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「落下傘候補」とは、その選挙区に地縁や血縁がないのに出馬する候補者のことを言う。2013年の参議院選挙で山形選挙区から自民党公認で立候補して初当選し、今回の選挙で再選をめざす大沼瑞穂(みずほ)議員は、その意味では「落下傘候補」とは言えない。

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父親の大沼保昭氏は山形市の生まれだ。造り酒屋の次男として生まれ、東京大学法学部を卒業、東大教授として国際法を講じた。戦争責任を厳しく問う一方で、憲法9条の改正を容認する現実的なリベラリストだった。惜しまれつつ、昨年10月に死去した。

祖父の大沼勘四郎氏は造り酒屋の9代目で、山形県酒造組合連合会の会長を務めた。曾祖父の大沼保吉氏はその先代の酒造経営者で、戦前に山形県議や山形市長を務めた。大沼瑞穂氏は東京で生まれ育ったが、そのルーツは山形にある。あえて言えば、「半落下傘候補」ということになろうか。

「落下傘候補」であれ、「半落下傘候補」であれ、その人物が政治家としてきちんとした仕事をしているのであれば、問題はない。私は「政治とは一定の距離を置く」「特定の政党の応援はしない」のを信条としてきた。これまで特定の政治家のことを選挙がらみで書いたことはない。

だが、今回だけは書くことにした。大沼瑞穂氏が自らの公式サイトに「ウソ」を記しているからである。公式サイトのプロフィールの1行目に「昭和54年生まれ。山形市七日町在住」とある。後段は真っ赤なウソである。

本人は「住民票は山形市に移した。マンションもある」と反論するのかもしれない。が、私が問いたいのは「住民票がどこにあるか」ではない。2013年に参議院議員に当選して以来、夫と子どもはずっと東京にいる、本人もほとんどの時間を東京で過ごしている、という事実である。

山形市の中心部に購入、もしくは借りているマンションで過ごすのは、山形に来た時だけだ。ホテル代わり、というのが実態であり、「山形市在住」とは言えない。こういうウソを平然と公式サイトのプロフィールに記す感覚が許しがたい。

当選を重ねて国政で重要なポストに就き、地元に帰ってくる余裕がないという政治家は珍しくない。が、1期目から「自民党の重鎮」のような暮らしをして、恥じるところはないのか。地元の有権者をなんだと思っているのか。

選挙区の支持者の集まりで、彼女は「山形に引っ越してきて、こちらで暮らしては」と水を向けられた際、やんわりと断り、次のように言ったという。「山形で子育てをするのはちょっと・・・」。もっとはっきり「山形は子育てをする環境にはない」と述べた、との証言もある。信頼できる自民党の政治家や党員から聞いた話なので、間違いない。

大沼瑞穂氏は慶応大学の大学院(修士課程)を修了した後、NHKの記者になり、外務省の専門調査員(香港駐在)、東京財団の研究員、内閣府の上席政策調査員を経て、政界に転じた。経歴も経験もなかなかのものだ。

しかし、政治家としての資質を判断する場合には、その政策や活動の実績にも増して、常日頃の言動や振る舞いを見なければならない。人間としての資質がよく現れるからだ。公式サイトに平然とウソを書き、選挙区の支持者を前に、その地に生きる人たちの心を踏みにじるような言葉を口にする。そのような人物は政治家としてふさわしくない。

今回、参議院選挙の山形選挙区には野党統一候補の芳賀(はが)道也氏が無所属で立候補している。私は芳賀氏のことを知らないので、論評する立場にはない。その政策にも共感は覚えない。が、少なくとも大沼瑞穂氏のような破廉恥さは感じない。

平気でウソをつく人間は、政治家としてふさわしくない。落選させて、有権者はよく見ていること、政治の世界はそんなに甘いものではないことを思い知らせるべきである。

*メールマガジン「風切通信 60」 2019年7月7日



≪写真説明とSouce≫
大沼瑞穂参議院議員(参議院自民党の公式サイトから)
https://sangiin-jimin.jp/523/%E7%9C%8C%E6%94%BF%E5%A0%B1%E5%91%8A%EF%BC%88%E5%A4%A7%E6%B2%BC%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%BB%EF%BC%89/


日本人は「自然なもの」を好む傾向が強い。それは庭園の様式を見れば、よく分かる。ヨーロッパの庭園は直線や円で仕切ることが多いが、日本の庭園は自然をそのまま凝縮した形で造られる。まっすぐな線を美しいとは感じない。あいまいさを愛(め)でる。

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そうした特質は言葉にも現れる。欧米の人たち、とりわけドイツ人は言葉の定義にこだわる。あいまいさを嫌い、何でも定義しようとする。ドイツの鉄血宰相ビスマルクが「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」と言い切ったのはその典型だろう。

「可能性の芸術」という表現は美しすぎるが、政治の要諦が妥協にあるのは間違いない。何を譲り、何を得るのか。政治はつくづく難しい。

山形県の吉村美栄子知事は2期目から、山形新幹線の機能強化や延伸ではなく、フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設を求める政策を唱えだした。知事は何を譲り、何を得ようとしているのか。

1992年に山形新幹線が開通してから、県内では交通インフラについてさまざまな議論が交わされてきた。表1に見るように、7年後に山形新幹線が新庄市まで延びた後、当時の高橋和雄知事は「陸羽西線を使って庄内まで延ばす構想」に前向きだった。専門家を集めて「山形新幹線機能強化検討委員会」を立ち上げ、庄内までの延伸と福島・山形県境にある板谷峠のトンネル化を検討するよう要請した。

ところが、高橋知事は2005年の知事選で、加藤紘一代議士らが担いだ斎藤弘氏に敗れた。財政再建と採算重視を掲げる斎藤知事は、庄内延伸にも板谷峠のトンネル化にも関心を示さなかった。機能強化検討委は翌年の3月、新しい知事の意向に沿った報告書を出し、庄内延伸の構想は頓挫した。

新幹線論議が山形で再燃するのは2012年からだ。再選をめざす吉村知事は「簡単でないのは承知しているが、奥羽、羽越新幹線の整備を求めたい」と言い始めた。福島から山形を通って秋田に至る奥羽新幹線。富山から新潟、庄内、秋田、青森へと延びる羽越新幹線。その二つをフル規格の新幹線として建設する構想だ(図1)。知事は2期目の公約にし、山形県の長期計画にも盛り込んだ。

前の年に起きた東日本大震災で日本海側の交通インフラの脆弱さを痛感したこと、整備新幹線5路線の工事計画が固まり、「次の新幹線建設の優先順位をどうするか」が政治の重要課題になってきたことが念頭にあったと思われる。

山形新幹線は、法的には「新幹線」ではない。福島で東北新幹線につながる「新幹線直行特急」であり、福島から山形、新庄までは在来線の奥羽本線を走る。直行を実現するため、奥羽本線は新幹線用の標準軌道に改修されたが、踏切が残り、一部だが単線区間もある。福島・山形県境の板谷峠は急峻で、豪雪地帯だ。雪に阻まれ、運休することも少なくない。

開業当初こそ、「3時間足らずで東京に行ける」と喜ばれたが、「しょせんはミニ新幹線」といった不満が募っていった。決定的だったのは東北新幹線の青森延伸(2010年)である。東京から新青森までは713キロと、山形までの倍近くある。なのに、所要時間はそれほど変わらない。「フル規格の新幹線が欲しい」という声が出てくるのも無理はない。

「日本海側も太平洋側と同じく大事な国土。隅々まで新幹線ネットワークをつなぐことで、日本全体の力が発揮できる。全国の皆様にも関心を持っていただき、大きな運動のうねりをつくっていきたい」。吉村知事は昨年2月に開かれた日経フォーラムで、フル規格の奥羽、羽越新幹線構想に理解を求めた。

正論である。正面切って、反対はしにくい。だが、果たして実現の可能性はあるのか。整備新幹線の5路線に次いで、奥羽、羽越新幹線構想が政府の基本計画に載ったのは1973年、高度経済成長期である。それから半世紀。日本は少子高齢化と人口減の時代を迎え、緩やかな下り坂に差しかかっている。図2に見るように、北海道の新幹線整備はこれからだ。四国にも山陰にも新幹線網は届いていない。

東北の日本海側を貫く新幹線はないが、山形も秋田もミニ新幹線で東京とつながっている。北陸新幹線の建設には1キロ100億円もかかった。政府も自治体も膨大な借金を抱えている。そうしたことを考えれば、奥羽新幹線も羽越新幹線も夢物語と言うしかない。夢を追うのは夢想家の仕事であって、政治家の為すべきことではない。

現在の新幹線整備計画が一段落した後に考えるべきことは、むしろミニ新幹線の知恵と経験を全国でどのように活かしていくか、ということではないか。

ミニ新幹線第1号となった山形新幹線は、1987年末の予算折衝で政府の建設費補助が内定してから5年足らずで開業にこぎつけた。在来線を使ったこともあり、用地買収の必要はなく、総事業費は620億円で収まった(開業時の概算)。フル規格の新幹線建設とはけた違いの安さだ。ある意味、時代を先取りした「エコな事業だった」と再評価されていい。

実際、四国では「スーパー特急方式」と名付けて、ミニ新幹線と同様、在来線を活用する案も検討されている(図3参照)。山陰にしても、大阪から鳥取、島根とつながるフル規格の新幹線を待つより、岡山から松江へと中国山地を縦断するミニ新幹線を建設する方が現実的だろう。

話を地元に戻せば、山形県が一体となって発展していくという観点からも、山形新幹線の庄内延伸をもう一度、真剣に検討すべきではないか。夢物語の奥羽、羽越新幹線構想を追う限り、山形新幹線の庄内延伸は店(たな)ざらし状態のまま、一歩も進まない。

もちろん、庄内延伸も簡単ではない。何よりも、庄内の2都市、酒田と鶴岡の利益が一致しない、という問題がある。JRの鉄路は余目(あまるめ)駅で酒田方面と鶴岡方面に分かれる(図4)。まず、どちらに延ばすかでもめる。酒田市は新幹線の延伸に熱心だが、より新潟に近い鶴岡市の人たちは「羽越本線を高速化して新潟で上越新幹線に乗り換えた方が早い」と考えているようで、延伸に背を向ける人もいる。

しかし、そういう時こそ、政治家の出番ではないか。余目駅から酒田、鶴岡の両方に新幹線を延ばして両方を終着駅にする、という方法もある(始発は半分ずつ)。あるいは、酒田に延伸する代わりに鶴岡には別の面で力を注いで妥協を図る道もある。要は、山形新幹線をなんとしてでも庄内まで延ばし、名実ともに「山形新幹線」という名にふさわしいものにする、という決意があるかどうかだ。

フル規格の奥羽、羽越新幹線構想に関しては、実は吉村知事より先に提唱した人たちがいる。山形新聞である。表1にも記したが、2000年1月に「幻の新幹線・奥羽、羽越の実現決意」という社説を掲げた。両新幹線を整備計画線に格上げする運動を「怠りなく、より強めていかなければならない」と訴え、「本県が“ミニ”のままでよいのか」と結んでいる。

その心意気は理解できるが、この社説を書いた時、筆者は庄内の人たちの気持ちをどのくらい思いやったのだろうか。「奥羽、羽越」と併記してみても、奥羽が優先されることは目に見えている。フル規格の新幹線構想を唱えることは、そのまま「庄内のことは自分たちで何とかしたら」と言うに等しい。

もともと、庄内の人たちには「内陸のやつらは信用できない」という思いがある。内陸の人たちは「庄内の連中は気位が高く、いがみ合ってばかりいる」と反論するのかもしれない。戊辰戦争以来の怨恨(えんこん)がいまだにうずいている、と指摘する人もいる。

そういうわだかまりを解きほぐしていくためにも、フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設より山形新幹線の庄内延伸の方がはるかに優れた選択肢ではないか。

フル規格の新幹線構想にこだわる吉村知事は最近、板谷峠にトンネルを掘る計画にご執心だ。長さ23キロの長大なトンネル。JR東日本によれば、事業費は在来線用のトンネルで1500億円、フル規格の新幹線用となれば、さらに120億円上積みされる。上積み分は地元負担になるという。このトンネルによって短縮される時間は10分ほどだ。

田中角栄氏が日本列島改造論を唱えた時代ならともかく、膨らむ医療費や福祉と介護の負担をまかなうため消費税を引き上げる算段をしている時期に、このような話が通るわけがない。私たちの社会がこれから辿る道を考えれば、何を優先すべきか、自ずから見えてくるだろう。

吉村知事には、ビスマルクのもう一つの言葉を伝えたい。彼は、政治家としての長くて厳しい歩みを踏まえ、こう言っている。「政治とは、歴史に刻まれる神の足音に注意深く耳を傾け、その道をひととき共に歩むことである」

*メールマガジン「風切通信 59」 2019年6月29日

*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の7月号に寄稿した文章を転載したものです。

≪写真説明≫
山形新幹線



≪参考文献&サイト≫
◎『山形新幹線 鉄路の復権』(鹿野道彦、翠嵐社)1992年
  142ページに山形新幹線の総事業費620億円の内訳がある(工事費320億円、車両費200億円、標準軌用車両費など100億円)
◎『山形新幹線 鉄道21世紀への飛躍』(東日本旅客鉄道株式会社、今野平版印刷)1992年
◎「次の新幹線はどこに?」熱を帯びる誘致合戦(東洋経済ONLINE 2018年2月5日 )
  図1の「奥羽、羽越新幹線構想」、図3の「四国新幹線構想」はこの記事から引用
https://toyokeizai.net/articles/-/207148?page=3
◎盛岡?新青森、320キロ解禁へ JR東が防音工事(朝日新聞DIGITAL 2019年1月14日)
  図2の「新幹線の整備状況」はこの記事から引用
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20190114000403.html
◎日経フォーラム「実装に入った地方創生」での吉村美栄子・山形県知事の講演概要
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3550948019092018000000/
◎ウィキペディアの「山形新幹線」「整備新幹線」「奥羽新幹線」「四国新幹線」の各項(URL省略)
◎板谷峠トンネル化、「フル」か「ミニ」か、仕様巡り県と地元摩擦(河北新報ONLINE NEWS 2019年1月22日)
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201901/20190122_53004.html
◎新板谷トンネルの概要(鉄道計画データベース)
https://railproject.tabiris.com/yamagatatunnel.html
◎山形新聞の2000年1月10日付社説「幻の新幹線・奥羽、羽越の実現決意」、「山形にフル規格新幹線を」と題した一連のキャンペーン記事
◎ビスマルクの言葉「政治とは、歴史に刻まれる神の足音に注意深く耳を傾け、その道をひととき共に歩むことである」(筆者訳)の英語表現は次の通り(ニューヨークタイムズの書評とURL)。
Statesmanship consists of listening carefully to the footsteps of God through history and walking with him a few steps of the way.
https://www.nytimes.com/2011/04/03/books/review/book-review-bismarck-by-jonathan-steinberg.html
◎ドイツ語版ウィキペディア「ビスマルク Bismark」
https://de.wikipedia.org/wiki/Otto_von_Bismarck




出だしの音だけで曲名を当てる「音楽のイントロクイズ」は難しい。知っている歌でも、出だしだけでは思い出せないことがよくある。それに比べれば、「裁判のイントロクイズ」はすごく簡単、と教わった。

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民事訴訟の判決の場合、裁判官が発する最初の音だけで、裁判の勝ち負けが分かるという。裁判官が「ゲ」と言えば、原告の負け。「原告の請求を棄却する」と、短い主文が読み上げられておしまいだ。判決の言い渡しが「ヒ」で始まれば、原告の勝ち。「被告は何々をせよ」と、原告の請求を認める言葉が続くからだ。

新聞記者として裁判の取材をしたことは何度もあるが、自分が裁判の当事者になったのは2年前の7月、64歳にして初めてのことだった。東海大山形高校を運営する学校法人、東海山形学園の財務会計書類を情報公開請求したのに対して、山形県が詳細な部分を伏せて開示したのは不当、として訴えたのだ。その私の裁判の判決は「ゲ」で始まり、負けた。山形地方裁判所の裁判官は「原告の請求を棄却する」との判決を下したのである。

この2年、「ああだ、こうだ」と理屈をこね回す県側の弁護士の主張をさんざん聞かされた挙げ句、この判決。「被告(山形県)は会計書類の不開示処分を取り消し、全面開示せよ」との判決を勝ち取ることはできなかった。怒りは湧いてこなかった。落胆もしなかった。正直に言えば、拍子抜けして、心の中で「はあ?」とひとりごちた。4月23日のことである。

こんな風に書いても訳が分からない方も多いはずなので、裁判の端緒と経緯をあらためて詳しく紹介したい。

学校法人の東海山形学園がダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資を行ったことを私が知ったのは、2016年11月のことだ。よく行く山形市内の蕎麦屋さんに地元の月刊誌『素晴らしい山形』が置いてあり、それに書いてあった(表1)。

『素晴らしい山形』はその少し前から、ダイバーシティメディアの社長であり、東海山形学園の理事長でもある吉村和文氏と、吉村美栄子・山形県知事をめぐる様々な問題を取り上げていた。吉村知事と和文氏は「義理のいとこ」である(知事の亡夫が和文氏のいとこ)。和文氏はこの会社と学校法人のほかにも、映画館会社やIT企業など10を超える会社を経営している。月刊誌は、それらの企業グループと山形県や山形市が癒着している、と告発していた。

事実であれば、ゆゆしき問題である。しばらく、様子を見ていた。だが、メディアはまったく報じる気配がない。議会でも何の質問も出ない。元新聞記者として、また、税金の使途を監視する市民オンブズマン山形県会議の会員として、そして何よりも、一人の人間として義憤に駆られた。

月刊誌の編集者兼発行人の相澤嘉久治(かくじ)氏は、かつて山形の政財界を牛耳り、「山形の天皇」と呼ばれた服部敬雄(よしお)・山形新聞社長に立ち向かい、「メディアの独占と横暴は許されない」と訴え続けた人だ。会ったことはなかったものの、東京で新聞記者をしていた頃からその追及ぶりは知っており、「わが故郷にも気骨のある人がいるなぁ」と感じていた。

その人が老骨に鞭打って新しい闘いを始めたのに、誰も加勢しないのはひど過ぎる。というわけで、2017年の春から、私は市民オンブズマン山形県会議の仲間の協力を得ながら、この問題を本格的に調べ始めた。山形地方法務局に行って和文氏が率いる会社の法人登記や土地登記の写しを取り、山形県庁に出向いて関係文書の情報公開を請求し始めた。調査の基礎資料として欠かせないからだ。

現役の新聞記者なら、県内の人脈を駆使し、コネも使って情報を集めることができるが、早期退職して故郷に戻った私にはそういうものはない。登記と開示情報が頼りである。山形県の情報公開制度はしっかりしている。県庁1階の行政情報センターに行けば、学事文書課の担当者が同席して、どういう公文書をどういう風に絞って請求すれば目的のものを入手できるか、手伝ってくれる。大いに助かった。

ところが、この3000万円融資問題に関しては、学校法人東海山形学園から山形県に提出された財務会計書類(資金収支計算書や消費収支計算書、貸借対照表)の公開を請求したところ、書類の細かい項目の部分が白くマスキングされて開示された(表2)。細部を伏せた理由は、情報公開条例の第6条に規定されている「開示することにより、法人の競争上の地位、財産権その他正当な利益を害するおそれがある情報」に該当するから、というものだった。

納得できなかった。私立学校を運営する学校法人には多額の私学助成費が政府と県から支出されている。その代わり、学校法人には毎年、財務会計書類を監督官庁(この場合は山形県)に提出することが義務付けられている。いわば、学校法人の運営状況を判断するための基礎資料とも言えるものだ。

こうした財務会計書類は、上場企業なら誰でも見ることができる。老人ホームを運営する社会福祉法人の場合も、一般に公開することが義務付けられている。公開されたことによって企業や社会福祉法人の利益が害された、などという話は聞いたこともない。なぜ、学校法人だと「利益が害される」となるのか。

最初は「この学校法人の理事長は知事の縁者だ。その法人が年間の私学助成費の1割にも当たる資金をグループ企業に融資するという、おかしなことをした。だから、県の職員はかばおうとしているのではないか」と疑った。

だが、裁判の準備をするため調べていくうちに「それほど単純な話ではない」と分かってきた。学校法人の財務会計書類をどのように扱うべきか。実は、文部科学省そのものが矛盾した対応をしているのだ。

不正入試などの不祥事が相次いだため、私立学校法は2004年に大幅に改正され、学校法人の理事機能を強化し、財務情報の公開を進めることになった。これを受けて、文部科学省は2009年に「広く一般の人や関係者の理解を得るため、財務情報の公開は極めて重要である。学校法人に財務書類の公開を法的に義務付けることが必要である」と、かなり踏み込んだ考え方を打ち出した。

ところが、それから10年も経つのに、学校法人の財務情報の公開はいまだ法的に義務付けられていない。それどころか、私立学校関係者の働きかけもあってか、大学に比べると規模の小さい高校を運営する学校法人について、文科省は「財務情報の公開義務付け」から除外しようとする動きを見せている。

今年の1月、大学設置・学校法人審議会の学校法人制度改善検討小委員会は「高校以下の学校を設置する学校法人については、中小規模の法人が多く、地域的に限られた運営を行っている。私学助成などを通じて各都道府県が独自に監督を行っており、財務状況等について広く全国を対象に公表することを義務付けることには慎重であるべきである」との提言をまとめた。文科省の意向を受けた提言と見ていいだろう。

表向きは「学校法人の財務情報の公開推進」を唱えながら、裏に回れば、私立高校を運営する法人について「財務情報の公開」を渋る文科省。山形県は右ならえ、の対応をしているのだ。

山形地裁の裁判官は「財務会計書類の詳細が明らかになれば、学校経営上の秘密やノウハウが他の高校の知るところとなり、当該学校法人の利益を害する可能性がある」という県側の荒唐無稽な言い分を鵜(う)呑みにして、全面開示の請求を棄却した。裁判所は、高校を運営する学校法人の情報公開に背を向ける文科省や山形県の対応を追認したのである(表3参照)。

現実はどうか。このような文科省や山形県、裁判所の考えより、はるか先まで進んでしまっている。文科省がまとめた「学校法人の財務情報等の公開状況に関する調査」(2018年10月時点)によれば、全国の大学・短大はすべて財務会計書類をすでに一般公開している。そのうち、貸借対照表の細かい内容まで(小科目まで含めて)公開している大学は56%に達している。

それでも、学校法人の情報公開に後ろ向きの人は「高校は違う。経営上のノウハウを他校にまねされやすいのだ」と言い募るのかもしれない。そういう人には「愛知県の私学助成を見よ」と言いたい。

愛知県の場合は19年前から、高校などを運営する学校法人に財務情報を一般に公開するよう指導している。それにとどまらず、実際に公開している法人には100万円の補助金を追加して支給している。

これに応じて公開している学校法人は、同県江南市の滝学園(中高一貫校を運営)など全体の3割近くある(表4は滝学園の資金収支計算書の一部)。愛知県以外でも、埼玉県の立教新座高校や静岡県の菊川南陵高校も公開している。こうした高校の関係者に山形県の言い分や山形地裁の判決内容を伝えると、ただ苦笑するだけだった。

情報公開は、ただ単に物事をガラス張りにして分かりやすくする、というだけではない。事実を公開することによって、組織の運営に緊張感がもたらされる。不祥事を未然に防ぐことにもつながる。物事をより良い方向に変えていく力になるのだ。

それは時代の流れであり、誰にも押しとどめることはできない。山形地裁の裁判官は法律や条例の細かい解釈にこだわり、大切なことを見落としている。情けない判決だ。これでは、控訴してさらに争うしかない。

*メールマガジン「風切通信 58」 2019年5月31日
              

*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の6月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。

≪写真説明とSource≫
山形地裁の判決後、記者会見する原告(筆者)と弁護団(産経デジタルから)
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/photos/190424/evt19042414220009-p1.html




旧優生保護法に基づいて行われた強制不妊について、仙台地裁は「法律そのものが違憲だった」とする一方で、「除斥期間が過ぎているので損害賠償は請求できない」という判決を下した。その内容を報じる新聞記事を読みながら、私の心はワナワナと震えた。

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戦後、国家が「あなたのような障害や遺伝性疾患のある人が子どもを産んでも不幸になるだけ」と、女性に不妊手術を強制した。「それはおかしい」と声を上げたのに、政府も国会も怠けて1996年まで法律を変えなかった。

その間、不妊手術を強いられた人たちはただ耐えるしかなかった。手術の記録は「保存期間が過ぎたから」と廃棄されていった。かろうじて残っていた記録を頼りに、「人間としての尊厳を踏みにじった責任を取って欲しい」と裁判に訴えたのに、この判決。このような判決文を書いた裁判官たちの責任は重大である。

旧優生保護法が「すべて国民は個人として尊重される」とうたった憲法13条に違反している、と判断したところまではいい。だが、それに続けて「除斥期間の20年が過ぎているので、国に損害賠償を請求することはできない」とは何事か。とんでもない判決だ。

除斥期間は時効に似た法理だ。ただ、時効が「他人の不動産も20年間、平穏に占有していれば所有権を得る」「工事の代金は3年間たてば請求できなくなる」などと、権利ごとに民法に規定されていて、期間も異なるのに対して、除斥期間は民法には詳しい規定がなく、期間も一律だ。「20年たてばどんな権利も行使できない。それは自明の理」というもので、時効より強烈といえる。

仙台地裁の裁判官はその除斥期間を適用して、損害賠償を求める被害者たちの請求を退けた。一応、理屈は通っている。だが、正義にはかなっていない。国民の多くもこの判決には納得しないだろう。強制不妊を迫られた人たちは何十年も「法律に基づく手術だから」と放っておかれたのだ。

そういう人たちの訴えを「法律によれば、そうなる」と切って捨てるのは、血の通った人間のすべきことではない。法律は、正義を実現し、苦しむ人たちに救いの手を差し伸べるための手段として使うべきものだ。為政者に都合のいいように解釈、運用されたのではたまらない。

日本の民法は、明治時代にフランスの民法をベースにドイツの法理論などを加味して、あわてて作られたものだ。19世紀に作られた法律を21世紀の今、杓子定規に適用してどうするのか。強制不妊をめぐるこれまでの経緯を踏まえ、訴えを起こせなかった事情に配慮して法律を解釈し、適用すればいいのだ。

被害者たちはずっと、権利を行使しようとしても行使できない状態に置かれていた。訴えても政府も国会も動かなかった。そのような「特段の事情」があったのだから、そういう場合には「20年以上たったから請求できない」と言うことはできない、という新しい解釈を編み出し、それを判例にすればいいではないか。

裁判官たちにそうした決断ができないのは、法曹という狭い世界に生きてきたからだろう。若い頃から、法律の細かい条文、くどくどした解釈ばかり目にしてきたから、広い世界で何が起きているのか、時代に求められているものは何なのか、そういうことに思いが至らない。彼らは利発だけれど、賢明ではない。

この判決に関する新聞各紙の報道はもの足りなかった。29日の朝日新聞の社説は、賠償を命じなかったのは「承服できない」と批判したが、除斥期間を適用したことに触れていない。毎日新聞の社説は「除斥期間を過ぎても『特段の理由』で訴えが認められた判決も過去にはある」と指摘したが、踏み込みが足りない。「人生踏みにじる罪深さ」という東京新聞の社説が一番、心に響いた。

こういう判決が出た時には、もっとズバッと書けばいいではないか。「ひどい判決だ」と。憲法によって裁判官に特別な身分保障が与えられているのは何のためか。きちんとした処遇と報酬が約束されているのは何のためなのか。こんな判決を書くためではないだろう。


 *メールマガジン「風切通信 57」 2019年5月29日


≪参考記事&文献≫
◎5月29日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞
◎東京新聞(電子版)の社説「人生踏みにじる罪深さ」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019052902000162.html
◎『民法概論?』(星野英一、良書普及会)
◎『新訂 民法總則』(我妻栄、岩波書店)

≪写真説明&Source≫
◎仙台地裁の判決に抗議する原告弁護団
https://mainichi.jp/articles/20190528/k00/00m/040/130000c
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あることを表すのに、どのような言葉を選ぶか。それは、その人あるいはその組織の品格にかかわる重大事である。そういう観点から山形県庁の組織図を眺めると、吉村美栄子知事の県政運営は及第点には程遠い。

土木部を県土整備部と改めたのは愚の骨頂である。「汚職や談合疑惑にまみれてイメージが悪いから」といった理由で変えたようだが、土木という言葉に罪はない。むしろ、近代以降、橋やダム造りに汗を流した人たちは誇りにすら思っていたはずだ。実際、見識を持って、そのまま使い続けている自治体も少なくない。

新設した観光文化スポーツ部という名称には、元新聞記者として情けなくなる。観光産業とスポーツの間に「文化」を挟み込む、その粗雑な感覚。文化とは、もっとふくよかで奥深いもの。こんな使い方をして、いいはずがない。

その部の幹部が新しい県民会館の指定管理者選びでどのような振る舞いをしたか。月刊『素晴らしい山形』の4月号で詳しく報告したら、選考にかかわった部次長と課長が3人とも春の人事異動でいなくなってしまった。在席1年で異動になった人もいる。

「指定管理者の問題で責任を取らされた」と見る向きもあるが、「そうではない」との観測もある。事情通は「サッカーの新しいスタジアム建設構想をめぐって不手際があった。そっちの方ではないか」と言う。

われらのチーム、モンテディオ山形は天童市の陸上競技場をホームにしている。1992年の「べにばな国体」のメイン会場として建設された施設で、球技場を兼ねている。かなり傷んでおり、何よりも「観客席の3分の1以上を屋根で覆うこと」というJリーグの基準を満たしていない。サポーターからは「サッカー専用のところでプレーを観たい」と、新しいスタジアムを望む声が寄せられていた。

新スタジアム構想が具体的に語られ始めたのは、表1に見るようにモンテディオ山形のチーム運営が県の外郭団体、山形県スポーツ振興21世紀協会から株式会社モンテディオ山形に移された2013年前後からである。山形市の市川昭男市長が吉村知事に新スタジアムの建設を要望し、(株)モンテディオ山形の高橋節(たかし)社長(元副知事)が構想に意欲を示す、といった動きが出始めた。

ただ、新スタジアムの建設には100億円前後の資金が必要になる。建設地をめぐって、新スタジアムを街起こしの起爆剤にしたい山形市とホームを抱える天童市との間で激しい鍔迫(つばぜ)り合いになることが予想される。誰もが「実現するのは容易なことではない」と分かっていた。

2015年に新スタジアム構想検討委員会を立ち上げた高橋氏も「資金や建設候補地の議論には踏み込まなかった。どのようなスタジアムが建設可能かというビジョンを検討することに留めた」と語る。

鍔迫り合いは、山形市と天童市の間よりも先に、まず同年9月の山形市長選で演じられた。市川市長が後継候補の梅津庸成(ようせい)氏の出陣式で「吉村知事が新スタジアムを山形市内に建設することを了解した」と受けとめられる発言をした、と報じられたのだ。

対立候補の佐藤孝弘氏を担いだ自民党はいきり立った。県議会自民党は梅津氏支持の知事に釈明を求めようと、知事室に押しかけた。知事は面談を拒み、記者会見で「事実無根のことが書いてある」と説明する騒ぎになった。

市長選で佐藤氏が勝ったことで市川・梅津陣営の目論見はついえたが、火種はくすぶり続けた。一昨年9月の新スタジアム推進事業株式会社の発足は、第2ラウンドの始まりを告げるものだった。

新スタジアム会社の代表取締役には、県経営者協会の寒河江(さがえ)浩二会長(山形新聞社長)と県商工会議所連合会の清野伸昭会長(山形パナソニック会長)、県経済同友会の鈴木隆一代表幹事(でん六社長)が就いた。表2のように、役員には県内の主な企業と団体のトップが名を連ねた。強力な布陣である。

ただし、内情を知る関係者によると、3人の代表取締役も他の役員も頼まれて神輿に乗っただけ。プロジェクトを実際に仕切っているのは吉村知事の義理のいとこ、ダイバーシティメディアの吉村和文社長とアビームコンサルティングの松田智幸執行役員の2人だという。両者とも発足と同時に新スタジアム会社の取締役になっている。

和文氏が知事との縁を活かして、地元の経済界と県庁内の根回しに動く。県の窓口は、かねて昵懇の観光文化スポーツ部の面々だ。アビームはNECグループのコンサルタント会社で、松田氏はスタジアムの建設構想と事業化計画を担う。寝技と頭脳のタッグだ。

実は、この2人の付き合いは長い。和文氏のブログ「約束の地へ」(2016年11月20日)によれば、この10年ほどの間に総務省関連の情報通信技術(ICT)事業や地域活性化プロジェクトを一緒に手がけた仲という。

吉村知事が2016年春に山形にゆかりのある著名人を「山形ブランド特命大使」に委嘱して「山形の応援団」を組織した際には、ともに「特命大使」に選ばれたりもしている。和文氏とNECとの関係の深さは、『素晴らしい山形』の連載の1回目で報じた「山形県庁のパソコン入札問題」を通して、うかがい知ることができる。

この2人が手を組み、県内の経済界のトップをそろえたのだから、普通なら「新スタジアム構想は官民合同のプロジェクトとして粛々と進む」はずだ。ところが、現実にはなかなか進まなかった。県庁内の根回し、つまり観光文化スポーツ部の幹部による財政課を始めとする関係部局との調整がうまく行かず、吉村知事の了承も得られなかったようなのだ。同部の幹部3人の人事はその不手際の始末、という見方が出る背景にはこうした経緯がある。

吉村知事は、経済3団体の代表が新スタジアム構想で面会を求めても、なかなか会おうとしなかったという。新スタジアム会社の日程表には「2018年9月に山形県に官民連携事業化を要請」とあったが、それが半年もずれ込み、今年の3月27日にようやく面会が実現した。

知事に提示された新スタジアムの整備基本計画は(1)観客席のみ覆う固定式屋根型かフィールドまで覆う可動式屋根型のどちらか=図1参照(2)観客席は1万5000人から2万人分(3)建設費は72億5000万円から113億円(4)建設地は公募して2020年9月に決定(5)2025年に運用開始、というものだった。建設費は県費で、運営は民間でという「大甘の計画」だ。

当然のことながら、吉村知事は「協力します」という言質を与えなかった。「将来的には必要なものと認識している」と、そっけなく応じた。面会後、経済3団体の代表は憮然としていたという。「神輿に乗ったのに、はしごを外された」という思いがあるのかもしれない。

歯車はうまく回っていない。吉村知事は巨額の負担を抱えそうで躊躇している。山形市は静かに見守っている風情。天童市に至っては冷淡ですらある。口に出しては言わないものの、誰もが「どこか既視感がある」と感じているからではないか。

新スタジアム会社の立ち上げは、吉村和文氏が27年前、1992年に起業したケーブルテレビ山形の構図とそっくりである。経済界の重鎮を担ぎ上げ、経営の実権は自分がしっかりと握る。事業費は国や県、市からの公金を当てにする、という点で。

潤沢な補助金を受け、最初の頃、ケーブルテレビ山形の経営は順調だった。だが、情報技術革命の急激な進展で環境はがらりと変わった。図2のように、ケーブルテレビ関係の売上高がじりじりと減っており、経営は極めて厳しい。表3にある山形県からのパソコン落札や業務委託で経営を支えている状態だ。

同社のある株主はこう語った。「彼はこの会社を作ってから、一度も株主に配当を出したことがない。経営者なら、きちんと利益を上げて株主に配当するのが基本。その基本ができていない」

吉村和文氏の仕事ぶりを見ていると、「政商」という言葉が浮かんでくる。三省堂の『大辞林』には、政商とは「政府や政治家と結びつき、特権的な利益を得ている商人」とある。なんと簡潔で的確な定義であることか。

そういえば、かつて山形にはもう少しスケールの大きな政商がいた。彼が亡くなって真空状態が生じた途端、取って代わろうとする者が現れ、動き回っている。

メールマガジン「風切通信 56」2019年4月27日


  ◇        ◇

 ≪訂正≫本誌4月号の山形県総合文化芸術館の指定管理者選考に関する記事(4ページ)に「細谷理事長に『県側から要請されて、渋々引き受けたと聞きました』と問うと、肯定も否定もしなかった」と書きましたが、「問うと、否定した」に訂正します。細谷氏から申し入れがありました。山形県生涯学習文化財団が指定管理者の共同企業体の代表を引き受けた経緯についてはなお調査中です。

*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の5月号に寄稿した文章を若干手直しし、加筆したものです。見出しも異なります。表や図をクリックすると、内容が表示されます。

≪写真説明とSource≫
モンテディオ山形の選手。胸には山形のブランド米「つや姫」の文字(モンテディオ山形広報のサイトから)
https://twitter.com/monte_prstaff/status/1072399042469081088





*メールマガジン「風切通信 55」 2019年3月29日

人は誰しも過ちを犯す。間違えることなく生きていける人などいない。ただ、前に進もうとする人はその過ちから何かを学ぶ。少なくとも、学ぼうとする。

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だが、山形県庁には過ちを過ちとして自覚せず、教訓を引き出そうとしない人たちがいる。月刊『素晴らしい山形』の2月号で観光キャンペーンをめぐる山形県幹部職員による露骨な業務委託の実態を報告したばかりなのに、今度は山形駅西口に建設中の新しい県民会館をめぐって、同じようなことが繰り返された。しかも、県庁の同じ部局の手で。

新しい県民会館の正式名称は、山形県総合文化芸術館という。完成後にその運営にあたる指定管理者を選ぶ審査委員会が1月9日に県庁で開かれた。名乗りを上げたのは、山形県生涯学習文化財団を代表とする共同企業体とステージアンサンブル東北という会社である。

生涯学習文化財団は山形県が50億円の資金を投じて作った外郭団体で、細谷知行・前副知事が理事長を務めている。県立図書館に事務所を構え、文翔館(旧県庁)の運営も担っている。この財団と山形交響楽協会、サントリーのグループ企業(サントリーパブリシティサービス)の3者が共同企業体を組んだ。

一方のステージアンサンブル東北には、現在の県民会館を10年間、指定管理者として運営してきた実績がある。とはいえ、従業員22人、資本金1000万円の小さな会社である。規模という点では、共同企業体にとても太刀打ちできない。山形県の担当者の胸の内を推し量れば、「勝負は最初から見えている」というところだったのではないか。

ところが、双方の提案を審査した結果は意外なものだった。表1のように、僅差ながらステージアンサンブル東北の評価が共同企業体を上回ったのである。とくに、中高生や文化団体など幅広い層が利用できる条件を整えているか、専門的な能力のある人材はいるか、といった面での評価が高かった。

上野雅郷(まさと)社長は「新しい会館になれば、利用料金が高くなって中学や高校の吹奏楽部や合唱部は利用しにくくなります。なので、こうした利用には料金を減免するといった提案も盛り込みました。今まで、限られた人数で県民会館をしっかり運営してきたことも評価していただいたと思っています」と語る。

審査委員7人の構成は表2の通りである。外部の有識者が4人、カラー文字で表示した3人が県幹部だ。外部の審査委員は4人のうち3人がステージアンサンブル東北に軍配を上げた。とりわけ、全国の音楽ホールの運営状況を熟知する間瀬(ませ)勝一氏と草加叔也(としや)氏が高く評価した。3人の県幹部はそろって共同企業体に高い点数を付けたが、及ばなかった。

県の指定管理者募集要項は、選定基準や審査項目、配点を詳細に記している。それに基づいた審査であり、本来なら「この評価で決定」のはずだった。ところが、審査委員長の齋藤真幸(まさき)・観光文化スポーツ部次長ら県幹部は、「僅差なので協議したい」と言い出した。協議は延々と続き、最終的には齋藤氏が「(委員長を除くと)3対3の同数なので私に一任していただきたい」と述べ、共同企業体を指定管理者候補にすることを決めたという。

強引な裁定である。全国公立文化施設協会のアドバイザーも務める草加氏は「審査の評価点で決めるのが本来あるべき姿」と言う。同じく協会アドバイザーでもある間瀬氏は「共同企業体の内部でどのように責任を分担するのか、あいまいな点が気になった」と指摘する。

あいまいなはずである。事情通によれば、共同企業体の代表を引き受けた生涯学習文化財団は、もともと指定管理者に応募するつもりなどなかったのだという。財団は50億円の基金の利子で運営する前提でスタートしたが、低金利が長く続いて資産を取り崩すしかなくなり、基金は32億円まで目減りした。財団の運営そのものが厳しい状況にあり、リスクを背負う余裕などないのだ。

細谷理事長に「県側から要請されて、渋々引き受けたと聞きました」と問うと、否定した。財団の財政状況に触れ、「総合文化芸術館の運営で赤字が出れば、大変なことになる」と聞くと、「(損失が出ても)負担は最小限にと伝えてあります」と答えた。実際に運営を担うサントリーパブリシティサービスの文化事業担当部長、篠原慎一氏は「責任分担は9対1で合意ずみです。私どもが9、財団と協会が合わせて1」と認めた。

なんのことはない。事業の幅を広げたい山形交響楽協会がサントリー側に声をかけたが、指定管理者の募集要項には「県内に主たる事務所(本店)があること」という資格要件があり、サントリー側は代表にはなれない。かといって、山形交響楽協会では代表として力不足。そこで県の幹部が生涯学習文化財団に頼み込んだ、という構図のようだ。県の外郭団体をダミーとして使ったのである。

2月下旬の県議会常任委員会で、選定のプロセスが問題になった。村形弘也・県総合文化芸術館整備推進室長は「財務状況が健全で安定的な運営が可能となる経営基盤があるか」などを総合的に評価した、と答弁した。おかしな答えである。表1にあるように、審査項目には「財務状況と経営基盤」も含まれている。7人の審査委員はそれも含めて採点しているからだ。

審査委員長を務めた齋藤真幸次長に説明を求めた。事実関係については「議事概要をご覧ください」と答えるのみ(現在、開示請求中)。決定のプロセスについても「(村形室長の)答弁の通りです」とかわした。「木で鼻をくくる」という表現がぴったりの対応だった。

指定管理者制度は2003年、小泉政権の時に導入された。公営施設の運営に民間の活力とノウハウを導入してサービスの向上と効率化を図るために作られた制度だ。県の外郭団体をダミーとして担ぎ出し、県の幹部職員が審査結果をひっくり返して管理者を決めた今回のケースは、制度の根幹を揺るがすもので、審査委員を引き受けた専門家たちもあきれたことだろう。

この制度に詳しい香川大学の三野(みの)靖・法学部長は「指定管理者をどのようにして決めるかについて、自治体には裁量権がある。ただ、裁量権を逸脱していないかという問題はある。制度の趣旨から考えれば、これは問題になり得るケースだろう」と言う。

実際、自治体による指定管理者の決定が違法とされた事例がある。2014年に北茨城市が観光施設の指定管理者を公募し、審査会が民間企業を選んだのに、市長がこれを覆して市の外郭団体を管理者にした。これを不当として企業側が訴え、水戸地裁でも東京高裁でも企業側が勝訴した(昨年、判決が確定)。今回は、知事が決定する前に県幹部が審査委員会の評価を覆しており、より巧妙と言える。

吉村美栄子知事は「冷ったい県政から温かい県政に」と唱えて当選したが、いつの間にかそれは「身内と取り巻きに温かい県政」に転じてしまったようだ。ステージアンサンブル東北のように、小粒ながら一生懸命働いてきた人たちの努力に砂をかけるようなことをしておいて、「山形を元気に」と呼びかけても虚しく響くだけだ。

知事は観光の振興に熱心だ。サクランボのかぶり物をして、トップセールスに精を出している。県商工労働観光部の末席にあった観光振興課は、吉村県政になってから人員も予算も急増した。ついには観光文化スポーツ部として独立し、観光立県推進課と名を変えて主幹課になった。その部局が勢いに乗り、歪んだ行政を推し進めている。

山形駅西口の県総合文化芸術館は、表3に見るように計画の検討開始から27年の曲折を経て、ようやくこの秋に完成する。用地取得に67億円、建設に148億円が投じられる。さらに、来年春に本格的にオープンすれば、指定管理者に年間約3億円、5年余で15億円の管理料が支払われる。

長い年月と多額の血税を費やして、山形に新しい文化の拠点が誕生する。その施設を舞台にして、県の幹部が意のままに振る舞い、物事を決めていく。こんなことをいつまで繰り返すのか。いつまで許すのか。目を覚まし、声を上げる時だ。


*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の4月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。表1から表3をクリックすると、内容が表示されます。
≪訂正≫月刊『素晴らしい山形』4月号の山形県総合文化芸術館の指定管理者選考に関する記事(4ページ)に「細谷理事長に『県側から要請されて、渋々引き受けたと聞きました』と問うと、肯定も否定もしなかった」と書きましたが、「問うと、否定した」に訂正します(ウェブ版は訂正ずみ)。細谷氏から申し入れがありました。山形県生涯学習文化財団が指定管理者の共同企業体の代表を引き受けた経緯についてはなお調査中です。

≪写真説明とSource≫
山形駅西口に建設中の山形県総合文化芸術館の完成予想図(「ふるさとチョイス」のサイトから)
https://www.furusato-tax.jp/product/detail/06000/4411576



*メールマガジン「風切通信 54」 2019年3月10日
              
あの日、東北は雪だった。大きく、異様に長い揺れ。海が巨大な壁となって押し寄せ、家と工場をなぎ倒していった。後に残された瓦礫の山と黒い泥。降りしきる雪の中で、被災者は凍えていた。その光景を思い出すと、今でも目がうるむ。

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東北全域が停電になり、その夜は光がなかった。被災者は天を仰ぎ、今まで見たこともない満天の星を目にした。海を押し上げた地殻のとてつもないエネルギー。そして、何事もなかったかのようにまたたく星。心に沁みる星空だったという。

自然の力におののきながらも、被災者は健気だった。声を荒げることもなく、静かに列をつくって支援物資を受け取り、生きるために歩き始めた。災害列島に生まれ、しばしば天災に見舞われ、耐え抜くしか術(すべ)がないから、ということもあるのかもしれない。けれども、それだけだったのか。

私は「被災した人たちは信じていたのだ」と思う。私たちの社会は、苦しむ人たちを見捨てたりしない。支援の手が必ず差し伸べられる。だから、いたわり合いながら、それを待とう――そう確信していたから、静かに並ぶことができたのではないか。その姿を通して、見つめる人たちまで元気づけることができたのではないか。

大きな災害や紛争があり、食べ物と飲み水が欠乏すれば、誰もが家族を守るために血眼になる。貧しい国に限った話ではない。ハリケーンに襲われたアメリカでも、支援物資を受け取るために集まった群衆を力で押しとどめなければならなかった。それは自然なことであり、誰も非難したりできない。

だからこそ、世界は驚いたのだ。あれほどの大災害が起き、あれだけの犠牲者を出したのに、生き残った人たちが静かに列をなしていることに。そうした社会を作り上げてきたことを、少なくとも私たちは誇りにしてもいいのではないか。

東日本大震災の後、国連関係者や災害支援の国際組織の人たちの間で、「日本から学ぶ10のこと」という詩が作られ、広まった。

1. 静けさ
胸をたたいたり、取り乱したりする映像はまったくなかった。悲しみそのものが気高いものになった。
2. 厳粛さ
水や食料を求める整然とした行列。声を荒げることも粗野な振る舞いもなく。
3. 才覚
例えば、信じがたいような建築家たち。建物は揺れたが、倒れなかった。
4. 品格
人々は取りあえず必要な物だけを買った。だから、みんな何がしかのものを手にすることができた。
5. 秩序
商店の略奪なし。道路には警笛を鳴らす者も追い越しをする者もいない。思慮分別があった。
6. 犠牲
50人の作業員が原子炉に海水を注入するためにとどまった。彼らに報いることなどできようか。
7. 優しさ
レストランは料金を下げた。ATMは警備もしていないのにそこにある。強き者が弱き者の世話をした。
8. 訓練
老人も子どもも、みんな何をすべきかよく分かっていた。そして、それを実行した。
9. 報道
速報に際して、彼らはとてつもない節度を示した。愚かな記者はいない。落ち着いた報道だった。
10. 良心
店が停電になると、人々は品物を棚に戻し、静かに立ち去った。

大震災から8年。被災地はまだ、復興のただ中にある。福島では、いつ終わるとも知れない原発事故への対処が続いている。私たちも、後に続く世代もそれを背負って生きていくしかない。険しい道だ。けれども、私たちの社会には世界を驚かせる力もある。その力を信じて、ともに歩んでいきたい。



《詩のSource》
「日本から学ぶ10のこと」 “ 10 things to learn from JAPAN “ には、いくつかのバージョンがあります。上記の詩は次のURLから引用したものです(日本語訳は長岡昇)。
http://www.facebook.com/notes/xkin/10-things-to-learn-from-japan-/202059083151692

≪写真説明とSource≫
冬の星座(ブログ「星空の珊瑚礁」から)
https://hosiya.at.webry.info/201902/article_1.html

メールマガジン「風切通信 53」 2019年2月27日

時間的にも能力の面でも、人間には限界がある。普通の人の場合、二つか三つのことに力を注ぐだけで精一杯だろう。かの聖徳太子のように「同時に10人の話を聞いて、すべて聞き分ける」といった芸当ができる人は滅多にいるものではない。

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吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏は自身のブログに「現在は、15の会社経営を担っている」と書いている。これを目にして驚く人もいるかもしれないが、苦労した人なら「なんだかなぁ」と斜に構えて読む。私も、長い新聞記者生活で苦い思いをたくさんしてきたので、額面通りに受けとめたりはしない。むしろ、「どっか怪しい」と感じる。

そもそも、「15の会社」がどれなのか、いくら調べても分からない。1992年にケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)を設立してから、吉村和文氏は次々に新しい会社を立ち上げてきた。傘下に吸収した会社もある。けれども、そうした会社を含めても、まだ足りない。思いあぐねて、本人に手紙で問い合わせたりもしたが、返事はない。ただ、一つだけ、その答えのようなものが見つかった。

彼は4年前に山形県の村山法人会に依頼されて東根市で講演をしたことがある。図1は、その講演会のチラシに掲載されたプロフィール部分である。ちょうど、15の会社と法人、団体の名前が並んでいる。講演会の主催者が勝手に略歴を作ることはないから、このプロフィールは本人が伝えたものだろう。これが「15の会社」なのかもしれない。

「文は人なり」という。文章にはその人の考え方から感じ方、生き方まですべてが滲み出る。本人が記す略歴にも似たところがある。生い立ちや職歴には触れず、会社や団体の名前と自分の肩書をずらりと並べ、胸を反らす――それが彼のスタイルなのだろう。

プロレス興行の会社とその持ち株会社や岩手ケーブルテレビジョンなどは把握していたが、「株式会社モンテディオ山形」や「山形交響楽団」まで並んでいるのには驚いた。地元のサッカーチームや交響楽団の経営も自分が担っている、と言うつもりか。かなりの心臓の持ち主である。

これらの会社や法人、団体の中で経営がもっとも安定しているのは、彼が理事長をしている学校法人東海山形学園だろう。東海大山形高校を運営しているこの学校法人の資金収支計算書によると、2017年度の収入は29億円余り。支出に占める人件費の割合は14%と低く、翌年度への繰越金は5億円もある。

学校法人の好決算を支えているのは国と県からの私学助成だ。表1の通り、東海山形学園には毎年、3億円を超える公金が注ぎ込まれている。その内訳は、教職員の人件費などに充てる一般補助金や生徒の授業料を軽減するための就学支援金(国費)と補助金(県費)などだ。2017年度には校舎の耐震改築工事のため施設整備費が膨らんだこともあって、助成費は10億円を上回った。2012年度からの6年間で助成の総額は27億円を超える。

もちろん、私学助成そのものに異議を差しはさむつもりはない。山形県の場合、斎藤弘・前知事は財政再建を掲げて私学助成費を削り込んだが、吉村美栄子知事は私学の支援に力を注いだ。経常経費の40%台まで落ち込んだ一般補助金の補助割合を段階的に50%まで引き上げ、授業料を軽減するための支援策も充実させた。それによって、生徒の保護者の負担は軽くなり、私学の経営を底支えしている。納得のいく施策だ。

問題は、吉村和文氏が学校法人の理事長としてこうした手厚い助成を受けながら、学校の資金3000万円を自分の会社、ダイバーシティメディアに融資したことにある。2016年3月のことだ。その後、返済されたとはいえ、年間助成費の1割もの資金を自分が社長をしている会社に貸し出す――そんなことが許されるのか。

詳しく調べるため、私は2年前に県学事文書課が保有する東海山形学園の財務諸表の情報公開を求めた。すると、文書は開示されたものの、細部を隠したものが出てきた(表2)。貸借対照表に「3000万円の融資」が記されているはずなのに、その部分も白くマスキングされていた。一部不開示にした理由は、細部まで明らかにすると「法人の正当な利益を害するおそれがあるため」というものだった。

あきれた。財務諸表は学校法人のいわば基本データのようなものだ。3000万円の融資については、借りた側のダイバーシティメディアの貸借対照表に明記されており、それは株主総会で配布されている。学校法人の会計文書でそれが明らかになったからと言って、「利益が害されるおそれ」などどこにあるのか。あまりにも理不尽なので、私は山形地方裁判所に「情報公開の不開示処分の取り消し」を求める訴えを起こした。長い審理を経て、4月下旬にその判決が出る。

3000万円の融資問題が表面化した後、私立学校の指導監督にあたる県学事文書課の遠藤隆弘課長(当時)は県議会の常任委員会で「監査報告書を見る限り、(融資の)契約は適正と考えている」と答弁した。吉村美栄子知事も記者会見で「(学校法人が)適切に運営されているのであれば、よろしいのではないか」と述べた。「とくに問題はない」と擁護したのである。

では、東海山形学園と同じように私学助成を受けている私立高校の関係者はどう見ているのか。山形県内には、表3のように高校を運営し、私学助成を受けている学校法人が14ある。各校に見解を問うと、匿名を条件に「少子化で生徒が減る中で、なんとか経営を維持している。よそに資金を貸す余裕などないし、考えたこともない」「公的な支援を受けている学校法人の場合、外部に寄付することにも制限がある。ましてや融資などあり得ないこと」といった答えが返ってきた。

公金を支出する側と受け取る側との間に見られる、この大きな落差。それは吉村県政が今、どのような状態にあるかを示すとともに、県政と吉村一族の企業・法人グループとのいびつな関係を照らし出している。

東海山形学園については、融資問題のほかにも問題がある。十数の企業・法人を率いる吉村和文氏がこの学園の理事長を兼務していることだ。会社経営で多忙な和文氏が高校に顔を出すのは月に数回というのが常態化している。表3にある他の学校法人の場合、理事長は常勤というのがほとんどだ。一つだけ医師が理事長を兼務している法人があるが、和文氏のように数多く兼職しているケースはない。

東海山形学園では、東海大山形高校の阿部吉宏校長が理事を兼ねており、実務的には支障ない、と言うのかもしれない。山内励・元校長や市川昭男・前山形市長も理事に名を連ねている。だが、学校法人を代表する権限を持つのは理事長ただ一人である。その人物が学校にほとんどいない、というのは尋常ではない。

こうした状態をどう考えるか。文部科学省の見解ははっきりしている。公式サイトに「理事機能の強化について」という文書をアップし、「理事長については責任に見合った勤務形態を取り、対内的にも対外的にも責任を果たしていくことが重要と考える。このため、理事長については原則、常勤とするとともに、その職務に専念するためほかの学校法人の理事長等との兼職は避けることが望ましい」という考えを打ち出している。

学校法人をめぐっては、過去に私立大学の不正入試など不祥事が相次いだ。山形県では、出稼ぎ目的の中国人留学生を多数受け入れていた酒田短大が解散を命じられた。2004年に私立学校法が大幅に改正されたのは、こうした不正を防ぐためであり、この文科省の見解も法改正を受けて出されたものだ。

山形県内の学校法人を所管する県学事文書課は、東海山形学園の現状をどのように考えているのか。理事長の常勤化と兼職の制限について指導したことはあるのか。質問書を出したが、いまだに回答がない。

手厚い私学助成に異論はない。ただし、多額の公金を支出するのだから、受け取る学校法人はそれにふさわしいものであって欲しい。非常勤の理事長など論外だ。



*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』2019年3月号に寄稿した文を若干手直ししたものです。見出しも異なります。

*追記(3月15日)
2月8日に出した質問書に対して、山形県学事文書課の菅原和彦課長から3月14日付で回答があった。その内容は、学校法人の理事長の常勤化や兼職の制限を期待するとの文部科学事務次官の通知(平成16年7月23日付)を「県内の各学校に対して通知しております」というものだった。わずか8行。15年前に通知を流しただけ、ということのようだ。


≪写真説明とSource≫
東海大山形高校は野球もサッカーも強い(高校野球の2011年秋季東北地区大会、朝日新聞の高校野球サイトから)
https://vk.sportsbull.jp/koshien/localnews/TKY201110110078.html?ref=reca




月刊『論座』2005年4月号掲載「社説の現場から」

 「人の生き死に。それを書くのが俺たちの仕事だ」
 新聞記者になりたての頃、初任地の静岡で支局長からよくそう諭された。小さな火事や交通事故でも、できるだけ現場に行く。常に自分の目で見て書く。「それが大事だ」と教え込まれた。

 おっかない人だった。甘い記事を見逃さなかった。酔眼で「どういうつもりだ」と説教が始まる。酔いが深まるにつれて言葉は激しくなり、「甘ったれんじゃねぇ。死ね! 死んでしまえ!」で終わるのが常だった。こういう上司の下で働くのは、正直言ってしんどい。神経がすり減っていく。けれども、指摘は鋭く、いつも的確だった。新聞記者の仕事をこれほど端的に表現し、追い求めた人に、その後ついぞ巡り合わなかった。

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 外報部に配属になり、アジア担当になった。ニューデリーとジャカルタに住み、戦争や暴動、騒乱、災害の取材に追われた。「生き死に」へのこだわりを忘れてはいけないと思いつつ、日々流される血があまりにも多く、徐々に鈍感になっていくのを抑えることができなかった。

 取材の一線を離れ、社説を書く論説委員になると、現場から遠くなる。ニュースに対する感度が鈍る。それでいて、アジア担当としてのカバー範囲は東南アジアの国々からインドとその周辺、アフガニスタンまでと広大だ。いまひとつ確信が持てないようなことでも、訳知り顔で書かなければならないときもある。論説委員になって4年。「これでいいのか」。自問することが多くなっていた。

 スマトラ沖地震は、そんな自問を吹き飛ばすようにやってきた。2004年12月26日、日曜日だった。
 論説委員は通常、土日は休む。担当デスク(論説副主幹)のほかには、仕事を抱えた人が数人出てくるだけだ。その日は私も、正月用のひまだね原稿を書くために出社していた。昼過ぎに地震の発生を知ったが、夕方までその原稿を仕上げるのに専念した。緊張感を欠いていた。

 ニュースに向き合う編集局はさすがに違った。呼び出しを受けて記者が続々と集まり、殺到する情報をさばいていた。夜、刷り上がった朝刊のゲラを見た。早版は「死者3000人、マグニチュード8.9」。それが最終版では「死者6600人」に膨らんでいた。大災害である。その場ですぐ社説を書くべきだった。が、すでにタイミングを失していた。

 一夜明けた月曜日。論説委員室の会議で「即座に対応しなかったことを反省しています」と述べてから、どういう社説を書くかのプレゼンテーションをした。「明日はわが身」とか「教訓をくみ取れ」といった、紋切り型の社説は書きたくなかった。会議で議論をしている間にも、伝えられる死者は万単位で増えていった。阪神大震災も、少し前に起きた新潟県中越地震も大変な災害だが、それらとはスケールの違う、何かとてつもないことが起きたことが分かってきた。

 会議では、次の4点を中心に説明した。
(1)地震の規模を示すマグニチュードは9.0に上方修正された。これは、この100年で4番目の大きさだ。阪神大震災の360倍(計算方式によっては1600倍)の規模になる。犠牲者も災害史上に残る数になる可能性がある。(2)解き放たれたエネルギーはものすごい。1000キロ以上離れたインドやスリランカの沿岸まで津波が押し寄せた。「自然が持つ力におののく」という表現を使いたい。(3)これまでの情報から判断すると、もっとも多くの犠牲者が出るのは震源に近いインドネシアのアチェ地方とスリランカ東部だろう。どちらも紛争地で、被災地はもともと疲弊している。救援活動は難航するだろう。(4)インド洋沿岸の国々は貧しい。地震対策はなきに等しい。津波の警報システムなどあるわけもなく、誰もが何も知らされないまま波にのみ込まれた。緊急支援が一段落したら、「地震とは何か」といった基本的なことを知ってもらうための援助ができないものかーー。

 これに対し、国際担当のデスク、村松泰雄は「いま起きていることは非常事態だ。将来の対策も大事だが、まずは行方不明者の捜索と被災者の救援に全力を注がなければならない。それをしっかりと書くべきだ」と主張した。専用回線で会議に参加している大阪の論説委員、大峯伸之からは「ぐらりと来たら、何を置いても高台に逃げる。津波対策はそれに尽きる。なのに、日本ですらきちんと教訓化されていない。それを書き込んでほしい」との声が寄せられた。

 それぞれ、足りないところを補う意見だった。こうした声を踏まえて、12月28日付で「スマトラ地震 巨大な津波におののく」という社説を書いた。意見を踏まえたつもりだったが、「国際社会としてどう取り組むべきか」という視点が弱かった。そこで、科学担当の論説委員、辻篤子が第2弾の社説「スマトラ地震 史上最大の救援作戦だ」(12月30日付)を執筆した。第二次大戦で連合国軍がノルマンディーに上陸した「史上最大の作戦」を例に引きつつ、今回の災害支援の規模の大きさを指摘し、それが持つ政治的な意味を説いた。

 電気も電話もない被災地で、一線の記者はどうやって取材し、原稿を送ったのか。
 ジャカルタ支局長の藤谷健は、発生翌日の27日夕にはスマトラ島北部アチェ地方の中心都市、バンダアチェに入った。被災から1週間ほど経ってから、街の真ん中を海が濁流となって流れ、人と車を押し流していく映像が世界に伝えられ、衝撃を与えた、あの街である。バンダアチェの空港は内陸部にあるため、被害を受けなかった。空港に着いたのはいいが、タクシーがいない。ようやく車を見つけて取材し、泥まみれの遺体が折り重なる惨状を原稿にして衛星電話でふき込んだ。

 ジャカルタ支局に衛星電話を常備していたこと。電源が長持ちする高性能のパソコンを持っていたこと。市内で唯一、自家発電機が動いていた州知事の公舎にたどり着き、充電できたこと。日頃の準備と機転で、厳しい状況を乗り切った。

 泊まるホテルはなかった。地震でつぶれたもの、津波で泥につかったもの。全滅だった。幸い、津波の前の地震の揺れは震度5程度で、津波が押し寄せなかった地域には無傷の建物がたくさん残っていた。民家に転がり込み、ろうそくの明かりで食事を取ったという。

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 朝日新聞として、取材態勢の面で改善すべき点があったとするなら、初期の段階で被害と取材人員の釣り合いが取れていなかったことだろう。震源に近いアチェ地方は、沿岸部が幅数キロにわたって壊滅的な打撃を受けた。電話局もテレビ局も被災して機能しなくなった。被害を外部に向かって報告、発信する手段がすべて失われた。紛争地のため、もともと外国人は立ち入りが規制されている。津波の前にはメディアもなかなか入れなかった。「衝撃的な映像」が外部に伝わるまで1週間もかかったのには、こうした事情があった。

 一方、タイ南部のプーケット島の被害は、海辺の幅数百メートルほどに限られていた。その奥は無事だったので、大波が打ち寄せる映像がすぐ世界に伝えられた。しかも、欧米や日本からの旅行者で犠牲になった人が多かった。スリランカやインドの被害も、インドネシアよりはずっと早く伝わった。このため、応援の取材陣はまず、タイやスリランカ、インドなどに向かった。朝日新聞の場合も、当初は「アチェには記者が1人しかいないのに、タイ南部には記者とカメラマンが6人もいる」という態勢が続いた。

 「インド洋全域で死者と行方不明者は約30万人(*)。その8割はアチェ」という被災の全体状況が分かったのはだいぶ経ってからであり、初動段階での取材態勢のアンバランスを問うのは酷かもしれない。ただ、日本のテレビ各局は、日本人犠牲者の報道にエネルギーの大部分を使い、この大津波による被害の全体像を伝えようとする気概を欠いていた。東京で取材の指揮を執る人たちに少なからぬ影響を与え、新聞の報道もこれに引きずられた面があったように思う。英国のBBCは、早い段階からアチェ地方とインドのアンダマン・ニコバル諸島に複数の取材チームを送り込み、果敢な報道をしていた。大災害の全体像に迫ろうとする気迫を感じた。

 地震でも津波でも、震源に近い所が一番大きな被害を受ける。初期の段階で被害が伝わらないとしたら、そこには別の理由があるはずだ。想像力を働かせなくてはならないーーそれが今回の地震と大津波の報道での教訓の一つだろう。

 話を「社説の現場」に戻す。
 年が明けてから、朝日新聞は「アジアの力が試される スマトラ沖大地震」(1月5日付)、「津波サミット 競い合い、支え合え」(1月7日付)という社説を掲げた。前者は、通常2本の社説が掲載される欄を全部使った、いわゆる「一本社説」である。憲法問題やイラク戦争の重大な局面、ブッシュ大統領の再選といった節目に、十分なスペースを使って朝日新聞としての基本的なスタンスを打ち出すために載せる社説だ。

 一つの災害のために、これだけ多くの国々が軍隊や医療チームを派遣して救援にあたったことはない。小泉首相やパウエル米国務長官(当時)、中国の温家宝首相、国連のアナン事務総長らがジャカルタに集まり、被災者の支援策を話し合う。これも異例のことだ。論説委員室の会議で「一本社説で論ずるべきだ」との声が出され、そう決した。

 米国は、今回の津波でアチェに1万4000人の兵力と空母部隊を投入した。多数のヘリコプターを使っての支援活動は水際立っていた。オーストラリアも輸送艦でブルドーザーやショベルカーといった重機を大量に持ち込み、がれきの除去などで貢献した。

 だが、インドネシア側は「米国はイラク戦争で高まったイスラム圏の反米感情を和らげようとしている」と斜に構えている。過去に東ティモール独立をめぐって対立したオーストラリアに対しては「次はアチェへの影響力を確保しようとしているのではないか」と疑っている。

 迅速さや機動力という点では、日本やアジア諸国の支援は米豪両国に到底、及ばない。だが、インドネシアとの間で摩擦が生じる恐れは少ない。息の長い支援を旗印にして、日本が復旧と復興のイニシアチブを取ることは可能だし、取るべきだーーそれが一本社説の眼目だった。

 被災地からの報道を受ける形で、論説としてもそれなりに書いたつもりだが、不満があった。現場を自分の目で見ていないことだ。新潟県中越地震では論説委員も次々に現地入りし、余震に揺られながら社説を書いた。それを思えば、これだけの大災害で現場取材をしないわけにはいかないだろう。議論の末、アジア担当と地震担当の論説委員が順次、被災地を訪ねることになった。

 大津波については、すでに膨大な量の報道がなされていたが、私は「まだまだ空白域がある」と感じていた。新聞の小さな地図で見ると、アチェ地方は小さく見えるが、実は九州の1・3倍もある。西海岸は約500キロ。東京?京都間に等しい。この長い海岸線がどうなっているのか、あまり報じられていない。気になっていた。バンダアチェより震源に近く、大津波を正面から受ける位置にあるからだ。

 1月下旬にアチェを訪ね、米軍の支援ヘリに同乗して空から海岸線を200キロほど見た。呆然とした。海沿いの地域がごっそり削り取られたようになり、町や村が消えていた。がれきすら、あまり残っていない。これでは映像で伝えにくい。あっさりしすぎて、悲惨さが伝わらないのだ。

 ちょうど同じ時期に、東大地震研究所の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)助教授が現地調査に来ていた。「バンダアチェより西海岸の方が被害は深刻なのではないか」と聞いてみた。「たぶん、そうでしょう。高さ30メートルくらいの津波があちこちに押し寄せたのではないか」と言う。その光景を想像すると、絶句するしかなかった。

 映像ではうまく伝えられないーーそういうところにこそ、新聞記者が入り込み、じっくりと取材して報道すべきだ。映像が力を持つようなフィールドでテレビと競争しても、活字メディアが勝てるわけはないのだから。

 アチェでの取材であきれたのは、復旧の見通しすら立っていないのに、インドネシア政府が「外国軍の早期撤退」を言い続けていたことだ。米豪両国軍がいることにわだかまりがあることは理解できる。しかし、今はそんなことを言っているときではあるまい。怒りを感じた。アチェから衛星電話で「アチェ報告 国の威信より人の命だ」と題した社説を送った(1月31日付で掲載)。

 インドネシアでの取材を終えて、タイ南部に回った。プーケット島より、その北のパンガー県の方が被害はひどいという。訪ねると、内陸深くまで津波が達している地区があった。カオラックという。専門家によれば、浜が遠浅なうえに北側に岬が突き出しているため、津波のエネルギーを丸ごと受けてしまったとのことだった。

 ここにも「取材の空白域」があった。この辺りには、ミャンマー(ビルマ)からの出稼ぎ労働者が多数いた。犠牲者もかなりいたはずなのだが、彼らは住所を登録しているわけではない。確認のしようがないのだ。

 白い砂浜には波が穏やかに打ち寄せていた。その海のかなたには、インドのアンダマン・ニコバル諸島があり、ミャンマーの島々が横たわっている。これらの島々の被災状況も実はよく分かっていない。インドは同諸島が軍事的に重要な意味を持つため、外国人の立ち入りを快く思っていない。ミャンマーの軍事政権は、そもそも外国人ジャーナリストを国内に入れようとしない。

 社説で「息の長い支援を」と何度も書いた。当然、メディアとしても「息の長い報道」をしなければならない。一線の取材も、論説の取材も、まだまだ終わらない。
(長岡 昇 ・朝日新聞論説委員)


*この記事は、朝日新聞社発行の月刊『論座』2005年4月号に次のタイトルで掲載された。 
 「社説の現場から」 まだまだ「報道の空白域」がある スマトラ沖地震と大津波
*その後の調査によれば、死者と行方不明者は約22万人と推定される。この地震は「スマトラ沖地震」あるいは「スマトラ島地震」などと表現されたが、メディアでは「インド洋大津波」の呼称が定着した。


≪写真説明≫
1 陸に打ち上げられた貨物船。この辺りには高さ30メートルを超える津波が押し寄せた
=スマトラ島北部のロックガで(1月29日、筆者撮影)
2 スマトラ島アチェの西海岸。道路は寸断され、この先は車で行くことはできない(同)


ながおか・のぼる 1953年生まれ。東京大学法学部卒。1977年、東芝入社。78年、朝日新聞入社。静岡支局、横浜支局、東京本社整理部、北海道報道部を経て外報部に。ニューデリー支局長、外報部次長、ジャカルタ支局長を務め、2001年から現職。

メールマガジン「風切通信 52」 2019年1月30日

 時に逆行することはあっても、歴史はより自由で、より公平で、より開かれた社会に向かって動いている。自由は「法の支配」を確立することによって広がり、公平さは普通選挙の実現や農地の解放によってもたらされた。そして、次の「開かれた社会」を実現するために生み出されたのが情報公開制度である。

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 北欧生まれのこの制度を日本で初めて導入したのは山形県の金山町である。1982年に金山町情報公開条例を制定し、翌83年に神奈川県と埼玉県がこれに続いた。国が情報公開法を施行したのは2001年、19年後のことだ。「開かれた社会」への挑戦は、日本では地方から始まったのである。

 吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループは山形県や山形市からどのような形で公金を受け取っているのか。その実態を解明するうえで、情報公開制度は抜群の威力を発揮する。その好例が今回お伝えする「山形県による観光キャンペーンの業務委託問題」である。

 吉村知事の2期目、2014年にJRグループは「山形デスティネーションキャンペーン(DC)」という大規模な誘客事業を展開した。メインテーマは「山形日和。」。豊かな自然と食、温かい人情を多様なメディアを駆使してアピールし、より多くの観光客を惹(ひ)きつけようとした。

 山形県は、これに連動する形で「山形DC関連県内周遊促進事業」という新しいプロジェクトを立案した。県民向けに県内の観光地を訪れるよう促すキャンペーンを繰り広げることにしたのである。もちろん、県職員が直接こうした誘客事業を行うわけではなく、業務は3500万円の予算内で民間企業に委託することにした。

 事業を担当したのは商工労働観光部の観光交流課である。業務委託は公募ではなく、指名型プロポーザル方式という独特な方法で行われた。県側が業務を引き受けてくれそうな企業5社を選定・指名し、各社に企画案を出してもらい、審査して決める方法だ。建築物の設計などでよく使われる手法で、業界では「コンペ方式」と呼ばれる。

 選ばれたのはケーブルテレビ山形と県内の民放4社(YBC、YTS、TUY、さくらんぼテレビ)である。県民向けにどのようなキャンペーンを展開することを期待していたのか。情報開示された県内周遊促進事業の基本仕様書によると、委託する業務の主な内容は次のようなものだった。

 (1)県民に県内周遊を促すテレビCMを4種類以上制作し、県内のテレビ2局以上で延べ240回以上流す(2)県内周遊を促す3分程度のテレビ情報番組を制作し、県内のテレビ2局以上で延べ24回以上放送する(3)二つ以上の新聞、二つ以上の雑誌などに周遊を促す広告を掲載する(4)テレビで放送した内容と関連する内容をウェブサイトにも掲載する(5)リーフレットなどのPR資料を作成する(6)これらの映像媒体、印刷媒体を組み合わせて展開する(7)効果的なPRイベントを1回以上開催する。

 観光交流課は2014年2月24日、この仕様書を含む文書を5社に郵送し、企画書を出すよう促した。提出の締め切りは3月10日。当時、この文書を受け取った民放テレビの担当者は一読して、「何だ、これは」と驚いたという。企画のメニューが多岐にわたり難しい内容なのに、締め切りまでわずか2週間しかなかったからだ。

 それ以上に問題だったのが仕様書の第2項目だ。「情報番組を作って県内の2局以上で放送する」という内容に目をむいた。民放テレビが自ら番組を制作した場合、それを系列が異なる県内の他のテレビ局で放送することはあり得ない。つまり、仕様書には「民放テレビにはできないこと」が盛り込まれていたのである。

 当然のことながら、民放4社は企画書を出すことができず、ケーブルテレビ山形だけが締め切りまでに提出した。県の内規によれば、1社だけを対象にして審査会を開いて決めることも許される。開示された審査結果に関する文書には「5社のうち1社応募、4社辞退」と記され、審査の結果、「ケーブルテレビ山形が最上位に決定された」と書いてある。

 民放各社には達成できない条件を設定したうえで企画書の提案を促し、「4社辞退」と表現する。さらに、審査の対象は1社だけだったのに、臆面もなく、審査の結果、「ケーブルテレビ山形が最上位に決定された」と記す、この破廉恥さ。民放の担当者の中には県庁まで出向いて抗議した者もいたが、「手続きは適正」という言葉が返ってきただけだったという。

 そもそも、県民に県内を旅行するよう促すために3500万円も費やす必要があったのか。素朴な疑問を抱いて、この事業の予算査定に関する公文書の開示を求めた。すると、さらに興味深い事実が浮かび上がってきた。

 予算配分の権限を持つ財政課は当初、この事業の必要性を認めず、観光交流課の予算要求を撥(は)ねつけていたのだ。表1にあるように、課長レベルの折衝ではゼロ査定。部長折衝でもゼロ回答をしたうえで、「事業のロードマップだけが示され、具体的なイメージができるものがなければ、議論さえできない」と突き放した。

 ところが、財政課が「議論さえできない」と酷評した事業の予算は、最後の知事による折衝で満額復活した。2014年度の予算編成で「知事復活」の対象になった事業は7件あったという。山形DC関連県内周遊促進事業はその一つになった。どのような理由で復活したのか。文書はなく、不明である。

 翌2015年度から、この県内周遊促進事業は公募方式になり、県のホームページに企画募集のお知らせがアップされるようになったが、その後もケーブルテレビ山形(2016年にダイバーシティメディアに社名変更)が受託し続けている(表2)。途中から「コンソーシアム(共同企業体)」に加わった山形アドビューロと山形コミュニティデータセンターは、山形新聞グループの会社である。

 県内の広告業界では「あの事業はヒモ付き。応募しても無駄」との見方が広がった。応募する会社がなくなることを恐れたのか、観光交流課(2016年に観光立県推進課に改称)から「企画を出しませんか」と誘いを受けた広告会社もあると聞いた。

 とはいえ、どの業界にも一匹狼のような会社はある。今年度はダイバーシティメディアを中心とする共同企業体とシー・キャドに加え、エーディーバンクという会社が事情を知らずに応募した。表3は今年度の「重点テーマPR誘客促進事業(近県向け)」の審査結果である。

 審査員は外部の有識者2人と主管する観光立県推進課長の3人。関連する文書と照らし合わせると、審査員AとBが外部有識者、Cが課長と考えていい。AとBの点数を合計すると、ダイバーシティメディアを中心とする共同企業体の企画案(提案2)は、エーディーバンクの企画案(提案3)にかなり差をつけられていた。

 ところが、C(課長)が前者に最高点、後者に低い点数を付けたため、3人の合計では形勢が逆転し、業務の委託先は共同企業体に決まった。吉村県政の下で幹部がどのように振る舞っているのか。それを象徴する結末である。

 一連の業務委託で、ダイバーシティメディアと同社を核とする共同企業体に支出された公金は1億2000万円を超える。その出発点となったのは2014年度の業務委託である。観光交流課長としてこの仕事を仕切った武田啓子氏はその後、村山総合支庁の保健福祉環境部長、本庁の健康福祉部長とトントン拍子で出世し、昨春、観光文化スポーツ部長に上り詰めた。

 民放4社を指名しておきながら民放テレビには達成できない条件を付け、ケーブルテレビ山形しか応募できないような事業を推し進めたことをどう考えているのか。面会を求めたが、武田氏は応じない。課員に質問書を託したが、回答はなかった(*2)。

 「資産隠しではないか」との質問に答えない吉村知事と同じく、武田氏も黙してやり過ごす気のようだ。山形県庁には、公務員として堅く守るべき公平さをかなぐり捨て、それを恬(てん)として恥じない人たちがいる。



*1 この文章は、月刊『素晴らしい山形』2019年2月号に寄稿したものを若干手直しして転載したものです(表1、表2、表3をクリックすると、内容が表示されます)。
*2 『素晴らしい山形』2月号の締め切り後、武田啓子氏から「平成26年度山形DC関連県内周遊促進事業に係る業務委託につきましては、地方自治法等に基づき適正に行っております」との回答が届いた。寄稿文で指摘した問題についての釈明はなかった。

≪写真説明とSource≫
山形への旅にいざなうJRグループのポスター。レトロな雰囲気が人気の銀山温泉(日本観光振興協会のサイトから)
https://www.kankou-poster.com/66vote_result/63vote_result/63nyuusho/15-%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3.html


メールマガジン「風切通信 51」 2018年12月26日

 1期目の知事や市長は強い、というのが選挙の常識である。現職が再選を目指して敗れることは滅多にない。だが、2009年1月の山形県知事選挙ではその稀有(けう)なことが起きた。1万票の僅差ながら、新顔の吉村美栄子氏が現職の斎藤弘氏を破ったのである。東北初の女性知事誕生。鮮烈なデビューだった。

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 当時の麻生太郎首相の不人気、山形県の保守勢力の分裂、野党共闘の巧みさといったことに加えて、吉村陣営のキャッチフレーズ「冷(つ)ったい県政から温かい県政に」が効いた。元銀行マンの斎藤氏は財政再建を旗印に公共事業や福祉の予算をバサバサ削った。その容赦のなさに、多くの県民は凍えていたのである。

 斎藤氏の日ごろの言動も、人々の心を萎(な)えさせた。知事室に陣取り、あまり人に会おうとしない。また、会った人に聞いても「こっちの話に耳を傾けようとしなかった」という。この人は、知事になったその日から、毎日、票を減らすような振る舞いをしてきたのだろう。行政運営の冷たさにも増して、人柄への嫌気が敗北の大きな原因だったのではないか。

 吉村美栄子氏が知事に就任したのは2月14日である。新しい知事はよく人の話を聞いた。土砂崩れがあれば、すぐに現場に駆け付けた。前任者との落差は大きく、人気は日増しに高まった。だが、順風満帆の帆には、すでに小さなほころびが生じていた。

 就任から5カ月後、吉村知事は条例に基づいて自らの資産を公開した。表1の通り、土地や建物、預貯金や国債など総額1億598万円。「普通の主婦から県知事に、と報道されたりしたけど、ちょっと違うね」と感じた県民は少なくない。この条例は、国会議員の資産公開法に基づいて制定されたもので、もともと抜け穴が多い。不動産は固定資産税の課税標準額で報告すればよく、実勢価格とはかけ離れている。預貯金も普通口座の分は含まれない。株式に至っては銘柄と株数を公表すればいいことになっている。

 株取引に詳しい知人によれば、東京海上ホールディングスの2009年1月5日の始値(はじめね)は1株2650円なので、これで計算すれば計437万円になる。ケーブルテレビ山形の株は非公開だが、1株の額面は5万円なので単純計算すれば200万円になる。鉄鋼関係の貿易会社、首長国際(香港)の株価は安く、2万株でも6万円ほどである(2018年11月末の株価で計算)。安徽海螺水泥股分は2000株で 100万円ほど。羅欣薬業は非公開なので資産 価値は不明だ。

 これらの株式と不動産の実勢価格との差額を加えれば、吉村知事の資産は公表されたものよりはるかに多いが、私が「小さなほころび」と呼ぶのはそのことではない。ケーブルテレビ山形の株を保有していたこと、そして、それだけでなく、その後、この株を「手放した」ように装っていること。それが問題なのだ。

 山形県庁が実施する入札に参加する企業は数多くある。その中で、発注者である知事がたった1社、ケーブルテレビ山形の株式を持っているのは「入札の公平性の確保」という観点から好ましくない。資産公開は知事に就任した2月14日時点の資産を明らかにすることになっている。厳しい選挙の直後で、そうしたことまで配慮が行き届かなかったのかもしれない。だから、その時点で保有していたことを批判しようとは思わない。

 問題はその後だ。先月号で私は「(知事はこの株を)ほどなく手放している」と書いたが、ケーブルテレビ山形の「株主名簿」にあらためて目を通してみると、なんと知事と同居している長男の名前があるではないか。長男を直撃すると、彼は「会社から書類が送られてきている」と述べ、株を保有していることを認めた。

 すべての年度の株主名簿が入手できているわけではないので断言はできないが、問題の40株は資産公開の前後に吉村知事から長男に譲渡された疑いが濃厚である。息子に株を譲って「私は持っていません」と言っても、有権者の多くは納得しないだろう。いつ、株を譲ったのか。知事あての質問書を秘書課長に託したが、回答は得られていない。

「法律にも条例にも違反していない。回答する必要はない」と言いたいのかもしれない。確かに、違反してはいない。だが、知事に資産公開を義務付けている条例の正式な名称は「政治倫理の確立のための山形県知事の資産等の公開に関する条例」である。政治倫理、さらには人としての道義という観点から見れば、大いに問題がある。

 政治家の資産公開問題に詳しい神戸学院大学の上脇博之(かみわき・ひろし)教授は「資産を隠すために配偶者や子どもに譲った形にしてごまかすケースが後を絶たない。同居の親族や扶養する親族の資産も公開の対象にすべきだ」と提唱している。

 こうした批判にさらされて、政府は2001年1月に「国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範」を閣議決定し、閣僚や副大臣、政務官については「配偶者及びその扶養する子の資産も公開する」と決めた。許認可権限の大きさを考えれば、都道府県知事についても資産公開の対象を広げるのは当然であり、同居の親族の資産も公開の対象にすべきだろう。

 吉村知事は昨秋、県政運営の透明性を高めるため、有識者を集めて「情報公開・提供の検証見直し第三者委員会」(通称・見える化委員会)を立ち上げた。委員会は審議を重ね、この秋に「公文書は原則として公開する。非公開は必要最小限にとどめるべきだ」といった提言・報告書をまとめた。時代は、より一層の情報公開を求めている。なのに、知事は自分や身内のことになると「見えない化」にいそしむ。

