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2001年3月15日の朝日新聞夕刊「らうんじ」


 故郷ブローラの小学校を卒業したプラムディヤは、東ジャワのスラバヤにあるラジオ修理学校に入学した。修業期間1年半の職業訓練校だ。卒業が間近に迫った1942年12月、太平洋戦争が始まった。

 「ちょうど分解修理の実習をしている時、ラジオで『日本が真珠湾を攻撃した』というニュースを聴いた。みんな茫然としていた」。戦争になれば、徴兵が始まる。生徒はそれぞれ帰郷した。プラムディヤもブローラの実家に帰った。

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年を重ねて、プラムディヤの視力は落ちてきた。しかし、目には力がある(撮影/千葉康由氏、西ジャワ州ボゴール近郊のボジョン・グデで)


 オランダ領東インド(現在のインドネシア)には、戦争遂行のために日本が必要とする石油があった。フィリピンとマレー半島を確保した日本軍は、インドネシア攻略を開始した。翌42年1月、まずスラウェシ島北部のマナドとボルネオ島沖のタラカン島に進出。2月にはスマトラ島南部パレンバンの油田地帯を押さえ、ティモール島を占領してオーストラリアへの退路を断った。

 欧州ではこれより先に戦争が始まっており、オランダ本国はすでにドイツに占領されていた。補給が途絶えた現地軍は総崩れになる。3月1日、日本軍が三方面からジャワ島に上陸すると、オランダ軍はわずか9日で全面降伏した。

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 植民地支配者として、300年以上も君臨してきたオランダ人が右往左往し、逃げ惑う。しかも、攻め込んできたのは自分たちと同じような肌の色、体格の日本人。インドネシアの人々にとって、それは衝撃だった。

 当時、プラムディヤは17歳。故郷でオランダの敗走と日本の進撃を目撃した。「うれしくてしょうがなかった」ことを覚えている。アジアのほかの国はともかく、少なくともインドネシアでは当初、多くの人が日本軍を「白人の植民地支配から解放してくれた」と大歓迎したのは間違いない。

 だが、幻想はすぐに崩れる。日本軍歓迎の渦の中にいたプラムディヤは、行軍中の日本兵に腕時計と自転車を略奪された。「こつこつためた金で、やっと買ったものだった。何の抵抗もできない自分に、無力感を覚えた」。17歳の少年の体験は、その後の日本軍による支配がどのようなものになるかを暗示していた。

   *  *

 「インドネシアのような広大な地域が、なぜオランダのようなちっぽけな国に支配されてしまったのか」。プラムディヤは1950年代に『ゲリラの家族』など、対オランダ独立戦争をテーマにした作品で作家としての地位を確立したが、こうした疑問にとらわれ、しばらく執筆活動をやめる。

 「答えは歴史の中にある」と考え、アジア史、とくに20世紀初頭の歴史の研究に没頭した。その時、西欧列強の力に屈しなかった日本に目を向ける。

 スハルト体制下での14年間の獄中生活を経て、1985年に出版した作品『足跡』の中で、プラムディヤは日本のことをこう表現した。
「北のかなたには、すっくと立ち上がり、世界の文明国から対等の存在として認められた、
輝けるアジアの民がいる。すなわち、日本人である。日本人以外に、これほど大きな名誉に浴したアジアの民はいない」(出版社めこん、押川典昭訳)

 オランダの植民地支配に抵抗しようとして挫折した父。そのせいで家族は生活苦に陥り、プラムディヤは手に職を付けるため職業訓練校に進まざるを得なかった。夢の中でまどろむしかない、わが民族……。それを思う時、自立し、列強と戦う日本は「驚異の民族」だった。

 日本の軍政が始まると、プラムディヤはジャカルタに出てきた。首都で、同盟通信社(共同通信社の前身)のタイピストの職を得た。働きながら中学に通い、小説を読みあさった。 「同盟通信では、マタノさんとスズキさんにお世話になった。小説で影響を受けたのは、アメリカの作家スタインベック。ストーリー展開が映画のようだと思った」

 速記も習い、日本への傾斜が深まる。「日本人女性と結婚したいと思ったこともあったよ」と言う。しかし、戦局が悪化するにつれ、日本が唱える「大東亜共栄圏」の虚飾は急速にはがれ、「インドネシアは日本が戦争を続けるための資源と労働力の供給地」という本音があらわになっていく。

 若い男は補助兵力として動員された。軍事施設の建設や軍需工場での労働、鉄道敷設などに住民が動員され、十分な食料も与えられないまま過酷な労働を強いられた。『日本占領下のジャワ農村の変容』(草思社、倉沢愛子著)によれば、住民の動員数は日本軍関係者の推計で257万人、インドネシア政府は戦争賠償の交渉の際、約400万人と主張した。動員による死者数は、推計すらない。

