知らない。が、猪瀬氏はその後、一転して「選挙資金ではなく、あくまで個人としての借り入れでした」と言い始めた。「お金の目的」を変更することで追及を免れようとする作戦に切り替えたようだ。なるほど、個人の間の金の貸し借りは犯罪ではない。金額はともかく、世間ではままあることだ。

 しかし、今度は別な問題が浮上する。猪瀬氏は以前から徳洲会の徳田虎雄氏と面識があったわけではなく、都知事選に出馬することが決まってから「ご挨拶」にうかがったのだという。最初のご挨拶で5千万円も「無利子で貸してくれた」徳田氏の意図は何だったのか。意図も目的もなく大金をあげたり、貸したりしてくれる人はこの世に存在しない。今度は、東京都内で病院や介護施設を経営する徳洲会グループがそれを合理的に説明しなければならなくなる・・・・。真実を隠そうとすると、このように次から次に別の問題が噴き出してきて、収拾がつかなくなるのが世の常だ。

 ジャーナリストとしての猪瀬氏の仕事には、目をみはるものがあった。『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』では、権力の周りでうごめく政治家や政商の姿を活写した。『昭和16年夏の敗戦』では、無謀な戦争に突き進んでいった東条英機をはじめとする当時の指導者たちの愚かさを赤裸々に描いた。その輝きが、政治の世界に自ら飛び込んでいってからは色あせてしまった。しどろもどろの言動を見るにつけ、ドロドロした政界の闇の深さを覗き見るような感慨にとらわれる。

 5千万円という金額で思い出すことがある。私が新聞記者になって4年目の1981年1月に発覚した「千葉県知事の5千万円念書事件」である。当時の千葉県知事、川上紀一(きいち)氏が東京の不動産業者、深石鉄夫氏から知事選の資金として5千万円を受け取り、「貴下の事業の発展に全面的に協力するとともに利権等についても相談に応じます」との念書を交わしていた、という事件だ。

 川上氏は念書の存在を認め、知事を辞任するに至るのだが、深石氏は千葉県だけで仕事をしていたわけではない。私の初任地の静岡でも「彼が政治家に5千万円を渡した」という情報が飛び込んできた。「調べろ」との支局長の指示を受けて、私は静岡県の伊豆半島にある大仁(おおひと)町に走った。

 当時、大仁町では日産自動車が大規模な福利厚生施設を建設する計画を進めていた。が、なかなか前に進まない。深石氏は日産の依頼を受けて、計画を円滑に進めるために「静岡県の政界の実力者に接近、5千万円を提供した」というのが疑惑の粗筋だった。計画予定地の土地登記を調べ、日産の本社に出向き、深石氏の事務所の扉をたたいた。「政界の実力者とは静岡県知事であり、金を受け取った疑いが濃厚」との心証を得たが、物証は得られず、記事にする見通しは立たなかった。

 一生懸命に取材したのに1行も書けないのは悔しい。で、ある晩、山本敬三郎・静岡県知事の私邸に夜回りをかけた。予約なしで、いきなり玄関口に立ち、「念書事件の深石氏から静岡の政治家にも5千万円渡っているという情報があります」と問い質した。「知事に5千万円渡っている」と口にしたら、名誉棄損になる。だから慎重に「静岡の政治家にも」と言葉を選んだのだが、うろたえたのか山本知事は「私は受け取ってないよ、私は」とむきになって否定するのだった。

 知事サイドも必死だった。朝日新聞の取材がどこまで及んでいるのか、気になって仕方がなかったのだろう。その後、定例の知事会見があるたびに、会見後に「長岡君、ちょっとお茶でも飲みませんか」と知事から声がかかった。「五千万円問題」の潜行取材を知らない他社の記者や県庁の幹部はいぶかしがり、「あの記者は知事と特別な関係にあるらしい」と変なうわさまで立った。世の中の歯車はおかしな回り方をすることもある、と思ったものだ。

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田中角栄元首相(Source:http://yoshio-taniguchi.net)

 田中角栄元首相がロッキード事件で受託収賄の疑いで逮捕されたのは、これらの「知事5千万円受領疑惑」の5年前、1976年のことである。全日空の旅客機選定をめぐる大疑獄事件で、田中角栄氏が受け取ったとされる金は5億円だった。その記憶もまだ生々しく、政治通の間では「一国の総理に大事なことを頼むなら5億円、知事に頼むなら5千万円が相場」と言われていた。「なるほど、切りのいい金額だ」と、妙に納得したのを覚えている。

