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*メールマガジン「おおや通信 94」2012年11月16日


 「近いうち」がついにやって来て、衆議院の解散、総選挙となりました。こんなに気の乗らない選挙は記憶にありません。民主党にはあきれましたが、自民党に託す気にもなれません。かといって、巷で話題の「第三極」の看板は、あの橋下徹氏やかの石原慎太郎氏。これでは「もっと深い失望を味わうことになるだけ」と、ますます冷めた気持ちになってしまいます。
 というわけで、総選挙にはあまり関心が湧いてきません。しばらく前、秋田県境にある山形県の金山町を訪ねた時につらつら考えたことをお送りします。

          ◇           ◇

 税金をどう使ったのか。政府や自治体は納税者にきちんと説明しなければなりません。今では多くの人が「ごく当たり前のこと」と考えるようになりました。そのためにつくられた情報公開制度も、すっかり定着しました。

 けれども、この制度ができるまでには、ずいぶんと時間がかかりました。政治家や官僚たちがあれこれと理由をつけて抵抗したからです。税金の中身と使い道を熟知する側は「自分たちだけの秘密の壁」をいつまでも維持しようとしたのです。

 都道府県の中で、この情報公開制度を最初につくったのは神奈川県でした。1983年(昭和58年)のことです。「地方の時代」をスローガンに掲げ、革新陣営の期待の星だった当時の長洲一二(ながす・かずじ)神奈川県知事が条例づくりを主導しました。

 当時、私は横浜支局の駆け出し記者でサツ回り(警察担当)をしていました。県政担当のベテラン記者や遊軍記者が情報公開の意義と役割を書きまくっているのを、まぶしい思いで脇から見ていました。長洲知事も一線の記者たちも「開かれた、新しい社会への道を切り拓くのだ」と燃えていました。

 ところが、神奈川県は「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」にはなれませんでした。その前年の1982年に山形県の金山町が情報公開条例を制定し、「最初の自治体」になってしまったからです。なぜ、東北の小さな自治体がこういう大きな意義を持つ制度を神奈川県より先につくることができたのか。情報公開制度のことを直接、取材したことのない私は、ずっと不思議に思っていました。

 この秋、金山町を訪ねて、その謎が解けました。新しいことに果敢に挑戦していた当時の岸宏一・金山町長(現在は山形県選出の参議院議員)が、学生時代の知人で朝日新聞の記者をしていた田岡俊次氏に情報公開の制度づくりを強く勧められて決断した、ということでした。田岡氏は、官僚の乱費と腐敗を追及した調査報道や軍事・防衛問題の専門記者として知られる敏腕記者ですが、情報公開条例づくりにも一役買っていたとは知りませんでした。

 都道府県が公文書を開示するとなると、警察の情報をどう取り扱うかなど厄介な問題がいくつか出てきます。そうした難題に対処している間に、金山町がさっさと条例を制定してしまったのです。神奈川県は長い時間と膨大なエネルギーを費やしましたが、「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」として歴史に名を残すことはできませんでした。

 金山町は情報公開に先鞭をつけたこと以外にも、1960年代から景観を重視した街並みづくりをしてきたことでも知られています。地元の杉を生かした、切り妻屋根と白壁、下見板の住宅づくりを奨励し、自然石を使った堰(せき)をめぐらして潤いのある街並みをつくってきました。欧州の経験から学ぶために、町民をドイツに派遣する事業も続けています。実にユニークで面白い町です。

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切り妻屋根と白壁、杉の下見板が特徴の「金山住宅」

 ともあれ、情報公開制度はその後、都道府県レベルでも市町村レベルでも全国に広がりました。しかし、自民党の歴代政権はなかなか情報公開に踏み切ろうとせず、国の情報公開法が施行されたのは2001年の春、森喜朗政権の末期です。金山町の条例制定から、実に19年後のことでした。

 戦後日本の政治システムと官僚制度は、経済成長が続いている間はそれなりによく機能していました。しかし、成長期を過ぎ、経済が停滞し始めてから、おかしくなりました。中央の諸制度が牽引役ではなく、改革の阻害要因になり始めたのです。情報公開をめぐる動きは、それを象徴的に示すものでした。

 硬直した制度が何をもたらすのか。去年の東日本大震災で、私たちはいやになるほど見せつけられました。「阻害要因としての中央」がその極に達した結果が福島の原発事故だった、と私は受けとめています。

 停滞から抜け出すための「改革の風」は今、生活の現場、つまり地方から吹き始めています。金山町に限らず、時代の流れを見極め、困難な事に挑戦している自治体や地方の組織はたくさんあります。さらに成熟した社会への道を切り拓くために、地方で踏ん張る人たちの背中をもっと押していきたい。        (完)






*メールマガジン「おおや通信 93」2012年11月9日


 おばあさんが孫に昔の苦労話を語って聞かせた。
「ばあちゃんが小さい頃は食べる物がなくってねぇ。お腹をすかせて、よく泣いていたよ」
孫は不思議がって、首をかしげながら尋ねたという。
「おばあちゃん、どうしてコンビニに行かなかったの?」

 今の子どもたちにとって、食べ物とはお金さえあれば自由に手に入るものである。「ひもじくて泣く」という経験もしたことがない。それは幸せなことなのだが、幸せには不幸が付いて回るのが世の常だ。飽食の時代には、また別の苦しみが待っていた。

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大谷小の畑で育てたサトイモで調理師さんに芋煮を作ってもらい、近くの里山で青空給食を楽しんだ

 小学校の校長になって驚いたことの一つは、アトピー性皮膚炎をはじめとするアレルギー疾患の多さだった。卵アレルギー、そばアレルギー、パイナップルアレルギー……。自分が子どもの頃には聞いたこともないような病気で苦しんでいる子がたくさんいる。

 アトピーの原因については諸説あり、いまだに解明されていない。研究者は自分の専門にこだわりすぎて、迷路に陥ってしまっている印象を受ける。私が「もっとも説得力がある」と感じたのは、高雄病院(京都市)の江部(えべ)康二医師の説明だ。江部氏は、アトピーが昭和30年代から増え始めたことに目を向ける。

 経済成長に伴って、農民は農薬をジャブジャブ使うようになった。食品を流通させるために、防腐剤や添加物が惜しみなく投入された。こうした化学物質は、今や全体で数万種類に及ぶ。「もともと人間には自然治癒力があるが、それにも容量がある。それを超えた場合、さまざまな症状となって現れてくるのではないか」と江部氏は説く。

 一つひとつの化学物質には使用上の規制がある。しかし、全体を見ている人間はどこにもいない。「健康には直ちに影響はない」という、原発事故の時に聞いた言葉が虚ろに響いてくるのである。

 *11月9日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(8)
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