 そうした姿勢は、山形県の情報通信技術(ICT)政策にどのような形で現れてくるか。表2は、吉村美栄子氏が知事になった2009年以降の「山形県情報化推進懇話会」の年度ごとのメンバー一覧である。情報技術を県政にどのように活かしていくのか。外部の有識者を集めて助言を求め、県の計画に反映させることを目的にしている。2018年から「山形県ICT政策推進懇談会」と名前を変えた。

 懇話会や懇談会には毎回、県の情報技術政策を担当する部長や課長、課長補佐が出席する。委員には「山形県ICT推進方針(仮称)中間報告(案)」や「今年度のICT関連事業一覧」といった資料が配布される。県の担当者との人脈を築き、県の大まかな方針と事業の概略を知ることができる。私がこの分野の営業担当者なら「お金を払ってでも入れてほしい」と思う集まりである。

 会のメンバーは毎回、少しずつ入れ替わっている。社長や支店長の交代があるからだが、この10年間、ずっと委員を務めている人物がいる。ケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)の吉村和文氏である。知事が直接、指名したのか。それとも、担当部局が忖度(そんたく)して入れたのか。判然としないが、知事の義理のいとこだけがたった一人、座り続けているのは異様と言うほかない。

 先月号で、吉村和文氏が代表取締役社長あるいは理事長として率いる企業や法人は確認できただけで六つある、と書いたが、和文氏のブログ「約束の地へ」のプロフィールによれば、彼は「現在、15の会社経営を担っている」という。残りの九つがどれなのか、いずれはっきりさせたい。

 グループ企業の法人登記を見ると、所在地はダイバーシティメディアの本社がある「山形市あこや町一丁目2ー4」となっている会社が多い。取締役にしても、同じ人物が何度も顔を出す。従業員もいくつかの会社の仕事を掛け持ちしているのだろう。新しい仕事を始めるたびに新しい会社を立ち上げている、という印象だ。こうした手法にどういうメリットがあるのか。それも解明したい。

 これまで調べた限りでは、吉村一族の企業・法人グループには、主に次の分野で公金が支出されている。(1)ケーブルテレビの施設整備(2)情報通信技術分野(ハード&ソフト)(3)映画など映像メディア分野(4)観光キャンペーン・広告分野(5)教育や福祉などの公益事業、の五つである。いくつか重なるケースもある。

 これらを一つひとつ丁寧に腑分けしていけば、山形県庁や山形市役所の周りで何が起きているのか、おぼろげながら見えてくるだろう。




*この記事は、地域月刊誌『素晴らしい山形』2019年1月号に寄稿したものを若干手直しして転載したものです(表1、表2をクリックすると、内容が表示されます)。

≪写真説明とSource≫
山形県知事選挙から一夜明け、自宅で新聞を手にしながら取材に応じる吉村美栄子氏(2009年1月26日、山形市内で)=時事通信社
http://junskyblog.blog.fc2.com/blog-entry-1206.html




*メールマガジン「風切通信 50」 2018年12月2日

 権力は水に似ている。澄んだ水も同じところにとどまれば、やがて濁っていくように、権力もまた、同じ人間が握り続ければ、いつしか澱(よど)んでいく。それは、洋の東西を問わず、時代を経ても変わらない。

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 月刊誌『素晴らしい山形』は2年前の秋から、吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業グループがらみの様々な問題を報じてきた。それらの問題の多くには、何らかの形で吉村知事の存在が影を落としている。吉村県政の誕生から間もなく10年。私たちが暮らす山形でも、権力の周りに「澱み」が生じ始めている、と見るべきだろう。

 いったい、何が起きているのか。地域おこしの小さなNPOを主宰する者として、また一人の納税者として、このまま見過ごすわけにはいかない。山形県の情報公開制度を利用して公文書を入手し、関係者に教えを請いながら独自に調査を進めてきた。その結果を中間報告の形でお伝えしたい。

 まず、吉村和文氏が代表取締役社長を務めるケーブルテレビ山形(2016年にダイバーシティメディアに社名変更)のパソコン入札問題から取り上げる。山形県庁で職員が使うパソコンは数万台に上り、県は古いものから順次、廃棄処分にして、入札にかけて新製品を調達する。一覧表(表1)は、吉村美栄子氏が知事に就任した2009年以降の入札結果である。

 県の入札公告や入札調書によると、この9年間に12回の入札があり、そのうちの6回はケーブルテレビ山形が落札に成功した。入札価格ベースで見ると、総額5億154万円(千円以下切り捨て)のうち、2億2748万円(同)と半分近くを受注している。物品購入契約の際には、これに消費税を加えた金額が県から支払われる。ケーブルテレビ山形が落札、納入したパソコンはすべてNEC製である。残りは東芝製品を扱う管理システム(本社・酒田市)と富士通製品を扱うリコージャパン(本社・東京都港区)、NEC製品を扱うメコム(本社・山形市)が落札した。

 パソコン機器の販売・流通事情を知る人間ならば、この落札結果を見て「ケーブルテレビ会社がなぜ、次々に落札に成功するのか」と疑問を抱く。『素晴らしい山形』でも報じられたように、この会社の主な業務はケーブルテレビ網の整備と顧客へのテレビ放送の提供である。会社の法人登記を見ても、事業目的の欄に「パソコン機器の販売」に関わる記述はまったくない。吉村県政が誕生する前、2008年度のパソコン調達に関する文書にも、ケーブルテレビ山形は登場しない。

 「この会社はそもそも、入札参加資格を満たしていたのか」との疑問を抱き、県に対してそれ以前の入札調書の公開を求めた。県の財務規則によれば、入札に参加するためには「1年以上前からパソコンの販売をしている」という実績が必要になるからだが、「2007年度以前の入札調書は文書の保存期限が過ぎており、存在しない」との理由で、入手できなかった。

 やむなく、ダイバーシティメディアに文書で問い合わせたところ、「平成14年(2002年)以降、山形県に対して販売実績はあります」との返答があった。入札参加資格に関しては別途、公文書でも問題がないことを確認した。しかし、それにしてもなぜ、吉村美栄子氏が知事になった途端、パソコン販売を得意とする企業を打ち破ってこの会社が次々に落札することができたのか。疑問は消えない。

 その疑問は、ケーブルテレビ山形の生い立ちを知れば、いっそう募る。この会社は、ケーブルテレビ網を全国に広げることを目指して総務省が推進した「電気通信格差是正事業」の補助金受け皿会社として1992年に設立された。吉村和文氏はメディアのインタビューに「50社から200万円ずつ出資を得て資本金1億円を集め、起業した」と語り、普通の民間企業のように述べているが、これは誤った印象を与える発言である。

 この事業の「補助金交付要綱」には、「都道府県、市町村又は第三セクター等」に対して補助金を出す、と明記されており、最初から地方自治体の出資も前提にした「第三セクター」を事業の対象にしていたからである。実際、起業後にケーブルテレビ山形が増資した際、山形県は1997年に360万円、2001年に840万円、計1200万円の出資をした。県は、各社の当初の出資額200万円の6倍の資金を投入しているのである。

 山形県が出資して第三セクターとしての体裁が整うと、ケーブルテレビ山形に巨額の補助金が流れ込み始める。事業費の半分は会社が用意し、残りの半分を国と県、市町(山形市と天童市など)が補助金として交付する仕組みだ。国から4分の1、県と市町からそれぞれ8分の1が交付される。1998年度から2003年度までに交付された補助金の内訳は表2の通りで、この期間だけで総額2億2239万円に上る。

 巨費が投入され、山形市や天童市などにケーブルテレビ網が敷設されてサービスは徐々に広がっていった。当初はケーブルテレビの業績も順調だった。だが、衛星テレビの内容が充実し、家庭用のパソコンやスマートフォンが普及するにつれて、ケーブルテレビの普及は先細りになっていく。経営の先行きを危ぶんで、ケーブルテレビ山形は事業の多角化に乗り出し、その一環としてパソコン機器の販売を始めたと見られる。慣れない分野で苦労したはずである。なのに、2009年以降のこの躍進ぶり。なぜなのか。システム構築などソフトウェア分野の入札にも視線を向けて、その背景をさらに探りたい。

 吉村美栄子氏は知事に就任した2009年に条例に基づいて、個人資産を公開した。その中に「保有株式」に関する項目があった。その内訳は表3の通りである。なんと、ケーブルテレビ山形の株主だった。知事は記者会見で 「ほとんど亡き夫が残してくれたもの」と語ったが、さすがに「好ましくない」と考えたのか、この株はほどなく手放している。

 吉村美栄子氏が46歳の時、夫は病で没した。弁護士だった夫の和彦氏と吉村和文氏は父親同士が兄弟という間柄だ。和彦氏の父は元県出納長、和文氏の父は元山形市長で、山形では著名な一族である。夫が亡くなった後も親戚付き合いは続く。和文氏のブログ「約束の地へ」には、知事と和文氏が居間で談笑する写真がアップされている(2016年1月10日付、撮影は2015年夏)。

 義理のいとこ同士なのだから、仲良く付き合うのは自然なことである。問題は、片方が県知事という立場にあり、もう一方の和文氏が「補助金の受け皿会社」を足場にして次々に新しい会社を立ち上げ、県や山形市から多額の補助金や助成金を受け取り続けていることにある。そこに情実が入り込む余地はないのか。厳しく問われなければならない。

 吉村和文氏が代表取締役社長や理事長として率いる企業や法人は、表4のように確認できただけで六つもある。これらの企業と法人に共通しているのは、いずれも公金が注ぎ込まれている点だ。吉村ファミリーの企業や法人(この表にない社会福祉法人や公益社団法人を含む)で「国や自治体との接点があまりない」と言えるものは、今のところ見当たらない。

 では、ほかの企業や法人はどのような問題を抱えているのか。次回以降、ケーブルテレビ山形にまつわる問題に加えて、そうした疑問にも触れていきたい。



≪写真説明とSource≫
吉村美栄子・山形県知事
http://tohoku-genki.com/1339

*このコラムは、山形の月刊誌『素晴らしい山形』の2018年12月号に寄稿した文を若干手直しして転載したものです。


 
第6回カヌー探訪は7月28日(土)と29日(日)の両日、開催しました。連日の猛暑で最上川の水位はかつてないほど下がり、渇水状態でのカヌー行になりました。このため、28日は予定していた朝日町雪谷から大江町「おしんの筏下りロケ地」までの15キロを短縮し、朝日町雪谷から朝日町栗木沢のカヌーランド(タンの瀬)までの8キロで行いました。天候は晴れ、参加者は22人(18艇)でした。28日の夜は昨年同様、尾花沢市の名木沢公民館で参加者と「ブナの森」のメンバー計11人で懇親会を開き、カヌー談義に興じました。

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真鍋賢一さん撮影の動画と写真(1日目)
真鍋賢一さん撮影の動画と写真(2日目)


2日目の29日(日)は予定通り、尾花沢市の猿羽根(さばね)大橋から新庄市の本合海(もとあいかい)大橋まで20キロを下りました。晴れ時々薄曇り、強い追い風の中でのカヌー行に20人(17艇)が参加し、穏やかな最上川の川下りを楽しみました。

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≪参加者数≫
26人:山形県内13人、県外13人(群馬5人、秋田2人、栃木2人、東京・千葉・埼玉・福島が各1人)。1日目の参加者は22人(18艇)、2日目は20人(17艇)

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≪日程別の参加者≫
【28日の朝日町雪谷ー朝日町栗木沢 8キロ】22人(18艇=3人乗りが1艇、2人乗りが2艇)。28日のみ参加が6人、28日と29日参加が16人
 渡辺不二雄(山形市)、三浦優美子(山形県鶴岡市)、池田剛(山形県尾花沢市)、柏倉稔(山形県大江町)、原竜司(山形県尾花沢市)、大類晋(同)崔鍾八(山形県朝日町)、清野由奈(同)、岸浩(福島市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、真鍋史子(同)、佐藤守孝(千葉県松戸市)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、林和明(東京都足立区)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、佐竹久(山形県大江町)、齋藤純一(群馬県伊勢崎市)、宮坂岳宏(秋田県由利本荘市)、塚本雅俊(群馬県前橋市)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)

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【29日の尾花沢市・猿羽根大橋ー新庄市・本合海大橋 20キロ】20人(17艇=2人乗りが3艇)。28日と29日参加が16人、29日のみ参加が4人
 崔鍾八(山形県朝日町)、清野由奈(同)、岸浩(福島市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、真鍋史子(同)、佐藤守孝(千葉県松戸市)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、林和明(東京都足立区)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、佐竹久(山形県大江町)、齋藤純一(群馬県伊勢崎市)、宮坂岳宏(秋田県由利本荘市)、塚本雅俊(群馬県前橋市)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、永嶋英明(山形県鶴岡市)、佐藤真一郎(秋田県潟上市)、伊藤信生(山形県酒田市)、池田丈人(同)

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≪過去の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人、
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人
   *2013年は山形を襲った7月豪雨のため中止、
    2017年は直前の大雨のため1日目のみの川下りに変更

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≪陸上サポート≫ 安藤昭雄▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 遠藤大輔▽佐久間淳
≪昼食のデザート、漬物提供≫ 斉藤栄司▽安藤昭雄▽佐竹恵子

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≪出発、到着時刻≫
▽1日目(7月28日)
  9:50 朝日町の雪谷カヌー公園を出発
 12:50 朝日町栗木沢のカヌーランド(タンの瀬)に到着、昼食
   *渇水でコースを短縮して時間的な余裕があったため、途中で川遊びを堪能
   *夕方、参加者11人は尾花沢市の名木沢公民館で懇談
▽2日目(7月30日)
  9:30 尾花沢市の猿羽根大橋を出発
12:45 大蔵村の烏川(からすがわ)公民館で昼食、休憩
 15:00 新庄市の本合海大橋に到着
 

≪主催≫ NPO「ブナの森」  *NPO法人ではなく任意団体のNPOです
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会で構成)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省新庄河川事務所、山形県、東北電力(株)山形支店、朝日町、大江町、尾花沢市、舟形町、大蔵村、新庄市、山形県カヌー協会、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会、美しい山形・最上川フォーラム
≪協力≫ 朝日町雪谷区長、鈴木進▽尾花沢市名木沢区長、阿部良一▽大蔵村赤松区長、八鍬茂▽新庄市本合海地区、八向尚
≪ウェブサイト更新≫
 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、長嶋広海)
≪ポスター、Tシャツのデザイン・制作≫ 遠藤大輔(ネコノテ・デザインワークス)
≪輸送と保険≫
 マイクロバス・チャーター 朝日観光バス
 旅行保険 あいおいニッセイ同和損保、ベル保険オフィス
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝

 第6回最上川縦断カヌー探訪は予定通り、7月28日(土)、29日(日)に開催します。連日の猛暑のため最上川の水量はかなり少なく、渇水状態とも言える流量ですが、なんとか川下りができる状態です。2日目のゴール地点、新庄市の本合海(もとあいかい)は『奥の細道』を著した江戸時代の俳人、松尾芭蕉が最上川の舟下りを始めた所です(芭蕉の舟下りは本合海から清川<現在の庄内町清川>まで)。
*メールマガジン「風切通信 49」 2018年4月12日

 森友学園への国有地売却に関する決裁文書の改竄に続いて、朝日新聞が加計学園の獣医学部新設について「首相案件」と記した文書がある、とスクープしました。10日の朝刊によると、その文書には、愛媛県や今治市、加計学園の幹部が2015年4月に首相官邸で柳瀬唯夫(ただお)首相秘書官に面会した際、柳瀬氏が「本件は首相案件となっている」と語った、と明記されているというのです。

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 文書には、この席で「加計学園(の関係者)から、安倍総理と同学園理事長が会食した際に、下村文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけしからんといっている、との発言があった」という記述もありました。これは当時、文部科学省が加計学園の計画に難色を示していた経緯とも符合し、安倍首相が2015年の時点ですでに獣医学部の新設計画を知っていたことを示すものです。

 柳瀬首相秘書官に面会したのは愛媛県の地域政策課長ら4人と今治市の企画課長、加計学園の事務局長らで、柳瀬氏に会う前に内閣府の藤原豊・地方創生室次長にも会い、藤原氏が「内容は総理官邸から聞いている」「これまでの構造改革特区とは異なり、国家戦略特区の手法を使って突破口を開きたい」と発言した、といったことも記しています。

 報道を受けて、愛媛県の中村時広知事は記者会見し、首相官邸を訪れた県職員の1人が作った文書であることを認めました。「職員が文書をいじる必然性はまったくない。全面的に信頼している」と語り、面談の事実をそのまま記録した文書、との認識を示しました。企画課長が同席した今治市にも首相官邸に出張した記録が残っています。決裁文書をいじくり回した財務省とは異なり、こちらは事実を正確に記した文書と考えて間違いありません。

 ところが、当の柳瀬氏(現在は経済産業審議官)は文書でコメントを出し、「自分の記憶の限りでは、愛媛県や今治市の方にお会いしたことはありません」と否定しました。柳瀬氏は昨年7月の衆院予算委員会で今治市職員らとの面談の有無を問われ、「お会いした記憶はございません」と答えています。今さら「実は会っていました」とは言えない、ということでしょう。一度、嘘をついたら、嘘をつき続けるしかありません。

 首相のお友達、産経新聞は12日の社説で「一体、何が本当なのか。国民は戸惑うばかりである」などと、乙女チックなことを書いていますが、「どっちが本当のことを言っているのか」などと問う必要もないほど白黒はハッキリしています。愛媛県の文書の信憑性を疑う理由は何一つないからです。文書の性格についても、中村知事は「(知事への)口頭報告のために作ったメモ」と説明しましたが、この文書が文部科学省や農林水産省への説明にも使われたことを考えれば、立派な公文書でしょう。

 このスクープは、決裁文書の改竄に劣らぬ破壊力を持っています。「安倍晋三首相は嘘つきだ」ということを示す文書だからです。首相は国会で、国家戦略特区を活用した加計学園の獣医学部新設計画を知ったのは2017年1月だ、と繰り返し答弁してきました。首相が議長をつとめる国家戦略特区諮問会議が加計学園を事業者として正式に決定した時です。「それまでは知らなかった」と説明してきたのですが、愛媛県の文書は、安倍首相のそうした答弁は嘘で、ずっと前から首相が獣医学部新設計画に関与していたこと、首相の秘書官らもこの計画を「首相案件」として取り扱ってきたことを示しています。

 安倍首相と加計学園の加計孝太郎理事長はアメリカに留学していた時からの友だちです。一緒にゴルフをし、しばしば会食する仲です。獣医学部の新設について語り合ったとしても不思議ではないのに、首相は「立場を利用して何かを成し遂げようとしたことは一度もない。獣医学部をつくりたいとか、今治にという話は一切なかった」と釈明してきました。

 こういう発言は、ひっくり返すと真実により近くなる。「立場を利用していろいろなことを成し遂げたし、獣医学部のことも何度も話になった」と言っているようなものです。この1年間の推移を振り返れば、森友学園問題でも加計学園問題でも首相は嘘をつき続けている、と判断するしかありません。言葉を大切にする、自分の言葉に責任を持つ、という意識がまるで感じられません。

 首相の嘘を取り繕うために、財務省の佐川宣寿・理財局長(当時)は国会で嘘の答弁を繰り返し、決裁文書の改竄にまで手を染めました。今回も、首相秘書官だった柳瀬氏は嘘をつき続けるしかないのでしょう。理財局長から国税庁長官に上り詰めた官僚が今や訴追される恐れがあるとおびえ、日本の通商交渉を担当する経済産業省の幹部が記者の質問に答えることなく、紙に書いたコメントを出して逃げ回る。そして、首相自身も「柳瀬元秘書官の発言を元上司として信頼している」と、その嘘にしがみつく――。

 ここまで来ると、哀れさを覚えるほどです。嘘に嘘を重ね、政治家どころか人間としての信頼すら失って、落ちてゆくしかないでしょう。私たちの国は、こういう人物を宰相とするしかなかった。それが何よりも悲しい。



≪参考記事&サイト≫
◎2018年4月10日?12日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞(山形県内で販売されている版)
◎愛媛県職員が作成した柳瀬唯夫・首相秘書官との面談記録全文(東京新聞電子版)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201804/CK2018041102000126.html
◎下村博文・文部科学相(当時)の「加計学園はけしからん」発言について(中日新聞電子版)
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018041102000081.html
◎加計孝太郎・加計学園理事長の略歴(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%A8%88%E5%AD%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E
◎月刊『文藝春秋』2018年5月号の「佐川氏に渡された総理のメモ」(安倍首相が経済産業省の官僚を重用する理由と背景を描いて秀逸)



≪写真説明&Source≫
◎柳瀬唯夫・元首相秘書官(東京新聞電子版)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201804/CK2018041002000246.html



*メールマガジン「風切通信 48」 2018年3月26日

 このコラムには時折、読者からコメントが寄せられます。「その通りだ」と共感してくださる方もいれば、「でたらめな事を書くんじゃない」とお叱りを受けることもあります。つくづく、世の中にはいろんな人がいるものだ、と感じさせられます。

 コメントは、コラムの発信から数日以内に寄せられることが多いのですが、昨日は珍しいことに、1年前の3月14日に書いた「森友学園問題で公明党が沈黙する理由」への投稿がありました。「トラ・イシカワ(表記はTra ishikawa))」さんからのコメントで、次のような内容でした。

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 「実質200万の出費で手に入れた9億の土地を担保に、21億の融資をしてもらう話。それをまとめるために、安倍は国会開催中の忙しい中、大阪に飛んだのである。総理大臣が金にもならない話のために半日、時間を割くわけがない。21億の融資が入れば、最大の功労者に10?20%が召し上げられる。ブローカーの公明代議士の子息には3?5%か。モリトモの最終的な狙いは数億円単位のヤミ献金だったはず。しかし、あまりにあからさまで、認可だ、土地貸借だ、売買だと、かかわった人間が多すぎたために、知る人ぞ知る『安倍案件』として噂になってしまい、そのうえ、獲物の分け前で、籠池側と安倍側で仲間割れになってしまい、その筋書きが狂ってしまったために、夫婦は知らなかった、関わりなかったことにしておけと改竄疑獄事件になってしまった」

 一読して、「数学の図形の補助線のような投稿だなぁ」と感心しました。難しそうな図形問題も、一本の補助線を引けば、すっきりと解けることがあります。この投稿に沿って、森友学園問題に「数億円単位のヤミ献金」という補助線を引けば、もやもやしていた謎が解けるのではないか、と。

 投稿の冒頭部分は事実と思われます。森友学園は時価9億円の国有地を1億3400万円で入手しましたが、その後、埋設物除去や土壌汚染対策の名目で1億3200万円の公金が注ぎ込まれていますので、森友側が負担したのはわずか200万円と報じられています。その土地を担保に、小学校の建設費として都市銀行から21億円の融資を受けたのも周知のことです。

 1年前の上記のコラムでも指摘しましたが、森友学園問題でもっとも重要なのは2015年9月3日から5日までの3日間です。どんな3日間だったのか。あらためて、産経新聞に掲載された「安倍日誌」をベースに注釈を加えて、首相と昭恵夫人の動静を記します。

▽9月3日 午後2時17分から財務省の岡本薫明官房長、迫田(さこた)英典・理財局長に会う(注:迫田氏は首相と同じ山口県出身で旧知の仲。その後、国税庁長官に栄進。理財局長、国税庁長官とも後任は佐川宣寿氏)
▽9月4日 午前、羽田空港から全日空機で伊丹空港へ。午後1時半から読売テレビで番組の収録。午後4時7分、大阪市北区の海鮮料理店「かき鉄」で故冬柴鉄三・元国土交通相の次男、大(ひろし)さん、秘書官らと食事(注:同席した首相秘書官は今井尚哉<たかや>氏。経済産業省の官僚)
▽9月5日 前夜、大阪から帰京した首相は私邸で過ごす。昭恵夫人は森友学園経営の幼稚園で講演し、開校予定の小学校の名誉校長に就任

 この時期、国会は安倍政権が重要課題としていた安全保障関連法案の審議が大詰めを迎えていました。衆議院は通過したものの、参議院での審議が難航、法案が成立するかどうか、ギリギリの攻防が続いていました。その最中に、安倍首相は大阪を訪問したのです。参議院で野党と対峙していた自民党の鴻池祥肇(よしただ)参院平和安全法制特別委員長が「一国の首相としてどういったものか」と苦言を呈したのも当然でしょう。

 こうした状況を踏まえれば、導かれる解は「首相にとって重要法案の審議より優先度の高い案件が大阪にあった」というものです。訪問の前日に財務省の高官を呼んで十分に経緯を把握し、大阪では森友学園と国の仲介役と懇談して内容を固め、その翌日に昭恵夫人が現地で講演をして名誉校長を引き受けた、その見返りが億単位のヤミ献金、というのが投稿の趣旨です。

 与党公明党の大物代議士だった冬柴元国交相の次男、大氏は、りそな銀行の前身である大和銀行に1986年に入行し、最初に豊中支店に配属されました。森友学園の小学校の建設予定地、豊中市で銀行員として働いていたのですから、土地勘も十分でしょう。首相とは父親を介しての縁もあります。りそな銀行を退職した後は、「冬柴パートナーズ」というコンサルタント会社を経営していますので、ブローカー役として彼以上の適任者は見つからないほどです。

 安倍首相と冬柴大氏との会食に今井尚哉秘書官が同席していたことも、この懇談がきわめて重要なものだったことを示しています。今井氏は、叔父の今井善衛氏が岸信介・元首相と商工省の官僚同士、同じ叔父の今井敬氏が元経団連会長で、「経産省のサラブレッド」と称されました。安倍政権の発足以降、首相の懐刀として辣腕を振るっている人物です。昭恵夫人の秘書を務めた谷査恵子氏も今井氏の部下です。

 この補助線の通りであるならば、安倍首相は「森友問題には一切関係していない。妻が応援していただけ」どころか、夫唱婦随、息の合った連携プレーだったことになります。首相夫妻を支えた2人の秘書も上司とその部下です。財務省の佐川理財局長らが決裁文書を書き換えてまで昭恵夫人の関与を隠し通そうとしたのも納得がいきます。

 そうであるならば、事の真相を知悉(ちしつ)しているのは、隠蔽役の佐川・元理財局長らではなく、首相本人と夫人、首相秘書官、ブローカー役を果たしたと見られる冬柴大氏である、ということになります。佐川氏の国会喚問は、森友疑惑解明の第一幕に過ぎません。第二幕、第三幕と進まなければ、真相は一向に見えてこないでしょう。

 小泉進次郎議員が言う通り、森友学園問題は「ポスト平成の政治の形とは何なのか。そういった問題にまでつながっていくような、平成の政治史に残る大きな事件」であり、うやむやのまま幕を引けるような疑惑ではありません。



≪参考サイト≫
◎コラム「森友学園問題で公明党が沈黙する理由」(情報屋台、2017年3月14日)
http://www.johoyatai.com/1055
◎森友学園の小学校建設費「21億8000万円」の調達先(日刊ゲンダイ)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/200917
◎安倍首相の動静(産経新聞の「安倍日誌」2015年9月3日)
http://www.sankei.com//politics/print/150904/plt1509040010-c.html
◎今井尚哉首相秘書官の経歴(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%93%89
◎コンサルタント会社「冬柴パートナーズ」の概要と冬柴大氏の略歴(同社のサイト)
http://fuyushiba.com/aisatsu.htm
◎小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長の記者団への発言(朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/articles/ASL3T55DNL3TUTFK00P.html


≪写真説明&Source≫
◎大阪の料理店「かき鉄」で会食する安倍晋三首相と冬柴大氏(右端、後ろ姿)。首相の左隣が今井尚哉首相秘書官(情報サイト阿修羅)
http://www.asyura2.com/17/senkyo221/msg/584.html
*メールマガジン「風切通信 47」 2018年3月16日

 森友学園への国有地売却に関する決裁文書を書き換えて国会に提出した財務省の幹部を訴追すべきか否か。検察の内部は「これを見過ごせば、世間から『検察もしょせんは権力の手先か』と見られる。立件すべきだ」という積極派と、「刑法の条文に照らせば、起訴するのは難しい」という消極派に割れている、と報じられています。

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 佐川宣寿(のぶひさ)・元理財局長らの行為は何罪にあたるのか。確かに悩ましい問題です。まず、公文書偽造・変造罪は無理です。この罪は、民間人であれ公務員であれ、作成権限のない者が公文書を作った場合に適用される条文だからです。権限のある公務員が嘘の公文書を作った場合は虚偽公文書作成罪にあたりますが、書き換えた文書にはでたらめな事が書いてあるわけではありません。今回のケースは、ほとんどが「元の決裁文書にあった肝心の部分を削除した」というもので、「虚偽公文書」と言えるかどうか。「淡々と事実を記しただけ」と言い逃れをする可能性があります。

 もちろん、問題は削除した内容です。安倍晋三首相の昭恵夫人が森友学園の開設を熱心に応援していたこと。何人もの政治家が秘書を動かして国有地の売却が森友学園側に有利になるように働きかけたこと。売り手の財務省が譲渡に際して特別な計らいをしたこと。何があったのかを理解するのに欠かせない重要な事柄がことごとく削除されていました。

 なぜ、こんな事をしたのか。森友問題が発覚した直後、安倍首相は国会審議で「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と大見えを切りました。国会対策にあたる財務省の幹部としては「国のトップを辞めさせるわけにはいかない」としゃかりきになった、と多くの人は推測していました。そして、明らかになった元の決裁文書は、真相がその推測通りだったことをはっきりと示しています。

 なのに、上記のような理由で、公文書偽造罪も虚偽公文書作成罪も適用するのが難しい。公用文書等毀棄罪という条文も取り沙汰されています。公文書を捨てたり、焼却したり、隠したりした場合の罪です。「毀棄(きき)」というのは物理的に棄損した場合だけでなく、その文書の効用や意味合いを損なうことも含みますから、この条文なら適用可能かもしれません。他人の犯罪に関する証拠を隠滅したり、偽造もしくは変造したりした場合に適用される証拠隠滅罪にあたる可能性もあります。

 と、刑法演習のようなことをこまごまと書き連ねてきました。人を訴追して裁く以上、やはり法律にのっとって行うことが法治国家の大原則だからです。しかし、今回の決裁文書書き換え問題のポイントは、「法治国家が想定していないような手法で法治国家の屋台骨を揺るがす悪事をした人間がいる。これをどうやって裁くか」という点にあります。官僚によるこのような行為は、文字通り前代未聞のことです。

 日本の現行刑法は明治40年(1907年)にドイツ刑法をお手本にして作られました。戦後、天皇に対する不敬罪が削除されたり、1980年代にコンピューターの普及に伴って電子計算機損壊等業務妨害罪が新設されたり、幾度か改正されていますが、ほとんどは100年前に制定された当時のままです。つまり、公文書偽造にしろ虚偽公文書作成にしろ、当時の人たちが「官僚が犯す罪はこういうもの」と想定して作った、ということです。法律は常に保守的で、いつも時代を追いかける宿命にあるのです。

 では、前代未聞のことが起きた場合、法律家は何を頼りにすべきなのか。「時代の制約を受ける法律」を杓子定規に適用するのではなく、「歴史の中で育まれてきた叡智と規範」に深く思いを致し、今ある法律を許される範囲内で柔軟に使いこなす、ということではないでしょうか。そういう思考に立てば、国会でうそとごまかしを連発した佐川元理財局長らを起訴し、その背後で彼らにそのような犯罪行為を強いた人間たちをあぶり出すことはできるはずです。検察が為すべきことを為すよう期待します。

 安倍首相よ。あなたには、財務省幹部の刑事責任追及を待つまでもなく、やるべきことがあるのではありませんか。よもや、衆人環視の場で「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と明言したことを忘れたわけではないでしょう。「関係していたこと」がはっきりしたのですから、さっさと身を引いて、頭でも丸めて、「日々これ懺悔」の暮らしに入ってはいかがでしょうか。

【追補】(第5段落の後に以下の文章を追加します)
 佐川氏らには背任罪の適用も考えられます。その場合には、今回の決裁文書の書き換えではなく、国有地を大幅に値引きして森友学園に売却した行為そのものを「国に、ひいては納税者に損害を与えた犯罪」と捉えて立件することになります。地中深くにありもしないゴミがあったとして8億円も値引きして売却したのですから、証拠固めさえしっかりすれば、十分に立件可能でしょう。



≪参考記事、文献&サイト≫
◎3月13日の河北新報4面「森友文書改ざん 専門家2氏に聞く」の郷原信郎(のぶお)弁護士のコメント
◎3月13日の読売新聞社会面の記事「大阪地検特捜部 財務省中枢の関与注目」
◎『岩波基本六法』(岩波書店)の刑法
◎『刑法綱要 各論』(団藤重光、創文社)
◎「日本の刑法および刑法理論の流れ」(川端博・明治大学教授)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1411/1/horitsuronso_69_1_117.pdf


≪写真説明&Source≫
◎財務省の決裁文書書き換え問題について、参議院予算委員会で陳謝する安倍晋三首相(HUFFPOSTのサイトから)
https://www.huffingtonpost.jp/2018/03/13/abe-moritomo_a_23385038/


*メールマガジン「風切通信 46」 2018年3月12日

 去年の夏、あるセミナーで参加者の一人が「朝日新聞はいつまでネチネチと森友問題を書き続けるんだ。国有地の値引きと言ったって、たかが8億円の問題じゃないか。小さな問題だ。北朝鮮の核開発問題とか、世界経済の動向とか、ほかにいくらでも大きい問題があるだろう」と発言しました。

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 自由討論の時間でした。その場にいた私は、あまりにも露骨な政府寄りの発言に驚き、即座に反論しました。「小さな問題ではない。この国の在り方と制度の根幹にかかわる問題をはらんでいる。権力を笠に着て、国民の財産を官僚たちが好きなように処分している。しかも、それが発覚するや、嘘とごまかしで逃げ切ろうとしている。こんなことがまかり通ったら、世の中がおかしくなる」

 あれから半年。森友学園に対する国有地の払い下げ疑惑を包んでいた霧がようやく晴れてきました。3月2日に朝日新聞が「森友学園との国有地取引の際に財務省が作成した決裁文書がその後、書き換えられ、国会には別の文書が提出された疑いがある」とスクープしました。もとの決裁文書は押収されて、大阪地検特捜部にあります。その文書を入手した、と報じたのです。

 オリジナルの決裁文書にあって、国会に提出された文書から削除された文言で重要なのは「森友学園との取引は特例的なものであり、特殊性がある」という記述と「学園の提案に応じて鑑定評価を行い、価格提示を行う」という二つの文言です。これらの記述は、財務省の高級官僚たちが「森友学園の小学校開設は安倍晋三首相の息のかかったプロジェクトである」と認識し、「前例にとらわれず特別な計らいをする」と決めて実行したことをはっきりと示しています。

 国会の質疑は正式な文書をベースにして行われます。このオリジナル文書を提出すれば、言い逃れはできません。そこで、国会での答弁に差しさわりのある表現は削除もしくは書き換えて別の決裁文書を作り、それを提出した疑いがある、というのです。報道の通りなら、国会をないがしろにし、国民をあざ笑うような所業です。戦後、営々として築いてきた政治や行政の在り方を覆すような暴挙と言うしかありません。それが「小さな問題」であるわけがありません。

 国会での森友問題審議で中心的な役割を果たしたのは、当時の財務省理財局長、佐川宣寿(のぶひさ)氏です(その後、国税庁長官に就任)。彼は当然、この決裁文書の書き換えにも深く関与していたと考えられます。国有財産を管理する要職にあり、その後、国税庁長官に就いた官僚が政治と行政の根本を揺るがすようなことを行った疑いが濃厚です。スクープから、すでに10日たちました。問題のオリジナル文書を入手したのは朝日新聞だけのようですが、毎日新聞はその後、財務省の別の決裁文書を情報公開で入手し、その文書にも「本件の特殊性」や「特例処理」という文言があった、と報じました。さらに、NHKも検察の当局者が「オリジナルの決裁文書が大阪地検特捜部にあることを認めた」と伝えました。朝日新聞の報道が事実であることを間接的に補強するものでした。

 嘘とごまかしで森友疑惑の追及をかわそうとしてきた安倍政権と財務省は追いつめられています。財務省近畿財務局の担当職員は自殺、佐川国税庁長官は辞任しました。財務省は決裁文書を書き換えたことを認める方針を固めたようです。しかし、佐川氏が辞任し、決裁文書の書き換えを認めたことで決着するような事ではありません。

 佐川氏ら財務省幹部は複数の市民団体から、国有財産を不当な価格で売却した背任容疑や関連の公用文書を毀棄(きき)した容疑、さらに証拠隠滅の容疑で告発され、検察はこの告発を受理しました。高級官僚たちがどのような罪を犯したのか。なぜ、そのような行為をするに至ったのか。検察はきちんと調べて訴追し、それをつまびらかにしなければなりません。官僚たちにこのような行為をさせたのは安倍晋三首相とその周辺の人々であり、その責任も問われなければなりません。

 森友・加計学園問題について、朝日新聞は特別な取材チームをつくって追及し続けています。昨年2月に最初の報道をしてから1年余り。よくぞ、問題の核心を記した決裁文書に辿り着いたものです。その粘り強い取材に、わが古巣ながら畏敬の念すら覚えます。新聞記者には強制的な捜査権限はありません。日本の新聞記者はお金を払って情報を取ることもしません。「こんなことが許されていいのか」という思いで取材相手に肉薄するしかないのです。その誠意と熱意が通じた、ということでしょう。

 その思いに誰かが打たれて、オリジナルの決裁文書を見せたのです。可能性としては財務省の職員か検察官かのいずれかですが、後者と見るのが自然でしょう。その人物の行ったことは形式的には「国家公務員に課された守秘義務違反」ということになります。けれども、この世の中には「守秘義務」よりも重いものがあります。人として何を為すべきか、という物差しです。その人は胸に手を当てて深く考え、託するに足る人間に決裁文書を託した、と考えられます。

 「天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして漏らさず」という中国の故事を思い起こさせる展開です。天の網は広くて大きい。粗いように見えても悪事を見逃すことはない、という言い伝えです。お天道様に顔向けできないようなことはしない。それが社会の隅々にまで行き渡る世の中にしていく。そのために為すべきことは何か。森友・加計学園疑惑で問われているのは、そういうことだと思うのです。


≪参考記事&サイト≫
◎2018年3月2日以降の朝日新聞、毎日新聞、NHKの報道
◎佐川宣寿・財務省理財局長、武内良樹・財務省国際局長ら7人の告発状(公用文書等毀棄罪)
http://shiminnokai.net/doc/kokuhatsu170510.pdf
◎「天網恢恢、疎にして漏らさず」について(「故事ことわざ辞典」サイト)
http://kotowaza-allguide.com/te/tenmoukaikai.html


≪写真説明≫
◎辞任した佐川宣寿・国税庁長官(中日新聞の公式サイトから)
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018031002000101.html



*メールマガジン「風切通信 45」 2018年2月19日
         
 韓国で開かれているピョンチャン・オリンピックが佳境を迎えています。フィギュアスケートの羽生結弦選手はけがを克服して堂々の二連覇、スピードスケートの小平奈緒選手はオランダでの修行を経て大輪の花を咲かせました。スノーボードの平野歩夢選手の妙技には「トップアスリートはこんなことまでできるのか」と目を見張りました。

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 日本選手の活躍に一喜一憂しつつ、大好きなアルペンスキーのテレビ中継も楽しんでいます。根が単純な性格なものですから、一番好きなのは猛スピードで斜面を駆け抜ける滑降なのですが、今回は男子大回転の生中継をまじまじと見てしまいました。優勝したオーストリアのヒルシャー選手らの滑りが見事だったこともあるのですが、それ以上にアフリカから複数の選手が参加していることに驚いたからです。

 エリトリアのシャノン・アベダ選手とモロッコのアダム・ラムハメディ選手です。「炎熱の大陸アフリカになぜスキーの選手がいるんだ」と一瞬、戸惑ったのですが、テレビのアナウンサーがすぐに「2人ともカナダ生まれで二重国籍」と解説してくれたので納得しました。どのような生い立ちなのか、ネットで調べてみました。カナダの地方紙フォートマクマレー・トゥデイによると、アベダ選手の両親はエリトリアからの難民でした。

 エチオピアとイエメンの間にあるエリトリアは、かつてはアフリカと中東を結ぶ交易地として栄えたこともあったようですが、私の記憶にあるのは「凄惨な飢餓の戦争をくぐり抜けてきた国」というイメージです。イギリスとイタリアの支配を受けた後、エリトリアはエチオピアに編入され、1960年代から30年にわたって分離独立を求めて戦い続けました。エチオピア政府軍との戦いに加えてエリトリア人同士の内戦も勃発、数多くの餓死者と難民が出た紛争でした。

 私がエリトリアの独立戦争と内戦の記事を読んだのは、駆け出し記者だった1980年代のこと。自分がその後、似たような紛争を取材することになるとは考えてもいない時期でした。アベダ選手の母親が16歳で戦禍を逃れて海を渡ったのはその頃です。父親も若くして難民になり、2人は避難先で知り合って結婚、カナダ西部のアルバータ州フォートマクマレーで3人の子どもを育てました。アベダ選手は末っ子。ロッキー山脈にあるスキー場で兄や姉と3歳から滑り始めたのだそうです。上記のカナダ紙のインタビューにアベダ選手の母アリアムさんは語っています。

「アベダは小さい頃、オリンピックの表彰台に立つ絵を描いたりしていました。その後、カルガリーに引っ越しましたが、フォートマクマレーでの暮らしは私の人生で最高のものでした。信じられないような友情を育むことができました。今でもお付き合いが続いています。子どもたちはスポーツでもほかのことでも、生き生きとしていました」

 エリトリア初の冬季五輪選手となったアベダ選手は同紙の取材に「自分の力量は分かっています」とメダルには手が届かないことを認めつつ、こう語りました。「エリトリアの人たちはきっと『誰かが自分たちの代表として出ている。私たちの存在を知らせてくれている』と思うはずです。だから、全力を尽くします」。結果は2回目の試技に進んだ85人中、67位。メダルには遠く及びませんでしたが、その姿は光り輝いていました。

 モロッコ代表のラムハメディ選手もカナダ生まれ。父親がモロッコ人の大学教授、母親がカナダ人です。アベダ選手と同じく二つの国籍を持ち、オーストリア・インスブルックの国際ユーススキー大会で優勝したこともある実力者です。4年前のソチ・オリンピックに続いて2回目の五輪参加で、今回の大回転では61位でした。アルペンスキーのこの2人を含め、平昌五輪にはアフリカから過去最多の8カ国13人が参加と報じられています。

 欧米のスポーツだったウィンタースポーツにアジアや中南米の選手が挑み、今やアフリカ諸国の選手も少しずつ増えていることを知りました。ゆっくりとではあっても、世界は着実に一つに結ばれる方向に進んでいます。平昌五輪のスローガンは「ひとつになった情熱 Passion. Connected.」。難民の子がエリトリアの代表としてスロープを疾走する姿は、そのスローガンを体現しているように思えました。


≪参考サイト&文献≫
◎エリトリアのスキー選手、シャノン・アベダ Shannon Abeda(英語版ウィキペディア)
https://en.wikipedia.org/wiki/Shannon-Ogbani_Abeda
◎モロッコのスキー選手、アダム・ラムハメディAdam Lamhamedi(同)
https://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Lamhamedi
◎アベダ選手のことを報じるカナダのフォートマクマレー・トゥデイ紙(電子版)
http://www.fortmcmurraytoday.com/2018/01/03/mcmurray-born-skiier-first-to-represent-eritrea-at-winter-olympics
◎アフリカの五輪選手の活躍を伝えるフランスのテレビ局「France 24」の記事(同)
http://www.france24.com/en/20180206-sport-olympics-africa-five-rings-one-dream-athletes-road-pyeongchang-winter-games-2018
◎アフリカからの冬季五輪参加が8カ国になったことを伝える記事(ウェブメディアQuartzから)
https://qz.com/1197726/pyeongchang-2018-will-be-the-african-winter-olympics/
◎エリトリアの歴史(日本語版ウィキペディアから)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
◎エリトリア独立戦争(同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
◎共同通信社『世界年鑑2007』

≪写真説明≫
◎エリトリアから冬季五輪に初めて参加したシャノン・アベダ選手(カナダのフォートマクマレー・トゥデイ紙の電子版から)
http://www.fortmcmurraytoday.com/2018/01/03/mcmurray-born-skiier-first-to-represent-eritrea-at-winter-olympics


 *メールマガジン「風切通信 44」 2018年2月8日
           
 北陸の福井県が37年ぶりの大雪に見舞われ、生活に甚大な影響が出ています。福井市の2月7日現在の積雪は143センチ。しかも、その多くが数日のうちに降ったそうですから、車が立ち往生して物流が滞り、市民生活がマヒしたのも当然でしょう。1日で大人の腰の高さまで積もったところもあるとか。これでは、雪に慣れた地域でも簡単には対処できません。

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 福井の人たちの困惑と困窮はどのようなものか。わがふるさと、山形県に引き付けて考えれば、以下のようなことかと推察します。同じ雪国でも、山の位置や風の通り道によって、雪の降り方はまるで異なります。県庁所在地の山形市の平年の積雪は28センチほど。これに対し、私が暮らす朝日町の平年の積雪は140センチ前後と、この冬の福井市並みです。この差は、冬の暮らしに各段の違いをもたらします。

 まず、日々の雪かきのレベルが異なります。山形市の降雪は一晩で通常5センチほど、多くても15センチくらいです。これなら、一般の住宅の場合、スコップかラッセルスノーという幅広のスコップでかき出すことができます。これが朝日町になると、一晩に20センチから30センチ、多い時には50センチほど積もります。こうなると、スコップでは大変なので、ガソリンエンジン駆動のロータリー式除雪機が「標準装備」として必要になります。庭が広く、母屋に加えて納屋やお蔵の周りも除雪しなければならないからです。

 わが家は玄関先が車1台分ほどと狭く、除雪スペースが小さいので除雪機はありません。手作業で雪かきをしています。それでも、スコップやラッセルでは対処できないので、スノーダンプと呼ばれる、両手で押す大きなスコップのような雪かき道具が必要になります。これで新雪をゴソッとすくい取り、側溝に流し込みます。田んぼに水を供給するための村の水路が、冬は融雪溝として活躍してくれるのです。

 降った雪はその重みで沈み、日中の日差しで少しずつ解けますから、積雪量は上記のように山形市で28センチ、朝日町で140センチほどになります。積雪が1メートルを超すと、雪の重みで家が破損する恐れが出てきます。そこで、必ず屋根の雪下ろしをしなければなりません。つまり、山形市程度の積雪なら屋根の雪下ろしをする必要はないが、朝日町では雪下ろしをしなれければ家がつぶれる危険性がある、ということです。

 今回の福井の大雪は、例年なら山形市程度の積雪なのに、急に、しかも数日で朝日町並みの雪が降ってしまった、ということになります。それなりに雪に備えていたとしても、これでは市民生活がマヒ状態に陥ったのも無理はありません。日ごろ雪かきに追われ、大汗をかいている身としては「今年の冬将軍はなんて気まぐれなんだ」と思ってしまいます。

 9年前に東京から山形に戻り、最初の冬に「雪かきは容易じゃない」とぼやきました。すると、近くの西川町大井沢出身の人から「こだな、雪(ゆぎ)んね!」と、いさめられました。「この程度の雪で大変だなんて、冗談じゃない」という意味です。月山のふもとにある大井沢の平年の積雪は3メートルほど。同じ西川町の志津(しづ)温泉はさらに多く、時には6メートルを超します(志津温泉は気象庁のアメダスの観測地点になっていないため積雪記録がニュースになることはありません)。「何事も上には上がある」と、あらためて思い知らされました。

 積雪がある程度以上になると、雪かきよりも「雪の始末」の方が大変なことも知りました。取り除いた雪をどう始末するか。除雪機があれば、広い庭や畑に雪を飛ばしてしまえばいいのですが、私のように手作業でやる場合には、それもできません。側溝に流し込みたくても、肝心の側溝がしばしば埋もれてしまいます。そこで、雪かきの後に必ず「側溝を掘り出す作業」をしなければなりません。古い雪は往々にして氷と化しています。なので、剣先スコップで氷を削り、側溝を掘り出さなければならないのです。

 降ったら除雪し、氷を削って側溝を掘り出し、流し込む。多い時には朝、昼、晩と1日に3回。いつも大汗をかきます。これを繰り返していると、時折、「まるでシシュフォスの石みたいだなぁ」と思ってしまいます。ギリシャ神話に出てくるコリントスの王シシュフォスは、神々を何度も欺いた罰として、巨大な石を山頂に押し上げる苦役を課されました。大石はいつも山頂まであと一歩というところで、またふもとまで転げ落ちる。かくして、シシュフォスは終わることのない苦行を続けなければならなくなった、という神話です。

 私は神々を欺いたことはありませんが、何度か会社を欺いたことはあります。取材を装って職場を抜け出し、映画を観に行ったり、上野の鈴本演芸場に落語を聞きに行ったり。そうやって適当にさぼっているから、ストレスの多い仕事を続けることができるのだ、と開き直っていました。雪かきは、その罰なのか。

 いや、シシュフォスの石と違って、雪は春になれば解けます。そして、雪解け水は夏まで田畑を潤し、農民に「干魃の恐れのない大地」をもたらしてくれます。しんどい雪かきの一方で恵みも与えるという点で、シシュフォスの石とはまるで違います。冬将軍様、不適切な例えでした。お詫びして訂正しますので、北陸にはもうあまり雪を降らせないでください。お願いいたします。青森や新潟、山形は例年より少し多い程度ですので、お願い事はとくにありません。はい。


≪参考サイト&文献≫
◎全国各地の積雪データ(気象庁の公式サイトから)
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/snc_rct/alltable/snc00.html#a35
◎雪かき道具のあれこれ(楽天市場「雪かき道具の通販」から)
https://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E9%9B%AA%E3%81%8B%E3%81%8D+%E9%81%93%E5%85%B7/
◎山形県西川町の積雪データ(同町の公式サイトから)
https://www.facebook.com/295465570563835/photos/a.644330602343995.1073741831.295465570563835/1399251570185224/?type=3&theater
◎志津温泉の積雪については、2013年6月1日のメールマガジン「小白川通信 3」参照
http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/index.php?catid=10&blogid=1
◎シシュフォスの石(「コトバンク」から)
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9-73318
◎『北越雪譜』(鈴木牧之編撰、岩波文庫)

≪写真説明≫
◎山形県朝日町のわが家の積雪状況(2月7日、筆者撮影)。積雪に加えて、屋根から下した雪が積み重なっています。車の右前にある黄色の雪かき道具がスノーダンプ

*メールマガジン「風切通信 43」 2017年12月7日
   
 池澤夏樹という作家はただ者ではない。私が初めてそう感じたのは、河出書房新社から出版した『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』の中に、ベトナムの作家バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』を選んで入れた、と知った時でした。

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 トルストイの『戦争と平和』をはじめ、戦争をテーマにした小説は数限りなくありますが、私はバオ・ニンの『戦争の悲しみ』は戦争文学の傑作の一つと受けとめています。彼は、ベトナム戦争に北ベトナム軍の兵士として加わった人間です。部隊は全滅状態になり、その中の数少ない生き残りの一人でした。戦場の実相とはどのようなものなのか。バオ・ニンはそれを淡々とした筆致で描いています。一緒にいた仲間が次々に死んでいく。それを繰り返すうちに、兵士の人としての心は乾き、少しずつ死んでいくのだ、と書いています。

 ベトナムは社会主義国家です。社会主義圏の作家は「祖国と革命の大義のために命をささげた英雄たちの姿」を描くよう求められるのが常です。が、バオ・ニンはそれを拒み、自らの体験をそのまま記しました。作品には北ベトナム軍の兵士が女性を暴行する場面も出てきます。このため、ベトナムの軍機関紙からは「人民軍の名誉ある歴史に泥を塗る作品」と指弾されました。十数年前にハノイを訪れ、彼の話を聞いたことがあります。寡黙な人でした。彼にとって、戦争においては「勝者もまた悲しみを運命づけられた存在」であり、作家にできることは「すべての死者と生者のために忠実に記録すること」だったのです。

 「池澤夏樹はただ者ではない」と再び思ったのは、この秋、英国の作家カズオ・イシグロの作品『遠い山なみの光』の解説で、作家と作中の登場人物について池澤が次のように書いているのを読んだ時です。

「作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。(中略)カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない」

 作家は作品の中で会話をどのように組み立てるのか。それについてこのような解説をしたためる力量にうなりました。司馬遼太郎の小説に違和感を覚える理由はそこにあったのか、と得心もいきました。司馬作品は文学というより歴史物語なのだ、と。池澤夏樹は同じ解説で次のようなことも書いています。

「われわれの日常的な会話の大半はそれほど生成的ではない。双方の思いの違いが明らかになるばかりで、いかなるC(という考え)にも到達できないのが普通の会話というものだ。それがまた哲学と文学の違いでもある。両者がボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向かうのが文学である」

 文学とは何か。哲学とは何か。それについて、これほど簡潔に表現した文章を初めて目にしました。これが誰かの文章からの引用なのか、池澤夏樹の独創なのか不勉強で知りませんが、胸にストンと落ちるものがありました。すでに読んだことのある小説のほかに、彼はどんな作品を発表しているのか。もっと読んでみたくなりました。ある作家から次の作家へ。こういう形で進む読書もあるのだ、と知った秋でした。


≪参考文献&サイト≫
◎『戦争の悲しみ』(バオ・ニン、井川一久訳、めるくまーる)
*河出書房新社『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』第1期第6巻には全面改訳を収録
◎ウィキペディア「バオ・ニン」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%B3
◎『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ、小野寺健訳、早川epi文庫)
◎『浮世の作家』(カズオ・イシグロ、飛田茂雄訳、早川epi文庫)
◎『光の指で触れよ』『すばらしい新世界』『スティル・ライフ』(いずれも池澤夏樹、中公文庫)

≪写真説明&Source≫
◎ベトナムの作家、バオ・ニン
http://hanoi36.sblo.jp/article/174876700.html





*メールマガジン「風切通信 42」 2017年11月8日

 英国の作家カズオ・イシグロの父、石黒鎮雄(しずお)はその生涯を波の研究にささげました。彼の最初の仕事とも言うべき博士論文「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」を読んでみたい。海洋学者の友人に相談すると、「論文のデータベースに標題が載っているが、電子化されていないようで内容は分からない。国会図書館なら国内のすべての博士論文を所蔵している」とのこと。

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 上京して永田町にある国会図書館を訪ねました。国立国会図書館法によって設立された日本唯一の国立図書館で、法定納本図書館とされています。国内で出版した書籍や論文、雑誌はすべてここに納本しなければなりません。同法の前文は「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と格調高い。歴史哲学者、羽仁(はに)五郎の文とされています。

 図書館職員の助けを借りて、石黒鎮雄の論文を検索すると、すぐに見つかりました。ただし、収納スペースの制約もあって、博士論文をはじめとする学術資料は京都府精華町にある関西館が所蔵しているとのこと。肩を落とすと、職員は「すべて電子化されていますので、国会図書館の会員になれば、インターネットで請求できますよ」と勧めてくれました。

 会員登録を済ませ、山形の自宅に戻ってパソコンで論文の郵送を依頼すると、1週間ほどで念願の博士論文が届きました。原本は英文で200ページ余り。著作権法の定めにより、その半分、前半の100ページほどをコピーして送ってきてくれました(コピー代は後日振り込み)。論文の標題は「An Electronic Method for Recording and Analysing Ocean Waves」。カズオ・イシグロの父がタイプライターで一文字一文字、丁寧に打ち込んだ文章と手書きの数式が並んでいました。

 微分積分も分からない文系の私には、論文の内容を正確に理解するのはもとより不可能です。ルート(平方根)の中にルートがあるような数式が頻繁に出てくるのですから。それでも、イギリスの国立海洋研究所がこの論文に注目し、石黒鎮雄を招聘することに決めた理由は理解できるような気がしました。

 彼は手先が器用だったと言われています。市販されている電気製品を利用して、自分で波の高さや圧力を測定する装置を作り、それを使って計測したデータを論文にまとめたことが分かりました。装置の設計図や完成品の写真も載せ、実際に海に設置する方法も図解してありました。北海油田を開発するため、石油プラットフォーム(掘削櫓)を建設しなければならず、苦闘していたイギリスの関係者はこの論文に光を見たはずです。

 荒れ狂う北海の波の高さはどれくらいなのか。波の圧力はどのくらいなのか。掘削櫓は、そうしたデータを得たうえで設計し、建設しなければなりません。「これで計画の土台を固めることができる」。関係者はそう確信し、三顧の礼をもって石黒鎮雄を招いたのではないか。そして、鎮雄も生涯をかけてその期待に応えることを決意した――妻や子どもたちが日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、その余裕はついぞ生まれなかったのかもしれません。

 この博士論文が、長崎で穏やかに暮らしていた5歳のカズオ・イシグロをイギリスに連れ去り、日本の思い出を繰り返し反芻する少年にし、作家への道を歩ませることになったのかと思うと、読みながら何か熱いものが込み上げてきました。

 「ひとはみな、執事のような存在だと思うのです。自分が信じたもののために仕え、最善を尽くし、生きる」「人生は、とても短い。振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したことを受け入れ、生きていくしかないのです」。代表作『日の名残り』について、カズオ・イシグロはそう語ったことがあります。その言葉は、家族を省みる余裕もないほど波の研究に没頭した父を許し、生きるためにそうせざるを得ない多くの人々の哀しみに寄り添うために発したのではないか、と思えてきました。

 将来、何者になるかに惑い、さまよう中で、若きカズオ・イシグロはこの父の博士論文を読んだのではないか。そして、タイプライターで打たれた文章の行間から、波の研究にかける父の思いを汲み取り、さまざまなことに自分なりに折り合いをつけて歩み始めたのではないか。そう思わせる論文でした。


≪参考文献&サイト≫
◎石黒鎮雄の博士論文「An Electronic Method for Recording and Alalysing Ocean Waves」(1958年、学位授与)
◎国立国会図書館法
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/laws/pdf/a1102.pdf
◎ウィキペディア「国立国会図書館」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8
◎国立国会図書館の公式サイト
http://www.ndl.go.jp/
◎週刊誌『AERA』2001年12月24日号のカズオ・イシグロの日本講演に関する記事(伊藤隆太郎)

≪写真説明&Source≫
◎石黒鎮雄が開発した波高測定装置の一つ(博士論文から複写)




*メールマガジン「風切通信 41」 2017年11月4日
         
 セクハラという言葉もジェンダーという言葉も、まだ世間では使われていない頃の話です。朝日新聞に入社して配属された静岡支局には独身の男性記者が5人、事務の女性スタッフが2人いました。妻子持ちの記者がこの7人を馬に見立てて、「結婚予想レース」なるものを貼り出しました。クラシック音楽好きのもっさりした記者は「クマノハチゴロー」、少し優柔不断なところのある記者は「ヤイタノグズル」といった具合です。

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 女性の馬名がすごい。結婚願望が強い女性には「ウンノテキレイ(適齢)」、入社したての女性には、なんと「ホウマン(豊満)チブサ」と付けたのです。今なら、とても許されない命名です。私の馬名は「レイケツ(冷血)ノボル」。これも今ならパワハラと言われるかもしれませんが、私は意外と気に入っていました。どんな時でも冷静さを失わず、しつこく取材する。褒め言葉と受けとめたのです(昔から能天気でした)。

 レースのその後の展開はともかく、私の冷血ぶりは今も変わりません。街頭で署名や募金を呼びかけられても、一瞥もくれず通り過ぎるのが常です。誰が何のために署名や寄付金を使うのか、知れたものではないからです。ただ、そんな冷血人間がつい募金箱にお金を入れてしまうことがあります。遺児の教育支援を呼びかける「あしなが学生募金」です。高校生が懸命に「お願いします!」と声を嗄らしているのを見ると、足が止まってしまうのです。

 「あしなが育英会」は1960年代に、交通事故で親を亡くした遺児の進学を応援するために作られました。その後、交通事故だけでなく、病気や災害の遺児にも奨学金を支給するようになり、5200人の高校生や大学生に24億円の奨学金(2015年度実績)を貸し出しています。政府から補助金を受けたりせず、すべて寄付でまかなっているところがすごい。奨学生のために学生寮を建て、彼らが交流するための施設をつくるなど、運営もスマートです。

 この秋に寄付した際、小さなチラシをいただきました。書かれていることを読んで、仰天しました。「あしなが学生募金」の半分は、今ではアフリカの苦学生のために使われている、と書いてあったからです。日本には進学したくてもできない若者がたくさんいる。けれども、アフリカにはもっと厳しい状況にある若者が無数にいる。そこで「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」というプロジェクトを始めたのです。

 「100年構想」の特設サイトがあり、内容が紹介してありました。アフリカのサハラ砂漠以南にある49カ国から毎年1人ずつ世界の大学に留学させることを目指すプロジェクトです。支援の対象に選ばれた学生たちはまず、ウガンダにある「あしながウガンダ心塾」で留学の準備をして、世界各地の大学に巣立っていくのです。2014年の第一期生10人の中に、隣国ルワンダの女子学生がいました。

 アンジェリーク・ウワベラ(19歳、ルワンダ)
「両親は私が2歳の時に反乱軍の犠牲になり、私は完全に孤児になってしまいました。あしながは私にとって第二の家です。先生や仲間の励ましのおかげで、素晴らしい将来を想像できるようになりました。これまでずっと貧困に苦しんできたので、将来は国際ビジネスを勉強して自立し、自分の会社を作りたいです」

 アフリカでは今でも紛争が絶えず、幼い子どもが酷使され、次々に死んでいっています。原因はいくつもあるでしょう。が、私には奴隷貿易の歴史がいまだに尾を引いている面がある、と思えてなりません。16世紀から300年余り、アフリカからは推定で1250万人を超える黒人が北米や中南米などに奴隷として売られていきました。白人たちは健康で働けそうな者だけを連行して船に乗せました。航海の途中で病死すれば、海に投げ捨てられるのが常でした(『環大西洋奴隷貿易 歴史地図』参照。奴隷貿易の総数については諸説ある)。

 頑健な働き手をごっそり失ったアフリカの社会はその後、どのような道をたどったのか。想像するだけで胸が痛みます。コロンブスのアメリカ到達に象徴される大航海時代の始まりは、アフリカにとっては「大惨事の時代」の始まりだったのです。日本の中学や高校の歴史の教科書がそのことをあまりきちんと書かないのは、欧米を通して世界を見る習性が染みついているからでしょう。

 東京大学名誉教授が著した『図説 大航海時代』という本は、スペインやポルトガルがいかにして世界の海に繰り出し、戦い、征服していったかを延々と綴っていますが、それによって奴隷の搬出地アフリカや移動先の南北アメリカで何が起きたのかについて触れることはない。アメリカの西部劇が騎兵隊や開拓者の側から描かれるのと同じです。敗者のことが念頭にない。いや、視野に入れようと思い付くことすらない。

 歴史を広い視野から問い直し、学び直す。21世紀はそういう世紀になるような気がします。「あしなが育英会」にはそれが分かっていて、実践しているのだと思う。だから、このプロジェクトは胸を打つ。

 募金に感謝するチラシには、スワジランド生まれでこの奨学金を得て日本の国際基督教大学に留学したボンゲ・キレさん(女性)の言葉が記されていました。
「私たちの国で留学しているのは、多くが英国や米国といったかつての宗主国です。でも、私はそうしたアフリカにとって身近な国ではなく、世界でも特別でユニークな文化を持つ日本で学びたいと考えました。私はそうしたユニークな考え方をアフリカに持ち込みたいと考えているからです」

 私たちの国、私たちの社会の希望とは何なんだろうか。それを考える糸口を「あしなが育英会」とアフリカから世界の大学に飛び立った若者たちに教えてもらったような気がします。


【追補】
「あしなが育英会」は発足して半世紀になります。創設者の玉井義臣(よしおみ)氏(82)が会長をつとめ、役員には下村博文・元文科相や有馬朗人・元東大総長、明石康・元国連事務次長らが名を連ねています。法人格はなく、任意団体のままです。事業報告や収支報告を公開していますが、詳しい会計内容とりわけ支出の詳細は開示していません。事業規模が58億円(2015年度)に達し、多くの人の善意に支えられていることを考えれば、収支を一層透明にすることが望まれます。


≪参考文献&サイト≫
◎「あしなが育英会」の公式サイト
http://www.ashinaga.org/
◎「あしなが育英会」の活動・収支報告(公式サイトから)
http://www.ashinaga.org/about/report.html
◎『第95回あしなが学生募金』のチラシ
◎「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」とは
http://ashinaga100-yearvision.org/year100/
◎「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」で世界の大学に留学した第一期生の顔ぶれ
http://ashinaga100-yearvision.org/year100/class2014/
◎『環大西洋奴隷貿易 歴史地図』(デイヴィッド・エルティス、デイヴィッド・リチャードソン共著、東洋書林)
◎『図説 大航海時代』(増田義郎、河出書房新社)

≪写真説明&Source≫
◎あしなが育英会の奨学生のつどい(同会の公式サイトから)
http://www.ashinaga.org/activity/index.html



*メールマガジン「風切通信 40」 2017年10月31日

            
 今朝の朝日新聞(10月31日)に掲載された「耕論 リベラルを問い直す」というオピニオン面を読んで、私は心底、ガックリ来ました。法政大学教授の山口二郎、教育社会学者の竹内洋、LGBT(性的少数者)コンサルタントの増原裕子の3人の意見を掲載して「リベラルとは何か」を論じていました。もちろん、3人とも識見豊かで、その主張にもそれなりに説得力がありました。が、問題はその人選です。

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 3人とも護憲派で、枝野幸男が率いる立憲民主党の支持者のようです。つまり、朝日新聞の社論の賛同者を3人並べているのです。これでは、議論を闘わせる「耕論」ではなく、「賛論」です。自分たちで作ったタイトルすら実践できず、同じ歌を別々の歌手に歌わせるような紙面をつくる編集者。慰安婦報道で問われた朝日新聞の体質とは何だったのか。たとえ自分たちと意見が異なっても、謙虚にその声に耳を傾ける。その努力を積み重ねる、と誓ったはずではなかったのか。

 「リベラルを問い直す」というなら、立憲民主党の支持者、その批判者、さらに世界の潮流を見据えて日本の未来を語ることができる人物、たとえば、京都大学教授の山室信一や東京大学准教授の池内恵(さとし)、評論家の田中直毅のような論客を登場させて欲しい。それならば、今の日本の政治と社会を複眼で見つめ、世界の中での立ち位置を考えることもできるはずなのに。イデオロギーに縛られ、社の幹部にへつらうような翼賛紙面をつくっているようでは、この新聞の未来は危うい。そう思わざるを得ないオピニオン面でした。

 思い出すのは、朝日新聞論説委員室に在籍していた2001年の「白黒論争」です。毎年、5月3日の憲法記念日に掲載する社説は論説主幹が執筆することになっていました。社説の内容はすべて、掲載の前に「昼会」と呼ばれるミーティングに提示して議論を闘わせるのが決まりです。論説主幹の原稿とて例外ではありません。当時の論説主幹は佐柄木(さえき)俊郎。筋金入りの護憲派で『改憲幻想論』という本を著しています。主張の眼目はサブタイトルにある「壊れていない車は修理するな」です。社説の原稿もそれに沿った内容でした。

 論説委員室の改憲派、元ウィーン支局長の大阿久尤児(ゆうじ)はこの社説原稿を厳しく批判しました。「できて半世紀以上もたつ憲法を一字一句直すな、というのは無理がある。時の流れを踏まえて、より良いものにするのは自然なことだ。実際、同じ敗戦国のドイツは何回も修正している」。諄々と諭すような口調でした。佐柄木は朝日新聞の伝統を踏まえて反論する。大阿久がそれを論破する。その春に論説委員になったばかりの私は「論説主幹の論理は破綻している」と感じ、心の中で大阿久に軍配を上げました。

 議論は延々と続き、佐柄木も大阿久も次第に感情的になっていきました。「白黒論争」に発展したのはその時です。佐柄木が「君たち国際派が何と言おうと、私の目の黒いうちは護憲の主張は変えない」と言い放ったのです。それに対して、大阿久は憤然として「目が黒いとか白いとか、そんな問題じゃない。こんな社説を載せたら、われわれの後輩が恥をかくのだ。それでいいのか」と叫んだのです。「白黒論争」とは私が勝手につけた呼称です。

 論理的に破綻していても、社論をつかさどるのは論説主幹です。憲法制定の記念日にその社説はそのまま掲載されました。佐柄木の後を継いだ若宮啓文(よしぶみ)は護憲というより論憲の立場でした。「一字一句変えないと主張し続けるのは無理」と考え、佐柄木とよく議論していました。それでも、「安倍政権の下での改憲などもってのほか。今、改憲を唱えれば敵を利するだけ」と考え、護憲の論陣を張っていました。

 憲法の施行から60年になる2007年の5月3日、若宮は論説主幹として21本の社説を一挙に掲載するという偉業を成し遂げました。21世紀を生き抜くための戦略。それを意識して21本にしたのです。どのような主張をするか。それを詰めるため、事前に社内の俊英を集めて「安保研究会」をつくり、熟議を尽くしたうえでの掲載でした。憲法9条については「変えることのマイナスが大き過ぎる」との主張。同じ護憲でも、ぐっと腰を下ろして構えた主張でした。

 この安保研究会での議論も忘れられません。朝日新聞の俊英とは言えない私もメンバーになっていました。「翼賛会議」になるのを避けるための彩りとして加えられた、と理解しています。憲法改正が議題になった大会議室での議論はさして活発でもなく、「それでは、今言ったような線で護憲の主張をします」とまとまりかけました。私の脳裏に敬愛する大阿久の顔が浮かび、「これで議論を終わらせてはいけない」と思って改憲論を唱え、次のような言葉で締めくくりました。「このまま護憲を主張し続けるのは自殺行為ではないか」。会議室はシーンとなり、司会者の取り繕うようなコメントで終わりました。「自殺」ではなく、「心中」の方が適切だったかもしれません。

 大阿久も私も改憲論者ですが、もちろん、自民党の保守派や読売新聞、産経新聞の改憲論には大反対です。とりわけ、「押し付け憲法だから改正すべし」という主張は唾棄すべき言説、と考えています。敗戦後、マッカーサー司令部に憲法の改正を求められた当時の幣原(しではら)喜重郎首相は松本蒸治国務大臣に新憲法の起草を命じました。松本がとりまとめた憲法案は天皇について「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と記していました。明治憲法にあった「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の「神聖」を「至尊」に変えただけ。310万人あまりの同胞の命が失われたあの戦争の後も、為政者たちは天皇制をできるだけそのまま維持しようとしていたのです。

 マッカーサーがあきれ果て、自分のスタッフに日本国憲法の草案をつくるように命じたのは当然のことです。「たった1週間で書かれた憲法」という批判もあります。が、これも正確ではない。米軍は占領後の日本統治を考え、半年も前から若手の憲法学者に研究させていました。日本軍が竹やりで「本土決戦」を呼号していた頃、米軍は法学者を動員して新憲法の準備に着手していたのです。これも、彼我の国力の差を無残なまでに物語るエピソードの一つでしょう。

 マッカーサーに提示された憲法案に当時の為政者はどう応じたのか。彼らは「天皇を戦犯訴追から守り、その地位を保障してもらうこと」で頭がいっぱいだったのではないか。それが叶うと知り、彼らはわずかな修正をほどこしただけで国会に上程し、国会議員も諸手を挙げて賛成しました。それが歴史的な事実です。「押し付け憲法論」を主張するなら、そうした歴史も一緒に語らなければ、公正とは言えない。

 哀しいことですが、戦争に敗れた日本の為政者には、新しい憲法を書く力はありませんでした。与えられるしかなかった憲法。国民の多くはそれを支持し、銃剣で蹂躙された近隣の国々にも安心感を与えました。時代に合わせて、憲法は修正されてしかるべきです。けれども、それは焼け跡の中で産声をあげた憲法を抱きしめ、戦後の成長の中で果たした大きな役割に心から敬意を表したうえでのことでなければならない、と思うのです。

 先のコラムで私は「北海油田の開発に苦しむイギリスは世界の英知を集めることにした」と書きました。荒れる海に石油プラットフォーム(掘削櫓)を建設するために、彼らは世界の英知を集めたのです。私たちに、この国の礎となる新しい憲法をつくるために世界の英知を集める覚悟はあるのか。憲法試案を発表した読売新聞にそれだけの覚悟はあったのか。

 大阿久尤児はガンを患い、退社して間もなく63歳でこの世を去りました。息を引き取る間際まで穏やかに振る舞い、好きな将棋を指していました。潔い死でした。送別の会では、「白黒論争」を交わした佐柄木俊郎が弔辞を読みました。「君は実によく闘いました。大国の横暴や偏狭なナショナリズムをあおるメディアと闘い、体を何度もメスで切り刻まれながら、繰り返し襲い来る病魔と闘った。いまは、ただ安らかにお休みください。そのことだけを心から念じています」

 大阿久が言葉を発することができるなら、皮肉っぽい笑みを浮かべながら、こう言うのではないか。「後輩たちは苦労してるんじゃないの。だから言っただろ、あの時」
(敬称略)


【追補】このコラムについて、複数の朝日新聞関係者から「竹内洋氏は保守の論客で改憲論者です。立憲民主党の支持者ではありません」との指摘を受けました。オピニオン面の論評で、竹内氏は立憲民主党について「反対だけの党になったり、数合わせに走ったりせず、自民党に柔軟な態度で臨み、だからこそ自民党が無視はできないような、存在感のある『外部』になってほしいと思います」と語っていました。私は「立憲民主党への辛口の応援」と受けとめたのですが、「自民党が勝ち過ぎるのは良くない」と考えての論評だったようです。


≪参考文献&サイト≫
◎2017年10月31日付の朝日新聞朝刊オピニオン面
◎『思想課題としてのアジア』(山室信一、岩波書店)
◎『現代アラブの社会思想』(池内恵、講談社)
◎『改憲幻想論』(佐柄木俊郎、朝日新聞社)
◎『詩人が新聞記者になった 追悼・大阿久尤児』(尚学社)
◎『地球貢献国家と憲法 提言・日本の新戦略』(朝日新聞論説委員室編、朝日新聞社)
◎『闘う社説』(若宮啓文、講談社)
◎ウェブ上の「『日本国憲法の制定過程』に関する資料」(衆議院憲法審査会事務局)
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf
◎読売新聞の憲法改正試案(同社の公式サイトから)
https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/feature/kaiseishian.html


≪写真説明&Source≫
◎ありし日の大阿久尤児(『詩人が新聞記者になった』から複写)

*メールマガジン「風切通信 39」 2017年10月25日

 総選挙での自民党の圧勝をどう受けとめればいいのか。新聞を読みながら、つらつら考えました。古巣の朝日新聞には「なるほど」とうなずく解説も、「そういう見方もあるのか」と目を見開く記事も見当たりませんでした。世界と日本を見渡す「鳥の目」の記事もなければ、時代の流れを映し出す「魚の目」の論評もない。どのページをめくっても、「虫の目」の記事ばかり。「選挙の朝日」と呼ばれた日は遠い。

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 安倍首相が大嫌いであることだけはよく分かりました。23日付朝刊の1面で編成局長が「おごりやひずみが指摘され続けた『1強政治』を捨て、政治姿勢を見直す機会とすべきだ」と首相に苦言を呈し、「この先の民意の行方を首相が読み誤れば、もっと苦い思いをすることになるだろう」と警告していましたから。「自分たちは民意の行方がきちんと読めているのかい」と茶々を入れたくなりましたが。

 もとより、安倍首相の「お友達新聞」の読売は読むところが少ない。それでも、「ここは友として『勝って兜の緒を締めよ』と言っておかねばなるまい」と思ったか。23日付朝刊の社説の袖見出しは「『驕り』排して丁寧な政権運営を」でした。「驕り」にかぎかっこを付けたのは友達としての配慮でしょう。「私はそんな風には思ってないけど、世間でそう言われてますよ」という、優しいかぎかっこ。

 朝日と読売が「新聞」ならぬ、聞きふるした「旧聞」を書き連ねているのに対して、25日付の毎日新聞朝刊には「新しい息吹」を感じました。1面の連載「安倍続投を読む」の1回目は中西寛・京大教授(国際政治)からの聞き書き。中西教授は、自民党圧勝の背景には「若年層が新しい自民党支持層になっている事情もある」と語り、「昭和を知らない世代が『安倍政権になって社会・経済が安定した』と認識しても不思議ではない」と論評しています。

 今の10代、20代の若者たちは、高度経済成長もバブル景気も経験していません。もの心がついた頃には、日本経済はすでに右肩下がりになっていました。中学、高校と進むにつれ、少子高齢化はますます深刻になり、東日本大震災では「危機に対応できない国」であることを肌で知りました。共同通信の出口調査によれば、10代の有権者の自民党支持率は4割で、全有権者平均の3割台半ばよりも高いのだとか。

 これを「若者は世間を知らないから」「判断力が足りないから」と見下すのは簡単です。けれども、希望が見出しにくいような社会を作ったのは誰なのか。「希望」の名を掲げながら、すぐさまそれを粉々に打ち砕くような政治をしているのは誰なのか。そうやって見下す大人たちではないか。

 いつの時代であれ、若者を未熟者と見下すのは根本的に間違っている。彼らは未来について年長者よりはるかに真剣なはずです。当然です。「人生の一番いい時期」を過ぎた世代と違って、彼らにはこれから「長い未来」があるのですから。50年後、100年後を真摯に考えているのは古い世代ではなく若者たちなのだ、と認めることから始めなければなりません。

 毎日新聞はそれを正面から受けとめ、紙面に刻もうとしています。1面の連載を支えるように、社会面では10代の有権者の投票行動とその理由を聞き取り、詳しく紹介しています。「理念や政策の違う政党に合流できる政治家が何を考えているのかわからない」「日本は戦後で一番、実質的な危険にさらされている」といった声を掲載し、憲法改正についても「時代に合ったものに」と答える声が目立った、と報じました。

 数字データによる選挙結果の分析や解説より、こういう一人ひとりの言葉の方が読む者の心に沁みていく。新聞記者であれ雑誌記者であれ、もの書きならば、誰もが感じていることです。要は、それを愚直に試み、紙面にしていくかどうか。「虫の目」の記事が「鳥の目」や「魚の目」の記事より光るのは、こういう時です。

 毎日新聞は乱脈経営がたたって、1970年代に一度、経営が破綻しています。それ以降も苦しい状況が続いているようです。それゆえか、時折、恐れることなく、新しいことに挑戦しようとする気概を感じます。朝日新聞や読売新聞の行間からは感じない何かがある。それがある限り、経営陣さえしっかりしていれば、毎日新聞が昔日の輝きを取り戻す可能性はある。そう思わせる紙面でした。



≪参考記事≫
◎10月23日から25日の朝日、読売、毎日新聞(山形県で配達されているもの)

≪写真説明&Source≫
◎安倍晋三首相
http://news.livedoor.com/article/detail/13790732/

*メールマガジン「風切通信 38」 2017年10月19日
         
 英国人の作家、カズオ・イシグロについてのコラムを書いた際、父親の石黒鎮雄(しずお)のことがとても気になりました。どんな研究者なのか。なぜ妻と幼い子どもたちを連れて40歳で英国に渡ったのか。海洋学を専門とする大学時代の友人に調べてもらったところ、父親が英国に渡った詳しい事情が分かりました。

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 石黒鎮雄は1920年に商社員をしていた石黒昌明の子として上海で生まれました。戦前、陸軍航空士官学校で学び、その後、九州工業大学を卒業して東京大学で博士号を取っています。博士論文のタイトルは「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」です。「エレクトロニクス」という表現が時代を感じさせます。戦後の日本では、普通の研究者がコンピューターを入手することは困難でした。そこで、さまざまな電子機器を駆使して研究に活かしたのでしょう。手先の器用な人だったようです。

 彼は「潮位と波高の変化」を研究テーマにしていました。たとえば、ある海域で海難事故が多発するのはなぜなのか。それを調べるため、その海域の海底を模したモデルを作り、実際に起こる波を再現してみる。そして、その成果を踏まえて、現場の海底に消波ブロックを設置して流れを変え、海難事故を減らす、といった業績を上げています。長崎海洋気象台にいた時には、地元の人たちが苦しめられていた長崎湾の海面の大きな変動の解明にあたったりもしています。

 その研究成果に注目したのがイギリス国立海洋研究所の所長、ジョージ・ディーコンでした。1960年当時、イギリスは北海油田の開発に躍起になっていました。第二次大戦で国力を使い果たし、戦時国債の支払いに追われる国にとって、石油を自力で確保することは最優先課題の一つだったからです。問題は、油田が見つかった北海が荒れ狂う海だったこと。海底油田を採掘するためには、巨大なヘリポートのような石油プラットホーム(掘削櫓)を建設しなければなりません。その建設自体が至難の技でした。しかも、完成後は、どんなに海が荒れ狂っても、壊れることは許されません。大規模な海洋汚染を引き起こすからです。

 苦難に立ち向かうイギリスは、世界中の英知を結集することにしました。そのリサーチの目が石黒鎮雄の論文に辿り着き、彼を国立海洋研究所に招くことになったわけです。鎮雄はその招聘に「研究者としての冥利」を感じたはずです。渡英した1960年当時、若者の留学はともかく、研究者が家族連れで海外に出て行くことは珍しいことでした。妻静子と子ども3人(カズオ・イシグロと2人の姉妹)を抱えての海外生活。期するところがあったに違いありません。家族が日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、それに応じる余裕はなかったのでしょう。波の研究者として生き、2007年に没しました。

 イギリスを石油輸出国にした北海油田。その開発の苦しみが石黒鎮雄をイギリスに引き寄せた。幼いカズオ・イシグロは父の転勤に翻弄され、異様なほどに長崎を懐かしみ、日本に焦がれる少年になりました。父と北海油田の出会いが時を経て、イシグロワールドを醸し出したのです。この世の巡り合わせの不思議さを感じさせる物語でした。(敬称略)



≪参考文献&サイト≫
◎エッセイ「イギリスに渡った研究者 シズオ・イシグロをさがして」(海洋学者、小栗一将)
http://www.jamstec.go.jp/res/ress/ogurik/essay2.html
◎「海洋学者 Shizuo Ishiguro、日本出身地球物理学者の波」(masudako)
http://d.hatena.ne.jp/masudako/20121014/1350215515
◎石黒鎮雄の博士論文「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」(論文検索サイトの検索結果のみ。論文そのものは国会図書館にある模様)
http://ci.nii.ac.jp/naid/500000493143
◎ウィキペディア「陸軍航空士官学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
◎カズオ・イシグロの父を招聘した英国立海洋研究所長、ジョージ・ディーコン(wikipedia、英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Deacon


≪写真説明&Source≫
◎海底油田を採掘するために建設された北海油田の石油プラットフォーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E6%B2%B9%E7%94%B0



*メールマガジン「風切通信 37」 2017年10月17日
 
 日本生まれの英国人作家、カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』を読んだ時、私は不思議な感覚を味わいました。舞台は第二次大戦前後のイギリス、貴族のダーリントン卿に仕える執事スティーブンスの物語です。第一次大戦の惨状を知るダーリントン卿は新たな戦争を避けるため、ドイツとイギリスが共存する道を探ろうとします。国王や首相をヒトラーに会わせるべく、卿はドイツとのパイプ役となって動くという筋立てです。

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 英独の仲介を試みるダーリントン卿について、貴族の友人は「卿は紳士だ。ドイツとの戦争を戦った。敗れた敵に寛大に振る舞い、友情を示すのは、紳士としての卿の本能のようなものだ」と語りかけ、ドイツはその高貴な本能を汚い目的のために利用しているのだ、それを黙って見ているのか、と執事のスティーブンスに迫ります。それに対して、長く卿に仕えてきたスティーブンスはこう答えます。「申し訳ございません、カーディナル様。私はご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」

 物語は、貴族の館ダーリントン・ホールを舞台に淡々と進む。卿は対独宥和派とさげすまれ、失意のうちに世を去る。派手な立ち回りは何もない。ロマンスもごく淡いものが少し描かれるだけ。文章も平易です。普通なら途中で投げ出してしまうところですが、なぜかやめることができず、そのまま読み通してしまいました。最初に手にした本で、私も「イシグロワールド」に引き入れられてしまったのかもしれません。

 次に読んだ『わたしたちが孤児だったころ』はもう少しドラマチックでした。戦火にさらされ、混乱きわまる1930年代の上海。この街で失踪した両親の行方を追うイギリス人探偵の物語です。戦場の状況が描かれ、父と母がなぜ失踪したのか、少しずつ解き明かされていきます。イシグロ作品の中では、一番ドキドキワクワクする小説かもしれません。が、それも普通のミステリー小説に比べれば、きわめて地味でイシグロらしい。