 1980年代のバブルの時代、政治家への献金の相場は跳ね上がったに違いない。だが、バブルの崩壊とデフレを経て、献金の相場はまた、昔に戻ってしまったのかもしれない。都道府県の知事はさまざまな許認可の権限を握っている。こと許認可権に限れば、衆議院議員や参議院議員の及ぶところではない。

 徳洲会グループはどのような意図、どのような目的をもって、東京都知事候補に5千万円を提供したのだろうか。それが資金供与だったのか、貸付だったのかは、さほど重要ではない。返済したかどうかも関係ない。収賄罪にしろ詐欺罪にしろ、受け取った時点で犯罪は成立しており、返済しても立件に影響はない。知りたいのは「その金の意味」であり、それが犯罪として立件できるのかどうかである。

 1970年代、80年代の東京地検特捜部は実にまともで、強かった。報道機関も執拗に事実を追い続けた。それがこの国の民主主義をより良いものにした。検察の不祥事を乗り越えて「徳洲会グループの選挙違反事件」を摘発した特捜部がどこまで政治の闇を暴くことができるのか。日本のメディアが今、どれだけの強靭さを持っているのか。東京都知事の5千万円受領事件の帰趨は、それを教えてくれるだろう。
(長岡 昇)



 
*メールマガジン「小白川通信 10」 2013年11月10日

 この春まで4年間、民間人校長として働いて気づいたことがある。それは、公務員の世界では「いかにして多くの予算を獲得し、使い切るか」が想像以上に大きな比重を占めていることである。そして、使い切ることを重ねているうちに、いつの間にか、その予算がそもそも何のための金なのか、本当に必要な予算なのかといったことを考えなくなってしまう。

 「民間企業だって同じだ。予算獲得の代わりに売り上げ増に血道をあげているではないか」と反論する人がいるかもしれない。確かに似ている。事業部ごとに、獲得した予算を使い切る傾向もある。しかし、決定的に異なる点がある。それは、企業の場合、必要がなくなった事業に資金をつぎ込み続ければ経営が傾き、やがては倒産して消えていくことだ。「市場」という公平で冷酷な審判がいるのだ。政府や自治体にも議会や報道機関などのチェック機関があるが、それらは市場ほどには公平でも冷酷でもない。

 一つの国やその中にある自治体においてすら、血税の使途を適正にするのは難しい。ましてや、それが世界レベルになると、もっと難しくなる。国連とその関係機関のことである。平和維持活動や難民の救済といった崇高な使命に携わっていることもあって、その無駄遣いや腐敗を追及する矛先はどうしても鈍くなってしまう。私が知る限りでは、気合を入れてこの問題に取り組んだことがあるのは、英国のBBC放送くらいだ。かつて、精力的な取材を通して国連の無駄遣いと腐敗を調べ上げ、告発したことがある。

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パリのユネスコ本部(インターネット上の写真)

 最近、ひどいと思うのはユネスコ(国連教育科学文化機関、本部・パリ)の無駄遣いである。世界自然遺産や文化遺産を登録して、その保存活動に力を入れたのは立派な仕事だと思うのだが、それが一段落して事業の拡大が望めなくなるや、ユネスコは「無形文化遺産」の登録事業に乗り出した。役人の世界でよく見られる「新規事業の創出」である。

 2003年のユネスコ総会で「無形文化遺産の保護に関する条約」が採択され、2006年に発効した。保護の対象になるのは「口承による伝統及び表現」「芸能」「社会的慣習、儀式及び祭礼行事」「自然及び万物に関する知識及び慣習」「伝統工芸技術」の五つだ。食文化も保護の対象とされ、和食も「無形文化遺産」として登録されることになった。食文化に関してはすでに、フランスの美食術や地中海料理、メキシコやトルコの伝統料理が登録されており、「和食もこれに匹敵する」というわけだ。

 ひどい話である。どの国、どの民族、どの地域の人々にとっても、それぞれの食文化はかけがえのない価値を持つ。与えられた風土の中で生き抜くために、先人が知恵を重ね、涙と汗をまぶしながら育んできたものである。なのに、それに対して、国際公務員であるユネスコの職員が段取りを付け、政治家や学識者を集めて審査して格付けし、登録するというのだ。信じがたい傲慢、不遜な行為と言わなければならない。そんなことに我々の血税が政府を通して流され、費消されていいのか。

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 実は、早期退職する前年の2008年にユネスコから朝日新聞社に無形文化遺産に関して、「メディア・パートナーシップを結びませんか」という提案があった。いくぶん関係する部署にいた私は「そんな企画に加わるのはとんでもない。食い物にされるだけだ」と強硬に反対したが、すでに社の首脳が提携を決めた後であり、ごまめの歯ぎしりに終わった。「日本の新聞社と手を組むとしたら朝日新聞しか考えられません」とか何とか言われた、と聞いた。

