*メールマガジン「おおや通信 98」 2013年1月18日


 雪が降りしきるある日、大谷小学校の職員室で「こういう時、地元の言葉ではどういう風に表現するか」が話題になった。朝日町生まれの私は、何の疑問も抱かず「雪(ゆぎ)がのすのす降るって言うよね」と口にした。「んだね」と同郷の教師が応じた。

 ところが、寒河江出身の教師は「雪(ゆぎ)がのそのそ降る、だべっす」と異を唱えた。山形市生まれの教頭と西川町育ちの事務職員も「のそのそだよねぇ」と、顔を見合わせながら言う。全員に聞いてみると、朝日町の出身者は「のすのす」、それ以外の教職員は「のそのそ」と分かれた。意外な分かれ方だった。

 方言の使い方は、朝日町の中ですら異なる。置賜に近い集落では、うらやましいことを「けなり」と言ったりするが、ほかではあまり使わない。方言の分布は複雑で、その表現は実に多彩だ。

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大雪の中、スキーを楽しむ大谷小の生徒=茂木ゆかりさん撮影


 小学校ではこれまで、5年生の国語の授業で「方言と共通語」を学んでいた。「どんな方言があるのか、おうちの人に聞いてみましょう」と呼びかけると、家族との会話も弾む。楽しい授業の一つだった。

 ところが、2011年度の国語の教科書(光村図書)から、「方言と共通語」という項目が消えてしまった。文部科学省はこの年から小学校の学習指導要領を改訂し、「日本の伝統と文化」を重視する方針を打ち出した。そのあおりで、一部の教科書では方言がこぼれ落ちてしまったようだ。

 「方言も日本の文化の一部なのに……」。東北大学方言研究センターの小林隆教授は嘆く。「大震災の後、被災地のあちこちで復興のスローガンに方言が使われています。人々の心に寄り添い、励ます力が方言にはあるのです」

 私たちは「言葉の海」に生まれ、その中で育っていく。多くの人にとって、その海で最初に出会うのは方言である。衰退しつつあるとはいえ、その豊かさに改めて目を向ける動きもある。もっともっと、大切にされていいのではないか。

  *1月18日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(10)より

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 ニューデリーで特派員として働いていた頃、インドやパキスタンでよく「いくつの言葉を話せますか?」と聞かれました。北インドの知識人の場合、地元のヒンディー語のほかに、南部のカンナダ語やタミル語などを話せる人が多い。もちろん、英語も流暢に話し、さらにもう一つの外国語を話す人も珍しくない。三つ、もしくは四つの言葉を操るのが普通なので、こういう質問も自然に出てくるのです。パキスタンやアフガニスタンでも、同じような質問を受けました。

 当方は、日本語のほかは下手くそな英語くらいしか話せないのですが、それではちょっと悔しい。というわけで、「山形弁ももう一つの言葉」と自分に言い聞かせ、見栄を張って「三つ」と答えたりしていました。振り返って、我ながらいじましいと思うのですが、東京暮らしが長くなったら、頼りの山形弁があやしくなってしまいました。母親からは「お前、発音(はづおん)、おがすぐなったなぁ」と言われました。

 方言は語彙も発音も、実に多彩で豊かです。ズーズー弁とさげすまれた時代を経て、1980年代あたりから、見直しと復権の時代に入ったように感じていたのですが、文部科学省とそれを支える国語の専門家たちの考えはどうも違うようです。「日本の伝統と文化」にこだわるあまり、何か大切なことを見落としているのではないでしょうか。