 生まれ育った長崎と並んで、上海はイシグロにとって特別な街です。祖父の石黒昌明は滋賀県大津市の出身で、上海の名門私大・東亜同文書院を卒業した後、伊藤忠商事に入社し、上海で働いていました。父の石黒鎮雄はこの上海で生まれ、東大で学んだ海洋学者です。カズオ・イシグロは父親が長崎海洋気象台に勤務していた時に誕生し、5歳まで長崎で暮らしました。その父がイギリス国立海洋研究所に招かれ、家族で渡英しました。

 長崎での穏やかな暮らしは突然、断ち切られてしまいました。彼がかなりの映画好きで小津安二郎の作品を繰り返し観たのは、長崎の記憶と重なるところがあるからなのでしょう。英国で勤め始めた父は何度も「来年は日本に帰るから」と約束したそうですが、それが果たされることはありませんでした。懐かしい長崎の思い出を何度も何度も切なく思い出していたのです。それが彼の作家としての礎になったと思われます。

 カズオ・イシグロはイギリスで教育を受け、ケント大学とイースト・アングリア大学大学院で文学を学んで作家になりました。最初の作品『遠い山なみの光』を出版した1980年代初めに英国籍を取得しています。彼をよく「日系英国人作家」と表現します。その通りなのですが、彼の場合は5歳で故郷から不意に引き離され、長崎の記憶を忘れまいともがき続けたという点が特異です。むしろ、ディアスポラ(故郷喪失者)と呼びたくなります。

『日の名残り』のあとがきで翻訳家の土屋政雄は、カズオ・イシグロが最初の2冊の作品(『遠い山なみの光』と『浮世の画家』)について、次のように語ったと紹介しています。「私の日本を2冊の本に封じ込め、初めて日本を訪れる気持ちになった」。土屋によれば、最初の2作は「彼が自分の日本人性を再確認し、それに形を与えるための作業だったといえるのではなかろうか」という。心の中の日本と折り合いをつけ、もはやその喪失を心配しなくてもよくなって、第3作『日の名残り』に進んだのだと。

 彼はまず、自らの日本への追憶を小説という作品にして、それから世界に飛び出していったのです。彼が作品に込めた思いは『日の名残り』の執事が語る言葉に象徴的に示されています。執事のスティーブンスはこう語るのです。
「私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました」「私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう」

 読みながら、胸が熱くなったくだりです。2001年に来日して講演した際には、別の言葉で自らの思いを語りました。「ひとはみな、執事のような存在だと思うのです」「人生はとても短い。振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したことを受け入れ、生きていくしかないのです」(『AERA』2001年12月24日号)

 ノーベル文学賞については、かつてこんな風に語っていました。「それほど重要な賞でしょうか。科学分野では権威はありますが、文学の世界では奇妙な賞だと思います。たしかに偉大な作家が受賞していますが、受賞後はあまり素晴らしい作品が書けていません。ノーベル賞の影響なのか、それともキャリアの終わりを迎えた人に賞が贈られているのか、私にはよく分かりません」

 連続テレビドラマ『わたしを離さないで』の主演女優、綾瀬はるかと原作者カズオ・イシグロとの対談も味わい深い。主役のキャシーの生き方について質問した綾瀬に、彼はこう答えています。「キャシーは臓器提供のために作られたクローンで、閉ざされた、非常に特殊な環境で育ったわけですよね。外の世界の価値観を知らない。だから、過酷な運命も自然に受け入れる。現実の世界を見てみてください。今も様々な国で、本当に過酷な環境で生きている人が大勢います。彼らは天使なのではなく、必然としてその環境に適応し、精一杯生きている。自分が生きている意味を何とか築こうと奮闘している」

 カズオ・イシグロを「記憶と追憶の作家」のように言う人がいますが、私は違うと思う。彼は「人が生きることの哀しみ」を描きたいのではないか。そして、その哀しみに寄り添い、そっと励ます。それが自分の役割、と考えているのではないか。ノーベル文学賞はその営みへの小さなご褒美、と受けとめているように思います。(敬称略)


≪参考文献・記事&サイト≫
◎『日の名残り』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、中央公論社)
◎『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ、入江真佐子訳、早川書房)
◎『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房)
◎『夜想曲集』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房)
◎文芸ブログ「Living Well Is the Best Revenge」(ペンネーム、クリティック)
http://tomkins.exblog.jp/20864422/
◎ウィキペディア「カズオ・イシグロ」(日本語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B0%E3%83%AD
◎Wikipedia 「Kazuo Ishiguro」(英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kazuo_Ishiguro
◎ウィキペディア「東亜同文書院大学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
◎週刊誌『AERA』2001年12月24日号のカズオ・イシグロ日本講演に関する記事(伊藤隆太郎)
◎2009年7月20日の朝日新聞朝刊文化欄の記事「たそがれの愛・夢描く 初の短編集『夜想曲集』を出版」でノーベル賞について言及(土佐茂生)
◎2017年10月15日の朝日新聞朝刊読書欄の書評「忘れてはならない記憶の物語」(福岡伸一)
◎カズオ・イシグロと綾瀬はるかの対談記録(文春オンラインから)
http://bunshun.jp/articles/-/4425
◎2002年7月18日の朝日新聞夕刊のコラム・窓「望郷の念」(長岡昇)

≪写真説明&Source≫
◎作家カズオ・イシグロ
http://muagomagazine.com/1825.html





*メールマガジン「風切通信 36」 2017年10月12日
        
 小池百合子という政治家のことを私が初めて強く意識したのは2004年のことでした。取材でエジプトを訪れた際、中東専門の記者から彼女の父親がカイロで日本料理店を経営していたことを教わりました。それだけなら、「ヘエーッ」で終わり、記憶に残ることもなかったのでしょうが、同僚はカイロ名物のハト肉の料理をほおばりながら、意外なことを口にしました。「彼女は国立カイロ大学の卒業生なんです」

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 エジプトに留学してアラビア語を学ぶ場合、多くはカイロ・アメリカン大学に行くとのこと。英語をベースにしてアラビア語を学ぶのです。どの国の言葉を学ぶにせよ、外国語はそれぞれに難しいものですが、同僚によれば、アラビア語は飛び抜けて難しい。アラビア語で行われる授業についていくのは普通の外国人にはとうてい無理なのだそうです。その理由は、アラビア語では文語と口語の乖離がはなはだしく、文語で書かれた文献を読みこなすことができないからです。

 イスラム圏を旅すると、朝な夕なに街中のモスクから礼拝の呼びかけ(アザーン)が聞こえてきます。その呼びかけのアラビア語は、預言者ムハンマドが生きていた7世紀のアラビア語のままです。聖典のコーランももちろん、当時のアラビア語がそのまま使われています。しかも、敬虔なイスラム教徒は日々、それを唱えているのです。

 そうした宗教的、文化的な背景があるためか、アラビア語圏の新聞や雑誌で使われている言語は、日常生活で使われているアラビア語とはかけ離れており、アラビア語を習得する場合には、口語のアラビア語と文語のアラビア語の二つを学ばなければなりません。日本に置き換えてみれば、文章では聖徳太子が生きていた頃の色合いが濃い日本語を学び、同時に現代の日本語も学ぶ、ということになります。そうしなければ、新聞ひとつ読むことができないからです。「それは大変なことだ」と納得しました。

 アラビア語を学ぶことを決めた若き小池百合子は、在籍していた関西学院大学を中退してカイロ・アメリカン大学に進み、ここでアラビア語を習得した後、国立カイロ大学の文学部で4年間みっちり勉強して卒業しています。つまり、彼女のアラビア語は「話せる」というレベルではなく、「仕事で使える」レベルだということです。

 なぜ、アラビア語だったのか。小池百合子編著『希望の政治』(中公新書ラクレ)で、彼女自身がその理由を明らかにしています。
「振り返ってみると、私は高校生の頃から自己マーケティングをやっていました。日本における女性の居場所、女性が今後伸びる方向、その中で自分はどういう位置にいて、10代で何をし、20代でどういうスキルを身に付けるか、と。自分を一種の『商品』に見立て、いわば商品開発を考えるのです。我ながら怖い女子高生でした」(p37)

 怖いかどうかはともかく、高校生の頃から「ひとかどの人物(a man of something)」になりたいという志を抱いていたのは立派と言うべきでしょう。彼女の場合は、a woman of something と記すべきかもしれません。英語でも中国語でも、ドイツ語でもフランス語でもなく、これから伸びる言語はアラビア語である、と判断したところに、私は「勝負師としての小池百合子」の面目躍如たるものを感じます。

 彼女が働く女性としてステップアップしていった過程を見ても、アラビア語は決定的な役割を果たしています。まずアラビア語の通訳として働き始め、日本テレビがリビアのカダフィ大佐やPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長と会見する際のコーディネーターをしています。その縁で、政治評論家・竹村健一のアシスタントとしてテレビの世界に入り、次いでテレビ東京のビジネス番組のキャスターに抜擢されました。東京とニューヨーク、ロンドンの三大市場を結ぶ経済番組のキャスターとしての仕事は、彼女に世界経済の動向を知り、日本だけでなく、世界のビジネスリーダーと知り合う機会を与えてくれました。

 政界入りは1992年、40歳の時です。日本新党を立ち上げた細川護熙(もりひろ)熊本県知事に請われて参議院議員になってからの「政界渡り鳥」ぶりは有名です。細川の日本新党から小沢一郎が率いる新進党へ、さらに自由党、保守党を経て自民党に入り、昨夏、東京選出の衆議院議員の地位を投げ打って都知事選に立候補して、当選したことはご承知の通りです。

 言葉に対する感覚にも鋭いものがあります。前掲書で、小池は尊敬する人物として台湾総督府の民政長官や満鉄初代総裁、第7代東京市長をつとめた後藤新平を挙げ、彼が残した「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」という言葉を胸に秘めている、と述べています(p110)。これは「渡り鳥」批判に対する彼女なりの反論でもあるようです。私の志は何一つ変わっていない、政党の方が時代に揺さぶられてコロコロと変わっただけ、と言いたいのでしょう。

 読売新聞記者から小池の秘書に転じた宮地美陽子(みよこ)が出版した『小池百合子 人を動かす100の言葉』(プレジデント社)では、この後藤新平の言葉とともに、小池が好きな「三つの目」が紹介されています(p106)。
「鳥の目で物事を俯瞰し、虫の目で細やかな部分を見て、魚の目でトレンドをつかむ」
「三つの目」の二番目は「蟻の目」というのもあるようですが、あらためて政治家・小池百合子の好きな言葉として読むと、味わい深い。群れなす魚が潮の流れを敏感に感じ取るように、私は時代の潮流を感じ取り、大きな流れに乗りたい、といったところでしょうか。

 「三つの目」は歴史を学び、歴史を考える場合にも欠かせません。その時代を俯瞰し、人々の動きをつかむだけでなく、微細なことも知る必要があります。そこにその時代の本質的なものが現れることがあるからです。視点で言えば、勝者と敗者、賢者の三つの目から歴史を見ることも大切です。

 そういう観点から判断すると、小池の歴史認識はあやうい。あやういというより、著しくバランスが悪い。今年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式に都知事名の追悼文を送るのをやめたのはなぜなのか。去年は送っていたのに。石原慎太郎や舛添要一も追悼文を寄せたのに。会見で記者に問われて、小池は「昨年は事務的に(追悼文を送るとの決裁書を)戻していた。今回は私自身が判断をした」「さまざまな歴史的な認識があろうかと思う。亡くなられた方々に対して慰霊する気持ちは変わらない」と述べました。

 歴史認識は政治家の資質を判断するうえで、とても重要な要素です。政治家の根っこにかかわることだからです。日本語とアラビア語、英語という三つの言葉を自在に操り、「三つの目」を大切にしている政治家が朝鮮人虐殺に疑問を呈するような言動をするのはなぜか。国際経済をよく学び、政界の権謀術策にもまれてきた政治家がなぜ、歴史をないがしろにするような発言をするのか。私には理解できません。

 歴史認識に疑問を感じるようでは、彼女が選んだという衆議院選挙の候補者たちまで、「大丈夫なのか」と心配になってきます。小池百合子が「稀代の勝負師」であることは間違いなさそうですが、歴史に残る政治家であるかどうかは分かりません。後世、「世渡り上手な権力亡者だった」と評されるおそれ、なしとしない。    (敬称略)



≪参考文献&サイト≫
◎『希望の政治 都民ファーストの会講義録』(小池百合子編著、中公新書ラクレ)
◎『小池百合子 人を動かす100の言葉』(宮地美陽子、プレジデント社)
◎『女子の本懐 市ヶ谷の55日』(小池百合子、文春新書)
◎関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らないことに決めた小池知事の記者会見を報じるハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/26/yuriko-koike-great-kanto-earthquake-of-1923_a_23186257/
◎冒頭に記した私のエジプト出張は、朝日新聞・別刷りbe「ことばの旅人 開け、ゴマ!」の取材、執筆のため。2004年7月17日付の別刷りに掲載された企画記事は次のサイトでご覧ください。
http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/?itemid=37


≪写真説明&Source≫
◎関東大震災時の朝鮮人虐殺問題について定例記者会見で答える小池知事(8月25日)
http://blogos.com/article/242368/




2004年7月17日付 朝日新聞 別刷りbe「ことばの旅人」 

 キリスト教と同じく、イスラム教でも、人間の始祖はアダムとイブである。聖典のコーランに、2人が禁断の木の実を食べて楽園を追われる話が出てくる。旧約聖書とほぼ同じ内容だ。
 ただ、コーランでは、追放される2人に神がこう宣告する。
「落ちて行け。お互い同士、敵となれ。お前たちには地上に仮の宿と儚い一時の楽しみがあろう」(井筒俊彦訳)

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船上でのベリーダンス。この日の踊り子はアルゼンチン人 (撮影:カレド・エル・フィキ〈エジプトの写真家〉)

 厳しい言葉である。男と女、そして性についての、イスラムの厳格な教えを凝縮したような言葉だ。
 イスラム学の総本山、カイロのアズハル大学のモハマド・オスマン教授は言う。
「性は結婚した男女間のものでなければなりません。婚姻外の交渉は許されない。性的な感情をかき立てるようなこともいけない。女性に顔と手以外は肌を見せないように求めているのも、そのためです」
 昼間、エジプトの人たちは比較的よく戒律を守っている。だが、日が沈み、涼しい川風が吹く夜になると、イスラムの教えは闇の中にのみ込まれていく。
 ナイル川に浮かぶ船上レストランで、ピラミッドに近いナイトクラブで、肌もあらわなベリーダンサーが踊りまくる。
「私たちは第4のピラミッドなのよ」
 売れっ子のダンサーが豪語した。「外国人観光客がエジプトに来るのは、ギザの3大ピラミッドに加えて、私たちの踊りがあるから」と自負する。
 観光だけではない。結婚式や誕生祝いでも、ベリーダンスは人気だ。暮らしの中に深く根付いている。
 謹厳なオスマン教授に「伝統文化の一つと言えるのではないか」と尋ねてみた。教授は言下に否定した。「ただ楽しみを追い求めるものは文化とは言えない」。「でも人気があります」。なお食い下がる。教授は少し不機嫌な顔になった。
「この世には犯罪が絶えない。だが、絶えないからといって合法になるわけではない。それと同じことです」
 犯罪と同じ扱いにされてしまった。
 実は、アラビア文学の傑作とされる千夜一夜物語も、エジプトではベリーダンサーのような扱いを受けている。
 一般には、「開け、ゴマ!」の呪文で知られる「アリババと40人の盗賊」や「アラジンと魔法のランプ」といった子供向けの話が有名だが、大人向けの艶話もふんだんに盛り込まれているからだ。
                                論説委員・長岡 昇

ゴマは「美の象徴」

 出だしからして、おどろおどろしい。
 千夜一夜物語は、ペルシャ王妃の密通で幕を開ける。不貞を知った王は打ちひしがれ、同じように妻に裏切られた弟と共に旅に出る。と、今度は旅先で魔王の愛人から淫らな誘いを受ける。
 事を終えて、愛人はささやく。
「女がこうと思い込んだら、誰にも引きとめることはできないのよ」
 魔王すら裏切られる。王の女性不信はここに極まる。旅から戻ると王妃を殺し、ひと晩ごとに乙女を召して殺すようになる。そこに才女シャハラザードが登場して、千夜一夜にわたって奇想天外な物語を語り続ける、という筋立てだ。
 もともとが枕辺での夜話である。口語体なので、表現もどぎつい。
 カイロ大学の文学部で千夜一夜物語を教材に使ったところ、女子学生の親たちから「とんでもない」と抗議される事件があった。1984年のことだ。
 授業を担当したアフマド・シャムスディン教授は「大学当局から教材に使わないように圧力をかけられた」と振り返る。学生たちが擁護に回ったこともあって、大学側は要求を取り下げたが、それ以降、授業ではあまり使われなくなった。

攻撃される自由奔放な物語

 翌85年には、千夜一夜物語を出版した業者がわいせつ罪で起訴され、有罪判決を受けた。控訴審で無罪になったものの、イスラム強硬派は勢いづき、しばらく出版が途絶えた。
 詩人のマサウード・ショマーン氏は「彼らは、艶っぽい話だけを取り上げて攻撃する。ろくに読んでもいない。先達が残してくれた貴重な財産なのに」と嘆く。
 千夜一夜物語は、民衆の日々の営みの中から生まれ、長い歴史にもまれながら今のような形になっていった。愛と憎悪、希望と欲望、人の気高さといやらしさ。それらすべてを、想像力の翼を思い切り広げて、これほど自由奔放に描ききった物語がほかにあるだろうか。
 なんとも不思議な物語の数々。
「アリババと40人の盗賊」も、謎に満ちている。盗賊たちは、金銀財宝を隠した洞穴の岩を開ける時の呪文を、なぜ、「開け、ゴマ!」にしたのか。小麦やエンドウ豆では、どうして開かないのか。
 ものの本には「ゴマの栽培は、古代エジプト時代までさかのぼることができる。搾油のほか、薬草としても使われた貴重な作物」とある。が、古くて貴重な作物ならほかにもある。
 どこで生まれた物語なのかも分かっていない。エジプト芸術学院のサラーフ・アルラーウィ助教授によると、スーダン国境のハライブ地方の語り部たちは「ここが物語の発祥地だ」と言い張っているという。もともと洞穴の多い土地で、「アリババの洞穴」と呼ばれるものもあるとか。
 そういえば、ゴマの原産地はアフリカのサバンナというのが定説だ。スーダンも含まれる。洞穴があり、しかもゴマのふるさとに近い。身を乗り出したが、どうも話ができすぎている。
 日本とエジプトの研究者に呪文のいわれを聞いて回っても、謎は深まるばかり。困り果てて、カイロの旧市街にあるスパイスと薬草の老舗「ハラーズ」を訪ねた。

強権政治が文化を守る役割

 主人のアフメド・ハラーズ氏は、笑みを浮かべながら「誰にも分からないでしょう。謎は謎のままにしておけばいいではありませんか」と慰めてくれた。そして、ゴマを使った面白い表現を教えてくれた。
 アラビア語では、美しい女性のことを「ゴマのようね」と言って、ほめる。目がパッチリして、ふくよかなことがエジプト美人の条件だが、鼻と耳は小さい方が好まれる。
 ゴマは、小さくて美しいものの象徴なのだった。
 90年代に入って、エジプト政府はイスラム組織への締め付けを強めた。日本人も多数犠牲になったクルソールでの外国人観光客襲撃事件の後、弾圧はさらに苛烈になった。今なお続く非常事態宣言の下で、多くの活動家が逮捕令状もないまま身柄を拘束されている。
 宗教勢力からの圧力が弱まり、千夜一夜物語の出版は細々とながら再開された。宗教勢力と世俗勢力が歩み寄って文化を育むのではなく、強権政治が文化を守る。悲しいことだが、それがエジプトの現実だ。
「開け、ゴマ!」。盗賊たちが残した呪文は、心の扉を開くことができずにもがく社会に、皮肉な隠喩となって響き渡る。


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出典
 千夜一夜物語の起源についてはインド、ペルシャ、アラブの3説があり、決着がついていない。特定の作者や編者のいない説話文学で、エジプトで発見された9世紀の写本が最古。各地の説話を取り込みながらバグダッドやカイロで内容が発展し、15世紀ごろ今に伝わる形になった。
 18世紀の初め、フランスの東洋学者アントワーヌ・ガランがアラビア語の写本から仏語に翻訳して紹介、中東以外の世界に広まった。19世紀になると、アラビア語の印刷本も登場した。英語版では「アラビアン・ナイト」の書名が付けられた。
 日本では、明治8(1875)年に「暴夜物語」の書名で英語版から初めて部分訳された。仏語版と英語版からの完訳出版の後、慶応大学の前嶋信次教授(故人)と四天王寺国際仏教大学の池田修教授が、1966年から26年かけてアラビア語原典から完訳し、平凡社東洋文庫から出版した(さし絵は同文庫「アラビアン・ナイト別巻」から)。
 ガランの翻訳以来、アラビア語の写本探しが続けられ、ほとんどの説話の原典が見つかった。「アラジンと魔法のランプ」と「アリババと40人の盗賊」の原典も、それぞれ19世紀末と20世紀初めに発見と伝えられたが、その後の研究で偽物と判明した。原典はともに未発見。

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訪ねる
 ベリーダンス=写真=はカイロ市内のホテルやピラミッド近くのナイトクラブで毎日、演じられている。だが、ショーは午後1時ごろから未明まで。そんな時間にやるのは、地元の人や湾岸産油国からの観光客が日中は暑いので体を休め、涼しい夜にくつろぐため。これでは、欧米や日本からの観光客はなかなか行けない。そこで、夕食をとりながらダンスを鑑賞できる船上レストランがある。ナイル川を2時間ほど上がり下りする間に、ベリーダンスとスーフィーダンス(旋舞)が演じられる。最高級の船上レストランで、酒代を含めて1人3千?4千円ほど。

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*メールマガジン「風切通信 35」 2017年9月29日
 
 衆議院の解散、総選挙を伝える今朝の新聞各紙の見出しを目にして、思わず溜め息を漏らしてしまった方も多いのではないでしょうか。1面の見出しは、毎日新聞が「自民vs希望  政権選択」、朝日新聞は「安倍政治5年問う 自公vs.希望vs.共産など」、読売新聞は「自公と希望 激突」、日本経済新聞は「安倍vs.小池 号砲」でした。

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 「なんだ、これは」という印象です。毎日は「政権選択の選挙」と言い、日経は「安倍vs.小池」と言うけれど、希望の党を率いる小池百合子氏は東京都知事であって、衆議院議員ではない。従って、現時点では首相候補になり得ない。自民党以外の政権を望むにしても、誰を首相にかつぐのかはっきりしない政党に投票して、それで「政権選択」と言えるのでしょうか。

 なんでもいいから、とにかく安倍首相を政権の座から引きずり降ろしたい朝日新聞の気持ちは分かる。にしても、「自公vs.希望vs.共産など」はないだろう。なぜ、素直に「自公vs希望」とうたえないのか。「vs」の後のピリオドもいらないし、「共産など」も余計でしょう。それを省くことができないのは、いつまでたっても律儀なうえに、共産党と共産主義への郷愁を捨てきれない人たちがまだたくさんいる、ということか。

 読売新聞は1面肩に前木理一郎・政治部長の「政党政治の否定だ」という論評を掲げました。「民主党時代に政権を担った野党第1党が一夜にして結党間もない新党に身売りするという、前代未聞の事態だ。理念や政策を度外視した野合で、政党政治の否定にほかならない」と歯切れがいい。けれども、民主党だって、安全保障政策や原発問題で意見がバラバラな議員が寄り集まった、理念も政策もあやふやな政党でした。いまさら、「政党政治の否定だ」と力まれても、鼻白んでしまいます。

 日本経済新聞は「号砲」という勇ましい見出しを掲げましたが、内容はいつものように穏やかです。2面の社説で「実感が伴う景気回復まで消費増税は立ち止まる。議員の定数や報酬は縮減。原発ゼロを目指す」という小池氏の基本的な考えを紹介しつつ、「(もっと)具体性のある総合的な政策を早くまとめてもらいたい」と注文を付けています。ドタバタでこうなってしまったのは今さら変えようがない。せめて選挙戦では、この国をどうしたいのか、きちんとした未来像を分かりやすい言葉で語ってほしい、と願うしかありません。

 無残きわまりないのは民進党です。新聞の主見出しにも取ってもらえず、そのわきに「事実上の解党へ」とか「希望と合流」などという言葉と共に「消えゆく政党」として烙印を押されてしまいました。ついこの間の代表選挙は、喪主選びの選挙だったのか。前原誠司という政治家の本性が現れたと言うべきか、それがこの政党の定めだったと言うべきか。

 かつて民主党が旗挙げした時、「これでリベラルの結集軸ができた」と持ち上げたメディアがありました。確かに、そう期待する声もありました。が、その内実は、自民党の本流・田中派に属していた小沢一郎氏が金と人事を握り、極右のような政治家から社会党に見切りを付けた議員までが身を寄せた、文字通り「野合」の政党でした。基本政策が定まらず、ずっとフラフラし続けたのも、その出自を考えれば、当然のことでした。

 リベラルが凋落し、仮初めの受け皿すら消えてしまったのも、また自然の成り行きと言わなければなりません。理路整然ときれいな事を言うが、世間の汚濁を正面から見つめようとしない。世界の現実から目をそむけ続ける。何よりも、人が生き、暮らしていくということがどういうことなのか、それを肌で感じ、泥だらけになって対処しようとしない。わが身を顧みれば、それがしみじみと、今になって理解できるのです。

 もっとも、私がリベラルの一員だったのかについては、朝日新聞社内でも異論がありました。半世紀以上も前につくられた憲法を一字一句変えないで維持していくのは無理がある。で、論説委員室の議論では「改憲するのは自然なこと」と主張していました。国際報道を担った論説委員には、私のような改憲派がかなりいました。安全保障についても、「核兵器の廃絶は世界政治では現実味がない。いかに管理するかを論じるしかない」と主張し、「お前は産経新聞の論説委員か」と罵倒されたこともありました。

 それでも、古い伝統より新しい息吹に魅力を感じ、より自由でより開かれた社会を目指す者をリベラルと呼ぶなら、「私はリベラルだ」と思って生きてきました。今の日本では、その思いを託す政治勢力がなくなり、漂泊の民になったとしても、自分が大切にしてきたものを変えるつもりはありません。「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」。ブッダはそういう者のためにこの言葉を残してくれたのだ、と信じて。



≪参考記事&文献≫
◎2017年9月29日の新聞各紙(山形県で配達されているもの)
◎『ブッダのことば』(中村元訳、岩波書店)

≪写真説明≫
◎希望の党の代表に就任することを発表した小池百合子・東京都知事(東京新聞のサイトから)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201709/CK2017092602000111.html

*メールマガジン「風切通信 34」 2017年9月19日

 わが家に時折、三毛猫がやって来るようになったのは3年前の秋のことでした。最初は「立ち寄り先の一つ」のような風情でした。来るたびに食べ物を与えていたのですが、そのうち頻繁に顔を見せるようになり、ついには2匹の子猫を連れて居ついてしまいました。不思議に思って調べてみると、もともとはわが家の100メートルほど先にある老夫婦の家で飼われていたのですが、2人とも老人ホームに入居してしまったため、やむなく引っ越してきたことが分かりました。

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 老夫婦にかわいがられていたからでしょう。親猫はとても人なつこくて、賢い猫でした。ミケと名付けました(安直な命名でご免)。対照的に、子猫は警戒心が強く、エサをもらう時も「シャー!」と威嚇する始末。気心が知れて、2匹を撫でられるようになるまで、だいぶ時間がかかりました。白と黒のまだら模様の雄猫はフグ、チャコールグレーと白い毛がきれいな雌猫はリプ子と名付けました。フグはまだら模様が魚のフグのようなので、リプ子は、顔つきが当時活躍していたロシアのフィギアスケートの選手、リプニツカヤに似ているからと、家人が付けた名前です。

 親子3匹との暮らしは、山村での生活にうるおいを与えてくれました。が、そのうるおいも雪が解けるまででした。春になって発情期を迎えると、親猫は再び妊娠して出産、雌猫のリプ子も出産。秋にも出産・・・。2年後には孫も出産するようになり、わが家はたちまち「猫屋敷」と化してしまいました。次々に里親を募集して里子に出しましたが、里親探しも行き詰まり、この春、やむなく雌猫にはすべて不妊手術を施す羽目になりました。

 「猫口爆発」はこれでやっと終息。現在、わが家をすみかにしている猫は7、8匹。ミケとリプ子は別のところにねぐらを構えて、お腹がすくとやって来る、という状態です。家人に言わせると、私の性格は「猫より気まぐれ」。食べ物を与えるのもいい加減で、外泊した場合などは一日中ほったらかしにすることもあります。

 なので、わが家の猫は自活能力がすこぶる発達しています。「足りない分は自分で確保する」という習性が身に着いています。近所を駆けずり回ってネズミを捕るのはもちろん、スズメやトカゲ、ヘビも捕まえて食べる。夏はエサが豊富です。ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、アゲハチョウにクロアゲハと、食材は実に多彩です。

 猫は獲物を捕らえると、ねぐらに持ち込んで食べる習性があります。セミや蝶の羽は食べないので、わが家の猫部屋を見ると、彼らの食生活がよく分かるのです。意外なのは、オニヤンマをよく食べていることでした。よく知られているように、トンボの幼虫はヤゴと呼ばれ、水の中で数年暮らしてから、早朝にヤゴから羽化して飛び立ちます。羽化しても羽が乾くまでは飛ぶことができず、じっとしているので、簡単に捕まえることができます。猫は早起きですから、その時に捕まえているのだろう、と推測していました。

 ところが、ある日の昼下がり、わが家の猫(サンちゃん)がオニヤンマをくわえて戻ってくるのを目撃しました。仰天しました。なんと、飛行中のオニヤンマを捕まえていたのです。オニヤンマは小さな虫がいる水路などを何度も往復してエサ捕りをします。待ち伏せ攻撃が得意な猫は、オニヤンマのそういう習性が分かっているのか、飛行ルートでじっと待って跳び付いてキャッチしていたのです。

 そうか。オニヤンマが飛び立てない時間帯を狙って捕まえるなどという姑息なことはせず、堂々と勝負してゲットしていたのか。お見逸れしました、サンちゃん。ほかの猫もそうやってオニヤンマを捕まえていたのかもしれません。そういえば、コウモリを捕まえて持ち帰り、食べていた猫もいました。コウモリのねぐらの出入り口で、得意の待ち伏せ攻撃をしたのでしょう。

 猫の狩猟能力は高く、自活能力も高い。私のような気まぐれな人間が付き合うのにぴったりの動物だ、とあらためて思った昼下がりでした。



≪参考文献≫
◎『美しき孤高のハンター 世界の野生猫』(エンディング出版編集部、ファミマ・ドット・コム)
◎『ネコ学入門』(クレア・ベサント、築地書館)
◎『猫は魔術師』(『ねこ新聞』編集部、竹書房)
◎『The CAT』(Penguin Random House, UK)

≪写真説明≫
◎柿の木に登って遊ぶクリちゃん(耳のあたりが栗色)=撮影・長岡昇


*メールマガジン「風切通信 33」 2017年9月11日
            
 税金の無駄遣いを監視し、不正を追及する市民オンブズマンの全国大会が9月2日と3日に和歌山市で開かれ、山形県の会員の一人として参加してきました。各地で活動するオンブズマンが200人ほど集い、数多くの事例発表がありました。公務員が職務遂行のために日々発信しているメールも公文書であること。これをどうやって開示させ、追及の素材にしていくのかといった報告もあり、とても有益でした。

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 全国大会で先達に学んだことを山形県の税金の無駄遣いの追及にどう活かしていくのか。それは後日、報告するとして、今回は市民オンブズマンの全国大会に先立って行われた記者会見で特筆すべき資料が公表されましたので、ご紹介します。

 全国市民オンブズマン連絡会議は大会前日の1日に記者会見を開き、2016年度の政務活動費の執行率調査というのを発表しました。都道府県や政令市、中核市の議会の議員が昨年度に支給された政務活動費をどの程度使ったのか(執行したのか)を一覧表にまとめたものです。これが都道府県の政治状況やオンブズマンの追及ぶりを如実に反映していて、実に興味深いのです。

 政務活動費の執行率が一番落ち込んだのは富山市でした。2016年度に使われた富山市議の政務活動費は支給額の62.4%で、前年度から37.6ポイントも減りました。つまり、富山市議会は2015年度に支給された政務活動費を全議員が100%使い切り、「文句なしの全国トップ」だったのに、2016年度は3分の2しか使わず、残りの3分の1を「余りました」と富山市に返却したのです。この結果、富山市議会は全国48の中核市のうち、執行率が三番目に低い市議会になってしまいました(一番低いのは函館市議会の59.5%、二番目が長崎市議会の60.7%)。

 富山では、白紙領収書を使った架空請求やカラ出張などが次々に発覚し、元議長を含め14人の市議が辞職に追い込まれました。悪質なケースについては有印私文書偽造・同行使の疑いで刑事告発されています。それに懲りて、市議たちが正直ベースで請求したら、2016年度は政務活動費が3分の1も余ってしまった、というわけです。裏返して言えば、それまではその分の税金をかすめ取っていた疑いがある、ということになります。

 ちなみに、48の中核市のうち、政務活動費の執行率が高いところは?青森県八戸市議会の97.6%?愛知県豊橋市議会の97.0%?愛知県豊田市議会の95.4%の順です。20の政令市では?横浜市議会の99.6%?川崎市議会の95.7%?大阪市議会の93.4%が飛び抜けて高い。議員のみなさんが熱心に活動した結果、政務活動費をほぼ使い切ってしまった、という可能性もあるのですが、それはあくまでも「論理的にはあり得る」という話です。オンブズマンとして自治体の議会を監視してきた経験から言えば、それぞれ「無駄遣いの多い議会の順位」と考えていいでしょう。富山市議会の激変ぶりが何よりの証拠です。

 都道府県別の政務活動費の執行率一覧も興味深い。執行率の低い県議会は次の通りです。
?徳島県議会の62.2%?兵庫県議会の65.2%?鳥取県議会の67.5%。兵庫県議会は、カラ出張を繰り返した野々村竜太郎県議(当時)が号泣会見をして有名になりました(詐欺罪などで有罪確定)。その後、ほかの議員も悔い改めて質素になった、ということでしょう。徳島県議会も不正が発覚したところ。鳥取県議会は政務活動費をガラス張りにする努力を重ねてきた議会です。きちんとすれば、政令市や中核市と同じく、都道府県議会でも政務活動費の執行率は3分の2程度に収まる、ということを示しています。

 そうなると、政務活動費の執行率が高い都道府県議会はどこかが気になります。順位は次の通りです。?神奈川県議会 99.1%?鹿児島県議会 97.0%?熊本県議会96.3%?東京都議会 95.2%?京都府議会94.9%?長野県議会 94.7%?福島県議会 94.3%?香川県議会 93.6%?埼玉県議会 93.1%?福岡県議会 92.9%。この数字は東京、京都、神奈川、埼玉といった大都市の議会で無駄遣いがいまだに続いている可能性を示しています。大震災と原発事故からの復興に取り組むべき福島県の議会でも、このような政務活動費の使い方がまかり通っていることが悲しい。

 政務活動費の無駄遣いを減らすために何をすべきか。市民オンブズマンたちの長い監視活動の経験から、為すべきことは明白です。収支報告書や領収書だけでなく、その明細である会計帳簿の公開をいっそう進めること。そして、政務活動費を一括して支給して後で精算する仕方をやめ、まず議員が自分の金で支払い、後で実費を精算する方法(世間では当たり前のこと)に変えることです。

 政務活動費の一括前払いという手法は、経済が成長し続けて気前よく税金をばら撒いていた時代の名残りです。そんな時代はとうに過ぎ去ったのに、いまだに改めようとしない議員たち。彼らの意識を変えていくことが大切です。限られた資産をどう有効に使っていくのか。そういう時代になっていることを肝に銘じてもらわなければなりません。



≪参考サイト&記事≫
◎全国市民オンブズマン連絡会議が発表した「2017年度 政務活動費 情報公開度ランキング」。都道府県、政令市、中核市ごとの一覧は118?119ページ。兵庫県議会の政務活動費の執行率は46.7%と発表されましたが、65.2%の誤り。後日、訂正されました。
https://www.ombudsman.jp/seimu/seimu2017.pdf
◎2017年9月2日の毎日新聞の記事

≪写真説明とSource≫
◎政務活動費の無駄遣いを追及され、号泣して有名になった野々村竜太郎氏
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/09/nonomura-kokuhatsu_n_5569542.html




*メールマガジン「風切通信 32」 2017年8月24日
 
 「対馬でカワウソ発見」を伝える新聞記事に「フンを回収してDNA解析をしたところ、カワウソと確認された」という表現がありました。山林に設置した自動撮影カメラの映像だけでは心配なので、念のためDNA鑑定もして慎重を期した、ということでしょう。

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 「カワウソおたく」としては、「では、フンの何をDNA鑑定したのか」が気になります。食べたものをいくら解析しても、カワウソかどうかは分かりません。毛繕いをする際に飲み込み、フンと一緒に出てくる体毛を鑑定したのか。旧知の動物生態学者、齊藤隆さん(北海道大学教授)に問い合わせたところ、丁寧な解説が寄せられました。専門家のすごさを感じさせる文章です。以下、全文を引用させていただきます。

     *     *

 フンには未消化物以外にも様々なものが含まれていますが、フンをした当該個体の組織としては体毛と腸の細胞が含まれている可能性があります。体毛は毛繕いした時に口に入るものですが、体毛が含まれていないフンもあります。一方、腸の細胞はすべてのフンに含まれていると期待されます。

 フンから持ち主(当該個体)のDNAを分析したい場合は、フンの表面を丁寧にぬぐい、腸の細胞を採取します。フンの表面についた細胞の劣化は早く、また、もともとの量も多くないために、分析の成功率はあまり高くありません(よくて50%くらい)。今回の場合は、複数のフンからDNAが採取できたと思われます。

 分析対象のDNAは、ミトコンドリアDNAとマイクロサテライトDNAであったと思われます。ミトコンドリアDNAからは母系分析が可能です。家系図のような系統解析から、類縁関係が推定できます。カワウソのDNA分析にはすでに蓄積がありますから、種ごとに特徴的なミトコンドリアDNAのタイプがすでに明らかになっています。ですから、採取されたミトコンドリアDNAのタイプがユーラシアカワウソのタイプであるならば、フンをした個体はほぼ間違いなくユーラシアカワウソであると考えて良いことになります(この個体が別の種でユーラシアカワウソを食っていた可能性は、論理的には排除できませんが、仮にそうだったとしても、対馬に食われたユーラシアカワウソがいたことになりますから、今回の発見は揺らぎません)。

 ミトコンドリアDNAを使って、種よりも小さな単位の分析も可能ですが、まだその分析は進んでいないようです。近い将来、亜種レベルでの特徴も分析できるようになると思います。

 マイクロサテライトDNAを分析すれば、個体識別や親子判定が可能です。今回は韓国で分析された個体のマイクロサテライトDNAの特徴と似たものを検出できたようです。このような分析を丁寧に進めていけば、対馬にいる個体の由来をかなりの確度で推定できるでしょう。どのような分析を行ったのかわかりませんが、性別もDNAでわかったようです。

     *     *

 この解説に先立って、私が「発見されたカワウソがニホンカワウソとユーラシアカワウソのどちらか、などということは瑣末なこと」と表現したことについては、お叱りを受けました。一つひとつの事実を丁寧に洗い出し、解明していく、専門家の仕事への敬意を欠いた表現でした。お詫びします。今回発見された個体はユーラシアカワウソなのか、ニホンカワウソなのか。それによって、何が明らかになるのか。以下、再び、齊藤隆さんの文章を引用させていただきます。

     *     *

 それは、いつ(カワウソが日本に)渡ってきたのかが問題となるからです。ユーラシア大陸からの渡来が頻繁で最近(昭和の前半くらまで)も続いていたのならば、「どちらでも良い」と考えても差し支えないと思います。しかし、ユーラシア大陸からの渡来が古く(20ー30万年前)、その後の遺伝的な交流が限られ、日本で独自に進化を遂げていたのなら、どちらでも良いことになりません。

 日本列島の哺乳類相の成り立ちはまだ十分に解明されていません。陸続きでなければ渡来できない種、列島成立後も大陸と交流を持ち続けた種などの類別は不十分です。今回の発見が対馬を経由した朝鮮→九州の可能性を強く示唆するのならば、日本列島の哺乳類相の成り立ちを考える上で重要な知見になります。


≪写真説明とSource≫
◎イギリスのカワウソ(英紙Express から)
http://www.express.co.uk/news/weird/380943/Otters-eat-2m-fishery




*メールマガジン「風切通信 31」 2017年8月22日

 何を隠そう、と気張って言うほどのことでもないのですが、実は私は「カワウソおたく」の一人です。「カワウソ」という言葉を聞いただけで、心がピクッと動いてしまいます。当然のことながら、長崎県の対馬でカワウソが発見された、というニュースには血がザワザワと騒ぎました。

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 琉球大学の伊沢雅子教授らのグループが「ツシマヤマネコ」の生態を調査するため、対馬の山林に自動撮影カメラを設置したところ、それにカワウソが写っていたというのです。8月17日に発表されました。フンのDNAを鑑定し、カワウソに間違いないと確認したようです。日本でカワウソの姿が最後に確認されたのは高知県須崎市の新荘川で、昭和54年(1979年)のこと。実に38年ぶりの生存確認です。

 ニホンカワウソはユーラシアカワウソの亜種もしくは独立種とされています。対馬で発見されたのがどちらのカワウソか、まだ判然としないようですが、そんなことは瑣末なことです。日本列島にいるカワウソは、もともとユーラシア大陸から渡ってきたと考えられるからです。目撃例が途絶え、2012年に環境省によって「絶滅種」とされたカワウソが日本で生きていた。それだけで十分、心躍るニュースです。

 私が「カワウソおたく」の仲間入りをしたのは1980年代初めのことです。当時、私は駆け出しの新聞記者として朝日新聞の横浜支局で働いていました。同僚の一人が神奈川県の清川村で建設計画が進んでいた宮ケ瀬ダムの取材をしていて、彼から「なんか宮ケ瀬にはまだカワウソがいるらしいよ」と聞いたのがきっかけです。

 同僚はダム建設をめぐる補償交渉の取材に追われ、カワウソの話はしなくなったのですが、変人の私は「スイッチが入った状態」になってしまい、日頃の取材などそっちのけで、カワウソに関する情報収集にのめり込んでいきました。かつては日本のあちこちの川にカワウソがいたといいます。山形の山村に住んでいた父親に聞くと、「昔はおらほの川にもいたようだ」と言うではありませんか。

 清流が姿を消すにつれ、また川岸がコンクリートで固められていくにつれてすみかを奪われ、消えていったニホンカワウソ。それが神奈川県の山奥でまだ生きているとなれば、間違いなく1面トップのニュースです。高知県の新荘川でその姿が確認されたと報じられてから、まだ数年しかたっていない頃のことでした。

 もちろん、「宮ケ瀬のカワウソ」は確認できなかったのですが、簡単にあきらめたりしないのが「おたく」の「おたく」たるゆえんです。その後、北海道に転勤になってからも「カワウソの残影」を追い続けました。日本海親善ヨットレースの取材で、札幌からソ連のシベリアに出張した際には、ヨットレースの取材もそこそこに、「カワウソはいるか?」と聞き回る始末(ロシア人から「アムール川にいっぱいいるよ」と言われ、拍子抜けしました)。

 国際報道部門に異動になり、インドに駐在していた時にもこっそり隠れて、カワウソの資料を集めていました。イギリスをはじめヨーロッパ各地にも生存しており、海岸伝いに別の川に移動したり、人間になついて猟の手伝いをしたりすることも知りました。

 人間が生息域を広げるのに伴って住む場所を奪われ、消えていった生き物はカワウソに限りません。ニホンオオカミもそうです。けれども、山や森の奥深くではなく、身近な川にいたカワウソには、何か惹かれるものを感じます。対馬だけではないのではないか。まだ、日本のどこかで、カワウソはしたたかに生き延びているのではないか。人間たちのさかしらな「絶滅宣言」など、あざ笑うかのように。



≪参考サイト≫
◎対馬で撮影されたカワウソの動画(琉球大学のサイト)
http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/announcement/press2017081701/
◎ニホンカワウソ(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%A6%E3%82%BD
◎1979年にニホンカワウソが確認された高知県の新荘川についてのサイト
http://mantentosa.com/sightseeing/susaki/try/shinjo_river/index.html
◎神奈川県の宮ケ瀬ダムについて(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%B6%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0
◎イギリス各地にカワウソ Otter が生息していることを伝える報告(英文)。推定生息数は12,900匹で、最近は微増傾向にあるという。
https://www.britishwildlifecentre.co.uk/planyourvisit/animals/otter.html

≪写真説明とSource≫
◎1979年ごろ、高知県須崎市の新荘川で撮影された二ホンカワウソ(須崎市の鍋島誠郎さん提供)
http://www.sankeibiz.jp/compliance/photos/170817/cpd1708171337002-p2.htm




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 7月27日(木)に「予定通り開催します」とホームページでお知らせしましたが、28日夜から29日朝にかけて大雨になり、最上川が急に増水しました。このため、1日目の29日(土)は「山形県朝日町の雪谷カヌー公園から大江町のふれあい会館まで17キロ」の予定を変更し、流れが比較的穏やかな「大江町のふれあい会館から中山町の長崎大橋まで10キロ」を漕ぎ下りました。参加者は13人(10艇=2人乗りが3艇)でした。天候は薄曇り。

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 夕方から、尾花沢市の名木沢コミュニティーセンターで「ブナの森」の会員と参加者の懇親会を開きました。今回の反省と来年以降の「カヌー探訪」の内容について、率直に意見を交換し、貴重なアドバイスをいただきました。今後の企画に活かしていきます。

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 2日目の30日(日)は、尾花沢市の猿羽根(さばね)大橋から新庄市の本合海(もとあいかい)大橋まで20キロを下る予定でしたが、カヌー行そのものを中止しました。1日目の予定変更で気勢をそがれたこと、雨量の予測が難しく、リスクが高いと判断したためです。2日目に参加を予定していたカヌーイストの皆様と昼食会場を提供してくださる予定だった大蔵村赤松地区の皆様、ゴール地点の新庄市本合海(もとあいかい)の皆様にはご迷惑をおかけしました。事情をご理解のうえ、なにとぞご容赦ください。

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≪参加申込者≫ 
25人:山形県内15人、県外10人(東京4、神奈川3、宮城、福島、岩手各1人)
≪参加者≫
【29日に大江町ー中山町まで10キロを漕ぐ】13人(10艇=2人乗りが3艇)
 永嶋英明(山形県鶴岡市)、大類晋(山形県尾花沢市)、渡辺政幸(山形県大江町)、林和明(東京都足立区)、市川秀(東京都中野区)、岸浩(福島市)、吉田英世(盛岡市)、佐竹久(山形県大江町)、菊地大二郎(山形市)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、崔鍾八(山形県朝日町)、柏倉稔(山形県大江町)、森太介(山形県朝日町)

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 *きよかわアウトドアスポーツクラブの齋藤健司(神奈川県海老名市)、池辺民雄(神奈川県座間市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、岸一博(東京都町田市)、岸君子(同)は自主判断で参加見送り。懇親会で貴重なアドバイスをしてくださいました。

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≪過去の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人、第4回(2016年)31人

≪陸上サポート≫ 安藤昭雄▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡昇▽長岡典己▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 遠藤大輔▽長岡昇
≪昼食の漬物提供≫ 安藤昭雄▽佐竹恵子

≪出発、通過、到着時刻≫
▽1日目(7月29日)
 9:30 大江町ふれあい会館を出発
 10:10 寒河江市ゆーチェリーに到着
10:30 寒河江市ゆーチェリーを出発
11:30 中山町・長崎大橋に到着、昼食
▽2日目(7月30日) 中止

≪主催≫ NPO「ブナの森」  *NPO法人ではなく任意団体のNPOです
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会で構成)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省新庄河川事務所、山形県、東北電力(株)山形支店、朝日町、大江町、西川町、大石田町、尾花沢市、舟形町、大蔵村、新庄市、山形県カヌー協会、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会、美しい山形・最上川フォーラム
≪協力≫ 尾花沢市名木沢区長、阿部良一▽大蔵村赤松区長、斉藤英幸▽新庄市本合海地区、八向尚
≪ウェブサイト更新≫
 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、阿部可奈)
≪ポスター、Tシャツのデザイン・制作≫ 遠藤大輔(ネコノテ・デザインワークス)
≪輸送と保険≫
 マイクロバス・チャーター 朝日観光バス(株)
 旅行保険 あいおいニッセイ同和損保、ベル保険オフィス
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝



*メールマガジン「風切通信 30」 2017年7月27日

 7月初めに集中豪雨に襲われ、甚大な被害を受けた福岡県の朝倉市は今、どうなっているのか。今朝のニュースで、NHKが被災地のその後を伝えていました。道路が土砂で埋まり、まだ孤立状態の集落がある。災害ボランティアの人たちも、この村には来ることができないのだそうです。初老の男性は、自宅の床上1メートルの高さにまで達した濁流の跡を指さしながら、「家族で少しずつ片付けとります」と語っていました。

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 田んぼも畑も濁流に呑み込まれました。水が引いたサトウキビ畑は石ころだらけ。74歳の農民は小石を取り除く作業をしながら、淡々と「それでも(サトウキビ作りは)やめんよ。今まで、ずっとやってきたことじゃけん」と話していました。茎を傷めつけられながらも、サトウキビは生き抜こうとしている。彼はその力を信じているのです。

 私たちが暮らすこの国を誇らしく思うのは、こういう生き方に接した時です。豊かな水に恵まれ、緑に包まれた国、日本。その見返りのように、あらゆる天災が降りかかるこの国で、私たちは災害から免れることはできません。けれども、それに打ちのめされることなく、再び歩み始めることはできる。そういう気高い心を持つ人たちがそこかしこにいることを誇らしく思うのです。

 6年前、雪が舞う東日本大震災の被災地で、支援物資を受け取るため、静かに列に並ぶ人たちがいました。その時にも、同じ気持ちになりました。こんな時にこそ、声を荒らげることなく、いつものように振る舞う。「いずれ、支援の手がきちんと届くはず」。社会にそういう信頼感があるからこそ、被災した人たちのあの姿があるのだ、と。

 その映像は世界に衝撃を与えました。大規模な災害が起こり、ライフラインが破壊されれば、人々は飢え、生き残るために必死になります。支援物資が届けば、我さきに奪い取ろうとして、暴力沙汰になる。それが普通のことだからです。2005年夏にアメリカ南部がハリケーン・カトリーナに襲われた時も同様で、先進国も例外ではありません。被災者が静かに並んで支援物資を受け取る姿が世界に流れたのは、あれが初めてだったのです。

 生きかはり死にかはりして打つ田かな
 そういう姿を見るたびに、私は、市井の人々の暮らしを謳い続けた俳人、村上鬼城(きじょう)のこの句を思い出します。春先、固く締まった田んぼに三本鍬を打ち込み、一つひとつ掘り起こしてゆく。子どもの頃、冷たい雨に打たれながら鍬を振るっている姿を見て、粛然とした気持ちになったことを今でも覚えています。

 今では、トラクターが軽やかに土を掘り返していきますが、かつて田起こしは農作業の中でも、とりわけきつい労働でした。けれども、すべてはそこから始まります。次いで代(しろ)掻きをし、田植えをし、夏の草取りをして、ようやく秋の収穫を迎えることができるのです。命をつなぐための最初の仕事。だからこそ、代々、あのつらい仕事に耐えることができたのです。私には、三本鍬を振るう姿と被災者の姿が重なって見えてくるのです。

 被災地のその後を丁寧に伝えようとするNHKの取材陣にも頭が下がります。カメラをかついで徒歩で被災地を回り、また徒歩で戻ってその姿を伝える。「災害報道を担うのは自分たちだ」という気概が伝わってくる映像でした。息長く、丁寧な報道。成熟した社会でメディアに求められているのは、そういう仕事です。

 昨今、永田町や霞が関から流れてくるニュースは、ごまかしと嘘のオンパレード。何と醜悪なことか。被災地から伝えられる気高い心とのその著しいコントラストもまた、私たちの社会が抱える哀しい現実の一つです。気高さ、とは言わない。せめて、まともさを政治の世界にも広げられないものか。


≪参考サイト≫
◎ウィキペディア「平成29年7月九州北部豪雨」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9029%E5%B9%B47%E6%9C%88%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%8C%97%E9%83%A8%E8%B1%AA%E9%9B%A8
◎ウィキペディア「村上鬼城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%AC%BC%E5%9F%8E
◎「生きかはり死にかはりして打つ田かな」の解説
https://note.mu/masajyo/n/n200114148230


≪写真説明とSource≫
◎福岡県朝倉市の豪雨被災地(2017年7月7日撮影)
http://www.afpbb.com/articles/-/3134927



 第5回最上川縦断カヌー探訪は予定通り、7月29日(土)、30日(日)に開催します。先般の大雨で最上川は一時、氾濫状態になりましたが、その後、天候も回復し、流量は落ち着いています。今日はミンミンゼミの声が里山に響き渡っています。予報では、今週末の山形県内の天気は「曇時々雨」。大雨の心配はなさそうです。皆様のお越しをお待ちしております。


*メールマガジン「風切通信 29」 2017年7月5日

 次の世代に何を語りかけ、どう育むのか。教育は「人づくり」であり、「未来づくり」です。教育がおかしくなれば、社会そのものがおかしくなってしまいます。だからこそ、教育という仕事には使命感と誠実さが求められるのです。

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 その根本をないがしろにして、金儲けに走れば、どういうことになるか。私たちは、加計学園による獣医学部新設問題を通して、その寒々とした光景を日々、見せつけられています。獣医師をどのようにして育てていくのか、という長期的な視点などおかまいなしに、四国の今治市に無理やり獣医学部の新設を試みる。文部科学省や獣医師会が学部の新設に難色を示せば、首相の権勢を笠に着て押し切ろうとする。

 人口減に悩む地方都市にとって、若者が集まる大学や学部の新設は無理をしてでも実現したい。だからこそ、今治市は36億円相当の土地16ヘクタールを無償で提供し、愛媛県と今治市は総事業費の半分、96億円の負担に応じたのです。締めて132億円。これがタダで学校法人のものになるのですから、純粋にビジネスとして考えれば、今時、こんなにボロイ商売はありません。教育を「金儲けの手段の一つ」と考える人たちの所業です。

 教育を利用する錬金術の全国版の主役が安倍晋三首相と加計幸太郎理事長とするなら、山形県の教育錬金術の主役は、吉村美栄子知事の義理の従兄弟である吉村和文(かずふみ)氏です。彼は、東海大学山形高校を運営する学校法人「東海山形学園」の理事長をつとめる傍ら、株式会社「ケーブルテレビ山形」(本社・山形市)の社長の座にあり、IT企業や興行会社などのファミリー企業を率いています。

 ケーブルテレビ山形は、全国にケーブルテレビ網を広げることを目指した総務省の施設整備促進事業の補助金受け皿会社として、1992年に設立されました。ケーブル網の敷設費の半分を国と県、市町村が補助し、ケーブルテレビを広げようとする事業です。総務省が「アメリカで流行っているから日本でも広がるはず」と目論んで始めた事業ですが、四半世紀たっても、日本ではそれほど広がりませんでした。

 ケーブルテレビ山形も契約件数が伸びず、本業は先細り気味です。事業の多角化を図り、山形県からのパソコン受注や宣伝PR委託事業の受託に力を注いでいます。社名も、昨年1月に「ダイバーシティメディア」に変更しました。

 ファミリー企業の経営は、いずれもバラ色とは言い難い。ファミリー内で資金を融通したり、債務保証をしたりしています。それでも、資金繰りに窮したのでしょう。吉村和文氏は昨年の3月、理事長を務める学校法人「東海山形学園」の資金3000万円を自らが社長である「ダイバーシティメディア」に貸し付けました。この事実が昨年秋に山形の地域月刊誌『素晴らしい山形』11月号で報じられました。

 私は、地域おこしの小さなNPOを主宰する傍ら、公金の使途を監視する市民オンブズマン山形県会議にも加わっています。学校法人が民間企業に金を貸すなどということが許されるのか。なんらかの法令に触れるのではないか。私立高校である東海大学山形高校には毎年、山形県から運営費の半分、3億円余りが私学助成費として支給されています。その1割近い資金が「短期貸し付け」とはいえ、民間企業への融資に回されたのですから。

 私学助成を所管する山形県学事文書課の見解を問うため、今年の4月、県情報公開条例に基づいて東海学園山形関係の公文書の開示を求めました。私学助成の実績などの公文書は比較的すんなり開示されましたが、東海山形学園の会計文書に関しては白くマスキングされたり、黒塗りされたりして、かなりの部分が不開示になりました。その理由は「学校法人の競争上の地位、財産権その他正当な利益を害するおそれがある」というものでした。

 あきれました。学校法人の収支計算書や貸借対照表は、民間企業の損益計算書や貸借対照表に相当する基本的な会計文書です。民間企業は株主総会でそうした会計文書を株主に配布しています。そうしたからといって、自社の利益を損なうおそれなどないからです。学校法人にとっても、利益を害するおそれなど、あるはずがありません。

 あまりにも理不尽なので、私は「法的措置を取ります」と宣言し、一昨日(7月3日)、不開示の決定をした吉村美栄子・山形県知事を相手取り、山形地裁に不開示処分の取り消しを求める訴訟を起こしました。新聞やテレビがこの処分取消訴訟について報じましたが、山形県学事文書課のコメントが興味深い。河北新報の取材に「毎年、学校法人の監査報告書を確認している。現時点で学園側に問題は見当たらない」と答えているのです。

 毎年度、3億円余りの私学助成を受け取っている学校法人が、年度末に3000万円もの資金を民間企業に貸し出している。なぜ、そんなに余裕があるのか調べたのか。一方で、借りた側のダイバーシティメディアの吉村和文氏は山形新聞に「複数金融機関の融資承認がそろうまでの間の短期貸付」として、設備投資を目的に借りた、と語っています。

 融資が本業の金融機関の承認が間に合わないような経営状態の会社に、学校法人が3000万円も貸すとは、驚きです。吉村氏は「学校法人の評議員会や理事会の承認も得ている」と主張していますが、学校法人側はきちんと担保を取ったのでしょうか。3000万円の貸付金は2カ月後に金利を含めて返済されたとのことですが、返せば済む話ではありません。「学校法人を率いるのも自分。会社の社長も自分」という意識が為せるわざでしょう。

 情報公開請求に対応する山形県の職員からは「グループを率いるのは知事の従兄弟。余計な詮索から守ってあげなければ」という意識が透けて見えます。でなければ、学校法人の基本的な会計文書を開示することが「法人の利益を害するおそれがある」などという理由を思い付くはずがありません。彼らの脳裏には「私学助成の原資は国民の税金。その使途について、納税者には知る権利がある」という考えは、まったく浮かんで来なかったのでしょう。

 この国の主権者は国民であり、政府や自治体が持つ公文書も本来、国民のもの。原則として公開されるべきものであり、非公開になるのは明確な理由がある場合に限られる。それが情報公開制度の大原則です。そうした大原則すら忘れ果て、権力者につながる者の顔色をうかがって動く。加計学園問題と同じ構図がここにもあるのです。黙って見ているわけにはいきません。


≪参考記事&サイト≫
◎ダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)の公式サイト
http://www.catvy.jp/company/
◎ウィキペディア「吉村和文」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E5%92%8C%E6%96%87
◎地域ケーブルテレビネットワーク整備事業(総務省の公式サイト)
http://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/ictseisaku/housou_suishin/cable_kyoujin.html
◎地域月刊誌『素晴らしい山形』2016年11月号?2017年7月号
◎2017年7月4日の河北新報、山形新聞の非開示処分取消訴訟に関する記事

≪写真説明とSource≫
◎吉村美栄子・山形県知事(PRESIDENT Online のサイトから)
http://president.jp/articles/-/18589





 第5回最上川縦断カヌー探訪の参加申し込みは、6月12日正午から受付を始めました。7月15日(土)までに申し込んでください。今年は7月29日(土)と30日(日)に開催します。1日目は山形県朝日町雪谷から大江町ふれあい会館までの17キロ、2日目は尾花沢市・猿羽根(さばね)大橋から新庄市・本合海(もとあいかい)大橋までの20キロ、計37キロのコースを漕ぎ下ります。開催要項とコース図、参加申し込みフォームはウェブサイトの各ページをご覧ください。
 直前に大雨が降るなどして最上川が荒れた場合には、前々日の7月27日までにウェブサイトに中止のお知らせを掲載します。予備日は設けていません。ご了承ください。


*メールマガジン「風切通信 28」 2017年5月25日

 かつて、この国には「ブルドーザー宰相」と呼ばれた政治家がいました。新潟が生んだ鬼才、田中角栄氏です。苦労を重ねて首相まで上り詰めた人だけあって、人々の心の襞(ひだ)をよく知り、一方で利権漁りも得意でした。公共事業がらみの情報をいち早く入手して土地を転がし、土建業界から得た資金で政界を牛耳り、日本列島改造論をぶち上げました。「ブルドーザー宰相」と呼ばれた所以です。

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 その内実が立花隆氏の論考『田中角栄研究ーその金脈と人脈』(1974年)で暴かれ、2年後にはロッキード事件が発覚して、角栄氏は政治の表舞台から消えていきました。これ以降、土木建設工事をめぐって談合事件の摘発や報道が相次いだこともあって、公共事業や土地転がしで巨利を得るのは段々と難しくなっていきました。

 代わって、政治家の金づるになったのが株取引です。その象徴的な事例が、値上がり確実な未公開株を政治家や官僚にばらまいて便宜を図ってもらったリクルート事件(1988年発覚)でした。この事件には多くの政治家や官僚が関与し、当時の竹下登首相は辞任、藤波孝生(たかお)官房長官は受託収賄罪で有罪判決を受けました。

 公共事業で利権を漁るのはダメ。株取引で甘い汁を吸うのもいけない。ならば、政治家はどうやって資金を得ればいいのか――。1990年代に政治改革論議が高まり、政党交付金の制度ができたのは、そうした政治家の悲鳴に応えた面もありました。「税金で面倒を見るから、汚い金には手を出さないでね」というわけです。その延長線上で、地方議員にも政務活動費(旧政務調査費)という公金が支給されるようになりました。

 とはいえ、どんなに手厚い制度を作っても、権力に群がり、公金をむさぼろうとする連中がいなくなるわけがありません。それは、森友学園問題や最近、報道が増えた愛媛県今治市の獣医学部新設問題を見れば、明らかです。安倍晋三首相のお友達が経営する学校法人「加計(かけ)学園」が新設を計画している岡山理科大学の獣医学部には、今治市が16ヘクタールの土地(36億円相当)を無償で譲渡し、愛媛県と今治市が総事業費の半分96億円を負担することになっています。注がれる公金は締めて132億円。これがタダで手に入るわけですから、関係者は笑いが止まらないでしょう。

 小泉政権が「構造改革特区」構想を打ち出してから、加計学園は獣医学部を新設したいと15回も提案したのに、これまでは「獣医師は足りている」という日本獣医師会の意向や文部科学省の反対にあって、ことごとく却下されていました。それが安倍政権になり、「構造改革特区」が「国家戦略特区」に衣替えされた途端、トントン拍子に事が進んだというのですから、便宜供与がなかったと考える方がおかしい。

 森友学園問題では、矢面に立った財務省が「関係書類は保存期間が過ぎたので全て破棄した」とか「土地売却費の8億円値引きは適正な手続きに基づく決定」とか、強弁と詭弁を繰り返しています。加計学園問題では、獣医学部の新設容認が「総理のご意向だと聞いている」と記した文部科学省の内部文書について、菅義偉(すが・よしひで)官房長官が「怪文書みたいな文書じゃないか」と迷言を吐く有り様です。

 私たちの社会にとって深刻なのは、こうした政治家や官僚の醜い対応が「教育」を舞台にして為されている、ということです。次の時代、未来を担う人間をどうやって育てていくのか。それを考え、実践していくべき場で、公金をむさぼる行為がまかり通り、不正をごまかす言葉がまき散らされているのです。憂うべきことです。

 自民党や文部科学省は「人間としての生き方についての考えを深める学習が必要だ」として、道徳をこれまでの「教科外の活動」から「教科」に格上げすることを決めました。来年以降、小中学校で正式に教科としての道徳の授業が始まります。いっそのこと、森友問題や加計問題での政治家や官僚の嘘とごまかしをそのまま教材にしてはどうか。子どもたちにとって、何より分かりやすい「道徳の反面教師」になるのではないか。

 子は親の背中を見て育つ、と言います。政府が嘘とごまかしで押し切ろうとする姿を見ていれば、子である都道府県や孫である市町村も右ならえをすることになります。実際、私が暮らしている山形県でも似たようなことが起きています。全国津々浦々で続く公金のむさぼり合い。こんなことを許していたら、それこそ、国が滅びてしまいます。



≪参考文献・記事&サイト≫
◎『田中角栄研究?その金脈と人脈』(立花隆、月刊誌『文藝春秋』1974年11月号)
◎リクルート事件(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◎加計学園の獣医学部新設問題に関する報道
 ・2017年5月18日付の朝日新聞、毎日新聞(山形県で販売されている版)
 ・2017年5月25日付の朝日新聞(同)
◎今治市と愛媛県の獣医学部新設に伴う負担に関する報道(毎日新聞のサイト)
https://mainichi.jp/articles/20170304/ddl/k38/010/544000c
◎道徳教育について(文部科学省の資料)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/078/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/08/05/1375323_4_1.pdf


≪写真説明とSource≫
◎愛媛県今治市に新設される岡山理科大学獣医学部の完成予想図
http://mera.red/%E5%8A%A0%E8%A8%88%E5%AD%A6%E5%9C%92%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81

*メールマガジン「風切通信 27」 2017年5月17日

 優れた本は、すらすらと読み進むことができません。時折、本を置いて考え込んでしまいます。忘れかけていた記憶を呼び覚ましたりもします。国谷裕子(くにや・ひろこ)さんの著書『キャスターという仕事』(岩波新書)も、しばしば立ち止まってしまう本でした。

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  NHKの「クローズアップ現代」はよく観ていましたので、番組のキャスター、国谷さんの顔は何度も拝見していましたが、どういう道を歩んできた人かはこの本で初めて知りました。彼女は、父親の勤務の関係で海外生活が長く、小学校の数年間を除けば日本での教育を受けていません。そのため、英語は堪能なのに日本語に自信が持てず、日本の事情にも疎いためコンプレックスを抱いていたといいます。

 彼女のキャスターとしてのキャリアは、1981年にNHKが夜7時のニュースを英語でも放送し始めた際、その英語放送用のアナウンサーとして採用されて始まりました。といっても、大事なところはベテランのアナウンサーが読むので、国谷さんは日本語の原稿を受け取って英語放送用の作業部屋に走って届ける、といった雑用もこなしたといいます。

 駆け出しのアナウンサーからNHKの看板番組のキャスターになるまでの艱難辛苦は読み応えがあります。毎週4回、23年にわたって続けたキャスターとしての仕事を振り返り、反芻している各章は、それぞれがドラマのようです。一人の人間が修練を積み重ね、骨太のジャーナリストになっていく物語になっています。

 その意味で、この本はジャーナリストを志す若者にとって教科書とも言えるような良書なのですが、私にとって最も印象深かったのは、2001年5月17日に放送された「クローズアップ現代 高倉健 素顔のメッセージ」について詳述しているところでした。

 俳優の高倉健は寡黙なことで知られています。番組でインタビューを始めたものの、返ってくるのは短い答えのみ。対話はまったく弾まなかったといいます。国谷さんは、「テレビのインタビューにほとんど応じることのない高倉さんがくださった貴重な機会。覚悟を決めて待とう」と思った、と記しています(p133)。実際、インタビューの中で沈黙が17秒も続いたのだとか。

 当時、高倉健は映画『ホタル』の撮影を終えたばかり。「これからはどういう作品に出たいと思いますか?」という彼女の問いかけに、高倉健はこう答えました。
「まだ頭のなか、何にも考えていないですね。もう嫌でも封切りの日がきますから、その日が一番辛くなる日なんですけど。でも、どっかでいい風に吹かれたいというふうに思いますね」「いい風に吹かれるためには、自分が意識して、いい風が吹きそうな所へ自分の身体とか心を持っていかないと。じっと待ってても吹いてきませんから。吹いてこないっていうのが、この頃わかってきましたね」

 「いい風に吹かれたい」。この言葉に出くわして、私は忘れかけていた、南インドで吹かれた風のことを思い出しました。1992年から3年間のインドでの仕事と暮らしは、充実していたものの、とてもしんどいものでした。摂氏50度の熱波にさらされる取材。出張先は戦火が収まらないアフガニスタンや政争激しいパキスタン・・・。その厳しさからしばし逃れるために、私は南インドの古都マイソールに旅に出ました。

 マイソールは南インド研究の泰斗、辛島昇・東大名誉教授(故人)が若い頃に貴子夫人と暮らした街です。インドとはどういう国、どういう社会なのか。戸惑い、立ちすくむたびに、私は辛島夫妻に教えを請い、2人の著書をひもときました。私にとって、辛島氏監修の『インド 読んで旅する世界の歴史と文化』と貴子夫人の著書『私たちのインド』は、どちらもインド取材の礎のような本でした。

 2人が暮らした街はどんな街なのか。それが知りたくて、私は南インドのバンガロールに飛び、さらに車を駆ってマイソールを訪ねました。記事になるような話は何もなく、今となってはどんな街だったのかすら思い出せないのですが、その帰り道のことはかすかに覚えています。マイソールを去り、ダム湖のほとりに辿り着いた時です。空っぽの心を抱えて、漫然と湖を眺めていると、柔らかな風が吹き、頬をかすめていったのです。「いい風だな」。生まれて初めて、心からそう思いました。そして、「これでまた明日から力を出すことができる」と感じたのです。

 楽しいことや嬉しいこともあるけれど、つらいことや悲しいことの方が多いのが人生です。つらくて、つまずきそうになった時、支えてくれるのは、ささやかな喜びや小さな恵みの記憶です。この頃、しみじみそう思います。いい風に吹かれたい。そして、また少し、生きる力を補いたい。


≪参考文献≫
◎『キャスターという仕事』(国谷裕子、岩波新書)
◎『私たちのインド』(辛島貴子、中公文庫)
◎『インド 読んで旅する世界の歴史と文化』(辛島昇監修、新潮社)
◎『今夜、自由を』(上下、ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ共著、早川書房)

≪写真説明とSource≫
◎高倉健
http://pinky-media.jp/I0004294




*メールマガジン「風切通信 26」 2017年4月12日

 シリアでの化学兵器使用疑惑、トランプ政権によるシリア空軍基地へのミサイル攻撃と大きなニュースが続き、森友学園問題は小さなニュースになりつつあります。大阪地検特捜部は、森友学園の籠池泰典氏が国の補助金を不正に受け取った疑いがあるとの告発を受理し、補助金適正化法違反で取り調べる構えを見せています。新聞各紙はこの告発受理を比較的大きく取り上げ、「ここが落としどころ」のような報道をしています。

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 冗談ではありません。こんな報道をしているから、新聞はますます「信用できない」と相手にされなくなるのです。森友学園問題の核心は、「9億円の国有地がなぜ8億円も値引きされて森友側に売却されたのか」にあります。新聞各紙には、その核心に迫る記事が見当たりません。掘り下げようとする気迫も感じられません。そんな中で、またしてもウェブのニュースサイトに核心をつく記事が登場しました。環境ジャーナリスト、青木泰(やすし)氏の「森友問題 地中深部ごみは『存在しない』との報告書」という記事です(全文は末尾のURL参照)。

 すでに報道されている通り、森友学園が「瑞穂の國記念小學院」の建設を予定していた土地は、隣の豊中市の公園建設予定地とともに国有地でした。もともと住宅地だったところを国土交通省大阪航空局が伊丹空港の騒音防止区域として買い上げ、取得した土地です。阪神大震災の後、豊中市はこの土地を防災避難公園として国から購入しようとしたのですが、財政的に全部買うのは無理だったため半分だけ購入し、あとの半分は国有地のまま残っていたものです。それを森友学園が小学校建設用地として購入した、という経緯があります。

 豊中市は9492平方メートルの土地を14億2300万円で購入、一方の森友学園は隣の8770平方メートルを1億3400万円と格安の値段で購入しました。しかも、財務省近畿財務局は森友学園への売却額を非公開にしました。それを、豊中市の木村真(まこと)市議(無所属)が情報公開請求をして暴露し、8億円も値引きしていたことが明るみに出たのです。これが明らかになるや、財務省は「地下に大量のごみがある。その撤去費用として8億円値引きした」と釈明しました。とくに、「地中深くにごみがたくさんある」というのが大幅値引きの理由でした。

 従って、メディアが追及すべきは「本当に地中深くに大量のごみがあったのか」という点です。青木泰氏は、技術者の立場からこの問題を掘り下げ、「地中深くにごみなどない。専門業者がボーリング調査した報告書があり、財務省が保管している」ということを突きとめ、Business Journal というニュースサイトで特報しました。

 青木氏によれば、問題の報告書が作成されたのは平成26年(2014年)12月で、「(仮称)M学園小学校新築工事 地盤調査報告書」というタイトルが付いています。この報告書には土地の地層図も添えられており、?盛り土(3メートル)?沖積層(7.3メートル)?洪積層(4?7メートル)という3層になっていることが分かります。?の盛り土は、沼地や田畑だったところを宅地化するさいに盛られたもので、ここには植物の根や塩化ビニール片、木片などが混入している可能性があります。しかし、その下部、沖積層や洪積層には、大量のごみなど存在し得ないのです(あったら、考古学上の大発見になります)。

 財務省はそうした報告書を保管し、土地の状況を知っていながら、国土交通省大阪航空局に「地下深くに大量のごみがあり、撤去に多額の費用がかかる」との鑑定を出させ、8億円の値引きをしていたわけです。これは国有財産の価値を不当に下げて政府に損害を与える背任行為であり、立派な犯罪です。「籠池氏は小学校建設工事の契約額をごまかして補助金を不正に受け取った」という容疑より、はるかに深刻で姑息な行為です。

 そうした罪を犯した者たちが素知らぬ顔で国の財政をつかさどり、国民から税金を取り立てる。そんなことがまかり通っていいはずがありません。森友学園への8億円値引き売却を暴いた木村真・豊中市議らは3月22日、大阪地検特捜部に「財務省近畿財務局の職員(氏名不詳)が国有地を不当に安く売却して国に損害を与えた」として、背任容疑で告発しました。大阪地検特捜部は4月5日、この告発を受理し、新聞各紙はそのニュースをベタ記事で伝えました。「どうせ受理しただけ。検察には立件する気はない」と言いたいのでしょう。

 検察にも心ある人はまだいる、と信じたい。告発を正面から受けとめ、「裁かれるべき者には裁きを与えなければならない」との判断が下る日が来ることを信じたい。


≪参考サイト≫
◎森友問題、地中深部ごみは「存在しない」との報告書(青木泰氏、Business Journalのサイト)
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18667.html
◎環境ジャーナリスト、青木泰(やすし)氏による解説「実はなかった8億円のごみ」の動画(ユーチューブ)
https://www.youtube.com/watch?v=Cxm6YoXgXL4
◎青木泰氏のプロフィール
http://www.hmv.co.jp/artist_%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B3%B0_200000000454851/biography/media_all/


≪写真説明とSource≫
◎財務省保有の「(仮称)M学園小学校新築工事 地盤調査報告書」(平成26年12月)に添えられている地層図(記事の中ほどにあります)
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18667_3.html




*メールマガジン「風切通信 25」 2017年3月22日

 疑獄事件と言えば、政治家がその権限を使って民間人に便宜を図り、見返りに大金を受け取る、というのが通り相場でした。昭電疑獄(1948年)、造船疑獄(1954年)、九頭竜(くずりゅう)ダム疑獄(1965年)、ロッキード事件(1976年)、リクルート事件(1988年)ではいずれも政治家が巨額の金品を受け取ったとされ、収賄容疑で追及されました。

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 ところが、今回の森友学園への国有地売却問題はいささか様相が異なります。9億円の国有地が8億円も値引きされて払い下げられたのですから、特段の便宜が図られたことは間違いないのですが、森友側から「大金」が流れた形跡がありません。かつての疑獄とどこがどう異なるのか。それを分析した優れたリポートがあります。『サンデー毎日』の3月26日号と4月2日号に掲載された伊藤智永(ともなが)毎日新聞編集委員の記事です。

 記事のタイトル「森友疑惑は思想事件である」が問題の所在を的確に表現しています。伊藤編集委員の分析はこうです。
「この事件は、安倍政治に特有の『何だか嫌な感じ』がてんこ盛りになっている。つまり、政治事件としての本筋は、『教育・首相夫人・勅語(=天皇制・国体論)・排外主義』の問題にこそある。ひっくるめて『安倍流保守』の問題と名付けよう。これは政治思想事件なのである」

 森友学園問題をめぐってモヤモヤしていたものが、この記事を読んですっきりと晴れていくような気がしました。「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍晋三首相にとって、取り戻すべき日本の美点のエッセンスは、戦前の教育勅語でうたわれていることと重なります。森友学園が推し進めようとする「日本で初めての神道に基づく小学校教育」とも共鳴するところがあります。だからこそ、昭恵夫人は講演を引き受け、「こちらの教育方針は主人もすばらしいと思っていて」と語ったと考えられるのです。

 安倍首相夫妻と思想やイデオロギーを共有し、シンクロナイズする。交友もある。それゆえに、籠池泰典理事長は財務省や国土交通省との折衝で強気を押し通すことができたのではないか。官僚たちも、それを知っているから目端を利かせて譲歩に譲歩を重ねたのではないか。森友学園側から巨額の金品を贈らなくても小学校の開校準備がスムーズに進んだ背景にそうした構図があったと考えると、これまでの経緯が分かりやすくなります。

 伊藤編集委員の続報「安倍政治を担いだ『保守ビジネス』」も、戦後日本の政治思想の変遷を考えるうえで、示唆に富んでいます。記事の中で、保守ビジネスの起業家の「1990年代末から保守が売り物として成立するようになった」という言葉が紹介されています。このころから、日本の神話や皇室、国史をテーマにしたセミナーを開催すると、3000円の会費で参加者が面白いように集まる。ネット塾にも有料会員が次々に登録してくる。「保守ビジネス」が成り立つようになり、太い流れになっていった、というのです。

 1989年に東欧の社会主義体制が次々に倒れていきました。1991年には社会主義の本家、ソ連そのものが消滅し、共産主義・社会主義というイデオロギーは総崩れになりました。政治思想やイデオロギーという面から考えると、「社会の左翼」が真空状態になり、その空白を埋めるべき「強靭なリベラル」が育たないまま、21世紀を迎えました。空いた領域に中道と保守がじわじわと広がっていったのです。

 日本では、2009年に民主党が政権の奪取に成功しましたが、ぶざまな政権運営によって有権者に愛想を尽かされ、「やっぱり自民党に任せるしかないね」という選択が定着してしまいました。そうした中でグローバリゼーションは勢いを増す。冷戦を勝ち抜いた自由主義・資本主義体制の中で、大手を振ってまかり通るのはアメリカ型の貪欲な資本主義。社会は不安定さを増し、その不安を巧みに掬い取ったのは保守のタカ派であり、極右勢力だったのです。森友学園問題はそうした中で噴き出しました。今の日本社会の病理を象徴するスキャンダルと言えるのではないか。

 悲しいのは、今の日本には、これをただす勢力があまり見当たらないことです。国会での民進党議員の追及を見ていると、脱力感に襲われます。なんでこんな質問しかできないのか。自分たちで腐敗の根っこを掘り起こす力がない。一番気を吐いているのが、なんと共産党です。けれども、彼らにはノスタルジア(郷愁)はあっても、未来の展望はないでしょう。かつて腐敗した政治家に恐れられた検察官もどこへ消えてしまったことやら。

 繰り言を重ねても、未来を切り開くことはできません。どんな社会も、一人ひとりの人間が集まってできています。一人ひとりが、今いる場所でできることを積み重ねて、この社会を変えていくしかありません。森友学園問題は「今、あなたにできることは何か」と問いかけているとも言えます。

 山形の山村で暮らす私にできることは限られていますが、幸いなことに、こんな山奥にも光ファイバー回線が張り巡らされ、情報はあふれ返っています。ネットの海に漕ぎ出し、森友疑惑の核心に可能な限り迫るつもりです。元新聞記者として、何が至らなかったのか、深く自省しつつ。



≪参考サイト、記事≫
◎戦後の疑獄政治史
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/seijikasotuishi/sengoshi.htm
◎『サンデー毎日』(2017年3月26日号)の記事「森友疑惑は思想事件である 教育勅語と安倍政権の危険度」
◎上記の記事(毎日新聞のニュースサイトから)
http://mainichi.jp/sunday/articles/20170313/org/00m/040/003000d
◎『サンデー毎日』(2017年4月2日号)の記事「安倍首相を担いだ『保守ビジネス』 稲田防衛相、森友学園、田母神俊雄の交点」
◎上記の記事(毎日新聞のニュースサイトから)
http://mainichi.jp/sunday/articles/20170319/org/00m/070/004000d
◎毎日新聞のコラム「1強栄えて吏道廃れる」(伊藤智永編集委員、3月4日)
http://mainichi.jp/articles/20170304/ddm/005/070/003000c


≪写真説明とSource≫
◎森友学園の塚本幼稚園で園児に囲まれる安倍昭恵夫人
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/f5b90bd8e3ab960b5bf0d8e648239e0f




*メールマガジン「風切通信 24」 2017年3月14日

 森友学園への国有地売却問題には不可解なことがたくさんあります。その一つが「国会でも大阪府議会でも、小学校の建設予定地がある豊中市の議会でも、公明党の議員がまったく質問しないこと」です。公明党の支持母体である創価学会の会員の中には不満が渦巻いているとのことです。

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 公明党の議員はなぜ、この問題に触れないのか。その理由を探っていくと、一人の人物に辿り着きます。かつて国土交通相をつとめた冬柴鉄三代議士(故人)の次男、冬柴大(ひろし)氏です。1988年から大和銀行(現りそな銀行)に16年勤め、2004年にソニー生命保険に転職、冬柴元国交相が病没した2011年にソニー生保を退職して「冬柴パートナーズ株式会社」(大阪市)を設立しました。その代表取締役です。経営コンサルタントを業務とし、人脈紹介や助成金の申請援助を得意としている会社です。

 官僚側のキーパーソンが財務省の前理財局長、迫田(さこた)英典氏(国税庁長官)とするなら、民間側のキーパーソンは、この冬柴大氏と言っていいでしょう。前回のコラムで、「この問題には疑惑の3日間がある。2015年の9月3日から5日までの3日間だ」との志葉玲(しば・れい)氏の記事を引用し、安倍晋三首相が9月4日、安保法制法案の国会審議のさなかに大阪を訪問していたことを紹介しました。安倍首相はこの日、大阪・東梅田駅前の海鮮料理店「かき鉄」で冬柴大氏と会食しています。店のオーナーは冬柴氏です。牡蠣(かき)料理の店で、父親の名前「鉄三」の一文字を冠したのでしょう。

 日刊ゲンダイの電子版(3月8日)は、経営が思わしくない森友学園は小学校の建設資金に窮していたが、ある都市銀行が20億円を超す融資に応じた、と報じました。そして、その融資を仲介したのは「大臣経験者の子息A氏ではないか、という憶測が流れている」と伝えています。日刊ゲンダイの取材に対して、A氏は「その日に安倍首相と会食したのは事実です」と認めたものの、融資の仲介については「まったくありませんでした」と否定しました。この「A氏」が冬柴大氏で、融資に応じたのは彼がかつて勤めていた「りそな銀行」と見られています。

 多忙を極める首相が国会審議の合間を縫って大阪を訪れてテレビに出演し、その後、経営コンサルタントと彼の店で会食する。「重要な案件があったから」と見るのが自然です。その前日、安倍首相は財務省の迫田理財局長と会い、翌日(9月5日)には昭恵夫人が森友学園経営の幼稚園で講演し、小学校の名誉校長就任を引き受けています。「疑惑の3日間」と言われる所以です。