 日本の政府や政治家には厳しい姿勢を崩さないのに、こと国連となると、日本の報道機関は手の平を返したようになる。朝日新聞社も右ならえ、だ。古巣のことを悪く言いたくはないが、本当に情けない。社の上層部が決めたとなると、普通の記者は「批判する気概」をどこかに放り投げてしまうようだ。11月8日の朝刊2面に「無形文化遺産に和食が登録されるの?」という記事が掲載されたが、国連の広報記事と何ら変わらない。問題意識の「も」の字も感じさせない、いわゆるチョウチン記事である。日本政府のチョウチン記事は恥ずかしいが、「世界政府」とも言うべき国連のチョウチン記事は恥ずかしくないらしい。「メディア・パートナーシップ」という錦の御旗があるからか。

 中華料理やインド料理、タイ料理やベトナム料理、中東やアフリカ諸国の料理・・・・。それらに比べて、フランスや地中海、メキシコやトルコ、日本の料理を先に「無形文化遺産」に登録する理由をどう説明するのか。どのような基準に基づいて、だれが決めたのか。少なくとも、それを俎上に載せ、言及するのが「健全な報道機関」というものだろう。

 食文化に限らない。口承文化にしても芸能、祭礼行事にしても、数値化できないもの、言語では表現できないもの、見えない部分にこそ、深い価値があるのではないか。そこが世界自然遺産や文化遺産と質的に異なるところだ。無形の文化をどう扱うかは、それぞれの国や共同体に任せ、互いに尊重する。それで十分ではないか。

 私に言わせれば、ユネスコの「無形文化遺産」事業そのものが、新しい予算の獲得という、役人が陥りがちな邪(よこしま)な考えから始まったものである。最初から無理なことを官僚の作文で味付けして始めた事業だから、ますますおかしな方向に突き進んでしまうのだ。世界自然遺産や文化遺産と違って、無形文化遺産ははるかに奥が深く、底なし沼のように事業費が膨らんでいく。それを承知で始めたのだろうから、役人の野望は恐ろしい。
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 9」 2013年11月4日


 山形の農村に住んでいても、新聞や雑誌の書評を読めば、読みたい本を探すことはできる。それをインターネットのアマゾンで注文すれば、数日後には手許に届く――と強がっているが、最近「やっぱり、身近なところに本屋さんがあるといいなぁ」と思う出来事があった。

 夕方、山形市内である人と待ち合わせた。早く着き過ぎてしまい、20分ほどあったので、近くの本屋さんに入った。そこで文芸書のコーナーに差しかかった時である。まるで「オイ、俺を手に取ってみろよ」と声をかけられたように、英国の作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥 Heart of Darkness』(三交社)という本に吸い寄せられていった。
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Joseph Conrad (3 December 1857-3 August 1924) Source:Wikipedia

 まず、最初にある「訳者まえがき」を読んだ。「この小説は文学的にも思想的にもたいへん興味深い作品である。英文学史上屈指の名作とみなされ、世界の英語圏諸国の大学で、教材として、20世紀で最も多く使用された文学作品とも言われる」とある。ここで、心にピクンと来るところがあった。大学入学直後に味わった小さな挫折感と、そのトラウマがかすかにうずいたのである。

 山形から上京した18歳の私は、すこぶる小生意気な若者だった。周りにも同種の人間がたくさんいた。そうした新入生の鼻っ柱をへし折ってやろうとしたのだろう。英語担当の助教授は教材として、コンラッドの短編『文明の前哨地点 An Outpost of Progress』を使った。19世紀末の作品なので、英語そのものが難しい。内容はもっと難しい。辞書で単語の意味は分かっても、何が書いてあるのか、何を言いたいのかほとんど分からなかった。

 その助教授の試験問題がまた、難しかった。設問も英語で書いてあり、作品の意味が分からなければ答えられないものだった。当然のことながら、ボロボロの赤点。英語にはいささか自信があった田舎育ちの18歳はいたく傷ついた。そして、助教授の目的は見事に達成された。落第しないために、学生たちは彼の後期の授業に必死で取り組まざるを得なくなったからだ(後期の試験は極端に簡単で、平均すれば合格点を取れるように配慮してあった)。

 そんな古傷を思い出しつつ、「訳者まえがき」に惹かれて購入し、読みふけった。ベルギーのかつての植民地、コンゴの奥地に小さな蒸気船(川船)の船員として赴いたコンラッド自身の体験に基づいて書かれた長編小説である。訳文が練れているので、日本語としては読みやすいのだが、内容は相変わらず難しい。正直に言えば、まだよく理解できないところがそこかしこにあった。けれども、途中でやめることはできず、読み通した。人の心の奥底を抉り出すようなところがある、と感じたからだ。

