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October 2013 の投稿一覧です。
*1994年4月4日 朝日新聞夕刊(社会面)

 太平洋戦争の末期、ビルマ(ミャンマー)駐留の日本軍がインド北東部の占領をめざして攻め込んだインパール作戦から、今年で50年。激しい戦闘と悲惨な退却行で命を落とした将兵は、2万人とも3万人ともいわれるが、その数すらはっきりしない。区切りの年とあって、この3月には170人近い遺族や戦友会関係者が、追悼のため相次いで現地を訪れ、インドの辺境で手を合わせた。

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野原に仮の祭壇を設け、異郷に眠る肉親に向かって手を合わせる遺族=1994年3月17日、インパール盆地北方で(撮影・長岡昇)

 追悼に訪れたのは、政府派遣の慰霊巡拝団8人と全ビルマ戦友団体連絡協議会(西田将会長)の8グループ161人。遺族のひとり、大江ち江さん(69)=滋賀県高島郡新旭町=の兄達男さんは、インパール盆地の北カングラトンビで戦死した。「小隊長さんが兄の右腕だけをだびに付し、昭和22年3月に自宅に届けてくれはったんです。たまたま同じ日に、マニラで戦病死した次兄の遺骨も届きました。母は気丈な人でしたけど、その夜は白木の箱を両わきに抱きかかえて、声を上げて泣いとりました」

 埼玉県北葛飾郡庄和町の名倉健次さん(61)の父平次さんは、ミャンマー国境に近いテグノパールで戦死した。砲兵部隊の兵士だった。一家は働き手を失い、当時12歳だった名倉さんが農業を継いだ。「日本は何不自由なく暮らせる、豊かな国になりました。皆様はその礎になられたのです」。インパール南のロッパチンに建設中の平和記念碑の前で、合同慰霊祭が営まれ、名倉さんは遺族を代表して、かすれ声で鎮魂の言葉を読み上げた。

 インドとはいっても、インパール周辺はモンゴル系の少数民族が多数を占め、分離独立を求める武装闘争が続く。中央政府は外国人の立ち入りを厳しく制限しており、地元にとっては、日本と英国の旧軍関係者がほとんど唯一の外国からの訪問者になっている。しかし、現地を訪れる遺族も老いが進む。地元マニプール州の政府当局者は「日本の若い人たちはここに来てくれるでしょうか」と語っていた。(インパール〈インド〉=長岡昇)
  
 <インパール作戦> 1944年3月から7月にかけて、日本のビルマ方面軍第15軍が実施したインド進攻作戦。敗色濃い太平洋戦争の戦局打開を狙って、約8万5600人の兵力(航空部隊を除く)を投入。インド北東部インパールの占領をめざしたが、英軍の反撃で敗退した。


*メールマガジン「小白川通信 8」 2013年10月25日

 戦争が人の心に刻むものはかくも深く、重いものなのか。庄内町余目(あまるめ)の乗慶寺(じょうけいじ)にある「追慕之碑」の前に立つと、あらためてそう思い知らされる。

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生き延びた将兵が建立した「佐藤幸徳将軍追慕之碑」=山形県庄内町余目の乗慶寺


 第2次大戦の末期、旧日本軍は戦局の打開をめざして、ビルマ(ミャンマー)から英領インドの北東部に攻め込んだ。「インパール作戦」として知られるこの戦いで、各部隊は3週間分の食糧しか与えられず、「足りない分は敵地で確保せよ」と命じられて突進した。戦いは長引き、雨期が始まり、兵士は飢えと熱病で次々に倒れていった。退却路は「白骨街道」と化し、数万人が戦病死した。

 この作戦を担った師団の一つを率いたのが余目出身の佐藤幸徳(こうとく)中将だった。彼は補給もせずに突撃を命じる軍上層部の対応に憤り、戦闘の最中に独断で師団の撤退に踏み切った。生還した佐藤師団長は「精神錯乱」の汚名を着せられ、ジャワ島に左遷された。戦後も、旧軍幹部から「この独断撤退によって戦線が崩壊し、作戦そのものも失敗に終わった」と指弾された。

 だが、彼の下で戦った将兵は違った。「もともと成功の見込みのない無謀な作戦だった。師団長が撤退を決断したからこそ、われわれは生き延びることができた」と慕った。そして、戦争が終わって40年たってから「追慕之碑」を建立したのである。

「復員後も、幸徳さんに対する世間の目は厳しかったようです。長くかかりましたが、ようやくきちんと評価されるようになりました」と、余目の本家を継いだ佐藤成彦(しげひこ)さん(66)は語る。

