*メールマガジン「小白川通信 12」 2014年2月1日


 こんなに驚き、かつ勇気を与えてくれるニュースに接したのは何年ぶりだろうか。理化学研究所の小保方(おぼかた)晴子さんがまったく新しい方法で「万能細胞」の作製に成功したことを伝える報道は、驚愕度において新聞の1面をデカデカと飾るにふさわしく、この国に温かい風を吹き込んだという意味において社会面にもしっくりと収まるニュースだった。小保方さんの人柄に加えて、彼女が割烹着姿で研究にいそしみ、理研がそれをとがめたりしなかったことがこのニュースをより温かいものにしているように思う。


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 科学誌として世界一の権威を誇る英国のネイチャー誌が2年前に彼女の論文の掲載を拒んだ際、「何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している It derides the history of cellular biology, which goes back centuries」 と評し、2度目の寄稿でやっと掲載したことも明らかになった。そう言わしめるほど生物学のこれまでの常識を突き破る成果だった、ということなのだろうが、拒否した際の表現に、私は「欧米を先導役にして進んできた近代化と現在進行中のグローバル化にひそむ傲慢さ」を感じた。

 かつて札幌で勤務していた頃(1988年)、冬に十勝岳が噴火し、北海道大学の火山学者に取材を申し込んだことがあった。定年近い老教授は素人の私が素朴な質問をしても嫌な顔ひとつせず、丁寧に火山のメカニズムを教えてくれた。そして「十勝岳の噴火はとても危険なのです」と警告した。大規模な噴火が起きた場合、山に降り積もった雪が熱で瞬時に解けて泥流となって麓の集落を襲うことがある、というのだ。実際、大正15年には巨大な泥流が発生し、144人もの住民が犠牲になっていた。

 取材を終えて帰りかけた時、この碩学が口にした言葉が忘れられない。「訳知り顔でいろいろと解説しましたが、火山の活動がどういう仕組みで起きるのか、実はほとんど分かっていないのです。40年近く、生涯かけて研究してきました。世界中の火山学者と一緒に。でも、分かっているのはせいぜい1割くらいでしょうか」。寂しげではあったが、誠実な人柄をしのばせる言葉だった。

 彼の言葉が強く印象に残ったのは、同じ頃、原子力発電の取材で原子力工学の教授に会った際に、この教授もまったく同じことを言っていたからだろう。原発建設を推進する立場であるにもかかわらず、彼はこう言ったのだ。「原子力発電所をどう造れば、どういう風に発電できるかは分かっている。けれども、原子炉の中で中性子がどう動き、核分裂反応がどういう風に起きているのかはほとんど分かっていないのです」。脳死の取材で脳神経外科の教授に話を聴いた時もそうだった。彼は「脳の研究は今の科学の最先端の一つで、ものすごい数の研究者が取り組んでいますが、分かっているのはまだ10パーセントくらいでしょうか」と語った。

 その後、科学はそれぞれの分野で前進した。しかし、大いなる自然と広大な宇宙の営み全体から見れば、人間が解き明かしたものはまだほんの一部に過ぎない。宇宙の始まりから現代までの歴史を綴った『137億年の物語』(文藝春秋)の著者、クリストファー・ロイドはエピローグに「壮大な物語に比べれば、人類の歴史は取るに足らない」と記した。古生物学者のリチャード・フォーティも『生命40億年全史』(草思社)を「たしかなのはただ、この先も変化は続くということのみである」という言葉で結んだ。

 「数百年にもわたる細胞生物学の歴史」と言うが、その生物学が成立するまでに、名もない者たちが数万年、あるいは数千年にわたって小さな営みを積み重ねてきたことを忘れているのではないか。われわれの遥かかなたにある「何ものか」に対する畏敬の念があれば、ネイチャー誌が小保方さんの最初の論文の掲載を断るにしても、また別の言葉があったのではないか、と思うのである。

 宇宙の歴史を持ち出すまでもなく、地球の歴史においてすら、人間の歴史はほんの短い間の出来事であり、近代以降など「刹那(せつな)」の出来事に過ぎない――そうした畏敬の念を持ち続ける者こそ、これからの時代を切り拓いていくのではないか。
(長岡 昇)

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 小保方晴子さんは中学2年の時にとても深い内容の読書感想文を書いています。毎日新聞主催のコンクールで千葉県教育長賞に輝きました。1月30日の毎日新聞公式ホームページに掲載された全文を以下に転載します。