 解説を読んで、英国人の作家と思っていたコンラッドが実は没落ポーランド貴族の末裔で、英国に帰化してからも英語を流暢にはしゃべれない、特異な作家だったこと、ベトナム戦争を題材にした映画『地獄の黙示録』がこの『闇の奥』を下敷きにしていたことを知った。人間とはどういう生きものなのか。文明とは何か。野蛮とは何か。『闇の奥』も『地獄の黙示録』も、それを透徹した目で見つめ、描いた作品だった。「18歳の若者に理解できないのも無理はない」と今にして思い、古傷が少し癒やされたような気がした。

 翻訳した藤永茂(ふじなが・しげる)という人がまた面白い経歴の持ち主だった。1926年、旧満州の長春生まれ。九州大学理学部の物理学科を卒業し、1968年からカナダ・アルバータ大学教授、とあった。著書に『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)とあるので、これも取り寄せて読んでみた。今年の9月にコロラドとテキサスを訪れ、かの地の開拓の歴史を少しかじり、インディアン殺戮のすさまじさを知ったばかりなので、興味津々で読み始めた。こちらは小説ではなく、アメリカ史における開拓とインディアンがたどった運命を綴ったノンフィクションである。「読みたい」と思っていた内容が書き記してあった。

 1620年の秋にメイフラワー号でアメリカ大陸(マサチューセッツ州プリマス)に渡ったイギリスの移民101人は冬の厳しさに耐えられず、その半数が春を待たずに死んだこと。先住民であるインディアンたちは困窮する彼らを見捨てることなく、生きる術を教えたこと。翌年の秋、移民たちは豊かな収穫に恵まれ、インディアンと共に祝った。この時の祭りが「感謝祭(サンクス・ギビングデイ)」として定着していった、と記してあった。本のテーマは、藤永氏が記す次の一節に要約されている。

 「飢えた旅人には、自らの食をさいてもてなすというインディアン古来の習慣にしたがって、彼(白人の入植地一帯を支配していたインディアンの指導者マサソイト)はピルグリムを遇した。しかし、ピルグリムたちの『感謝』は、インディアンの親切に対してではなく「天なる神」へのみ向けられていたことが、やがて痛々しいまでに明らかになる」(同書p29)

 その後の叙述は、銃と馬を持つ欧州からの移民たちがいかにしてアメリカ・インディアンを古来の土地から追い払い、殺戮し、開拓を続けていったかの物語である。血みどろの戦いの末にインディアンたちは西へ西へと追い立てられていった。戦闘は女性や子どもをも巻き込み、しばしば虐殺の様相を呈した。その描写はおぞましいほどである。やがて、インディアンたちは「居留地」というゲットー(収容所)へと押し込められ、細々と生きていくしかなくなった。藤永氏は、アメリカ・インディアンの社会を次のように描く。

 「(彼らは)自分たちをあくまで大自然のほんの一部と見做し、森に入れば無言の木々の誠実と愛につつまれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心とに支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた人間たちの声がきこえて来るに違いない」(同書p252)
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18世紀末から19世紀初めにかけてインディアン諸部族の連合を率いて白人と戦った指導者テクムセ(テカムセとも表記)S:Wikipedia

 藤永茂氏は量子化学者である。その彼がなぜ、ジョセフ・コンラッドの作品と彼の思想にのめり込み、アメリカ・インディアンの運命にかくも深く身を寄せていったのか。それは、コンラッドがアフリカ・コンゴのジャングルの奥深くで観たものと同じものをアメリカ・インディアンがたどった歴史の中に観たからではないか。そして、藤永氏の言葉を借りれば、それは「現在、我々の直面する数々の問題と深くかかわっており、我々がそれによって生きる価値の体系の問題であり、人間がしあわせに生きるとはどういうことかという切実な関心事と深くかかわっている」(同書p3)からにほかならない。

 19世紀のコンラッドの作品も、同じ時期にヨーロッパからの移民に追われ、死んでいったアメリカ・インディアンたちの物語も、少しも色あせることがない。なぜなら、21世紀を生きる私たちもまた、一人ひとりが同じ根源的な問いを突き付けられ、日々、選択を迫られながら生きていかなければならないのだから。
(長岡 昇)

 《注》白人の西部開拓・入植に武力で抵抗したインディアン諸部族連合の指導者テクムセ(テカムセ)について詳しく知りたい方は、次のウィキペディアURLを参照してください。
▽日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB
▽英語版 http://en.wikipedia.org/wiki/Tecumseh