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インドネシアの独立記念塔の地下にある日本占領時代のジオラマ。強制労働させられる住民の姿が描かれている=ジャカルタ市内
  
 
 プラムディヤとのインタビューの通訳をしてくれた助手に、私は「日本はオランダを追い出して、独立のきっかけを作った。一方で軍政時代にひどいことをした。プラスマイナス、ゼロではないか」と聞いたことがある。

 日ごろ穏やかな助手が、この時だけは顔色を変えた。「冗談じゃないですよ。じいさんは、日本の軍政はオランダの植民地支配より、ずっとひどかったって怒ってましたよ」。インドネシアで今使われている高校の歴史教科書は、より明確に表現している。
「日本はインドネシアを占領したことのある国の中で、もっとも残酷だった」(グラフィンド・メディア・プラタマ社版)

 『足跡』の中で、プラムディヤは日本を「希望の星」としつつも、日本や列強による中国侵略にも触れ、侵略に抵抗する中国の民族主義者を登場させている。近く、日本軍政時代の従軍慰安婦問題をテーマにした本を出版し、日本のもう一つの顔を世に問う。

 プラムディヤに冒頭の問いをしてみた。彼は「フッ」と小さく息を吹き出しただけだった。あの戦争を一言で定義しようとすること自体、愚かなこと。そう言いたかったのではないか。
(敬称略)
                                        (長岡昇=ジャカルタ支局長)



2001年3月16日の朝日新聞夕刊「らうんじ」 連載終了


 プラムディヤの両親は、2人ともジャワ人である。生まれ育ったのは中部ジャワで、家庭では当然のことながらジャワ語が使われていた。だが、彼はこの言葉が「嫌いだ」と言う。

 「ジャワ語は敬語や謙譲語がものすごく複雑だ。相手が自分より目上なのか目下なのかをまず決めてから、話さなければならない。権力や秩序を固定し、維持するような機能がある」

 学校教育はオランダ語で受けた。父親が校長をし、プラムディヤが通った郷里の小学校も、その後入学したスラバヤのラジオ修理学校も、授業はオランダ語だった。植民地では「支配者の言葉」が共通語になる。独立を語るにしても、職を得るにしても、共通語ができなければ話にならない。独立運動の初期、指導者たちは運動方針や組織づくりについてオランダ語で議論している。

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76歳の誕生祝いの席で、初のひ孫に目を細める プラムディヤ(撮影/M・スルヤ氏、西ジャワ州ボゴール近郊のボジョン・グデで)


 プラムディヤにとって、インドネシア語は第三の言語である。初めてこの言葉を教えてくれたのは、生家のお手伝いさんだった。
「彼女はジャワ人なのに、なぜかインドネシア語ができた。人間のことを『オラン』って言うんだよ、と教えてくれた。ジャワ語ではエビを『ウラン』という。幼心に『人間がエビみたい。変な言葉だなあ』と思った記憶がある」
インドネシアを代表する作家は少年時代まで、インドネシア語とほとんど無縁の生活を送っていた。

     *  *

 インドネシア語は、マラッカ海峡の両岸で使われているマレー語(ムラユ語)がもとになっている。交易や布教のための言葉として、昔からジャワ島やスラウェシ島の港町などでも使われていた。

 さまざまな民族が入り交じる中で意思疎通を図るためには、言葉は単純で明快な方がいい。マレー語には単数、複数の区別がない。過去と現在は動詞の変化ではなく、文脈で区別する。敬語はあるが、複雑ではない。

 インドネシア大学文学部のクリストミー講師(言語学)によれば、オランダは自分たちの言葉と文化を植民地に広めようとしなかった。このため、マレー語はその後も交易語として広がり続けた。オランダが自国語の普及に力を入れ始めるのは、20世紀の初めに植民地政策を融和的な方向に転換してからだ。

 ところが、独立運動の指導者の間ではそのころから「自分たちの言葉で民衆に独立の意義を訴えるべきだ」との機運が高まっていく。代表作の一つ『すべての民族の子』の中で、
プラムディヤは言葉をめぐる知識人の葛藤を描いている。ジャワ貴族出身の主人公ミンケはオランダ語で書くことにこだわり、マレー語は「借用語だらけの貧しい言葉だ」として使おうとしない。友人はこう言って説得する。

 「あなた自身の民族の言葉で書くこと、それこそが自分の国と民族に対するあなたの愛のあかしなのです」(出版社めこん、押川典昭訳)

 独立運動の指導者たちは1928年、最大の民族であるジャワ人の言葉ではなく、少数派の言葉であるマレー語を共通語にすることを決め、これをインドネシア語と名付けた。話者の数より、民族間の架け橋としての機能を重視した結果だ。少数派の言語が独立後の公用語になった珍しい例で、歴史家は「インドネシアの賢明な選択」と呼んでいる。