 トゲトゲしかった日英両国の元軍人たちの関係も変わった。長い時を経て、互いに手を差し伸べるようになってきた。佐藤師団長が取り持つ縁で、来月には庄内町の有志が訪英して元軍人やその家族と語り合う。
(長岡  昇) 
                  (コラム「学びの庭から」はこれで終わります)
    
 *10月25日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(6)
   
      *      *      *

 短いコラムなので触れることができませんでしたが、実はニューデリーに駐在していた1994年に、私はインパールを訪れたことがあります。この年は悲惨な退却行で知られる「インパール作戦」から50年の節目にあたり、日本から「これが最後の機会」と思い定めた慰霊巡拝団が多数、現地入りしました。その慰霊団への同行取材でした。

 インドでは取材規制がほとんどなく、原則としてどこでも自由に行けたのですが、インパールを含む北東部については当時、内務省がジャーナリストの立ち入りを厳しく制限していました。インドからの独立を求める分離派ゲリラによる武装闘争が続き、治安がかなり悪かったことに加えて、「独立派の主張を海外メディアに報道されるのは不愉快だ」という中央政府の意向もからんでいたようです。

 「これを逃せば、在任中にインパールに行く機会はない」と考え、内務省の担当者のもとに「入域許可を出してほしい」と日参し、日本大使館からも「慰霊の旅を取材するのだから便宜を図ってほしい」と要請してもらって、出発前日の夕方にやっと許可を得た記憶があります。ハンコを捺す時の内務省幹部の渋面を今でも覚えています。

 その時のルポ記事は、NPO「ブナの森」の「雑学の世界」にアップしてありますが、取材にあたっては事前にインパール作戦のことをかなり詳しく調べました。文献の中で最も詳しく信頼性が高いのは、防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書 インパール作戦』(朝雲新聞社)でした。英国側の資料にも丹念に当たっており、バランスがいい。作戦に従軍した朝日新聞記者、丸山静雄氏が戦後40年たってから出版した『インパール作戦従軍記』(岩波新書)も深いものを感じさせる本でした。

 ただ、困ったのは、これらの本を読んでも「インパール作戦ではいったい何人亡くなったのか」が分からないことでした。作戦に参加した陸上兵力は8万5600人。そのうち、3万人から4万人前後が死亡したと推定されるのですが、判然としません。明確にズバッと書いている資料もありましたが、そちらは信頼性に難がありました。

 調べるうちに、なぜ死者の数が分からないのか、おぼろげながら見えてきました。もともと弱体化していた日本軍のビルマ方面軍(作戦開始時で31万6700人)は、インパール作戦の大失敗で全体がボロボロになりました。そして、態勢を立て直すいとまがないまま、反攻してきた英軍と激戦になり、その後の「イラワジ会戦」などでさらに多くの犠牲者を出してしまいました。その結果、どの戦闘で誰が死亡したのか、生存者と死者、行方不明者の把握すらできない状態に陥ってしまった、というのが真相のようです。

 アジア太平洋戦争では、あちこちの戦場で部隊が玉砕しました。ガダルカナル島やフィリピンの島々のように餓死者が大量に出た戦場もあります。だが、「戦後何年たっても死者の把握すら十分にできない」という戦場はほかにないのではないか。インパール作戦は実に悲惨でみじめな戦いでした。作戦を主導した第15軍の牟田口廉也(むたぐち・れんや)司令官は、その責任を負うどころか、戦後も「あと一息で英軍を倒せたのに、第31師団の独断撤退で勝機を逸した」と自己弁護に余念がありませんでした。それが生き残った将兵の怒りを一層かき立て、戦友会の結成や運営にも影を落としたようです。

 このルポ記事の執筆から19年たって、独断撤退した佐藤幸徳中将が故郷の山形県出身であることを、今回ひょんなことから知り、コラムで紹介させていただきました。きっかけについて書くと長くなりますので、「山形大学と英国の大学との留学生交換交渉の過程で知った」とだけ記しておきます。人と人とのつながりの不思議さを感じさせられた取材でした。

*メールマガジン「小白川通信 7」 2013年10月5日

 山形県の内陸部にある私の故郷の朝日町では毎日、午前11時半になるとサイレンが鳴り響く。今では「もうすぐお昼ですよ」くらいの意味しかないのだが、かつてはもっと大きな役割を担っていた。