 キーパーソンが冬柴元国交相の息子では、公明党の議員は国会でも大阪府議会でも質問する気にはなれないでしょう。これで「不可解なこと」の一つへの疑問は氷解します。問題の土地の評価を民間の不動産会社ではなく、国土交通省の出先機関、大阪航空局が行ったことも「冬柴人脈」を考慮に入れれば、納得がいきます。

 もう一つの疑問、土地の評価をした国土交通省大阪航空局はなぜ「ゴミの撤去」を理由に8億円も値引きしたのか。大阪航空局の鑑定によれば、縄文時代に相当する深い地層にも「たくさんゴミがあるので、撤去に多額の費用がかかる」ということになります。これに関しては、この土地の元地権者たちが怒って、メディアに発言し始めています。元地権者の1人、乗光恭生さん(元豊中市議)は「災害時の一次避難地としての役割も担う公園を建設するというから、みんなで立ち退いて土地を国に売ったのに、いつの間にか森友学園に売られていた。あそこはもともと田んぼや畑。立ち退き時に家を解体してきれいにしたのでゴミなどない」と語っています。なんということでしょうか。

 森友学園の籠池泰典理事長が小学校の設置認可の申請を取り下げ、理事長も退任する意向を表明したことで、関係者はこの問題の「幕引き」を図る構えを見せていますが、冗談ではありません。「公園にする」と称して大勢の住民を立ち退かせて土地を国有化した挙げ句、元地権者たちが「ゴミなどない」と言う土地を8億円も値引きして森友学園に譲り渡し、そのうえ「ゴミの撤去」と「土壌汚染対策」の名目で1億3200万円もの公金を支給していたのです。森友学園が払ったのは、実質わずか200万円。ただ同然です。

 国の財産も税金も、自分たちの裁量でどうにでもなる、と考えているのです。こんな人たちにこの国の未来を託せるのか。こんな人たちが責任を問われることもなく、のうのうと生きていていいのか。


≪参考サイト、記事≫
◎森友学園の資金調達問題を報じた記事(日刊ゲンダイの電子版から)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/200917
◎冬柴パートナーズ株式会社の公式サイト
http://fuyushiba.com/index.html
◎産経ニュース「安倍日誌」2015年9月4日
http://www.sankei.com/politics/news/150905/plt1509050012-n1.html
◎東梅田の海鮮料理店「かき鉄」(「食べログ」から)
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270101/27084357/
◎「公園にするというから立ち退いた」と憤る元地権者の1人、乗光恭生さんの記事(YAHOOニュースから)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20170313-00068645/
◎メディアに経過を説明する乗光恭生さん(ユーチューブの動画)
https://www.youtube.com/watch?v=YArhC_jOI1Y

≪写真説明とSource≫
◎メディアに語る元地権者の1人、乗光恭生さん(中央)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/200917




*メールマガジン「風切通信 23」 2017年3月10日

 大阪の森友学園への国有地払い下げ問題は、ますます奇怪な様相を呈してきました。学園の籠池(かごいけ)泰典理事長の言動は支離滅裂ですが、国有地の売却を決めた財務省の対応も奇怪です。この問題を所管する理財局の佐川宣寿(のぶひさ)局長は3日の参議院予算委員会で次のように答弁しています。「2012年の閣僚懇談会の申し合わせで、(政治家の不当な働きかけがあれば)記録を保存することになっていますが、不当な働きかけが一切なかったので、記録は保存されていません」

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 この人は官僚としては優秀なのかもしれませんが、役者としては「折り紙付きの大根」です。何かを、そして誰かをかばおうとしていることが見え見えです。佐川局長はこれに先立つ、2月24日の衆議院予算委員会では次のように答弁しています。
福島伸享(のぶゆき)議員「このような異例中の異例のやり方で(国有地の処分を)やっている時の理財局長はどなたでしょうか?」
佐川理財局長「えーと、今、手もとに資料がございません。大至急、調べてきます。(質疑を中断)前々任者ということであれば、えーと、中原でございます」
福島議員「なんでそんなにとぼけるんですか。(平成)27年から28年、前任者の理財局長!」
佐川理財局長「27年の夏から28年の夏という意味で言えば、迫田でございます」

 自分の前任者の名前を出したくないので、「手もとに資料がない」と言う。中座して戻ってきたら、前々任者の名前を出す。森友学園への国有地処分を決めた時の理財局長の名前を何とかして隠そうとする。が、隠しきれなくなって、ついに苗字だけ出してしまった、ということです。本当に大根です。彼が必死になってかばおうとした迫田英典(さこた・ひでのり)氏とは、どのような人物なのか。

 1959年、山口県生まれ。県立山口高校から東大法学部に進み、1982年に卒業して大蔵省に入省。竹下首相の秘書官補、金融庁信用機構室長、徳島県企画総括部長、東京国税局徴収部長、関東信越国税局長、主計局次長、財務省大臣官房総括審議官を経て、2015年7月に国有財産を管理する理財局長に就任。2016年6月、1年足らずで国税庁長官に就任しています。後輩が一所懸命、守ろうとするのもうなずける経歴です。

 2月28日のYAHOOニュースに掲載されたフリージャーナリスト、志葉玲(しば・れい)氏の記事「国有地8億円値引した迫田英典氏を国会に!」によれば、この迫田氏こそ、森友学園に国有地を8億円も値引きして売却した疑惑のキーマンです。志葉氏によれば、森友学園問題を解く鍵は2015年9月3日から5日までの3日間にある、といいます。

 産経新聞の「安倍日誌」9月3日によると、安倍首相は午後2時17分から10分間、財務省の岡本薫明官房長と迫田英典理財局長に会いました。その翌4日、首相は国会で安保法制の法案審議が続いていたにもかかわらず、空路、大阪入りしました。大阪の読売テレビに出演し、海鮮料理店で食事をしています。翌々日の5日、安倍首相夫人の昭恵さんは森友学園が経営する塚本幼稚園で講演し、「瑞穂の國記念小學院」の名誉校長を引き受けました。なるほど、いろいろなことを想像させる3日間です。

 「昭恵夫人は籠池理事長に頼まれ、断りきれなくて『名誉校長』を引き受けた」といった報道もなされていますが、むしろ、その教育方針に賛同して積極的に引き受けたのではないか。夫の安倍首相も事情を承知したうえで同時期に大阪を訪れたのではないか。もしそうならば、この疑惑をめぐる様々なことが実にすっきりと見えてきます。

 権勢のピークにある首相とその夫人が賛同する小学校の設立計画。ここで思い切った仕事をすれば、強く印象づけることができる――目端の利く官僚なら「勝負のとき」と考えるでしょう。あらゆる手段を駆使して便宜を図り、売却価格も隠す。仲介する政治家も「ここで貸しを作っておいて、損はない」と蠢く。与党自民党はそんな実情が明るみに出たのでは政権の屋台骨が揺らぎかねないので、国会への参考人招致を認めない・・・。実に分かりやすい構図です。ついでに、「次の首相をめざす政治家は悠々と高みの見物」という姿も見えてきます。

 今、日本の国家財政は莫大な借金を抱えて火の車です。きるだけ支出を減らして、財政を立て直さなければなりません。国有財産も大切にして、次の世代に引き継がなければなりません。それが今を生きる私たちの責任です。ですが、森友学園問題に登場する面々には、そうした責任感はかけらもないようです。それどころか、疑惑のキーマンが国民から税金を取り立てる国税庁の長官としてふんぞり返っているとは・・・。

 この問題は、特異な学校法人の風変りな理事長が引き起こした小さなスキャンダルではありません。安倍長期政権の下で政治家や官僚たちが何をしているのか。その陰で私たちの未来がどんな風に蝕まれているのか。それを端的に示す、極めて大きな問題です。


≪参考サイト、記事≫
◎「国有地8億円値引きした迫田英典氏を国会に!」の記事(YAHOOニュースのサイト)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20170228-00068180/
◎フリージャーナリスト志葉玲氏のブログ
http://reishiva.exblog.jp/
◎迫田英典氏の略歴(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%AB%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%85%B8
◎産経ニュース「安倍日誌」2015年9月3日
http://www.sankei.com/politics/news/150904/plt1509040010-n1.html
◎同2015年9月4日
http://www.sankei.com/politics/news/150905/plt1509050012-n1.html
◎朝日新聞(2017年3月8日)の2面記事「理事長ら招致、自民難渋」
◎サンデー毎日(2017年3月19日号)の「森友学園と政・官 疑惑の闇」

≪写真説明とSource≫
◎記者団に囲まれる籠池泰典理事長(3月9日)(ハフィントン・ポストのサイトから)
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/09/kagoike-moritomo_n_15257798.html




*メールマガジン「風切通信 22」 2017年3月5日

 こんな人物が13年間も日本の首都のトップとして君臨していたのか。3日の石原慎太郎・元東京都知事の会見を聞いて、ため息を漏らした方も多かったのではないでしょうか。築地市場の豊洲移転について、石原氏は「行政上の責任は当然、裁可した最高責任者にある」と認めたものの、あとは嘘とごまかしと言い逃れのオンパレード。その姿から思い浮かんだのは「老醜をさらす」という言葉でした。

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 石原氏は会見の冒頭で声明を読み上げ、「1999年4月、知事に就任して早々に豊洲という土地への移転は既定の路線であるような話を担当の福永副知事から聞いた」と述べました。まず、これが事実とは思えない。彼が都知事になる前、東京都は築地市場の移転を断念し、市場の再整備を目指していました。立体駐車場や冷蔵庫棟を新たにつくり、築地を生まれ変わらせる計画だったのです。そして、その工事は財政難のため中断していました。

 当時、東京都は臨海副都心の開発に失敗し、8000億円もの借金を抱えていました。単年度会計も実質赤字が続き、財政再建団体に転落しかねない状況にあったのです。そうした中で、副知事が莫大な予算を必要とする築地市場の豊洲移転を「既定路線です」と知事に進言するなど考えられないことです。だからこそ、石原氏は「既定の路線であるような話を聞いた」という、あいまいな表現を使ってごまかそうとしたのでしょう。知事就任前に築地市場を豊洲に移す計画があったにせよ、豊洲に移転させることを決め、本格的に動き出したのは石原都政になってからです。

 次に、東京ガスからの豊洲工場跡地の買収について。石原氏は「具体的な交渉は2000年10月以降、浜渦副知事に担当してもらいました。浜渦氏から、交渉の細かな経緯について逐一報告は受けていませんでした。大まかな報告は受けていたかもしれません」と述べました。巧妙な表現です。豊洲工場跡地の土地代や関連費用として1281億円。その後の土壌汚染の対策工事費を加えれば、2000億円を超す大規模なプロジェクトです。しかも、移転後に築地市場の土地を売れば、莫大な収入が見込まれ、財政再建の夢も叶う。そのプロジェクトの重要事項が知事に報告されないわけがありません。

 当の浜渦武生氏は、『サンデー毎日』(3月5日号)のインタビューに答えて、土地買収交渉の経緯を語っています。東京ガスは工場跡地の売却を拒んでいました。都市ガスの製造工場だった跡地は土壌汚染がひどい。そこで、土壌汚染対策工事をしたうえでマンションやショッピングセンター、大学を誘致する開発計画を立て、すでに経営会議で正式に決定していたのです。

 浜渦氏はインタビューの中で、「東京ガスが難色を示したのは当たり前です」「決定事項を蒸し返されるのは、株主への説明も大変だし困るということでした」と述べています。そこで「水面下での交渉」に入り、東京ガスが計画していた1000億円の防潮護岸工事を東京都が引き受け、代わりに土壌汚染対策工事はすべて東京ガスが行う、という方向で土地の売買交渉を進めた、と証言しています。

 では、なぜ、護岸工事だけでなく、土壌汚染の対策工事まで東京都が行うことになったのか。浜渦氏は都議会での「やらせ質問」が問題になって2005年に辞任しており、その後の交渉には関わっていません。2011年に東京都と東京ガスが交わした土地売買契約に「土壌汚染対策費も東京都が負担する」との内容が盛り込まれたことについて、浜渦氏は「まったくもって分からない。私がいたら、こんなことにはならなかった」と語っています。

 その後の交渉で何があったのか。売買の対象物(土地)に瑕疵(かし)があった場合、売り手(東京ガス)が責任を持って対処するのが普通の取引ですが、石原氏は会見で「瑕疵担保責任留保の報告も相談も受けていない。それはもう、(部下に)任せきり。そんな小さなことにかまけてられません」と開き直りました。860億円もの費用がかかった土壌汚染対策を「小さなこと」と言ってのける神経に、唖然とします。

 土壌汚染対策のことを聞かれると、「私は専門家ではありませんから」と逃げる。「私は素人ですし、担当の司々(つかさつかさ)の職員の判断を仰ぐしかない」と部下に責任をかぶせる。挙げ句の果てに「議会も含めて都庁全体の責任じゃないですか」と言う。この人には「トップとしてすべての責任を取る」という覚悟や潔さは全くありません。

 民間企業なら経営者が背任の罪に問われてもおかしくないケースです。石原氏に対しては、都民が東京都に対して「豊洲の土地を578億円で取得したのは違法だ。都は石原氏に購入の全額を請求すべきだ」との訴訟を起こしています。元都議による住民監査請求もなされています。石原氏のような破廉恥な人間は、都議会の百条委員会に証人として呼ばれても、責任逃れを繰り返すだけでしょう。法廷に引きずり出して、ぎりぎりと締め上げるしかありません。それでも、「体調がすぐれない」などと言って逃げ回るのだろうけれど。


≪参考サイト、文献≫
◎石原慎太郎氏の記者会見(3月3日)の詳細(ハフィントン・ポストのサイト)
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/02/ishihara-shintaro-conference_n_15124104.html
◎石原氏の声明全文(同サイト)
http://big.assets.huffingtonpost.com/20170303ishihara.PDF
◎週刊誌『サンデー毎日』(2017年3月5日号)
 「浜渦武生・元副知事、全真相を独白。本当の戦犯は誰なのか」
◎『黒い都知事 石原慎太郎』(一ノ宮美成&グループ・K21、宝島社)

≪写真説明とSource≫
◎日本記者クラブで会見した石原慎太郎氏(ハフィントン・ポストのサイトから)
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/02/ishihara-shintaro-conference_n_15124104.html



*メールマガジン「風切通信 21」 2017年2月22日

 宮城県の伊豆沼は冬鳥の飛来地として知られ、隣接する内沼とともに、湿原の保存をうたったラムサール条約のリストに登録されています。その伊豆沼・内沼にやって来るオオハクチョウがこの冬、例年の4倍近い6000羽以上になったという話を、記者仲間の島田博さんから聞きました。

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 その原因が面白い。伊豆沼・内沼は蓮(はす)の花の名所としても知られています。毎年夏には淡いピンクの花が沼一面に咲き乱れ、地元主催の「はすまつり」が盛大に開かれています。ところが、岸辺のヨシが増えすぎて祭りの趣向がそがれてしまうのが悩み。そこで、ヨシを刈り取ってその繁茂を抑えるために、沼の水位を15センチほど下げたのだそうです。

 宮城県伊豆沼・内沼環境保全財団の研究者、嶋田哲郎さんによれば、この水位の低下が白鳥たちを呼び寄せたと考えられる、というのです。白鳥は水草の新芽や田んぼに残る落ち穂を好んで食べます。蓮の新芽やレンコン(蓮根)も好物で、白鳥は頭を水中に突っ込んで沼の底にあるレンコンを食べます。沼の水位が下がったことで、レンコンを食べられる範囲が広がり、これが飛来数の急増につながったというわけです。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」の白鳥版のような話ですが、これはいい加減な話ではなく、説得力があります。「優雅な鳥」の典型のような白鳥にとっても、食べ物が少ない冬を乗り切るのは大変なことです。春になってシベリアに帰るまでに、しっかりと栄養を蓄えておかなければなりません。一所懸命に生きていることが伝わってきます。

 この話を聞いて、「白鳥たちは伊豆沼のレンコンが食べやすくなったことをどうやって知るのだろうか」という疑問が湧いてきました。毎年、伊豆沼に飛来する白鳥が何らかの方法で仲間に伝えているのか。嶋田哲郎さんの推論はこうです。鳥たちには餌場が何カ所かある。そこで仲間の様子をよく見ている。「あいつ、たくさん食べているな」と察知したら、その仲間に付いていく、というわけです。白鳥には白鳥の情報察知能力があり、ねぐらや餌場が情報交換の場になっている、と考えられるのだそうです。

 「伊豆沼の白鳥飛来数、急増」の記事は、1月29日の朝日新聞宮城県版に特ダネとして掲載され、2月7日には加筆して東京発行の夕刊に転載されました。その筆者が記者仲間の島田博さんです。特ダネになった経緯がまた、興味深い。宮城県の自然保護課は毎冬、各地の白鳥などの飛来数を取りまとめて記者クラブに配布しています。この冬も投げ込み資料として配られました。目にした記者はたくさんいたはずですが、数字が羅列してあるだけの資料です。ほとんどの記者はスルーしてしまいました。

 ところが、朝日新聞大崎支局長の島田さんは管内にある伊豆沼の異変に素朴な疑問を抱き、沼の環境保全に取り組む専門家に会いに行きました。そして、その背景事情を知り、特ダネとして報じるに至ったのです。彼は朝日新聞外報部時代の先輩で、元モスクワ特派員です。定年後、故郷の宮城県でシニア記者として働き続けています。「気にかかったことは愚直に追う」という新聞記者の基本動作を忘れことなく実践し、書いたのです。

 特ダネにも、いろいろなものがあります。政治家や官僚がひた隠しにしている悪事を暴く衝撃的な特ダネ。権力者にすり寄って「おこぼれ」のような話をもらって書く情けない特ダネ。半ば周知の事実をきちんと取材して伝える特ダネ・・・。伊豆沼の白鳥の記事は最後のタイプです。私はこういう特ダネが大好きです。白鳥の生態や蓮とレンコン、湖沼の保全など様々なことを考えさせ、想像力を膨らませてくれます。何よりも、行間から新聞記者の一所懸命な姿が伝わってくるところがいい。


≪参考サイト≫
◎「伊豆沼の白鳥、飛来数4倍に」の記事(朝日新聞デジタルのサイト)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12786154.html
◎宮城県伊豆沼・内沼環境保全財団の公式サイト
http://izunuma.org/
◎水草を食べる白鳥(「NHK for School」のサイト)
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005300650_00000&p=box
◎レンコンの栽培方法(「山里の素人農業」のサイト)
http://daii.jp/a_cul/renkon.php

≪写真説明とSource≫
◎宮城県伊豆沼の白鳥(「好きです。栗原」のサイト)
http://yumenet-kawashima.seesaa.net/article/332147463.html




*メールマガジン「風切通信 20」 2017年1月15日

 大統領の就任式を間近に控えた今の時期、その地位に就く政治家の胸は高揚感に満ちている、というのが普通でしょう。が、今、トランプ氏の胸に渦巻いているのは怒りと困惑、いら立ちと不安ではないか。彼と彼の側近たちはロシアのプーチン政権とどのような関係にあるのか。その内実を詳細に記したとされる極秘文書がメディアで報じられたからです。

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 1月10日、ウェブメディアの「バズフィード」が「アメリカ大統領選挙:共和党候補ドナルド・トランプ氏のロシアにおける活動とクレムリンとの不名誉な関係」と題された極秘文書の内容を特報しました。次いで、ニュース専門テレビのCNNが「クラッパ―国家情報長官(米国の情報機関の元締め)とコミーFBI長官、ブレナンCIA長官、ロジャーズNSA(国家安全保障局)長官の4人がオバマ大統領とトランプ次期大統領に極秘文書とその要約版を提出した」と報じました。

 CNNはA4判2ページ分の要約版の内容を伝え、極秘文書の詳細については「内容を確認できていない」として報じませんでしたが、バズフィードはこのCNNの報道の直後、「アメリカ国民が自ら判断できるように」と、ウェブで極秘文書の全文35ページの公開に踏み切りました(末尾のサイト参照)。

 極秘文書は「ロシア政府は5年前からトランプ氏との関係を深め、支持し、支援してきた。その目的は西側の同盟を分裂させ、分断するためであり、プーチン大統領の了解を得ていた」と記し、大統領選挙ではクリントン候補の足を引っ張り、トランプ氏に有利になるように、あらゆる手段を駆使して秘密工作を繰り広げたことを明らかにしています。

 その内容は詳細を極め、プーチン政権とトランプ陣営の間で定期的に情報交換がなされていたこと、ロシア側がクリントン陣営と民主党本部に大規模なサイバー攻撃を仕掛けたこと、トランプ氏の側近がプラハでロシア側と外交と安全保障にかかわる極秘の事前交渉を重ねていたといったことを具体的に明らかにしています。

 その一方で、プーチン政権はトランプ氏の弱みを握ることにも力を注いでいた、としています。トランプ氏がモスクワを訪れてリッツ・カールトンホテルに宿泊した際、オバマ大統領夫妻が利用したのと同じスイートルームを予約し、この部屋に複数の売春婦を招き入れて目の前で「ゴールデン・シャワー」と称するオシッコ・プレーをさせた、といったことまで把握し、記録していたというのです。ホテルも売春婦もロシア連邦保安庁(FSB)の支配下にあり、「必要な時には脅しの材料として使える」というわけです。

 この文書の内容が報じられた翌11日の記者会見で、トランプ氏はCNNを「インチキニュース fake news」と罵り、バズフィードを「ぶざまなゴミの山 failing pile of garbage」と切り捨て、文書の内容を事実上、全否定しました。会見場にいたCNNの記者は何度も「私たちを攻撃するなら質問の機会を与えてほしい」と要請しましたが、トランプ氏が彼を指さすことはありませんでした。そして、文書の内容を報じなかったメディアを褒めたたえたのです。

 これに応えるかのように、バズフィードとCNNの報道について、ニューヨーク・タイムズの編集主幹は「われわれは自信を持って出せない内容を公表したりはしない」とコメントし、ワシントン・ポストの幹部は「メディア全体の信用が低下している中、悪影響を及ぼす」と懸念を表明しました(14日の朝日新聞記事)。「良識ある態度」のように見えますが、私はどちらの説明にも納得できません。

 この極秘文書の存在は、昨年の夏には一部の政治家や報道関係者の間で知られていたといいます。情報の内容からいって、報道機関が裏付けを取るのは極めて難しい代物です。が、CIAやFBIといった情報機関なら、その真偽の見極めは困難ではないでしょう。彼らは、必死になってその検証を試みたはずです。そして、調べた結果、現職と次の大統領に報告するに値すると判断したからこそ、情報機関の長官4人が顔をそろえて要約版を付けて報告したのです。

 ならば、大統領と次期大統領に報告したという事実を報道することのどこがおかしいのか。彼らが手にした重要な文書を主権者である国民が共有できるようにすることのどこがおかしいのか。権力者たちが「秘密にしておきたい」と考える代物を、報道機関が「裏付けできないので自分たちも内密に」と同調するのは、ジャーナリストとしての判断と責任の放棄ではないか。

 今回の事態は、米英がテロ対策の名の下にインターネットや有線・無線通信といったあらゆる分野で情報を収集している問題をスノーデンが暴露した時と同じ構図です。既存のメディアはその内容を知りながら権力者におもねり、沈黙し続けました。だからこそ、スノーデンは既存のメディアではなく、ウェブで発信しているジャーナリストに全情報を提供するに至ったのです。スノーデン事件は「メディアの主役が新聞やテレビからウェブに移行しつつあること」を鮮やかに示しました。今回のトランプ極秘文書報道は、それに次ぐ象徴的な出来事になるでしょう。

 この極秘文書は怪文書の類とは質的に異なります。調査の資金を提供したのは共和党主流派とクリントン陣営とされています。請け負ったのは民間の調査会社で、担当者も判明しています。ロイター通信によれば、英国の情報機関MI6や英外務省で働いた経験のあるクリストファー・スティールという人物です。ロシア通の諜報のプロです。文書を読めば、「だからこそ、これだけ迫力のある報告書をまとめることができたのだ」と納得がいきます。文書では、プーチン大統領がこのような工作に手を染めるのは「理念より国益に軸足を置いた19世紀型のグレートパワー政治を信奉しているから」と分析しています。時代錯誤の危険な政治家、との見立てです。

 不勉強で私は「バズフィード BuzzFeed」というメディアを知りませんでした。2006年にジョナ・ペレッティ氏によって設立されたベンチャーメディアで、2015年には「バズフィード・ジャパン」という日本法人を作り、2016年1月から日本語版の配信も始めています。日本語版の編集長は元朝日新聞記者の古田大輔氏と知りました。

 トランプ氏に「ゴミの山」と罵倒されたバズフィードのベン・スミス編集長は、極秘文書の全文公開に踏み切った後、次のようなコメントを発表しました。「この決断はジャーナリズムにおける透明性を担保し、持っている情報は読者に提供するという前提に基づいています。私たちの選択に賛成されない方もいると思います。しかし、この調査文書の公開は、2017年における記者の仕事とは何か、ということに関するバズフィードの考えを反映したものです」

 まともな考え方だ、と私は思います。取材の手法と報道のあり方は時代と共に変わる。変わらなければ、時代に置き去りにされ、やがて消えていくしかない。



≪参考サイト≫
◎ウェブメディア「バズフィード」の日本語版サイトに掲載された極秘文書の記事
https://www.buzzfeed.com/bfjapannews/these-reports-allege-trump-has-deep-ties-to-russia-2?utm_term=.dfLdKde2Gd#.asV6O6LAW6
◎極秘文書の全文(英語)
https://www.documentcloud.org/documents/3259984-Trump-Intelligence-Allegations.html
◎「バズフィード」の米国版サイト(英語)
https://www.buzzfeed.com/?country=en-us
◎米国版サイトの極秘文書に関する記事(英語)
https://www.buzzfeed.com/kenbensinger/these-reports-allege-trump-has-deep-ties-to-russia?utm_term=.qb3Q2QoyjQ#.bnwy6yB4ey
◎「バズフィード」の会社概要(日本語版ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89
◎「バズフィード」の会社概要(英語版ウィキペディア)
https://en.wikipedia.org/wiki/BuzzFeed


≪写真説明とSource≫
◎11日の記者会見時のトランプ次期大統領
https://www.buzzfeed.com/bfjapannews/these-reports-allege-trump-has-deep-ties-to-russia-2?utm_term=.nsr0d09rW0#.bwGp3p06Mp




*メールマガジン「風切通信 19」 2016年11月10日

 後世の歴史家は、ヒラリー・クリントン氏が敗れ、ドナルド・トランプ氏が勝った今回のアメリカ大統領選挙をどのように位置づけるのでしょうか。幾人かは「長かったアメリカの世紀が終わったことを世界に向けて告げた選挙」と記すのではないか。

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 メディアの多くは「大方の予想を覆してトランプ氏が勝利した」と伝えました。けれども、この表現には違和感を覚えます。確かに、米国内ではニューヨーク・タイムズをはじめとする多くの新聞が「クリントン支持」を打ち出し、各種の世論調査でも「クリントン優位」という結果が出ていました。が、世論調査での両候補の支持率の差はごくわずかでした。その差1ポイント台というのもありました。

 新聞記者時代に実際に何度か世論調査を担当した経験で言えば、1?2ポイントの差は「誤差の範囲内」です。それは「情勢は混沌としていて判断不能」と言うしかない調査結果です。もともと、投票箱を開けてみなければ何とも言えない情勢だったのであり、今回の場合、「予想を覆して」という決まり文句を使うのは適切ではない。そういう表現を使う記者の胸には「私たちメディアの期待に反して」という思いが潜んでいるのではないか。

 トランプ氏の主要な支持者は「アメリカ社会のエスタブリッシュメント(既得権層)に強い不満を抱く低所得の白人層」とされています。彼らにとって、ニューヨーク・タイムズなど主要なメディアは「既得権層」そのものであり、「世論調査などクソくらえ」と思って胸の内を明かさない有権者も多かったのではないか。トランプ氏が勝ったのは、そうした心理が強く働いたことを示唆しています。

 トランプ氏が大統領になったら、どんな政治をするのか。私も心配です。日本や韓国がアメリカの「核の傘」で守られていることを批判し、日韓の核保有まで容認するかのような発言を聞くと、「とんでもない人物がトップになってしまった」と思います。が、同時に「アメリカ国内にはトランプ氏のように考えている人がたくさんいるのだ」という現実をあらためて突きつけられた気もします。

 未来に希望があれば、人は理想や夢を追い求めます。希望が見えず、不満の種をためこめば、どうなるか。「昔は良かった」と思い出に浸り、古き良き時代を壊したものを攻撃することで溜飲を下げようとします。彼らは「アメリカの世紀が終わった」ことを認めたくないのです。トランプ氏は「再び偉大なアメリカに」というスローガンを掲げて、彼らの不満をすくい取ることに成功しました。しかし、歴史は冷厳です。「偉大なアメリカ」が同じような形で戻ってくることは決してないのです。

 20世紀は「戦争と革命の世紀」であり、「アメリカの世紀」でした。それまで「世界の覇者」として君臨していた大英帝国は、第一次世界大戦で疲労困憊し、第二次世界大戦で破産寸前に追い込まれました。戦後、英国は戦争中に発行した公債の返済に追われ、広大な植民地も次々に独立し、失いました。大英帝国の栄華が戻ってくることはありませんでした。

 アメリカはどちらの大戦でも、真珠湾や植民地フィリピンが戦火にさらされたことを除けば、国土が戦場になることはありませんでした。戦後、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国で石油利権を手にしたのもアメリカでした。政治経済や軍事、科学技術で頂点に立ち、莫大な富が流れ込みました。冷戦時代、まさに「西側の雄」でした。1991年にソ連が崩壊し、冷戦が終わった後は「唯一の超大国」と称されました。このころが栄華のピークと言っていいでしょう。

 栄えれば滅びの芽が育ち始めるのは世の常です。敗戦国の日本とドイツが灰の中から立ち上がり、「もの作り」でアメリカの優位を脅かす。産油国は石油輸出国機構(OPEC)を結成して利権の独占を阻む。中国やインドの台頭も「唯一の超大国」の地位を揺るがし始めました。「慣性の法則」が働きますので、アメリカの優位はもうしばらく続くでしょうが、元の立場に戻ることは考えられません。

 時に小さな逆流や揺り戻しが起きることはあっても、大きな歴史の流れを押しとどめることは誰にもできません。トランプ氏の勝利は、そうした「小さな逆流」の一つでしょう。ただ、アメリカという国家は巨大なので、歴史的に見れば「小さな逆流」ではあっても、日本を含め多くの国には「大きな衝撃波」となって跳ね返ってくるかもしれません。

 21世紀はどんな世紀になるのか。予測は困難ですが、少なくとも「アメリカの世紀」と呼ばれることはないでしょう。多極化、分極化が進むのは避けられません。今はただ、それが流血と戦争に至ることがないように、調整と和解の新しいシステムがつくりだされることを願うしかありません。単に願うだけではなく、そのためにできることを自分の持ち場でコツコツと積み重ねるしかありません。歴史は、より自由で、より公平で、より透明な世界に向かって進んでいる、と信じて。


≪参考文献≫
◎『覇者の驕(おご)り』(上、下)(デイビッド・ハルバースタム、日本放送出版協会)
◎『石油の世紀』(上、下)(ダニエル・ヤーギン、日本放送出版協会)
◎『東西逆転』(クライド・プレストウィッツ、NHK出版)
◎『アメリカ 多数派なき未来』(浅海保、NTT出版)

≪写真説明とSource≫
◎大統領選で当選を決め、ガッツポーズをするトランプ氏=ロイター・共同
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201611/CK2016111002000130.html




*メールマガジン「風切通信 18」 2016年11月7日

 絵画も陶磁器も、素人の私には正直言ってその価値や良さはよく分かりません。ただ、眺めるのは好きで、時折、強く惹きつけられ、心を揺さぶられることがあります。3年前、鹿児島県の薩摩焼の窯元(かまもと)、十五代沈壽官(ちん・じゅかん)さんの作品に初めて接した時もそうでした。象牙細工のような繊細な陶磁器を見て、「なんて美しく優雅なのだろう」と感じ入りました。

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 この時に沈壽官さんから、薩摩焼の歴史についてもお聞きしました。16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に2度にわたって出兵した際、諸藩の武将は撤収時に朝鮮半島の陶工や木綿職人、測量技師といった人たちを一種の戦利品として多数、日本に連れ帰りました。その数は5万人とも言われ、彼の先祖もその一人だったのです。彼らは先進技術を持つ者として厚く遇され、陶工たちは各地で窯を立ち上げました。薩摩焼だけでなく、有田焼や加賀焼、萩焼もこの時代に始まったとのことでした。

 その沈壽官さんがこの秋、盛岡市の百貨店「川徳」で個展を開くというので、盛岡を訪ねました。10月25日まで開かれた個展は大変なにぎわいで、ギャラリートークの際には椅子が足りなくなり、主催者側があわてて追加していました。彼のトークがまた味わい深かった。韓国にルーツを持ち、日本に根を下ろして生きてきた者として、沈壽官さんは両国の文化について、こんな話をしました。

「韓国の古い陶磁器としては、高麗時代の青磁があります。ところが、14世紀末に李氏朝鮮が成立すると、それまでの青磁は打ち捨てられ、以後は白磁一色になりました。それまでのものを否定して、新しいものを創っていく。否定と創造の文化です。日本はまるで異なります。自然災害から逃れられない社会だからでしょうか。日本人の心には無常観が染み込んでいます。そして、連綿として受け継いできたものを大切にして、それをより良いものにしていく。諦観と継承の文化と言っていいのではないでしょうか」

 興味深い文化論でした。そして、これと重なるような話を私の故郷、山形県朝日町のリンゴ農園経営者、崔鍾八(ちぇ・じょんぱる)さんから聞いたことを思い出しました。崔さんは、2018年に冬季五輪が開かれる韓国・平昌(ピョンチャン)生まれの46歳。23歳の時に日本に留学し、仙台の農業短期大学で学んでいる時に朝日町の「清野りんご園」の跡取り娘と知り合って結婚、リンゴ栽培専業の共同経営者として暮らしています。

 崔さんはカヌーが趣味で、私が主宰する地域おこしのNPO「ブナの森」のメンバーです。毎年夏に最上川の急流をカヌーで下るイベントを開催しており、その準備のために一緒に河川敷の草刈りをしたりしています。そうした作業をしながら、いろいろな話をするのですが、ある時、崔さんから韓国の言語事情について、こんな話を聞きました。

「韓国では漢字をほとんど教えていない。義務教育を終えた段階だと、自分の名前を漢字でやっと書ける程度です。それではいけない、と思ったのは日本に来てからです。例えば、学期末の試験のことを韓国語で『キマル・ゴサ』と言います。私は、ハングルで書かれたものを『音』として覚えて使っていましたが、日本に来て、それが『期末考査』のことだと初めて知りました。こうした日本語由来の言葉が韓国にはたくさんある。なのに、漢字を教えないので、そもそもの意味が分からないまま使っている。だから、言葉に深みがないのです」

 日本も韓国も、大昔に中国の漢字を導入して長い間使ってきました。日本はその漢字を崩して平仮名と片仮名を生み出しましたが、漢字もそのまま使い続けました。一方の韓国は、15世紀に漢字とは関係なく「ハングル文字」を生み出し、その後、歴史的な経緯もあって漢字を締め出して今日に至っています。現在の両国の言語状況もまた「否定と創造」、「諦観と継承」の一例のように思えてきます。

 歴代政権のトップが追いつめられ、断罪される韓国。一時は野に下ったものの自民党が息を吹き返し、権力を握り続ける日本。これも「否定と創造」、「諦観と継承」の一例かもしれません。


≪参考サイト≫
◎薩摩焼・十五代沈壽官の公式サイト
http://www.chin-jukan.co.jp/
◎清野りんご園(山形県朝日町)の公式サイト
http://www.47club.jp/07M-000037sre

≪写真説明とSource≫
◎十五代沈壽官の薩摩籠目総透筒型香爐
http://www.chin-jukan.co.jp/museumPreview.php?num=32&TB_iframe=true&width=520&height=500




*メールマガジン「風切通信 17」 2016年10月24日

 アメリカは厄介な問題をたくさん抱えている国です。傲慢さに腹が立つこともあります。けれども、米国発のこういう記事を読むと、「活力にあふれた、実に面白い国だ。この世界を良くするために闘う気概にあふれている」とあらためて感じます。

 「ヤクザ・オリンピック」と銘打った記事が米国のウェブ情報サイト「デイリー・ビースト」に掲載されたのは2014年2月8日(米東部時間)のことでした。ロシアのソチで冬季五輪が開催されているさなか、森喜朗・元首相がその直前に東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長に選出されたタイミングをとらえて、気鋭のジャーナリストが放ったスクープです。それは次のような書き出しで始まります。

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「米財務省は2012年9月、日本で2番目に大きい暴力団住吉会とその会長、福田晴瞭(はれあき)氏ら幹部に制裁措置を課した。これによって、米国内の彼らの資産は凍結され、米国の企業や団体は彼らと取引できなくなる。福田氏とその仲間は米国政府のブラックリストに載せられたが、日本オリンピック委員会(JOC)は彼らを『歓迎されざる団体』とは見ていないようだ。写真や文書、住吉会関係者の証言、警察筋によると、JOCの田中英壽(ひでとし)副会長は住吉会の福田会長とかつて昵懇の間柄(good friends)にあった。田中氏は日本最大の暴力団山口組や他の暴力団のメンバーとも交友がある」

「田中氏に加えて、森喜朗・元首相もヤクザと付き合いがあったとメディアで報じられている。彼は1月24日に東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長に就任した。警察筋は、この2人がヤクザと過去にどのくらい関わりがあったのか、現在どの程度のつながりがあるのかを調べている、と語った。安倍晋三首相は誘致の際、2020年東京五輪はクリーンで犯罪と無縁の大会になると約束したが、書籍や雑誌、ゲームソフトでのヤクザの人気ぶりを考えると、そのようなイメージは持てない。東京五輪は『ヤクザ・オリンピック』として、多くの観光客を惹きつけることになるのではないか」

 JOC副会長の田中英壽氏は日本大学の理事長です。日大相撲部の選手として学生横綱になり、相撲部の監督、日大常務理事を経て理事長に上り詰めました。1998年、福田晴瞭氏が住吉会の二代目会長を襲名し、ホテルニューオータニで襲名披露のパーティーを開いた際、田中氏はその祝いに駆けつけ、一緒に写真に収まっています。スポーツ界からの暴力追放をうたうJOCは、暴力団の会長襲名披露宴に出席するような人物を副会長に据えているのです。もう一人の森喜朗氏も暴力団との付き合いが長い。暴力団稲川会の会長らが主賓の結婚式に出席して来賓としてあいさつしていたことや大阪で暴力団の幹部と酒を酌み交わしていたことが週刊誌で報じられています。

 米国発の記事は、こうした日本国内での報道を警察関係者への取材で裏付けし、田中英壽氏と森喜朗氏の暴力団との付き合いが長くて深いものであることを明らかにしています。そして、東京五輪では開催に向けて巨額の公共事業が行われること、暴力団にとって土木建設工事は大きなビジネスチャンスであること、入札をめぐる情報をいち早く入手するために暴力団がJOCや五輪組織委とのコネを必要としていることを指摘しています。今日の東京五輪の競技会場建設をめぐる騒動や築地市場の豊洲移転をめぐる疑惑を見通していたかのような、鋭い記事です。

 この記事を書いたジェイク・エーデルスタイン記者は米国ミズーリ州の出身です。19歳で来日し、上智大学で日本文学を専攻した後、読売新聞に外国人初の記者として採用されました。社会部に所属し、日本の暴力団を徹底的に取材した記者です。山口組系の後藤忠政組長が米国で肝臓移植手術をするためFBIと取引していることをスッパ抜こうとして後藤組に察知され、家族ともども脅されたため読売新聞を退社して帰国した、と別の記事で明らかにしています。米国に拠点を移して、日本の裏社会を追い続けているのです。

 記事を掲載した「デイリー・ビースト」というウェブ情報サイトも面白い。直訳すれば「野獣日報」。編集長のモットーは「われわれはスクープとスキャンダル、秘められた物語を追う。ごろつきや頑固者、偽善者に立ち向かうことを愛する」。米国内で「ベストニュースサイト賞」を2度受賞しているだけのことはあります。

 当時、日本のメディアはこの記事を黙殺しました。転電したのは日刊ゲンダイだけだった、ということを前々回のコラムで紹介した『2020年東京五輪の黒いカネ』(宝島社)で知りました。こういう記事が出ると、「そんな裏の事情など知っていた。だけど、書けない事情があるんだ」とうそぶく記者がいます。立花隆氏が『文藝春秋』で田中角栄首相の金脈と人脈を暴露した時にそうであったように。しかし、書かない記者、書かれない記事には何の価値もありません。半ば周知の事実ではあっても、それをきちんと調べ、的確に書くことは大変なエネルギーと勇気を要することです。

 この記事が優れているのは、政治家とゼネコン、暴力団というトライアングルが持つもう一つの意味を暗示しているところにあります。政治家が一番恐れるのは、談合にかかわったり、入札情報を流したりしたことが発覚し、捜査の対象になって政治生命が危うくなることです。どんなに揉まれていても、ゼネコンの幹部や社員は堅気のサラリーマンです。検察官の前に引きずり出されて尋問されれば、動揺してしゃべってしまう恐れがあります。が、互いに暴力団を経由して情報をやり取りすればどうか。

 暴力団はもともと「法の支配」など気にしていません。検察官など怖くはありません。刑務所に行くことも厭いません。むしろ、箔が付くくらいです。情報を暴力団経由で流すことで発覚のリスクは格段に小さくなります。暴力団と付き合う政治家はそのメリットを十分に承知しているのです。暴力団が手に入れた資金を「マネーロンダリング」できれいにしようとするように、政治家は入手した事業計画や入札価格を暴力団経由でゼネコンに流して「情報ロンダリング」をしてきたのでしょう。

 森喜朗・元首相や石原慎太郎・元都知事といった面々はその効用をよく知っているからこそ、ゼネコンと暴力団の両方と付き合い、社会の表と裏を巧みに泳いできたと考えられます。このまま逃げ切れるか、それとも棺の蓋が閉まる前に悪事の数々が白日の下にさらされるのか。今回の騒動は伏魔殿・東京の改革などという枠を越えて、日本の政治や司法の成熟度、社会そのものの成熟度が試される機会となるのではないか。


≪参考サイト&文献≫
◎デイリー・ビーストの記事「ヤクザ・オリンピック」(英文)
http://www.thedailybeast.com/articles/2014/02/07/the-yakuza-olympics.html
◎ウィキペディア「福田晴瞭・住吉会会長」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%99%B4%E7%9E%AD
◎日本大学の公式サイトにある田中英壽理事長のプロフィール
http://www.nihon-u.ac.jp/history/successive/chairman_12.php
◎英語版ウィキペディア「The Daily Beast」
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Daily_Beast
◎The Daily Beast の公式サイト(英文)
http://www.thedailybeast.com/
◎日本語版ウィキペディア「ジェイク・エーデルスタイン」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
◎『2020年東京五輪の黒いカネ』(一ノ宮美成+グループ・K21、宝島社)


≪写真説明とSource≫
◎暴力団住吉会の福田晴瞭会長(右)の襲名披露パーティーに出席した田中英壽氏(左、現在はJOC副会長、日大理事長)
http://urashakai.blogspot.jp/2015/07/blog-post_22.html





*メールマガジン「風切通信 16」 2016年10月18日

 新潟県の知事選挙で野党3党の推薦を受けた米山隆一氏(医師、弁護士)が、自民党と公明党が推薦した森民夫氏(前長岡市長)を破って当選しました。米山氏の立候補表明は告示の6日前。一方の森氏は自民、公明の推薦に加えて連合新潟の支持も得て、早くから事実上の選挙戦を展開していました。各政党のいわゆる「基礎票」だけをみれば、誰がみても「森氏の楽勝」のはずでした。

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 選挙結果は、そうした事前の予想を覆しました。何が起きたのか。新聞各社が投票直後に実施した出口調査をみれば、それは明らかです。新潟県の柏崎刈羽(かりわ)原発の再稼働には有権者の6割が反対しています。普段、自民と公明を支持している有権者のかなりの部分が再稼働に反対する米山氏に投票したのです。「政党の基礎票をもとに考える」という従来の政治手法、選挙分析そのものが「大きなテーマ」が争点になった場合には役に立たないということを示しています。

 当選後に米山氏が発したメッセージは実に明快でした。彼は「原発再稼働に関しては、皆さんの命と暮らしを守れない現状で認めることはできない」と明言したのです。新潟県知事選は、原発の再稼働の是非という問題を越えて、実は「私たちの命と暮らしをどう守り、これからどのような道を切り開いていくのか」というより大きなテーマが問われた選挙だったのではないか。

 新聞各紙は「柏崎刈羽原発の再稼働が遠のけば、東京電力の経営再建が危うくなり、日本のエネルギー政策そのものが揺らぐ」といった解説記事を載せました。もちろん、そうしたことも重要なことですが、世の中には経済の効率や発電のコストよりもっと重要なことがあります。それは「私たちはどのような社会、どのような未来を望むのか」ということです。

 原子力発電について、政府与党も経済産業省も電力各社もずっと「日本では炉心溶融のような過酷事故はあり得ない」と言ってきました。「だから、広域の避難計画は必要ない」と主張してきました。そうした説明はすべて虚偽でした。しかも、そのように説明してきたことを心から謝罪し、進むべき道を根本から考え直そうとする政治家、官僚、経済人はほとんどいません。

 福島の原発事故の検証もまともにせず、放射性廃棄物をどう処理するかの目途も立たないのに、原発の再稼働と輸出にしゃかりきになる政治家、官僚、財界人。誰も責任を取ろうとしない。誰も改めようとしない。そんな政治でいいのか。そんな社会でいいのか。新潟県の有権者は「いいわけがない」という強烈なメッセージを発した、と言うべきでしょう。

 メディアは、日本のエネルギー政策や電力供給、経済全体への影響という面からの分析に力を入れがちです。もちろんそれも必要ですが、一人ひとりの心の在り様、未来への眼差しは実はもっと「大きなテーマ」なのではないか。それを的確に伝える記事が少なかったことに寂しさを感じたのは私だけでしょうか。

 心に浮かぶのは福島県の飯舘(いいたて)村の光景です。私が初めてこの村を訪れたのは2007年の晩秋のことでした。日本の町や村に残る伝統や文化に触れ、その魅力をあらためて見出すことを目指す「日本再発見塾」がこの村で開かれると知り、参加しました。飯舘は阿武隈山系の高原に広がる人口6000人ほどの小さな村ですが、高原の地形と気候を活かして畜産や野菜・花卉(かき)の栽培に取り組む元気な村でした。

 1989年に「一番きつい立場にある嫁を海外旅行に送り出す」という試みを始めた村としても知られています。「若妻の翼」と名付けられたこの事業は、稲刈りの準備が始まる初秋に行われました。「若い女性たちがどれだけ大きな役割を果たしているか。一番忙しい時期に送り出すことで分かってほしかった」と、当時の村長は語っています。19人がヨーロッパに旅立ち、その体験を綴った『天翔けた19妻の田舎もん』は、地域おこしに取り組む人々を大いに勇気づけました。

 5年前の福島原発事故で放射能に汚染され、この村が全村避難に追い込まれたことはご承知の通りです。苦しい中で、村民が力を合わせて取り組んできた様々な試みはすべて吹き飛ばされてしまいました。日本再発見塾に参加した時、私が宿泊させていただいた藤井富男さんの家族も住み慣れた土地を追われ、福島市のアパートで避難生活を始めました。事故の翌年、人影が消えた飯舘村を歩き、その帰りに藤井さんの避難先を訪ねました。「畑に出られなくなって、父ちゃんは元気ないです」と嘆いていました。

 原発事故は数万、数十万の人たちに藤井さんの家族と同じ苦しみを与え、今も与え続けています。それは避難に伴う補償金をいくら積もうと、償えるものではありません。福島から多くの避難者を受け入れ、支えてきた近隣の宮城や山形、新潟の人たちはその悲しみを肌で知り、一人ひとりが「原発って何なんだろう」とずっと考えてきたのです。その思いは、安全な東京で机に座って「エネルギー政策はどうあるべきか」とか「発電コストはどのくらいか」などと頭をひねっている政治家や官僚より、もっと切実なのです。

 せつないのは、この国にはそうした思いを受けとめる政党が見当たらないことです。自民党や公明党は現世利益にしがみつき、そっぽを向いています。民進党は今回の新潟県知事選で自主投票という名の「逃亡」をしました。終盤にドタバタと、蓮舫代表が米山氏の応援に駆けつけても「逃亡」の烙印は消せません。「大きなテーマ」に出くわすたびに、この政党はバラバラになって逃げ出してしまうのです。

 米山氏を推薦した3党はどうか。共産主義の実現を目指す政党に私たちの未来を託すことができるでしょうか。自由党? 代表の小沢一郎氏は東日本大震災と福島の原発事故で人々が苦しんでいる時に、被災地を訪ねるどころか東京から逃げ出す算段をしていた政治家です。社民党は「過去の政党」。私たちの思いを掬い取ってくれる政党はどこにも見当たりません。多くの人が深い悲しみをもって、投票所に足を運んだのではないか。


≪参考文献&サイト≫
◎ウィキペディア「米山隆一」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%B1%B1%E9%9A%86%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
◎米山隆一氏の公式サイト
http://www.yoneyamaryuichi.com/profile.html
◎『飯舘村は負けない』(千葉悦子、松野光伸、岩波新書)
◎「日本再発見塾」の公式サイト
http://www.e-janaika.com/index.html

≪写真説明とSource≫
◎新潟県知事選で当選した米山隆一氏
http://togetter.com/li/1037751



*メールマガジン「風切通信 15」 2016年10月15日
   
 石原慎太郎・元東京都知事の三男、石原宏高(ひろたか)代議士とは一度だけ、一緒に食卓を囲んだことがあります。昔の取材ノートを繰ってみると、2006年5月29日のパワーブレックファストの席でした。「忙しい人が昼もしくは夜に時間を取るのは難しい。朝なら集まりやすい」というので流行った朝の食事会でのことです。

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 主賓は、来日したフィリピンのデヴェネシア下院議長。当時、私はアジア担当の論説委員をしており、フィリピンの政情に詳しいジャーナリスト、若宮清氏に誘われて参加したのでした。会場はデヴェネシア氏が滞在していたホテルニューオータニの一室。6人ほどでテーブルを囲んだ記憶があります。この朝食会に宏高代議士も同席していました。

 話題の中心はフィリピンの内政で、英語での懇談でした。宏高氏は政治家になる前、日本興業銀行のニューヨーク支店やバンコク支店で勤務していますので、英語での会話にも不自由しなかったはずですが、終始寡黙でほとんど発言しませんでした。食事の前後に記した取材メモにも「昭和39年6月19日生まれ、41歳。東京3区選出の衆議院議員。石原慎太郎の3男坊」などの略歴以外、何も記述がありません。

 それでもこの会食のことを覚えていたのは、宏高代議士がずっとオドオドしていたからです。かすかながら、目には怯(おび)えのようなものがありました。気楽な朝食の席なのに、なんでそんな目をしているのか。当時は「父親の石原慎太郎氏が立ち上げた新銀行東京がらみで、苦労しているのかな」くらいに考えていました。けれども、最近明らかになった東京都をめぐる様々な疑惑を調べていくうちに、その怯えの一端が分かったような気がしました。彼が足を踏み入れた東京の闇はとてつもなく深く、暗いものだったのではないか。

 石原宏高代議士をめぐるスキャンダルで一番有名なのは「森伊蔵疑惑」です。彼は2005年9月11日投開票の総選挙で初当選しました。その直後、9月14日の夜に銀座の老舗料亭、吉兆でその当選祝いの会が開かれました。呼びかけ人は、三重県の中堅ゼネコン水谷建設のオーナーで「平成の政商」として知られる水谷功氏です。祝いの会には宏高代議士に加えて父親の石原慎太郎氏も招かれ、富豪の糸山英太郎氏も同席しています。この時に鹿児島の芋焼酎「森伊蔵」の箱に詰めて2000万円の祝い金が手渡された、とされる疑惑です。これは資金を提供した関係者の間でゴタゴタがあって表面化したものの、証言が食い違ったこともあってうやむやのまま蓋をされてしまいました。

 宏高氏の選挙区は東京3区です。品川区と大田区の一部、小笠原諸島などが地盤で、昔ながらの町工場が多いところです。石原慎太郎都知事の主導で2005年4月に新銀行東京が設立されるや、宏高氏の選挙区にある中小企業からは融資の申し込みが殺到し、どさくさの中で詐欺師や暴力団関係者も新銀行東京の金に群がりました。森伊蔵の箱が手渡された頃、新銀行東京はすでに「金のむしり取り合戦の場」になっており、宏高氏は困惑と混乱の中にあったと思われます。

 宏高氏は「選挙が弱い」ことで知られています。そういう政治家には「折り目正しいスポンサー」は付かないものです。有象無象が集まってきます。宏高氏の選挙を支えたグループ、大手パチスロメーカー「ユニバーサルエンターテインメント(UE)」もそうしたスポンサーの一つです。2009年の総選挙で宏高氏が落選すると、UEは彼の妻が代表を務める会社に毎月100万円のコンサルタント料を払って、落選中の活動と生活を支えました。

 UEの創業者、岡田和生氏は高額納税者日本一になったこともある大富豪です。日本国内でのビジネスに加えて、フィリピンで巨大なカジノリゾートの建設を進めており、石原慎太郎・宏高親子が2010年6月にマニラを訪問した際には、石原親子に先立ってマニラに入り、訪問の地ならしをしています。石原親子は日本でのカジノ解禁を熱心に唱えており、持ちつ持たれつの関係にあったことを示しています。

 一ノ宮美成氏ら関西在住ジャーナリストの共著『2020年東京五輪の黒いカネ』によると、このフィリピンでのカジノリゾート計画をめぐって、UEの岡田氏はカジノライセンスの取得がらみで4000万ドルをフィリピンに送金し、そのうちの1000万ドル(約10億円)を日本に還流させたことが明らかになっています。そして、その金は日本での政界工作に使われ、一部は石原慎太郎氏に流れた疑いがある、というのです(p204)。与野党の政治家が「日本でのカジノ解禁」に熱を上げる裏ではそうした工作が行われており、石原親子もその渦にドップリと漬かっていたということです。

 築地市場の豊洲移転や東京五輪がらみの大規模な公共事業をめぐって、日本の政治家や企業が黒幕や暴力団まで巻き込んで、どのような利権争奪戦を繰り広げているのか。前掲書には、日本オリンピック委員会の竹田恒和会長(旧皇族竹田家の出身)や皇族と旧皇族でつくる親睦団体「菊栄親睦会」の存在、この親睦会を支えるゼネコンの鹿島、日本生命、裏千家、和歌山県の世耕一族(世耕弘成参議院議員の一族)の思惑、彼らを取り巻く右翼団体の人脈も紹介されていて、その叙述は迫力満点です(p47)。

 東京都知事の交代によって、蓋をされていた「東京の闇」に少しずつ光が当てられ、患部の摘出が始まろうとしています。親の七光りを浴びて若くして代議士になった宏高氏は、当選した直後から、こうした東京の深い闇の中に叩き込まれ、身悶えしていたのではないか。怯えたようなあの目はその苦しみを映し出していた、と今にして思うのです。


≪参考文献&サイト≫
◎『2020年東京五輪の黒いカネ』(一ノ宮美成+グループ・K21、宝島社)
◎石原宏高代議士の公式サイト
http://www.ishihara-hirotaka.com/
◎ウィキペディア「水谷建設」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%BB%BA%E8%A8%AD
◎ユニバーサルエンターテインメントの公式サイト
http://www.universal-777.com/corporate/
◎英紙フィナンシャル・タイムスの電子版記事「日本のパチンコ王がフィリピンでのカジノ建設に挑戦」(2016年6月11日)
https://courrier.jp/news/archives/53985/
◎日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長のプロフィール(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%81%86%E5%92%8C
◎ウィキペディア「菊栄親睦会」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%A0%84%E8%A6%AA%E7%9D%A6%E4%BC%9A


≪写真説明とSource≫
◎石原宏高代議士
http://www.t-hamano.com/cgi/topics2/topics.cgi







*メールマガジン「風切通信 14」 2016年10月7日

 いつ、誰が豊洲新市場の建物の下に盛り土をしないと決めたのか。小池百合子・東京都知事は先週、都職員による自己検証報告書を発表し、責任者を「ピンポイントで指し示すのは難しい」と述べました。なぜ難しいのか。実は、それを決めたのは当時の石原慎太郎都知事とその取り巻きであり、都庁の幹部や職員は決定の理由と背景を知らされていなかったからではないのか。今週発売の週刊誌『サンデー毎日』がその内実を詳しく報じています。

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 『サンデー毎日』のトップ記事「豊洲疑惑の核心! 石原都政の大罪」は、都庁幹部やOBに取材し、「盛り土の設計変更を言い出したのは、石原慎太郎都知事を支えていたメンバーです」との重要な証言を引き出しています。なぜ、設計の変更が必要になったのか。その背景にあったのは、石原氏が立ち上げた新銀行東京の経営破綻だったというのです。

 新銀行東京は、石原氏が「金融機関の貸し渋りに苦しむ中小企業を救済する」と唱えて立ち上げた「官製銀行」です。東京都が1000億円を出資して2005年4月に発足しました。当初から、「バブルの崩壊後、景気が低迷して既存の銀行ですら苦しんでいるのに、役人がつくる銀行がうまくやっていけるわけがない」との批判が噴出しました。が、石原氏は「東京から金融改革を果たす」と反対論を押し切りました。

 石原氏の政策と発言はいつも威勢がいい。けれども、誠実さと慎重さを欠くので、しばしば破綻する。新銀行東京も発足から3年で不良債権の山を抱えることになりました。経営不振の企業や詐欺師まがいの輩が国会議員や都議の口利きで次々に融資を申し込み、踏み倒したからです。これで軌道修正するなら救いがありますが、石原氏はさらに400億円もの追加出資をして傷口を広げ、厳しい批判にさらされました。

 土壌汚染を解決するため、豊洲新市場の予定地全体に盛り土をしなければならないとの専門家会議の提言が出されたのはこの頃です。費用はまたもや1000億円余り。盛り土工事をそのまま実行したら、都政への逆風は強まり、ダメージは計り知れない。そこで、都知事とその取り巻きで「設計の変更による経費の削減」へと突き進んでいった、と記事は伝えています。

 たとえ都知事からそうした指示が出されたとしても、「食の安全を損なうような設計の変更はすべきでない」と進言するのが都庁幹部の役割でしょう。ですが、石原都政の下でそのような進言をすることは即、更迭を意味していました。トップも側近も強面ぞろい。「金満自治体」の東京都にそうした気骨のある幹部を求める方が無理でした。都議会与党の自民党と公明党は一蓮托生の関係、野党民主党の一部もすり寄り、議会はチェック機能を果たせませんでした。

 せめて、「設計を変更して主な建物の下には盛り土はしない」と正直に発表していれば、救いようもありました。ところが、当時の政治情勢がそれを許さなかった。2007年の参院選で民主党が大勝し、2009年の都議選と総選挙でも自民党は大敗しました。「盛り土をしない」などと発表しようものなら、築地市場の移転に反対していた陣営が勢いづき、市場の移転計画そのものが頓挫してしまう。知事と周辺はそれを恐れて「盛り土せず」を覆い隠してしまった――というのが『サンデー毎日』の報道です。

 見出しの謳い文句に偽りはなく、文字通り「疑惑の核心をつく」優れた記事ですが、実はこの週刊誌が発売される数日前に、私は山形県立図書館で偶然、築地市場の移転や新銀行東京の問題をえぐった本に出くわしました。『黒い都知事 石原慎太郎』(宝島社)という本です。東日本大震災の直前、2011年1月の出版。執筆したのは、関西を拠点とする一ノ宮美成(よしなり)氏とグループ・K21というジャーナリスト集団です。

 この本は、羽田空港の沖合拡張工事をめぐる黒い利権疑惑から説き起こし、石原慎太郎氏と大手ゼネコン鹿島(かじま)のつながり、鹿島と指定暴力団・住吉会との関係を詳述した後、石原氏がなぜ「築地市場の豊洲への移転」に固執したのかを大きな文脈の中で活写しています。鈴木俊一都知事時代に始まった臨海副都心開発の失敗で、東京都は8000億円もの借金を抱え、臨海開発の事業会計は大赤字に陥っていた。築地市場を豊洲に移転し、都心の一等地であるその跡地を民間に売却すれば赤字を一挙に解消できる。それで移転に固執した、というのです。

 東京五輪の誘致も同じような動機とされています。オリンピックを起爆剤にして各種スポーツ施設や環状2号線の建設を進め、臨海副都心の開発を軌道に乗せて東京再生へとつなげる、という発想です。かつて田中角栄首相が唱えた「日本列島改造」の東京版ともいうべき構想。それを経済が右肩下がりになった時代に無理やり推し進め、政治家やゼネコンが利権漁りに躍起になったことが、今日の豊洲市場や東京五輪をめぐるスキャンダルにつながっている、というわけです。

 大言壮語の裏で利権漁りに走り回り、疑惑が表面化するや逃げ回る。そのような政治家が国会議員として肩で風を切り、東京都知事として13年間も君臨していたのかと思うと、怒りより情けなさが募ります。石原慎太郎氏の公式サイト「宣戦布告」に、彼が政界を引退した際の挨拶文が載っています。

「見回して見ると世界の中で今の日本ほど危うい立ち位置におかれている国はないような気がしてなりません。(中略)他力本願で贅沢を当たり前のこととするような心の甘えを払拭していかないとこの国は立っていけないのではないでしょうか」(2014年12月)

 盗人猛々(たけだけ)しい、とはこういう時に使う言葉でしょう。



≪参考記事、文献、URL≫
◎週刊誌『サンデー毎日』10月16日号の記事「豊洲疑惑の核心! 石原都政の大罪」
◎『黒い都知事 石原慎太郎』(一ノ宮美成+グループ・K21、宝島社)
◎石原慎太郎公式サイト「宣戦布告」
http://www.sensenfukoku.net/

≪写真説明とSource≫
◎石原慎太郎氏(2007年2月6日)
http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/23/sakaicity-ishihara-yaji_n_3979408.html



*メールマガジン「風切通信 13」 2016年9月30日
  
 大阪府と大阪市による二重行政の無駄と非効率を批判して「大阪都構想」を推し進めた橋下徹氏は、その言動から判断して「保守の政治家」に分類していいでしょう。東京の改革を訴えて都知事選に勝ち、築地市場の移転と東京五輪開催費用の検証に乗り出した小池百合子氏はもともと自民党の代議士ですから、間違いなく保守の政治家です。

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 東京と大阪。日本の核ともいうべき二つの大都市の改革がいずれも保守政治家の手で推し進められつつあるのは、今の日本の政治状況を端的に表しています。この国の変革を牽引するのは、かつて「革新」と呼ばれた政治勢力ではなく、保守の指導者だということです。皮肉なめぐり合わせのように思えますが、過去半世紀の歩みを振り返ってみれば、当然の帰結だったような気もします。

 かつての「革新陣営」の主体は、社会党と共産党でした。平和と護憲の旗印を掲げ、自民党の政権運営を「大企業中心」と批判し、働く者のための政治を訴えてきました。国際情勢や国家の安全保障は二の次、三の次。市場経済の厳しさと激しさも意に介さず、自民党と大企業の批判を繰り返していれば済んだのです。社会党の土井たか子委員長(1986ー1991年)が北朝鮮の日本人拉致について、「社会主義の国がそんなことをするはずがない。拉致は創作された事件」と断言したのは象徴的な出来事でした。

 1970年代に学生生活を送った私は、キャンパスで共産主義に触れ、マルクスや毛沢東の著作を熟読した人間の一人です。新聞記者になってからも「革新陣営の応援団」のような気分で取材していました。それが徐々に変わっていったのは、社会の現実に触れ、選挙取材で生身の政治家に触れるようになってからです。自民党には、清廉な政治家はほとんどいない。言うことにも理路整然としたところはない。けれども、懐の深い人が多く、何よりも「人々の心の襞(ひだ)」をよく理解していると感じました。人間として魅力を覚える人もいました。

 一方、革新陣営の政治家はどうだったか。その主張は自分の考えに重なるものでした。訴えていることも、もっともらしい。ですが、どこか虚ろで、深さが感じられない。人間味も足りない。何よりも、この国の政治を担い、社会を変えていくという気概が感じられませんでした。労働組合や左翼的な人たちが主な支持層で、それを越えて共感を広げていくことができませんでした。「恵まれない人々のための政治」を唱えながら、本当に苦しんでいる人たちに寄り添うことが十分にできなかった、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 インドやアフガニスタンで取材を重ねたことも、「政治とは何か」を考えるうえで貴重な体験でした。カースト差別に打ちのめされ、宗教の違いを理由に暴虐の限りを尽くされる人々に出会って思ったのは「日本はなんて牧歌的な、恵まれた社会なんだろう」ということでした。民族と部族、宗教と宗派で分断され、いつまでも戦い続けるアフガンの人々からは「生き抜くことの厳しさ」を教えられたような気がします。抜け目なく考え、振る舞わなければ生きていけない社会でした。

 1995年にインドから帰国してみると、日本では政党の再編が花盛り。自民党と社会党の五五年体制は崩れ、合従連衡が始まっていました。名前を覚えきれないほどの政党の乱立と消滅。2009年の民主党政権の誕生はその一つの帰結とも言えるものでした。この時に民主党が掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンは、日本の社会が向かうべき方向をある意味、的確に示していたのではないか。

 惜しむらくは、その政権を担う政治家たちに「1億2000万人の国家」を率いる責任の重さへの自覚がまるでなく、変革を推し進める覚悟も欠落していたことでした。大規模な公共事業の見直しは腰砕け。事業仕分けをつかさどった蓮舫氏は「2番じゃダメなんですか」と子どもじみた妄言を吐く始末。東日本大震災という未曽有の災害に襲われ、危機管理能力のなさを完膚なきまでに露呈してしまったのは不運でもあった、と言うべきかもしれません。

 実際に政権を担うことで、変革を唱えてきた政治家たちの力量と本性が露わになり、その政治勢力は瓦解してしまいました。民進党と名前を変えてみても、体質は変わりようがないでしょう。息も絶え絶えだった自民党は勢いを取り戻し、今や「一強多弱」の様相。あれだけの原発事故を経験しながら教訓とすることもなく、なお原発の再稼働と輸出をもくろむ政治家と政治は「羅針盤が壊れてしまった船とその操舵手」と言うしかありません。それに乗り合わせた恐ろしさ。日本は進むべき道から大きく外れ、厄災への道を静かに歩んでいる、と感じます。

 もはや「保守と革新」という区分けは意味がない。海図なき航海をしなければならない今という時代に、イデオロギーなど何の役にも立ちません。私たちは、進むべき道からどれほど外れてしまったのか。未来にどんな厄災が待っているのか。まず、それをしっかりと見つめなければなりません。そして、覚悟をもって患部に切り込まなければなりません。

 小池都知事は、東京五輪の準備作業や築地市場の移転問題になぜ、あのように果敢に挑むことができるのか。それは、東京選出の自民党代議士として、東京を舞台にして蠢く政治家や経済人の動きをつぶさに見て、その実態と闇の深さを知っているからでしょう。森喜朗・元首相や内田茂都議らがその闇の奥で何をしていたのか。石原慎太郎・元都知事が息子の伸晃代議士や宏高代議士かわいさから、どのように泥にまみれていったのか。詳細はともかく、その輪郭を知っているからこそ、「勝機がある」とみたのではないか。

 一人の政治家がその政治生命をかけて、東京の闇の切開手術に踏み切ったのです。心あるジャーナリストなら、その患部を照らし出す仕事をしてみてはどうか。まだ志を捨てていない検察官がいるなら、闇に蠢く人間たちを裁きの場に引きずり出す算段をしてみてはどうか。



≪写真説明とSource≫
◎東京五輪組織委員会の森喜朗会長
http://cyclestyle.net/article/2015/12/18/31004.html




*メールマガジン「風切通信 12」 2016年9月16日

 中国の有名な故事に「人間万事、塞翁(さいおう)が馬」というのがあります。何が幸運をもたらし、何が災いを招くのか、人知の及ぶところではないという教えです。舛添要一・前都知事の政治資金のせこい使い方に端を発した東京都のスキャンダルは、舛添氏の辞任から都知事選、選挙での自民党の分裂と小池百合子氏の圧勝という結果をもたらしました。

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 その過程で、東京都を牛耳る「都議会のドン」内田茂都議の醜聞や内田氏と昵懇の間柄にある森喜朗・元首相の役割を炙り出し、2020年東京五輪をめぐる利権疑惑や豊洲新市場への移転をめぐる不可解な経緯が次々に暴露されるに至りました。すべては、政治資金を使って千葉・木更津の温泉リゾートに家族旅行に行くような「舛添氏のせこさ」が引き金になって表沙汰になったものです。納税者にとっては、まさに「万事、塞翁が馬」であり、ここは舛添氏に「ありがとう」と言ってもいい場面ではないでしょうか。

 疑惑追及の焦点は、招致活動時の予算7300億円が2兆円を超えるまでに膨れ上がった東京五輪の開催準備費用と、首都圏の台所「築地市場」の豊洲移転問題の二つに絞られてきました。そして、築地市場の豊洲移転は環状2号線の建設工事と密接不可分の関係にあります。この道路は築地市場を貫いて造られ、東京五輪の選手村と主な競技場を結ぶ幹線道路になる予定で、なんとしても市場を豊洲に移転させなければならないのです。つまり、二つの疑惑は「東京五輪の開催準備」という問題に収斂していくのです。

 週刊文春9月1日号によれば、環状2号線の「虎の門ー豊洲間 5キロ」の総事業費は4000億円と推定され、1キロ800億円もの血税が投じられる超贅沢道路です。その工事を受注した中堅ゼネコンのナカノフドー建設(千代田区)や鹿島道路(文京区)はいずれも、内田茂都議が代表をつとめる政治資金団体に名誉会長が献金したり、幹部が内田氏の長女の結婚披露宴に出席したりする間柄、と報じられています。

 利幅の大きい公共工事を受注し、そのおこぼれのような金を政治家に届ける。政治家はそうした金をかき集めて権勢を振るう。昔ながらの利権構造が日本の首都、東京に温存されていることに驚きます。移転先の豊洲新市場の土壌汚染対策をめぐる「盛り土騒動」の背後にも、似たような構図が見え隠れしています。

 もとは東京ガスの製造工場跡地。そんな所に食品を扱う新市場を造るという構想そのものに無理があるのですが、ベンゼンなどの有害物質で汚染された土壌を削り取って盛り土をし、4.5メートルの厚さの土で封じ込める、というのが専門家会議の提言でした。が、専門家の見識など吹き飛ばされ、実際に工事をするゼネコン側の都合で設計図が引かれ、入札・落札されていった経過が徐々に明らかになりつつあります。

 醜悪きわまりないのが石原慎太郎・元東京都知事の言動です。なされるべき盛り土がなされず、建物の下に「謎の地下空間」があることが判明すると、石原氏はテレビのインタビューに「私はだまされた。(盛り土を)したことにして予算措置をしていた。都の役人は腐敗している」とまくしたてました。

 ところが、なんのことはない、石原氏本人が2008年5月10日の定例記者会見で「(盛り土より)もっと費用のかからない、効果の高い技術を模索したい」と口火を切り、「地下空間」づくりの地ならしをしていたことが分かりました。それどころか、石原氏は当時の東京都中央卸売市場の比留間(ひるま)英人・市場長に対して「こんな案(地下にコンクリートの箱を埋める案)がある。検討してみてくれ」と直接、指示していたことまで判明したのです(9月16日、東京新聞電子版)。

 こうしたことが明るみに出るや、石原氏はさらに「私は素人だからね。全部、下(都の職員)や専門家に任せていた。建築のいろはも知らないのに、そんなことを思い付くわけがない」と釈明し、「東京は伏魔殿だ」と言い放ちました。何という品性の持ち主であることか。東京都知事として13年間も、自らが伏魔殿の主であったことをすっかり忘れてしまったようです。この破廉恥さに比べれば、舛添氏の振る舞いなど、かわいらしく見えてきます。

 人間万事、塞翁が馬。この際、日本の首相や東京都の知事として権力を振るった政治家たちがどのような品性の持ち主なのか、可能な限り明らかにしてほしい。そして、私たちの悲しい首都、東京にたまった膿を切開手術で取り除き、もっとまともな街にして、2020年の祭典を迎えたい。



≪参考記事&サイト≫
◎週刊文春9月1日号の記事「都議会のドン内田茂と4000億円五輪道路」
◎日刊ゲンダイ電子版「豊洲新市場『盛り土案潰し』真犯人は石原元都知事だった」(9月15日)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/189920/2
◎東京新聞電子版「コンクリ箱案 石原氏が検討指示」(9月16日)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016091690070606.html

≪写真説明とSource≫
◎豊洲新市場の「盛り土」問題で釈明する石原慎太郎氏(東京新聞電子版)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016091690070606.html



*メールマガジン「風切通信 11」 2016年8月25日

 マーケティングとは、顧客が本当に求めている商品やサービスを的確につかみ、それを効果的に提供すること。それに沿って考えれば、昨今、日本ではやりの「おもてなしの心」だけでは外国人観光客を呼び込むのは難しい。では、何が必要なのか。人は旅に出て、何に心を揺さぶられるのか。それをすくい取る知恵が求められている――。

 そんなことを思ったのは、日本を拠点に中国情報を発信しているジャーナリストの莫邦富(モー・バンフ)さんの話を聞いたからです。伊豆半島でのセミナーに一緒に参加した後、帰りのバスの中で、莫さんからこんな話を聞きました。

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「山梨県の観光アドバイザーとして甲府を訪ねたら、どこへ行っても武田信玄と風林火山の話ばかり。日本人にとっては馴染み深い人物と旗印なのでしょうが、中国人の観光客には興味が湧かない。それよりは、山梨側から見る『湖に映える富士山』の方がずっといい。静岡側からの見慣れた富士の姿とも違って、魅力的です。東京から近いことも利点。そこから『週末は山梨にいます』という新しいキャッチフレーズが生まれ、訪れる外国人観光客が大幅に増えたのです」

「高知県に招かれたら、今度はどこへ行っても坂本龍馬。桂浜に行けば、龍馬の銅像。はりまや橋でも龍馬・・・。でも、中国人はそもそも知らないんです、坂本龍馬という人物を。知らない人を何度も紹介されてもつらい。それより、桂浜から眺める雄大な太平洋こそ、中国の人に見せたい。中国大陸には、美しい砂浜の先に大海原が広がるこうした風景はほとんどないんです」

「高知県には『日本最後の清流』と言われる四万十(しまんと)川があります。この川も中国人観光客には興味が湧かない。黄土色した中国の大河に比べれば、日本の川はどこへ行ってもきれいで、あちこちに清流があります。わざわざ高知に行くまでもありません。それよりも、四万十川で獲れる『ツガニ』の方がずっと嬉しい。これは上海ガニの仲間。しかも天然です。日本の秘境で天然の上海ガニを食べる―――これなら、中国から観光客を呼ぶことができます」

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「足摺岬もいい観光スポットです。ただし、高知市からバスで3時間もかかって退屈する。『途中に立ち寄るところはないの』と聞いたら、四万十町に廃校を活用したフィギュアの博物館があるという。行ってみたら、山奥にすごい博物館があって、日本人観光客もわんさと押し寄せている。なんだ、あるじゃないの、とびっくりしました」

 この博物館は、模型や食品玩具の専門メーカー「海洋堂」(本社・大阪府門真市)が2011年にオープンさせた「海洋堂ホビー館四万十」です。フィギュアファンのみならず、模型好きにとっては「聖地」のような存在なのだとか。海洋堂の創業者が高知県出身という縁もあって建設されたようです。莫邦富さんは「中国でも農村の過疎は深刻な問題の一つです。そういうことに関心のある人にとっても、この博物館は興味深く、人気を集めるはず」と言います。

 中国からは毎年、かなりの数の観光客が来日しており、リピーターは「あまり知られていない日本」を知りたがっているようです。キーワードの一つは「秘境」。ただし、四万十川の例に見るように、日本人とは異なる視点が必要です。清流は魅力にならない。「ツガニ(上海ガニ)」や「ホビー館」のようなものが欲しい。いくつか組み合わせて、麻雀で言えば、役を二つも三つも付け加えるような工夫が必要です、と莫さんは言います。

 「秘境」ということなら、わが故郷の山形は断然、有利です。莫さんもすでに何度か来たことがあるそうで、「掘り起こせば、中国人観光客を惹きつけられそうな観光スポットがいくつも見つかりそうですね」と乗り気でした。ところが、私が「蔵王の樹氷なんかどうでしょう?」と水を向けると、莫さんは言下に「あれは駄目です」とのご託宣。「つらい体験を思い出すから」と言うのです。

 莫さんは、私と同じ1953年の生まれ。上海生まれの都会っ子です。この世代は文化大革命の真っただ中で青春を迎え、その嵐に翻弄された人たちです。文革中、都市部の若者を農村に送り込む、いわゆる「下放(かほう)運動」が大々的に展開されました。労農の団結という革命思想を叩き込むため、とされました。莫さんは中国東北部の黒竜江省の農村で若き日々を送ったのです。

 「あの厳しい寒さは忘れられない。氷点下の蔵王に樹氷を見に行く気には、とてもなれません」と、莫さんは言うのです。なるほど、外国から観光客を誘致するためには、そういう歴史にも目配りしなければならないのか。マーケティングと一口に言うけれど、やはりどの世界も奥が深く、難しい。



≪参考サイト≫
◎土佐のツガニについて(「旬どき・うまいもの自慢会・土佐」のサイト)
http://tosa-no-umaimono.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_57c9.html
◎四万十町のフィギュア博物館「海洋堂ホビー館四万十」
http://buzzap.jp/news/20150301-kaiyodo-hobby-kan-shimanto/
◎莫邦富さんの公式サイト
http://www.mo-office.jp/

≪写真説明とSource≫
◎四万十川でのシラスウナギ漁(「ファインド トラベル」のサイト)
http://find-travel.jp/article/38544
◎土佐のツガニ(札幌を刺激するウェブマガジン「sappoko」から)
http://sappoko.com/archives/18899





*メールマガジン「風切通信 10」 2016年8月14日

 最上川をカヌーで下る地域おこしを始めた時から、「いつか最上川の源流を訪ねてみたい」と思っていました。なかなか機会がなかったのですが、最上川の源流部に「秘湯中の秘湯」があると知り、思い切って車で行ってきました。福島県境に近い米沢市の大平(おおだいら)温泉というところです。

 この大平温泉には、宿は1軒しかありません。米沢の市街地を抜け、車で山道をたどって40分ほど。尾根に駐車場があり、そこに車を停めて、あとは徒歩で渓流に下りていきます。急な坂道を20分ほど歩くと吊り橋があり、その先に目指す「滝見屋」がありました。玄関先に掲げられた由緒書には「貞観2年(西暦860年)、清和天皇の御宇(ぎょう)に修行僧によって発見された」と記してありました。江戸時代には湯治客用の宿があったといいますから、とても古い温泉宿です。


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 雪深いところです。11月上旬から4月下旬までは雪に埋もれるので、営業できません。宿のスタッフの今井正良さんによると、4月の初めから再開の準備を始めるのですが、その時期でも積雪が2メートルほどあるそうです。雪の重みで吊り橋が壊れてしまう恐れがあるので、晩秋に吊り橋の床板を外しておくのだとか。厳冬期の積雪は5メートルを超えるでしょう。

 その吊り橋を覆うようにモミジの枝が伸びていました。なんと、8月の上旬というのに、その一部が早くも朱に染まっていました。8月の紅葉を見たのは生まれて初めてです。「日本で一番紅葉が早い」とされる北海道大雪山の温泉宿でも、色づき始めるのは9月上旬ですから、最初はわが目を疑いました。宿の標高は1000メートルほど。渓流を流れる冷たい水が木々の冬支度を早めているのかもしれません。

 宿には電線も電話線も来ていません。自家発電で明かりをとり、衛星電話で外部とつながっています。谷底なのでテレビの電波も届きません。宿の案内書には「快適さを求めるお客様にはほかの宿をお勧めしています」とあり、奥ゆかしい。滝と渓流を眺めながら湯量豊かな露天風呂につかり、ボーッとするには最適の宿です。だだし、渓流が大きな音を立てて流れていますので、寝つきの悪い人には不向きでしょう。

 「よくぞ、この宿を維持してきたものだ」というのが率直な感想です。女将の安部綾子さんにお聞きすると、やはり並大抵の苦労ではありません。秘湯と呼ばれる宿でも、たいていは玄関先まで車を付けることができるので、業者に注文すれば、食材も酒類も車で届けてくれるのですが、この宿は自力で買い出しをして運ぶしかありません。予約も米沢市内の本宅の電話で受け、宿には衛星電話か無線で伝えています。東日本大震災と原発事故の後は、「福島を通って行かなければならないので」と敬遠され、予約は半減したそうです。

 それでも続けてこられたのは、代々営んできた宿を大切にしたいという思いと、「支えてくださる方がたくさんいらっしゃるから」と、綾子女将は言います。地元の人たちがスタッフとして支え、常連客は「客が少なくて困ったら電話して。いつでも行くから」と言ってくれる。言うだけでなく、本当にやって来る。大平温泉は本当の秘湯です。本物には、やはり人を惹きつけてやまないものがあるのでしょう。

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 山道に薄紫色の花が咲いていました。宿の料理を作っている佐藤きよ子さんに尋ねると、「フジバカマ(藤袴)ですよ」と教えてくれました。源氏物語に登場する藤袴がこういう花だと、初めて知りました。山菜料理の腕を磨きながら、きよ子さんは山野草のことも学び続けているのです。訪ねた人の心が安らぎ、和らぐ、すがすがしい宿でした。

≪参考サイトと文献≫
◎大平温泉・滝見屋のサイト
http://takimiya.blogdehp.ne.jp/
◎「日本秘湯(ひとう)を守る会」のサイト
http://www.hitou.or.jp/
◎ガイドブック『日本の秘湯』(日本秘湯を守る会編)

≪写真説明とSource≫
◎吊り橋を覆うモミジの紅葉(8月9日、長岡昇撮影)
◎大平温泉の山道に咲いていたフジバカマ(同)




*メールマガジン「風切通信 9」 2016年8月11日

 リオ五輪のカヌースラローム競技で、羽根田卓也選手が銅メダルを獲得しました。日本人がカヌー競技でメダルを獲得するのは初めてです。カヌー選手だった父の指導で小学3年生からカヌーを始め、高校時代には早朝から自転車で川に通って練習、放課後にまた川に戻って夜遅くまで漕いだのだそうです。国内にいては世界で戦えないと、10年前にカヌー強豪国のスロバキアに渡って練習を続けたと報じられています。長い精進が実っての快挙です。

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 昨日(10日)、羽根田選手のメダル獲得のニュースに接して、「立派な成績だけれど、これで『だから日本にもカヌーの人工コースが必要なのだ』という記事が出るな」と思いました。今朝、朝日新聞を開くと、案の定、社会面に「主要な国際大会のほとんどが人工コースで行われるが、日本には本格的な人工コースがない」「東京五輪では、東京都江戸川区の臨海部に日本初の本格的な人工コースとなるスラローム会場が新設される」という関連記事が載っていました。記事は「メダルも大きな追い風になる」とのカヌー協会関係者の言葉で締めくくってありました。

 はあー、とため息が出ました。東京五輪組織委員会の面々はニンマリしていることでしょう。これで、金にあかせて東京に人工の急流コースを造る計画に弾みがつく、と。朝日新聞は読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞と4社で計60億円を払って、東京五輪のオフィシャルパートナーになりました。1社15億円ものお金を出してくれて、おまけに「公共事業の大盤振る舞い」のような競技場建設計画の後押しまでしてくれるのですから、笑いが止まらないでしょう。

 オリンピックを資金面で支援するオフィシャルパートナーは「1業種1スポンサー」が原則です。なのに、そうした原則などどこ吹く風。日頃の談合批判もどこへやら。オリンピックについては、4社仲良く手を組んで「御用新聞」になることに決めたのです。このことについて、日刊ゲンダイ(電子版)は1月29日に「大手新聞が公式スポンサーの異常」という記事を掲載し、「知らなければいけない不都合な情報や問題が隠され、報道されないという事態」になりかねない、と批判しました。