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     *  *

 プラムディヤがインドネシア語を日常的に使うようになったのは、日本の軍政が始まった1942年に首都ジャカルタに移ってからである。多感な17歳の若者は、インドネシア語の小説をむさぼるように読んだ。

 戦時下の日本と同じように、軍政当局は「敵性語」のオランダ語や英語の使用を禁止した。インドネシア語にはオランダ語をそのまま転用した言葉がたくさんあったが、使用禁止に伴い、インドネシア語への翻訳と転換が急速に進んだ。

 プラムディヤは皮肉を込めて、この時期を「インドネシア語の黄金時代」と呼ぶ。動機はどうあれ、敵性語の禁止はインドネシア語の成熟を促し、その後の発達に大きな影響を及ぼした。

 1945年8月15日、日本は降伏した。インドネシアはその2日後に独立を宣言する。オランダはこれを認めず、49年までインドネシアと戦争を続けた。プラムディヤも独立戦争に加わり、反オランダ活動の容疑で逮捕され、2年間投獄された。この体験を基にした小説『ゲリラの家族』で、彼は作家としての地位を確立する。

 長年投獄された反骨の作家が一度だけ、弾圧する側に回ったことがある。1950年代後半、共産党系の人民文化協会(レクラ)の中心メンバーだったころだ。共産党勢力を取り込んだスカルノ政権の下で、彼は「芸術は政治に奉仕すべきだ」との論陣を張り、「芸術は何ものからも自由であるべきだ」と主張する芸術家を排撃した。

 詩人のタウフィック・イスマイルは「彼の作品には敬意を払うが、あの時の行為は許せない」と言う。「共産党の青年組織は『反共』とみなした作家の活動を妨害し、その本を焼いた。レクラは反対するどころか、それを支持した」

 この話になると、プラムディヤは反論も弁明もせず、沈黙する。文壇の亀裂はいまだに修復されていない。

     *  *

 インド洋の波を受けるスマトラ島から、南太平洋に横たわるニューギニア島中央部まで、5000キロ余り。インドネシアは米国本土よりも長く東西に広がる。そこに1万数千の島が散らばり、200とも300ともいわれる民族が隣り合って暮らす。

 国家としての統一を保つのは容易なことではない。植民地として支配したオランダも、独立後のスカルノ、スハルト両政権も結局は「鉄拳」で抑え込むしかなかった。

 1998年にスハルト政権が崩壊し、インドネシアは民主化に踏み出した。「力による支配」は終わった。では、複雑多様なこの国を力以外の何でまとめていくのか。
宗教でも、イデオロギーでもない、何か。
 プラムディヤはそれを探し求めて、人々の営みを紡ぎ続ける。           
(敬称略)

(長岡昇 ジャカルタ支局長)




*メールマガジン「おおや通信 94」2012年11月16日


 「近いうち」がついにやって来て、衆議院の解散、総選挙となりました。こんなに気の乗らない選挙は記憶にありません。民主党にはあきれましたが、自民党に託す気にもなれません。かといって、巷で話題の「第三極」の看板は、あの橋下徹氏やかの石原慎太郎氏。これでは「もっと深い失望を味わうことになるだけ」と、ますます冷めた気持ちになってしまいます。
 というわけで、総選挙にはあまり関心が湧いてきません。しばらく前、秋田県境にある山形県の金山町を訪ねた時につらつら考えたことをお送りします。

          ◇           ◇

 税金をどう使ったのか。政府や自治体は納税者にきちんと説明しなければなりません。今では多くの人が「ごく当たり前のこと」と考えるようになりました。そのためにつくられた情報公開制度も、すっかり定着しました。

 けれども、この制度ができるまでには、ずいぶんと時間がかかりました。政治家や官僚たちがあれこれと理由をつけて抵抗したからです。税金の中身と使い道を熟知する側は「自分たちだけの秘密の壁」をいつまでも維持しようとしたのです。

 都道府県の中で、この情報公開制度を最初につくったのは神奈川県でした。1983年(昭和58年)のことです。「地方の時代」をスローガンに掲げ、革新陣営の期待の星だった当時の長洲一二(ながす・かずじ)神奈川県知事が条例づくりを主導しました。

 当時、私は横浜支局の駆け出し記者でサツ回り(警察担当)をしていました。県政担当のベテラン記者や遊軍記者が情報公開の意義と役割を書きまくっているのを、まぶしい思いで脇から見ていました。長洲知事も一線の記者たちも「開かれた、新しい社会への道を切り拓くのだ」と燃えていました。

 ところが、神奈川県は「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」にはなれませんでした。その前年の1982年に山形県の金山町が情報公開条例を制定し、「最初の自治体」になってしまったからです。なぜ、東北の小さな自治体がこういう大きな意義を持つ制度を神奈川県より先につくることができたのか。情報公開制度のことを直接、取材したことのない私は、ずっと不思議に思っていました。