 新潟県境に近い、山あいの町である。農民は山に入って杉林の下草を刈り、山腹の畑で作物を作っていた。小さな湧き水を頼りに棚田で稲作をしている農家もあった。腕時計などない時代、農民はこのサイレンで昼近くになったことを知り、山から下りて家に戻り、昼食を摂っていた。多くの村人が自宅から歩いて30分ほどかかる山の中で仕事をしていたのである。

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棚田では稲刈りが終わり、脱穀が始まっている=山形県山辺町大蕨で(10月5日)


 経済成長が終わり、農業の担い手が減るに従って、まず山仕事が続けられなくなり、山の中の畑や田んぼが放棄された。それでも、村人たちは里山のふもとにある田んぼだけは何とか耕作し続けた。数百年にわたって人々はコメによって命をつないできた。先祖伝来の田んぼは「命」そのものだったからだ。その命も全部は守れなくなり、休耕田があばたのように広がり続けているのが今の農村の姿である。

 その後、みんな腕時計を付けるようになった。農作業の多くも自宅近くの田んぼか果樹園になった。午前11時半にサイレンを鳴らす必要はもうないのだが、まだサイレンを鳴らしている。朝日町だけでなく、近隣の町でも続けているところがある。サイレンの音は変わらないのだが、かつては活力に満ちていた音が今ではやけに寂しげに聞こえる。

 里山を歩き回るたびに、「もったいないなぁ」としみじみ思う。広大な山々が利用されることなく荒れ果て、山の中の畑と田んぼの多くは原野に戻ってしまった。福島での原発事故の後、人々が暮らしていた町や住宅地、田んぼが雑草だらけになっている風景が映し出され、都会の人は驚いているが、日本の農村の山はかなり前から同じような状態になっていた。全国あまねく、そんな風になったので、誰も気にしなかっただけだ。

 4年前に新聞社を早期退職して故郷に戻ってから、ずっと「この里山をなんとか活用できないものか」と思ってきた。そして最近、同じような思いを抱いている人が大勢いて、「里山を基盤に暮らしを立て直す試み」を始めていることを知った。日本総合研究所の藻谷(もたに)浩介氏とNHK広島取材班の共著『里山資本主義』(角川ONEテーマ21)に教えられた。この本はもちろん、「農村での自給自足を旨としていた昔に帰れ」などと呼びかけているわけではない。その訴えはもっと深い。

 商人が財を蓄えて経済を引っ張る商業資本の時代から産業革命による工業化を経て、資本主義は「カネがカネを生むマネーの時代」に入って久しい。その最先端を走っているのがアメリカの資本主義である。1%の金持ちが多くの富を集め、普通の人との極端な「富の分配の格差」をなんとも思わない。それどころか、「才覚のある人間が多くの報酬を受け取るのは当然のこと。それを非難するのはただのやっかみ」と公言してはばからない。「世界経済はアメリカの基準によって再編されるべきだ」とも唱えている。社会と経済のグローバル化は避けがたい流れなのだろうが、それがこういう人たちの論理と基準で推し進められてはたまらない。

 「そんな資本主義でいいのか」と問いかけ、里山を生活の基盤とする新しい生き方を提示しているのがこの本だ。都会で猛烈社員として働いていた若者が退社して山口県の周防(すおう)大島に移って無添加のジャムを作る店を出し、繁盛している。規格外として都会に出荷できなかった柑橘類も活用しているところがミソだ。

 中国山地の山あいにある岡山県真庭(まにわ)市では、建築材を作るメーカーが製材の際に出る木くずをペレット(円柱状に小さく固めたもの)にして燃やし、発電や暖房に使うビジネスモデルを確立した。工場で使う電力をすべて賄えるようになり、地元の役場や小学校の暖房もボイラーでこのペレットを燃やして行う。エネルギー源を外国に頼る必要がなくなり、そのほとんどを地元にあるもので賄えるようになった。広大な山林を背負っており、持続可能な範囲で山の資源を使っているので、枯渇するおそれもない。

 広島県の庄原(しょうばら)市には、ペレットに加工するなどという難しいことをしなくても、薪を効率良く燃やす「エコストーブ」を開発することで燃料費を大幅に減らすことに成功した人たちがいる。彼らはこれを「笑エネ」と呼び、年寄りは「高齢者」ではなく「光齢者」なのだと言う。与えられた条件の中で、明るく、前向きに生きる。

 実は、こうした試みをずっと前から国家ぐるみで展開している国がある。オーストリアである。本では、その実情も紹介している。欧州の真ん中で何度も戦争の惨禍をくぐり抜けてきたこの国は、エネルギーを外国に頼る危うさを自覚し、原子力発電のリスクを認識して、国内に豊富にある木材資源を最大限に活用する道を選んだ。国レベルでも実行可能な選択肢なのである。