 朝日、読売、毎日、日経の4紙がスポーツ新聞に「きちんと監視役を果たせ」と説教される日が来ようとは・・・。東京に人工のカヌースラローム競技場を造ることの問題点を指摘するどころか、それを造らなければ世界の強豪と渡り合えない、と煽り立てる記事。こういうのを典型的な「提灯(ちょうちん)記事」と言うのでしょう。記事を書いた記者が善意で、純粋にスポーツの観点から書いているだけに、なおさら影響は大きく、罪も深いのです。

 日本の経済が上向きで資金が潤沢な時期なら、話は別です。が、いまや経済はずっと右肩下がり。医療や介護に回さなければならない予算は膨らむばかり。政府も自治体も借金まみれです。そういう時代に「金にあかせた五輪」など許されるはずがありません。できる限りコンパクトに、ただし、温かい心でもてなす五輪をめざす、という道もあるはずです。東京一極集中の是正も、今の日本の大きな課題の一つです。東京への人工カヌー競技場建設はその流れにも反します。

 こういう主張をすると、「それはカヌー競技を知らない者の戯言だ」と反論されるでしょう。世界大会やオリンピックのほとんどで、カヌースラローム競技は人工のコースで行われるのだ、人工コースがなければ選手の強化もできない、と。純粋にスポーツのことだけを考えるなら、それも一理あるのかもしれません。ですが、オリンピックはスポーツ大会であると同時に、「これからの世界はどうあるべきか」ということに思いを巡らせ、メッセージを発する祭典でもあるのです。

 急流がないなら人間が造ればいい。水が必要なら巨大な揚水ポンプで揚げればいい。それが欧米的な考え方で、スポーツの世界でも支配的なのかもしれません。けれども、日本がそれに同調する必要はどこにもありません。自然の中で、自然が許す範囲で生きていく。それこそ、日本やアジアの国々が育んできた考え方であり、生き方ではないのか。川がつくり出す自然の流れの中でカヌーの技を競えばいいではないか。ごく最近まで、ずっとそうしてきたのですから。

 百歩譲って、8月は渇水期で日本のどこにも適当な水量の渓流がないとするなら、人工のカヌースラローム競技場は東京以外に造るべきです。「すべて東京に」という考えにこだわった結果が今の東京一極集中と地方の疲弊をもたらしたのですから。2020年東京五輪の公式種目に追加されたサーフィンも東京以外で開催される予定です。狭い東京ですべてをまかなう必要など、どこにもないのです。

 朝日新聞が社会面で無邪気な提灯記事を書いているのに対して、読売新聞や毎日新聞が羽根田選手の歩みを中心に人間ドラマとしての報道に徹していたのも印象的でした。目を通した範囲では、「カヌースラロームの人工コース」に触れた記事を書いているのは共同通信くらいでした(日経新聞と山形新聞が掲載)。東京五輪をどういうオリンピックにしたいのか。どういう理念で4年に一度の祭典を照らしたいのか。リオ五輪の熱狂から覚めたら、そうした視点で東京五輪の計画と準備状況の問題点をえぐり出し、より良き祭典につながるような報道に接したい。


≪参考サイト≫
◎「4紙で60億円負担 大手新聞が東京五輪公式スポンサーの異常」(日刊ゲンダイ電子版)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/174215
◎カヌースラローム競技場とスプリントカヌー競技場の整備計画(カヌーカヤックネットマガジンのサイトから)。この記事によれば、スプリントカヌー競技場の整備費は491億円、カヌースラローム競技場の整備費は73億円。
http://www.fochmag.com/kayak/index.php?itemid=1272

≪参考記事≫
◎8月11日付の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞、山形新聞、河北新報(いずれも山形県で配達された版)

≪写真説明とSource≫
◎リオ五輪のカヌースラローム(男子カナディアンシングル)で銅メダルを獲得した羽根田卓也選手
http://www2.myjcom.jp/special/rio/news/story/0022021276.shtml




*メールマガジン「風切通信 8」 2016年8月6日

 郷里の山形に戻って間もなく、2010年に地元の人たちと地域おこしのNPOを立ち上げ、毎年7月の下旬に最上川をカヌーで下るイベントを開いています。日本三大急流の一つとされる最上川は変化に富み、カヌーを愛する人たちの間でとても人気があります。この夏も県内外から31人が集い、急流下りを楽しみました。

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最上川の急流を下るカヌーイストたち(山形県朝日町)

 このイベントに参加した首都圏在住の人たちから、都市伝説ならぬ都市怪談のような話を聞きました。2020年に開かれる東京オリンピックのために、東京の江戸川区にカヌーのスラロームコースを造る計画があるというのです。カヌーのスラローム競技は、300メートルほどの激流に旗門を設けてカヌーで下り、タイムを競うものです。スキーの回転のカヌー版のような競技です。仰天して調べてみたら、本当の話でした。

 東京都オリンピック・パラリンピック準備局のホームページに計画の概要が掲載されています。それによると、東京都立葛西臨海公園の隣にある都有地に水路を造り、国内で初めての人工的なカヌーのスラロームコースを整備する、となっています。上流に巨大な貯水池を建造し、大量の水を流して急流を造り、そこをカヌーで下る。流れ落ちた水は揚水ポンプでまた貯水池に戻す、という計画です。要するに、税金で東京に渓流を造ってカヌー競技を開催する、というわけです。

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福島県二本松市で開かれたカヌースラローム競技会(2013年5月)

 あきれました。東京オリンピックの開催を推進する人たちがどういう思考の持ち主かを象徴的に示しています。カヌーに限らず、ヨットやサーフィンは自然の中で行う競技です。実際、カヌーのスラローム競技は富山県の井田川や岐阜県の揖斐(いび)川、福島県の阿武隈川などで開かれています。ただし、水量が豊富でなければなりませんから、大会は雪解け水が流れる春先か秋雨の集まる時期に開かれるのが普通です。

 しかし、東京の中心部にはそうした川はありません。東京近郊の川を活用することも考えられますが、2020年東京五輪は7月下旬から8月上旬にかけての開催ですから、渇水期でカヌー競技はとても無理です。そこで「人工的に造ってしまえ」となったのでしょう。いったい、いくらかかるのか。組織委員会も東京都も試算を示していませんが、建設費は数十億円あるいは数百億円の規模になると見込まれます。

 建設だけでなく、維持管理も大変です。建設系シンクタンクを経営する橋爪慶介氏の試算によれば、カヌースラロームの競技をするとなると、少なくとも毎秒13トンの水量が必要で、その水を貯水池に揚水するための電気代だけで、年に60日動かすとして1億1300万円もかかります。これに施設維持のための人件費や管理費が加わります。橋爪氏が「恒久的な施設を造るべきではない。自然の中で開催すべきだ」と見直しを提言したのは当然でしょう。

 ですが、この提言に従えば、上記のような川の水量の問題があり、夏に自然の川でカヌースラローム競技を開催するのは困難になります。議論は、そもそも東京で夏にオリンピックを開催することには無理がある、という振り出しに戻ってしまうのです。熱中症が多発するような時期になぜ開くのか、と。では、開催時期を変更することは可能か。東京五輪の夏季開催を決めたのは、巨額の放映権料を支払う世界の(具体的には主にアメリカの)テレビ局の意向を踏まえたもの、とされています。とすれば、開催時期の変更は困難です。時期を変えれば、テレビ各社に莫大な違約金を払わなければならないからです。

 思えば、1964年の東京五輪の開催を担った人たちは、とてもまともな人たちでした。東京でスポーツ大会を開くなら、気候が良くて晴れも多い10月と素直に考え、粛々と準備を進めました。それが人々の記憶に残る見事な五輪大会となって結実したのです。それに引き換え、2020年東京五輪を担う人たちには、なんと胡散臭い人が多いことか。

 新国立競技場の建設計画をめぐるドタバタ劇。五輪エンブレムのデザイン盗用疑惑。いずれも誰かがきちんと責任を取らなければならないのに、みんなで逃げ回り、東京五輪組織委員会の会長、森喜朗・元首相(79)はどこ吹く風といった顔。「せこい」という日本語を世界に広めた舛添要一氏は都知事の座を追われましたが、森元首相の取り巻きとお友達はいまだに、組織委員会でとぐろを巻いています。

 その腐敗と腐臭のすさまじさをえぐり出して見せたのが週刊文春の特集記事です。8月4日号と8月11日・18日号には、森元首相と昵懇の間柄で都政と都議会を牛耳る内田茂・自民党東京都連幹事長(77)の行状が具体的なデータに基づいて暴露されています。東京都議会から組織委員会の理事として送り込まれた高島直樹・前都議会議長と川井重勇(しげお)議長は、2人とも内田都議の側近。都庁出身の組織委役員も内田氏の息がかかった人物。要するに、東京五輪の重要な話はすべて、「都議会のドン」と呼ばれる内田氏のところに集まる仕組みになっている、というのです。

 あまり表には立たず、金と人脈で物事を動かす人物を黒幕とかフィクサーと言います。普通、フィクサーは舞台の裏手に居るものですが、東京都庁と都議会の場合はなんと表舞台に立っていた、というわけです。これも驚くべきことです。東京もまた「一つの村」だったということか。メディアも検察もこうした事情は承知していたのでしょうが、怖くて手が出せなかったのでしょう。都知事選で内田氏ら自民党都連が担いだ増田寛也氏が大敗し、東京都の利権構造はガラガラと音を立てて壊れ始めています。

 週刊文春が報じた内田茂都議の政治資金をめぐる疑惑(事務所の家賃を家族が役員を務める会社に政治資金から支出していた疑い)や、内田氏が役員を務める「東光電気工事」という会社をめぐる疑惑(五輪関連の事業を不思議な経緯で落札した疑い)に徐々に光が当てられようとしています。検察もメディアも、権勢のピークにある人物は怖いが、水に落ちた権力者は怖くない。みんなで叩き始めるでしょう。司直の手がどこまで伸びるのか、注目されるところです。

 それにしても、東京五輪をめぐる招致と準備のプロセスを見ていると、第二次大戦末期にビルマからインドに攻め込んで多くの犠牲者を出した日本陸軍のインパール作戦を思い出します。「おかしい」と思っていても、トップが怖くて口にできない。ズルズルと引きずられているうちに、数万の将兵が屍をさらす結果になりました。その悪名高い作戦を指揮した牟田口廉也(むたぐち・れんや)第15軍司令官は戦後も生き延び、「あれは私のせいではなく、部下の無能のせいだ」と言い続けました。

 このままでは、東京五輪は「現代日本のインパール作戦」になってしまうのではないか。森喜朗・元首相はさしずめ、「平成の牟田口」か。準備が本格化する前に大掃除が必要です。小池百合子・新知事に期待するところ大ですが、週刊文春によれば、小池氏の周りに集まる人たちにも「はてなマーク」の人が多いのだとか。政治の世界は本当に難しい。

≪参考サイト≫
◎東京都オリンピック・パラリンピック準備局の公式サイト
http://www.2020games.metro.tokyo.jp/taikaijyunbi/taikai/2020/index.html
◎同サイトのカヌースラローム会場関係
http://www.2020games.metro.tokyo.jp/taikaijyunbi/taikai/kaijyou/kaijyou_15/index.html
◎東京2020大会開催基本計画
https://tokyo2020.jp/jp/games/plan/data/GFP-JP.pdf
◎カヌースラローム競技場計画の見直しを求める提言(橋爪慶介氏)
http://www.dexte-k.com/image/lobbying/lobbying(proposal_of_the_temporary_stadium).pdf
◎最上川カヌー川下りのイベントと記録
http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/index.php?catid=9

≪写真説明とSource≫
◎最上川の急流を下るカヌーイストたち(7月30日、撮影・佐久間淳)
◎2013年5月に福島県二本松市で開かれた「あぶくま大会」のワンシーン
http://www.canoe.or.jp/album/ww2_sla3_japancup.html




 1日目の7月30日(土)は山形県朝日町の雪谷カヌー公園から寒河江市の「ゆーチェリー」まで23キロ、2日目の31日(日)は大石田町の大石田河岸(かし)から尾花沢市の猿羽根(さばね)大橋まで19キロをカヌーで下りました。合計42キロのコースでした。参加者は1日目が26人20艇(2人乗りが6艇)、2日目が16人13艇(同3艇)。計31人が最上川の流れを満喫しました(11人が2日間参加)。

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 1日目は曇時々小雨、一時雷雨の天候。最上川の水量はかなり少なく、朝日町から大江町にかけての五百川(いもがわ)峡谷の急流はともかく、後半はトロ場で参加者はかなり苦労しました。ただ、この日午後に山形市などで局所的な集中豪雨があり、2日目はこの降雨が最上川に流れ込み、豊かな流れになりました。空は晴れ、追い風にも助けられて、大石田からは快調な漕ぎでした。2人乗りの艇が多く、カナディアンカヌーの方も多かったのが第4回の特徴です。

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≪参加者≫ 
31人:山形県内21人、県外10人(宮城3、埼玉2、東京2、青森、福島、長野各1人)
【2日間で42キロを完漕】11人
 菊地大二郎(山形市)、菊地恵里(同)、林和明(東京都足立区)、岸浩(福島市)、崔鍾八(山形県朝日町)、清野由奈(同)、渡辺佳久(埼玉県東松山市)、多田英之輔(山形県山辺町)、伊藤信生(山形県酒田市)、佐竹久(山形県大江町)、小野俊博(同)
【1日目、23キロを完漕】15人
 瀧口宗紀(山形市)、森谷久範(同)、東海林憲夫(山形県寒河江市)、山川治雄(山形市)、調所孝芳(同)、鈴木基之(同)、丹野睦(同)、高田徹(青森県八戸市)、三塚志乃(仙台市太白区)、中沢崇(長野市)、渡辺政幸(山形県大江町)、大類晋(山形県尾花沢市)、徳宮龍男(同)、斉藤栄司(同)、市川秀(東京都中野区)
【2日目、19キロを完漕】5人
 福田泉(さいたま市北区)、池田丈人(山形県酒田市)、鈴木未知哉(宮城県柴田町)、鈴木達哉(同)、佐藤博隆(山形県酒田市)
 *過去の参加者数(2012年 第1回 24人、2014年 第2回 35人、2015年 第3回 30人)

≪陸上サポート≫ 安藤昭雄▽白田金之助▽清野千春▽長岡昇▽長岡典己▽長岡佳子
≪写真、動画撮影≫ 佐久間淳▽村山彩▽長岡昇▽長岡典己▽鈴木達哉
≪昼食のデザート、漬物提供≫斉藤栄司(尾花沢スイカ)▽佐竹恵子(キュウリ漬、ナス漬)

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≪出発、通過、到着時刻≫
▽1日目(7月30日)
 10:00 朝日町・雪谷カヌー公園を出発
 12:10 朝日町・タンの瀬に到着、昼食
     *タンの瀬下りをユーチューブにアップしました(カラー文字をクリック)
 13:10 タンの瀬を出発
 16:40 寒河江市・ゆーチェリーに到着
▽2日目(7月31日)
 9:30 大石田町・大石田河岸を出発
    *出発の様子をユーチューブにアップしました(カラー文字をクリック)
 11:40 尾花沢市・舟戸大橋に到着、昼食
 12:40 舟戸大橋を出発
 13:40 猿羽根大橋に到着

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≪主催≫ NPO「ブナの森」  *NPO法人ではなく任意団体のNPOです
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会で構成)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省新庄河川事務所、山形県、東北電力(株)山形支店、朝日町、大江町、西川町、寒河江市、中山町、大石田町、尾花沢市、舟形町、山形県カヌー協会、山形カヌークラブ、大江町カヌー愛好会、美しい山形・最上川フォーラム
≪協力≫ 大石田町東町区長、矢作(やはぎ)善一▽東町公民館長 細矢裕▽東町公民館の皆様 
   *7月30日夕、東町公民館でのビアガーデンに参加させていただきました

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30日夕、大石田町の東町公民館でのビアガーデンに参加させていただきました

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30日昼に続いて、31日のゴール後にも斉藤栄司さんがスイカをふるまってくださいました

≪ウェブサイト制作≫
 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、佐藤大介)
≪ポスター、Tシャツのデザイン・制作≫ 遠藤大輔(ネコノテ・デザインワークス)
≪輸送と保険≫
 マイクロバス・チャーター 朝日観光バス(株)
 旅行保険 あいおいニッセイ同和損保、ベル保険オフィス
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝

≪参照ウェブサイト≫
山形県朝日町の公式サイトの「まちの写真館」 (カラー文字をクリック)

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1日目の参加メンバー(朝日町雪谷カヌー公園)

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2日目の参加メンバー(大石田河岸)






 今年で4回目になる最上川縦断カヌー探訪(NPO「ブナの森」主催)は、予定通り7月30日(土)と31日(日)に開催します。気象庁による山形県内の天気予報では、30日は曇時々晴、最高気温33度、31日は晴時々曇、最高気温32度とのことです。暑さ厳しい中でのカヌー行になりそうです。

 今年のコースは30日が朝日町の雪谷カヌー公園から寒河江(さがえ)市のゆ?チェリーまでの23キロ、31日は大石田町から尾花沢市・猿羽根(さばね)大橋までの19キロ、合わせて42キロです。参加者は30日が26人20艇、31日が17人14艇の予定です。2日間参加する方もいますので、全体の参加予定者は31人になります。

 30日は午前10時から朝日町の雪谷カヌー公園で開会式を行い、10時半にスタートする予定ですが、準備が整い次第、出発しますので、早まるかもしれません。31日は大石田町の大石田河岸(かし)から午前10時にスタートします。これも早く出発する可能性があります。出発地点やゴール地点の詳しい地図は、NPO「ブナの森」のホームページにある「コース図」をご参照ください。

 ご参考までに、2012年の第1回カヌー探訪の参加者は24人、2013年は山形豪雨のために中止、2014年の第2回探訪は35人、2015年の第3回探訪は30人でした。詳しいことは「ブナの森」ホームページの「記録」欄をご覧ください。
*メールマガジン「風切通信 7」 2016年6月25日

 社会がさまざまな人によって構成されているように、新聞社もさまざまな記者や社員によって構成されています。読売新聞の記者が全員、渡邉恒雄主筆(90)に心酔しているわけではないように、朝日新聞の記者も全員が「朝日の社論」で統一されているわけではありません。英国の国民投票でEU(欧州連合)離脱が決まったことを報じた25日の朝日新聞を読むと、そのことがよく分かります。

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EU離脱派の集会で演説するジョンソン前ロンドン市長

 「これが朝日新聞の社論なのだろう」とすぐに分かるのは、1面のコラム「天声人語」でした。自分の家が独立国家だと妄想している男の姿を描いたSF作家、星新一の短編『マイ国家』から説き起こし、最後はチャーチル元首相の次の言葉で締めくくっています。「築き上げることは、多年にわたる長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった1日の思慮のない行為で足りる」

 その言わんとするところは明白です。英国がEUから離脱するとの選択は「思慮のない行為」であり、愚かな選択、ということです。欧州統合は「戦争のない欧州」を築き上げるという崇高な理念に基づく営みであり、その道から外れるような選択は危うい、と言いたいのでしょう。社会面はもっと率直で、情緒的です。「英国よ まさか」の見出し。前文には「日本国内では今後の暮らしへの影響に不安が広がった」とあります。「これはポピュリズムの勝利であり、偏狭なナショナリズムの台頭を示すものだ」と言いたいのでしょう。社説はそうした見方をこぎれいにまとめ、「内向き志向の連鎖を防げ」という見出しを掲げました。

「相変わらずのワンパターン。昔の歌を歌い続けているなぁ」というのが率直な読後感です。EU離脱=偏狭なナショナリズム=右翼の選択、というワンパターン。欧州を中心に起きている複雑極まりない世界の動きを理解するのには、何の役にも立たない思考です。これだけなら、新聞を即ゴミ箱に投げ込むところですが、救いがありました。「偏狭な社論」に与(くみ)しない、骨のある記者もいるからです。

 1面の左肩に掲載されたヨーロッパ総局長、梅原季哉(としや)の解説は骨太でとてもいい。欧州統合の理想が崇高なものであることは認めつつ、「だが、EU本部は選挙による審判を経ない形で各国の閣僚を経験したエリートらが牛耳っている。人々の手の届かない、そんな『遠い場所』で決められる政治は、強い反発を招いている」ときちんと書いているからです。ブリュッセル支局長として、EU官僚の実態をつぶさに見てきただけに、思いも深い。離脱派=民族主義=右翼と割り切れるような、そんな単純な事態ではないことをはっきりと書いています。

 梅原の解説を肉付けするように、ブリュッセルの吉田美智子は国際面の記事で、EU官僚3万人の実態をえぐり出しています。平均月給は75万円、局長クラスなら190万円。さらに、子供1人につき毎月4万3000円の手当が上乗せされ、所得税も免除される。役人の厚遇きわまれり、と言っていいでしょう。英国では多くの人が、東欧や中東から流れ込んだ移民に仕事を奪われ、苦しい生活を強いられています。治安にも不安が募ります。こうした人たちが「おかしい」と異議を申し立てるのを「愚かだ」の一言で済ませられるわけがないのです。左翼か右翼かといった物差しで測れる問題でもありません。

 戦争が起こらないような政治・経済体制をどうやって築いていくのか。同時に、東欧や中東、アフリカの人たちの苦境に手を差し伸べるためにはどうすればいいのか。その狭間で、英国だけでなく欧州の多くの人たちが煩悶しているのです。悩み抜いた末に1票を投じた人たちの選択の結果をワンパターンの思考で報じる記者を私は信用しません。共に悩み、苦しむ心があるならば、それが行間に滲み出るはずだからです。社論は社論として、新聞記者である前にまず一人の人間として、自分の信ずるところに忠実でありたい。

 日本の憲法改正についても、朝日新聞の記者たちの意見は昔から統一などされていません。ずっと、揺れ動いていました。私が論説委員室に在籍していた2001年から2007年ころは、護憲派、改憲派、中間派(日和見)がそれぞれ3分の1の状態だったと理解しています。私を含め、国際報道を担った記者には改憲派が多く、「戦後の長い歩みを踏まえて憲法を現実に沿った形に改めるのは自然なこと」と考えていました。編集担当の幹部や論説主幹は護憲派から出てくるので、社説は護憲一本やりでしたが、論説委員室では憲法に関する社説案を議論するたびに激論になっていました。

 安倍晋三首相や自民党が唱える憲法改正は、少し前の選挙スローガン「日本を、取り戻す。」に象徴されるように「古い日本は良かった」がベースにあり、私にはとても受け入れられません。けれども、護憲を唱える朝日新聞の社論も受け入れがたい。素直に読めば、自衛隊が違憲となるような条文をそのままにしておいていいはずがない、と考えるからです。後に続く人たちのためにも「未来に耐えうる憲法」に変革していく必要がある、と考えるのです。

 英国の有権者は苦しみながら、幅広い議論を積み重ねて、この結論に達しました。私たちの社会はそれに匹敵するような広く、深い議論をしているのか。世界経済と政治の地殻がギシギシと音を立てて軋み、変わろうとしている時代にふさわしい挑戦を試みているのか。苦しむ覚悟がなければ、私たちは時代に置き去りにされ、やがて忘れ去られてしまうでしょう。

 *山形県のわが家に配達される朝日新聞は「13版▲」という統合版です。夕刊はありません。

≪写真説明とSource≫
◎EU離脱派の集会で演説するジョンソン前ロンドン市長(ロイター=共同、東京新聞のニュースサイトから)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016062301000915.html





*メールマガジン「風切通信 6」 2016年6月23日

 政治はその国、その社会のありようを映し出す鏡であり、縮図だと言います。だとするなら、私たちの国は自信を失い、目標を定めることもできずに漂い続ける巨大な船なのか。参議院選挙の公示前日、21日に東京・日比谷の日本プレスセンターで開かれた党首討論会をテレビで見ながら、私はそんな惨めな気持ちになりました。

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 壇上に並んだのは、なんと九つもの政党の党首。政党と党首の名前を覚えるだけでも一苦労です。そのうち、政党の党首と呼ぶにふさわしい器量をそなえた政治家が果たして何人いるのか。こんなに多くては、そもそも討論会として成り立たない。案の定、質問は自民党の総裁である安倍晋三首相に集中し、党首討論会は安倍首相の「実績宣伝の場」と化してしまいました。

 2012年末に安倍首相が再登板して以来、低迷していた日本の株価は一時的に持ち直し、雇用情勢も改善されました。「経済を成長軌道に戻した」との主張は、それなりに説得力があるように見えます。けれども、日本の経済は成長軌道に戻ったと言えるのか。そもそも、経済を成長させることが最優先されるべき時代なのか。そういった根本的なことがあまり論じられていないのではないか。重要な指標とされる株価ですら、再び動きが怪しげになりつつあります。

 経済に疎い私ですら、安倍政権が打ち出した政策には「こんなことをして大丈夫なのか」と心配になります。日本政府の財政はだいぶ前から借金頼みで、大量の国債を発行していますが、安倍政権下で日本銀行はその国債の買い入れに踏み切りました。中央銀行である日銀が国債を買うことは長年、「タブー」とされてきたはずです。そのタブーを破ったのです。紙幣の発行権限を持つ日銀が国債を引き受け、支払いは紙幣を増刷してまかなう。それによって、意図的にインフレに持っていってデフレから脱却するのだ、と説明されました。

 けれども、タブーにはそれなりの理由があったはずです。日銀がそんなことをしたら、財政規律が保てなくなるから禁じ手とされていたはずです。「デフレ脱却のための異次元金融緩和」などという謳い文句で「財政規律」を放り出していいのか。「収入の範囲で金を使って暮らしていく」という規律を踏み外せば、待っているのは破産、というのは子どもでも分かる道理です。「自分たちの目の黒いうちは大丈夫。地獄の訪れはずっと先」と、政治家も官僚も高をくくっているのではないか。

 厚生年金と国民年金を運用している「年金積立金管理運用独立行政法人」が安倍政権になってから、株式での運用比率を倍増させたのも気になります。年金の積立金はもともと、安全性の高い国内債券を中心に運用してきました。東洋経済オンラインの解説記事によれば、2014年10月の資産構成は国内債券60%、国内株式12%、外国債券11%、外国株式12%でした。それを国内債券38%、国内株式23%、外国債券14%、外国株式23%と劇的に変えたのです。株価が上がれば、資産は増えますが、下がれば減ります。きわめて危うい運用です。

 年金積立金の運用変更は、国内の株価を吊り上げるため、と批判されています。これも、「取りあえず、景気が持ち直したと装うことができればいい」という態度の現れではないのか。「下々の者たちの積立金など、どうなろうと構いはしない」とうそぶく声が聞こえてきそうです。この運用変更は厚生年金と国民年金の積立金を対象にしたものです。議員年金や公務員の共済年金の積立金の運用は別途行っているとか。そちらの運用比率と資産構成もぜひ知りたいところです。

 憲法改正や安全保障の問題についても、安倍政権が推し進めようとすることには危惧の念を覚えます。けれども、「ならば民進党に期待できるのか」と切り返されると、「できないよね」と答えるしかありません。2009年からの民主党政権下で何があったのか。マニフェストにはきれいごとをたくさん並べたのにほとんど実行できず、2011年の東日本大震災では惨め極まりない姿をさらけ出しました。名前を民主党から民進党に変えてみたところで、その「甘ちゃん体質」と「寄り合い所帯ぶり」は変わりようがないでしょう。

 だったら共産党か。まさか。共産主義に基づく国づくりがどのようなものか。私たちはそれを嫌というほど見聞きしてきました。先進国で共産党と名乗る政党があるのは日本だけです。戦前、戦後のいきさつもあって生き延びてきた政党に未来を託すことなど、できるはずもありません。創価学会に無縁の身には公明党も遠い存在。「生活の党云々」を率いる小沢一郎氏は、福島原発事故が起きた時に被災地に行くどころか、東京から逃げ出す算段をしていたというから論外。社民党は「まだ居たの?」という感じ。あとの3党は失礼ながら割愛させていただきます。

 一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区制から「1選挙区1議員」の小選挙区制に変えたのは、二大政党制を実現するためだったはずです。なのに、政党の数は昔より増え、党首討論会すら実質的に成り立たないような国になってしまった日本。民族も宗教も多様なアメリカやイギリスで二大政党制が機能し、政権交代が実現しているのに、民族も宗教も比較的均質な日本で、なぜこんなに政党が乱立するのか。外から見れば、「なんとも奇妙な国」と見えることでしょう。

 海を隔てたすぐそこに歴史的にも稀な「独裁国家」があり、核兵器と弾道ミサイルの開発に血道をあげているのに、まともな安全保障論議もなされない。安保関連法の問題を憲法との関連のみで論じるのは不毛です。憲法との整合性が図れないなら、憲法の改正も視野に入れて、現実を踏まえた安全保障の論議をすべきでしょう。選挙戦で経済政策や財政運営、安全保障問題がまともに語られない奇妙な国。なのに、選択肢だけはやたらにたくさんある、奇妙な選挙。ぼやいてみても、投票日は確実にやって来ます。取りあえずは「ひどさが一番少なそうな候補」に一票を投じるしかないのかもしれません。


≪参考サイト≫
◎ 東洋経済オンライン(「年金運用で巨額評価損」という不都合な真実)
http://toyokeizai.net/articles/-/113102
◎年金積立金管理運営独立行政法人の公式サイト
http://www.gpif.go.jp/gpif/mechanism.html

≪写真説明とSource≫
◎9党の党首討論会(毎日新聞の公式サイトから)
http://mainichi.jp/senkyo/articles/20160622/ddm/010/010/029000c




*メールマガジン「風切通信 5」 2016年6月7日

 キリスト教は異国の宗教である。唯一絶対の神を信じており、やおよろずの神々をあがめるわが国の精神風土に合わない。過激な信徒もいる――こんな理屈で警察が日本にいるキリスト教徒全員を監視の対象にしたら、大変な騒ぎになるでしょう。メディアも黙っていないはずです。ところが、これと似たことが起きているのに、日本ではほとんど騒がれることがありません。監視の対象がキリスト教徒ではなく、イスラム教徒だからです。

 2010年10月に警視庁公安部の国際テロ捜査に関する情報が大量に流出する事件が起きました。流出した文書にはテロ関連の捜査対象者の情報に加えて、テロとは何の関係もない在日イスラム教徒の情報(名前や生年月日、住所、旅券番号、出入りしているモスクの名前など)が含まれていました。それが流出したのです。流出した情報を『流出「公安テロ情報」全データ』と題して本にする出版社(第三書館)まで現れました。その結果、銀行口座が凍結されたり、インターネットのプロバイダー契約を解除されたりした人もいたといいます。

 とんでもない事件です。翌2011年5月に日本人と外国人のイスラム教徒17人が政府と東京都に計1億5400万円の損賠賠償を求める裁判を起こしたのは当然でしょう。裁判は東京地裁、東京高裁とも東京都に賠償責任があることを認め、最高裁判所も5月31日付で高裁の判断を支持する決定を下しました。東京都は被害者に9020万円支払うことになりました。が、問題なのは「すべてのイスラム教徒を対象とする警視庁の捜査は違法ではない」という地裁と高裁の判断がそのまま最高裁でも認められたことです。

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自由人権協会70周年プレシンポジウムの会場

 あきれました。「こうした情報収集は国際テロ防止のためやむを得ない」と裁判所が認めてしまったのです。なんという人権感覚、なんという時代認識であることか。イスラム過激派によるテロは日本にとっても深刻な脅威であり、捜査に全力を尽くすのは当然のことです。ですが、どんな捜査であっても、憲法と法律に基づいて行うのが法治国家というものです。ある特定の宗教の信者すべてを監視の対象とするような捜査が許されるはずはありません。それなのに、最高裁判所は「やむを得ない」とする下級審の判断を支持して判決を確定させてしまったのです。

 これは大ニュースです。メディアが「とんでもない判決が確定してしまった」と大騒ぎすべき事件です。なのに、日本の通信社も新聞も「ベタ記事」扱いで報じました。私は見逃してしまい、つい先日(6月4日)、東京で開かれた自由人権協会の70周年プレシンポジウムに参加して、井桁(いげた)大介弁護士からこの最高裁の決定を聞きました。決定の内容に仰天し、それにも増して、メディアがそれをベタ記事扱いしたことに驚いてしまいました。

 日本の憲法は第14条で「法の下の平等」をうたい、「人種や信条、性別などで差別されない」と規定しています。第20条では「信教の自由」を保障しています。宗教を理由に差別することは許されないのです。これらの規定が日本国民だけでなく、日本で暮らす外国人にも適用されることは言うまでもありません。「情報が流出して損害を受けたから賠償しなさい」と言って済む話ではないのです。

 自由人権協会によれば、アメリカでも同じように捜査機関がすべてのイスラム教徒を監視の対象にしていることが発覚して大問題になりました。9・11テロを経験し、さらなるテロにおびえる国です。捜査当局としては「あらゆる手段を駆使して次のテロを防ぐ」といきり立ったのでしょう。ところが、裁判でこれが「違法」として争われ、今年の1月17日に連邦控訴審で和解が成立しました。

 その内容は「ニューヨーク市警は今後、宗教や人種に着目したプロファイリング捜査はしない」「警察の内部に民間の監督官を入れ、人権侵害的な捜査についてチェックさせる」というものです。つまり、すべてのイスラム教徒を監視の対象にして一覧資料を作るようなことはしない、と約束したのです。テロの脅威と向き合わざるを得なくても、法治国家として人権保障の大原則をゆがめるわけにはいかない。捜査する側もそれを認めたということです。まっとうな判断、と言うべきでしょう。

 なのに、なぜ日本の裁判所では「当たり前の判断」が下せないのか。憲法判断に踏み込むのを避ける体質。警察を含む行政府のすることを追認する癖が染みついており、波風を立てるような判決を嫌がる――いくつか理由は考えられるのですが、要は日本という社会に「法とはいかにあるべきか」という根本的なことが根付いていない、ということなのではないでしょうか。

 明治の憲法はドイツの憲法の焼き直し。今の憲法は戦争で負けてアメリカに書いてもらったもの。私たちの国は一度も「悶え苦しみながら、みんなで憲法を練り上げる」という営みをしたことがありません。それがこういう時に滲み出てくる、ということなのかもしれません。メディアも右へ倣え。「畏れ多くも、最高裁判所が下した判断なのだから妥当なのだろう」と思い込む。それがいかに重大な憲法問題を孕んでいるかを考えないから、「ベタ記事扱い」になってしまうのです。

 イスラム過激派によるテロの脅威を過小評価するつもりはありません。日本国内でも起きる恐れは十分にあります。捜査当局は全力を尽くすべきだし、一市民としてそれに協力する心構えもあります。けれども、犯罪の捜査はしかるべき根拠に基づいて、テロを犯す疑いのある人物を対象にして行うのが鉄則です。モスク(イスラム礼拝所)に出入りする人たちを監視する必要も出てくるでしょう。が、その場合でも、出入りするすべての信徒の個人情報を調べ上げ、それを一覧リストにするようなことは許されないはずです。

 そうした捜査そのものが「イスラム教徒はすべて危険だ」という差別感を助長し、一人ひとりの人権を守るという法治国家の大原則を掘り崩すことになるからです。日本に住むイスラム教徒はごく少数です。けれども、彼らの人権を守ることを怠れば、それは自分たち自身の厄災となって跳ね返ってきます。ある特定の宗教を信じる人たちすべてを捜査の対象にする。そんなことは法治国家で許されることではありません。

 最高裁判所がどんな理屈をこねくり回そうと、おかしいものはおかしい。それを「おかしい」と指弾しないメディアは職務怠慢ではないか。このままでは、職を失う危険を冒してまで警視庁のファイルを暴露した、勇気ある内部告発者が浮かばれない。


≪参考サイト≫
◎警視庁のテロ情報流出事件に関する最高裁判所の判断(共同通信のニュースサイトから)
http://this.kiji.is/110662350981809661?c=39546741839462401
◎警視庁国際テロ捜査情報流出事件(ウィキペディアから)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E8%A6%96%E5%BA%81%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%86%E3%83%AD%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%B5%81%E5%87%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◎アメリカのイスラム捜査事件の概要と和解内容(ムスリム違法捜査弁護団のサイトから)
http://k-bengodan.jugem.jp/?eid=56
◎日本国憲法第14条、第20条(政府の公式サイト「電子政府」から)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html


≪写真説明とSource≫
◎ 自由人権協会70周年プレシンポジウム。シンポジウムでは、米英政府による広範な個人情報収集活動を告発したエドワード・スノーデン氏がネット回線を通して講演した(6月4日、東大本郷キャンパス福武ホール。長岡遼子撮影)



*メールマガジン「風切通信 4」 2016年5月29日

 「71年前の、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から舞い降り、世界を変えてしまいました」。バラク・オバマ大統領は広島での演説をそう切り出しました。「なぜ、私たちはここ広島に来るのか。私たちは、そう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いを馳せるためここに来るのです」と言葉を継ぎ、広島への原爆投下で亡くなった10万人以上の日本人に加えて、広島にいて命を落とした数千人の朝鮮人と十数人の米国人捕虜を悼みました。

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 心のこもった優れた演説でした。歴史への深い洞察と未来への希望を感じさせる演説でした。アメリカでは大統領だけでなく著名な政治家も、作家やジャーナリストをスピーチライターとして抱えて演説の草稿を書いてもらうのが一般的なようですが、最後にその草稿に自分の思いも十分に織り込んだのではないか、と思わせる内容でした。

「私たちは悪事をなす人間の力を根絶することはできないかもしれません。だから、国家や同盟は自衛する手段を持たなければなりません。しかし、わが国をはじめ核兵器を持つ国々は、恐怖の論理から抜け出して核なき世界をめざす勇気を持たなければなりません。私の生きている間には、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって破局が起きる可能性を押し戻すことはできるし、蓄積された核兵器の廃絶に至る道筋を描くことはできるはずです」

 オバマ大統領の広島演説を聞いて、かつてイスラエルのシモン・ペレス首相(当時)が口にした言葉を思い出しました。1995年12月6日に広島で開かれた国際会議「希望の未来」。ペレス首相はエルサレムの首相官邸からインターネット回線を通してこの会議に参加し、こう言ったのです。「問題は武器ではなく、政治システムだ。最も危険なのは、邪悪な運動と核兵器が結び付くこと。独裁や腐敗した政府に信を置くことはできない。全体が民主的な体制にならない限り、核兵器のない世界にたどり着けると考えるのは妄想だ。未来の世界にとっての真の保障は民主的なシステムだ」

 この国際会議は朝日新聞社と米国のウィーゼル財団が共催したもので、私は担当記者の一人としてこの演説を聞き、記事を書きました。最初、私は「核廃絶は幻想だ」と書いたのですが、英語が堪能な同僚から「いや、 disillusion(幻想、幻滅)ではなく、delusion(妄想)と言っている。そのまま書くべきだ」と指摘され、発言を確認したうえで手直ししたのを覚えています。淡々とした口調ながら断固とした表現で、強烈な記憶として残りました。ペレス首相の言葉は国際政治の冷徹な現実を映し出したものでした。

 現実を率直に語るのは、政治家のなすべきことの一つです。米英仏やロシア、中国に加えてイスラエルやインド、パキスタン、北朝鮮が核兵器を保有していることを考えれば、核廃絶を唱えるのは、彼の言う通り、限りなく「妄想」に近いのかもしれません。しかし、それでも、現実だけでなく、理想と夢を語るのも政治家の大切な仕事の一つです。オバマ大統領の言葉もまた重いし、胸に刻みたいと思うのです。

 たとえ妄想に近いものであっても、核廃絶をめざす勇気を持ちたい。私だけでなく、多くの人が勇気と妄想のはざまで揺れ動きつつ、世界の行く末を思っているのではないでしょうか。こういう時、心の支えにする言葉があります。南アフリカで白人政権のアパルトヘイト(人種隔離)政策と闘い、長い投獄を経て政権を奪取し、黒人と白人が共存する道を切り拓いたネルソン・マンデラ氏の言葉です。彼は、自伝『自由への長い道』(東江一紀訳)の最後にこう記しました。

 「あらゆる人間の心の奥底には、慈悲と寛容がある。肌の色や育ちや信仰のちがう他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことが学べるのなら、愛することだって学べるだろう」


(*オバマ演説は長岡昇訳、マンデラ自伝は東江一紀訳)


≪参考サイト、文献≫
◎バラク・オバマ大統領の広島演説全文(日本語、朝日新聞のウェブサイトから)
http://www.asahi.com/articles/ASJ5W4TKRJ5WUHBI01N.html
◎バラク・オバマ大統領の広島演説全文(英語、朝日新聞のウェブサイトから)
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201605270097.html
◎ネルソン・マンデラ著『自由への長い道』(上下、東江一紀訳、NHK出版)

≪写真説明とSource≫
◎広島で演説するバラク・オバマ大統領
http://nikkidoku.exblog.jp/25273980




*メールマガジン「風切通信 3」 2016年5月23日

 山村の実家で年金生活を始めた私の目下の課題は「生活力の向上」です。新聞記者として30年余り生き、その後、小学校と大学で働きましたが、炊事、洗濯、掃除のノウハウをほとんど知りません。かみさんに基礎から教えてもらっていますが、「こんなこともできないの」と冷ややかに言われる毎日。かみさんは山形市の実家で母親(92歳)の世話をするかたわら、毎週、私の生活を支援するため山奥の家まで来てくれます。「これじゃあ家事手伝いとも言えないので、家事見習いね」とのご託宣。悔しくても、言い返せません。

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 農村で生まれ育ったのに、草花や木々のこともほとんど分かりません。それではうるおいに欠けるので、前回のコラムでも書きましたが、庭先に咲いている花の名前を調べることから始めました。古い人間なので植物図鑑や山野草のハンドブックに頼る。が、本をめくってもなかなか分かりません。インターネットのサイト「みんなの花図鑑」や「四季の山野草」の方がずっと頼りになることを知りました。

 「みんなの花図鑑」はNTTグループが運営しているサイトです。2010年秋に3億円を出資してリニューアルし、3000種以上の花のデータを収めています。登録利用者は現在、1万8000人余り。このサイトに花の写真を投稿して「名前を教えてください」とお願いすると、早い時には数分で次々に回答が寄せられます。

 庭の片隅に、白い可憐な花が咲いていました。草丈10数センチ、花径3センチほど。根元から細長い葉をいくつも出しています。図鑑で調べて「ホソバノアマナ(細葉の甘菜)」ではないかと見当をつけたのですが、「みんなの花図鑑」に投稿した写真に寄せられた回答は「オオアマナ(大甘菜)」と「タイリンオオアマナ(大輪大甘菜)」の二つでした。この二つの花をさらにネットで検索しても、なかなか分からなかったのですが、コメント付きで答えてくれた方がいて、ようやくヨーロッパ原産の「オオアマナ」と判明しました(ホソバノアマナは日本原産)。

 そのコメントがすごかった。花の名前だけでなく、オオアマナの学名Ornithogalum umbellatum L. と英語名 Star of Bethlehem(ベツレヘムの星)を記し、「 学名で検索するとオオアマナとタイリンオオアマナの違いがよくわかります」というアドバイスまで付けてくれていたのです。さっそく、両方の学名で検索すると、英語のサイトに辿り着き、その説明で両者の違いがよく分かりました。タイリンオオアマナの花がバナナの房のようにくっついて咲くのに対して、オオアマナは茎から散開して咲くのです。「総状花序(かじょ)」に対して「繖形(さんけい)花序」と言うのだそうです。

 インターネットのすごさを感じるのはこういう時です。日本語のサイトで分からなければ、英語のサイトに当たり、別の言語ができれば、その言語のサイトで調べることもできます。「知識と情報の世界で革命が起きた」というのは誇張ではなく、現実であり、その流れはさらに勢いを増しています。租税回避地をめぐるパナマ文書の暴露と報道も、ネット時代でなければ考えられない出来事です。次の時代を生き抜くためには「ネットと語学」がどうしても必要になるのです。

 それなのに、日本の教育現場では何が起きているのか。小学校の校長をしている時、インターネット教育の状況に愕然としました。講師役で登場したのは地元の警察署の少年補導係の警察官だったのです。これは、私が勤めていた小学校に特有のことではなく、山形県内の小中学校の一般的な傾向でした。「ネットにはエログロがあふれている。援助交際の窓口もある。裏サイトでのいじめも深刻だ。いかに危険なものかを教えなければならない」という感覚なのです。「最初にそれを教えるのはおかしい」と私が言うと、「教育現場の厳しさを知らないよそ者の戯言」と言い返される有り様でした。山形県に限った話ではないでしょう。

 インターネットの世界は現実の世界と背中合わせになっており、ネット上には小学生や若者に有害なものもあふれています。それに対処するのは重要なことです。けれども、最初の段階でそれを強調するのは、包丁の使い方を説明するのに「包丁は危ないものだ」と教えるのと同じです。料理を作るのに包丁は不可欠です。なのに、「包丁は人を傷つけるのに使われるから危ない」と最初に教えてどうするのか。

 こういう教育が行われているのは「大人の都合による教育」がまかり通っているからでしょう。子どもを「管理する対象」として捉えており、「大人たちとは異なる時代、異なる世界を生きていく人間」として遇しようとしていない、と言ったら言い過ぎでしょうか。学校現場のIT環境の劣悪さと併せて、「世界の流れと教育の現状との乖離」を強く感じました。

 最近、文部科学省は小学校の教育に「プログラミング」を導入しようとしていると報じられています。小学生にプログラミングの基礎を教えようというわけです。「相変わらず、トンチンカンな役所だなぁ」と感じます。公立小中学校の教員のほぼ全員にパソコンが貸与されるようになって、まだ5、6年しかたっていないというのに。教員のIT教育をなおざりにし、学校のネット環境もきちんと整備しないまま、メディアが飛びつくような新規事業に血道をあげる文科省。それを垂れ流す記者クラブの面々。そのツケを払わされるのは私たちの子どもたちであり、孫たちです。

 「包丁はこうやって使って料理しましょう。でも、使い方を間違えると危ないよ」。インターネットについても、同じようにその効用とリスクをきちんと教えるべきです。教育の場にこそ、最新の設備とノウハウを提供する必要があります。そのためには、今の教育行政と教育現場を大胆に変革しなければなりません。が、このままでは、変革どころか改善すらできそうもありません。それがとても切ないです。


≪参考サイト≫
◎「みんなの花図鑑」
https://minhana.net/
◎「四季の山野草」
http://www.ootk.net/shiki/
◎ 「みんなの花図鑑」とは(NTTのホームページから)
http://www.ntt.co.jp/news2011/1104/110413a.html


≪写真説明≫
◎ 庭の片隅に咲いている「オオアマナ」(2016年5月14日、山形県朝日町で撮影)





*メールマガジン「風切通信 2」 2016年5月9日


 山形県の山村にある実家で暮らし始めて、二度目の春を迎えました。去年は亡くなった母の遺品や不要物の後片付けに追われ、庭は荒れ放題でしたが、やっと余裕が出てきたので、少しだけ庭の手入れも始めました。その庭にいくつか変わった花が咲いています。

 雪解けの後、福寿草に続いて咲いたのは「キバナノアマナ(黄花の甘菜)」という可憐な花でした。図鑑によるとユリ科の植物で、一枚だけアヤメの葉のような細長い葉を出しているのが特徴です。しばらくすると、赤紫の楚々とした花も咲きました。山と渓谷社の『春の野草』(永田芳男著)で調べても分からず、園芸愛好家のウェブサイトに写真を投稿して「どなたか花の名前を教えてください」とお願いしました。

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自宅の庭に咲いているルナリア

 ところが、投稿される「名前不詳の花」の写真はかなりの数で、どなたからも回答が寄せられませんでした。やむなく、図鑑やネット上の画像を手掛かりに探索したところ、ようやく「ルナリア」というヨーロッパ原産の花であることが分かりました。花の近くにある平べったい鞘(さや)に種子が6個ほど入っており、これが決め手になりました。この鞘は、熟すと割れて種子が飛び出し、銀貨のようにキラキラ輝くのだそうです。このため、ドライフラワーの愛好家に人気で、「銀扇草」や「大判草」の異名もあるとか。

 説明文を読んで驚きました。「みんなの趣味の園芸」というウェブサイトに、「和名の『ゴウダソウ』は、フランスからタネを持ち帰り、日本に導入した大学教授の合田(ごうだ)清氏の名前に由来します」とあったからです。合田氏は幕末の文久2年(1862年)、江戸・赤坂の生まれ。明治13年、18歳で兄と共にフランスに渡って西洋木版画を学んでその先駆者になり、東京美術学校(東京芸大美術学部の前身)で長く教壇に立った人物です。その合田氏がルナリアの種子を持ち帰り、広めたのでした。

 志を抱いてフランスに渡った若者が持ち帰った花が、いったいどのようにして広まり、どのようなルートで新潟県境に近いこの山村まで辿り着いたのか。不思議な思いにとらわれました。合田氏は、私が働いていた朝日新聞と深い縁のある人でした。手もとにある『朝日新聞社史 明治編』によると、大阪の新聞だった朝日新聞が明治21年に東京進出を決めた際、社主の村山龍平はフランスから帰った合田氏に入社するよう懇請したといいます。写真製版の技術がなかった当時、西洋木版は最先端の技術で、それを活用して紙面を飾りたいと考えたのでしょう。

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東京朝日新聞の付録に掲載された「磐梯山噴火真図」

 合田氏は「自由な立場で活動したい」と入社は断りましたが、版画家の山本芳翠氏と共に設立した生巧館を拠点にして朝日新聞に協力しました。明治21年7月15日、東京朝日新聞の創刊5日後に起きた会津磐梯山の大噴火に際しては、山本氏が被災地に急行して下絵を描き、合田氏が版木に彫って「磐梯山噴火真図」という作品に仕上げて、新聞の付録として発行しました。噴火真図は大変な評判になり、朝日新聞の東京進出を勢いづかせたといいます。この版画は有名で、私も何度か見た記憶があります。「あの版画を制作した人が持ち帰った花だったのか」と、感慨深いものがありました。

 私は18歳で山形を離れて大学に進み、新聞記者として30年余り各地を転々としましたが、インドとインドネシアに駐在した5年間を除けば、ほぼ毎年、帰省していました。その際、実家の庭にある草花も目にしていました。このルナリアも咲いていたに違いないのですが、それに心を寄せることはありませんでした。疲れ果てて、ただだらしなく眠りこけるだけ。なんと余裕のない人生だったことか。

 新聞社を早期退職して山形に戻り、民間人校長として4年、大学教員として3年働いている間も、何かに追い立てられるような日々で、相変わらず草花を愛でる余裕はありませんでした。「ひっそりと庭に咲いているこの花は何という名前なのだろう」。そんな気持ちになれるまで、63年もかかってしまいました。

 それでも、遅すぎるということはないはずです。身近にある草花や木々をゆっくりと眺め、その名前を探し、来歴に思いを巡らして楽しむことにします。月を意味する「ルナ」を冠した名前を持ち、西洋木版画の先駆者にちなむ別名を持つ「ルナリア」に続いて、「オダマキ(苧環)」という花も見つけました。淡い青紫の花で先端に白い縁取りがある素敵な花です。

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オダマキの花

 この花の漢字名の最初の文字「苧」は、日本で綿花の栽培が広まる江戸時代まで衣服や漁網の素材として広く使われていた「青苧(あおそ)=カラムシ」を意味する文字で、麻の一種です。山形県の内陸部はその青苧の大産地の一つでした。オダマキもまた、不思議な物語を秘めているに違いありません。ゆっくりと、その物語をひもとくことにします。



≪参考サイト、文献≫
◎ ルナリアの説明(ウェブサイト「みんなの趣味の園芸」から)
https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-821
◎合田清氏の経歴(東京文化財研究所のホームページから)
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8444.html
◎『山渓フィールドブックス9 春の野草』(永田芳男著、山と渓谷社、2006年)
◎『朝日新聞社史 明治編』(朝日新聞百年史編修委員会編)194-197ページ

≪写真説明とSource≫
◎自宅の庭に咲いているルナリアとオダマキ(2016年5月7日、山形県朝日町で撮影)
◎山本芳翠・画、合田清・刻の「磐梯山噴火真図」(明治21年8月1日の朝日新聞付録に掲載)=郡山市立美術館のホームページから
https://www.city.koriyama.fukushima.jp/bijyutukan/collestion/05/16.html




*メールマガジン「風切通信 1」 2016年4月22日

 ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、シリアのアサド大統領、パキスタンのシャリフ首相、そして英国のキャメロン首相。租税回避地の内部文書が大量に暴露された、いわゆる「パナマ文書」事件は、日ごろ光を浴びることのない世界の裏側でどの国のどういう政治家がうごめいているのかを実に生々しく照らし出してくれました。

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 権力の専横を追及するジャーナリストが次々に奇怪な死を遂げる国、ロシア。指導部が「汚職撲滅」を唱えても全く説得力がない国、中国。アラブの春で独裁者が相次いで失脚したのに「冷酷無比」とされる独裁者が生き残った国、シリア。政治家の腐敗ぶりでは第一級と折り紙つきの国、パキスタン。こうした国々と一緒に自分の国の名前が、しかも首相がらみで出てきたことに英国の有権者が怒り、キャメロン首相に「辞任しろ」と迫るのは当然のことでしょう。

 そもそも、租税回避地(タックス・ヘイブン)という名称が美しすぎる。本来は、法人税や所得税を極端に安くして金融や物流の拠点として栄えることを目的にした制度だったようですが、その後、「こちらの方がより安全で便利」という競争原理が働いて暴走し、今ではその多くが「資産隠匿地」と呼ぶべき代物になってしまいました。腐敗した権力者が資産を隠し、大企業が税逃れに活用し、ギャングが資金洗浄に利用する場と化しています。なにせ、登記した会社の内容を詳しく公開する必要がなく、会計報告も不透明なままでいいのですから。不正が疑われる資産は数億円、数十億円というスケールのものが多数あると伝えられています。

 主要国で構成するOECD(経済協力開発機構)が透明性を高めるための行動計画を取りまとめ、対策に乗り出していますが、その主要国の中にも租税回避地を利用している政治家や企業人がいるのは半ば周知の事実です。実効性が上がるわけがありません。膨大な電子ファイルを入手した人が南ドイツ新聞に情報を提供し、同紙が「国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)」に協力を求めたのは賢明で適切だった、と言うべきでしょう。

 新聞社にいた頃、先輩記者に「日本の政治家の錬金術は主に三つある」と教わったことがあります。土地転がしと株の売買、海外取引の三つです。土地転がしは、田中角栄首相の金脈報道をきっかけに露骨な手法は通用しなくなりました。株の売買もまた、竹下登首相もからんだリクルートの未公開株汚職が発覚してからルールが厳格になり、簡単にはあぶく銭を手にすることができなくなりました。けれども、海外取引や対外援助がらみの闇資金は追及するのが極めて難しく、腐敗した政治家の錬金手法として温存されてきました。

 どの国でも、権力者の腐敗と闘ってきたジャーナリストはみな、「海外取引の壁」の厚さに何度も煮え湯を飲まされ、切歯扼腕してきたのです。国際調査報道ジャーナリスト連合は、そうしたジャーナリストたちがこの壁を乗り越えるために創った組織であり、パナマ文書事件は長く苦しい闘いの末に辿り着いた成果なのです。これまでに報道されたのは1150万点とされる文書のごく一部であり、これから続々とスクープが放たれることでしょう。

 一連の文書は、租税回避地での会社設立を引き受けているパナマの法律事務所から流出したため、「パナマ文書」事件と呼ばれていますが、会社そのものの所在地はカリブ海のバージン諸島やケイマン諸島が多いとされています。どちらも英国の領土です。その気になれば、英国の政府と議会が情報公開や会計の透明さを求める政策を打ち出して改善できるはずです。が、金融サービス部門で世界を引っ張る英国は「大事な顧客を失いたくない」と考えるかもしれません。当局に期待するのは無理でしょう。

 この手の金融サービスで英国と競っているのはアメリカです。多くの米国の政治家や企業人が「租税回避地」を利用しているはずですが、今回は全く名前が出てきていません。「大事な文書を漏らしてしまうような法律事務所」ではなく、もっとしっかりした(より悪質な)法律事務所を使っているため無傷で残っているのかもしれません。あるいは、競争相手の英国をたたくために米国寄りの勢力が意図的にリークした、という可能性も否定できません。金融取引の闇は深く、現時点では情報提供の背景は不明です。

 それにしても、カリブ海に浮かぶバージン諸島やケイマン諸島が今、「資産隠匿の島」として世界の注目を集めていることに、私は歴史の暗喩のようなものを感じます。これらの島々は大航海時代が始まってから、アフリカで拉致され売買された黒人奴隷たちが最初に連れてこられ、サトウキビ栽培の奴隷労働に従事させられたところです。厳しい歴史を背負わされた人々の島が、腐敗した政治家や企業人が資産を隠す場所として利用され指弾される――そういう歴史を強い、おとしめた人間たちの末裔が過去を振り返ることもなく、のうのうと生きているのに。

 *3月末で山形大学を退職し、4月から実家がある山形県朝日町の太郎という村で年金生活に入りました。村は、風切(かざきり)という山のふもとにあります。今月からは「風切(かざきり)通信」と改題してメールマガジンをお送りします。


≪参考サイト≫
◎国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)とは何か(東洋経済Online)
http://toyokeizai.net/articles/-/112693
◎国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)の公式サイト(英語)
https://www.icij.org/index.html
◎パナマ文書に登場する主な政治家(ICIJのサイト内。英語)
https://panamapapers.icij.org/the_power_players/
◎パナマ文書に登場する3万7000人の名前が検索できるサイト(英国の日曜紙サンデー・タイムズが開設。英語)
http://features.thesundaytimes.co.uk/web/public/2016/04/10/index.html


≪写真説明とSource≫
◎パナマ文書に登場する政治家の似顔絵(上記の3番目のサイト)




*メールマガジン「小白川通信 42」 2016年3月15日


 「チェスの世界チャンピオンがコンピューター(人工知能)に負けた」と聞いても、それほど驚きはしませんでした。チェスは駒の数が少なく、相手の駒を取っても使うことはできません。手数は膨大ですが、高速計算が得意なコンピューターにとっては苦になるような手数ではないからです。1997年のことでした。

 その16年後の2013年に将棋のプロ棋士が人工知能に負けた時には驚きました。将棋はチェスより駒が多く、はるかに複雑です。何よりも、取った相手の駒を使うことができますから、変化は飛躍的に増えます。「アマチュアはともかく、プロには当分勝てないだろう」と思っていたのですが、その壁はあっさり乗り越えられてしまいました。

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囲碁棋士のイ・セドル(左)と人工知能の開発者デミス・ハサビス

 それでも、囲碁については「人工知能がプロに勝つには数十年かかるだろう」と言われてきました。囲碁は変化が将棋より格段に多いのに加えて、数値で表すのが難しい価値判断をして打たなければならない場面が序盤から終盤まで連続して現れるからです。

 その一つに「劫(こう)」という局面があります。これは、お互いに相手の石を取ることができる状態のことです。ただし、交互に石を取っていたら勝負はエンドレスになってしまいますので、「劫」になった場合、対局者は「一度別のところに打ち、相手がそれに応じたら石を取ってもいい」というルールになっています。別のところに打たれた相手は「それに応じないことで生じる損失と、劫に勝って得られる利のどちらが大きいか」を判断しなければなりません。こうした複雑極まる局面がほかにいくつもあり、コンピューターでプロに勝つプログラムを組むのはすぐには無理だろうと考えられていたのです。

 しかし、その囲碁も人工知能に屈しました。世界最強の囲碁棋士の一人、韓国のイ・セドルが人工知能との5番勝負に敗れたのです。今日(3月15日)、5回目の対局が終わり、人工知能が4勝1敗と圧勝しました。囲碁の敗北は単なる「ゲームの世界の勝敗」にとどまるものではありません。人工知能のプログラム開発が新たな段階に到達したことを示し、新しい可能性が切り開かれたことを意味しているからです。

 チェスの場合も将棋の場合も、コンピューター技術者は「可能なものはすべて記憶させ、すべて計算して選択する」というプログラムを組んで、プロの選手に対抗しました。人間では太刀打ちできない計算速度と記憶容量を持つコンピューターの特性を活かして勝負したのです。ただし、同じ発想でプログラムを組んで囲碁のプロ棋士に挑戦しようとすれば、チェスや将棋とは比べものにならない記憶容量と計算速度を持つ「とてつもないコンピューター」が必要になり、「勝つまでには数十年かかる」はずだったのです。

 今回、囲碁棋士に勝った人工知能「アルファ碁」というプログラムは、「すべてを計算する」という発想を捨てました。その代わりに、どの手がより良い結果を生むのかを判断して絞り込む、独創的なプログラムを開発したようです。専門家でない私には具体的な内容は分かりませんが、それによって「とてつもないコンピューター」ではなく、「今ある普通のコンピューター」で勝負できるようになったのです。このプログラムは、自分で新しいデータを次々に吸収して価値判断の能力を向上させる特性を持つ、とも伝えられています。ITの世界に新しい地平を切り開いた、と言っていいでしょう。

 これを開発したのは、英国の若き天才たちです。開発の中心になったデミス・ハサビス(39)は4歳でチェスを覚え、2週間で大人を負かしたと伝えられる天才です。15歳でケンブリッジ大学コンピューター学部に合格、コンピューターゲームの開発に乗り出しました。2010年に仲間と「ディープマインド」という人工知能開発会社を立ち上げ、4年後に検索エンジンで知られるグーグルがこの会社を4億ポンド(推定)で買収し、傘下に収めています。

 コンピューター開発の主戦場は、とっくの昔にハード(機械)からソフト(プログラム開発)に移っていますが、そのソフト開発の中でもっとも激烈な競争が行われているのは人工知能の開発とされています。去年夏のセミナーで日本IBMの近況を知る機会がありましたが、IT業界の巨人IBMが力を注いでいるのはコンピューターの製造販売ではなく、今や人工知能の開発です。とりわけ、大口の顧客が見込める「危機管理と危機対応」などの分野で人工知能の開発を進め、活路を見出そうとしています。

 例えば、森林火災にどう対処するか。火災の発生場所、風向きなどの天候、動員できる人員と機材を即座に割り出し、人工知能が最適の対処方法を決めてくれるのです。人間がデータを集めて入力するのではなく、ある人が「天候はどうなっている」「人員と機材は」「道路状況は」と次々に聞けば、人工知能が自分でデータベースから必要な情報を引っ張り出してきて、損害を最小に抑える対策を示してくれるのです。もちろん、原発事故の対応などにも応用できるでしょう。

 そして、こうしたソフト開発のはるか先に見えてくるのは、究極の危機管理とも言える「戦争の仕方」を提示してくれる人工知能です。政治や軍事の専門家の中にも目をみはった人がいるに違いありません。SF的な世界に向かって、人工知能の開発は大きな一歩を踏み出したのです。どこまで進化するのか。どのくらいのスピードで成長するのか。ワクワクする一方で、空恐ろしくもあります。

 とはいえ、まだ「ゲームという限られた世界」での大きな一歩に過ぎません。SF的世界が現れるまでには、まだいくつものブレイクスルーが必要でしょう。「人工知能には学習能力がある」とは言っても、学習の仕方のプログラムを組むのはあくまでも人間であり、人間の能力が無限だとも思いません。最後の最後に、人間の力では突破できない壁が立ちはだかるかもしれません。

 宇宙は広大です。そして、一人ひとりの人間、さらには生きものが内包するものも深遠です。人工知能も人間が生み出したものであり、人間が考えるものである以上、そうした広さや深さに到達することはあり得ないのではないか、とも思うのです。


《参考サイト》
人工知能の開発会社Google DeepMind の公式サイト(英語)
https://deepmind.com/
Google DeepMind の代表デミス・ハサビス(英語版ウィキペディア)
https://en.wikipedia.org/wiki/Demis_Hassabis

≪写真のSource≫
http://wired.jp/2016/03/12/deepmind/




*メールマガジン「小白川通信 41」 2016年3月6日

 あらゆる鳥の中で
 カラスよ お前は一番の嫌われもの

 春 木々が柔らかい光を浴びて芽吹き
 里山がモスグリーンに染まるころ
 お前は黒い一筋の線となって横切る
 なんと目障りなことか

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 夏 木々が葉裏を白く返してそよぎ
 照り付ける日差しの中で育つころ
 お前は黒い染みのように鎮座している
 なんと暑苦しいことか

 秋 吹き渡る風に稲穂が波打ち
 山々がうっすらと色づき始めるころ
 お前は人間の残り物を黙々とついばむ
 なんと見苦しいことか

 けれども 冬
 荒れ狂う吹雪をものともせず
 お前は雪原高く舞い上がり
 白い大地を睥睨(へいげい)しつつ飛んでゆく
 カラスよ お前は美しい


   *写真 姉崎一馬氏が撮影、提供



*メールマガジン「小白川通信 40」 2016年2月13日

 雪が降る、側溝に捨てる。雪が降る、側溝に捨てる――北国の冬の暮らしはその繰り返しです。側溝がないところは、除雪機かスコップで雪を投げ上げるしかありません。のしのしと雪が降る日には50センチほど積もることもあり、一日に何度も雪かきをしなければなりません。楽な暮らしではありませんが、誰もぼやいたりしません。

 春になれば、降り積もった雪が少しずつ解けて田畑を潤してくれます。深山の雪は初夏まで残って沼を満たし、日照りの心配をする必要はありません。土に生きる人々にとって、冬の雪は恵みでもあることを知っているからです。

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蔵王・地蔵岳の黎明

 スキーという楽しみもあります。あらゆるスポーツの中で、私はスキーが一番好きです。身を切るような寒さの中を滑り下りる爽快さは、何とも言えません。雪かきのしんどさも吹き飛ばしてくれます。しかも、山形には蔵王(ざおう)という広々としたスキー場があります。朝、久しぶりに空が晴れ渡ったら、「今日は蔵王で滑ろう」と気軽に出かけることもできます。新聞記者時代のスキー仲間からは「贅沢だなぁ」と羨ましがられています。

 先週の週末、その友人たちと蔵王で恒例のスキー合宿をしました。昼はスキー、夜は温泉三昧。年に一度の楽しい会ですが、今年は仲間の一人が蔵王の山と雪をテーマにした写真集を見つけてきました。温泉街で働いている鏡學(かがみ・まなぶ)さんが自費出版した本です。出版社は地元山形市の小さな会社、部数も700と少ないのですが、驚くべき写真集でした。

 表紙は、厳冬期の蔵王・地蔵岳の黎明をとらえた作品。夜明けのかすかな光を浴びて、稜線が黄金色に輝く。陽光が雪原に淡く流れる。この一瞬をとらえるために、鏡さんは何回、雪に埋もれて夜明けを待ったことか。珠玉の一枚です。蔵王名物の樹氷の間を若いカップルがスノーボードを抱えてゆっくりと歩いていく写真もいい。周りは氷点下のはずなのに、ほんのりとした温かみが伝わってくるのです。

 どの作品からも蔵王に対する撮影者の愛情があふれ出てくるのですが、「この写真集から一枚だけ選ぶとしたらどれか」と問われれば、私は新雪に包まれた紅葉の写真を選びます。蔵王の初雪は早く、ブナやカエデの紅葉が終わらないうちに山は白銀に染まります。そこに薄日が差す。すると、真っ白な木々の間から、また紅葉が姿を現すのです。この世のものとは思えないような色彩。森の妖精がひそんでいるような世界。これまた、何度もトライして、ようやくとらえた一瞬でしょう。

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新雪に包まれた紅葉

 撮影した鏡さんは福井県敦賀市の生まれ、66歳。東京でデッサンを学び、各地で商業用の写真や自然の写真を撮り続け、8年前に奥さんの実家がある山形県上山(かみのやま)市に移ってきました。蔵王のふもとの街です。これを機に、蔵王の撮影に本格的に取り組み始めました。「それまでは仕事で撮ってきました。やっと、自分の好きなものを納得がいくまで撮れるようになりました」と鏡さん。それから6年。蔵王に通い続けて撮った写真から選び抜いて、2014年に出版したのがこの写真集です。

 温泉街で写真集を見つけてきた友人は「いいものは埋もれていくんだよ」と言います。その通りなのかもしれません。ですが、この世の中には「いいものを埋もれたままにしておいてなるものか」と思う人もいる、と信じたい。

 *写真集のタイトルは「Zao can be seen from my room」、3600円
  問い合わせは鏡學さんの下記のメールアドレスか電話へ。
  メール:kagami-24@ab.auone-net.jp
  電 話:023-672-6856

≪写真≫ 鏡學さん提供



*メールマガジン「小白川通信 39」 2016年1月29日
 
 週刊文春が甘利明・経済再生担当相の金銭授受疑惑を報じて1週間。あいまいだった甘利氏の記憶は、弁護士らの助けを借りて急にクリアになったようです。大臣室と選挙区の事務所でそれぞれ50万円受け取ったことを認め、28日に閣僚を辞任しました。「金銭授受疑惑」は「疑惑」の2文字が取れ、金銭授受問題になりました。第1ラウンドは週刊文春の圧勝、と言うべきでしょう。

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28日に記者会見し、閣僚を辞任する意向を表明した甘利明・経済再生担当相

 甘利氏は記者会見で、自身が受け取った100万円も秘書がもらった500万円もともに政治献金だった、と主張しました。政治資金収支報告書の記載にミスがあったり、500万円のうち300万円を秘書が使い込んだりしたものの、どちらも「政治資金の報告に不手際があった」というわけです。それなら、閣僚は辞任しなければなりませんが、衆議院議員まで辞める必要はない、という理屈になります。これが甘利氏側の防衛ラインのようです。

 それで世間は納得するか。週刊文春の報道によれば、くだんの建設会社が甘利氏側に供与した金とサービスは少なくとも1200万円とされています。民間企業はボランティア団体ではありません。利益が見込めないところに資金をつぎ込んだり、グラブやパブで接待したりしません。では、その金と接待にはどんな思惑が込められていたのか。第2ラウンド「金の意味」をめぐる攻防が始まりました。

 この建設会社は、千葉県内の道路工事をめぐって都市再生機構(UR)とトラブルになり、URに補償を要求していたといいます。交渉は難航し、建設会社の総務担当者が甘利氏の秘書に助力を頼んだ、というところまでは双方に争いがありません。問題は、そこから先です。秘書が国土交通省の局長に問い合わせ、国交省の支配下にあるURの担当者に話をつないでもらった、というところで収まれば、「甘利氏側の防衛ライン」の内側に収まります。

 しかし、もし秘書が安倍政権の重要閣僚である甘利氏の看板をチラつかせ、「国交省とURに圧力をかけた」ということになれば防衛ラインをはみ出し、「あっせん利得処罰法」に抵触します。この法律は2000年に成立、翌2001年に施行された新しい法律で、訴追されて有罪となれば、3年以下の懲役という厳罰が待っています。甘利氏がその経緯を承知していれば、もちろん甘利氏も訴追される可能性があります。犯罪だからです。

 29日の毎日新聞社会面に注目すべき記事が掲載されていました。その記事によれば、上記のトラブルは2013年に入って甘利氏の秘書が関わるようになってから急に交渉が進み、まず1600万円の補償がなされ、さらに追加で2億2000万円の補償をすることになった、というのです。地元の建設関係者は「300坪の土地が50万円でも買い手が付かない場所で、2億円以上の補償金を払うなんてどうかしている」と話した、とも報じています。各紙に目を通した範囲では、もっとも核心をついた記事でした。この後に、甘利氏と秘書に金が供与されているからです。

 国土交通省と都市再生機構(UR)、建設会社の間でどのような交渉が行われ、甘利氏と秘書がそれにどう関わったのか。また、右翼団体の構成員から建設会社の総務担当に転じ、週刊文春に一部始終を暴露した人物は、どのような理由で告発するに至ったのか。その事実関係と背後関係を一つひとつ解きほぐしていけば、事件の構図はおのずから明らかになっていくでしょう。その過程で「甘利氏側が圧力をかけた」ことが判明すれば、「政治資金収支報告書の記載ミスでした」などという言い訳は通用しなくなります。

 法律の専門家の中には「あっせん利得処罰法違反になるのは『その権限に基づいて影響力を行使した場合』に限られる。国交省やURは甘利明・経済再生担当相の職務権限外だから、『権限に基づく影響力』を行使できるわけがない。問題にはならない」と主張する人もいるようです。法律家らしい、もっともらしい論理ですが、政治と利権の実態を無視した形式論でしょう。安倍政権で経済政策の中枢を担ってきた重要閣僚の影響力が国交省やURに及ばない、と考える方がどうかしています。

 それにしても、甘利氏が閣僚辞任を表明した28日の記者会見は見応えがありました。矛盾を鋭く追及する記者あり、甘利氏に露骨にすり寄るような質問をする記者あり。気高い志を持った記者と心根の卑しい記者を、高性能のリトマス試験紙をかざしたように炙り出してくれました。もちろん、日本は自由な国です。権力べったりの新聞やテレビがあっても構いません。それも「言論の自由」のうちです。ですが、報道機関で働く者として、それで虚しくはないのか。自分で自分が惨めにならないのか。

 記事を読み、映像を見つめ、ネットで情報を追っている人の多くは「メディアで働く人たちのプロとしての気概を見たい」と思っているのではないか。固唾をのんで「第2ラウンド」「第3ラウンド」の展開を見守っているのではないか。
(長岡 昇)

≪写真のSource≫ 東京新聞の公式サイトから
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201601/CK2016012902000139.html




*メールマガジン「小白川通信 38」 2016年1月22日

 同じニュース媒体でも、新聞とネットには大きな違いがあります。その一つがニュースの価値判断です。ネットのニュースサイトは一般に見出しを同じ大きさの文字で並べるだけです。価値判断は掲載の順番で示す程度、と言っていいでしょう。

 これに対して、新聞ははるかに明確にそれぞれのニュースの価値を判断して読者に提示します。その日、もっとも重要だと判断したニュースは1面で大きな見出しとともに扱い、重要度が低いと考えるニュースは順次、奥の面に掲載していく、というのが大原則です。

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 ニュースの価値判断に関して、新聞編集者の間にはもう一つ、重要な原則があります。それは「第一報を小さな扱いにしたのに続報で大きな扱いをするのは編集者の敗北だ」というものです。これが残酷なまでに示されたのは、1986年に旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きた時でした。歴史的とも言える大事故でしたが、ソ連は当初、完全に沈黙し、第一報はスウェーデン政府による「異常な放射能を検知した。重大な事故があったと思われる」という、きわめて曖昧な情報でした。新聞各紙の第一報の扱いは、1面トップから社会面の4段見出しまでバラバラでした。どの扱いが適切だったかは言うまでもありません。

 今回、週刊文春(1月28日号)が報じた「甘利明・経済再生担当相の口利き現金授受疑惑」についても、各新聞社の価値判断能力が問われました。21日付の朝日新聞は3面トップ、毎日新聞は社会面4段と、それぞれ腰の引けた扱いでした。週刊誌の報道を基にして1面トップの紙面を作るわけにはいかない、という古臭い沽券(こけん)にしがみついた結果でしょう。読売新聞は第2社会面で2段、政治面の補足記事が3段の扱い。この新聞は「権力を監視する」というメディアの重要な役割にあまり関心がないようですから、順当な扱いなのかもしれません(いずれも山形県で配布された各紙の扱い)。

 「一番まともだ」と感じたのは、地元の山形新聞でした。共同通信の配信と思われる記事「『甘利氏に1200万円提供』週刊文春報道」を1面トップで扱い、4面で週刊文春の報道内容も詳しく伝えました。翌22日も1面トップで「甘利氏『記憶あいまい』」と、ポイントを的確に押さえた続報を載せました。朝日は「甘利氏 与党から進退論」というピンボケの続報が1面トップ、毎日も1面3段。どちらも「新聞編集者としての敗北」を紙面に刻む結果になりました。

 20日の記者会見での甘利氏の発言「まだ週刊誌の現物を読んでいない」には、思わず笑ってしまいました。木曜日発売の週刊誌の場合、水曜日(20日)にはゲラ刷りが永田町周辺や新聞各社に出回ります。甘利氏もゲラ刷りのコピーを一字一句、食い入るように読んだはずです。が、そんなことは言いたくない。で、「(ゲラではなく)週刊誌の現物は読んでいない」と、嘘とは言えない表現で急場をしのいだものと思われます。

 記者会見の前に、すでに弁護士との打ち合わせも十分にしているはずです。今回の現金授受はストレートに贈収賄事件になる可能性があるからです。贈収賄事件で弁護団がまず考える防壁は(1)現金の授受そのものを否定する(2)金を受け取ったとしても、受け取った側(甘利氏側)に職務権限がないと主張する、の二つでしょう。金を渡した側は週刊文春に実名で登場しており、手許に動かぬ証拠がたくさんあるようです。「(1)では勝ち目はない」と踏んで、逃げ込んだのが「記憶があいまい」という言葉なのでしょう。田中角栄元首相が逮捕されたロッキード疑獄で政商の小佐野賢治氏が多用した「記憶にございません」を思い出します。

 記憶にあるかどうか。これを本人以外の人間が立証するのは不可能です。第一の防壁「金銭の授受」についてはこの言葉で時間をかせぎ、第二の防壁「職務権限」のところで勝負する――それが弁護団の方針と思われます。金をもらった建設会社のために、補償をめぐってもめている都市再生機構(UR)に口を利いてあげたのは確かだが、それは経済再生担当大臣の職務権限には含まれない。権限外だが、親切心で手を差し伸べてあげたのだ、と立証すればいいわけです。

 その点はどうなのか。それを検察や警察に取材し、実務に詳しい専門家にも当たってギリギリと詰め、読者にきちんと提供するのがメディアの仕事ですが、この数日の報道を見ていると、第二の防壁の取材でも新聞各社は週刊文春の後塵を拝することになりそうです。

 最近の週刊文春の政治腐敗追及には、目をみはるものがあります。去年の12月上旬に表面化した「就学支援金の詐取事件」は、三重県の高校が舞台なのに東京地検特捜部が家宅捜索に乗り出した、というものでした。事件に関心がある人なら「政治家が絡んでいる」とピンと来るはずです。大物政治家が絡むようだと、地元の三重県警や三重地検では手に負えません。だから東京地検が乗り出した、と考えるのが自然だからです。「どういう続報が出てくるか」と注目していましたが、当方の関心に応える記事を掲載した新聞を見つけることはできませんでした。

 これに対し、週刊文春は2015年12月24日号に「特捜部が狙う"詐欺"学校と下村前文科大臣との『点と線』」と題する記事を載せ、事件の背景を伝えました。就学支援金をだまし取ったのは株式会社が運営する「ウィッツ青山学園高校」という学校ですが、この高校の創設者は森本一(はじめ)という人物で、彼は下村博文・前文部科学相の全国後援会の会長だ、と報じたのです。何のことはない。塾経営者の森本氏が同じく塾経営の経歴を持つ下村氏を応援し、三重県に教育特区を作る手助けをしてもらって株式会社運営の高校を創立し、それが税金の詐取という事態を招いた、という構図が浮かんでくるのです。

 これまた、限りなく「贈収賄」に近い構図で、強烈な腐臭が漂ってくる事件です。にもかかわらず、主要な新聞はこの事件の背後にどういう風景が広がっているのか書こうとしない。あまり先走ったことを書くと、東京地検から「捜査妨害だ」と怒られるからでしょう。検察という盾の後ろからチビチビと矢を放つような続報しか書かない。だから、事件の構図もその重大さも新聞報道からは伝わってこないのです。

 私は元新聞記者です。正直に言えば、古巣の新聞と仲の良くない週刊文春の報道を褒めるようなことはしたくありません。ですが、最近の報道については「実に果敢な、勇気ある報道だ」と認めざるを得ません。

 イギリスの政治家で歴史家のジョン・アクトンは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」という言葉を残しました。それは時代をも空間をも越える金言と言っていいでしょう。だからこそ、権力を監視し、追及する報道の役割は重要なのです。その仕事は、たとえ報い少ないものであっても一生を賭けるに値する、と思うのです。もっと鋭く、そしてもっと深く、権力を笠に着て税金を食い物にするような輩の所業を暴き出してほしい。


≪写真説明とSource≫
週刊文春の報道を受けて記者会見する甘利明・経済再生担当相(東京新聞の公式サイト)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016012102000136.html




*メールマガジン「小白川通信 37」 2016年1月17日

 東京から山形に戻って農村で暮らすようになってから、私のライフスタイルは大きく変わりました。大きな変化の一つが移動手段です。私の住んでいる朝日町には鉄道がありませんので、もっぱら車で移動しています。そのため、自然と運転しながらラジオを聞く機会が増えました。聞いてみると、ラジオはかなり面白い。

 NHKラジオ第1で昨日(1月16日)の朝、ラジオアドベンチャーという番組の再放送を流していました。進行役は壇蜜、ゲストは写真家の佐藤健寿(けんじ)さん。テーマは「きかいいさん」というので、「機械遺産」のことかと思ったら、さにあらず。「奇界遺産」のことでした。初めて耳にしました。紹介された「シュバルの理想宮」の内容を聞いて、また驚きました。世の中には、こんな不思議な人生、こんな奇妙な創造物もあるのだと。

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フランス南部オートリーブにある「シュバルの理想宮」

 シュバルは1836年、フランス南部の小さな村で、貧しい農民の子として生まれました。日本で言えば、江戸時代後期の天保年間です。仕事は村の郵便配達夫。車はもちろん、自転車もありませんでしたので、テクテク歩いて配っていたのだそうです。そんなある日、奇しくも43歳の誕生日に、小さな石につまずきます。ソロバンの玉を重ねたような奇妙な石。それがすべての始まりでした。

 何かが彼の心の琴線に触れたのでしょう。その日から、シュバルは路傍の石を拾い、石材を調達して自分の宮殿を造り始めたのです。石工として働いた経験も、建築や美術の心得もなかったそうです。デザインは、配達するハガキに印刷された建造物などを参考にしたと伝えられています。村人の目には「見たこともない、薄気味の悪いもの」と映ったのでしょう。変人扱いされて、あまり人が近寄って来なくなったとか。

 けれども、彼は気にすることなく、「理想宮」と名付けて、自分の宮殿を造り続けました。カンボジアのアンコール・ワットのようでもあり、ヨーロッパのゴシック様式の教会のようでもあり。西洋と東洋の文化が溶け合った、実にユニークな建造物です。完成したのは着手してから33年後、76歳の時でした。変人扱いされたまま、1924年に88歳で亡くなりました。

 シュバルの理想宮は振り向かれることもなく、時が流れていきました。そして、ずいぶん経ってから、シュールレアリスムを提唱した詩人アンドレ・ブルトンの目にとまり、彼がこの建造物を称賛する詩を発表したことから評価がガラリと変わりました。いろいろな人が足を運ぶようになり、1969年にはついにフランス政府から重要な歴史的建造物に指定されるに至りました。今では世界中から観光客がやって来るようになり、ここでコンサートや個展も開かれています。村にとっては「最大の資産」です。

 シュバルが残した言葉がまたいい。
「私は、人間の意志が何を成しうるかを示したかった」

 彼が残した、もっとも大切なことは「信じて生きる」ということなのかもしれません。


≪参考サイト≫
◎「シュバルの理想郷」の公式サイト(英語)
 
◎日本語版ウィキペディア「シュヴァルの理想宮」

≪写真のSource≫
http://lai-lai.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1d0e.html

≪参考文献・写真集≫
◎『奇界遺産』(佐藤健寿、エクスナレッジ)
◎『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(岡谷公二、河出文庫)


*メールマガジン「小白川通信 36」 2016年1月11日

 世の中の「常識」の中には、当てにならない常識もあります。文部省唱歌の『雪』で「犬は喜び庭かけ回り 猫は炬燵(こたつ)で丸くなる」と歌われていることもあってか、「猫は寒がり、犬は雪が大好き」のように思われています。かく言う私も、漫然と「そんなもんだろう」と思っていました。ところが、現実はまるで異なるようです。

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子猫のマロ(生後5カ月)

 山形の山村にある実家では、母親がずっと一人暮らしをしていました。私は7年前に山形に戻り、団地から通って母親の世話をしてきたのですが、去年、90歳で他界したため、空き家になった実家に引っ越して暮らし始めました。実家には以前から、お腹をすかした野良猫が食べ物を求めて出入りしていたのですが、引っ越しを機に、日当たりのいい小部屋を「猫部屋」に改装して「出入り自由」にしてみました。食べ物も与えています。