 この秋、金山町を訪ねて、その謎が解けました。新しいことに果敢に挑戦していた当時の岸宏一・金山町長(現在は山形県選出の参議院議員)が、学生時代の知人で朝日新聞の記者をしていた田岡俊次氏に情報公開の制度づくりを強く勧められて決断した、ということでした。田岡氏は、官僚の乱費と腐敗を追及した調査報道や軍事・防衛問題の専門記者として知られる敏腕記者ですが、情報公開条例づくりにも一役買っていたとは知りませんでした。

 都道府県が公文書を開示するとなると、警察の情報をどう取り扱うかなど厄介な問題がいくつか出てきます。そうした難題に対処している間に、金山町がさっさと条例を制定してしまったのです。神奈川県は長い時間と膨大なエネルギーを費やしましたが、「日本で最初に情報公開制度をつくった自治体」として歴史に名を残すことはできませんでした。

 金山町は情報公開に先鞭をつけたこと以外にも、1960年代から景観を重視した街並みづくりをしてきたことでも知られています。地元の杉を生かした、切り妻屋根と白壁、下見板の住宅づくりを奨励し、自然石を使った堰(せき)をめぐらして潤いのある街並みをつくってきました。欧州の経験から学ぶために、町民をドイツに派遣する事業も続けています。実にユニークで面白い町です。

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切り妻屋根と白壁、杉の下見板が特徴の「金山住宅」

 ともあれ、情報公開制度はその後、都道府県レベルでも市町村レベルでも全国に広がりました。しかし、自民党の歴代政権はなかなか情報公開に踏み切ろうとせず、国の情報公開法が施行されたのは2001年の春、森喜朗政権の末期です。金山町の条例制定から、実に19年後のことでした。

 戦後日本の政治システムと官僚制度は、経済成長が続いている間はそれなりによく機能していました。しかし、成長期を過ぎ、経済が停滞し始めてから、おかしくなりました。中央の諸制度が牽引役ではなく、改革の阻害要因になり始めたのです。情報公開をめぐる動きは、それを象徴的に示すものでした。

 硬直した制度が何をもたらすのか。去年の東日本大震災で、私たちはいやになるほど見せつけられました。「阻害要因としての中央」がその極に達した結果が福島の原発事故だった、と私は受けとめています。

 停滞から抜け出すための「改革の風」は今、生活の現場、つまり地方から吹き始めています。金山町に限らず、時代の流れを見極め、困難な事に挑戦している自治体や地方の組織はたくさんあります。さらに成熟した社会への道を切り拓くために、地方で踏ん張る人たちの背中をもっと押していきたい。        (完)






*メールマガジン「おおや通信 93」2012年11月9日


 おばあさんが孫に昔の苦労話を語って聞かせた。
「ばあちゃんが小さい頃は食べる物がなくってねぇ。お腹をすかせて、よく泣いていたよ」
孫は不思議がって、首をかしげながら尋ねたという。
「おばあちゃん、どうしてコンビニに行かなかったの?」

 今の子どもたちにとって、食べ物とはお金さえあれば自由に手に入るものである。「ひもじくて泣く」という経験もしたことがない。それは幸せなことなのだが、幸せには不幸が付いて回るのが世の常だ。飽食の時代には、また別の苦しみが待っていた。

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大谷小の畑で育てたサトイモで調理師さんに芋煮を作ってもらい、近くの里山で青空給食を楽しんだ

 小学校の校長になって驚いたことの一つは、アトピー性皮膚炎をはじめとするアレルギー疾患の多さだった。卵アレルギー、そばアレルギー、パイナップルアレルギー……。自分が子どもの頃には聞いたこともないような病気で苦しんでいる子がたくさんいる。

 アトピーの原因については諸説あり、いまだに解明されていない。研究者は自分の専門にこだわりすぎて、迷路に陥ってしまっている印象を受ける。私が「もっとも説得力がある」と感じたのは、高雄病院(京都市)の江部(えべ)康二医師の説明だ。江部氏は、アトピーが昭和30年代から増え始めたことに目を向ける。

 経済成長に伴って、農民は農薬をジャブジャブ使うようになった。食品を流通させるために、防腐剤や添加物が惜しみなく投入された。こうした化学物質は、今や全体で数万種類に及ぶ。「もともと人間には自然治癒力があるが、それにも容量がある。それを超えた場合、さまざまな症状となって現れてくるのではないか」と江部氏は説く。

 一つひとつの化学物質には使用上の規制がある。しかし、全体を見ている人間はどこにもいない。「健康には直ちに影響はない」という、原発事故の時に聞いた言葉が虚ろに響いてくるのである。

 *11月9日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(8)
  見出しと改行は紙面とは異なります。