 エコノミストの藻谷氏は「経済全体を里山資本主義に転換しよう」などという非現実的なことを唱えているわけではない。社会を「マネー資本主義」一色に染め上げるのではなく、こうした「里山資本主義」もサブシステムとして採用し、強欲な資本主義にのめり込むのを防ぐバランサーとして広げていこう、と呼びかけているのだ。実に説得力のある主張である。

 先のメールマガジンでお伝えしたように、山形大学と留学生の交換協定を結んでいる米コロラド州立大学と話し合うために9月下旬にコロラド州のフォートコリンズを訪れた。そこでも、この里山資本主義と重なるような企業活動が始まっていた。

 同州の「モーニング・フレッシュ乳業」という会社は、無農薬の牧草で育て、成長ホルモン剤などを一切使わないで飼育している乳牛から搾乳し、それを戸別配達している。有機農業の酪農版である。別の企業は紙コップをリサイクル資源で作り、「小さな選択が社会を変える」と呼びかけていた。地元の企業とコロラド州立大学の研究者たちが手を組み、次々にベンチャーを立ち上げている。マネー資本主義の本家でも「このままでいいのか」と、造反の炎が上がり始めているのだ。

 現在の米国スタイルの資本主義を「強欲な資本主義 Greedy Capitalism」とするなら、里山資本主義は「穏やかな資本主義 Green Capitalism」と呼べるのではないか。「グリーン」には「(気候などが)穏やかな」という意味もある。「持続可能で環境にやさしい」というニュアンスも含む。英語のスローガンにするなら、
 From Greedy Capitalism to Green Capitalism
といったところだろうか。

 こうした営みが大都市の近くではなく、地方、それも過疎と高齢化に苦しむ辺縁の地で始まり、広がりつつあるのはある意味、当然のことであり、この国の希望でもあるような気がする。なぜなら、大都市に住み、アメリカに視線を注ぎながら未来を考えている人たちには自分たちの足許で何が起きているのか、分からなくなっているからである。

 2020年の東京五輪開催に血道をあげ、開催が決まったことに浮かれている人たちに言いたい。関東大震災が起きたのは1923年(大正12年)、今から90年前のことである。首都の直下には大きなエネルギーがたまっており、いつ次の大地震が起きてもおかしくない状況にある。東京の防災態勢がまだまだ不十分で、巨額の投資が必要なことについて防災専門家の間で異論はなかろう。東南海、南海地震への備えも膨大な資金を必要とする。貴重な血税は地震や津波に備え、一人でも多くの命を救うためにこそ使われなければならない。お祭りに巨費を投じる余裕が、今、この国にあるのか。
(長岡 昇)

  《追伸》文中でご紹介した山口県周防大島のジャムのお店は「瀬戸内ジャムズガーデン」といいます。そのホームページも、すごく楽しそうです。店名のところをクリックして、ぜひご覧になってください。



*メールマガジン「小白川通信 6」 2013年9月30日


 山形県は米国の中西部にあるコロラド州と友好の盟約を結んでいる。山形には奥羽山脈、コロラドにはロッキー山脈がある。白銀の峰々が両者を結び付けた。

 山形大学とも縁が深い。コロラド州立大学と留学生の交換協定を交わしており、この5年間で9人の山大生が留学した。もっとも人気のある大学の一つである。留学した学生たちはどんな暮らしをしているのか。実情を知り、州立大学の教職員との交流を深めるため、同州フォートコリンズにあるキャンパスを訪ねた。

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昼食後、芝生で車座になって福祉政策を論じる大学院生たち=コロラド州立大学で


 すでに朝晩は冷え込みが厳しく、構内のニレの木はうっすらと色づき始めていた。学生は約3万人。山形大学の3倍以上だ。昨年度に受け入れた留学生は1500人を上回る。受け入れ数の国別順位が興味深い。1位の中国と2位インドは予想通りだが、3位がサウジアラビア、4位ベトナム、5位韓国と続き、日本はなんと6番目だ。米国全体でも似た傾向にある。これでは、日本政府としても「留学生の大幅増を」と号令をかけたくなるだろう。声を張り上げるだけではなく、渡航費用の一部を支給するなど留学の支援態勢をぐんと強化する必要がある。

 留学するのは語学に自信のある学生が多いが、それでも英語で行われる講義を理解し、参考文献を読みこなすのは容易なことではない。渡米後しばらくは、大学内の語学コースで学習に励むケースが多い。3人の山大生も会話力の向上に努めていた。