 たっぷりと栄養を摂れるようになったからか、メス猫とその娘が去年、それぞれ2匹と3匹の子を出産しました。5匹の子猫にとっては、この冬が初めての冬。雪の朝、どうするか観察していたら、興味津々、雪の降り積もった庭をかけ回っています。同じ時期に生まれた子猫でも、庭に出ることなく、室内でうずくまっている猫もいます。臆病で神経質な性格の猫です。要は、好奇心が強く行動的な猫は、初めて目にするものが大好きで、転げ回らないではいられない、ということのようです。

 疑い深く、「信じられない」とお思いの方のために、庭をかけ回る子猫の動画をユーチューブにアップしました。シベリアの雪原を行く虎のような(大げさですが)身のこなしも見せています。カラー文字のところをクリックしてご確認ください。

雪の朝。猫も喜び庭かけ回る

 庭を走り回っている三毛猫とシャムネコ風の猫は、どちらも去年8月の生まれ、生後5カ月。画面をチラリと横切る黒白まだらの猫は5月生まれで生後8カ月。いずれも生粋の野良猫です。世間には「夏猫は飼うな」という言い伝えがあるとか。寒さに弱いからのようですが、わが家に出入りしている子猫たちは、そんな言い伝えも吹き飛ばす元気さです。時折、どこかに出張って行っては子ネズミを捕まえて持ち帰り、ムシャムシャと食べています。この3匹を含め5匹の子猫のうち4匹がメス猫なので、「これ以上増えたらどうしよう。避妊手術を施すしかないか」というのが目下の悩みです。

 同じ野良猫でも、親猫は雪の庭をかけ回ったりはしません。厳しい冬を乗り切るために為すべきことを黙々と為す、という風情です。人間も猫も、無邪気に転げ回っていられるのは子どもの時だけ、ということでしょうか。

 ネットで調べてみると、「寒がりでなかなか外に出ようとしない犬」も珍しくないようです。「うちの犬は雪が降っても外に出ようとしません。大丈夫でしょうか」と悩み事相談のような投稿もありました。「人生いろいろ」と言いますが、猫もいろいろ、犬もいろいろ。どんな生き物にもそれぞれに個性があり、一概には言えないということでしょう。作詞、作曲とも不詳の童謡『雪』はとても味わい深い歌ですが、猫と犬にとっては「異議ありの歌」と言えそうです。
(長岡 昇)

≪注≫
三毛猫は「八重(やえ)」、シャムネコ風の猫は「マロ」、黒白まだらの猫は「オペラ」という名前で呼んでいます。命名の理由は省略。

≪参考サイト≫
「snow cat play」で検索したら、雪と戯れる猫の動画がたくさんありました。カラー文字のところをクリックしてみてください。
Elaine burrows in snow (イレインの雪掘り)
Cute Cats playing in the snow (雪と戯れるかわいい猫ちゃん)
Funny Cats Playing in the Snow First Time Compilation 2015 (雪と戯れる愉快な猫たち<2015年初編纂>)

≪写真≫
撮影・長岡遼子、2016年1月4日



*メールマガジン「小白川通信 35」 2015年12月26日

 天皇陛下は今年の82歳の誕生日に先立って皇居で記者会見し、口永良部島の噴火や鬼怒川の洪水、大村智・梶田隆章両氏のノーベル賞受賞に触れた後、戦時中に徴用された船員の犠牲者について次のように述べました。

「将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました」「制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」

 日本殉職船員顕彰会によれば、徴用された船員の死亡率は43%で、陸軍の20%や海軍の16%を上回ります。民間人である船員の方が軍人よりも死亡率がはるかに高い。何という戦争であったことか。船員の犠牲者への言及がこうした事情を踏まえたものであることは言うまでもありません。

 会見の結びは、今年4月のパラオ共和国訪問についてでした。パラオには日本軍守備隊と米海兵隊が死闘を繰り広げたペリリュー島があります。ペリリューの戦いは硫黄島での戦闘の前哨戦とされ、双方の死傷者の多さに加えて、戦闘のあまりの凄惨さに数千人の米軍兵士が精神に異常をきたしたことで知られています。結びの言葉はこうでした。

「パラオ共和国は珊瑚礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでには、まだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います」

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ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官

 70年たっても、「国民統合の象徴」として深く思いを巡らさないではいられない戦争。しかも、公的には「先の戦争」などという曖昧模糊とした言葉でしか語れない戦争。私たちの国は、300万人を超える同胞が命を落とした戦争について、その呼称すらいまだに定められない国なのです。

 新聞や教科書では「太平洋戦争」という呼称が定着していますが、この呼び方が戦争の実相にそぐわないものであり、研究者たちの間で論争が続いていることは今年6月12日に配信した「小白川通信27」で指摘しました。この呼称は、戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が「大東亜戦争」と呼ぶことを禁じた際に代案として、いわば一時しのぎの呼称として出してきたものです。太平洋を主戦場として戦った「米軍」にとってはピタッとくる表現だったのでしょうが、中国大陸やインド洋でも戦った日本にとっても、英国やオランダにとってもふさわしくない呼称です(米国政府すら、当時は「太平洋戦争」と表現しておらず、公式には第2次世界大戦の一部として「対日戦争」と称していたとみられます。調査中です)。

 占領後、GHQは日本の新聞社や出版社を直接統制下に置き、真珠湾攻撃の4周年にあたる1945年(昭和20年)12月8日を期して、全国の新聞に「太平洋戦争史」という長大な連載記事を載せるよう命じました。物資不足で印刷用紙も配給制の時代。この連載を掲載させるために、GHQは新聞各社に印刷用紙を特配しています。全国紙も地方紙も、通常なら2ページ立ての紙面をこの日は4ページ立てにし、紙面の半分を使って連載の前半を一挙に掲載しました。毎日新聞と朝日新聞、山形新聞に目を通した限りでは、残りは12月9日から17日までGHQ提供の章立てに沿って掲載しています。連載記事の冒頭部分は次の通りです(漢字は旧字体を新字体に、仮名遣いも現代風に改めました)。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されて行くことになろう。これによって初めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、また戦争犯罪者達に気兼ねすることもなく詳細に且つ完全に暴露されるであろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱い等であるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは『真実の隠蔽』であろう」

 この文章からうかがえるように、連載では日本軍による捕虜虐待など戦争犯罪を暴露することに力を注いでいますが、それに留まらず、1931年の満州事変から1945年の米戦艦ミズーリ上での降伏文書調印まで、データをちりばめながら戦争の経緯を詳細に叙述しています。大本営発表しか知らなかった国民にとっては衝撃的な記事であり、ある程度内情を知っていた報道関係者にとっても驚くべき内容でした。

 執筆したのはマッカーサー司令部の下にあった戦史室のスタッフ、陣容は歴史学者や米軍幹部ら約100人とされています。英文の記事を共同通信が翻訳して新聞各社に配信しました。戦史室の責任者は「小白川通信15(2014年7月18日)」でも紹介したメリーランド大学のゴードン・プランゲ教授です(当時はGHQの文官)。歴史学者が統率しただけあって、その内容は後の研究者の検証にも堪え得るものでした。

 例えば、1937年の日本軍による南京虐殺事件について。この事件の記録をユネスコの記憶遺産に登録申請した中国政府は、犠牲者を30万人以上と主張して研究者たちをあきれさせていますが、GHQのこの連載では「証人達の述ぶるところによれば、このとき実に2万人からの男女、子供達が殺戮されたことが確証されている」と記されています。南京事件については、長い研究の末に「犠牲者は数万人規模」という見方に収斂しつつあり、70年前に書かれたこの記事の質の高さを示しています。

 日本軍の戦死者212万人(1964年の厚生省調査)のうち、地域別では最も多い49万人もの犠牲者を出したフィリピンでの戦闘についても、実にバランス良く、正確に書いています。この戦いで日本軍は情勢を十分に把握できないまま敗北を重ね、将兵の多くを餓死や病死に追いやる結果になりました。GHQの記事は「9ヶ月間の戦闘において日本軍の損害は42万6070、捕虜1758及び莫大なる鹵獲(ろかく)品を得た」と実態に極めて近い叙述をしているのです。

 内容が正確で衝撃的だったうえに新聞各紙が一斉にこの連載記事を載せたこともあって、戦後、「太平洋戦争」という呼称は日本国内に広まり、定着していきました。出版社も一部を除いて「太平洋戦争」を使い続けています。一方、政府は「大東亜戦争」という呼称を禁じられてからは、法律や公文書で「先の戦争」あるいは「今次の大戦」などと表現するようになり、今日に至っています。

 「太平洋戦争」という呼称の生い立ちを知り、政府の対応に批判的な論客の中には「戦争中に使った大東亜戦争がもっともふさわしい呼び方だ」と主張する人もいます。しかし、大東亜共栄圏という侵略のバックボーンになった言葉を冠した呼称は、アジア諸国だけでなく国際社会でも到底受け入れられないでしょう。地理的概念としても、太平洋では狭すぎるのと同じく、大東亜でも戦争全体をカバーしきれません。現状では、妥協案として編み出された「アジア太平洋戦争」という呼称を使うしかない、というのが私の立場です。

 歴史研究者の間では、この呼称がかなり使われるようになってきましたが、「太平洋戦争」という呼び方を広める役割を果たした新聞は当然のように同じ呼称を使い続けています。当時は占領下で拒絶する余地などなかったという事情があるにせよ、70年間もそのまま使い続けていていいのか。中学や高校の歴史教科書の出版社の多くが「太平洋戦争」という表現を変えないのも、新聞各社の動向と無縁ではないでしょう。日本のメディアと出版社は、いまだにGHQの呪縛から抜け出せないでいる、と言うしかありません。

 あの戦争からどのような教訓を汲み出し、それを未来にどう活かしていくのか。真摯に考えるなら、漫然と「太平洋戦争」などと書き続けることはできないのではないか。新聞記者として自らも漫然と書いてきた者の一人として、自戒しつつそう思うのです。
(長岡 昇)

 
*「太平洋戦争」という呼称についてはさらに調べて、続編を書く予定です。

≪参考文献・資料≫
・『太平洋戦争史』(高山書院、1946年刊=GHQ提供の新聞連載記事をまとめたもの)
・1945年12月の毎日新聞、朝日新聞、山形新聞

≪参考サイト≫
天皇誕生日の記者会見全文(宮内庁公式ホームページ)
日本殉職船員顕彰会のウェブサイト

≪写真のSource≫
ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官
http://wadainotansu.com/wp/1707.html
*メールマガジン「小白川通信 34」 2015年12月11日

 長く一緒に暮らしているうちに夫婦は似てくる、と言います。本当にその通りだと思います。毒舌をふるう私と30年余りも暮らしたせいで、かみさんはしばしば、どぎつい表現を口にするようになってしまいました。「こんな女じゃなかったのに」と、不憫に思うこの頃です。

 私は6年前に朝日新聞を早期退職して、夫婦で故郷の山形に戻りました(かみさんも山形出身)。同じ頃、新聞社や通信社を定年前に退職して郷里で暮らし始めた記者仲間が何人かいました。転勤生活の末に、ようやく東京で落ち着いた暮らしができるようになったと喜んでいたかみさんは憤懣やるかたなく、「男どもはみんな、ホッチャレか」と毒づきました。ホッチャレは北海道の方言で、生まれ育った川に戻って産卵や放精を終え、ヨレヨレになった鮭のことを言います。「なるほど、うまい例えだなぁ」と思う半面、「ホッチャレはほどなく死んでしまう。俺たちも似たようなものと言うのか」と、いささかムッとした覚えがあります。

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馬毛島で草をはむニホンジカの固有亜種「マゲシカ」。遠景は種子島

 私の「ホッチャレ仲間」に、鹿児島県・種子島出身の八板俊輔(やいた・しゅんすけ)さんがいます。駆け出し記者時代、初任地の静岡で一緒に警察回りをした仲です。彼も朝日新聞を早期退職して、生まれ故郷の種子島に戻りました。種子島は鉄砲伝来の地として有名ですが、伝来した鉄砲の複製を試みた刀鍛冶、八板金兵衛とも遠くつながる家系とか。その縁もあって、鉄砲伝来から450年になる1993年にはポルトガルに出張して特集記事を書いています。

 故郷・種子島への思いは深く、その西に浮かぶ小さな島、馬毛島(まげしま)にも忘れがたいものがあったのでしょう。このたび、この小島のことをうたった短歌や写真、島の歴史を織り込んだ著書『馬毛島漂流』(石風社)を出版しました。江戸時代、種子島が飢饉に襲われるたびに、人々の命を救ったのは馬毛島に自生するソテツの実だったといいます。島で暮らすのは、トビウオ漁などをする一握りの漁民だけ。戦後は復員対策も兼ねて開拓農民が入植した時期もあったようですが、経済成長期に入ると、大規模レジャー施設計画や石油備蓄基地構想が持ち上がって土地が買収され、住民はいなくなってしまいました。

 しかし、レジャー施設計画や石油備蓄構想はいずれも頓挫。その後も、自衛隊のレーダー基地や使用済み核燃料の貯蔵施設計画、米空母艦載機の離着陸訓練の候補地といった話が次々に浮上したものの、いずれも実を結ぶことはありませんでした。中央の政治と経済に振り回され、漂い続けて今日に至っています。帰郷した後、八板さんはこの島に何度も足を運び、打ち捨てられた島への思いを綴り、その風景を詠んできました。

 漂流したのは島だけではありません。最後には八板さん自身も海を漂います。種子島から小船に乗り、沖合からカヤックを漕いで馬毛島に上陸したものの、携帯電話をなくして迎えの船を頼むことができなくなりました。食料も水もほぼ尽き、カヤックを漕いで自力で戻るしかない状況。強い潮に流されながら、パドルを漕ぐこと8時間余り。体力が尽きる寸前にようやく種子島の海岸に辿り着きました。最後の章でその顚末をルポ風に書いていますが、大学ボード部での経験がなければ遭難していただろう、と思わせる内容です。

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馬毛島に自生するソテツ。飢饉の時、種子島の人たちの命を救った

 短歌も島の写真も、遭難寸前の漂流記もそれぞれ印象的ですが、私がもっとも惹かれたのは「7300年前の大噴火の話」でした。この本では、九州薩摩半島の南で起きた大噴火は「東西22キロ、南北19キロの巨大なカルデラを残しました」(p121)とサラリと触れているだけですが、私はこの噴火のことを調べずにはいられなくなりました。大学の講義で「縄文時代の遺跡と人口」を取り上げ、「縄文時代の遺跡が北海道と東北に多く、人口も東日本が圧倒的に多いと推定されているのはなぜか」という問題に触れたことがあったからです。

 その理由については、縄文時代には北海道と東北の方が食糧を手に入れやすく、冬を越すのに適した環境だったから、という見方が有力のようです。北方には栗やクルミ、栃の木など貯蔵に適した木の実を付ける落葉広葉樹が多く、秋には鮭、春にはサクラマスが大量に遡上して来るので飢えをしのぐことができた、というわけです。ただ、異論もあり、その一つが「西日本で巨大噴火があったために生活できなくなり、遺跡の多くも埋もれてしまった」という説です。講義では「異論の一つ」として紹介しただけでしたが、もっと詳しく調べざるを得なくなりました。

 巨大噴火と言えば、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間にあるクラカトア火山の大噴火がよく知られています(地元の発音はクラカタウ)。1883年(明治16年)に山体が吹き飛ぶ大爆発を起こし、海に崩れ落ちた山が大津波を引き起こして3万人以上が亡くなった、とされる噴火です。被害は東南アジアに留まりませんでした。天高く舞い上がった火山灰や微粒子は太陽光を遮り、北半球全体の気温を引き下げたとされています。この大噴火を叙事詩のように描いたのが英国の作家サイモン・ウィンチェスターの名著『クラカトアの大噴火』(早川書房)です。読むと恐ろしくなる本です。

 ところが、火山学や地質学の知見を基にした噴火についての本を読むと、過去にはクラカトアの大噴火をはるかにしのぐ超巨大噴火が何度も起きており、日本は「そのリスクが極めて高い国の一つ」であることが分かります。九州だけでも、種子島と馬毛島の西にある「鬼界(きかい)カルデラ」(これが7300年前に噴火した)、薩摩半島と大隅半島にまたがる「阿多(あた)カルデラ」、桜島から霧島にかけての「姶良(あいら)カルデラ」、その北に「加久藤(かくとう)カルデラ」、「阿蘇カルデラ」と連なっています。それぞれ、大昔に超巨大噴火を起こしており、その噴火エネルギーは東日本大震災を引き起こした地震のエネルギーをはるかに上回る、とされています。

 問題は「それがいつ起きるか」です。数万年あるいは数十万年に一度であれば、それほど心配する必要はないのかもしれません。が、46億年という地球の歴史から見れば、数万年も数十万年も「刹那のようなもの」であり、私たちなど「刹那の刹那を生きているだけ」なのかもしれません。明日も1万年後も「刹那のうち」だとすれば、「いつ起きてもおかしくない」と言うこともできます。

 そういう前提に立って書かれた小説が『死都日本』(石黒耀、講談社)です。九州南部で超巨大噴火(破局噴火)が起きて、日本という国家そのものが破滅してしまう物語で、2002年に発売されてベストセラーになりました。この小説では、火山学者が前兆現象を捉え、政府は的確な危機管理をし、九州電力は噴火の前に川内原発から核燃料を取り出す措置を取ります。ですが、その9年後に起きた大震災で、私たちは地震学者が何の警告も発することができず、政府の危機管理もお粗末極まりなく、東京電力も炉心溶融を防ぐことができなかったことを知りました。

 あの大震災のエネルギーをはるかにしのぐような大噴火が起きた時、この国は、そしてこの星はどうなるのか。私たちにできるのは、ただ祈ることだけなのかもしれません。
(長岡 昇)

≪参考文献≫
・『馬毛島漂流』(八板俊輔、石風社)
・『クラカトアの大噴火』(サイモン・ウィンチェスター、早川書房)
・『歴史を変えた火山噴火』(石弘之、刀水書房)
・『死都日本』(石黒耀、講談社)

*写真はいずれも八板俊輔さん撮影




 
*メールマガジン「小白川通信 33」 2015年11月8日

 それは新聞記者になって4年目のことでした。1981年の晩秋から冬にかけて、横浜市内の警察を担当していた私は、いつものように横浜水上警察署の発表資料に目を通していました。「川に男性の水死体」との資料。「またか」と思いました。そのころは、毎月のように港や水路に男の水死体が浮かび、発見されていたのです。

 当時の取材ノート(1981年11月10日?)に、次のようなメモ書きがありました。
発見日時:11月25日午前6時48分
場 所:横浜市中区吉浜町の中村川水門付近
発見者:横浜市中区の船員(42)
事 案:身元不明の男の水死体。年齢、推定で50歳前後。頭髪はスポーツ刈り。
    茶色のチャック付きジャンパー、茶色のズボン、ゴムの半長靴。
    所持金なし。外傷なし。ズボンの前チャックがはずれている。
発見状況:船の甲板で作業をしていた船員が岸壁と船の間に浮いている死体を発見
死 因:溺死とみられる。酔っていた模様
死亡推定:25日午前5時ごろ

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横浜のドヤ街・寿町。30年前に比べると、ずいぶんこぎれいになった


 殺人や強盗が相次ぐ横浜では、ベタ記事にもならない事件でした。実際、記事にすることもなく、取材ノートにはすぐに別の事件のメモが走り書きしてありました。記憶の底にうずもれていく小さな事件の一つでした。ただ、かすかに引っかかるものがありました。寒くなって水死体で発見されるのはいつも中年か初老の男性であること、決まってズボンの前チャックが開いており、酒に酔った状態だったことです。けれども、その引っかかりを深く掘り下げる余裕もなく、事件取材に追われて時は過ぎ去っていきました。

 「横浜の水死体」のことが記憶の底からよみがえってきたのは、それから10数年後のことでした。外報部で国際ニュースをカバーしていた時期、気晴らしに新宿・歌舞伎町を舞台にしたヤクザと中国人マフィアの抗争を描いた小説を読んでいたら、こんな記述が出てきたのです。

「犯罪を重ねていくと、刑罰はどんどん重くなる。3回目、4回目ともなると、長期刑は避けられない。これをなんとかしようとして、裏社会では『新しい戸籍を手に入れて、犯歴を消す方法』が編み出された。横浜には、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎と並ぶドヤ街・寿町(ことぶきちょう)がある。ここで暮らす日雇い労働者の中から、係累が少なく、姿を消しても誰も気にしないような男を探し出す。寒くなったら、夜、酒をしこたま飲ませて、ズボンのチャックを開けて川に突き落とす。酔っ払って小便をしようとして落ちたことにするのだ。むろん、事前に戸籍を調べて犯罪歴がないことを確認しておく。この男になりすませば、重罪を犯しても初犯として扱われる。短い刑期で娑婆に出て来られるのだ」

 頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えました。小説の一場面として描かれていましたが、「これは事実だ」と直感しました。寒い季節になるたびに、毎月のように発見される酔っ払いの水死体。決まって開いているズボンのチャック。警察が「身元不明の溺死体」として処理し、新聞記事にもならないような事件の裏に、そんなことが隠されていたとは・・。新聞記者として裏社会の一端をのぞいたような気になっていましたが、その闇がどれほど深いのか、初めて目の前に突きつけられた思いでした。

 事件取材で同業他社にスクープされて地団駄を踏んだことは数知れませんが、これほど腹の底に響くような「抜かれ」は初めてでした。悔しさは感じませんでした。むしろ、そんなところまで掘り下げて暴き出す作家の力量に畏敬の念すら覚えました。「日々のニュースを追いかけるのに精いっぱいの新聞記者にできることは限られている。その、さらに奥を追いかけている人たちがいるのだ」と感じ入り、これからは「心の引っかかり」を覚えたことにはきっと何かがある、と考えて取材しなければならない、と肝に銘じたのでした。

 こんな古い話を思い出したのは、最近読んだ『中国 狂乱の「歓楽街」』(富坂聰、KADOKAWA)に「北京で発見される身元不明の変死体」のことが書かれていたからです。中国では戸籍が都市戸籍と農村戸籍に分かれており、地方に住む者が都市戸籍を得るのは極めて難しい。都会に出稼ぎに行き、売春婦として働く女性のほとんどは身分証を偽造して偽名で働いている。このため、トラブルに巻き込まれて殺される売春婦の多くは「身元不明の変死体」として処理されてしまうのだそうです。こういう事件は「無頭案(ウートウアン)」と呼ばれ、多い時には北京だけで月に20件に達したこともあるというのです。中国社会の深いところで何が起きているのか。それを鋭くえぐり出している本でした。

 どの社会も、それぞれ深い闇を抱えています。新聞記者として駐在したインドでは、被差別カーストの人たちが置かれた、すさまじい状況を垣間見ました。戦禍のアフガニスタンで感じた底知れぬ憎悪の連鎖。次に赴任したインドネシアでは、微笑みを浮かべた独裁者、スハルト前大統領の下で、どす黒い犯罪がいかにまかり通っていたかを見聞きしました。新聞記者として伝えられることには限界があると知りつつ、「闇はさらに深い」ということをにじませる記事を書くように努めました。どこまでできたか、自信はありませんが。

 それぞれの社会が抱える闇は深く、一人ひとりの人間が抱える闇もまた深い。しみじみ、そう感じます。その闇の深いところに少しずつ光を当てていく。闇の領域をできるだけ小さくしていく――開かれた社会とは、そうした試みをあきらめることなく、コツコツと積み重ねていく社会のことであり、そうした積み重ねの先にこそより開かれた社会がある、と信じたい。
(長岡 昇)

        *      *      *

 横浜の水死体の話は、馳星周氏か大沢在昌氏の小説で読んだと記憶しているのですが、いくつかの作品を再読しても見つけることができませんでした。別の人の小説だったのかもしれません。

《参考文献》
▽『不夜城』『鎮魂歌 不夜城?』『長恨歌 不夜城完結編』(馳星周、角川書店)
▽『絆回廊 新宿鮫X』(大沢在昌、光文社)

*写真 2015年12月13日、長岡昇撮影










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 NPO「ブナの森」が主催する第3回最上川縦断カヌー探訪は、2015年7月25日(土)に朝日町雪谷から中山町・長崎大橋までの28キロ、26日(日)は村山市・碁点橋から大石田町まで20キロのコースで開かれました。最上川は、木曜日の激しい雷雨と金曜日の雨で少し増水し、川下りにちょうどいいコンディションでした。1日目は薄曇り、2日目は快晴。2日間の参加者は30人で、2人乗りの艇が6組ありましたので、24艇でのカヌー行でした(2012年の第1回カヌー探訪は24人、2014年の第2回は35人が参加)。

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第3回探訪の難所、村山市の隼(はやぶさ)の瀬を行く鶴巻・根本艇

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1日目、五百川(いもがわ)峡谷のタンの瀬に入る小林艇(愛犬ショコラ同乗)

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カナディアンでタンの瀬を乗り切る中沢艇
 
≪参加者≫ 30人+2匹(チワワ、プードル)
山形県内13人、県外17人(宮城3人、福島3人、埼玉3人、栃木2人、群馬2人、東京2人、青森1人、長野1人)

【2日間で48キロを完漕】 18人(エントリー順)
林 和明(東京都足立区)▽菊地 大二郎(山形市)▽菊地 恵里(同)▽崔 鍾八(山形県朝日町)▽清野 由奈(同)▽塚本 雅俊(群馬県前橋市)▽塚本 弘美(同)▽根本 学(福島県郡山市)▽鶴巻 泰(福島県いわき市)▽斉藤 栄司(山形県尾花沢市)▽中沢 崇(長野市)▽和田 勤(栃木県那須塩原市)▽和田 智枝(同)▽市川 秀(東京都中野区)▽岸 浩(福島市)▽佐竹 久(山形県大江町)▽伊藤 敏史(埼玉県本庄市)▽小野 俊博(山形県大江町)=崔・清野艇にコナン<プードル>同乗

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開会式を終え、さあ出発(山形県朝日町雪谷で)

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崔・清野艇の船頭をつとめた愛犬コナン
 
【2日間で40キロを完漕】 1人(2日目の昼、村山市・隼の瀬まで)
高田 徹(青森県八戸市)
【1日目、28キロを完漕】 3人
東海林 憲夫(山形県寒河江市)▽小林 悟志(埼玉県川口市)▽小林 忍(同)=小林艇にショコラ<チワワ>同乗
【2日目、20キロを完漕】 8人
細谷 敏行(山形県大江町)▽伊藤 信生(山形県酒田市)▽鈴木 達哉(宮城県柴田町)▽鈴木 未知哉(同)▽池田 丈人(山形県酒田市)▽佐藤 博隆(同)▽三塚 志乃(仙台市太白区)▽渡辺 政幸(山形県大江町)

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2日目は碁点橋のたもとからスタート

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今年も軽やかなパドルさばきを見せた菊地艇

≪陸上サポートスタッフ≫
安藤 昭雄▽佐久間 淳▽白田 金之助▽鈴木 賢一▽鈴木 智▽長岡 昇▽長岡 典己▽長岡 佳子▽山口 義博

≪出発、通過、到着時刻≫
1日目(7月25日)
  10:00 朝日町の雪谷カヌー公園を出発(予定を30分繰り上げ)
  10:20 八天の瀬を通過、2艇が沈
  10:50 八天橋を通過
  11:20 朝日町の川通に到着、根本・鶴巻艇の水漏れを修理
  11:30 川通を出発
  11:50 最大の難所、タンの瀬を通過
  12:20 大江町用(よう)の用橋を通過
  13:25?14:30 大江町「おしんの筏下りロケ地」で昼食、休憩
  16:10 中山町の長崎大橋に到着
        村山市・碁点橋のたもとにカヌーを置き、大石田町に移動
  18:30 大石田町・東町公民館での歓迎ビアガーデンに参加(18人)

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難所、三ケ瀬(みかのせ)の手前にある大淀で横に広がる

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同じく大淀で

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塚本艇に続く三塚・斉藤艇

2日目(7月26日)
   8:30 大石田河岸から車で出発、2日目の出発地点、碁点橋へ
   9:15 村山市・碁点橋から出発
   9:30 竜神の吊橋を通過
  10:20 大淀を通過、陸上サポート要員は真下慶治記念美術館から声援
  10:50 三ケ瀬橋を通過
  11:10 長島橋を通過
  11:30?12:45 村山市の隼の瀬眺望公園で昼食、休憩
  13:05 隼橋を通過
  14:15 大石田河岸に到着
  14:40 閉会式

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最大の難所、隼(はやぶさ)の瀬を乗り切る三塚・斉藤艇

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隼の瀬を行く林艇。舳先に取り付けてあるのは大江町をPRする旗

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アンカーの佐竹艇も隼の瀬を通過

≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県西村山郡朝日町宮宿1115 朝日町公所会館)
     email:bunanomori.npo@gmail.com
≪主管≫ 最上川縦断カヌー探訪実行委員会(NPO「ブナの森」、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブの3者で構成)

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親子で参加した鈴木艇

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大石田河岸に最初にゴールした市川艇

≪後援≫
 国土交通省山形河川国道事務所▽山形県▽東北電力(株)山形支店▽朝日町▽大江町▽西川町▽寒河江市▽河北町▽中山町▽村山市▽大石田町▽山形カヌークラブ▽大江カヌー愛好会▽山形県カヌー協会▽美しい山形・最上川フォーラム

≪協力≫
 大石田町・東町区長 矢作(やはぎ)善一▽東町公民館長 細矢裕▽東町公民館の皆様
   *7月25日夕、東町公民館でのビアガーデンに参加させていただきました
≪輸送と保険≫
 マイクロバス・チャーター  朝日観光バス?
 旅行保険  あいおいニッセイ同和損保、ベル保険オフィス

≪写真撮影≫
 佐久間淳、長岡昇、長岡典己
≪ウェブサイト、ポスター、Tシャツ制作、横断幕≫
 ウェブサイト制作 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、原田美穂)
 ポスター制作 若月印刷(デザイン・高子あゆみ)
 Tシャツデザイン 遠藤大輔
 横断幕揮毫 成原千枝

【ウェブアルバム、ユーチューブの動画】 カラー文字のところをクリックしてご覧ください
塚本雅俊さん撮影のウェブアルバム

中沢崇さん撮影のウェブアルバム(三ヶ瀬、隼の瀬の動画もあります)

隼の瀬の動画(Youtube 撮影・長岡昇)





*メールマガジン「小白川通信 32」 2015年8月27日

 この夏、マレーシアのマラヤ大学で開かれたサマーキャンプに参加しました。キャンプの趣旨は「欧州とアジアの交流をさらに拡大する」という高邁なもの。ただ、その割には参加者は私を含めて9人と、いささか寂しかったのですが、講師のラインナップは素晴らしく、参加者との会話も刺激的で、とても実り多いキャンプでした。

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マレーシアのナジブ・ラザク首相

 折しも、マレーシアではナジブ・ラザク首相の蓄財疑惑が発覚し、巷はその話題でもちきりでした。疑惑は、マレーシア政府が100%出資する投資会社「ワン・マレーシア・ディベロップメント(1MDB)」の関連会社や金融機関から、ナジブ首相の個人口座に7億ドル(約840億円)が不正に振り込まれた疑いがある、というもの。この投資会社はナジブ首相の肝いりで設立されたもので、首相兼財務相のナジブ氏はこれを監督する立場にあります。

 「個人的に流用したことはない」とナジブ首相は弁明しています。送金は何回かに分けて行われ、2013年5月の総選挙直前に振り込まれた金もあります。このため、「与党の選挙資金ではないか」との憶測や「マレーシア政界の権力闘争がらみ」といった見方が飛び交っています。この問題を最初に報じたのはウォール・ストリート・ジャーナルで、メディアの追及は厳しく、その後、首相の夫人の蓄財疑惑まで報じられました。

 サマーキャンプで一緒だったフィリピンの大学院生は「まるで、マルコス大統領とイメルダ夫人みたいだね。イメルダは豪華な靴を宮殿に残して有名になったけど、ナジブ夫人はお金を何につぎ込んだのかな」と興味津々の様子。中国通の学生が「中国の腐敗に比べたら、マレーシアの腐敗なんてかわいいもんだ」と話に割って入りました。

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周永康・前政治局常務委員

 今年の6月に終身刑が言い渡された中国共産党の前政治局常務委員、周永康は「本人と一族が蓄え、当局に押収された資産は900億元」と報じられました。円に換算すれば1兆円以上です。中国の石油ガス業界のドンで、党中央の序列9位まで上り詰めた人物だけに、蓄財もけた違いです。この学生によれば、数百億円程度の不正蓄財なら「中国にはゴロゴロある」のだそうです。

 別の学生は「蓄財より、こっちの方が驚きだ」と切り返しました。スマートフォンで中国メディアの記事を検索しながら、「140人以上もの愛人を囲っていた党幹部がいる。江蘇省建設庁のトップ、徐其耀という男だ。愛人の数では、今のところ彼が一番」と言う。自ら手を付ける。賄賂として女性を差し出させる。徐は権力と金にものをいわせて女漁りにふけりました。2000年10月に逮捕され、翌年、執行猶予2年の死刑判決(事実上の終身刑)を受けています。愛人数ナンバーツーは湖北省天門市の共産党市委員会書記、張二江で、囲った愛人107人。歴史小説『水滸伝』で梁山泊に立てこもった豪傑108人になぞらえ、本妻を含めて108人の女豪傑を相手にした男として「時の人」になったとか。こちらは懲役18年。

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江蘇省の幹部、徐其耀

 知名度という点で、この2人を上回るのが重慶市の党幹部、雷政富だそうな。雷は賄賂として建設会社から送り込まれた18歳の少女とトラブルになり、彼女がこっそり撮影したビデオをネット上で公開されてしまいました。そのセックスビデオの中で、雷は13秒で果ててしまったため「雷十三」と名付けられ、ビデオの公開から63時間後に失脚したため「雷六三」とも呼ばれて、一躍有名になったのだそうです。判決も懲役13年。

 日本で暮らす私たちから見れば、800億円の蓄財も140人の愛人汚職も「けた違いの腐敗」です。そして、共通しているのは、どちらの国でも権力が一つに集中していることです。中国もマレーシアも建前としては権力の分立をうたっていますが、その実態はそれぞれ、中国共産党とマレーシア国民戦線という政党の一党独裁です。権力を握る者の暴走を食い止める仕組みがないか、なきに等しい。だから、腐敗もとめどなく広がり、深まるのです。

 中国経済の先行きを懸念して、このところ世界各地で株価が乱高下しています。つい最近まで「中国は世界の工場」とか「世界経済の成長を牽引する中国」とかもてはやしていたのが嘘のようです。腐敗や暴走をチェックし、行き過ぎをコントロールする仕組みがない社会がどうなるのか。私たちはこれから、その危うさを目撃することになるでしょう。

 同時に、この混乱すら「大もうけのチャンス」とみなして、欧米や日本のハゲタカファンドは牙を研いでいるはずです。先進国や産油国の「ダブついた金」もまた、歯止めなきゲームの重要なプレーヤーであり、私たちにとっても決して他人事ではありません。世界は漂い、乱れ始めています。
(長岡 昇)


《参考サイト》
マレーシア・ナジブ首相の蓄財疑惑(フランスの通信社AFP)

徐其耀と張二江のスキャンダル(日経ビジネスONLINE)

雷政富のスキャンダル(ニューズウィーク日本語版)



《写真のSource》
▽ナジブ・ラザク首相(2015年7月、AFP)
http://www.afpbb.com/articles/-/3053735?ref=jbpress

▽周永康(2007年10月、ロイター)
http://jp.reuters.com/article/2015/06/11/china-corruption-idJPKBN0OR1B520150611?feedType=RSS&feedName=worldNews

▽徐其耀
http://news.sina.com.cn/c/239519.html







*メールマガジン「小白川通信 31」   2015年8月17日
            
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類いでしょうか。戦後70年の節目の夏に安倍晋三首相が発表した談話について、首相の政治信条に批判的な朝日新聞は「いったい何のための、誰のための談話なのか」「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と、いささか感情的とも言える社説を掲げました(8月15日付)。

 確かに、安倍首相の談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」と、歴代政権が反省し、わびてきたことを確認しただけで、自らの言葉で謝罪することはありませんでした。「侵略」という言葉も一回だけ、「事変、侵略、戦争」と並べて使っただけです。まるで「侵略という言葉も入れたよ」と、アリバイを主張するような言及の仕方でした。

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21世紀構想懇談会の初会合(2015年2月25日)

 あの戦争をどう受けとめるのか。命を落とした、すべての人々に何を語りかけたかったのか。政治家としての真摯さを感じさせるものではありませんでした。ですが、戦後50年の村山談話や戦後60年の小泉談話に比べると、「優れている」と評価できる内容も含まれていました。それは、日中戦争やアジア太平洋戦争を、長い歴史の文脈の中で捉え、語っている点です。

 今回の首相談話は、戦争への道を「100年以上前の世界」から説き起こしています。20世紀の初め、アジアや中東、アフリカで「われわれは独立国だ」と胸を張って言える国はほんの一握りしかありませんでした。日本、タイ、ネパール、アフガニスタン、トルコ、エチオピア、リベリアくらいではないでしょうか。ほかの地域は大部分、欧米の植民地あるいは保護領として過酷な収奪にさらされ、列強の縄張り争いの場となっていました。

 小国、日本はその中で独立をまっとうしようとして必死に生きたのであり、ロシアとの戦争にかろうじて勝利を収めたのです。1905年の日露戦争の勝利がアジアや中東、アフリカで植民地支配にあえぐ人々に「勇気と希望」を与えたのは、まぎれもない歴史的事実です。その後、日本は時代の流れを見誤り、増長して戦争への道に踏み込んでいきましたが、その戦争は「侵略」という一つの言葉で語り尽くせるような、生易しいものではありません。どういう時代状況の中で日本が戦争に突き進んでいったのか。それは極めて重要なことであり、村山談話でも小泉談話でもきちんと語らなければならないことでした。

 97歳の中曽根康弘元首相は毎日新聞への寄稿(8月10日付)で、日本軍が中国や東南アジアで行ったことは「まぎれもない侵略行為である」と認めつつ、「第二次大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは、複合的で、対米英、対中国、対アジアそれぞれが違った、一面的解釈を許さぬ、複雑な要素を持つ」と記しました。「あの戦争は侵略戦争だったのか、それとも自存自衛の戦争だったのか」といった、一面的な設問と論争はもう終わりにしなければなりません。「侵略や植民地支配、反省とおわび」のキーワードを使ったのかどうか、といった表層的な見方にも終止符を打ちたいのです。そのためには、1930年代と40年代の戦争だけを切り取って語るような狭量さから抜け出さなければならない、と思うのです。
 
 「そうは言っても、歴史的な叙述のところは安倍首相の本音ではないはずだ。首相の私的懇談会(21世紀構想懇談会)の受け売りではないか」とあげつらう向きもあるでしょう。その通りかもしれません。けれども、戦後70年の首相談話のような重要な演説は、だれが下書きを書いたのかとか、だれの助言が反映されたのかといったことを乗り越えて記録され、人々の記憶になっていくのです。時がたてば、読み上げた首相の名前すら忘れ去られ、独り歩きしていく歴史的な文書なのです。

 2015年、戦後70年という節目に、日本という社会は先の戦争をどう総括し、未来をどのように切り拓こうとしていたのか。それを物語る記録なのです。その意味で、戦争の意味合いを曖昧にし、謝罪も不十分だったことは残念ですが、あの戦争が一面的な解釈を許さない、苛烈な戦争であったことを長い歴史の文脈の中で語ったことは、後に続く世代のためにも有益なことでした。

 そして、追悼の対象を「300万余の日本人戦没者」にとどめるのではなく、戦争で斃れたすべての人々に思いを致さねばならないこと、戦後の日本に温かい手を差し伸べてくれた中国やアジア諸国、戦勝国の人々に感謝する心を忘れてはならないと述べたこと、戦後の平和国家としての歩みを「静かな誇りを抱きながら」貫くと宣言したことも、意義深いことでした。そうした点も評価しなければ、公平とは言えないでしょう。

 私には、安倍首相の政治信条は理解できません。首相にふさわしい器とも思いません。けれども、私たちの社会が今、首相として担いでいるのは安倍晋三という政治家であり、それ以外に持ち得なかったのも事実です。戦後70年談話という重要な政治声明も、彼の口を通して語られるしかなかったのです。切ないことですが、それも認めざるを得ません。なのに、その談話を「出すべきではなかった」などとバッサリ切り捨て、そこには何の意味もないかのように論じるのでは、あまりにもさもしい。

 非は非として厳しく追及し、認めるべきことは率直に認める。そのうえで、未来を生きるために何をしなければならないのかを論じる。メディアには、政治家の器量を超えて物事を捉え、未来を照らすような、懐の広さと深い洞察力が求められていると思うのです。

 首相が談話を読み上げた後の会見のあり方も変えてほしい。記者クラブの幹事が質問し、その後の質問は政権側の司会進行役が指名するような方法をいつまで続けるつもりなのか。朝日、読売、毎日の3大紙とNHKの記者がだれも質問しないような首相会見を視聴者がどう受けとめるかも考えてほしい。誰が質問するかはメディアの側がくじ引きで決める。そのうえで、自由にガンガンと質問する。そういう方法に変えるべく力を尽くすべきではないか。

 安倍政権の提灯持ちのようなメディアと、遠吠えのような批判を繰り返すメディア。これも、私たちの社会が戦後70年で辿り着いた現実の一つですが、変えようとする強い意志があれば、変えられる現実ではないか。
(長岡 昇)

≪参考資料≫
戦後70年の安倍首相談話(首相官邸公式サイト)

▽20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の報告書

≪写真のSource≫
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201502/25_21c_koso.html




 *メールマガジン「小白川通信 30」 2015年8月8日

 しなければならないことをせず、ほかの人に大きな迷惑をかけたならば、その人は責任を取らなければなりません。これは小学生でも分かる論理です。ところが、この当たり前のことが検察官の間では通用しないようです。原発事故の被災者が東京電力の幹部や政府関係者を告訴・告発したのに、東京地方検察庁は2度にわたって「裁判で刑事責任を問うことはできない」として不起訴処分にしました。

 検察の言い分は「あのような大きな津波が発生することを確実に予測することはできなかった。従って、東京電力の備えが不十分だったとは言えない」というものです。確かに、東京電力はそう主張しています。規制官庁の原子力安全・保安院も右へならえです。しかし、本当にそうだったのでしょうか。大津波を予測し、警告した人はいなかったのか。東電と保安院はなすべきことをきちんとしてきたのか。

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事故から1年後の福島第一原子力発電所(2012年2月)

 福島の原発事故を考える際に、つい見落としてしまいがちなことがあります。それは、2011年3月11日に東北の沖合で巨大地震が発生し、大津波に襲われたのは福島第一原発だけではない、ということです。大津波は宮城県にある女川原発にも福島第二原発にも押し寄せました。なのになぜ、福島第一原発だけがこの悲惨な事故を引き起こしたのか。しかも、福島第一に6基ある原子炉のうち、なぜ1?4号機だけが全電源の喪失、原子炉の制御不能、炉心溶融と放射性物質の大量放出という大惨事を招いてしまったのか。それには、しかるべき理由と原因があるはずです。

 その点をとことん突き詰めた本があります。昨年の11月に出版された添田孝史氏の『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)です。添田氏は朝日新聞の科学記者でしたが、2011年5月に退社してこの問題の追及に専念し、本にまとめました。実に優れた報告です。とりわけ、女川原発と福島第一原発の設置時の津波想定を比較している序章が秀逸です。

 原発の設置申請は福島第一の1号機が1966年、女川原発の1号機が1971年でした。まだ地震の研究が十分に進んでいない時期で、津波の研究はさらに立ち遅れていました。そうした中で、東京電力が福島第一原発の設置申請をする際に想定した津波は、1960年のチリ地震の津波でした。この時、福島第一原発に近い小名浜港で記録された津波の高さは3.122メートル。これに安全性の余裕を見て5メートルほどの津波を想定し、海面から30メートルあった敷地を10メートルまで削っで原発を建設したのです。当時はこれで十分、と判断したのでしょう。

 これに対して、女川原発では明治29年と昭和8年の三陸大津波に加えて、869年の貞観(じょうがん)地震による大津波をも念頭に置いて津波対策を施し、原発の敷地を14.8メートルに設定しました。東電が調べたのはわずか10数年分の津波データ。それに対し、平安時代まで遡って津波を考えた東北電力。その結果が海面からの敷地の高さが10メートルの福島第一と14.8メートルの女川という差となって現れたのです。この4.8メートルの差が決定的でした。

 添田氏は、女川原発の建設にあたって、東北電力がなぜそのように慎重に津波の想定をしたのかを詳しく調べています。そのうえで、同社の副社長だった平井弥之助氏の存在が大きかった、と結論づけています。宮城県岩沼市出身の平井氏は、三陸大津波の記録に加えて、地元に伝わる貞観大津波のことを知っていたのです。そして、部下たちに「自然に対する畏れを忘れず、技術者としての結果責任を果たさなければならない」と力説していました。(前掲書p12)。平井氏の思いは部下に伝わり、女川原発を津波から守った、と言うべきでしょう。

 東京電力の大甘の津波想定がその後もそのまま通用するはずがありません。地震と津波の研究が進むにつれて、東京電力は「津波対策を強化すべきだ」という圧力にされされ続けます。1993年の北海道南西沖地震では、奥尻島に8メートルを超える津波が押し寄せ、最大遡上高は30メートルに達しました。これを受けて、国土庁や建設省、消防庁など7省庁が「津波防災対策の手引き」をまとめ、「これまでの津波想定にとらわれることなく、想定しうる最大規模の地震津波も検討すべきである」と打ち出しました。

 1995年の阪神大震災の後には、政府の地震調査研究本部が「宮城沖や福島沖、茨城沖でも大津波が起きる危険性がある」と警告を発しました。2004年のインド洋大津波の後にも、津波対策を急がなければならないと問題提起した専門家は何人もいたのです。

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インド洋大津波でスマトラ島アチェの海岸に打ち上げられたタグボート

 それらに、東京電力はどう対処したのか。2008年には社内からも「15メートルを超える津波が押し寄せる可能性がある」という報告が上がってきていたのに、上層部が握りつぶし、ほとんど何の対策も取らなかったのです。それどころか、意のままになる地震学者を動員して、警告を発する専門家や研究者の動きを封じて回った疑いが濃厚です。東電はこの間、度重なる原発の事故隠しスキャンダルで逆風にさらされ、中越地震で損壊した柏崎刈羽原発の補修工事にも追われて赤字に陥り、経営的にも厳しい状況にありました。巨額の費用がかかる津波対策を先送りにせざるを得ない状況に追い込まれていたのですが、そうした事情を割り引いても、許しがたい対応と言わなければなりません。

 添田氏は地震の研究者や原子力規制の担当官、電力会社の幹部らに取材して、その経過と実態を白日の下にさらそうとしています。経済産業省や保安院が東電をかばって資料を見せようとしないのに対しては、情報公開制度を駆使して文書を開示させています。彼の本はそのタイトル通り、津波に対する警告を葬った人々に対する弾劾の書です。

 日本の検察は「有罪にできる自信がない限り、起訴しない」というのを鉄則にしています。いったん起訴されれば、被告の負担は大きく、たとえ無罪になったとしても取り返しのつかない打撃を受けるおそれがあるからです。それはそれで立派な原則ですが、それを権力を握り(地域独占企業である東京電力は限りなく「権力機関」に近い)、中央省庁を巻き込んで都合の悪いことを隠そうとする組織の幹部にまで同じように適用しようとするから、おかしなことになるのです。

 11人の市民からなる東京第五検察審査会が東京地検の不起訴処分を覆して、東電の勝俣恒久・元会長と武黒一郎・元副社長、武藤栄・元副社長の3人を業務上過失致死傷の罪で強制起訴する、と決めたのは極めて健全な判断と言うべきです。検察は「大津波を確実に予測することはできなかった」と主張しているようですが、そもそも数千年、数万年、数十万年というスパンで動く地球の動きを地震学者が「確実に予測する」ことなど、昔からできなかったし、今でもできはしないのです。できることは「自然に対する畏れを忘れず、謙虚に研究を積み重ね、できる限りの対策を施す」ということに尽きます。東北電力はそれを愚直に守り、東京電力は「小さな世界」に閉じこもって姑息な手段を弄し、大自然の鉄槌を浴びる結果を招いたのです。

 「小さな世界に閉じこもる」という点では、検察も同じです。日本で現在のような法体系ができたのは明治維新以降で、まだ1世紀半しか経っていません。そういう小さな枠組みで、東日本大震災という未曽有の事態に対処しようとするから、おかしなことになるのです。突き詰めれば、法の淵源は一人ひとりの良心と良識、その総和にほかなりません。そういう大きな枠組みに立ち、未来を見据えて、東電の幹部は司法の場で裁かれるべきかどうか判断すべきでした。有罪か無罪かはその先の問題であり、最終的な判断は裁判所に託すべきだったのです。

 検察審査会が東電の旧経営陣3人の強制起訴を決めたことに関する新聞各紙の報道(8月1日付)も興味深いものでした。原発政策の推進を説く読売新聞が冷ややかに報じたのは理解できますが、朝日新聞まで1面に「検察と市民 割れた判断」と題した解説記事を掲載したのには首をかしげざるを得ませんでした。中立的と言えば聞こえはいいのですが、それは検察の言い分をたっぷり盛り込んだ、他人事のような記事でした。

 中央省庁や電力会社の人間に取り囲まれ、その言い分に染まり、既得権益の海に沈んだ検察。その検察の取り巻きのようになって、一緒に沈んでいく司法クラブの記者たち。朝日、毎日、読売の3紙を読み比べた範囲では、「予見・回避できた」という検察審査会の主張を1面の大見出しでうたった毎日新聞が一番まともだ、と感じました。「法と正義はどうあるべきか」を決めるのは検察ではありません。三権のひとつ、司法の担い手である裁判所であり、最終的には主権者である私たち、国民です。その意味で、検察審査会のメンバーは立派にその職責を果たした、と言うべきです。
(長岡 昇)


《写真のSource》
▽福島第一原子力発電所(2012年2月)
http://www.imart.co.jp/houshasen-level-jyouhou-old24.3.19.html
▽スマトラ島アチェのタグボート(2005年1月29日、長岡昇撮影)








 
*メールマガジン「小白川通信 29」 2015年7月31日

 また「戦争を語る季節」が巡ってきました。戦後70年の節目とあって、この夏は早くから新聞各紙で「戦争企画」の連載が始まりました。それぞれ、歴史の闇に埋もれてしまいかねないものを掘り起こそうとする意欲を感じ、学ぶところも多いのですが、大学で現代史の講義を担当している立場からは、やはり不満が残ります。あの戦争について、いまだに大きなテーマの一つが取り上げられないままになっている、と感じるからです。

 それは、アジア太平洋戦争に動員され、命を落とした日本軍将兵の半数近くが戦闘による死ではなく、食べるものがないために餓死、あるいは栄養失調に陥って病死した、という事実です。私もこの問題については無知でした。ガダルカナル島やインパール作戦、さらにはフィリピンでの戦闘で多くの餓死者が出たことは知っていましたが、それが局所的なことではなく、中国大陸を含め、多くの戦場で起きていたとは知りませんでした。自分で調べ、その実態を詳しく知るにつれて、あまりのひどさに愕然としています。

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 この問題を正面から扱っているのは、藤原彰(あきら)一橋大学名誉教授の著書『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)です。藤原氏は陸軍士官学校を卒業し、中国大陸を転戦した将校です。戦後、大学に入って歴史学者になり、自らの戦場体験を踏まえてこの本を著しました。冒頭、彼はこう記しています。
「戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことがこの戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。死者に代わって告発したい」

 ガダルカナルやニューギニアのポートモレスビー、インド北東部のインパールで起きた補給途絶による餓死を詳述した後、藤原氏はフィリピンでの大量餓死を扱っています。フィリピンは、先の戦争で日本軍の将兵が最も多く犠牲になった戦域です(次に多いのは中国本土)。1964年の厚生省援護局の資料によれば、陸海軍の軍人・軍属の死者は約212万1000人(1937年の日中戦争以降の死者。戦後のシベリア抑留による死者も含む)。このうち、49万8600人もの人命がフィリピンで失われているのです(フィリピン政府の発表によれば、戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人も100万人を上回ります)。

 フィリピン、その中でも酸鼻を極めたレイテ島での戦いで、兵士たちはどのような状況に追い込まれたのか。それを小説にして世に問うたのが大岡昇平でした。『野火』(新潮文庫)の主人公、田村一等兵は作者自身の姿であり、米軍の捕虜になった著者がレイテ島の捕虜収容所で出会った兵士たちの分身でもあったでしょう。作品の中で、飢えにさいなまれる田村一等兵に死相を呈した将校が上腕部をたたきながら語りかけるシーンがあります。
「何だ、お前まだいたのか。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」

 将校は顔にぼろのように山蛭(やまびる)をぶら下げながら「帰りたい」とつぶやき、息絶えます。田村一等兵はまず、その山蛭の血をすすり、誰も見ていないことを確かめてから右手に剣を握り、腕の肉をそぎ落とそうとします。その時、不思議なことに、左の手が右の手首を握り、剣を振るうのを許さなかった――。死の瀬戸際で、人は何を思い、どう振る舞うのか。田村一等兵はかろうじて自分を制しますが、踏みとどまれなかった者もたくさんいたのです。

 戦場で将兵の治療にあたった軍医たちの記録『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(陸上自衛隊衛生学校編)には、食糧が尽き、医薬品もないまま、マラリアや下痢で死んでいった兵士たちの状況が延々と綴られています。そしてついには、日本陸軍の医療記録に「戦争栄養失調症」なる病名が登場するに至ったのです。衛生史の筆者は「軍内のいわゆる政治的配慮により、かかる特殊な病名がでっちあげられたと説く学者もあり、現に栄養物の補給にこと欠かなかった米軍には、本症の如き記載はない」と記しています(p151)。

 軍医たちは、戦死者と戦病死者の割合をどうみていたのか。『陸軍衛生史』は「敗戦によって統計資料は焼却または破棄されており、推定するよしもない」と記すのみです。藤原氏は著書でこのことを「もっとも重大な問題を欠落させている」と批判していますが、「そう書くしかなかった」と言うべきでしょう。緒戦の勝利の後、日本軍は多くの戦線で敗走し、指揮官が自分の部隊の状況すら把握できないといった事態がいたるところで現出したからです。従って、「戦病死の方が多い」と断定するのは難しいのですが、少なくとも「半数近くは戦闘による死亡ではない」とは言えるのではないか。だからこそ、戦後、復員した兵士の中に「戦友の家族を訪ねてその最期を伝えたいと思っても、できない」と懊悩する人が幾人もいたのです。嘆き悲しむ遺族に「やせ衰え、排泄物にまみれて死んでいった」などと、どうして伝えられようか、と。

 長い歴史の中で、戦争はいろいろな国で幾度も繰り返されてきました。ですが、その軍隊の兵士の半分近くが「食べ物がなくて斃(たお)れた」というような戦争がほかにあったでしょうか。そのような戦争を命じた指導者たちがいたでしょうか。日清、日露の戦争に勝ち、日中戦争で蒋介石軍を蹴散らしているうちに、「皇軍は無敵」と酔いしれ、大きな世界が見えなくなる。冷静に分析し、合理的に行動することもできなくなる――その挙げ句、70年前の破局を迎えたのです。

 「それは日本軍の特質」と言って済ますことはできないでしょう。形を変えて、戦後の日本社会に引き継がれ、今なお脈々と生き続けているのではないか。膨大な借金を抱えながら、その支払いを次の世代に押し付けて恥じない。広島、長崎に続き、福島の原発事故であれだけの惨禍をこうむりながら、なお平然と原発の再稼動をめざす――その破廉恥な姿は、前線の苦しみをよそに東京の大本営で無責任な戦争指導を続けた軍人たちの姿と重なって見えてくるのです。

 ガダルカナルの戦場で飢え、フィリピン、ビルマと転戦しながら詩を書き続けた吉田嘉七(かしち)は『ガダルカナル戦詩集』(創樹社)の最後に、次のような詩を掲げました。

  遠い遠い雲の涯に
  たばにして捨てられた青春よ
  今尚大洋を彷徨する魂よ
  俺達の永遠に癒えない傷あと

 私たちの国は、今また「人としての心」をたばにして捨てるような道へ踏み込もうとしているのではないか。

(長岡 昇)

《参考文献》
◎『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰、青木書店)
◎『野火』(大岡昇平、新潮文庫) *大岡昇平の小説を原作にした映画『野火』(塚本晋也監督)が公開されています。詳しくは色塗りの部分をクリックしてください。
◎『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(1971年、陸上自衛隊衛生学校編)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)

≪写真説明とSource≫
◎写真は映画『野火』のワンシーン
Source : http://eiga.com/movie/80686/gallery/5/











 *メールマガジン「小白川通信 28」 2015年7月10日

 村の朝は早い。村人が総出で農道の改修や田んぼの水路の泥かきをすることを「普請(ふしん)」といい、たいていは日曜日の朝5時すぎから作業が始まります。5時半集合、ということになっているのですが、なにせみんな早起きで、集合時間の前に作業が始まってしまうのです。

 山形県朝日町の山あいの村にある実家では母親が一人で暮らしていたため、去年まで普請の仕事は免除されていました。私は隣の地区にある団地に住んで通いで介護をしていたのですが、今年の1月に母親が90歳で亡くなったため、週末は私が空き家になった実家で暮らすようになりました。遺品や荷物を片付けてリフォームを済ませ、秋には実家に引っ越すつもりです。

 というわけで、引っ越しの前なのですが、村の人から「普請があるよ」とお誘いがかかり、このあいだの日曜日に私も参加しました。「主な作業は田んぼの畦(あぜ)の草刈りと農道の側溝の泥かき」と教えてもらったので、草刈り鎌のほかに、先のとがったスコップ(剣スコ)と四角いスコップ(角スコ)を持ってでかけました。側溝の泥かきには剣(けん)スコより角(かく)スコの方がいいからです。

 現場に着いてすぐ、ずっと村で暮らしている人との差を見せつけられました。草刈り鎌などを持ってきているのは私ともう一人くらい。あとは各自、エンジン駆動の草刈り機を肩からぶら下げています。側溝からすくい上げた泥を運ぶために、軽トラックで来た人も何人かいました。こちらは徒歩で、手に草刈り鎌。「新米の村人」には機動力も機械力もありません。草刈りはお任せして、私は側溝の泥かきに専念しました。

 1時間ほど泥かきをして作業が終わりかけた頃、泥の中から奇妙な石を見つけました。こびりついた泥を落としてみると、細長い打製石器でした。長さ8センチ、幅3センチほど。木にくくりつけて槍として使った石器のように見えます。それほど驚きもしませんでした。と言うのも、生まれ故郷の朝日町には旧石器時代や縄文時代の遺跡がいくつもあり、打製石器や古い土器がたくさん見つかっているからです。

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田んぼのわきで見つかった打製石器

 一部の考古学者の間では、朝日町は旧石器が日本で初めて発見され、記録されたところとして知られています。こんなことを書くと、「何を言ってるんだ。旧石器が日本で初めて発見されたのは群馬県の岩宿(いわじゅく)だ。行商をしながら考古学の研究をしていた相沢忠洋という人が見つけて、明治大学の研究者が1949年(昭和24年)の秋に記者会見して発表している。どの教科書にも書いてある」とお叱りを受けそうです。

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岩宿遺跡で発見された槍先形尖頭石器
 
 確かに、どの教科書にもそう書いてあります。しかし、相沢忠洋氏が旧石器を発見し、明治大学の研究者がその成果を発表する前に、実は山形県朝日町の大隅(おおすみ)というところで旧石器が多数見つかっており、地元で小学校の教員をしていた菅井進氏が1949年発行の考古学の同人誌『縄紋』第三輯に「粗石器に関して」という論文を寄稿していたのです。岩宿遺跡についての発表の半年前のことでした。



 けれども、東北の寒村での発見。小学校の教員が書いた論文は、考古学者の目に触れることはありませんでした。たとえ、目にとまったとしても、当時の考古学会では「日本には旧石器時代はない」というのが常識でしたから、黙殺されたことでしょう。岩宿遺跡の旧石器が「日本初」として記憶されるに至ったのは、相沢忠洋氏の尽力に加えて、その成果が明治大学の著名な考古学者によって発表され、その後も継続して発掘調査が行なわれたからです。大隅の旧石器は世に認められることなく、歴史の谷間に埋もれてしまったのです。

 考古学の研究史に残ることはありませんでしたが、群馬県の岩宿よりも先に山形県の大隅で旧石器が発見され、記録されていたという事実は消えません。そして、大昔、新潟県境に近い山形のこんな山奥で多くの人間が暮らしていたのは確かなのです。朝日町には大隅遺跡以外にも旧石器時代の遺跡があり、縄文時代のものとみられる遺跡もたくさんあるのです。

 さらに興味深いのは、この町には発掘調査が行なわれなかった遺跡もかなりある、と考えられることです。私の実家がある太郎地区の遺跡もその一つです。小学生の頃(今から半世紀前)、村のおじさんから「こだなものが出できた」と、打製石器をいくつかもらいました。この場所は県や町に届けられることなく、農地としてそのまま開墾されたと聞きました。戦後の食糧難の時代、農民は何よりも食糧の増産を求められていたました。役所に「遺跡が見つかりました」と届け出て発掘調査などされたのでは、仕事にならなかったからです。

 黙って開墾し続け、石器や土器を片隅に追いやった村人の気持ちも分かります。朝日町のほかの地区でもこうした例があったと聞いています。私の故郷だけの話ではないでしょう。全国各地でこうしたことがあったと考えるのが自然です。近年はともかく、戦前、戦後の時期に考古学者が発掘することができたのは、見つかった遺跡のごく一部と考えるべきでしょう。

 そして、思うのです。今、わが故郷の朝日町は過疎に苦しんでいますが、旧石器時代や縄文時代にはとても暮らしやすいところだったのだろう、と。遺跡はいずれも、日当たりのいい河岸段丘にあります。秋、山ではクリやドングリがたくさん採れ、最上川や支流の朝日川にはサケが群れをなして遡上してきたはずです。厳しい冬を生き抜くための糧が得やすい場所だったのです。もちろん、旧石器時代を懐かしんでも何の足しにもなりません。けれども、そこには、厳しい過疎の時代を生き抜き、新しい時代を切り拓いていくためのヒントが何か潜んでいるような気がするのです。
(長岡 昇)



《参考サイト》
戸沢充則・明治大学学長の講演「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」抄録(朝日町エコミュージアム協会)

大隅遺跡発見の経緯(同)

明治大学HPの考古学関係(岩宿遺跡)

相沢忠洋記念館

群馬県みどり市岩宿博物館

《参考文献》
◎『朝日町史 上巻』(朝日町史編纂委員会、朝日町史編集委員会編、2007年発行)
◎『人間の記録 80 相沢忠洋 「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』(相沢忠洋、日本図書センター)
◎『日本の旧石器文化』1?4巻(雄山閣出版)
◎『日本考古学を見直す』(日本考古学協会編、学生社)






 第3回最上川縦断カヌー探訪は、2015年7月25日(土)と26日(日)に予定通り開催されます。
1日目は山形県朝日町から中山町まで28キロ、2日目は村山市から大石田町までの20キロを下る予定です。山形県の内陸部は22日夕、激しい雷雨に襲われ、23日も小雨模様です。予報では当日、大雨になる心配はありませんが、「清流を下る」というわけにはいかないかもしれません。

 参加を申し込まれた方は30人です。山形県内から13人、県外から17人。日程別では1日目のみの参加が3人、2日間のフル参加が19人、2日目のみ参加が8人。従って、1日目に川下りをするのは22人(17艇)、2日目に下るのは27人(22艇)になる予定です。両日とも、2人乗りの艇が5艇あります。

 25日は午前10時から、山形県朝日町の雪谷カヌー公園で簡素な開会式を行い、10時半にスタート、26日は村山市・碁点橋のたもと(右岸)から午前10時スタートの予定です。ご参考までに、2012年の第1回カヌー探訪の参加者は24人(山形県内21人、県外3人)、2013年は山形豪雨のために中止、2014年の第2回カヌー探訪の参加者は35人(県内19人、県外16人)でした。

  
 
*メールマガジン「小白川通信 27」 2015年6月12日

 父親の世代が兵士として戦った70年前の戦争の呼称について、私たちの世代は中学や高校で「太平洋戦争」と教わりました。新聞記者になってからもこの呼び方に疑問を抱くことはなく、長い間、記事の中でもそう書いてきました。この呼称に違和感を覚えるようになったのは、1990年代にニューデリー特派員としてインドに駐在したころからのような気がします。

 インドからスリランカに出張し、コロンボでお年寄りに昔の思い出話を聞いた時のことです。彼は戦争中のことを語り始め、こう言ったのです。「あの時はびっくりしたよ。日本軍の航空機が銀翼をきらめかせて急降下して、港に停泊していたイギリスの船を爆撃したんだ。日の丸のマークが見えたよ。いつも落ち着いているイギリス人があわてふためく様子が実に印象的だった」。真珠湾を攻撃した後、日本の連合艦隊がインド洋にも出撃したことは記憶していましたが、当時この地域を植民地として支配していた英国にこれほど大規模な攻撃を仕掛けていたとは、不勉強でこの時まで知りませんでした。

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 インド洋での日英の戦いはどのようなものだったのか。ニューデリー特派員としての取材の合間に戦史をひもとき、調べました。ビルマ南方の海に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島をめぐっても、激しい争奪戦が繰り広げられたことを知りました。そして、1944年(昭和19年)のインパール作戦。日本軍の無謀、悲惨な戦闘の典型とされるこの作戦の主戦場は、太平洋どころかインド洋からも遠く離れています。作戦から50年後の1994年に、遺族の慰霊団に同行して現地を訪ねる機会がありましたが、戦場になったインパールもコヒマもインド北東部の山岳地帯にあるのです。

 あの戦争を「太平洋戦争」と呼んだのでは、これらの戦いはすべてその枠組みから抜け落ちてしまいます。中国本土での日本軍と蒋介石軍や中国共産党軍(八路軍)との戦いを「太平洋戦争の一部」とするのもしっくりしません。この呼称に対する違和感が膨らんでいきました。かと言って、当時、日本政府が使っていた「大東亜戦争」を引っ張り出してきて使う気にはなれません。この戦争の内実は、「大東亜共栄圏を築くための戦争だった」などという綺麗ごとで済ませられるような、生易しいものではありません。アジアの隣人たちも快く思わないでしょう。

 では、どう呼べばいいのか。2年前に山形大学で現代史の講義を担当するようになってから、コツコツと調べてきました。そして、この30年ほどの間に戦争の呼称について多くの本や論文が書かれ、激しい論争が繰り広げられてきたことを知りました。それらの文献の中で、もっとも参考になったのは文芸評論家、江藤淳氏の『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)と、軍事・外交史の専門家、庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』(2011年3月、防衛研究所紀要第13巻第3号)の二つでした。「太平洋戦争という呼称はそもそも、だれが、どういう経緯で使い始めたのか」という点について、多くのことを教わりました。

 1945年夏に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、すぐさま戦争犯罪人の追及と軍国主義体制の解体に着手しますが、並行して検閲と報道規制に乗り出しました。同年9月19日に報道各社向けに「プレス・コード」を出し、「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「英霊」といった戦時用語の使用を避けるように指示しました。GHQの意向を受けて、新聞に「太平洋戦争」という表現が登場し始めます。この年の12月8日からは新聞各紙にGHQ提供の連載記事「太平洋戦争史」が一斉に掲載されました。1931年の満州事変から敗戦に至るまで、大本営の発表がいかに事実とかけ離れたものだったかを暴露し、日本軍による南京虐殺やフィリピンでの捕虜虐待などを告発する衝撃的な内容でした。この連載記事によって「太平洋戦争」という表現が日本社会に浸透していった、ということを江藤、庄司両氏の叙述で知りました。

小白川27 神道指令を伝える新聞1ff29d85-s.jpg

 一方で、GHQはこの連載開始の直後(12月15日)、日本政府に対していわゆる「神道指令」を出し、「大東亜戦争」「八紘一宇」など「国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル」と命じました。これ以降、日本政府は法令や公文書で「大東亜戦争」という言葉を使うのをやめ、「今次の戦争」や「先の大戦」「第二次世界大戦」といった表現を用いるようになりました。それは今に至るまで続いています。今年4月に慰霊のためパラオを訪れた天皇のあいさつでも、用いられた言葉は「先の戦争」でした。日本という国は公的な場で、いまだに「あの戦争についてのきちんとした呼称」を持たない国なのです。

 では、アメリカではこの戦争をどう呼んでいたのか。英語版のウィキペディアで検索すると「Pacific War」という項目があり、意外なことが書いてありました。「Names for the war (戦争の呼称)」という段落の冒頭に次のように書いてあるのです(長岡訳)。
「戦争中、連合国では“ The Pacific War (太平洋戦争)”は通常、第二次世界大戦と区別されることはなく、むしろ単にthe War against Japan(対日戦争)として知られていた。米国ではPacific Theatre (太平洋戦域)という用語が広く使われていた」

 つまり、米国では戦争中、対日戦争と対独戦争をひっくるめて第二次世界大戦と呼んでおり、Pacific (太平洋)という用語が使われたのは軍の作戦区域や管轄を示す場合であった、というのです。出典が示されていないため、それ以上は調べられませんでしたが、この記述は「太平洋戦争 The Pacific War 」という表現そのものが戦後、GHQによって採用されて日本で定着し、それが後に英語圏にも広がっていったことを示唆しています。「大東亜戦争」に取って代わる呼称としてGHQが普及させた、と言ってよさそうです。英国は主にインド洋で戦い、蒋介石軍・中国共産党軍との戦いは中国本土が舞台でしたが、米国にとっては「太平洋こそ主戦場」でしたから、ぴったりの呼称だったわけです。

 米国の占領統治の影響は絶大です。日本の新聞や書籍では、いまだに「太平洋戦争」と表記されるのが普通です。「アジア太平洋戦争」や「アジア・太平洋戦争」あるいは「大東亜戦争」という呼称はパラパラと見える程度です。高校で現在使われている日本史と世界史の教科書はどうか。入手できる範囲で調べてみました。私たちが学んだ頃から半世紀たつのに、ほとんどの教科書は「太平洋戦争」のままでした。いくつかは「最近ではアジア太平洋戦争ともよばれている」といった注釈を付けてお茶を濁しています。教科書会社も執筆者も「模様眺め」を決め込んでいるようです。

 そんな中で、異彩を放っているのが実教出版の『新版 世界史A』です。「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)」という見出しを立て、なぜこう呼ぶのか、丁寧な説明を付けているのです。地図にはインド洋での戦闘も明示しています。歴史を学ぶ生徒に少しでも多く、考える素材を提供したい――そんな執筆者の熱意が伝わってくる記述でした。一つひとつ、こうした努力を積み重ねていくことが歴史を考えるということであり、そうやって次の世代にバトンをつないでいかなければならないのだ、としみじみ思いました。

 歴史の刻印は強烈です。戦後70年たっても消えることなく、人々の心を縛り続けています。私もまた、縛りつけられた一人でした。最近になってようやくその呪縛から抜け出し、授業では「アジア太平洋戦争」という呼称を使うようになりました。もちろん、もっとピシッとした表現があるなら、それを使いたいと考えています。あれだけの戦争です。その歴史が定まるまでには、まだまだ時間がかかるわけですから。
(長岡 昇)


*庄司潤一郎氏の論考『日本における戦争呼称に関する問題の一考察』はカラー文字のところをクリックすれば、読むことができます。

*1945年12月8日から日本の新聞各紙に連載された『太平洋戦争史』は、翌1946年に高山書院から単行本『太平洋戦争史』として出版されました。大きな図書館なら所蔵していると思います。

*1994年に長岡がインパールへの遺族慰霊団に同行した際のルポ記事はカラー文字をクリックしてご参照ください。

≪写真説明とSource≫
セイロン沖海戦で日本軍の攻撃を受けて沈む英空母ハーミーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

GHQの神道指令を報じる毎日新聞
http://mahorakususi.doorblog.jp/archives/38143475.html



◇2004年10月23日付 朝日新聞別刷りbe「ことばの旅人」
 
 人は時に、奇妙な願望を抱く。
 私の場合、それは「灼熱の砂漠に身を置いて、どれだけ耐えられるか試してみたい」というものだった。
 北インドの農村で、熱風に身をさらしながら働く村人たちを見た。湾岸のクウェートでは、摂氏52度の熱波を体験した。その度に深いため息をつき、気候の穏やかな国に生まれ育った幸せをかみしめた。
 同時に、これほど過酷な土地にとどまり生きてきた人々に、畏敬の念に似たものを覚えた。何という強靭さ。自分にも、そのかけらのようなものがあるのだろうか。試してみたい、と思った。

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ヨルダンのワディ・ラムの砂漠を行く遊牧民の兄弟(撮影:千葉 康由)

 脳裏に浮かんだのは、学生のころに見た映画「アラビアのロレンス」に出てくる、あの砂漠だった。
 第1次大戦中、オスマン・トルコの支配下にあったアラビア半島で、アラブ人の反乱が起きる。トルコと戦っていた英国は、T・E・ロレンスを連絡将校としてアラブ軍に送り込み、反乱を支援した。
 映画はこの史実を基に、ロレンスを「砂漠の英雄」として描いたものだ。デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で1962年に封切られた。
 遊牧の民ベドウィンのラクダ部隊に加わり、ロレンスは砂漠に繰り出す。海に面したトルコの要衝アカバを背後から衝(つ)くためだ。
 砂漠を800キロ余りも踏破し、アカバまであとわずかという時、彼は部下のガシムがいなくなっていることに気付く。ラクダから落ち、砂漠に置き去りにされてしまったのだ。
 助けに行こうとするロレンスを、ベドウィンたちは「引き返せば死ぬ」「ガシムは寿命が尽きたのだ」と押しとどめ、こう言う。「これは定めなのだ」
(It is written.) 
 ラクダを鞭打ちながら、ロレンスは言い返す。「この世に定めなどない」
(Nothing is written.)
 ロレンスはガシムを救い、ベドウィンの信頼を勝ち取る。アカバを占領し、さらにダマスカスへ。映画は、西欧の理性がイスラムの宿命論を乗り越え、反乱に勝利をもたらす物語として展開する。
 だが、それは実像に虚像を塗り重ねた物語だ。虚像を剥ぎ取った後に見えてくるものは、歴史の激流に翻弄(ほんろう)され、魂を引き裂かれそうになりながら苦悩した一人の人間の孤独な姿ではないか。
論説委員・長岡昇



 「砂漠の英雄? とんでもない。彼は典型的な二重スパイだ」
 エジプトの日刊紙アルワフドのタラビリ編集長は、ロレンスが果たした役割を端的な言葉で表現した。
 「英国は第1次大戦を中東進出の好機とみなした。ロレンスは情報将校として、ある時は母国のために、別の時にはアラブのために動いた。ユダヤ人によるイスラエル建国の手助けまでした」
 当時の英国の「三枚舌外交」は、つとに有名だ。フランス、ロシア両国と密約を交わし、トルコ敗北後の領土分割を決めた。一方で、アラブ人には独立を、ユダヤ人には国家建設をそれぞれ保証した。
 両立し得ない約束を交わしたのは、戦争に勝つことが至上命題だったからだ。英国の振る舞いは、中東に紛争の火種をばらまく結果になった。イラクの国境線が引かれたのはこの時だ。パレスチナ人が父祖の地を失った遠因もここにある。
 だが、こうした外交を進めたのは当時の政治家や高官だ。戦場にいたロレンスにその責めを負わせるのは酷だろう。
 彼自身、密約を知って苦しみ、戦後もアラブとの約束を果たすために奔走した。富も名誉もすべて拒み、名前まで変えて世捨て人のような後半生を送ったのは、それでも、自責の念をぬぐい去ることができなかったからかも知れない。
 ロレンスが多くの足跡を残したヨルダンでも、厳しい声を聞いた。
 歴史家のスレイマン・ムーサ氏は「ロレンス伝説は欧米メディアが作り上げたものだが、本人にも自分の役割を過大に売り込む癖があった。アカバ攻略は自分の発案、というのもその一つだ」と言う。
 ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムを駆け抜け、トルコ軍を撃破するアカバのシーンは、映画のハイライト部分だ。ロレンスの著書にも「私の奇襲作戦」とある。
 しかし、ムーサ氏は多数の証言を根拠にこれを否定する。「ロレンスがアラビア半島に来たのは、反乱が始まって半年もたってからだ。トルコを攻める戦略はすでに決まっていた。アカバ攻略を立案したのは、アウダ・アブ・ターイだ」
 映画では、彼は金目当てにロレンスの部隊に合流した、がさつな族長として描かれている。ムーサ氏の言う通りなら、アウダの一族にとっては受け入れがたい扱いだろう。
 アカバで、アウダの孫アキフ氏(51)に会った。建設会社を経営する孫は、やはり「祖父の描き方は不満だ」と言う。
 ところが、ロレンスに対しては、先の2人とは正反対の考えを口にした。「彼はベドウィンの真の友だ。われわれのために戦い、血を流した」
 チャーチル首相はロレンスを「現代に生きた最も偉大な人物」とたたえた。一方、作家のリチャード・オールディントンは「大うそつきの変質者」と切って捨てた。英国での評価は二つに割れ、その死から70年近くたっても定まらない。それはアラブから見ても同じなのだった。
 有名になった後、ロレンスは知人に「忘れたい。そして忘れられたい」と語った。自分ですら自分が分からない。他人に分かるはずがないではないか−−そう叫びたかったのではないか。
 アカバを去り、その東にあるワディ・ラムの砂漠に向かった。広い枯れ谷の両側に、ほぼ垂直の岩山が連なる。ロレンス伝説が広がるにつれて、世界遺産のペトラ遺跡と並ぶヨルダンの観光名所になった。
 酷暑期に入ったせいで、砂漠は閑散としていた。2頭のラクダを仕立て、通訳を伴って砂漠に乗り出した。1泊2日。ラクダ使いがずっと付き添い、さらに2人のガイドがトラックで先回りして食事と泊まりの支度をしてくれる。
 飲み水にも事欠いたロレンスの砂漠行とは比べようもない。それでも、照りつける太陽は変わらない。少しだけだが、「灼熱の砂漠」を体験できた。
 この日は砂漠の奥からの熱風ではなく、かすかに海風が吹いていた。それが驚くほど、つらさを和らげてくれた。
 夜、ラクダ使いのイブラヒム君(19)が「テントを使わないで、砂の上に寝具を敷いてそのまま寝たら」と勧める。素直に従い、満天の星を眺めながら寝入った。
 かすかな風。きらめく星。小さな恵みが砂漠では大きな慰めになることを知った。ロレンスは砂漠に、どんな慰めを見いだしていたのだろうか。

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  アラビアのロレンスの関係先を「訪ねる」

 ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムまでは、首都アンマンからデザート・ハイウエー経由で車で4時間ほど。アカバからは約1時間。アンマンの旅行会社に頼めば、砂漠の旅をアレンジし
てくれる。交渉次第で、1時間の旅から1週間の旅まで可能だ。
 ワディ・ラムの砂漠は砂がそれほど厚くないため、四輪駆動車でも走り回ることができる。ラクダより料金は高い。ラクダを使った今回の旅は1泊2日で1人分が310米ドル(約34
000円)だった。
 暑さのピークは8月。その前後もかなり暑い。ラクダに乗ると、慣れていないこともあって体がこわばる。跳びはねるように揺れるので、尻に負担がかかる。記者は50キロほど乗った
が、最後に肛門部から出血した。
 夜は冷えるので長袖を用意した方がいい。場所によっては毒蛇やサソリ、毒グモがいるので、野営する場合には注意が必要だ。ガイドによると、観光客に被害が出たことはないものの、
数年前に遊牧民が毒グモに刺されて死亡したという。
 近くにローマ時代の遺跡とされるペトラ遺跡がある。

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  「読む」

 ロレンスの自伝的著作「知恵の七柱」は平凡社の東洋文庫から翻訳出版されている。その簡約本「砂漠の反乱」(角川文庫)は品切れ。
 ロレンスをめぐる論争などを知るには牟田口義郎著「アラビアのロレンスを求めて」(中公新書)が有益。スレイマン・ムーサ著「アラブから見たアラビアのロレンス」(中公文庫)は
欧米とは違う視点からロレンスの実像に迫る。
 ロレンスを日本に初めて紹介した故中野好夫の著書に「アラビアのロレンス」(岩波新書)があるが、品切れ。

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ことばの出典

 トマス・エドワード(T・E)・ロレンス(1888?1935年)は、英国貴族と駆け落ちした女性家庭教師との間に生まれた。オックスフォード大学在学中に中東を徒歩旅行し、卒論「十字軍の城砦(じょう・さい)」を執筆。卒業後はトルコとシリアの国境地帯で古代遺跡の発掘調査にあたった。
 第1次大戦の勃発に伴い陸軍に入り、1916年末から2年間、アラブの反乱に加わった。米国の従軍記者ローウェル・トマスが彼を「英雄」として報じ、米英両国で記録映画を交えた講演会をしたことから一躍、有名になった。
 アラブの反乱について、ロレンスは著書「知恵の七柱(なな・はしら)」で詳しく書いており、本文で紹介した「ガシム救出」のエピソードにも触れている。ただし、著書には「この世に定めなどない」という表現はない。この表現は映画「アラビアのロレンス」にあり、日本語の字幕では「運命だ」と訳している。
 日本学術会議の大川玲子・特別研究員(コーラン学)によると、アラビア語の動詞「カタバ」には「書く」という意味に加え、「運命をあらかじめ定める」という意味もある。詳しくは次のページの「学ぶ」の項を参照。

 写真はジェレミー・ウィルソン著「アラビアのロレンス」(新書館)から。

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 「学ぶ」

 大川玲子氏の新著「聖典『クルアーン』の思想」(講談社)によると、イスラム教では、全知全能の神が最初につくったものは「筆」と解釈されている。神は、その筆で天地創造から世の終末まですべての事を「天の書」に記し、次に天地創造にとりかかった、と解釈する。
 神が預言者ムハンマドに下した啓示は「天の書」の内容であり、すべてはあらかじめ定められている、という宿命論につながる。”It is written.”という映画のセリフは、以上のようなイスラムの宿命論を踏まえたものと考えられる。




*メールマガジン「小白川通信 26」 2015年4月7日

 沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事は5日、米軍普天間飛行場の移設をめぐって菅義偉(すが・よしひで)官房長官と会談し、次のように発言したと伝えられています。

「今日まで沖縄県が自ら基地を提供したことはない、ということを強調しておきたい。普天間飛行場もそれ以外の取り沙汰される飛行場も基地も全部、戦争が終わって県民が収容所に入れられている間に、県民がいるところは銃剣とブルドーザーで、普天間飛行場も含めて基地に変わった。私たちの思いとは全く別に、すべて強制接収された。そして、今や世界一危険になったから、普天間は危険だから大変だというような話になって、その危険性の除去のために『沖縄が負担しろ』と。『お前たち、代替案を持ってるのか』と。『日本の安全保障はどう考えているんだ』と。『沖縄県のことも考えているのか』と。こういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思う」(琉球新報の電子版から)

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 翁長氏は自民党沖縄県連の幹事長を務めたこともある保守の政治家です。その彼が安倍政権の官房長官に向かって「日本の政治の堕落」という言葉を突きつけたのです。この言葉には、戦争中の沖縄戦の惨状や戦後の米国統治下での苦難、祖国復帰後も続く基地負担、そうした沖縄が背負わされたすべてのことに対する思いがこもっている、と感じました。政治の堕落――沖縄の基地問題に対する本土の政治家たちの対応は、自民党にしろ民主党にしろ、まったくその通りだと思うのです。

 300万人を超える日本人が命を落としたアジア太平洋戦争で、南方や北方の戦場を除けば、沖縄は唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われたところです。日本軍にとって、沖縄戦の位置づけは明白でした。「本土決戦までの時間稼ぎ」です。圧倒的な兵力と物量で押し寄せる米軍を1日でも長く釘付けにして、本土決戦の準備を整えるために時間稼ぎをしようとしたのです。

 その目的のために、沖縄の住民を文字通り根こそぎ動員しました。男たちを兵士として徴兵しただけでは足りず、町村ごとに義勇隊を組織し、男子生徒は鉄血勤皇隊、女子生徒はひめゆり学徒隊などと名付けて動員し、戦闘に投入しました。沖縄県平和祈念資料館によれば、沖縄戦の日本側死者は約18万8000人、その半数は一般の住民でした(米軍の死者は1万2520人)。