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 「ちいさな王様が教えてくれた 大人になるということ」
          −松戸市立第六中学校 2年 小保方 晴子

 私は大人になりたくない。日々感じていることがあるからだ。それは、自分がだんだん小さくなっているということ。もちろん体ではない。夢や心の世界がである。現実を知れば知るほど小さくなっていくのだ。私は、そんな現実から逃げたくて、受け入れられなくて、仕方がなかった。夢を捨ててまで大人になる意味ってなんだろう。そんな問いが頭の中をかすめていた。でも、私は答えを見つけた。小さな王様が教えてくれた。私はこの本をずっとずっと探していたような気がする。

 「僕」と私は、似ているなと思った。二人とも、押しつぶされそうな現実から、逃げることも、受け入れることもできずにいた。大人になるという事は、夢を捨て、現実を見つめる事だと思っていた。でも、王様は、こう言った。「おまえは、朝が来ると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事に追われている夢をみている。そして、夜ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。よっぽどいいじゃないか、そのほうが」と。私はこの時、夢があるから現実が見られるのだという事を教えられたような気がした。

 小さな王様は、人間の本当の姿なのだと思う。本当はみんな王様だったのだと思う。ただ、みんな大人という仮面をかぶり、社会に適応し、現実と戦っていくうちに、忘れてしまったのだと思う。

 いつか、小さな王様と「僕」がした、永遠の命の空想ごっこ。私は、永遠の命を持つことは、死よりも恐ろしい事だと思う。生きていることのすばらしさを忘れてしまうと思うからだ。それに、本当の永遠の命とは、自分の血が子供へ、またその子供へと受けつがれていくことだと思う。

 王様は、人は死んだら星になり、王様は星から生まれると言っていた。私は、王様は死んでいった人々の夢であり願いであるような気がした。人間は死んだら星になり、王様になり、死んでから永遠がはじまるみたいだった。こっちの永遠は、生き続ける永遠の命より、ずっとステキな事だと思う。

 「僕」は王様といっしょにいる時が、夢なのか現実なのかわからない。と言っていたけれど、きっと「僕」は、自分の中の現実の世界に小さな王様を取り入れることによって、つらい現実にゆさぶりをかけ、そこからの離脱を見い出しているのだと思う。

 「僕」は王様にあこがれているように見えた。つまり、自分の子供時代に、ということになるだろう。私も、自由奔放で夢を見続けられる王様をうらやましく思う。でも、私はそう思うことが少しくやしかった。なぜなら自分の子供時代を、今の自分よりよいと思うということは、今の自分を否定することになるのではないかと思ったからだ。まだ私は、大人ではない。なのに、今から、自分を否定していては、この先どうなっていってしまうのだろうと思って恐かった。でも、また一方では、「前向きな生き方」や「プラス思考」などというものは、存在しないようにも思えた。

 夢には、二面性があると思う。持ち続ける事も大切だが、捨てる事もそれと同じ位大切な事なのだと思う。どちらがいいのかは、わからない。また、私がこの先どちらの道に進むのかも。ただ、言えることは、みんなが夢ばかり追いかけていては、この世は成り立たなくなってしまうということだけなのだと思う。

 私は王様の世界より、人間の世界の方がスバラシイこともあると思った。なぜなら、人間には努力で積み重ねていくものがあるからだ。子供のころから培ってきたものは、なに物にも勝る財産だと思うからだ。王様の世界では生まれた時が大人だからそれができない。

 絵持ちの家に行ってから消えてしまった王様は、もう「僕」の前には現れないと思う。なぜなら、もう「僕」には王様の存在の必要がなくなったからだ。私と「僕」は答えを見つけた。「夢を捨ててまで大人になる意味」の答えを。それは、「大人になる為に、子供時代や夢がある」ということだ。最後の赤いグミベアーは、さようならのメッセージなのだと思う。

 これからは「僕」も私も前を向いて生きていけると思う。王様は、まだ答えの見つからない、王様がいなくて淋しがっている人の所へ行ったのだろう。

 私は本の表紙に名前を書いた。王様が教えてくれた事を大人になっても忘れないように。

 王様の存在が夢か現実かはわからないが、この本を読む前の私にとっては夢であった。しかし、少なくとも、今の私の心の中で生きている王様は現実だということは紛れもない事実である。

 世の中に、ちいさな王様と友達になる人が増えたら明るい未来がやってくる。そう思ってやまないのは私だけではないのであろう。

 <アクセル・ハッケ著(那須田淳、木本栄共訳)「ちいさな ちいさな王様」(講談社)>