 学園都市のフォートコリンズは「米国で一番暮らしやすい街」と報じられたことがある。留学担当のローラ・ソーンズさんは「気候が穏やかで、犯罪も少ないからでしょう」と語った。とはいえ、この大学にも自前の警察部隊があり、銃を携行した要員が構内を巡回している。「治安の風土と感覚」が日本とはまるで異なることを忘れてはなるまい。
(長岡 昇)

 *9月27日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(5)から。見出しは紙面とは異なります。

      *      *      *

 紙幅の関係で、コラムではコロラド州立大学への留学生の国別内訳について詳しく触れることができませんでした。昨年度ではなく、最新の2013年秋学期の留学生1506人の内訳は次の通りです(大学生と大学院生の合計。3?4週間の夏季集中講座に参加した留学生も含む)。
▽中国 443人▽インド 213人▽サウジアラビア 188人▽ベトナム 57人▽韓国 50人▽リビア 42人▽イラン 30人▽オマーン 28人▽クウェート 27人▽台湾 24人▽英国 22人▽タイ 19人▽コロンビア 18人▽オーストラリア 17人▽ブラジル 17人▽マレーシア 16人▽日本 13人
 (この数字はコロラド州立大学のホームページのデータから拾ったものです。ほかの国と違って、インドの留学生はほとんどが大学院生です。日本からは学部生9人、大学院生4人)

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コロラド州立大学の語学(英語)コースの授業風景


 この大学に留学している山形大学の学生(3人)によると、日本人留学生の数があまりにも少ないので中国や韓国、アジア・中東の留学生は不思議がっているそうです。「日本に関心を持っている留学生が多いので、日本人と知り合いになりたがっていてモテモテです」と話していました。

 テキサス大学アーリントン校(州立)への留学生3556人の国別内訳は次の通りです(2012年秋学期)。
▽インド 825人▽ネパール 387人▽中国 225人▽韓国 159人▽ベトナム 146人▽バングラデシュ 98人▽ナイジェリア 85人▽タイ 46人▽台湾 43人▽メキシコ 43人。
 
 日本からの留学生は24人。トップ10に入っていないため、順位は不明。10数位か20数位と思われます。あとで精査してみます。なお、ネパールからの留学生が飛び抜けて多いのはテキサス大学アーリントン校の近くにネパール人のコミュニティーがあり、母国から留学生を呼び寄せているから、とのことでした。

 日本からのアメリカへの留学生は東部や西海岸の大学に進むケースが多いので、米国全体の留学生国別内訳では、日本の順位はもう少し上がるようです。統計がいくつかありますが、「フルブライト・ジャパン(日米教育委員会)」の調査(2011?2012年)によると、日本の留学生数は7位です。
http://www.fulbright.jp/study/res/t1-college03.html

 こうした国別順位については、さまざまな受け止め方があると思いますが、若者が異なる土地で異なる文化の下で育った人々と触れ合い、学識を深めることはとても大切なことだと考えます。「米国への留学は減っているが、よその地域への留学は増えている」ということならいいのですが、そうではなく、全体として日本の若者の留学が減り続けています。若者の資質や気力の問題だけではなく、日本の社会から留学を後押ししようとする気概と活力が失われつつあるように思います。その流れに抗することはドンキホーテ的かもしれませんが、微力を尽くすつもりです。

 今回の出張で、米国の大学はますます「富める者の学び舎」になりつつあることも確認できました。州立大学でも授業料は年間100万円から百数十万円と、日本の公立大学の2倍ほどです。(山形大学の学生は留学生交換協定に基く派遣のため授業料は免除)。ハーバード大学やイェール大学などのいわゆる「アイビーリーグ」の大学はすべて私立ですから、授業料はさらに高く、州立大学の数倍です。各種の奨学金制度があるとはいえ、それを享受できる人数は限られており、米国の有力大学の実態は「特権階級の子弟のための教育機関」と言わざるを得ません。

 教科書代もやたらに高く、多くの大学生が入学と同時に教育ローンを組み、アルバイトに追われながら学んでいます。勉学に真剣にならざるを得ないのです。テキサス大学アーリントン校の国際教育担当者は「アメリカの大学生は入学と同時に『奴隷状態』 the beginning of slavery になってしまうのです」と嘆いていました。

 日本にしろ、アメリカにしろ、また伸び盛りの国々にせよ、次の時代を担う若者をどう教育しようとしているのかをつぶさに見れば、その社会の在りようがあぶり出されてくるような気がします。