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 その献身ぶりとあまりの犠牲の多さに、当時の沖縄方面根拠地隊司令官、大田実・海軍少将は海軍次官あてに次のような電報を送っています(昭和20年6月6日付)。
「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク 三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ シカレドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ・・・ニ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ(中略)本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形・・・一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」(・・・は判読不能の部分)

 海軍守備隊の司令官ですら「後世、特別のご高配をたまわりたい」と打電しないではいられなかったほどの犠牲を払った沖縄に、戦後の日本はどう報いたのか。報いるどころか、見捨てたのです。戦争が終わるやいなや、米国がソ連との対決色を強め、対ソ包囲網の一環として沖縄の軍事基地化を要求したからですが、共産主義の台頭を恐れる日本の指導層も自ら進んで沖縄を差し出したという側面があります。

 公開された米国の公文書によれば、昭和天皇は1947年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成を通してGHQ(連合国軍総司令部)に次のような申し出をしています。
「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。(中略)アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の(25年から50年ないしそれ以上の)貸与をするという擬制の上になされるべきである」
(月刊誌『世界』1979年4月号所収、進藤榮一「分割された領土」から引用)

 見捨てられた沖縄の人たちは当時、このような申し出があったことを知るよしもなく、戦後27年間も米国の統治下に置かれました。そして、本土復帰を果たした後も基地は戻らず、国土の0.6%を占めるにすぎない沖縄にいまだに在日米軍基地の74%があるのです。「普天間基地を返してほしい」「辺野古(へのこ)にその代替基地を造るのは認められない」と叫ぶのを、誰が非難できるというのか。

 菅官房長官にしてみれば、「普天間基地の移設問題は長い間、歴代政権が米国と協議を重ねてきたことであり、辺野古への移設以外に選択肢はないのだ」と言いたいのでしょう。「沖縄振興のために3千億円台の予算を確保する」とも発言しています。新たな方策を見出すのが至難のわざであるのはその通りでしょう。しかし、これまでの沖縄の苦しみを思うなら、また昨年11月の沖縄県知事選で示された移設に反対する民意を尊重するなら、為すべきことはまだあるのではないか。少なくとも、木で鼻をくくったような「(辺野古への移設を)粛々と進める」といった言葉ではなく、もっと沖縄の人々の心に響く言葉があるはずです。

 沖縄の米軍基地問題は、あの戦争が終わって70年たつというのにまだ戦後が終わっていないこと、沖縄はいまだに見捨てられた存在であること、本土の政治家で本気になって沖縄の現状を変えようとする者がいないことを私たちに突きつけてきます。それは「政治の堕落」としか言いようのない現実であり、私たち一人ひとりにも「あなたは沖縄の痛みに思いを寄せたことがありますか」という問いとなって返ってくるのです。
(長岡 昇)

《Sourceとリンク》
翁長雄志・沖縄県知事の冒頭発言全文(琉球新報電子版)

菅義偉・官房長官の冒頭発言全文(同)

大田実・沖縄方面根拠地隊司令官の電文

《写真説明とSource》
翁長雄志・沖縄県知事
http://tamutamu2011.kuronowish.com/onagatijisyuuninn.htm
ふじ学徒隊の女子生徒たち
http://www.qab.co.jp/news/2012052935780.html






*メールマガジン「小白川通信 25」 2015年3月28日
    
 私にとって、今年は神々の国、出雲と縁が深い年になりそうです。
 年明けに、高校時代の同級生で作家の飯嶋和一(かずいち)氏から最新作『狗賓(ぐひん)童子の島』(小学館)を贈っていただきました。島根県の隠岐(おき)諸島を舞台にした幕末期の物語です。今週は岡山市で講演を依頼されたのを機に島根県まで足を延ばし、松江市と出雲市を訪ねてきました。味わい深い作品であり、実り多い旅でした。

 江戸時代や幕末に素材を求める作家はたくさんいますが、多くは武将や武士、勤皇の志士を主人公にして「武士道」や「憂国の志」を描いています。そんな中で、飯嶋氏は異彩を放つ存在です。武士の多くは、農民や漁民が汗水たらして働いて得たものを掠め取り、特権商人と結託して甘い汁を吸う「腐敗した奸吏(かんり)である」と断じ、歴史を動かすエネルギーは幕藩体制の下であえぎつつ生きた市井の人々の中にこそあった、と語りかけてくるのです。

小白川25 隠岐諸島・島後の写真.jpg

隠岐諸島で一番大きな島、島後(どうご)

 『狗賓(ぐひん)童子の島』は、天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の描写から始まります。天保の大飢饉のころ、江戸でも大阪でも行き倒れの死体がそこかしこに転がっているような状況なのに、大阪東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)は実弟の老中、水野忠邦から江戸に米を回すよう命じられるやこれに応じ、民の困窮に拍車をかけました。私財を投げ打って貧民の救済に走り回っていた元与力で陽明学者の大塩平八郎は、ことここに至って門弟らと世直しのために立ち上がることを決意し、米を買い占めて私腹をこやしていた豪商らを襲撃したのです。

 内通者がいたこともあって、乱はわずか1日で鎮圧されてしまいましたが、江戸の幕臣や旗本たちのすさまじい腐敗と無能ぶりをあぶり出し、揺らぎ始めていた幕藩体制への痛烈な一撃になりました。高校の日本史の教科書では「幕末の社会」の中で10行ほど触れているだけの反乱の内実がどのようなものだったのか。それを「飢えた側」から活写しています。

 当然のことながら、乱に加わった者は極刑に処せられました。処罰は、大塩平八郎の高弟で豪農の西村履三郎(りさぶろう)の長男、6歳の常太郎にまで及びました。乱から9年後、15歳になると、常太郎は出雲の隠岐諸島に流人として送られたのです。物語は、この常太郎が隠岐で「大塩平八郎の高弟の息子」として温かく迎えられ、やがて漢方医になって島の人々と共に生き、故郷の大阪・河内に還るまでを描いています。狗賓とは島の千年杉に巣くう魔物で、島の守り神です。

 この本を読むと、異国船が出没する幕末、隠岐諸島は対馬列島などと並んで「国防の最前線」であったことがよく分かります。異国船は「未知の伝染病」をもたらすものでもありました。安政年間には外国人によって持ち込まれたコレラによって、2カ月足らずの間に江戸だけで26万人が死亡した、と紹介されています。「最前線」の隠岐諸島にも伝わり、漢方医の常太郎らは治療に追われます。隠岐を支配する松江藩の役人たちは無力で、コレラに立ち向かったのは流刑の島で生きる住民たち自身でした。庄屋は薬種の調達を助け、島民は漢方医の常太郎の手足となって奮闘したのです。

 大佛(おさらぎ)次郎賞を受賞した飯嶋氏の前作『出星前夜』も、キリシタンへの苛烈な弾圧に抗して蜂起した天草の乱を民衆の側から描いた作品でした。いつの時代でも、支配した側は膨大な史料を残しますが、つぶされていった者たちの言葉を伝えるものはわずかしかありません。それを丹念に拾い集め、想像力の翼を広げて書く――それがこの作家の流儀です。5、6年に一作しか世に問うことができないのも無理はありません。むしろ、よくぞ折れることなく書き続けてきたものだ、と驚嘆します。どの作品も長大で難解ですが、時の試練に耐えうるのではないかと感じています。個人的には、江戸時代に手製の凧で空を舞うことに挑んだ職人の物語『始祖鳥記』が特に好きです。

 岡山では、民間人校長としての体験を踏まえて「里山教育の勧め」というテーマで講演し、JR伯備(はくび)線で松江に向かいました。松江城の堂々たる構えに感心しながらも、『狗賓童子の島』を思い起こし、複雑な思いに駆られました。お堀端に「小泉八雲記念館」がありましたので見学し、館内で彼の作品『神々の国の首都』(講談社学術文庫)を買い求め、宿で読みました。彼の書いたものは断片的にしか触れたことがなく、しっかり読んだのは初めてです。

小白川25 小泉八雲と妻セツ.jpg

小泉八雲と妻の節子

 八雲は、明治初期の横浜や松江の人々と風俗を温かい目で描きつつ、自らの思いをたっぷりと書いています。そこには、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれ、両親の離婚、父親の死去、引き取ってくれた大伯母の破産といった試練をくぐり抜け、新天地アメリカでジャーナリストとして身を立てた、彼の人生そのものが濃縮されていると感じました。例えば芸術について、彼はこう記します。

「あらゆる芸術家は、過去の亡霊の中で仕事をするのだ。飛ぶ鳥や山の霞や朝な夕なの風物の色合や木々の枝ぶりや春やおそしと咲き出した花々を描く時、その指を導くのは、今は亡き名匠たちだ。代々の練達の工匠たちが、一人の芸術家にその妙技を授け、彼の傑作の中によみがえるのだ」(p18)

 キリスト教社会の厳しい戒律と偽善を嫌う八雲は、明治日本の大らかな人々と神々に心を寄せ、こう吐露してもいます。

「いかなる国、いかなる土地において宗教的慣習が神学と一致したためしがあっただろうか? 神学者や祭司たちは教義を創り、教条を公布する。しかし善男善女は自分たちの心根に従って自分たちの神様を作り出すことに固執する。そしてそうして出来た神様こそ神様の中ではずっと上等の部に属する神様なのである」(p231)

 八雲がこよなく愛した出雲の国は今、北陸新幹線の開通に湧く金沢や富山を横目に、人口減と高齢化に苦しみ、あまり元気とは言えません。観光案内をしてくれたタクシーの運転手さんは「島根の人口は70万を切りました。隣の鳥取に次いでビリから2番目ですわ」と嘆いていました。

 けれども、車窓から眺めると、そこには広々とした家屋でゆったりと暮らす人々の姿がありました。家々を守る立派な黒松の防風林は、数百年にわたって丹精を重ねてきた賜物です。すべては流転し、変転します。長い歴史の中に身を置いてみれば、今の大都市の繁栄もまた、つかの間の幻影のようなものかもしれません。いつの日にか、出雲をはじめとする日本海側の地域が再び「時代の最前線」に立つ日が来る、と私は信じています。
(長岡 昇)


*写真のSource:
隠岐諸島の島後(どうご)
http://shimane.take-uma.net/%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA_15/%E3%80%90%E6%B5%B7%E8%BF%91%E3%81%8F%E3%80%91%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%B3%B6%E7%94%BA%E3%81%AB%E3%82%82%E7%A9%BA%E3%81%8D%E5%AE%B6%E7%89%A9%E4%BB%B6%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%82%88%E3%80%90%E5%8F%A4%E6%B0%91%E5%AE%B6%E3%80%91

小泉八雲と妻の節子
http://isegohan.hatenablog.com/entry/2014/03/23/162941




*メールマガジン「小白川通信 24」 2015年3月6日
    
 大学関係者が「地方の国立大学から文系の学部がなくなるらしい」と騒いでいます。「そんなバカな」と思うのですが、それを本気で唱えている人がいます。文部科学省は昨年10月に「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という諮問会議を立ち上げました。18人から成るこの有識者会議のメンバー、冨山(とやま)和彦氏(経営コンサルタント)がその人です。

小白川24 冨山和彦氏.jpg

 どういう時代認識と論理で冨山氏は「地方の国立大学の文系学部廃止」を訴えているのでしょうか。彼が上記の有識者会議で配布した資料や、3月4日付の朝日新聞オピニオン面に掲載されたインタビュー記事から要約すると、次のような認識と論理に基づく主張です。

「日本経済は大きく二つの世界に分かれてしまいました。世界のトップと競う大企業中心のグローバル経済圏(G)と、地域に根差したサービス産業・中小企業のローカル経済圏(L)です。Gは競争力も生産性も十分だが、Lは欧米諸国に比べて生産性が低い。だから、地方の大学には学術的な教養ではなく、職業人として必要な実践的なスキルを学生に教えてほしい。従来の文系学部のほとんどは不要です。何の役にも立ちません。シェイクスピアよりも観光業で必要な英語を、サミュエルソンの経済学ではなく簿記会計を、憲法学ではなく宅建法こそ学ばせるべきです」

 実に歯切れのいい主張です。現在の大学が激変する時代の要請に十分に応えているかと問われれば、否と答える人の方が多いでしょう。時代が変わる中で、大学もまた変わらなければならないことは確かです。けれども、冨山氏の主張は乱暴すぎるのではないか。彼が描く大学の将来像は次のようなものです。

「日本の大学はアカデミズム一本やりの『一つの山』構造になっています。これを、高度な資質を育てるアカデミズムの学校と、実践的な職業教育に重点を置いた実学の学校という『二つの山』にすべきです。地方大学の文系の教授には辞めてもらうか、職業訓練教員として再教育を受けてもらいます。(不足する教員は)民間企業の実務経験者から選抜すればいいのです」

 これでは、大学関係者が騒ぐのも当然です。彼の主張には一部納得できるところもありますが、学問や教育に対する深い洞察が感じられません。そもそも、その時代認識と日本の現状についての考え方に同意できないものがあります。

 アメリカの大学院で経営学を学んだ人らしく、冨山氏も二元論が得意なようです。善か悪か、敵か味方か。アメリカで二元論が好まれるのは、騎兵隊がインディアンを追い立てて西部開拓に邁進した歴史の投影かもしれません。キリスト教的な価値観が影響している面もあるのでしょう。けれども、今はアメリカ的な価値観・世界観そのものが問われているのではないか。1%の富豪が国富の多くを占めるような貪欲な資本主義の下でグローバル化がこのまま進んでもいいのか。新しい第2、第3の道があるのではないか。その模索が続く中で、単純な二元論で時代を認識し、対策を打ち出せば、道を過るおそれがあります。

 何よりも、冨山氏が唱える「二つの山」論は、日本の経済成長を支えた「東京一極集中」の焼き直しです。東京がすべてを握り、地方に号令をかけて邁進する――江戸時代から綿々と続き、明治維新後も敗戦後も維持された上意下達型の社会構造を強化せよ、と言っているに等しい。そんなことで、多極化するこれからの世界を生きていけるのか。それこそが問われているのに、古い歌の替え歌を歌ってどうするのか。

 6年前に東京から故郷の山形に戻り、その実情に触れてきました。相変わらず東京の顔色をうかがい、中央政府から補助金を引き出すことに知恵を絞っている面があることは事実です。けれども、その一方で農村を拠点に世界と競う中堅企業が育っているという現実もあります。私が勤める山形大学にも世界に通用する研究者が幾人もいます。冨山氏の主張は、地方を拠点に世界と競い、汗を流している人たちに冷水を浴びせるものです。育ちつつある芽をつぶしてしまいかねません。

小白川24 新緑の飯豊連峰.jpg

 私は「東京一極集中」の焼き直しの「二つの山」など見たくはありません。それで未来が開けるとも思えません。大小さまざまな山が連なる社会へと変わって行く姿を見たい。そして、そのために必要な財源は「実は東京にある」と考えています。

 4年前の東日本大震災で、私たちは東京で号令をかける政治家や中央省庁の官僚たちが、いざという時にいかに頼りにならないかを骨身に染みて思い知らされました。政治システムも官僚制度もすでに時代にそぐわなくなっているのです。補助金分配機関と化した中央省庁は今の半分以下の人員と予算でいいのではないか。政官を取り巻く利権構造にも大ナタを入れなければなりません。いまだに甘い汁を吸い続けている組織と人間がいかに多いことか。

 地方の政治・経済や大学も改革を迫られていることは間違いありません。それを逃れるための「反対のための反対」は終わりにしなければなりません。けれども、より根本的なところに手を付けないまま、痛みを地方にだけ押し付けるような「大学改革論」にくみするわけにはいきません。いくつもの山々が連なるような社会へと変わる。そういう改革にこそ力を注ぎたい。
(長岡 昇)


《写真説明》
冨山和彦氏
Source:http://blogos.com/article/100873/
新緑の飯豊(いいで)連峰
Source:http://blogs.yahoo.co.jp/utsugi788/61642479.html








*メールマガジン「小白川通信 23」 2015年2月1日

 つらい事や切ない事があると、思い出す言葉があります。チェコのプラハ生まれの詩人、リルケの言葉です。

  一行の詩のためには
  あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
  見なければならぬ
  あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ
  空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし
  朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究めねばならぬ

  追憶が僕らの血となり、目となり
  表情となり、名まえのわからぬものとなり
  もはや僕ら自身と区別することができなくなって
  初めてふとした偶然に
  一編の詩の最初の言葉は
  それら思い出のまん中に
  思い出の陰から
  ぽっかり生れて来るのだ
     〈リルケ『マルテの手記』(大山定一訳、新潮文庫)から〉

小白川通信23 リルケの写真.jpg

 この文章に接したのは今から30年前、新聞社の編集部門に配属されている時でした。新聞記者として入社したのに失敗を重ねて編集部門に回され、記事を書くことができない立場にありました。他人の書いた原稿を読み、それに見出しを付けて紙面を編集する日々・・・。鬱々としている時でした。「何を甘えているんだ。お前はあまたの都市を見たのか。あまたの書物を読んだのか」。そんな言葉を突き付けられたようで胸に染み、忘れられない言葉になりました。

 その後、取材する立場に戻り、外報部に配属されました。アフガニスタンの内戦取材に追われ、インドの宗教対立のすさまじさにおののき、インドネシアの腐敗と闇の深さに度肝を抜かれて、心がすさんでいくのが自分でも分かりました。走りながら、なぐり書きを繰り返すような毎日。そんな時に、またこの文章に戻って反芻していました。「いつの日にか、心にぽっかりと浮かんだものを書ければ、それでいいではないか」と思えて、心が安らぐのでした。

 取材の一線を離れて論説委員になってからは、それまでよりは書物を読む時間を多く持てるようになりました。先輩や同僚の論説委員の書くものに接する機会も増えました。その中で、忘れられない文章があります。2001年5月1日の朝日新聞に掲載された「歴史を学ぶ」という社説です。筆者は、退社して間もなく2004年に死去した大阿久尤児(おおあく・ゆうじ)さん。長い社説ですが、全文をご紹介します。

    ~    ~    ~

 「歴史」という日本語にも歴史がある。それも比較的にまだ新しい。
 小学館の『国語大辞典』によると、この言葉が初めて出てくる文献は『艶道通鑑』という江戸時代中期の本だそうだ。明治以後、英語のヒストリーにあたる言葉として広く使われるようになる。日本語には多くの漢語が取り入れられてきたが、「歴史」は日本生まれの言葉だ。中国にもいわば逆輸入されて、リーシという発音で、同じ意味に使われている。
 
 歴史教育もまた歴史的な産物だ。英国の学者ノーマン・デイウィス氏がその著『ヨーロッパ』で書いている。「そもそも19世紀に歴史教育というものが始まった時点で、それは愛国心に奉仕するように動員された」(別宮貞徳訳、共同通信社)

 19世紀とはどんな時代だったのか。それまでの欧州には、君主がいわば財産としてもつ領土と、そこに暮らす民とがあったが、現在の意味での国家や国民という概念はまだ存在していなかった。フランス革命と、その後のナポレオンの戦争で、今のフランスにつながる国家が初めて成立し、その領域に住む人々に同じフランス人という意識が芽生えた。現在にいたる「国民国家」(ネーション・ステート)体制の始まりだ。

 この国民国家という仕組みはまず、欧州を中心に急速に広まった。ドイツやイタリアができた。そのころ鎖国を脱した日本がめざしたのも、この仕組みだった。昔の人は「武蔵の国の住人」などと名乗っていたのである。国家、国民という日本語も、西洋をモデルとして、明治になってから使われるようになった言葉だ。

 「国民国家という形態が普及したおもな原因は、軍事だ」と、東京外大名誉教授の岡田英弘さんが書いている(『歴史とはなにか』文春新書)。「国民国家のほうが戦争に強いという理由」で、この政治形態が世界中に広まった、と岡田さんは説明する。
 
 戦争という国家単位の生存競争に勝ち残るには、国民の総力を動員しなければならない。その手段として歴史教育も始まり、それぞれに祖国の栄光が強調された。歴史教育のこういう生い立ちは、何をもたらしたのか。

 さきに紹介したデイウィス氏は同じ著書で先輩たちを批判する。ヨーロッパの歴史家たちは、自分たちの文明こそ最良と思い込み、他の地域をかえりみず、自己満足にふけってきた、と。同氏は、「悪質な」教科書などの特徴を次のように数え上げる。「理想化された、したがって本質的にうその姿を、過去の真実の姿として描く。好ましいと思うものはすべてとりあげ、不快と思えばはじき出す」

 最近問題になった日本のある教科書の編集者の態度とどこか似ている。ヨーロッパ中心主義はおかしいが、日本の過去は何でも立派といいたげな教科書や歴史の本も、これまたおかしい。人はみな自分のルーツを知りたい。ご先祖はけなげで、立派だったと思いたいのは人情である。だが、そういう記述だけを、誇張もまじえて寄せ集めたのでは、歴史はただのうぬぼれ鏡になってしまう。
 
 8年にわたって国連の難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんに、ドイツのラウ大統領から最高位の功労勲章が授与された。東京のドイツ大使館で行われた授与式には、たまたま来日したティールゼ連邦議会議長が立ち会った。「緒方さんは人間として、アフリカやバルカンの難民の救援に全力をあげた」と授与の理由を述べた。

 日本人の緒方さんが「人間として」努力したことに対して、ドイツの元首がその国最高の栄誉でたたえる。国家をめぐる風景が、そんなふうに変化してきている。国民国家という「戦争向き」の体制は果たして、2度の世界大戦という悲惨な破局をもたらした。国家中心主義を真っ先に始めた欧州も、さすがに反省を迫られる。

 もはや国家はすべてではない。国家の枠を超えて互いに協力できることはいくらでもある。歴史から学ぶとは、例えばこういうことだろう。いまの欧州連合(EU)までの統合の歩みはその実践例である。

 日本もまた、歴史から学ぶことが多い。少し遅れて国民国家となったこの国も、内外に数々の不幸をもたらしてきた。日本人として、同時に人間として、いまの私たちは生きている。「お国のため」が当たり前とされた半世紀前までに比べて、「人間として」の部分が広がっている。これからももっと広がるだろう。

 父母や祖父母の世代に起きたことが、さまざまに関連しあって、今日ただいまの社会が出来ている。何を維持し、何を変えてゆくのか。過去をきちんと知らないでは、明日のことは決められない。かつては弱肉強食が当然だった。今では人道が前面にでる。価値観は時とともに変わる。その時点までの人類の経験の総体から、新しい価値観が生まれる。その経験を整理する術(すべ)が歴史だ、ともいえよう。

 人間として過去を知り、あすの指針にする。いびつな自己満足を排し、大人の判断力を培う。それが本当の歴史教育だ。

     ~      ~      ~


*注 リルケの『マルテの手記』は、彼が30歳代半ばの時の作品です。パリで暮らす貧乏詩人を主人公にした長編小説で、パリで妻子と離れて暮らしていたリルケ自身の生活を投影した作品と言われています。極度の貧困と壮絶な孤独。随筆を連ねるようなタッチでパリ時代を描いています。全編が詩、と言ってもいいような作品です。冒頭の文章は『マルテの手記』の一部を抜粋したもので、句点を省いて詩の形式にしてあります。

(長岡 昇)


《写真説明》 詩人ライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)
Source:http://www.oshonews.com/2011/10/rainer-maria-rilke/







【2009年】
10月17日 第1回最上川縦断カヌーレース検討会(朝日町)
10月29日  山形県河川砂防課の齋藤隆課長に企画説明
11月 9日  国土交通省山形河川国道事務所の山谷博志・副所長に企画説明
11月14日  第2回最上川縦断カヌーレース検討会
12月14日  西川町カヌー協会の荒川政司会長に企画説明
12月15日  第3回最上川縦断カヌーレース検討会

【2010年】
 1月23日  山形県カヌー協会の小林久雄事務局長に説明
 1月26日  第4回最上川縦断カヌーレース検討会
 3月 1日  第5回最上川縦断カヌーレース検討会兼NPO「ブナの森」の設立総会
         (朝日町)
 3月 8日 朝日町公所会館に「ブナの森」の事務所オープン
 3月16日  宮宿郵便局に寄付受付用の振替口座と総合口座を開設
 3月29日  「ブナの森」の第1回定例事務局会議(第2回総会を兼ねる)
          イベントの名称を「最上川縦断カヌーレース」から
         「最上川縦断カヌー探訪」に変更
する
         タイムレースではなく、 川下りをゆったり楽しむ企画にすることを決める
 4月 5日  「カヌー探訪」実現のため寄付要請の手紙50通を投函。募金活動を始める
 4月11日  地元・上郷の宇津野区長、海野信雄氏に協力要請
 5月 1日  第2回定例事務局会議。トライアルイベントについて協議
          準備不足のため臨時会議を開くことに
 5月10日  臨時事務局会議でトライアルイベントの準備
 5月15日、16日 最上川縦断カヌー探訪のトライアルイベント
         1日目は9人(8艇)、2日目は4人(4艇)で下る
 6月14日  第3回定例事務局会議。トライアルイベントの反省をし、
         ホームページ作成に着手することを決定
 6月24日   朝日町志藤六郎村おこし基金に補助金の交付申請を提出
         「ブナの森」の看板が取り付けられる
 7月 5日  ホームページ制作会社コミュニティアイと1回目の打ち合わせ
 7月16日  第4回定例事務局会議
          志藤六郎基金への補助申請とホームページ作成について事務局が報告
         事務局の専従スタッフが細谷智美さん(初代)から長岡由衣さんに(ゆい)
         さんに交代
 7月29日  朝日町志藤六郎基金からの補助金交付が決まる
 8月 5日  コミュニティアイと2回目の作業打ち合わせ
          国交省山形河川国道事務所に地図データの提供を要請
 9月23日  第5回定例事務局会議
 9月26日  最上川クリーンアップ作戦(第5回)に参加
10月 2日  山形カヌークラブの中川和夫理事長に最上川縦断カヌー探訪開催に向けて
         協力を要請
10月 5日 最上川縦断カヌー探訪のホームページを公開
10月26日  第6回定例事務局会議
11月25日  第7回定例事務局会議
12月 7日  朝日町上郷地区の安藤稔・連合区長、海野信雄・宇津野区長、奈良崎
         美雄・大滝区長、伊藤正男・松原区長に協力を要請
12月 9日  カヌー探訪のポスター制作をディーエムサインの渡邉幸雄氏に依頼
12月14日  山形県と国土交通省山形河川国道事務所、東北電力山形支店に後援を要請
          以後、流域の自治体にも後援を正式に要請
12月23日  山形大学漕艇部の鈴木隆部長(地域教育文化部教授)に協力を要請
12月27日  第8回定例事務局会議(兼第3回総会)
         事務局長が初代梅原宙(ひろし)さんから佐竹久さん(大江カヌー愛好会
         会長)に交代

【2011年】
 1月27日  第9回定例事務局会議
 2月 3日  朝日町が最上川縦断カヌー探訪の後援を決定。以後、関係団体から順次後援を
         いただく
 2月24日  第10回定例事務局会議
 2月25日  朝日町の町議のみなさんにカヌー探訪の企画を説明
 3月 1日  朝日町の創遊館でカヌー探訪実行委員会の結成大会を開き、第1回大会の
          開催日程(4月30日、5月1日)を決める
 3月10日  春先のカヌー川下りの危険性を考慮し、夏に延期する方向に転換
          朝日町議会の議員のみなさんに説明
 3月11日  東日本大震災が発生。以後、「ブナの森」は活動休止状態に
 6月 6日  「ブナの森」の活動を本格再開。第11回定例事務局会議を開き、
          第1回最上川縦断カヌー探訪を2012年に1年延期することを決定
 6月14日  「ブナの森」のホームページで第1回大会を2012年に延期すると告知
 7月 4日  第12回定例事務局会議で2回目のトライアル実施を決める
 7月30日、31日
          昨年の5月中旬に続いて2回目のトライアル川下り
         1日目は6艇9人、2日目は4艇5人が参加
          新潟・福島豪雨の直後で最上川は濁流状態だった
 9月18日  最上川クリーンアップ作戦に「ブナの森」として参加
 9月29日  第13回定例事務局会議
          トライアルの報告と総括。長岡昇が10月下旬に共著『未来を生きる
          ための教育』を出版し、その売上金を「ブナの森」の運営資金にする
          ことを報告
10月27日  第14回定例事務局会議
11月28日  第15回定例事務局会議。第1回大会に向けて準備作業の洗い出し

【2012年】
 1月17日  第16回定例事務局会議。最上川縦断カヌー探訪の第1回大会を7月
         28日(土)、29日(日) に開催することを内定。
開催に向けて作業
         日程表を作る
 2月27日  第17回定例事務局会議。荘内銀行ふるさと創造基金への助成申請を検討
 3月 7日  荘内銀行ふるさと創造基金に助成金の申請書類を郵送
         (5月の連休前に「今回は助成対象にならず」との連絡あり)
 3月27日  第18回定例事務局会議。5月17日にカヌー探訪実行委員会の再結成大会を
         開くことを決定
 4月24日  第19回定例事務局会議。年次総会を兼ねて開き、NPO「ブナの森」の規約
         第27条(事業年度)「9月から翌年8月まで」を「4月から翌年3月まで」と
         改正

 4月27日  国土交通省山形河川国道事務所や山形県、東北電力山形支店など、後援を
         依頼する。組織や団体にこの日以降、順次、依頼文書を手交もしくは送付
 5月13日  上郷ダム公園から大滝公民館への小路を大滝地区の役員の方々と整備
 5月17日  カヌー探訪実行委員会の再結成大会を朝日町の創遊館で開催。開催要項と結成
        宣言を採択
し、実行委の委員長に長岡昇、事務局長に佐竹久を選出した。
         鈴木浩幸・朝日町長、高橋正志・国土交通省長井出張所長、美しい山形・
         最上川フォーラムの柴田洋雄会長ら18人が出席  
 5月29日  第20回定例事務局会議。第1回カヌー探訪の準備作業の詰め。
 6月27日  第21回定例事務局会議。6月上旬から「ブナの森」ホームページで、カヌー
         探訪の参加者を募り始める。佐竹久事務局長が2日目のコースを試走して報告
 7月 6日  第1回カヌー探訪のポスター500枚がようやく届く
 7月14日  第1回カヌー探訪の参加申し込みを締め切る(実際には締め切り後も若干名を
         受け入れる)
 7月17日  第22回定例事務局会議。カヌー探訪の参加者とレスキュー担当は合計で25人
        (24艇)の見込み。上郷の花畑組合と食事提供について打ち合わせた結果を
         報告
 7月26日  ブナの森スタッフの分担・配置表を作ってメール送り
 7月27日  前日の準備。上郷ダム公園に仮設の船着き場を設置し、テントを張る。
        長井橋河川公園にもテントを仮設
7月28日  第1回最上川縦断カヌー探訪を開催
        1日目は長井橋から朝日町まで24キロメートルを漕ぐ。
        21人(19艇)が参加(レスキュー要員を含む)。参加者の多くが朝日町の
        りんご温泉で汗を流し、上郷ダム公園近くの大滝公民館に宿泊。花畑組合が
        夕食を提供した
7月29日  第1回カヌー探訪2日目
         上郷ダム下流にある赤釜(あかがま)からスタート。2日目は22人
        (20艇)が参加。八天橋の瀬で2艇が転覆。大江町の「おしんの筏くだり
         ロケ地」で昼食。午後4時半すぎに中山町の長崎大橋河川公園に到着。
         2日目は29キロ、合計で53キロを漕いだ
 8月 4日  「ブナの森」ホームページの「おおや通信」欄で第1回最上川縦断カヌー探訪の
        概要を報告
 8月11日  第1回カヌー探訪の参加者と支援者に報告とお礼を兼ねた手紙を発送
 8月29日  「ブナの森」ホームページに「記録」欄を新設、第1回カヌー探訪の参加者や
         支援者の名前、各ポイントの通過時刻などをアップ
 9月21日  第23回定例事務局会議(兼総会)を開き、第1回カヌー探訪の総括と反省を
         行った。NPOを法人化するためにも財政基盤を強化する必要があることを
         確認、年会費(一口5千円)を収める賛助会員を募ることを決める。
         来年の第2回カヌー探訪も7月最後の週末に開催する方向
 10月2日  以降 第1回最上川縦断カヌー探訪の事業報告書を後援団体に発送

【2013年】
 1月29日 第24回定例会議事務局会議を4ヵ月ぶりに開催。ポスターの試作など第2回大会
        の準備作業を始める。事務局の専従スタッフが長岡由衣(ゆい)さん(2代目)
        から和南城千陽(わなじょう・ちはる)さんに交代。和南城さんが常駐するのは
        3月から
 2月27日 第25回定例事務局会議。第2回最上川縦断カヌー探訪を7月27日(土)、
        28日(日)の両日に開催することを正式に決定。開催費用に充てるため、
        企業や団体からから協賛を募り、寄付を仰ぐことも決めた
 3月13日 荘内銀行ふるさと創造基金に助成申請書類を郵送
 3月26日 第26回定例事務局会議。7月27日、28日の第2回大会に向けて、準備作業の
        日程を固める
 4月25日 第27回定例事務局会議。第2回大会の開催要項と予算案を決めた。荘内銀行
        ふるさと基金の助成は受けられないとの連絡あり
 5月21日 第2回最上川縦断カヌー探訪の実行委員会結成大会朝日町の創遊館で開く。
         朝日町の川口幸男・副町長、国土交通省山形河川国道事務所の伊藤基博・長井
         事務所長らが出席、開催要項と事業予算を正式に決定 
 5月27日 第2回大会の参加申込みの受け付け開始日(ただし、ホームページの更新が遅れ、
        実際に受け付けを始めたのは6月上旬。7月14日締め切り)
 6月24日 第28回定例事務局会議。レスキュー体制など準備作業を詰めた。県外から
        朝日町に移住した水沼佑太さん、橋本蕗さんが手伝ってくれることになった
 7月19日 第29回定例事務局会議。参加者は23人(レスキュー要員9人を含む)の予定。
        進行シナリオやサポート要員の配置図などを作成
 7月25日 山形県を襲った集中豪雨のために最上川が氾濫。第2回大会の中止を決める。
        参加費を返却することに
 7月27日、28日 第2回最上川縦断カヌー探訪の開催を豪雨のために中止
 9月6日 第30回定例事務局会議(兼大会中止残念会)。8人が出席。第2回大会準備に
       要した費用は9万8676円。会議後に朝日町の居酒屋「番外地」で懇親会

【2014年】 
 3月27日 定例事務局会議を半年ぶりに再開(第31回)。2014年の大会を
       「出直し第2回最上川縦断カヌー探訪」と銘打って、7月26日、27日に開催
        することを内定。豪雨の場合は1週間順延し、8月2日、3日に開催する予定
 4月上旬 白鷹町地先の国道287号線で大規模な土砂崩れの起きるおそれがあることが判明。
       「1日目、長井市?白鷹町?朝日町」の川下りを断念し、朝日町から出発する
        ことに変更
 4月25日 第32回定例事務局会議。川下りのコースを「1日目 朝日町?中山町」
        「2日目 中山町?大石田町」に。その後、2日目のコースが長すぎるので
        「中山町?村山市」に変更
 5月27日 朝日町の創遊館で「出直し第2回最上川順段カヌー探訪」の実行委員会結成大会
        開き、開催要項案と予算案を採択。安藤昭郎・朝日町教育長ら8人が出席。
        コースは「1日目朝日町雪谷?中山町・長崎大橋 28?」「2日目 中山町・
        長崎大橋?村山市・碁点橋20?」の計48?に決定。
        結成大会に続いて、第33回定例事務局会議を開催
 6月 9日 「ブナの森」ホームページで参加申し込みの受け付けを開始
 6月13日 ホームページに「出直し第2回カヌー探訪」のコース図をアップ
 6月14日 出直し第2回のポスターを発注。予算不足のため100枚に
 6月19日 専門誌『カヌーワールド』の西沢あつしさんから取材申し入れ
 6月27日 第34回定例会議。開催に向けて準備作業の詰め
 6月30日 流域の消防と警察に開催要項を郵送
 7月12日 参加受け付けを締め切る。38人が申し込む(後に3人が辞退、参加35人に)
 7月15日 NHKプレミアム「ニッポンぶらり鉄道旅」のディレクター笠原正己さんから
        取材申し入れ
 7月19日 佐竹久、雀鍾八、長岡 昇の3人がコースを下見し、草刈り
 7月24日 ホームページで「予定通りに開催」と告知。佐竹久、雀鍾八、白田金之助、長岡昇
       の4人で中山町・長崎大橋の船着き場の泥かき
 7月25日 雪谷公民館を利用する6人が到着
 7月26日 出直し第2回最上川カヌー探訪の1日目。朝日町雪谷から中山町・長崎大橋までの
       28?に25人、20艇が参加。大江町「おしんの筏下りロケ地」昼食。
       10人が朝日町の北部公民館を利用
 7月27日 カヌー探訪2日目。31人が参加。中山町・長崎大橋から村山市・碁点橋まで
       20?。谷地橋で昼食。2日間の参加者は35人(山形県内19人、
       県外16人)、28艇
 7月28日 「ブナの森」ホームページに記録をアップ
 8月11日 第35回定例会議事務局会議。出直し第2回カヌー探訪を総括
 8月14日 NHKBSプレミアムの「ニッポンぶらり鉄道旅」でカヌー探訪が紹介される
 8月31日 事務局員の和南城千陽さんが退職。事務局の仕事は
       「まよひが企画(新林美幸さん)」に業務委託
11月22日 第36回定例事務局会議を開き、第3回カヌー探訪の準備を始める
       2015年7月25日、26日に開催することを内定

【2015年】
 2月27日 第37回定例事務局会議。第3回大会のコースを検討し、1日目は朝日町?中山
        町、2日目は村山市碁点橋?大石田町とすることを内定
 3月30日 第38回定例事務局会議。カヌー探訪実行委員会を5月15日に結成することを
        決定
 4月25日 第39回定例事務局会議。準備作業を本格化
 5月15日 第3回カヌー探訪の実行委員会の結成大会を開催
       開催要項と予算(35万円)を正式に決定
 6月 8日 第3回カヌー探訪の参加申し込みの受付開始
 6月26日 第40回定例事務局会議。マイクロバスや弁当の手配など作業の分担を確認
 7月11日 参加受け付けを締め切る。申し込みは30人(山形県内13人、県外17人)
 7月17日 第41回定例事務局会議。参加賞のTシャツや完漕賞など最後の詰め
 7月25日 第3回最上川カヌー探訪の1日目。朝日町雪谷から中山町・長崎大橋までの
       28?に22人、17艇が参加。大江町「おしんの筏下りロケ地」で昼食
       大石田町の東町公民館で開かれた歓迎ビアガーデンに18人が参加、公民館に宿泊
 7月26日 カヌー探訪2日目。27人、22艇が参加。村山市・碁点橋から大石田河岸まで
       20?を漕ぐ。隼の瀬眺望公園で昼食、休憩。
       2日間の参加者は30人(山形県内13人、県外17人)、24艇
   
 

 


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*メールマガジン「小白川通信 22」 2014年12月23日

 今年8月上旬の特集に続いて、古巣の朝日新聞が23日の朝刊に、慰安婦報道を検証する第三者委員会の報告書を掲載しました。1面と3面、真ん中の特集7ページ、さらに社会面の記事を含めれば11ページに及ぶ長文の報告、報道でした。

 精神的にも肉体的にも、最も充実した時期をこの新聞に捧げた者の一人として、実に切ない思いで目を通しました。何よりも切なかったのは、事実を掘り起こし、それを伝えることを生業(なりわい)とする新聞記者の集団が自らの手では検証することができず、その解明を「第三者委員会」なるものの手に委ねざるを得なかったことです。その報告を通してしか、慰安婦報道の経過を知るすべがないことです。

 報告書には、かつての上司や同僚、後輩の記者たちの名前がずらずらと出てきます。「これだけの人間が関わっていて、なんで自分たちの力で検証紙面を作れないんだ」と叫びたくなる思いでした。危機管理能力を失い、自浄能力も失くしてしまった、ということなのかもしれません。前途は容易ではない、と改めて感じさせられました。

 朝日新聞の慰安婦報道に関して、私は、1982年9月2日の朝日新聞大阪社会面に掲載された吉田清治(故人)の記事にこだわってきました。大阪市内での講演で「私は朝鮮半島で慰安婦を強制連行した」と“告白した”という記事です。これが朝日新聞にとっての慰安婦報道の原点であり、出発点だからです。その後の吉田に関する続報を含めて、彼の証言の裏取りをきちんとし、疑義が呈された段階でしっかりした検証に乗り出していれば、その後の展開はまるで違ったものになったはずなのです。

 実は、吉田清治が朝日新聞の記者に接したのはこの時が初めてではありません。1980年ごろ、彼は朝日新聞川崎支局の前川惠司記者に電話して「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので話を聞いて欲しい」と売り込んできたといいます。前川氏は川崎・横浜版で在日韓国・朝鮮人についての連載を書いていました。自分の話を連載で取り上げて欲しい様子だったといいます。著書『「慰安婦虚報」の真実』(小学館)で、前川氏はその時の様子を詳しく書いています。

 吉田は「朝鮮の慶尚北道に2度行き、畑仕事をしている人たちなどを無理やりトラックに載せて連れ去る『徴用工狩り』をした」といった話をしたといいます。それまで徴用工として来日した人の話をたくさん聞いていた前川氏は、「吉田の話には辻褄の合わないところがある」と感じたといい、会った時の印象を「何かヌルッとした、つかみどころのない感じ」と表現しています。この時に前川氏が書いた記事も、今回の検証で取り消しの対象として追加されましたが、不思議なのは、この時、吉田は前川氏に対して、慰安婦の強制連行の話をまったくしていないことです。

 そして、彼は1982年9月1日に大阪市内で講演し、慰安婦狩りの証言をしました。「徴用工狩り」から「慰安婦狩り」への軌道修正。前川氏の取材内容が大阪社会部に伝わっていれば何らかの役に立った可能性もあるのですが、新聞社に限らず、大きな組織というのは横の連絡が悪いのが常です。大阪の記者は吉田の軌道修正に気づくことなく、講演の内容をそのまま記事にしました。今年8月の慰安婦特集で、この記事を執筆したのは「大阪社会部の記者(66)」とされ、それが清田治史(はるひと)記者とみられることを、9月6日付のメールマガジン(小白川通信)で明らかにしました。清田氏もその後、週刊誌の取材に対して事実上それを認める発言をしています。

 ところが、朝日新聞は9月29日の朝刊で「大阪社会部の記者(66)は当時、日本国内にいなかったことが判明しました」と報じ、問題の吉田講演を書いたのは別の大阪社会部の記者で「自分が書いた記事かも知れない、と名乗り出ています」と伝えました。清田氏は日本にいなかったのに「自分が書いた」と言い、8月の特集記事が出た後で別の記者が名乗り出る。驚天動地の展開でした。しかも、今回の第三者委員会の報告書ではそれも撤回し、「執筆者は判明せず」と記しています。

 慰安婦報道の原点ともいえる記事についてのこの迷走。どういうことなのか、理解不能です。細かい記事はともかく、新聞記者なら、第2社会面のトップになるような記事を書いて記憶していないなどということは考えられません。しかも、ただの「第2社会面トップ記事」ではなく、その後、なにかと話題になった記事なのです。折に触れて仲間内で話題になったに違いないのです。原稿を書き、記事になるまでにはデスクの筆も入ります。編集者や校閲記者の目にも触れます。後で調べて、「誰が書いたのか分からない」などということは考えられないのです。

 とするなら、結論は一つしかありません。誰かが、あるいは複数の人間が「何らかの理由と事情があっていまだに嘘をついている」ということです。自らが属した新聞社にこれだけの深手を負わせて、なお嘘をついて事実の解明を妨げようとする。この人たちは、良心の呵責(かしゃく)を感じないのだろうか。
(長岡 昇)





*メールマガジン「小白川通信 21」 2014年12月16日

 北国に住む住民の感覚で言えば、今回の総選挙は「みぞれ雪のような選挙」でした。晩秋の氷雨に感じる哀愁もなく、初冬の新雪がもたらす凛とした厳しさもない。やたら水分が多く、ぐずらぐずらと降って始末に困るみぞれ・・・。ふたを開けてみれば、自民党と公明党は合わせて1増の325議席、衆議院で3分の2を維持しました。弱々しい野党各党の議席数がいくらか増減しただけ。投票率が戦後最低を更新したのも、選挙戦を見ていれば「そうだろうな」と思えるものでした。なんとも虚しい結末です。

小白川21 自民党本部(NHKサイト).jpg

 けれども、その意味するところは重大です。これから4年間、安倍晋三首相は心おきなく、自ら信じる政策を推し進めることが可能になりました。彼の政治信条と政策を支持する人たちは「してやったり」と快哉を叫んでいることでしょうが、私は「とんでもないことになってしまった」と受けとめています。

 民主党政権時代の政治があまりにもひどかったため、安倍政権の手綱さばきが国民に安心感を与えていることは理解できます。株価もそれなりに持ち直しましたから、財界の受けがいいのも当然でしょう。おまけに「日本の法人税は先進諸国に比べて高すぎる。法人税の減税を検討する」と言い出していますから、なおさら受けはいいはずです。ですが、安倍政権が推し進める「アベノミクス」がこの国を苦境から救い出してくれるとは到底、思えないのです。

 エコノミストの浜矩子(のりこ)同志社大学大学院教授は「株価が上がれば経済がよくなるという考え方は本末転倒です」「最大の眼目が成長戦略だというのも時代錯誤です」と、アベノミクスを批判しています。私も同感です。今、日本が直面しているのは「冷戦後の混沌とした時代、多極化する難しい過渡期をどう生きていくのか」という難題であり、「人類が経験したことのない急激な少子高齢化の中で、富の分配をどう変革していくのか」という難題です。そういう新しい時代に、アベノミクスは「過去の延長線上の政策」で対処しようとしている、と考えるからです。「ビジョン」が欠落しています。前回の総選挙の際のスローガン「日本を、取り戻す。」は、そのことを何よりも雄弁に物語っています。

小白川21 浜矩子の本.jpg

 私は「自民党の政治など元々どうしようもないのだ」などと言うつもりはありません。新聞記者として働く中で、私は何度も「自民党の強さ」を思い知らされる経験をしました。懐が深い人が多い、と感じたのも自民党でした。なるほど、彼らの政策や主張はいわゆる革新政党のように筋道立ってはいません。正義や公平にも鈍感です。が、自民党は肌で知っているのです。多くの人にとって、何よりも大切なのは今日の暮らしであり、明日の糧を得ることです。そこにピタリと寄り添い、彼らは全力を尽くしてきたのです。敗戦の焼け跡から立ち上がり、経済成長の道をひた走るためにはそれが何よりも重要な政策であり、路線であると彼らは信じ、行動してきたのです。グダグダ言わずに一生懸命働き、ひたすらパイを大きくする――1980年代までは、それで良かったのかもしれません。

 しかし、世界の風景は激変しました。寄り添う大樹(米国とソ連)はもうありません。比較的落ち着いていた海は荒れ、海図も当てにならない時代。見たこともない航路も通らなければならなくなったのです。「日本を、取り戻す。」などと過去を振り返っている場合ではありません。この難しい過渡期をどうやって生き抜き、道を切り拓いていくのか。今日と明日に加えて、もっと先の未来をも語らなければならない時代なのです。なのに、選挙戦で「今という時代」と「未来のビジョン」を語る政党と政治家がいかに少なかったことか。有権者もまた、それを求めることなく、選択を避けようとしているように見えました。

 未来が不透明であればあるほど、私たちは多様な価値観を理解する懐の深さを持ち、かじ取りを確かなものにするための手立てを考えなければなりません。また、若い人たちが難しい航海に乗り出すために準備するのを手助けしなければなりません。なのに、この国はますます「若者に冷たい国」になりつつあります。落ち着いて働き、将来の計画を立てることができるような仕事は減るばかり。財務省が発表している「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」というデータを見ただけでも、それは明らかです。若者は重い負担と少ない受益に甘んじ、年寄りは負担した以上のものを受け取る仕組みになっており、その傾向は強まっています。それでいて、「今時の若者は内向きだ。覇気がない」などと平気で批判する世の中。若者に冷たい国、ニッポン。

 総選挙の公示日(12月2日)の翌日、私が勤める山形大学で「グローバル化への対応」をテーマにしたシンポジウムがありました。その席で、フランス人の講師が「アジア各国の英語習熟度」というデータを紹介してくれました。留学を希望する大学生や社会人が受けるTOEFL(トウフル)というテストの成績比較表(2013年)です。それによれば、1位はシンガポール、2位はインド、3位はパキスタン、4位はフィリピンとマレーシア、6位が韓国。以下、香港、ベトナム、中国、タイと続き、なんと日本は遠く離されてビリから3番目。日本より英語の成績が悪いのはカンボジアとラオスだけでした。

 それは、日本の英語教育のお粗末さを無残なまでに示すデータでした。アジアで長く取材してきた私の実感とも合致するデータでした。英語が世界の共通語となりつつある世界で、日本の若者は先進諸国どころか、アジア各国の若者にも遅れを取っているのです。「英語支配に追随する必要はない」という意見もあります。まっとうな意見です。が、それなら、スペイン語でもドイツ語でも、中国語でも韓国語でも構いません。「日本語以外の言語で意思の疎通を図る資質」を養う必要があります。日本の教育はその努力もしていません。これからの時代を、この島国に立てこもって生きていけと言うのか。

 若者への富の分配をどんどん薄くし、新しい時代に備える機会も十分に与えない。それでいて、膨大な借金の返済を彼らに押しつけ、原発の運転で生じた廃棄物の処理も押しつける――それが今、私たちが暮らしている社会の現実です。こんな社会でいいはずがありません。選挙こそそれを変える機会であり、政治こそそれを変革する原動力であるべきなのに、師走は虚しく過ぎ去りました。とんでもないことになってしまった、と思うのです。
(長岡 昇)



*浜矩子氏の言葉は2014年12月2日の朝日新聞朝刊オピニオン面からの引用です。
*財務省のデータは「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」をご覧ください。
*アジア各国の英語習熟度データはNikkei Asian Reviewのサイトを参照してください。

《投開票日の自民党本部の写真》 Source:NHKのニュースサイト
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_1215.html
《浜矩子氏の本の写真》 Source : PRTIMESのサイト
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000062.000007006.html




*メールマガジン「小白川通信 20」 2014年11月29日

 大学構内のイチョウの木々に残る葉も少なくなり、山形は冬将軍の到来を静かに待っています。黄金色の絨毯は間もなく、白銀に覆われることでしょう。いろいろな土地で何度となく眺めてきたイチョウの黄葉ですが、この秋は格別な思いで見つめました。英国の植物学者、ピーター・クレインの著書『イチョウ 奇跡の2億年史』(河出書房新社)を読み、この木をめぐる壮大な物語を知ったからです。著者は冒頭に、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだイチョウの詩を掲げています。

小白川20 弘前公園の根上がりイチョウ.jpg

  はるか東方のかなたから
  わが庭に来たりし樹木の葉よ
  その神秘の謎を教えておくれ
  無知なる心を導いておくれ

  おまえはもともと一枚の葉で
  自身を二つに裂いたのか?
  それとも二枚の葉だったのに
  寄り添って一つになったのか?

  こうしたことを問ううちに
  やがて真理に行き当たる
  そうかおまえも私の詩から思うのか
  一人の私の中に二人の私がいることを

 初めて知りました。シーラカンスが「生きた化石」の動物版チャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の激動を生き抜いたにもかかわらず、氷河期に適応することができずに世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の植物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。

 けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったとみられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。

 日本に伝わったのはいつか。著者はそれも探索しています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある木の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その木がイチョウだというのは後世の付け足しらしい。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのが著者の見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。

 東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』に絵入りで紹介されています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。

 博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音すると聞き、ginkgo と表記しました。著者のクレインは「なぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコー」です。

 「化石」でしか知らなかった植物が生きていたことを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導く一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。

 植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際にはその精子が繊毛を振るわせてかすかに泳ぐということを、この本で初めて知りました。イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を震撼させる発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。

小白川20 Peter Crane (photo).jpg

 それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウ栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った時には、境内でギンナンを焼いて売っていた屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。

 かくもイチョウを愛し、イチョウを追い求めてきた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。
「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」

 壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べて、私たち人間はなんと小さく、せちがらい存在であることか。

(長岡 昇)



*『イチョウ 奇跡の2億年史』は矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*ゲーテの詩のオリジナル(ドイツ語)と英語訳はここをクリックしてください。ゲーテの手書き原稿を見ると、ドイツ語でもイチョウのスペルは Ginkgo です。このサイトのドイツ語のスペルは誤りと思われます。

*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。


《写真説明》
◎青森県の弘前公園にある「根上がりイチョウ」
  Source:http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
  Source:http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies





*メールマガジン「小白川通信 19」 2014年9月6日
        

 古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。

 ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。

 一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治(せいじ)の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。

小白川19 吉田清治証言の第一報.png

 その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。

 この頃の記事そのものに、すでに多くの疑問を抱かせる内容が含まれています。勤労動員だった女子挺身隊と慰安婦との混同、軍人でもないのに軍法会議にかけられたという不合理、経歴のあやしさなどなど。講演を聞いてすぐに書いた第一報の段階ではともかく、1年後に「ひと」欄を書くまでには、裏付け取材をする時間は十分にあったはずです。が、朝日新聞の虚報がお墨付きを与えた形になり、吉田清治はその後、講演行脚と著書の販売に精を出しました。そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです。

 この頃には歴史的な掘り起こしもまだ十分に進んでおらず、自力で裏付け取材をするのが難しい面もあったのかもしれません。けれども、韓国紙には「吉田証言を裏付ける人は見つからない」という記事が出ていました。現代史の研究者、秦郁彦・日大教授も済州島に検証に赴き、吉田証言に疑問を呈していました。証言を疑い、その裏付けを試みるきっかけは与えられていたのです。きちんと取材すれば、「吉田清治はでたらめな話を並べたてるペテン師だ」と見抜くのは、それほど難しい仕事ではなかったはずです。

 なのに、なぜそれが行われなかったのか。清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。

 悲しいことに、社内事情に疎い私は、外報部次長として彼の下で働きながらこうしたことに全く気付きませんでした。当時、社内には「従軍慰安婦問題は大阪社会部と外報部の朝鮮半島担当の問題」と、距離を置くような雰囲気がありました。そうしたことも、この時に十分な検証ができなかった理由の一つかもしれません。彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いたこともあったでしょう。

 東京本社編集局次長の後、彼は総合研究本部長、事業本部長と地歩を固め、ついには西部本社代表(取締役)にまで上り詰めました。慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません。こうした経緯を知りつつ、今回、慰安婦報道の検証に踏み切った木村伊量社長の決断は、その意味では評価されてしかるべきです。

 清田氏は2010年に朝日新聞を去り、九州朝日放送の監査役を経て、現在は大阪の帝塚山(てづかやま)学院大学で人間科学部の教授をしています。専門は「ジャーナリズム論」と「文章表現」です。振り返って、一連の慰安婦報道をどう総括しているのか。朝日新聞の苦境をどう受けとめているのか。肉声を聞こうと電話しましたが、不在でした。

 「戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。彼は、吉田清治の言葉をそのまま引用して「ひと」欄の記事の結びとしました。ペテン師の言葉とはいえ、重い言葉です。そして、それは「報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す」という言葉となって返ってくるのです。今からでも遅くはない。過ちは過ちとして率直に認め、自らの責任を果たすべきではないか。
(長岡 昇)


《追記》1982年9月2日の吉田清治の講演に関する大阪社会面の記事の筆者について、朝日新聞は2014年9月29日の朝刊で「別の記者が『初報は私が書いた記事かもしれない』と名乗り出ました」と報じました。さらに、同年12月23日朝刊の第三者委報告書では「当初この記事の執筆者と目された清田治史は韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明」「調査を尽くしたが、執筆者は判明せず」と伝えました。2014年末の時点では、1982年の初報の筆者は不明です。






*メールマガジン「小白川通信 18」 2014年8月31日

 いわゆる従軍慰安婦問題について、朝日新聞が8月上旬に特集を組んで一連の報道に間違いがあったことを認め、主要な記事を取り消しました。慰安婦報道の口火を切った1982年9月2日付の吉田清治(せいじ)証言(韓国の済州島で自ら慰安婦を強制連行したとの証言)を虚偽だと認め、この記事を始めとする吉田清治関係の記事16本のすべてを取り消したのです。なんともすさまじい数の取り消しです。これ以降、朝日新聞は新聞や週刊誌、ネット上で袋叩きの状態にあります。

 1978年から30年余り、私は朝日新聞で記者として働きました。体力的にも精神的にも一番エネルギッシュな時期を新聞記者として働き、そのことを喜びとしていた者にとって、慰安婦問題をめぐる不祥事は耐えがたいものがあります。仕事でしくじることは誰にでもあります。私も、データを読み間違えて誤った記事を書いたりして訂正を出したことが何度かあります。日々、締め切りに追われ、限られた時間の中で取材して書くわけですから、頻度はともかく、間違いは避けられないことです。ですが、慰安婦報道をめぐる過ちは、勘違いや単純ミスによる記事の訂正と同列に論じるわけにはいきません。

 朝日新聞は吉田清治の証言記事を手始めに大々的な従軍慰安婦報道を繰り広げ、他紙が追随したこともあって、大きな流れを作り出しました。それは宮沢喜一首相による韓国大統領に対する公式謝罪(1992年)や河野洋平官房長官による「お詫びと反省の談話」発表(1993年)につながり、国連の人権問題を扱う委員会で取り上げられるに至ったのです。その第一歩が「ウソの証言だった」というのですから、記事を取り消して済む話ではありません。8月上旬の特集記事では、彼女たちが「本人の意に反して慰安婦にされる強制性があった」ことが問題の本質であり、それは今も変わっていない、として一連の虚報と誤報について謝罪しませんでした。それが非難する側をますます勢いづかせています。

 「問題の本質は何か」などという論理で逃げるのはおかしい。新聞記者の何よりも重要な仕事は、事実を可能な限り公平にきちんと書き、伝えることです。吉田清治証言を検証した現代史家の秦郁彦氏は「彼は職業的な詐話師である」と断じました。そのような人物のでたらめな証言を一度ならず、16回も記事にしてしまったのです。しかも、そうした証言も踏まえて、社説やコラムで何度も「日本は償いをすべきだ」と主張しました。それら一連の報道や論説の土台がウソだったのですから、取り消すだけではなくきちんとお詫びをして、関係者を処分するのが報道機関として為すべきことではないのか。

 慰安婦報道に関して思い出すのは、この問題に深くかかわっていた松井やより元編集委員のことです。彼女は退社した後、私がジャカルタ支局長をしていた時にインドネシアを訪れ、かつての日本軍政時代のことを取材していきました。来訪した彼女に対して、私は後輩の記者として知り得る限りの情報と資料を提供しようとしたのですが、彼女は私の話にまったく耳を傾けようとしませんでした。ただ、自分の意見と主張を繰り返すだけ。それは新聞記者としての振る舞いではなく、活動家のそれでした。亡くなった人を鞭打つようで心苦しいのですが、「こういう人が朝日新聞の看板記者の一人だったのか」と、私は深いため息をつきました。イデオロギーに囚われて、新聞記者としての職業倫理を踏み外した人たち。そういう人たちが慰安婦問題の虚報と混乱をもたらしたのだ、と私は考えています。

 慰安婦報道を非難する人の中には「朝日新聞を廃刊に追い込む」と意気込んでいる人もいます。冗談ではありません。過ちを犯し、さまざまな問題を抱えているかもしれませんが、朝日新聞で働いている同僚や後輩の多くは誠実な人たちです。朝日新聞は権力者の腐敗を粘り強く、圧力に屈することなく書き続けてきた新聞であり、福島の原発事故の実相と意味をどこよりも息長く深く追い続けている新聞です。この国を少しでも良くするために奮闘してきた新聞です。だからこそ、慰安婦報道の検証を中途半端な形で終わらせるのではなく、不祥事を正面から見つめ、問い直してほしいと思うのです。

 権力者の顔色をうかがい、そのお先棒をかつぐのを常とするような新聞記者や雑誌編集者が肩で風切るような世の中になったら、それこそ、この国に未来はありません。権力におもねることなく、財力にも惑わされず、市井の人と共に歩む。そういうメディアを私たちは必要としています。
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 17」 2014年8月17日


 戦争をしている国が敵国の使っている暗号を解読するということは、どういうことを意味するのでしょうか。ポーカーや麻雀を例にとれば、分かりやすくなります。対戦相手の後ろに立っている人がその相手の手の内をすべて教えてくれるのと同じです。暗号の場合は、暗号解読を担当する人たちが「後ろに立っている人」に当たります。

 ゲームでは、後ろに立っている人が仲間に対戦相手の手の内を教えるのは「八百長」と呼ばれますが、戦争で暗号を解読するのは「極めて重要な戦闘」の一つです。同じような戦力、国力であっても、暗号を解読されてしまえば、まず勝ち目はありません。戦略や戦術、作戦をすべて見透かされてしまうわけですから、戦えば悲惨な結果になることは目に見えています。日本外務省の暗号は1941年の真珠湾攻撃のずっと前から、日本海軍の作戦暗号も1942年の春ごろから解読されていました。手の内を知られていたわけですから、海軍の暗号が解読されてからは、どんなに死にもの狂いになろうとも勝てるはずがなかったのです。

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日本海軍の暗号書の一部(長田順行『暗号 原理とその世界』から)

 当然のことながら、第2次大戦の前から、日本もドイツも暗号の重要性はよく分かっていました。ですから、「絶対に解読されない暗号システム」をそれぞれ開発し、運用しているつもりだったのです。日本海軍の場合には、よく知られているように重要な作戦暗号(いわゆるD暗号)は「数字5ケタの暗号」でした。5ケタの数字の組み合わせは10の5乗、つまり10万通りあります。(実際には通信兵が検算しやすいように、そのうちの3の倍数のみを使用)。その5ケタの数字を組み合わせて、「49728」は「連合艦隊」、「20058」は「連合艦隊司令長官」を表す、といった具合に打電していました。地名についてはそのまま表現することはせず、例えばミッドウェー島を「AF」という略号で表し、たとえ解読されてもそれがどこを意味するか分からないように工夫していました。また、すべての単語を5ケタの数字にすると暗号書が分厚くなりすぎて戦場で使いにくいため、仮名や数字にも5ケタの数字を割り振って運用していました。

 もちろん、こうした5ケタの数字だけで無線通信を交わせば、比較的簡単に暗号解読者に解読されてしまいます。お互いに専門家を集めて、解読にしのぎを削っていたのですから。そこで、5ケタの数字にさらに5ケタの「乱数」を加えて、その数字をモールス信号で発信していました。多くの乱数を用意し、それと組み合わせることで、5ケタの数字の組み合わせは天文学的な多様さを生み出します。それでも、理論的には解読は可能ですが、手作業で解読しようとすれば、「1000人がかりで10年かかる」といった状態になります。10年後であれば、たとえ解読されたとしても実害はなく、そのシステムは事実上「解読不可能なシステム」のはずだったのです。

 ではなぜ、日本とドイツの暗号は解読されてしまったのでしょうか。いくつかの原因が折り重なっており、戦闘の中で重要な暗号書が米英軍の手に落ちてしまったといったこともあったようですが、私は「手作業で解読する」という前提条件が崩れてしまったことが最大の要因だった、とみています。英国と米国は数学者や統計学者、言語学者、文化人類学者らを総動員して解読に当たると同時に、解読のための解析に「電気リレー式の計算機」を利用しました。そしてほどなく、より計算速度の速い、真空管を使った「電子計算機」を開発して、暗号解読に活用するに至ったのです。「1000人がかりで10年かかる」はずのものが「数時間で計算し、解析できる」――それは日本もドイツも想定していなかった事態でした。「総合的な知力の戦い」と「科学技術の軍事への応用」の両面で、日本とドイツは英米に敗れたのです。

 その実態は、前回の通信で紹介した暗号関係の本を読めば、うかがい知ることができます。そして、第2次大戦中の熾烈な暗号解読の戦いの中で、電気計算機や電子計算機は飛躍的な発展を遂げ、それが現在のコンピューターやIT技術の基礎になったのです。このあたりの事情を知るためには、大駒誠一・慶応大学名誉教授の労作『コンピュータ開発史』(共立出版)を参照することをお薦めします。

 英国と米国はそれぞれ、英国はドイツ、米国は日本の暗号解読を主に担当し、その手法と成果を共有しましたが、第2次大戦後もその緊密な協力関係は続きました。そしてさらに、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを加えた英語圏5カ国が「情報収集と暗号解読の連合」を組み、冷戦の主要な敵であるソ連や中国の暗号の解読にあたりました。長い間、「ソ連の暗号は強力で米国はついに解読することができなかった」と信じられていましたが、現実にはソ連の暗号の解読にもかなり成功していたことが明らかになっています。それを詳しく紹介しているのが1999年に出版された『Venona : Decoding Soviet Espionage in America 』(邦訳『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』PHP研究所)です。

 「ソ連の暗号が解読されていた」というのは、乱数を巧みに織り込んだソ連の複雑な暗号システムを知る者にとっては実に驚くべきことですが、それ以上に衝撃的なのは、米英を中心とする5カ国が2001年の9・11テロ後に乗り出した「情報収集活動」です。彼らは「テロとの戦い」という旗印の下で、暗号の解読にとどまらず、あらゆる有線・無線通信、インターネット空間を飛び交う情報の収集と解析を始めたのです。

 9・11テロの後、その活動は「エシュロン」プロジェクトという名称でおぼろげに浮かび上がり、国際社会で一時問題になりかけましたが、「ならば国際テロ組織とどうやって戦うのか」という恫喝めいた圧力の中で、追及は尻すぼみに終わってしまいました。そのプロジェクトの中心になり、牽引役を果たしているのが米国の国家安全保障局(NSA)と英国の政府通信本部(GCHQ)です。両者の活動はその後、ますますエスカレートしていきました。権力の監視役を果たしてきた米国のジャーナリズムもその中に取り込まれていき、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった新聞ですら、十分に追及できないような状況が生まれてしまいました。「何よりも優先しなければならないのはテロとの戦いだ」という風潮が法の支配や表現の自由を覆い尽くしてしまったのです。

 彼らは何をしているのか。2013年、その内情を完膚なきまでに暴露したのがエドワード・スノーデンでした。NSAやCIA(米中央情報局)でコンピューターのセキュリティ担当者として働いていたスノーデンは、ある時から「これは言論、出版の自由をうたった合衆国憲法に違反する」と思い始め、周到な準備を重ねて内部告発に踏み切ったのです。内部告発する相手として、ニューヨーク・タイムズなどの大手メディアを避けたのも、上記のような米国の言論状況を考えれば、当然の選択だったのです。

小白川17 スノーデンの写真.jpg
Edward Joseph Snowden

 スノーデンが内部告発の相手として選んだのは、米国の権力機関からの圧力を避けるためブラジルを拠点に活動していたフリージャーナリストのグレン・グリーンウォルドでした。そして、グリーンウォルドと手を組んで果敢な報道を展開したのは英国の新聞ガーディアンの米国オフィス(ウェブメディア)です。伝統的な活字メディアではなく、インターネット上で情報を発信するジャーナリストが権力の濫用を追及する主役に躍り出た、という意味でも、スノーデンの内部告発は画期的な意味を持っています。

 彼が内部告発に至るまでの経過は、まるでアクション映画のようです。グリーンウォルドの著書『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)と、ガーディアンの記者ルーク・ハーディングが著した『スノーデンファイル』(日経BP社)はどちらも、実にスリリングで刺激的な本です。と同時に、NSA(米国家安全保障局)やGCHQ(英政府通信本部)はそんなことまで行っているのかと驚愕し、ついにはおぞましさを覚えてしまうほどです。

 NSAは外国諜報活動監視裁判所(諜報活動を規制するため1978年に設立された米国の秘密裁判所)の令状を得て、プロバイダー会社にデータをすべて提供させる。グーグルやヤフー、フェイスブック、アップルにもすべてのデータを提供させる。海底ケーブルを使う有線通信もバイパスを作ってすべて覗き見る――要するに、すべて。「穴があればテロリストに悪用される」という理由で、彼らはすべてのデータへのアクセスを通信会社やIT企業に要求し、裁判所もそれを追認しているというのです。

 英国の作家ジョージ・オーウェルは代表作『1984年』ですべての行動が当局によって監視される社会を描き、全体主義への警鐘を鳴らしましたが、皮肉なことに、スノーデンの内部告発は「自由の国」アメリカが自分たちの憲法すら踏みにじって監視社会への先導役となり、その完成に向かって邁進していることをあぶり出したのです。

 「発言や行動のすべて、会って話をする人すべて、そして愛情や友情の表現のすべてが記録される世界になど住みたくない」。スノーデンは告発の動機をそう語っています。その彼が、南米への亡命を望んでいたにもかかわらず、米国の強烈な圧力のせいで受け入れてもらえず、トランジットのつもりで立ち寄ったロシアで亡命生活を送らざるを得なくなってしまいました。自由を求めて立ちあがった者が、旧ソ連の強権体質を受け継ぎ、いまだに言論弾圧を繰り返している国に庇護を求めるしかなかった――なんという不条理、なんという巡り合わせであることか。
(長岡 昇)

*エドワード・スノーデンの写真:Source
http://www.csmonitor.com/USA/2013/0609/Edward-Snowden-NSA-leaker-reveals-himself-expects-retribution




 NPO「ブナの森」が主催する「出直し第2回最上川縦断カヌー探訪」は、2014年7月26日(土)と27日(日)に山形県朝日町を出発し、村山市の碁点橋にゴールする1泊2日のコースで開催されました。26日は朝日町雪谷から中山町の長崎大橋までの28キロ、27日は中山町から村山市の碁点橋まで20キロ、計48キロのコースで行われ、2日間の参加者は35人、28艇でした(1日だけの参加者を含む)。2012年の第1回カヌー探訪の参加者は24人、22艇。

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五百川(いもがわ)峡谷の難所、タンの瀬を下る岸夫妻の艇


 「出直し第2回」と名付けたのは、2013年に開催する予定だった「第2回最上川縦断カヌー探訪」が7月の山形豪雨のため、中止せざるを得なくなったためです。2014年7月にも山形県内は豪雨に見舞われ、大きな被害が出ましたが、下旬までに天候が回復し、何とか開催することができました。1日目は強烈な夏空、2日目はにわか雨のち薄曇りの空の下での開催になりました。参加したカヌーイストの皆様、開催にご協力いただいた関係者の皆様に深く感謝いたします。

《参加者》 35人、28艇(エントリー順)
      山形県内 19人 県外16人(東京6、神奈川4、福島3、宮城1、群馬1、青森1)

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朝日町の雪谷カヌー公園で開会式。マスコットキャラクターの桃色ウサヒはいつもの虚ろな目

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朝日町雪谷の川岸からスタート



【2日間で48キロを完漕】 20人
林 和明(東京都足立区)▽根本 学(福島県郡山市)▽岸 一博(東京都町田市)▽岸 君子(町田市)▽清水孝治(神奈川県厚木市)▽塚本雅俊(群馬県前橋市)▽齋藤健司(神奈川県海老名市)▽齊藤栄司(山形県尾花沢市)▽佐竹 久(山形県大江町)▽鶴巻 泰(福島県いわき市)▽長澤敬行(山形市)▽茨田康裕(横浜市)▽崔 鍾八(山形県朝日町)▽清野由奈(朝日町)▽市川 秀(東京都中野区)▽高田 徹(青森県八戸市)▽上原晋一(東京都中野区)▽菊地大二郎(山形市)▽菊地恵理(山形市)▽岸 浩(福島市)
【26日に28キロを完漕】 5人
西沢あつし(東京都東村山市)▽調所孝芳(山形市)▽鈴木宏幸(山形県山辺町)▽小野俊博(大江町)▽池辺民雄(神奈川県座間市)
【27日に20キロを完漕】 10人
佐藤雅之(山形県酒田市)▽長南 平(酒田市)▽武田安英(酒田市)▽佐藤 明(山形県鶴岡市)▽小田原紫朗(酒田市)▽池田丈人(酒田市)▽齋藤正弘(鶴岡市)▽佐藤博隆(酒田市)▽小松正則(仙台市)▽蘆野眞一郎(山形市)

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朝日町清水(すず)の断崖を背に最上川を下る


《陸上サポートスタッフ》 17人(アイウエオ順)
安藤昭郎▽佐久間淳▽佐竹恵子▽白田金之助▽鈴木賢一▽長岡里子▽長岡 昇▽長岡典己▽長岡遼子▽長岡佳子▽中川和夫▽橋本 蕗▽服部雄二郎▽藤山純一▽桃色ウサヒ▽山口義博▽和南城千陽

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朝日町栗木沢の激流、タンの瀬に挑む

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最上堰の魚道を1艇ずつ慎重に通過


《出発、通過、到着時刻》
1日目(7月26日)
  9:50 朝日町の雪谷カヌー公園を出発
  11:30 朝日町の「タンの瀬」を通過
 13:30 大江町の「おしんの筏下りロケ地」に到着、昼食

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おしんの筏下りロケ地の船着き場に着きました

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尾花沢の齊藤栄司さんが名産のスイカを差し入れてくれました


 14:30 「おしんの筏下りロケ地」から再スタート
 16:30 中山町・長崎大橋の船着き場にゴール

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参加者のうちで最年少は9歳の由奈ちゃん。お父さんの崔鍾八(チェ・ジョンパル)さんの艇に同乗しました


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最年長は76歳の市川秀さん。前回に続いて堂々のパドルさばきでした


2日目(7月27日)
8:50 中山町・長崎大橋付近でNHKBSプレミアム「ニッポンぶらり鉄道旅」の取材
  9:50 長崎大橋の船着き場から2日目のスタート
 12:10 河北町・谷地橋に到着、昼食
 13:20 谷地橋から再スタート
 15:00 村山市・碁点橋に到着

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2日目の出発前にNHKBSプレミアムの番組「ニッポンぶらり鉄道旅」の取材に応えるカヌーイスト(8月14日午後7時半から放送予定)

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記念写真を撮影した後、一斉にスタート

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朝日町のマスコットキャラクター、桃色ウサヒもカヌーに挑戦 (防水タイプじゃないので、ちょっと心配?)

