*メールマガジン「小白川通信 25」 2015年3月28日
    
 私にとって、今年は神々の国、出雲と縁が深い年になりそうです。
 年明けに、高校時代の同級生で作家の飯嶋和一(かずいち)氏から最新作『狗賓(ぐひん)童子の島』(小学館)を贈っていただきました。島根県の隠岐(おき)諸島を舞台にした幕末期の物語です。今週は岡山市で講演を依頼されたのを機に島根県まで足を延ばし、松江市と出雲市を訪ねてきました。味わい深い作品であり、実り多い旅でした。

 江戸時代や幕末に素材を求める作家はたくさんいますが、多くは武将や武士、勤皇の志士を主人公にして「武士道」や「憂国の志」を描いています。そんな中で、飯嶋氏は異彩を放つ存在です。武士の多くは、農民や漁民が汗水たらして働いて得たものを掠め取り、特権商人と結託して甘い汁を吸う「腐敗した奸吏(かんり)である」と断じ、歴史を動かすエネルギーは幕藩体制の下であえぎつつ生きた市井の人々の中にこそあった、と語りかけてくるのです。

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隠岐諸島で一番大きな島、島後(どうご)

 『狗賓(ぐひん)童子の島』は、天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の描写から始まります。天保の大飢饉のころ、江戸でも大阪でも行き倒れの死体がそこかしこに転がっているような状況なのに、大阪東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)は実弟の老中、水野忠邦から江戸に米を回すよう命じられるやこれに応じ、民の困窮に拍車をかけました。私財を投げ打って貧民の救済に走り回っていた元与力で陽明学者の大塩平八郎は、ことここに至って門弟らと世直しのために立ち上がることを決意し、米を買い占めて私腹をこやしていた豪商らを襲撃したのです。

 内通者がいたこともあって、乱はわずか1日で鎮圧されてしまいましたが、江戸の幕臣や旗本たちのすさまじい腐敗と無能ぶりをあぶり出し、揺らぎ始めていた幕藩体制への痛烈な一撃になりました。高校の日本史の教科書では「幕末の社会」の中で10行ほど触れているだけの反乱の内実がどのようなものだったのか。それを「飢えた側」から活写しています。

 当然のことながら、乱に加わった者は極刑に処せられました。処罰は、大塩平八郎の高弟で豪農の西村履三郎(りさぶろう)の長男、6歳の常太郎にまで及びました。乱から9年後、15歳になると、常太郎は出雲の隠岐諸島に流人として送られたのです。物語は、この常太郎が隠岐で「大塩平八郎の高弟の息子」として温かく迎えられ、やがて漢方医になって島の人々と共に生き、故郷の大阪・河内に還るまでを描いています。狗賓とは島の千年杉に巣くう魔物で、島の守り神です。

 この本を読むと、異国船が出没する幕末、隠岐諸島は対馬列島などと並んで「国防の最前線」であったことがよく分かります。異国船は「未知の伝染病」をもたらすものでもありました。安政年間には外国人によって持ち込まれたコレラによって、2カ月足らずの間に江戸だけで26万人が死亡した、と紹介されています。「最前線」の隠岐諸島にも伝わり、漢方医の常太郎らは治療に追われます。隠岐を支配する松江藩の役人たちは無力で、コレラに立ち向かったのは流刑の島で生きる住民たち自身でした。庄屋は薬種の調達を助け、島民は漢方医の常太郎の手足となって奮闘したのです。

 大佛(おさらぎ)次郎賞を受賞した飯嶋氏の前作『出星前夜』も、キリシタンへの苛烈な弾圧に抗して蜂起した天草の乱を民衆の側から描いた作品でした。いつの時代でも、支配した側は膨大な史料を残しますが、つぶされていった者たちの言葉を伝えるものはわずかしかありません。それを丹念に拾い集め、想像力の翼を広げて書く――それがこの作家の流儀です。5、6年に一作しか世に問うことができないのも無理はありません。むしろ、よくぞ折れることなく書き続けてきたものだ、と驚嘆します。どの作品も長大で難解ですが、時の試練に耐えうるのではないかと感じています。個人的には、江戸時代に手製の凧で空を舞うことに挑んだ職人の物語『始祖鳥記』が特に好きです。

 岡山では、民間人校長としての体験を踏まえて「里山教育の勧め」というテーマで講演し、JR伯備(はくび)線で松江に向かいました。松江城の堂々たる構えに感心しながらも、『狗賓童子の島』を思い起こし、複雑な思いに駆られました。お堀端に「小泉八雲記念館」がありましたので見学し、館内で彼の作品『神々の国の首都』(講談社学術文庫)を買い求め、宿で読みました。彼の書いたものは断片的にしか触れたことがなく、しっかり読んだのは初めてです。

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小泉八雲と妻の節子

 八雲は、明治初期の横浜や松江の人々と風俗を温かい目で描きつつ、自らの思いをたっぷりと書いています。そこには、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれ、両親の離婚、父親の死去、引き取ってくれた大伯母の破産といった試練をくぐり抜け、新天地アメリカでジャーナリストとして身を立てた、彼の人生そのものが濃縮されていると感じました。例えば芸術について、彼はこう記します。

「あらゆる芸術家は、過去の亡霊の中で仕事をするのだ。飛ぶ鳥や山の霞や朝な夕なの風物の色合や木々の枝ぶりや春やおそしと咲き出した花々を描く時、その指を導くのは、今は亡き名匠たちだ。代々の練達の工匠たちが、一人の芸術家にその妙技を授け、彼の傑作の中によみがえるのだ」(p18)

 キリスト教社会の厳しい戒律と偽善を嫌う八雲は、明治日本の大らかな人々と神々に心を寄せ、こう吐露してもいます。

「いかなる国、いかなる土地において宗教的慣習が神学と一致したためしがあっただろうか? 神学者や祭司たちは教義を創り、教条を公布する。しかし善男善女は自分たちの心根に従って自分たちの神様を作り出すことに固執する。そしてそうして出来た神様こそ神様の中ではずっと上等の部に属する神様なのである」(p231)

 八雲がこよなく愛した出雲の国は今、北陸新幹線の開通に湧く金沢や富山を横目に、人口減と高齢化に苦しみ、あまり元気とは言えません。観光案内をしてくれたタクシーの運転手さんは「島根の人口は70万を切りました。隣の鳥取に次いでビリから2番目ですわ」と嘆いていました。

 けれども、車窓から眺めると、そこには広々とした家屋でゆったりと暮らす人々の姿がありました。家々を守る立派な黒松の防風林は、数百年にわたって丹精を重ねてきた賜物です。すべては流転し、変転します。長い歴史の中に身を置いてみれば、今の大都市の繁栄もまた、つかの間の幻影のようなものかもしれません。いつの日にか、出雲をはじめとする日本海側の地域が再び「時代の最前線」に立つ日が来る、と私は信じています。
(長岡 昇)


*写真のSource:
隠岐諸島の島後(どうご)
http://shimane.take-uma.net/%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA_15/%E3%80%90%E6%B5%B7%E8%BF%91%E3%81%8F%E3%80%91%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA%E3%81%AB%E3%82%82%E7%A9%BA%E3%81%8D%E5%AE%B6%E7%89%A9%E4%BB%B6%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%82%88%E3%80%90%E5%8F%A4%E6%B0%91%E5%AE%B6%E3%80%91

小泉八雲と妻の節子
http://isegohan.hatenablog.com/entry/2014/03/23/162941