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中山町の三郷堰では、水量が少なくて魚道を通れないため、いったん下船しました


《後援団体》
国土交通省山形河川国道事務所▽山形県▽東北電力?山形支店▽朝日町▽大江町▽西川町▽寒河江市▽中山町▽河北町▽天童市▽東根市▽村山市▽山形カヌークラブ▽大江カヌー愛好会▽山形県カヌー協会▽美しい山形・最上川フォーラム

《ウェブサイト、ポスター、横断幕》
ウェブサイト制作 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、栗原一弘)
ポスター制作 若月印刷(高子あゆみ)▽横断幕揮毫(きごう) 成原千枝

《協力》
(?)最上川三難所舟下り・船長 関 勇喜

《取材》
カヌー専門誌『カヌーワールド』 西沢あつし
NHKBSプレミアム『ニッポンぶらり鉄道旅』 クリエイティブネクサス・ディレクター 笠原正己
*放送予定:8月14日(木)午後7時半、8月16日(土)午前7時45分

《リンク》次のウェブサイトやウェブアルバムでも紹介されています(青い文字をクリックしてください)
朝日町公式ホームページの「まちの写真館」
桃色ウサヒのコーナー
塚本雅俊さんのウェブアルバム

《この記録ページの写真撮影》
 1日目=佐久間 淳(最上堰の写真は塚本雅俊)
 2日目=橋本 蕗 (三郷堰の写真は塚本雅俊)







*メールマガジン「小白川通信 16」 2014年8月6日

 前回の「小白川通信」で真珠湾攻撃をテーマにし、当時のルーズベルト米大統領は事前に攻撃計画を知っていたにもかかわらず、現地の司令官たちに知らせず、日本軍の奇襲を許したという、いわゆる「ルーズベルト陰謀説」を扱いました。そして、こうした陰謀説について「断片的な事実を都合のいいように継ぎはぎした、まやかしの言説で、もはや論じる価値もない」と書いたところ、旧知の研究者から「違います。陰謀説は否定のしようがないほど明らかです」とのメールが届きました。

 びっくり仰天しました。門外漢ならいざ知らず、彼はアメリカ外交や国際政治の専門家です。そういう研究者の中にも「陰謀説」を信じている人がいるとは・・・。これでは、高校の歴史の授業で「陰謀説」を事実として教える教師が出てきても不思議ではありません。メールには「スティネットの『真珠湾の真実』と藤原書店から出た『ルーズベルトの戦争』を読むことをお薦めします」とありました。不勉強でどちらも読んでいませんでしたので、取りあえず、『真珠湾の真実』(文藝春秋)を読んでみました。

真珠湾攻撃・日本の艦載機.jpg

 著者プロフィールによれば、ロバート・B・スティネットは1924年、カリフォルニア州生まれ。アジア太平洋戦争では海軍の兵士として従軍、戦後は同州のオークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者として働き、本書執筆のために退社、とあります。さらにBBC、NHK、テレビ朝日の太平洋戦争関係顧問とも書いてありました。米国の情報公開制度を利用して機密文書の公開を次々に請求し、入手した膨大な文書をもとにして書かれた本であることが分かります。労作ではあります。

 しかし、じっくり読めば、専門家とは言えない私ですら、いたるところに論理の飛躍と「都合のいい事実の継ぎはぎ」があることが分かります。例えば、米国が日本海軍の作戦暗号(いわゆるD暗号)をどの時点で解読できるようになったのかについて。スティネットは「日本海軍の暗号が解読できるようになったのは開戦後の1942年春から」という定説を否定して、「1940年の秋には解読に成功していた」と主張しています(『真珠湾の真実』p46)。真珠湾攻撃は1941年12月ですから、その1年も前から解読できていたと主張しています。そして、その有力な根拠の一つとして、フィリピン駐留米軍の無線傍受・暗号解読担当のリートワイラー大尉が海軍省あてに出した手紙(1941年11月16日付)を収録しています(同書p498)。

 その手紙には「われわれは2名の翻訳係を常に多忙ならしめるのに十分なほど、現在の無線通信を解読している」という記述があります。なるほど、これだけを取り出せば、「米海軍は真珠湾攻撃の前にすでに日本海軍の作戦暗号を解読していた」という証拠のように見えます。けれども、暗号解読の歴史を少しでも学んだことのある人なら、日本海軍は当時、主な暗号だけでも10数種類使っていたこと、そのうちで秘匿度の弱い暗号(航空機や船舶の発着を伝える暗号など)が解読されていた可能性はある、といったことを知っています。ですから、この手紙の内容だけではどの暗号を解読するのに『多忙』なのかは不明で、重要な作戦暗号が解読されていたことを裏付ける証拠にはなりません。

 細かい注釈をやたらと多く付けているのも、この本の特徴の一つです。第2章の最後の注釈には「米陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将は1941年11月15日にワシントンで秘密の記者会見を開き、アメリカは日本の海軍暗号を破ったと発表した」とあります。これも作戦暗号の解読に成功していたことを印象づける記述ですが、「秘密の記者会見」の開催を裏付ける証拠や会見内容を詳述する資料はまったく示されていません。都合のいい断片的な事実、あるいは事実と言えるかどうかも怪しいようなことを散りばめて、「日本海軍の作戦暗号は真珠湾攻撃の前に解読されていた」と印象づけようとしています。

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 米国による日本海軍の暗号解読については、すでに専門家の手で信頼できる著書がいくつも出版され、日本語にも翻訳されています。解読の全般的な歴史については『暗号の天才』(新潮選書)や『暗号戦争』(ハヤカワ文庫)、解読にあたった当事者の本としてはW・J・ホルムズの『太平洋暗号戦史』(ダイヤモンド社)、解読された側からの本としては長田順行の『暗号 原理とその世界』(同)があります。いずれの本も「米国は開戦前に日本外務省の暗号を解読していたが、日本海軍の作戦暗号を解読することはできていなかった」ということを物語っています。

 この『真珠湾の真実』には暗号解読に限らず、外交官や諜報機関がもたらした情報も含めて、これまでの研究を覆すような事実は何もありませんでした。だからこそ、この本が1999年に出版された時、米国の主要な新聞や雑誌は書評で取り上げなかったのでしょう。上記の『暗号戦争』の著者デイヴィッド・カーンは「始めから終わりまで間違いだらけ」と酷評したと伝えられています。ただ、陰謀説が好きな人は多いようで、アメリカでも日本でもよく売れました。とりわけ日本では、京都大学の中西輝政教授が巻末に解説を寄せ、「ようやく本当の歴史が語られ始めた」と激賞したこともあって、よく売れたようです。著名なジャーナリストの櫻井よしこ氏も「真実はいつの日かその姿を現す」と褒めそやし、来日した著者のスティネットと対談したりして、販売促進に貢献しています。

 前回の通信で「陰謀説がなぜ消えないのか、不思議でなりません」と書きましたが、ようやく理解できました。この本をはじめ、この10数年の間に出版された陰謀説を唱える本がよく売れ、広く読まれた結果と考えるべきなのでしょう。暗然たる思いです。「真実」という言葉をうたい文句にして、ウソを広める本。それを支える人たち・・・。この本の原題は『Day of Deceit』(欺瞞の日)ですが、邦訳を『欺瞞の書』とすれば、ぴったりだったでしょう。この本については、現代史家の秦郁彦氏や須藤眞志氏らが『検証・真珠湾の謎と真実』(中公文庫)という本を出し、徹底的な批判を加えています。これはしっかりした本です。むしろ、こちらを読むことをお薦めします。

 そして、あらためて思い知りました。前回の通信で紹介したゴードン・W・プランゲの著書『真珠湾は眠っていたか』(1?3巻、講談社、原題:At Dawn We Slept)はなんと奥深く、誠実な本であることか。彼の死の翌年(1981年)に出版されたこの本の第1巻「まえがき」に、弟子たちは次のように記しているのです。

 「ゴードン・プランゲ教授は、自身の言葉が最終的な決着をつけたという印象を与えることを欲しなかった。(将来)自分こそ『真珠湾の残された最後の秘密』を知っており、読者にそれを提供するのだと主張するような人があれば、それはペテン師か自己欺瞞に陥っている人なのである」
(長岡 昇)

日本海軍の空母艦載機の写真:Source
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*メールマガジン「小白川通信 15」 2014年7月18日


 山形大学で現代史の講義をして学生たちと問答をしていると、時々、「アレッ」と思うことがあります。アジア太平洋戦争中の「暗号解読」をテーマに講義した際にも「アレッ」がありました。聴講している学生の半分近くが「真珠湾攻撃=ルーズベルト陰謀説」を歴史的な事実として受けとめていることが分かった時です。「高校の歴史の授業で先生にそう教わりました」という学生までいました。これは由々しきことです。なぜ、こうした陰謀説が若い人の間でこれほど広がっているのでしょうか。

 ルーズベルト陰謀説の概要は次のようなものです。
「米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は1940年の選挙で『欧州での戦争には加わらない』と公約した。一方で、前年からドイツと戦争になっていた英国や日本と戦っていた中国からは参戦を迫られ、ジレンマに陥っていた。このため、日本が真珠湾を攻撃することを事前に知っていたにもかかわらず、これを現地ハワイの司令官たちに知らせず、あえて日本軍に奇襲させた。それによって、米国の世論を厭戦(えんせん)から参戦へと劇的に変えた」

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炎上する戦艦ウェストバージニア


 この説明の前段は間違いなく歴史的な事実です。ですが、後段の「ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていた」という部分は事実ではありません。少なくとも、知っていたことを裏付ける資料や信頼できる証言はありません。むしろ、「知らなかった」ことを示す資料が時を経るにつれて増えている、というのが現実です。

 もちろん、ルーズベルト大統領は諸般の事情から「日本との戦争は避けられない」と考えていたと思われます。大統領だけでなく、日米双方の指導者の多くが当時そう考えていたはずです。が、そのことと「日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた」ということとは、その意味がまったく異なります。

 大統領が事前に「真珠湾への攻撃計画」を知るとすれば、それは「外交官や諜報機関が人的な情報源から得た情報」か「日本の暗号を解読して得た情報」のどちらかを通してしかありません。前者については次のような事実があります。
「1941年1月、アメリカのグル―駐日大使は旧知のペルー駐日公使から『日本は真珠湾に対する大規模な奇襲攻撃を計画している』との情報を得て、これを暗号電報でワシントンに送った。米国務省はこれを海軍省に送り、ハロルド・スターク海軍省作戦部長はこれを海軍情報部に送った。情報はさらにハワイの米太平洋艦隊司令官、キンメル大将に伝えられた」(学習研究社『歴史群像 太平洋戦史シリーズ? 奇襲ハワイ作戦』p52から)

 後者の「暗号解読による情報」については、次のような事実があります。
「1944年の大統領選挙でルーズベルトの四選を阻むために立候補した共和党のトマス・E・デューイは『アメリカを戦争に引きずり込むことを狙い、日本の暗号を解読して日本の企図を知っていたにもかかわらず、彼は犯罪的怠慢によって何も対策を講じなかった』とルーズベルトを非難した」(デイヴィッド・カーン『暗号戦争』p190)

 これらはいずれも確かな事実です。これだけを取り上げれば、「ルーズベルト陰謀説」を裏付ける材料のようにも思えます。が、両書の著者はこうした事実に加えて、次のような事情を添えて、ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていた可能性を否定しています。つまり、グル―駐日大使がこの電報を送った1941年1月の時点では、日本海軍の内部ですら真珠湾を攻撃することはまだ決まっておらず(実際の攻撃は同年12月)、それは巷の「風説の一つ」に過ぎませんでした。数ある噂の一つとして伝えられたのであり、米海軍内部でもそのように扱われ、大統領の執務室に届いて検討された形跡はまったくありません。こうした情報はもし本当であれば、次々に補強する情報が集積されるものですが、補強するものはありませんでした。共和党大統領候補のデューイの非難にしても、暗号解読の実態を知らず、政敵攻撃の材料として「激しい表現」を使ったに過ぎません。その証拠に、デューイは米陸軍参謀総長の懇切丁寧な説明を受けた後は、こうした非難をしなくなりました。

 にもかかわらず、米国では戦後も「ルーズベルト陰謀説」を唱える人が少なくありませんでした。その代表格が歴史学者のハリー・エルマー・バーンズです。彼は同じような説を唱える研究者とともに、米国の歴史学会を二分する論争を繰り広げました。そして、その論争は1981年にメリーランド大学の歴史学教授、ゴードン・W・プランゲの著書『At Dawn We Slept』(邦訳『真珠湾は眠っていたか』、講談社)が出版されるまで続いたのです。この本によって、ルーズベルト陰謀説は学問的に葬り去られた、と言っていいように思います。

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ゴードン・W・プランゲ教授


 ゴードン・W・プランゲの生涯は「研究者の執念とはかくもすさまじいものか」と思わせるものがあります。1937年、27歳の若さでメリーランド大学の歴史学教授に就任。戦争勃発に伴って海軍の士官になり、戦後は日本を占領したマッカーサー元帥の戦史担当者として日本に駐在し、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の研究にあたりました。マッカーサーは戦史スタッフとして100人の要員を抱えていたとされ、プランゲはその責任者でした。日本に滞在している間に、彼は真珠湾攻撃時の連合艦隊首席参謀、黒島亀人や航空参謀、源田実ら200人を超える関係者にインタビューし、焼却を免れた機密資料など膨大な文書を集めました。そして、米国に持ち帰り、メリーランド大学の教授として復職してからも研究を続けました。戦勝国の人間だからできたこととはいえ、戦後日本の戦史研究とは質、量ともに桁違いの研究です。プランゲは1980年に没し、前述の著書はその死の翌年、彼の弟子たちによってまとめられたものです。米歴史学会で長く続いた論争に終止符を打つのに十分な内容の本でした。「ルーズベルト陰謀説」は、断片的な事実を都合のいいように継ぎはぎした、まやかしの言説であることが明らかにされたのです。

 もっとも、そのプランゲですら、米国による日本の暗号解読がどのようなものだったのか、その実態について詳しく叙述することはできませんでした(そのへんが「ルーズベルト陰謀説」がブスブスとくすぶり続けた理由の一つなのかもしれません)。英国と米国は戦後も、暗号解読の実態をひた隠しにしました。何も明らかにしないことが一番良かったからです。その一端が明るみに出たのは、1974年に英国の空軍大佐、F・W・ウィンターボザムが『ウルトラの秘密』を刊行してドイツの暗号を解読していたことを暴露し、1977年に米国の暗号解読専門家ウィリアム・フリードマンの伝記(邦訳『暗号の天才』、新潮選書)が出版されて、日本の暗号解読の内実が紹介されてからでした。そのころには、晩年のプランゲに自分でそうした事実の検証をする余力は残っていませんでした。

 けれども、この両書の出版を機に公開された機密文書の研究が進むにつれて、プランゲの著書の声価はますます高まりました。米国は戦争のかなり前から日本外務省の暗号をほぼ完全に解読していたこと。しかし、外交暗号をいくら解読しても日本軍の攻撃企図を推し量ることはできず、日本の力をあなどって真珠湾の奇襲を許してしまったこと。屈辱感に駆られた米国は軍人はもちろん、数学・統計学・言語学・日本文化研究の俊英を総動員して日本軍の暗号解読に取り組み、開戦から半年ほどで日本海軍の作戦暗号を解読することに成功したのです。それが、ミッドウェー海戦で米軍に勝利をもたらし、連合艦隊の山本五十六司令長官を待ち伏せ攻撃で死に至らしめる結果をもらたしたことは今ではよく知られています。

 私は「陰謀説などすべてバカバカしい」などと言う気はありません。中には、隠された真実を鋭くえぐり出すものもあります。ですが、その多くは時の審判に耐えられず、消えていきます。「ルーズベルト陰謀説」などもそうした言説の一つで、私は「もはや論じる価値もない」と考えています。なのに、なぜ消えないのか。高校の歴史の授業にまで登場してしまうのか。不思議でなりません。

 悪貨が良貨を駆逐するごとく、読みこなすのに時間がかかる良書は時に悪書に駆逐されてしまうのでしょうか。手軽で百花繚乱のインターネット空間では、悪書の方が強い影響力を及ぼすのでしょうか。若い人の間では、活字離れが急速に進んでいます。私の授業を聴いている学生の中で、新聞を日常的に読んでいる者はゼロです。彼らは情報の多くをネットを通して得ています。ならば、ネットの世界で「良書を広げ、悪書を駆逐する戦い」に乗り出すしかありません。
(長岡 昇)
*真珠湾攻撃の写真のSource:http://konotabi.com/japamerican/ja3pharbor/japame3pearlhar.htm




*メールマガジン「小白川通信 14」  2014年7月5日

 英国の豪華客船、タイタニック号が初航海で氷山にぶつかって沈没したのは、今から102年前のことです。この船は当時の技術の粋を集めて造られ、不沈船とうたわれていました。氷山との衝突から3時間足らず、救援の船も間に合わないうちに沈んでしまうなどとは誰も考えていなかったのです。このため、救命ボートは乗客乗員の半数の分しかありませんでした。女性と子どもを優先せざるを得ず、男性の多くは船と運命を共にしました。

 この悲劇を題材にして、各国の国民性を皮肉るジョークがあります。いくつかのバージョンがありますが、私が聞いた中で一番エスプリが効いていると思ったのは、二十数年前に白井健策氏から聞いたものです。当時、朝日新聞のコラム「天声人語」を執筆していた白井氏は、新入社員の研修会で講演し、こんな風に語りました。


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 タイタニック号は沈み始めていた。けれども、救命ボートが少なくて、男性の乗客には海に飛び込んでもらうしかなかった。豪華客船の甲板で、クルーは男たちに声をかけて回った。フランス人には、少し離れたところにいる妙齢の女性を指さしながら、耳元でささやいた。「あのお嬢様が飛び込んでいただきたいとおっしゃっています」。フランス人は「ウィ」とうなずき、飛び込んだ。ドイツ人には集まってもらい、号令をかけた。「気をつけ!飛び込め!」。彼らは次々に飛び込んでいった。

 アメリカ人には「正義のために飛び込んでください」と頼むだけでよかった。彼は明るく「OK」と返事してダイブした。イギリス人には、慇懃な態度で「紳士の皆様には飛び込んでいただいております」と告げた。彼は黙って飛び込んだ。日本人の番になった。乗組員は彼の耳元に手をかざしながら、小さな声でつぶやいた。「みなさん、飛び込んでいらっしゃいますよ」。周りの様子を見ながら、彼もあわてて飛び込んでいった。

      *      *      *

 研修会場はドッと沸きました。でも、会場を包んだ爆笑には、もの悲しさが混じっていた――新入社員のチューター役で参加していた私にはそう感じられました。それぞれの国民性をこんな風に描くのはかなり乱暴なことですが、特徴を見事にすくい取っている面もあります。だからこそ、みな身につまされて、笑いの中にもの悲しさが入り込んでしまったのでしょう。

 安倍政権が戦後の歴代内閣の憲法解釈を変え、現在の憲法9条の下でも集団的自衛権を行使することができるとの新解釈を閣議決定しました。「国権の最高機関」である国会での審議もろくにせず、憲法と法律の解釈について最終的な判断を下す立場にある裁判所をも置き去りにして、行政府の長が事実上の憲法改正にも匹敵する判断を下してしまいました。

 何のために「三権分立」という大原則があるのか。法の支配を確固たるものにするためには「法的な手続きをきちんと踏むこと」が極めて重要なのに、三権分立も法の支配をも蹴散らしての閣議決定です。一国の首相が憲法をないがしろにし、憲法の柱である大原則を踏みにじっても恬(てん)として恥じない。なのに、たいした騒動にもならず、野党から大きな抵抗も受けない――国外の人たちの目には、何とも不思議な光景に映っていることでしょう。


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 古巣の朝日新聞は、安倍首相の解釈改憲を阻止しようと、大キャンペーンを繰り広げました。大げさに言えば、死にもの狂いの紙面展開をしています。けれども、私にはその主張がひどく虚ろに響いて聞こえます。「安倍政権は憲法を自分たちの都合のいいように解釈している」と非難していますが、実は朝日新聞もまた長い間、自分たちに都合のいいように憲法を解釈し、それを擁護し続けてきたではないか、と思うからです。

 焦点の憲法9条は戦争放棄をうたった第1項に続いて、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定しています。しかし、日本は朝鮮戦争をきっかけに再軍備に踏み切り(というより占領軍にそうするように命じられて再軍備し)、着々と軍備を増強して今日に至っています。日本の自衛隊はアジア有数の戦力を保持しています。いろいろと言い繕う人もいますが、素直に見れば、どう考えても自衛隊は軍隊であり、その保持している力は戦力です。この矛盾を解消するためには憲法を改正するか、自衛隊は違憲だとして解散させるか、どちらかしかありません。

 今の日本で「自衛隊は違憲だから解散させるべきだ」と考える人は、ほんの一握りでしょう。私も「自衛隊は戦後の日本社会でしかるべき役割を果たしてきた」と受けとめています。解散など論外です。従って、矛盾を解消するためには憲法を改正して、自衛隊をきちんと位置づけるしかないと考えています。それほど多くの文言を入れる必要はありません。憲法第9条の第2項を「陸海空軍その他の戦力は、必要最小限度の戦力を除いて、これを保持しない」と改正すれば足りるし、それで十分なのです。あの戦争が終わって、間もなく70年。ほかの部分も、時代にそぐわなくなったところは素直に改正すればいいのです。

 そのうえで、「では必要最小限度の戦力をどこまで行使するのか」「個別的自衛権に限るのか、集団的自衛権の行使まで広げるのか」を議論すればいいのです(私は「集団的自衛権を行使する必要などない」と考えています)。

 けれども、朝日新聞は「今の憲法を一字一句変えてはならない」という厳格な護憲派の立場を変えず、維持しています。「自衛隊は自衛のための必要最小限度の武装組織であり、軍隊ではない」という説得力の乏しい論理を展開してきました。その論理に立って「自衛隊は違憲ではない」と主張しています。これもまた、安倍政権とは別の立場からの「解釈改憲」ではないのか。

 憲法を都合よく解釈してきた者が、別な風に憲法を都合よく解釈する者を非難する――それが朝日新聞と安倍政権の対立の構図であり、だからこそ、その主張が虚ろに響くのだ、と思うのです。そして、保守派の改憲論と朝日新聞的な護憲論の対立から透けて見えてくるのは、双方とも立派なお題目を唱えてはいるが、どちらも憲法をないがしろにしているという現実ではないのか。

 一番哀れなのは、日本国憲法なのかもしれません。言葉を発することができるならば、憲法は小さな声でこうつぶやくのではないか。「みなさん、私をもてあそぶのはもうやめてください。私の肩には、みなさんの未来がかかっているんですよ」
(長岡 昇)




 7月26日(土)と27日(日)に予定通り、「出直し第2回最上川縦断カヌー探訪」を開催します。山形県はこの7月、昨年に続いて豪雨に襲われ、深刻な被害が出ましたが、その後、天候が回復し、最上川は穏やかな流れを取り戻しました。

 2012年7月の第1回最上川縦断カヌー探訪では、1泊2日の日程で山形県長井市?朝日町?中山町の53キロを下りましたが、昨年の大会中止を踏まえて開かれる2014年カヌー探訪は、同じく1泊2日の日程で朝日町?中山町?村山市の48キロで開催します。26日(土)午前10時半、朝日町雪谷のカヌー公園を出発して午後、中山町・長崎大橋の最上川せせらぎ公園に到着。翌27日(日)は午前10時に中山町・長崎大橋を出発し、午後、村山市の碁点橋にゴールする予定です。参加者は37人(山形県内19人、県外18人)の予定です。主催はNPO「ブナの森」(事務所・朝日町、長岡昇代表)です。





*メールマガジン「小白川通信 13」2014年6月9日


涙があふれ
滂沱(ぼうだ)と流れ落ちる時
それは悲しみ

涙が一筋
頬をそっと伝う時
それは哀しみ

悲劇はこの世の闇の深さを人に伝え
哀歌は人の心にひそむ切なさを刻む

悲しき者は
過ぎ去った日々を悔やみ
哀しき者は
残された日々を慈しむ

悲しみは沈み、哀しみはたゆたう

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ミヤコワスレ(都忘れ)  山形に帰郷して知った花の一つ


 1980年代、駆け出しの記者だった頃、朝日新聞の国際面に「喜怒哀楽」というタイトルの付いた記事がありました。各地の特派員が1ページをほぼ全部使って、任地で起きた政変や事件、事故、あらゆることの背景と意味を随時、ゆったりと綴る欄でした。地方支局で小さな事件や事故を追いかけ、他社にスクープされた特ダネの追っかけ記事をデスクに怒られながら書いていた頃、よく読んでいました。大好きな欄でした。

 なのに、外報部に配属されて自分が国際報道に携わるようになった時には「喜怒哀楽」はもう消えていました。代わりに登場したのは、物事が動いたら即刻、息せき切ってその背景を書き飛ばす「時時刻刻」や、片肘張った感じの「特派員報告」という大型解説記事でした。どちらも好きになれないタイトルでしたが、「喜怒哀楽」のようなゆったりした記事を書くことは、もう時代が許さなくなっていたのかもしれません。

 さらに時が過ぎ、今の記者はより一層スピードを求められるようになりました。なにせ、インターネット用に「電子版」の記事も出稿しなければなりません。「時時刻刻」というタイトルもあまり見かけなくなりました。時計の長針と短針どころか、秒単位のスピードを求められる時代、タイトルそのものが時代にそぐわなくなってしまったからでしょうか。

 それでも、かつての「喜怒哀楽」というタイトルには愛着が尽きません。この世のすべての感情と情念が込められているように感じるからです。ちっとも理性的でなく、しばしば感情をほとばしらせてしまう人間としては、「それ以外に何があると言うのか」と言いたくなってしまうのです。

 この四文字熟語に接するたびに心にうずくものもあります。「どの国のことを報じる時でも、喜怒哀楽をバランス良く伝えなければならない」と頭では分かっているのに、私が書く記事はいつも「怒」と「哀」の記事ばかりでした。持ち場が血なまぐさいことの多いアジアだったということを割り引いても、人々の喜びと楽しみに目を向けることのできない記者でした。どんなに悲惨な戦地にも、普通の人々の普通の暮らしがあり、その暮らしの中で喜びを見出して生きる人がいるのに、その姿を記事にする力量を欠いていました。

 「育ちが暗いから」と自分で言い訳をしてきましたが、やはりそれでは済まされないものがあります。その罪滅ぼしの気持ちもあって、「喜怒哀楽」の中で一番好きな「哀」という言葉のことをずっと考えてきました。メールマガジン「小白川通信」の再開にあたり、その罪滅ぼしの営みの断片を掲げます。

*2月のメールマガジンで小保方さんの「万能細胞」発見を激賞したら、その後、雲行きが怪しくなり、ついには「懲戒処分」が取り沙汰される事態になってしまいました。それで気落ちしたこともありますが、細かい体調不良もあって配信を休んでいました。ようやく「書く元気」を取り戻しました。また、ポツポツと書いていきます。
(長岡 昇)

*メールマガジン「小白川通信 12」 2014年2月1日


 こんなに驚き、かつ勇気を与えてくれるニュースに接したのは何年ぶりだろうか。理化学研究所の小保方(おぼかた)晴子さんがまったく新しい方法で「万能細胞」の作製に成功したことを伝える報道は、驚愕度において新聞の1面をデカデカと飾るにふさわしく、この国に温かい風を吹き込んだという意味において社会面にもしっくりと収まるニュースだった。小保方さんの人柄に加えて、彼女が割烹着姿で研究にいそしみ、理研がそれをとがめたりしなかったことがこのニュースをより温かいものにしているように思う。


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 科学誌として世界一の権威を誇る英国のネイチャー誌が2年前に彼女の論文の掲載を拒んだ際、「何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している It derides the history of cellular biology, which goes back centuries」 と評し、2度目の寄稿でやっと掲載したことも明らかになった。そう言わしめるほど生物学のこれまでの常識を突き破る成果だった、ということなのだろうが、拒否した際の表現に、私は「欧米を先導役にして進んできた近代化と現在進行中のグローバル化にひそむ傲慢さ」を感じた。

 かつて札幌で勤務していた頃(1988年)、冬に十勝岳が噴火し、北海道大学の火山学者に取材を申し込んだことがあった。定年近い老教授は素人の私が素朴な質問をしても嫌な顔ひとつせず、丁寧に火山のメカニズムを教えてくれた。そして「十勝岳の噴火はとても危険なのです」と警告した。大規模な噴火が起きた場合、山に降り積もった雪が熱で瞬時に解けて泥流となって麓の集落を襲うことがある、というのだ。実際、大正15年には巨大な泥流が発生し、144人もの住民が犠牲になっていた。

 取材を終えて帰りかけた時、この碩学が口にした言葉が忘れられない。「訳知り顔でいろいろと解説しましたが、火山の活動がどういう仕組みで起きるのか、実はほとんど分かっていないのです。40年近く、生涯かけて研究してきました。世界中の火山学者と一緒に。でも、分かっているのはせいぜい1割くらいでしょうか」。寂しげではあったが、誠実な人柄をしのばせる言葉だった。

 彼の言葉が強く印象に残ったのは、同じ頃、原子力発電の取材で原子力工学の教授に会った際に、この教授もまったく同じことを言っていたからだろう。原発建設を推進する立場であるにもかかわらず、彼はこう言ったのだ。「原子力発電所をどう造れば、どういう風に発電できるかは分かっている。けれども、原子炉の中で中性子がどう動き、核分裂反応がどういう風に起きているのかはほとんど分かっていないのです」。脳死の取材で脳神経外科の教授に話を聴いた時もそうだった。彼は「脳の研究は今の科学の最先端の一つで、ものすごい数の研究者が取り組んでいますが、分かっているのはまだ10パーセントくらいでしょうか」と語った。

 その後、科学はそれぞれの分野で前進した。しかし、大いなる自然と広大な宇宙の営み全体から見れば、人間が解き明かしたものはまだほんの一部に過ぎない。宇宙の始まりから現代までの歴史を綴った『137億年の物語』(文藝春秋)の著者、クリストファー・ロイドはエピローグに「壮大な物語に比べれば、人類の歴史は取るに足らない」と記した。古生物学者のリチャード・フォーティも『生命40億年全史』(草思社)を「たしかなのはただ、この先も変化は続くということのみである」という言葉で結んだ。

 「数百年にもわたる細胞生物学の歴史」と言うが、その生物学が成立するまでに、名もない者たちが数万年、あるいは数千年にわたって小さな営みを積み重ねてきたことを忘れているのではないか。われわれの遥かかなたにある「何ものか」に対する畏敬の念があれば、ネイチャー誌が小保方さんの最初の論文の掲載を断るにしても、また別の言葉があったのではないか、と思うのである。

 宇宙の歴史を持ち出すまでもなく、地球の歴史においてすら、人間の歴史はほんの短い間の出来事であり、近代以降など「刹那(せつな)」の出来事に過ぎない――そうした畏敬の念を持ち続ける者こそ、これからの時代を切り拓いていくのではないか。
(長岡 昇)

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 小保方晴子さんは中学2年の時にとても深い内容の読書感想文を書いています。毎日新聞主催のコンクールで千葉県教育長賞に輝きました。1月30日の毎日新聞公式ホームページに掲載された全文を以下に転載します。

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 「ちいさな王様が教えてくれた 大人になるということ」
          −松戸市立第六中学校 2年 小保方 晴子

 私は大人になりたくない。日々感じていることがあるからだ。それは、自分がだんだん小さくなっているということ。もちろん体ではない。夢や心の世界がである。現実を知れば知るほど小さくなっていくのだ。私は、そんな現実から逃げたくて、受け入れられなくて、仕方がなかった。夢を捨ててまで大人になる意味ってなんだろう。そんな問いが頭の中をかすめていた。でも、私は答えを見つけた。小さな王様が教えてくれた。私はこの本をずっとずっと探していたような気がする。

 「僕」と私は、似ているなと思った。二人とも、押しつぶされそうな現実から、逃げることも、受け入れることもできずにいた。大人になるという事は、夢を捨て、現実を見つめる事だと思っていた。でも、王様は、こう言った。「おまえは、朝が来ると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事に追われている夢をみている。そして、夜ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。よっぽどいいじゃないか、そのほうが」と。私はこの時、夢があるから現実が見られるのだという事を教えられたような気がした。

 小さな王様は、人間の本当の姿なのだと思う。本当はみんな王様だったのだと思う。ただ、みんな大人という仮面をかぶり、社会に適応し、現実と戦っていくうちに、忘れてしまったのだと思う。

 いつか、小さな王様と「僕」がした、永遠の命の空想ごっこ。私は、永遠の命を持つことは、死よりも恐ろしい事だと思う。生きていることのすばらしさを忘れてしまうと思うからだ。それに、本当の永遠の命とは、自分の血が子供へ、またその子供へと受けつがれていくことだと思う。

 王様は、人は死んだら星になり、王様は星から生まれると言っていた。私は、王様は死んでいった人々の夢であり願いであるような気がした。人間は死んだら星になり、王様になり、死んでから永遠がはじまるみたいだった。こっちの永遠は、生き続ける永遠の命より、ずっとステキな事だと思う。

 「僕」は王様といっしょにいる時が、夢なのか現実なのかわからない。と言っていたけれど、きっと「僕」は、自分の中の現実の世界に小さな王様を取り入れることによって、つらい現実にゆさぶりをかけ、そこからの離脱を見い出しているのだと思う。

 「僕」は王様にあこがれているように見えた。つまり、自分の子供時代に、ということになるだろう。私も、自由奔放で夢を見続けられる王様をうらやましく思う。でも、私はそう思うことが少しくやしかった。なぜなら自分の子供時代を、今の自分よりよいと思うということは、今の自分を否定することになるのではないかと思ったからだ。まだ私は、大人ではない。なのに、今から、自分を否定していては、この先どうなっていってしまうのだろうと思って恐かった。でも、また一方では、「前向きな生き方」や「プラス思考」などというものは、存在しないようにも思えた。

 夢には、二面性があると思う。持ち続ける事も大切だが、捨てる事もそれと同じ位大切な事なのだと思う。どちらがいいのかは、わからない。また、私がこの先どちらの道に進むのかも。ただ、言えることは、みんなが夢ばかり追いかけていては、この世は成り立たなくなってしまうということだけなのだと思う。

 私は王様の世界より、人間の世界の方がスバラシイこともあると思った。なぜなら、人間には努力で積み重ねていくものがあるからだ。子供のころから培ってきたものは、なに物にも勝る財産だと思うからだ。王様の世界では生まれた時が大人だからそれができない。

 絵持ちの家に行ってから消えてしまった王様は、もう「僕」の前には現れないと思う。なぜなら、もう「僕」には王様の存在の必要がなくなったからだ。私と「僕」は答えを見つけた。「夢を捨ててまで大人になる意味」の答えを。それは、「大人になる為に、子供時代や夢がある」ということだ。最後の赤いグミベアーは、さようならのメッセージなのだと思う。

 これからは「僕」も私も前を向いて生きていけると思う。王様は、まだ答えの見つからない、王様がいなくて淋しがっている人の所へ行ったのだろう。

 私は本の表紙に名前を書いた。王様が教えてくれた事を大人になっても忘れないように。

 王様の存在が夢か現実かはわからないが、この本を読む前の私にとっては夢であった。しかし、少なくとも、今の私の心の中で生きている王様は現実だということは紛れもない事実である。

 世の中に、ちいさな王様と友達になる人が増えたら明るい未来がやってくる。そう思ってやまないのは私だけではないのであろう。

 <アクセル・ハッケ著(那須田淳、木本栄共訳)「ちいさな ちいさな王様」(講談社)>



*メールマガジン「小白川通信 11」 2013年11月23日

 「攻めの人」は守りが弱い、とよく言われる。攻撃することが習性になってしまい、防御のスキルが磨かれないからだろう。どうしても脇が甘くなってしまう。医療法人「徳洲会」グループから5千万円の資金提供を受けたことが明るみになり、その釈明に追われる猪瀬直樹・東京都知事の言動を見ていると、あらためて「脇が甘いなぁ」と感じる。

 猪瀬氏が徳洲会から5千万円を受け取ったのは去年12月の東京都知事選の前だ。この問題が明るみに出た昨日(11月22日)の昼過ぎ、彼は報道陣に対して、徳洲会の徳田虎雄・前理事長から「資金提供の形で応援してもらうことになった」と述べ、都知事選の応援資金であったことを認めた。

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険しい表情で報道陣の質問に答える猪瀬直樹東京都知事(中央)=東京都庁で11月22日午後、矢頭智剛撮影(毎日新聞ニュースサイトから)

 猪瀬氏の顧問弁護士は仰天したことだろう。これが事実なら、猪瀬氏には直ちに「公職選挙法違反(虚偽記載)」の容疑がかかる。選挙運動に使った金は自己資金であれ、借入金であれ、すべて収支報告書に記載して選挙管理委員会に報告しなければならない。都知事選後に猪瀬陣営が提出した収支報告書には、そのような記載はないからだ。私が顧問弁護士なら、「5千万円は選挙とは何の関係もないことにしなければならない」と強く助言する。

 実際にそのような助言があったかどうかは知らない。が、猪瀬氏はその後、一転して「選挙資金ではなく、あくまで個人としての借り入れでした」と言い始めた。「お金の目的」を変更することで追及を免れようとする作戦に切り替えたようだ。なるほど、個人の間の金の貸し借りは犯罪ではない。金額はともかく、世間ではままあることだ。

 しかし、今度は別な問題が浮上する。猪瀬氏は以前から徳洲会の徳田虎雄氏と面識があったわけではなく、都知事選に出馬することが決まってから「ご挨拶」にうかがったのだという。最初のご挨拶で5千万円も「無利子で貸してくれた」徳田氏の意図は何だったのか。意図も目的もなく大金をあげたり、貸したりしてくれる人はこの世に存在しない。今度は、東京都内で病院や介護施設を経営する徳洲会グループがそれを合理的に説明しなければならなくなる・・・・。真実を隠そうとすると、このように次から次に別の問題が噴き出してきて、収拾がつかなくなるのが世の常だ。

 ジャーナリストとしての猪瀬氏の仕事には、目をみはるものがあった。『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』では、権力の周りでうごめく政治家や政商の姿を活写した。『昭和16年夏の敗戦』では、無謀な戦争に突き進んでいった東条英機をはじめとする当時の指導者たちの愚かさを赤裸々に描いた。その輝きが、政治の世界に自ら飛び込んでいってからは色あせてしまった。しどろもどろの言動を見るにつけ、ドロドロした政界の闇の深さを覗き見るような感慨にとらわれる。

 5千万円という金額で思い出すことがある。私が新聞記者になって4年目の1981年1月に発覚した「千葉県知事の5千万円念書事件」である。当時の千葉県知事、川上紀一(きいち)氏が東京の不動産業者、深石鉄夫氏から知事選の資金として5千万円を受け取り、「貴下の事業の発展に全面的に協力するとともに利権等についても相談に応じます」との念書を交わしていた、という事件だ。

 川上氏は念書の存在を認め、知事を辞任するに至るのだが、深石氏は千葉県だけで仕事をしていたわけではない。私の初任地の静岡でも「彼が政治家に5千万円を渡した」という情報が飛び込んできた。「調べろ」との支局長の指示を受けて、私は静岡県の伊豆半島にある大仁(おおひと)町に走った。

 当時、大仁町では日産自動車が大規模な福利厚生施設を建設する計画を進めていた。が、なかなか前に進まない。深石氏は日産の依頼を受けて、計画を円滑に進めるために「静岡県の政界の実力者に接近、5千万円を提供した」というのが疑惑の粗筋だった。計画予定地の土地登記を調べ、日産の本社に出向き、深石氏の事務所の扉をたたいた。「政界の実力者とは静岡県知事であり、金を受け取った疑いが濃厚」との心証を得たが、物証は得られず、記事にする見通しは立たなかった。

 一生懸命に取材したのに1行も書けないのは悔しい。で、ある晩、山本敬三郎・静岡県知事の私邸に夜回りをかけた。予約なしで、いきなり玄関口に立ち、「念書事件の深石氏から静岡の政治家にも5千万円渡っているという情報があります」と問い質した。「知事に5千万円渡っている」と口にしたら、名誉棄損になる。だから慎重に「静岡の政治家にも」と言葉を選んだのだが、うろたえたのか山本知事は「私は受け取ってないよ、私は」とむきになって否定するのだった。

 知事サイドも必死だった。朝日新聞の取材がどこまで及んでいるのか、気になって仕方がなかったのだろう。その後、定例の知事会見があるたびに、会見後に「長岡君、ちょっとお茶でも飲みませんか」と知事から声がかかった。「五千万円問題」の潜行取材を知らない他社の記者や県庁の幹部はいぶかしがり、「あの記者は知事と特別な関係にあるらしい」と変なうわさまで立った。世の中の歯車はおかしな回り方をすることもある、と思ったものだ。

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田中角栄元首相(Source:http://yoshio-taniguchi.net)

 田中角栄元首相がロッキード事件で受託収賄の疑いで逮捕されたのは、これらの「知事5千万円受領疑惑」の5年前、1976年のことである。全日空の旅客機選定をめぐる大疑獄事件で、田中角栄氏が受け取ったとされる金は5億円だった。その記憶もまだ生々しく、政治通の間では「一国の総理に大事なことを頼むなら5億円、知事に頼むなら5千万円が相場」と言われていた。「なるほど、切りのいい金額だ」と、妙に納得したのを覚えている。

 1980年代のバブルの時代、政治家への献金の相場は跳ね上がったに違いない。だが、バブルの崩壊とデフレを経て、献金の相場はまた、昔に戻ってしまったのかもしれない。都道府県の知事はさまざまな許認可の権限を握っている。こと許認可権に限れば、衆議院議員や参議院議員の及ぶところではない。

 徳洲会グループはどのような意図、どのような目的をもって、東京都知事候補に5千万円を提供したのだろうか。それが資金供与だったのか、貸付だったのかは、さほど重要ではない。返済したかどうかも関係ない。収賄罪にしろ詐欺罪にしろ、受け取った時点で犯罪は成立しており、返済しても立件に影響はない。知りたいのは「その金の意味」であり、それが犯罪として立件できるのかどうかである。

 1970年代、80年代の東京地検特捜部は実にまともで、強かった。報道機関も執拗に事実を追い続けた。それがこの国の民主主義をより良いものにした。検察の不祥事を乗り越えて「徳洲会グループの選挙違反事件」を摘発した特捜部がどこまで政治の闇を暴くことができるのか。日本のメディアが今、どれだけの強靭さを持っているのか。東京都知事の5千万円受領事件の帰趨は、それを教えてくれるだろう。
(長岡 昇)



 
*メールマガジン「小白川通信 10」 2013年11月10日

 この春まで4年間、民間人校長として働いて気づいたことがある。それは、公務員の世界では「いかにして多くの予算を獲得し、使い切るか」が想像以上に大きな比重を占めていることである。そして、使い切ることを重ねているうちに、いつの間にか、その予算がそもそも何のための金なのか、本当に必要な予算なのかといったことを考えなくなってしまう。

 「民間企業だって同じだ。予算獲得の代わりに売り上げ増に血道をあげているではないか」と反論する人がいるかもしれない。確かに似ている。事業部ごとに、獲得した予算を使い切る傾向もある。しかし、決定的に異なる点がある。それは、企業の場合、必要がなくなった事業に資金をつぎ込み続ければ経営が傾き、やがては倒産して消えていくことだ。「市場」という公平で冷酷な審判がいるのだ。政府や自治体にも議会や報道機関などのチェック機関があるが、それらは市場ほどには公平でも冷酷でもない。

 一つの国やその中にある自治体においてすら、血税の使途を適正にするのは難しい。ましてや、それが世界レベルになると、もっと難しくなる。国連とその関係機関のことである。平和維持活動や難民の救済といった崇高な使命に携わっていることもあって、その無駄遣いや腐敗を追及する矛先はどうしても鈍くなってしまう。私が知る限りでは、気合を入れてこの問題に取り組んだことがあるのは、英国のBBC放送くらいだ。かつて、精力的な取材を通して国連の無駄遣いと腐敗を調べ上げ、告発したことがある。

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パリのユネスコ本部(インターネット上の写真)

 最近、ひどいと思うのはユネスコ(国連教育科学文化機関、本部・パリ)の無駄遣いである。世界自然遺産や文化遺産を登録して、その保存活動に力を入れたのは立派な仕事だと思うのだが、それが一段落して事業の拡大が望めなくなるや、ユネスコは「無形文化遺産」の登録事業に乗り出した。役人の世界でよく見られる「新規事業の創出」である。

 2003年のユネスコ総会で「無形文化遺産の保護に関する条約」が採択され、2006年に発効した。保護の対象になるのは「口承による伝統及び表現」「芸能」「社会的慣習、儀式及び祭礼行事」「自然及び万物に関する知識及び慣習」「伝統工芸技術」の五つだ。食文化も保護の対象とされ、和食も「無形文化遺産」として登録されることになった。食文化に関してはすでに、フランスの美食術や地中海料理、メキシコやトルコの伝統料理が登録されており、「和食もこれに匹敵する」というわけだ。

 ひどい話である。どの国、どの民族、どの地域の人々にとっても、それぞれの食文化はかけがえのない価値を持つ。与えられた風土の中で生き抜くために、先人が知恵を重ね、涙と汗をまぶしながら育んできたものである。なのに、それに対して、国際公務員であるユネスコの職員が段取りを付け、政治家や学識者を集めて審査して格付けし、登録するというのだ。信じがたい傲慢、不遜な行為と言わなければならない。そんなことに我々の血税が政府を通して流され、費消されていいのか。

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 実は、早期退職する前年の2008年にユネスコから朝日新聞社に無形文化遺産に関して、「メディア・パートナーシップを結びませんか」という提案があった。いくぶん関係する部署にいた私は「そんな企画に加わるのはとんでもない。食い物にされるだけだ」と強硬に反対したが、すでに社の首脳が提携を決めた後であり、ごまめの歯ぎしりに終わった。「日本の新聞社と手を組むとしたら朝日新聞しか考えられません」とか何とか言われた、と聞いた。

 日本の政府や政治家には厳しい姿勢を崩さないのに、こと国連となると、日本の報道機関は手の平を返したようになる。朝日新聞社も右ならえ、だ。古巣のことを悪く言いたくはないが、本当に情けない。社の上層部が決めたとなると、普通の記者は「批判する気概」をどこかに放り投げてしまうようだ。11月8日の朝刊2面に「無形文化遺産に和食が登録されるの?」という記事が掲載されたが、国連の広報記事と何ら変わらない。問題意識の「も」の字も感じさせない、いわゆるチョウチン記事である。日本政府のチョウチン記事は恥ずかしいが、「世界政府」とも言うべき国連のチョウチン記事は恥ずかしくないらしい。「メディア・パートナーシップ」という錦の御旗があるからか。

 中華料理やインド料理、タイ料理やベトナム料理、中東やアフリカ諸国の料理・・・・。それらに比べて、フランスや地中海、メキシコやトルコ、日本の料理を先に「無形文化遺産」に登録する理由をどう説明するのか。どのような基準に基づいて、だれが決めたのか。少なくとも、それを俎上に載せ、言及するのが「健全な報道機関」というものだろう。

 食文化に限らない。口承文化にしても芸能、祭礼行事にしても、数値化できないもの、言語では表現できないもの、見えない部分にこそ、深い価値があるのではないか。そこが世界自然遺産や文化遺産と質的に異なるところだ。無形の文化をどう扱うかは、それぞれの国や共同体に任せ、互いに尊重する。それで十分ではないか。

 私に言わせれば、ユネスコの「無形文化遺産」事業そのものが、新しい予算の獲得という、役人が陥りがちな邪(よこしま)な考えから始まったものである。最初から無理なことを官僚の作文で味付けして始めた事業だから、ますますおかしな方向に突き進んでしまうのだ。世界自然遺産や文化遺産と違って、無形文化遺産ははるかに奥が深く、底なし沼のように事業費が膨らんでいく。それを承知で始めたのだろうから、役人の野望は恐ろしい。
(長岡 昇)




*メールマガジン「小白川通信 9」 2013年11月4日


 山形の農村に住んでいても、新聞や雑誌の書評を読めば、読みたい本を探すことはできる。それをインターネットのアマゾンで注文すれば、数日後には手許に届く――と強がっているが、最近「やっぱり、身近なところに本屋さんがあるといいなぁ」と思う出来事があった。

 夕方、山形市内である人と待ち合わせた。早く着き過ぎてしまい、20分ほどあったので、近くの本屋さんに入った。そこで文芸書のコーナーに差しかかった時である。まるで「オイ、俺を手に取ってみろよ」と声をかけられたように、英国の作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥 Heart of Darkness』(三交社)という本に吸い寄せられていった。
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Joseph Conrad (3 December 1857-3 August 1924) Source:Wikipedia

 まず、最初にある「訳者まえがき」を読んだ。「この小説は文学的にも思想的にもたいへん興味深い作品である。英文学史上屈指の名作とみなされ、世界の英語圏諸国の大学で、教材として、20世紀で最も多く使用された文学作品とも言われる」とある。ここで、心にピクンと来るところがあった。大学入学直後に味わった小さな挫折感と、そのトラウマがかすかにうずいたのである。

 山形から上京した18歳の私は、すこぶる小生意気な若者だった。周りにも同種の人間がたくさんいた。そうした新入生の鼻っ柱をへし折ってやろうとしたのだろう。英語担当の助教授は教材として、コンラッドの短編『文明の前哨地点 An Outpost of Progress』を使った。19世紀末の作品なので、英語そのものが難しい。内容はもっと難しい。辞書で単語の意味は分かっても、何が書いてあるのか、何を言いたいのかほとんど分からなかった。

 その助教授の試験問題がまた、難しかった。設問も英語で書いてあり、作品の意味が分からなければ答えられないものだった。当然のことながら、ボロボロの赤点。英語にはいささか自信があった田舎育ちの18歳はいたく傷ついた。そして、助教授の目的は見事に達成された。落第しないために、学生たちは彼の後期の授業に必死で取り組まざるを得なくなったからだ(後期の試験は極端に簡単で、平均すれば合格点を取れるように配慮してあった)。

 そんな古傷を思い出しつつ、「訳者まえがき」に惹かれて購入し、読みふけった。ベルギーのかつての植民地、コンゴの奥地に小さな蒸気船(川船)の船員として赴いたコンラッド自身の体験に基づいて書かれた長編小説である。訳文が練れているので、日本語としては読みやすいのだが、内容は相変わらず難しい。正直に言えば、まだよく理解できないところがそこかしこにあった。けれども、途中でやめることはできず、読み通した。人の心の奥底を抉り出すようなところがある、と感じたからだ。

 解説を読んで、英国人の作家と思っていたコンラッドが実は没落ポーランド貴族の末裔で、英国に帰化してからも英語を流暢にはしゃべれない、特異な作家だったこと、ベトナム戦争を題材にした映画『地獄の黙示録』がこの『闇の奥』を下敷きにしていたことを知った。人間とはどういう生きものなのか。文明とは何か。野蛮とは何か。『闇の奥』も『地獄の黙示録』も、それを透徹した目で見つめ、描いた作品だった。「18歳の若者に理解できないのも無理はない」と今にして思い、古傷が少し癒やされたような気がした。

 翻訳した藤永茂(ふじなが・しげる)という人がまた面白い経歴の持ち主だった。1926年、旧満州の長春生まれ。九州大学理学部の物理学科を卒業し、1968年からカナダ・アルバータ大学教授、とあった。著書に『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)とあるので、これも取り寄せて読んでみた。今年の9月にコロラドとテキサスを訪れ、かの地の開拓の歴史を少しかじり、インディアン殺戮のすさまじさを知ったばかりなので、興味津々で読み始めた。こちらは小説ではなく、アメリカ史における開拓とインディアンがたどった運命を綴ったノンフィクションである。「読みたい」と思っていた内容が書き記してあった。

 1620年の秋にメイフラワー号でアメリカ大陸(マサチューセッツ州プリマス)に渡ったイギリスの移民101人は冬の厳しさに耐えられず、その半数が春を待たずに死んだこと。先住民であるインディアンたちは困窮する彼らを見捨てることなく、生きる術を教えたこと。翌年の秋、移民たちは豊かな収穫に恵まれ、インディアンと共に祝った。この時の祭りが「感謝祭(サンクス・ギビングデイ)」として定着していった、と記してあった。本のテーマは、藤永氏が記す次の一節に要約されている。

 「飢えた旅人には、自らの食をさいてもてなすというインディアン古来の習慣にしたがって、彼(白人の入植地一帯を支配していたインディアンの指導者マサソイト)はピルグリムを遇した。しかし、ピルグリムたちの『感謝』は、インディアンの親切に対してではなく「天なる神」へのみ向けられていたことが、やがて痛々しいまでに明らかになる」(同書p29)

 その後の叙述は、銃と馬を持つ欧州からの移民たちがいかにしてアメリカ・インディアンを古来の土地から追い払い、殺戮し、開拓を続けていったかの物語である。血みどろの戦いの末にインディアンたちは西へ西へと追い立てられていった。戦闘は女性や子どもをも巻き込み、しばしば虐殺の様相を呈した。その描写はおぞましいほどである。やがて、インディアンたちは「居留地」というゲットー(収容所)へと押し込められ、細々と生きていくしかなくなった。藤永氏は、アメリカ・インディアンの社会を次のように描く。

 「(彼らは)自分たちをあくまで大自然のほんの一部と見做し、森に入れば無言の木々の誠実と愛につつまれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心とに支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた人間たちの声がきこえて来るに違いない」(同書p252)
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18世紀末から19世紀初めにかけてインディアン諸部族の連合を率いて白人と戦った指導者テクムセ(テカムセとも表記)S:Wikipedia

 藤永茂氏は量子化学者である。その彼がなぜ、ジョセフ・コンラッドの作品と彼の思想にのめり込み、アメリカ・インディアンの運命にかくも深く身を寄せていったのか。それは、コンラッドがアフリカ・コンゴのジャングルの奥深くで観たものと同じものをアメリカ・インディアンがたどった歴史の中に観たからではないか。そして、藤永氏の言葉を借りれば、それは「現在、我々の直面する数々の問題と深くかかわっており、我々がそれによって生きる価値の体系の問題であり、人間がしあわせに生きるとはどういうことかという切実な関心事と深くかかわっている」(同書p3)からにほかならない。

 19世紀のコンラッドの作品も、同じ時期にヨーロッパからの移民に追われ、死んでいったアメリカ・インディアンたちの物語も、少しも色あせることがない。なぜなら、21世紀を生きる私たちもまた、一人ひとりが同じ根源的な問いを突き付けられ、日々、選択を迫られながら生きていかなければならないのだから。
(長岡 昇)

 《注》白人の西部開拓・入植に武力で抵抗したインディアン諸部族連合の指導者テクムセ(テカムセ)について詳しく知りたい方は、次のウィキペディアURLを参照してください。
▽日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB
▽英語版 http://en.wikipedia.org/wiki/Tecumseh



 
*1994年4月4日 朝日新聞夕刊(社会面)

 太平洋戦争の末期、ビルマ(ミャンマー)駐留の日本軍がインド北東部の占領をめざして攻め込んだインパール作戦から、今年で50年。激しい戦闘と悲惨な退却行で命を落とした将兵は、2万人とも3万人ともいわれるが、その数すらはっきりしない。区切りの年とあって、この3月には170人近い遺族や戦友会関係者が、追悼のため相次いで現地を訪れ、インドの辺境で手を合わせた。

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野原に仮の祭壇を設け、異郷に眠る肉親に向かって手を合わせる遺族=1994年3月17日、インパール盆地北方で(撮影・長岡昇)

 追悼に訪れたのは、政府派遣の慰霊巡拝団8人と全ビルマ戦友団体連絡協議会(西田将会長)の8グループ161人。遺族のひとり、大江ち江さん(69)=滋賀県高島郡新旭町=の兄達男さんは、インパール盆地の北カングラトンビで戦死した。「小隊長さんが兄の右腕だけをだびに付し、昭和22年3月に自宅に届けてくれはったんです。たまたま同じ日に、マニラで戦病死した次兄の遺骨も届きました。母は気丈な人でしたけど、その夜は白木の箱を両わきに抱きかかえて、声を上げて泣いとりました」

 埼玉県北葛飾郡庄和町の名倉健次さん(61)の父平次さんは、ミャンマー国境に近いテグノパールで戦死した。砲兵部隊の兵士だった。一家は働き手を失い、当時12歳だった名倉さんが農業を継いだ。「日本は何不自由なく暮らせる、豊かな国になりました。皆様はその礎になられたのです」。インパール南のロッパチンに建設中の平和記念碑の前で、合同慰霊祭が営まれ、名倉さんは遺族を代表して、かすれ声で鎮魂の言葉を読み上げた。

 インドとはいっても、インパール周辺はモンゴル系の少数民族が多数を占め、分離独立を求める武装闘争が続く。中央政府は外国人の立ち入りを厳しく制限しており、地元にとっては、日本と英国の旧軍関係者がほとんど唯一の外国からの訪問者になっている。しかし、現地を訪れる遺族も老いが進む。地元マニプール州の政府当局者は「日本の若い人たちはここに来てくれるでしょうか」と語っていた。(インパール〈インド〉=長岡昇)
  
 <インパール作戦> 1944年3月から7月にかけて、日本のビルマ方面軍第15軍が実施したインド進攻作戦。敗色濃い太平洋戦争の戦局打開を狙って、約8万5600人の兵力(航空部隊を除く)を投入。インド北東部インパールの占領をめざしたが、英軍の反撃で敗退した。


*メールマガジン「小白川通信 8」 2013年10月25日

 戦争が人の心に刻むものはかくも深く、重いものなのか。庄内町余目(あまるめ)の乗慶寺(じょうけいじ)にある「追慕之碑」の前に立つと、あらためてそう思い知らされる。

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生き延びた将兵が建立した「佐藤幸徳将軍追慕之碑」=山形県庄内町余目の乗慶寺


 第2次大戦の末期、旧日本軍は戦局の打開をめざして、ビルマ(ミャンマー)から英領インドの北東部に攻め込んだ。「インパール作戦」として知られるこの戦いで、各部隊は3週間分の食糧しか与えられず、「足りない分は敵地で確保せよ」と命じられて突進した。戦いは長引き、雨期が始まり、兵士は飢えと熱病で次々に倒れていった。退却路は「白骨街道」と化し、数万人が戦病死した。

 この作戦を担った師団の一つを率いたのが余目出身の佐藤幸徳(こうとく)中将だった。彼は補給もせずに突撃を命じる軍上層部の対応に憤り、戦闘の最中に独断で師団の撤退に踏み切った。生還した佐藤師団長は「精神錯乱」の汚名を着せられ、ジャワ島に左遷された。戦後も、旧軍幹部から「この独断撤退によって戦線が崩壊し、作戦そのものも失敗に終わった」と指弾された。

 だが、彼の下で戦った将兵は違った。「もともと成功の見込みのない無謀な作戦だった。師団長が撤退を決断したからこそ、われわれは生き延びることができた」と慕った。そして、戦争が終わって40年たってから「追慕之碑」を建立したのである。

「復員後も、幸徳さんに対する世間の目は厳しかったようです。長くかかりましたが、ようやくきちんと評価されるようになりました」と、余目の本家を継いだ佐藤成彦(しげひこ)さん(66)は語る。

 トゲトゲしかった日英両国の元軍人たちの関係も変わった。長い時を経て、互いに手を差し伸べるようになってきた。佐藤師団長が取り持つ縁で、来月には庄内町の有志が訪英して元軍人やその家族と語り合う。
(長岡  昇) 
                  (コラム「学びの庭から」はこれで終わります)
    
 *10月25日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(6)
   
      *      *      *

 短いコラムなので触れることができませんでしたが、実はニューデリーに駐在していた1994年に、私はインパールを訪れたことがあります。この年は悲惨な退却行で知られる「インパール作戦」から50年の節目にあたり、日本から「これが最後の機会」と思い定めた慰霊巡拝団が多数、現地入りしました。その慰霊団への同行取材でした。

 インドでは取材規制がほとんどなく、原則としてどこでも自由に行けたのですが、インパールを含む北東部については当時、内務省がジャーナリストの立ち入りを厳しく制限していました。インドからの独立を求める分離派ゲリラによる武装闘争が続き、治安がかなり悪かったことに加えて、「独立派の主張を海外メディアに報道されるのは不愉快だ」という中央政府の意向もからんでいたようです。

 「これを逃せば、在任中にインパールに行く機会はない」と考え、内務省の担当者のもとに「入域許可を出してほしい」と日参し、日本大使館からも「慰霊の旅を取材するのだから便宜を図ってほしい」と要請してもらって、出発前日の夕方にやっと許可を得た記憶があります。ハンコを捺す時の内務省幹部の渋面を今でも覚えています。

 その時のルポ記事は、NPO「ブナの森」の「雑学の世界」にアップしてありますが、取材にあたっては事前にインパール作戦のことをかなり詳しく調べました。文献の中で最も詳しく信頼性が高いのは、防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書 インパール作戦』(朝雲新聞社)でした。英国側の資料にも丹念に当たっており、バランスがいい。作戦に従軍した朝日新聞記者、丸山静雄氏が戦後40年たってから出版した『インパール作戦従軍記』(岩波新書)も深いものを感じさせる本でした。

 ただ、困ったのは、これらの本を読んでも「インパール作戦ではいったい何人亡くなったのか」が分からないことでした。作戦に参加した陸上兵力は8万5600人。そのうち、3万人から4万人前後が死亡したと推定されるのですが、判然としません。明確にズバッと書いている資料もありましたが、そちらは信頼性に難がありました。

 調べるうちに、なぜ死者の数が分からないのか、おぼろげながら見えてきました。もともと弱体化していた日本軍のビルマ方面軍(作戦開始時で31万6700人)は、インパール作戦の大失敗で全体がボロボロになりました。そして、態勢を立て直すいとまがないまま、反攻してきた英軍と激戦になり、その後の「イラワジ会戦」などでさらに多くの犠牲者を出してしまいました。その結果、どの戦闘で誰が死亡したのか、生存者と死者、行方不明者の把握すらできない状態に陥ってしまった、というのが真相のようです。

 アジア太平洋戦争では、あちこちの戦場で部隊が玉砕しました。ガダルカナル島やフィリピンの島々のように餓死者が大量に出た戦場もあります。だが、「戦後何年たっても死者の把握すら十分にできない」という戦場はほかにないのではないか。インパール作戦は実に悲惨でみじめな戦いでした。作戦を主導した第15軍の牟田口廉也(むたぐち・れんや)司令官は、その責任を負うどころか、戦後も「あと一息で英軍を倒せたのに、第31師団の独断撤退で勝機を逸した」と自己弁護に余念がありませんでした。それが生き残った将兵の怒りを一層かき立て、戦友会の結成や運営にも影を落としたようです。

 このルポ記事の執筆から19年たって、独断撤退した佐藤幸徳中将が故郷の山形県出身であることを、今回ひょんなことから知り、コラムで紹介させていただきました。きっかけについて書くと長くなりますので、「山形大学と英国の大学との留学生交換交渉の過程で知った」とだけ記しておきます。人と人とのつながりの不思議さを感じさせられた取材でした。

*メールマガジン「小白川通信 7」 2013年10月5日

 山形県の内陸部にある私の故郷の朝日町では毎日、午前11時半になるとサイレンが鳴り響く。今では「もうすぐお昼ですよ」くらいの意味しかないのだが、かつてはもっと大きな役割を担っていた。

 新潟県境に近い、山あいの町である。農民は山に入って杉林の下草を刈り、山腹の畑で作物を作っていた。小さな湧き水を頼りに棚田で稲作をしている農家もあった。腕時計などない時代、農民はこのサイレンで昼近くになったことを知り、山から下りて家に戻り、昼食を摂っていた。多くの村人が自宅から歩いて30分ほどかかる山の中で仕事をしていたのである。

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棚田では稲刈りが終わり、脱穀が始まっている=山形県山辺町大蕨で(10月5日)


 経済成長が終わり、農業の担い手が減るに従って、まず山仕事が続けられなくなり、山の中の畑や田んぼが放棄された。それでも、村人たちは里山のふもとにある田んぼだけは何とか耕作し続けた。数百年にわたって人々はコメによって命をつないできた。先祖伝来の田んぼは「命」そのものだったからだ。その命も全部は守れなくなり、休耕田があばたのように広がり続けているのが今の農村の姿である。

 その後、みんな腕時計を付けるようになった。農作業の多くも自宅近くの田んぼか果樹園になった。午前11時半にサイレンを鳴らす必要はもうないのだが、まだサイレンを鳴らしている。朝日町だけでなく、近隣の町でも続けているところがある。サイレンの音は変わらないのだが、かつては活力に満ちていた音が今ではやけに寂しげに聞こえる。

 里山を歩き回るたびに、「もったいないなぁ」としみじみ思う。広大な山々が利用されることなく荒れ果て、山の中の畑と田んぼの多くは原野に戻ってしまった。福島での原発事故の後、人々が暮らしていた町や住宅地、田んぼが雑草だらけになっている風景が映し出され、都会の人は驚いているが、日本の農村の山はかなり前から同じような状態になっていた。全国あまねく、そんな風になったので、誰も気にしなかっただけだ。

 4年前に新聞社を早期退職して故郷に戻ってから、ずっと「この里山をなんとか活用できないものか」と思ってきた。そして最近、同じような思いを抱いている人が大勢いて、「里山を基盤に暮らしを立て直す試み」を始めていることを知った。日本総合研究所の藻谷(もたに)浩介氏とNHK広島取材班の共著『里山資本主義』(角川ONEテーマ21)に教えられた。この本はもちろん、「農村での自給自足を旨としていた昔に帰れ」などと呼びかけているわけではない。その訴えはもっと深い。

 商人が財を蓄えて経済を引っ張る商業資本の時代から産業革命による工業化を経て、資本主義は「カネがカネを生むマネーの時代」に入って久しい。その最先端を走っているのがアメリカの資本主義である。1%の金持ちが多くの富を集め、普通の人との極端な「富の分配の格差」をなんとも思わない。それどころか、「才覚のある人間が多くの報酬を受け取るのは当然のこと。それを非難するのはただのやっかみ」と公言してはばからない。「世界経済はアメリカの基準によって再編されるべきだ」とも唱えている。社会と経済のグローバル化は避けがたい流れなのだろうが、それがこういう人たちの論理と基準で推し進められてはたまらない。

 「そんな資本主義でいいのか」と問いかけ、里山を生活の基盤とする新しい生き方を提示しているのがこの本だ。都会で猛烈社員として働いていた若者が退社して山口県の周防(すおう)大島に移って無添加のジャムを作る店を出し、繁盛している。規格外として都会に出荷できなかった柑橘類も活用しているところがミソだ。

 中国山地の山あいにある岡山県真庭(まにわ)市では、建築材を作るメーカーが製材の際に出る木くずをペレット(円柱状に小さく固めたもの)にして燃やし、発電や暖房に使うビジネスモデルを確立した。工場で使う電力をすべて賄えるようになり、地元の役場や小学校の暖房もボイラーでこのペレットを燃やして行う。エネルギー源を外国に頼る必要がなくなり、そのほとんどを地元にあるもので賄えるようになった。広大な山林を背負っており、持続可能な範囲で山の資源を使っているので、枯渇するおそれもない。

 広島県の庄原(しょうばら)市には、ペレットに加工するなどという難しいことをしなくても、薪を効率良く燃やす「エコストーブ」を開発することで燃料費を大幅に減らすことに成功した人たちがいる。彼らはこれを「笑エネ」と呼び、年寄りは「高齢者」ではなく「光齢者」なのだと言う。与えられた条件の中で、明るく、前向きに生きる。

 実は、こうした試みをずっと前から国家ぐるみで展開している国がある。オーストリアである。本では、その実情も紹介している。欧州の真ん中で何度も戦争の惨禍をくぐり抜けてきたこの国は、エネルギーを外国に頼る危うさを自覚し、原子力発電のリスクを認識して、国内に豊富にある木材資源を最大限に活用する道を選んだ。国レベルでも実行可能な選択肢なのである。

 エコノミストの藻谷氏は「経済全体を里山資本主義に転換しよう」などという非現実的なことを唱えているわけではない。社会を「マネー資本主義」一色に染め上げるのではなく、こうした「里山資本主義」もサブシステムとして採用し、強欲な資本主義にのめり込むのを防ぐバランサーとして広げていこう、と呼びかけているのだ。実に説得力のある主張である。

 先のメールマガジンでお伝えしたように、山形大学と留学生の交換協定を結んでいる米コロラド州立大学と話し合うために9月下旬にコロラド州のフォートコリンズを訪れた。そこでも、この里山資本主義と重なるような企業活動が始まっていた。

 同州の「モーニング・フレッシュ乳業」という会社は、無農薬の牧草で育て、成長ホルモン剤などを一切使わないで飼育している乳牛から搾乳し、それを戸別配達している。有機農業の酪農版である。別の企業は紙コップをリサイクル資源で作り、「小さな選択が社会を変える」と呼びかけていた。地元の企業とコロラド州立大学の研究者たちが手を組み、次々にベンチャーを立ち上げている。マネー資本主義の本家でも「このままでいいのか」と、造反の炎が上がり始めているのだ。

 現在の米国スタイルの資本主義を「強欲な資本主義 Greedy Capitalism」とするなら、里山資本主義は「穏やかな資本主義 Green Capitalism」と呼べるのではないか。「グリーン」には「(気候などが)穏やかな」という意味もある。「持続可能で環境にやさしい」というニュアンスも含む。英語のスローガンにするなら、
 From Greedy Capitalism to Green Capitalism
といったところだろうか。

 こうした営みが大都市の近くではなく、地方、それも過疎と高齢化に苦しむ辺縁の地で始まり、広がりつつあるのはある意味、当然のことであり、この国の希望でもあるような気がする。なぜなら、大都市に住み、アメリカに視線を注ぎながら未来を考えている人たちには自分たちの足許で何が起きているのか、分からなくなっているからである。

 2020年の東京五輪開催に血道をあげ、開催が決まったことに浮かれている人たちに言いたい。関東大震災が起きたのは1923年(大正12年)、今から90年前のことである。首都の直下には大きなエネルギーがたまっており、いつ次の大地震が起きてもおかしくない状況にある。東京の防災態勢がまだまだ不十分で、巨額の投資が必要なことについて防災専門家の間で異論はなかろう。東南海、南海地震への備えも膨大な資金を必要とする。貴重な血税は地震や津波に備え、一人でも多くの命を救うためにこそ使われなければならない。お祭りに巨費を投じる余裕が、今、この国にあるのか。
(長岡 昇)

  《追伸》文中でご紹介した山口県周防大島のジャムのお店は「瀬戸内ジャムズガーデン」といいます。そのホームページも、すごく楽しそうです。店名のところをクリックして、ぜひご覧になってください。



*メールマガジン「小白川通信 6」 2013年9月30日


 山形県は米国の中西部にあるコロラド州と友好の盟約を結んでいる。山形には奥羽山脈、コロラドにはロッキー山脈がある。白銀の峰々が両者を結び付けた。

 山形大学とも縁が深い。コロラド州立大学と留学生の交換協定を交わしており、この5年間で9人の山大生が留学した。もっとも人気のある大学の一つである。留学した学生たちはどんな暮らしをしているのか。実情を知り、州立大学の教職員との交流を深めるため、同州フォートコリンズにあるキャンパスを訪ねた。

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昼食後、芝生で車座になって福祉政策を論じる大学院生たち=コロラド州立大学で


 すでに朝晩は冷え込みが厳しく、構内のニレの木はうっすらと色づき始めていた。学生は約3万人。山形大学の3倍以上だ。昨年度に受け入れた留学生は1500人を上回る。受け入れ数の国別順位が興味深い。1位の中国と2位インドは予想通りだが、3位がサウジアラビア、4位ベトナム、5位韓国と続き、日本はなんと6番目だ。米国全体でも似た傾向にある。これでは、日本政府としても「留学生の大幅増を」と号令をかけたくなるだろう。声を張り上げるだけではなく、渡航費用の一部を支給するなど留学の支援態勢をぐんと強化する必要がある。

 留学するのは語学に自信のある学生が多いが、それでも英語で行われる講義を理解し、参考文献を読みこなすのは容易なことではない。渡米後しばらくは、大学内の語学コースで学習に励むケースが多い。3人の山大生も会話力の向上に努めていた。

 学園都市のフォートコリンズは「米国で一番暮らしやすい街」と報じられたことがある。留学担当のローラ・ソーンズさんは「気候が穏やかで、犯罪も少ないからでしょう」と語った。とはいえ、この大学にも自前の警察部隊があり、銃を携行した要員が構内を巡回している。「治安の風土と感覚」が日本とはまるで異なることを忘れてはなるまい。
(長岡 昇)

 *9月27日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(5)から。見出しは紙面とは異なります。

      *      *      *

 紙幅の関係で、コラムではコロラド州立大学への留学生の国別内訳について詳しく触れることができませんでした。昨年度ではなく、最新の2013年秋学期の留学生1506人の内訳は次の通りです(大学生と大学院生の合計。3?4週間の夏季集中講座に参加した留学生も含む)。
▽中国 443人▽インド 213人▽サウジアラビア 188人▽ベトナム 57人▽韓国 50人▽リビア 42人▽イラン 30人▽オマーン 28人▽クウェート 27人▽台湾 24人▽英国 22人▽タイ 19人▽コロンビア 18人▽オーストラリア 17人▽ブラジル 17人▽マレーシア 16人▽日本 13人
 (この数字はコロラド州立大学のホームページのデータから拾ったものです。ほかの国と違って、インドの留学生はほとんどが大学院生です。日本からは学部生9人、大学院生4人)

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コロラド州立大学の語学(英語)コースの授業風景


 この大学に留学している山形大学の学生(3人)によると、日本人留学生の数があまりにも少ないので中国や韓国、アジア・中東の留学生は不思議がっているそうです。「日本に関心を持っている留学生が多いので、日本人と知り合いになりたがっていてモテモテです」と話していました。

 テキサス大学アーリントン校(州立)への留学生3556人の国別内訳は次の通りです(2012年秋学期)。
▽インド 825人▽ネパール 387人▽中国 225人▽韓国 159人▽ベトナム 146人▽バングラデシュ 98人▽ナイジェリア 85人▽タイ 46人▽台湾 43人▽メキシコ 43人。
 
 日本からの留学生は24人。トップ10に入っていないため、順位は不明。10数位か20数位と思われます。あとで精査してみます。なお、ネパールからの留学生が飛び抜けて多いのはテキサス大学アーリントン校の近くにネパール人のコミュニティーがあり、母国から留学生を呼び寄せているから、とのことでした。

 日本からのアメリカへの留学生は東部や西海岸の大学に進むケースが多いので、米国全体の留学生国別内訳では、日本の順位はもう少し上がるようです。統計がいくつかありますが、「フルブライト・ジャパン(日米教育委員会)」の調査(2011?2012年)によると、日本の留学生数は7位です。
http://www.fulbright.jp/study/res/t1-college03.html

 こうした国別順位については、さまざまな受け止め方があると思いますが、若者が異なる土地で異なる文化の下で育った人々と触れ合い、学識を深めることはとても大切なことだと考えます。「米国への留学は減っているが、よその地域への留学は増えている」ということならいいのですが、そうではなく、全体として日本の若者の留学が減り続けています。若者の資質や気力の問題だけではなく、日本の社会から留学を後押ししようとする気概と活力が失われつつあるように思います。その流れに抗することはドンキホーテ的かもしれませんが、微力を尽くすつもりです。

 今回の出張で、米国の大学はますます「富める者の学び舎」になりつつあることも確認できました。州立大学でも授業料は年間100万円から百数十万円と、日本の公立大学の2倍ほどです。(山形大学の学生は留学生交換協定に基く派遣のため授業料は免除)。ハーバード大学やイェール大学などのいわゆる「アイビーリーグ」の大学はすべて私立ですから、授業料はさらに高く、州立大学の数倍です。各種の奨学金制度があるとはいえ、それを享受できる人数は限られており、米国の有力大学の実態は「特権階級の子弟のための教育機関」と言わざるを得ません。

 教科書代もやたらに高く、多くの大学生が入学と同時に教育ローンを組み、アルバイトに追われながら学んでいます。勉学に真剣にならざるを得ないのです。テキサス大学アーリントン校の国際教育担当者は「アメリカの大学生は入学と同時に『奴隷状態』 the beginning of slavery になってしまうのです」と嘆いていました。

 日本にしろ、アメリカにしろ、また伸び盛りの国々にせよ、次の時代を担う若者をどう教育しようとしているのかをつぶさに見れば、その社会の在りようがあぶり出されてくるような気がします。



*メールマガジン「小白川通信 5」 2013年8月30日


 幸せとは何だろうか。高山良二さんがカンボジアの子どもたちと一緒にほほ笑んでいる写真を見ると、そんなことをしみじみと考えてしまう。

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地雷処理をしている村の子どもたちと高山良二さん=カンボジア・バタンバン州で、ソックミエンさん撮影


 カンボジアは、この半世紀で最も悲惨な歴史を刻んだ国の一つである。戦乱に次ぐ戦乱。1970年代には、ポル・ポト政権の下で大虐殺があった。平和を取り戻した後も、地雷や不発弾が多数残り、苦しみ続けている。高山さんは20年前、自衛隊員として国連の平和維持活動に加わり、この国を初めて訪れた。「強烈な体験でした。45歳で人生のスイッチが入った」と言う。

 定年後、今度はNPO(非営利組織)の代表として再訪し、地雷処理に取り組んでいる。6月中旬、山形大学の市民講座の講師としてお招きし、体験をお聴きした。「地元の若者を訓練して、自分たちで地雷を処理できるようにする。私が消えても続く。それが目標です」と語った。故郷愛媛県の人たちの支援を受けて、地域おこしにも力を注ぐ。井戸を掘り、学校を建て、地元産のキャッサバで焼酎も造った。

 与えるだけではない。カンボジアの農村から、今の日本の姿が見えてくることもある。貧しい暮らしながら、村ではいがみ合いや言い争いがほとんどない。5人分の料理しかないところに7人がやって来ても、ちっとも慌てない。「奪い合えば足りませんが、分け合えば余りますよ」と言い、実際、最後にはいつも少し余るのだった。

 そうした姿を見て、高山さんは思う。「お金の風船がどんどん膨らんで、日本は世界で2番目の金持ちになりました。けれども、私たちの心の風船はしぼんでしまったのではないか。他人を思いやり、助け合う心を忘れてしまったのではないか。しぼんだ風船を、またみんなで膨らませたい」

 もう一度、写真を見る。高山さんも、子どもたちも、なんと満ち足りた笑顔だろう。
(長岡 昇)
 
 *7月12日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(3)
  見出しは紙面とは異なります。
 *高山さんが代表を務めているNPOは「国際地雷処理・地域復興支援の会(1MCCD)」といいます。
  青字のところをクリックすると、ホームページに移動できます。

*メールマガジン「小白川通信 4」 2013年8月16日

 もしアメリカと戦争をしたら、どうなるのか。
 近衛文麿内閣の時につくられた総力戦研究所が日米の軍事力や工業力をもとにシミュレーションをし、その結果を閣僚や軍首脳に報告したのは昭和16年の夏、開戦4ヵ月前のことである。

 若手の高級官僚や将校、敏腕記者ら36人の研究生が出した結論は「日本必敗」だった。「奇襲に成功すれば緒戦は勝利が見込めるものの、いずれ長期戦になる。総合的な国力の差は明らかで、物量に劣る日本に勝機はない。戦争末期にはソ連の参戦も予想され、敗北は避けられない」
 報告を聞いた東条英機陸相は「実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない。意外なことが勝利につながっていく」といなしたが、その顔は青ざめていたという(猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』)。

 歴史に照らせば、彼らの予測は驚くほど正確だった。だが、戦争への流れを押しとどめることはできなかった。そして、後の世代は、この俊英たちですら見通せなかったものがあったことを知る。その一つが軍事力や工業力にも増して「総合的な知力の差」が大きかったことである。

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小白川キャンパスで現代史の講義を聴く学生たち=山形大学提供

 山形大学での現代史の講義で「第2次大戦と暗号」を扱った。日本が「鬼畜米英」とさげすみ、敵性語を排斥していた時に、相手は日本語と日本文化の研究に全力を注いだ。そして、数学者や物理学者と力を合わせて日本側の暗号を解読してしまったのである。企図が筒抜けの中で戦われた戦争。しかも、日本の暗号が解読されていた事実が公表されたのは、戦争が終わって実に30年もたってからだった。

 「暗号とか情報とかに関して、今の日本の力はどうなっているんでしょうか」。授業を受けた学生の一人から質問を受けた。「もちろん、昔よりずっと良くなっている」と答えたいところだが、正直に言えば、そう答える自信はまったくない。
(長岡 昇)

 *8月16日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(4)に加筆

      *      *      *

 「第2次大戦と暗号」の授業では、日本語で「暗号」と翻訳される英語にはcypher(文字のレベルで行われる置き換え)とcode (単語や語句のレベルで行われる置き換え)の二つがあること、暗号の解読ではその言語特有の使用頻度が一つの鍵になる、といった基本的なことから説き始めた。

 例えば英語の場合、もっとも多く登場する文字はe(12.7%)であり、次がt(9.1%)。使用頻度がもっとも少ないのはqとzで0.1%であることが知られている。ドイツ語や日本語にもそれぞれ特有の使用頻度がある。英米は分担、協力しながらドイツと日本の暗号解読に取り組んだ。

 暗号の解読にはこうした語学や文化の研究に加えて、数学や数理解析、物理や工学の英知を総動員しなければならない。英米は電気式(リレー式)の計算機を創り出して解読に使い、戦争が始まった後には真空管を使った電子計算機を発明して活用した。戦時中の暗号解読競争が計算機の性能を飛躍的に向上させ、戦後のコンピューター技術の基礎を築いたと言っていい(大駒誠一著『コンピュータ開発史』共立出版)。

 英米の知力のすごさを感じるのはむしろ、戦後である。コラムでも触れた通り、彼らは日独の暗号を解読していたことを1970年代まで隠し通した。1977年に米国の天才的な暗号解読者、ウィリアム・フリードマンの伝記が出版されるに及んで、英米当局は渋々、解読作戦の概要を公表した。それによって、日本外務省の暗号はアジア太平洋戦争が始まる前から完全に解読されていたこと、日本海軍の最高機密暗号も戦争が始まって間もなく、ほぼ解読されていたことが判明した(R・W・クラーク著『暗号の天才』新潮選書)。

 戦後30年余り、日本の旧軍人たちは「我々の暗号は解読されていたのではないか」「いや、そんなはずはない」といった論争を延々と続けた。そうした記録を読むと、虚しさを通り越して激しい脱力感を覚える。その後も、個別の技術や文化の面ではともかく、総合的な知力という面での差は埋まることはなかった、と考えるしかない。

 学生たちの反応で興味深かったことの一つは「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたが、あえて目をつぶり、米国世論の怒りをかき立てる道を選んだ」という、いわゆるルーズベルト陰謀説を信じている学生が少なくなかったことである。中には「高校の歴史の授業で先生がそう言っていた」と言う者までいた。インターネット上では、いまだにこうした陰謀論が幅を利かせている。

 事実を一つひとつ掘り起こしていけば、そうした陰謀説には何の根拠もないことは明らかだ。日本の外務省の暗号をすべて解読したとしても、そこには「真珠湾攻撃」といった具体的な軍事作戦のことは全く出て来ない。当時の米側の記録によれば、彼らが想定していたのは主に「フィリピンの米軍基地への奇襲」である。真珠湾攻撃の可能性に触れた断片的な情報が事前にあったことは事実のようだが、それは数多くの雑多な情報の一つであり、信憑性を高める関連情報は何もなかった。「日本海軍に真珠湾を攻撃するような力はない」と米側が油断していたのは間違いない。

 暗号の講義は1回では終わらず、2回に分けて行った。「知の蓄積」という問題を考える格好の素材と考えたからである。講義の準備をしながら、暗号解読の重要な鍵の一つである「言語の使用頻度」という着想が、中東社会のイスラム研究を通して得られたことを知って、私も驚いた。イスラム教の聖典『コーラン』や預言者ムハンマドの言行録を詳細に検討するために古いアラビア語の研究が積み重ねられ、アラビア文字の使用頻度に目が向けられたのだという(サイモン・シン著『暗号解読』新潮社、p34)。
 知の世界は広く、そして限りなく深い。



 地域おこしのNPO「ブナの森」(山形県朝日町)は、2013年7月27、28両日に第2回最上川縦断カヌー探訪を開催すべく、準備を重ねてきましたが、山形県内で降り続く雨のために最上川が増水し、氾濫しているので、中止することを決めました。大雨のため、最上川沿いに走る国道287号線の一部で路肩が崩れるなど、交通網や生活インフラにも被害が出ています。ご了承ください。
 自然の中で行うイベントですので、自然の営みに従わざるを得ません。これにめげずに、最上川を活かした地域おこしに取り組み、次回の開催をめざします。引き続き、ご理解とご支援をたまわりますようお願い申し上げます。

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大雨のため、山形県朝日町にある上郷(かみごう)ダムは5つの水門をすべて開けて放流しています(2013年7月25日朝)



*メールマガジン「小白川通信 3」 2013年6月1日


 桜前線がようやく北海道の稚内に達し、かの地でも満開を迎えたという。「やれやれ」と感じ入っていたら、この山形にも、まだ桜を鑑賞できるところがあった。

 西川町の月山志津(しづ)温泉である。五色沼のほとりの宿で「峰桜(みねざくら)」が咲き誇っていた。もともと高山に生える桜らしく、ハイマツに似た姿をしている。「咲き方も変わってます。東から西へと咲いていくんです」と宿の主人が言う。確かに、東向きのところはすでに葉桜、色鮮やかなのは西側だけだった。

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宿の庭先で咲き誇る峰桜=5月24日、山形県西川町の月山志津温泉で


 志津温泉は県内でも有数の豪雪地帯として知られるが、この冬、温泉街の人たちの心をざわつかせる出来事があった。気象庁が「青森県の酸ヶ湯の積雪が566?になった。積雪の最深記録を更新した」と発表し、これを新聞やテレビが一斉に「国内最高」と報じたからだ。

 心がざわついて当然である。志津の積雪は例年、6?前後に達する。西川町の観測によれば、40年前には8?を記録した。「5?台で、何で国内最高なんだ」と言いたくもなる。気象庁に問い合わせると、担当者は次のように釈明した。「われわれはきちんと『アメダスの観測地点で記録された最深積雪を更新した』と発表したのです」

 アメダスによる自動観測体制が整ったのは1970年代である。観測地点は約1300しかない。志津に限らず、全国には酸ヶ湯温泉を上回る積雪記録はたくさんある。しかし、気象庁記者クラブの面々は、そんなことは気にも留めず「国内最高」と報じた。かくして「酸ヶ湯の積雪が日本一」となってしまったのである。
 
 志津の人たちの間から「それなら、ここもアメダスの観測地点にしてもらおう」という声が出ている。どんな形であれ、メディアで温泉の名前が報じられるのは効果抜群だからだ。もし「観測機器の設置費用も地元で負担する」と言い出したら、気象庁よ、どうする。
(長岡 昇)
  
*5月28日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」
    
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 山形県には市町村が35あり、すべての自治体に温泉があるのが自慢です。どこに行っても、ゆったりと湯船につかることができます。ただし、地下深く1000?も2000?も掘って、最近になってお湯が出てきた「新興の温泉」より、やはり昔からの温泉場の方が趣は深い。

 そうした老舗の温泉の中でも、志津温泉は「霊峰月山」の山懐に抱かれた「地の利」に加えて、五色沼の静かなたたずまいと湖畔のブナ林が素晴らしく、私のお気に入りの温泉の一つです。首都圏からお客様を迎える時には、迷うことなく、この温泉の旅館「つたや」をお薦めしています。

 山菜や蕎麦などの料理も文句なしなのですが、悩みは冬の雪。例年、6?ほどの積雪があり、吹雪の日には辿り着くのも困難ということもあります。豪雪を活かした「雪旅籠(ゆきはたご)」のイベントや春の残雪トレッキングなどの企画を立てて奮闘していますが、やはり豪雪はハンディの一つです。

 せめて「豪雪を知名度アップの材料に」と思っても、気象庁のアメダスの観測地点になっていないこともあって全国ニュースにはなりにくく、青森の酸ケ湯(すかゆ)温泉の後塵を拝しているのが現実です。「及ばずながら応援したい」との気持ちで、このコラムを書きました。ぜひ、山形まで足を延ばし、月山志津温泉を訪ねてみてください。

 *この冬、酸ケ湯温泉の積雪566?が「国内最高」と報じられた背景については、今年3月4日のメールマガジン「おおや通信 101」でも詳しくお伝えしました。カヌーによる地域おこしをめざすNPO「ブナの森」のホームページに掲載していますので、ご参照ください。




*メールマガジン「小白川通信 2」 2013年5月21日


 学識深く、人品いやしからざる人も、あまりに深く政府や官僚と付き合うと、我を見失い、そのお先棒担ぎに堕してしまうことがある。しばしば指摘されることではあるが、その実態が赤裸々に暴露されることは滅多にない。権謀術数にたけた官僚たちが巧みに蔽い隠し、見えなくしてしまうからである。

 その意味で、5月19日付の朝日新聞朝刊1面に掲載された「経産省、民間提言に関与」のスクープは、地味な内容ながら実に小気味いい、画期的な特ダネだった。読んでいない人のためにその概要を記すと、次のような記事である。

 「東大総長や文部大臣を務めた有馬朗人(あきと)氏を座長とし、経団連の元会長や電力会社のトップで作る『エネルギー・原子力政策懇談会』という民間の団体が『緊急提言』をまとめ、2月に安倍晋三首相に手渡した。その提言は原発の早期再稼働を求め、原発の輸出拡大を促すものだったが、提言の骨子や素案を作ったのは経済産業省の職員だった」

 もの知りの中には「政官業の癒着は今に始まったことではない。どこがニュースなのか」といぶかる人もいるかもしれない。それはその通りなのだが、癒着ぶりを事実を以って明らかにするのは容易なことではない。このスクープが画期的なのは、動かぬ事実を以ってそれを裏打ちし、報道した点にある。記事の中で、次のような証拠を突き付けているのだ。

 「朝日新聞は、提言ができるまでの『骨子』や『素案』などの段階のデータを保存したパソコン文書作成ソフトの記録ファイルを入手した。ファイルの作成者はいずれも経済産業省の職員だった」

 記録ファイルを突き付けられたからだろう。経済産業省資源エネルギー庁の幹部は記者に対し、資源エネルギー庁原子力政策課の職員が提言のもとになる文書を作成したことを認めた。そのうえで、「打ち合わせのメモを作ったり、資料を提供したりすることは問題ではない」と釈明している。そう言い繕うのが精一杯だったのだろう。

 経済産業省の文書作成記録ファイルを見ることができるのは、経産省の中でもコンピューターのシステムに詳しく、アクセス権限を与えられたごく一部の人たちである。そのうちの誰かが新聞記者に関係ファイルを提供したのだ。どのような心境、どのような動機で提供したのかは本人しか知り得ないことである。だが、東日本大震災と福島原発事故の後の動きを見れば、想像するのは難しいことではない。

 原発事故であれだけの惨事を引き起こしたにもかかわらず、政官業の中には原発の再稼働と輸出促進を求める声が渦巻き始めている。安倍政権の発足で、渦巻はますます勢いを増しそうな気配だ。経産省の中にも「心ある官僚」はいる。「これでいいのか」と思い悩んでいる人が少なからずいるに違いない。

 内部の文書作成記録ファイルを新聞記者に渡すことは、形の上では国家公務員法違反になる。いわゆる「守秘義務」違反だ。発覚すれば、懲戒の対象になる恐れがある。下手をすれば、職を失う。その危険を冒してでも「全体の奉仕者であるべき公務員が『原発推進』を唱える民間団体の提言作りを後押しするのはおかしい」と考え、告発するに至った、と考えられる。

 この国で生きる限り、この国の法律は守らなければならない。しかし、人には法律よりも大切なものがある。それは、自らの良心であり、「世のため人のため」という気概である。新聞記者であれ、公務員であれ、それは変わらない。ましてや、相手が「公務員は全体の奉仕者たれ」という根本を忘れて「暴走」した場合は、それを告発することこそ、人としての務めだろう。記録ファイルをメディアに渡す決断をするまでには葛藤もあったに違いない。勇気ある告発に敬意を表したい。

 告発する側は、誇張ではなく、職を賭し、人生をかけて告発に踏み切る。当然、どこに告発するかも熟慮する。その告発先が古巣の新聞だったことは、掛け値なしに嬉しい。原発事故とその後の被災者の苦しみについて、「プロメテウスの罠」という連載で粘り強く書き続けていることが告発者の胸にも届いたのだ、と信じたい。

 あらためて、問題の「提言」を読み、その関連の資料にも目を通してみた。提言をした「エネルギー・原子力政策懇談会」の前身は、2011年2月(東日本大震災の直前)に発足した「原子力ルネッサンス懇談会」という団体であることを知った。この団体は、原発事故後の反原発の動きに危機感を抱き、事故の1カ月後には「原子力再興懇談会、あるいはエネルギー政策懇談会などに名称変更して提言をまとめたい」と表明していた。事故収束のめども立たず、被災者が逃げ惑っている時に、もう「再興」を唱えていたのである。

 その提言の内容もお粗末なものだ。官僚の「昔の歌」をなぞっているに過ぎない(官僚が下書きしているのだから当然だが)。一番大きな問題は、原発政策を進める場合、必ず立ちはだかる「放射性廃棄物の最終処分をどうするのか」という難題にまったく触れていないことである。「未来の世代」への責任をどうやって果たすのか。それに答えるどころか、触れようともしないことに、私は「人としての退廃」を感じた。そのような提言をした団体の代表を引き受け、名を連ねた人たちに憐れみを覚える。
(長岡 昇)





*メールマガジン「小白川通信 1」 2013年5月4日


 日本の近代化とその後の戦争について、学校でどのように教えるべきか。論客が入り乱れて、激しい議論が続いている。

「二度と戦争を起こしてはならない。そのためには、戦争に至った道筋とその悲惨な結末をきちんと教えなければならない」とリベラル派は説く。保守派は「あの戦争は日本が生き残るための自衛の戦争だった。自分の国をおとしめるような、自虐的な教育はもうたくさんだ」と反発する。どちらに軍配を上げるべきか。

 アフガニスタン戦争をはじめとして、いくつかの戦争や紛争を現場で取材した者として、私は戦争を美化する側に与(くみ)する気にはなれない。同時に、平和を唱えるだけで国際政治の厳しさに目を向けようとしない人たちにも、げんなりする。

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昼休みに技を披露する山形大学ジャグリング同好会のメンバー=山大小白川キャンパスで


 そもそ